『金日成主席革命活動史』

第2節 戦争の一時的難局を打開し、新たな反撃へ


 1950年9月中旬にいたって、朝鮮の軍事・政治情勢は急変し、戦況は緊張した。アメリカ帝国主義は惨敗を挽回し全朝鮮を占領する野望に燃えて、太平洋方面陸海空軍の総兵力と地中海艦隊の一部、アメリカ本土の地上軍、それに、イギリス、フランスなど追随国の軍隊まで朝鮮戦線に投入した。そして、増強された兵力で洛東江界線での反撃を試みる一方、9月中旬から300余隻の艦船と約1000機の航空機、5万余の兵員を投入して、大規模な仁川上陸作戦を強行した。仁川、ソウル、原州(ウォンジュ)一帯をおさえて人民軍の前線と後方を遮断し、人民軍主力部隊を「包囲掃滅」しようとはかったのであった。

 人民軍将兵は、敵の大規模な侵攻を撃退するため英雄的に戦った。仁川とソウルを防御する人民軍将兵は、気高い愛国主義と集団的英雄主義を発揮し、数量上・技術上優勢な敵と勇敢に戦い、その侵攻を14日間も阻止した。特に、月尾(ウォルミ)島の海岸砲中隊は、文字どおり肉弾となって数十、数百倍の敵と決戦をくりひろげて甚大な打撃を与え、仁川の関門を3日間も守り抜いた。しかし、敵の大集団が、仁川、ソウル地区に侵攻し、洛東江界線でも大規模の反撃に転じたため、戦況は人民軍側に不利に変わった。

 主席は情勢を主動的に打開するため、9月27日、道党委員長協議会で『一時的な戦略的後退と党組織の課題』と題する演説をおこない、新たな戦略的方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「現段階におけるわが党の戦略的方針は、敵の進攻速度を最大限に遅らせ、時間をかせいで人民軍の主力部隊を救出し、新しい後続部隊で強力な反撃集団を編成して計画的な後退を組織することであります」(『一時的な戦略的後退と党組織の課題』1950年9月27日)

 主席はこの戦略的方針を貫くためには、ソウル地区の部隊が38度界線に強力な防御陣をしき、敵を牽制して主力部隊の後退を保障し、一部の主力部隊は敵中にとどまってその背後を攪乱し、他方、早急に予備兵力を編成して力量を補強すべきであると強調した。また、人民大衆のあいだで宣伝・政治教育活動を強化して、いかなる苦境にあっても動揺せずねばり強くたたかい、敵の占領地域では遊撃闘争をくりひろげるべきであると述べた。これは一時的に優位を占めた敵を守勢に陥れ、決定的な打撃を加える積極的な方針であった。

 主席は一時的後退と関連した戦略的方針を貫くため、10月11日、『祖国の寸土を血潮をもって死守しよう』と題する放送演説をおこない、人民軍将兵は祖国の寸土をも死守し、後方の人民は戦時生産に力を注いで前線の需要をみたし、後退を余儀なくされたときには1台の機関車、1粒の米も敵の手に渡しではならないと強調した。

 全人民と人民軍将兵は、主席の呼びかけにこたえ、困難な後退の状況下にあっても、主席のまわりに団結し、勇敢に戦えば必ず最後の勝利をおさめることができると確信し、英雄的な闘争をくりひろげた。

 人民軍部隊は、38度線沿線と元山、陽徳一帯で頑強な防御戦を展開して敵の進撃速度を遅らせ、人民軍主力部隊と人民の組織的後退を保障し、反撃兵力を編成する時間を稼いだ。洛東江界線に進出していた人民軍主力部隊も適時に戦略的後退の任務を遂行した。

 労働者は、敵の猛爆で輸送手段が破壊された困難な条件のもとでも、手段と方法を尽くして生産施設を安全地帯に移して生産をつづけ、農民は1粒の米も敵に渡さないためあらゆる対策を講じ、後退する人民軍を極力援護した。科学者、技術者、作家・芸術家も主席の導く革命偉業の正しさと最後の勝利を確信して万難を乗り越え、党に従って後退し、各自の持ち場を守り抜いた。

