『金日成主席革命活動史』

第7節 労働党の創立


 金日成主席は、共産党が勢力をのばし、民主主義革命が順調にはかどるにつれて、勤労大衆の統一的党の結成事業をへおし進めた。

 主席はすでに示した大衆的党建設路線に従って、共産党を勤労大衆の統一的党、労働党に発展させる方針を提起した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「共産党は労働者のなかでのみ、その勢力を拡大する党としてとどまることなく、民主主義自主独立国家建設のために積極的にたたかう進歩的な農民、勤労インテリを大いに受け入れる大衆的政党として発展する道に進まなければなりません」(『こんにちの政治情勢と我々の新たな任務』1946年7月29日)

 共産党を勤労大衆の統一的党に発展させることは、党と革命発展の合法則的な要請であった。

 当時、共産党に課せられた任務は、党を広範な大衆のなかに根づいた強力な党につくり、各階級と階層を主席のまわりに結集し、革命と建設にたいする主席の唯一的指導を徹底して実現することであった。そして朝鮮革命の前には、労働者階級と農民、勤労インテリの同盟を強化し、広範な各階層の大衆を結集して北半部で民主課題を早急に完遂し、南朝鮮で人民大衆の反米闘争を発展させるべき課題が提起されていた。このことは、共産党を労働者階級を中核とし、勤労農民と勤労インテリの先進分子を結集する大衆的党に発展させることを求めていた。

 共産党を勤労大衆の統一的党に発展させることは情勢の要請でもあった。

 解放直後、朝鮮には共産党のほかにいくつかの勤労者政党が存在していた。北半部には新民党、南半部には人民党と新民党があった。複数の勤労者政党の存在は、勤労大衆の分裂をまねく恐れがあったし、実際に革命闘争の発展にともなって勤労大衆の統一行動に大きな支障を来すことになった。

 北半部で崔昌益(チェチャンイク)一味は、共産党と対抗して新民党の勢力を労働者と貧農のなかにまで拡大しようとし、南半部でも分派分子は勤労者政党間の対立と党内の派閥争いを激化させて、勤労大衆の分裂をはかった。また、アメリカ帝国主義者とその追随者も、共産党を孤立させ、勤労者政党を懐柔し、民主勢力を分裂させようとしていた。

 こうした事情から、共産党と他の勤労者政党を速