 一時的後退の時期に共和国北半部地域に侵攻したアメリカ帝国主義侵略者は、占領地域で筆舌に尽くせぬ野蛮行為をはたらいた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「かつてエンゲルスは、イギリスの軍隊を最も野蛮な軍隊であるといった。第2次世界大戦の時期、ファシスト・ドイツの軍隊は、その野獣性においてイギリスの軍隊をしのいだ。人間の頭脳では、あの当時ヒトラーの悪党一味がはたらいた蛮行より悪らつで恐ろしい蛮行を想像することはできなかった。しかし、朝鮮でヤンキーはヒトラー一味をはるかにしのいだ」(『プロレタリア国際主義と朝鮮人民の闘争』1952年4月25日)

 アメリカ帝国主義侵略者は、占領地城にファッショ的暴圧体制をうち立て、転覆された階級の敵と反動分子を糾合して「治安隊」「滅共団」などの反動団体を組織し、世界戦史に類例のない大虐殺を強行した。アメリカ帝国主義侵略者は、信川(シンチョン)郡だけでも郡民の4分の1にあたる3万5000余名の住民を虐殺した。

 しかし、いかなる蛮行も朝鮮人民を屈服させることはできなかった。朝鮮人民は、後退の困難な時期にも、主席の方針を心から支持し、あらゆる難関を乗り越えて、勇敢に戦った。かれらは、平安南道、咸鏡南道、江原道、黄海道の多くの地域で遊撃隊を組織して敵を掃討し、青年親衛隊、少年遊撃隊も不屈に戦った。

 主席は、戦略的後退作戦を組織する一方、反撃戦の準備をおし進めた。まず、人民軍の戦闘力の強化に力が入れられ、後退してくる人民軍部隊の隊列を整備し、多くの新部隊を編成する活動とならんで、敵の技術的優位に対応した現代的戦闘技術機材で各軍種・兵種部隊を装備する措置がとられた。また、人民軍を政治的、思想的に強化するため、朝鮮人民軍文化訓練局を朝鮮人民軍総政治局に、各部隊の文化部を政治部に改編し、すべての部隊と区分隊に党組織をつくる措置がとられた。こうして、人民軍にたいする党の指導が強化され、軍隊内の政治活動が改善された。

 主席はさらに、反撃作戦の成功を期して、正規軍の大連合部隊で敵の背後に強力な第2戦線を形成した。

 金日成主席は、次のように述べている.

 「主力部隊の反撃開始と同時に、第2戦線部隊は敵の背後に痛打を加えなければなりません。敵背後の部隊が主力部隊の反撃に合流して猛烈な背後攻撃を加えれば、敵を一大包囲網に追い込んで全滅させることができます。

 第2軍団の基本的任務は、黄海道と江原道一帯の広い地帯に展開して積極的に敵の背後を攻撃することであります」(『敵背後における戦闘の強化について』1950年11月17日)

 敵の縦深の広い地域に正規軍の大連合部隊による第2戦線を形成して敵背後での戦闘を活発にくりひろげ、基本戦線部隊との緊密な協同作戦によって敵を大包囲網のなかに追いこみ正面と背後から攻撃するという主席の方針は、戦争史上類例のない独創的な方針であった。主席は第2戦線を形成するため、抗日武装闘争で鍛えられた優秀な幹部を敵の背後に派遣し、敵の背後に送られた部隊と後退してきた部隊で大連合部隊を編成し、広い地帯を占めて主力部隊の反撃戦に有利な条件をつくる措置をとった。こうして、人民軍部隊は、短期間に全面的な反撃に移行する万端の準備態勢をととのえた。

 10月下旬、主席は、一時的後退作戦が終わり、反撃戦の準備がととのうと、戦局の根本的な転換をはかる新たな戦略的方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「戦争の第3段階は、(略)敵の攻撃を阻止し敵の兵員を大量にせん滅しつつ、敵を38度線以南に駆逐する時期です。この時期は、一方ではわが方の兵力を整備強化し、他方では敵の兵力をたえず掃滅する戦闘をおこなって敵を弱体化させ、戦争の最終的勝利をかちとる準備を進める段階であります」(『現情勢と当面の任務』1950年12月21日)

 主席は新たな戦略的方針の成功をはかって、10月末、朝鮮人民軍最高司令部将校・将官会議を開いて戦略的後退の状況を総括し、反撃戦を成功裏に進めることと、人民軍部隊の隊列をととのえ、規律を強める課題を示した。

 主席は、反撃に移るためにまず、敵の攻撃を挫折させる強力な反打撃戦を組織した。人民軍部隊は10月下旬から、戦線西部では清川江界線で、戦線東部では長津(チャンジン)湖畔、咸興、清津一帯で敵の攻撃を阻止する強力な反打撃戦をくりひろげて、11月23日の感謝祭以前に鴨緑江岸に到達すると言っていた敵の作戦企図を破綻させた。

 人民軍部隊の反打撃戦によって甚大な損失をこうむったアメリカ帝国主義侵略者は、今度は12月25日のクリスマス以前に朝鮮戦争を終わらせると豪語して「クリスマス総攻勢」を準備した。

 主席は反打撃戦の成果にもとづいて、基本戦線と敵背後の第2戦線が協同し全前線にわたって全面的な反撃戦に移行する作戦方針を示した。この作戦方針にもとづいて反撃に転じた人民軍部隊は、敵軍集結地域の清川江付近と長津湖畔一帯で先制的な大包囲せん滅戦をくりひろげて敵の攻撃を挫折させ、南進を開始した。第2戦線部隊も黄海道、江原道、平安南道一帯の広大な地域を解放し、敗走する敵を掃滅し、敵の防御組織と増援部隊の進出を破綻させた。人民軍部隊は、敗走する敵を電撃的に追撃して包囲せん滅戦をくりひろげ、12月末には共和国北半部全域と南半部の一部地域を解放した。

 しかし、38度線の南に敗走したアメリカ帝国主義は、退勢を挽回しようと兵力を大々的に増強し、新たな軍事的冒険に走った。その結果、戦争はいっそう熾烈化し、長期化していった。

 このような軍事・政治情勢のもとで、前線と後方を強化し、特に後退の時期の一時的混乱状態を収拾し、すべての部門で革命的規律をうち立て、軍事分野で主体性を確立することが切実に求められた。

 主席は1950年12月、党中央委員会第3回総会を招集し、『現情勢と当面の任務』と題する報告をおこなった。

 主席はまず、反撃戦の勝利をかため敗走する敵に強力な打撃を加えるため、軍事分野で主体性を確立することを強調し、戦争過程で他国に盲従する教条主義的・事大主義的傾向を一掃し、朝鮮の自然地理的特性と具体的な実情に合う多様な戦術を適用して戦闘を組織し、そのためには山地戦と夜間戦闘を巧みにおこない、歩兵と砲兵の協同作戦を正しく組織しなければならないと強調した。そして、後備部隊の訓練においても既存の戦闘規定にこだわることなく、今次戦争の経験を生かして訓練を強化しなければならないと指摘した。

 主席は次に、党の規律を確立し、党の思想・意志の統一と団結を強化することを重要な課題として提起した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「党規律の強化は、現在党活動の最も重要な問題の一つです。敵を撃滅し勝利をかちとるための基本的条件の一つは、わが党がいつにもまして規律を強化し、党中央委員会のまわりに全党をかたく結集させることであります。

 党の命令であれば、水火をいとわずそれを実践する強い規律が全党にみなぎるようにしなければなりません」(同上)

 革命的規律は、党の生命であり、党の戦闘力を規定する基本条件の一つである。とりわけ、高度の組織性と機敏な動員を要する戦時において革命的規律の確立と党の統一と団結の強化は、特に重要な問題であった。

 主席は革命的規律を強化するためには、規律を弱める傾向と仮借なくたたかい、誰であれ党の規律に違反する者は厳しく処分し、党の統一と団結を弱める行動にたいしては、それが些細なことであっても断固たる措置をとるべきであると強調した。そして、各級党組織は、党員間の批判と自己批判を強め、党の思想に反するいっさいの誤った行為を適時に克服し、党隊列の思想・意志の統一と団結をかたく守らなければならないと指摘した。

 また、解放地域で党、政権機関、大衆団体を速やかに再建整備し、人民大衆を党のまわりに結集し、破壊された生産施設を早急に復旧して戦時生産を組織し、戦災民の生活を安定させることについても強調した。そして、一時的後退期に敵が及ぼした思想的影響を一掃し、反動団体加担者の処分を正しくおこなうための具体的方途も明らかにした。

 主席は最後に、戦争で勝利するには、自力更生の革命精神を高度に発揮し、誰がいかに援助してくれようと、自分の問題は自分自身が解決し、自力であらゆる障害を乗り越え、党に提起された当面の革命課題を正しく遂行しなければならないと強調した。

 主席の報告は、分派・事大主義者や教条主義者の軍事分野に及ぼした弊害をなくして、主体性を確立し、一時的後退期の後遺症を速やかにいやし、後方を強化し、前線で新たな勝利を達成するための綱領的指針であった。

 主席は党中央委員会第3回総会後、党と人民軍を強化し後方をかためる活動をおし進めた。

 ここでは、なによりも革命的規律の強化に深い関心が払われた。一時的後退期に党の決定や指示にそむき、党・国家・軍事規律に違反した行為とは強い思想闘争をおこなう一方、すべての党員と勤労者が規律を自覚的に守るよう教育活動が強化された。その結果、党、国家、軍隊内には、主席の命令と指示を無条件擁護、貫徹する革命的規律が確立し、党の統一団結と戦闘力が強化された。

 主席はまた、軍事分野における主体性の確立に大きな力を注いだ。

 主席は、分派分子が軍事分野に及ぼした事大主義と教条主義の影響を速やかに一掃し、朝鮮の実情に合う山地戦と夜間戦闘を積極的に展開するようにする一方、戦争過程に積んだ戦闘経験を普及して人民軍の戦闘力を強化する措置を講じた。その結果、人民軍部隊と連合部隊は、迫撃砲をはじめ、曲射砲火力と夜間爆撃航空隊を増強し、山地訓練と夜間訓練を強化して、朝鮮の実情に合う戦闘を展開した。

 主席は、後方を政治的に強化する活動も積極的におし進めた。まず、解放された地域の党組織を復活整備し、党員の再登録をおこない、それを通じて党隊列の純潔性を保障し、党員の党生活を正常化し、党組織指導体系をうち立てた。そして、各級行政機関を復活整備し、点検された活動家を選抜配置し、大衆団体を復活しその活動を正常化するようはかった。

 特に、反革命分子にたいする全面的な政治攻勢を強め、敵の分裂離間策動を粉砕して、広範な人民大衆を党のまわりに結集するため心血を注いだ。そして、敵対階級出身であって共和国の制度に悪意をいだき、蛮行をはたらいた悪質分子にたいしては徹底して独裁を実施し、労働者、農民の出身で、脅迫されるか、またはだまされて反動団体に加わり、消極的に行動した者は寛大に許して、萎縮していた人たちの意気を高めるようにした。また、自首政策を実施して、たとえ、祖国と人民に罪を犯した者でも心から罪を悔い率直に自白した者は寛大に許して、できるかぎり多くの人々を結集するようにした。そして、人民大衆が、直接反革命分子を審判し処罰する措置をとって敵を徹底的に孤立させ、大衆の階級的自覚と闘争気勢を高めた。

 反革命分子にたいする全面的な攻勢を通じて労働者、農民の階級的自覚と気勢が高まり、広範な大衆が主席のまわりにいっそうかたく団結した。この過程をとおして、党と大衆のつながりを断ち切ろうとしたアメリカ帝国主義の策動が粉砕され、階級の敵は完全に孤立した。

 主席は、アメリカ帝国主義者の蛮行によって大きな被害を受けた人民の生活に特別な関心を払い、戦時の困難な条件のもとでも、人民生活の安定をはかって積極的な対策を講じた。すなわち、戦災民救護委員会を組織して戦災民の食糧や被服を確保し、人民の健康を守るために無料治療制を実施するなどさまざまな救護対策を講じ、また、愛国烈士の遺族・戦傷栄誉軍人、人民軍の留守家族のために国家的・社会的援護活動を広範に組織し、戦災孤児を国が保護するようにした。

 主席は、苛烈な戦争のさなかにも、常に人民と苦楽をともにし、人民の悩みや隘路を解決するために力を尽くした。人民への主席の深い愛情と大きな配慮のなかで、共和国北半部では厳しい戦争中にも、飢えと寒さで死ぬ者も、町をさまよう孤児もいなかった。

 銃後が強化され、人民の士気が高まるなかで人民軍の戦果も拡大した。人民軍部隊は、1950年12月末から1951年6月初めにかけて、38度線一帯で数回の強力な打撃戦を展開し、敵の兵力と戦闘技術機材に莫大な損失を与えた。

 主席の賢明な指導によって、戦争第3段階の戦略的任務は立派に遂行され、前線と後方は長期戦に対処して強固にかためられた。





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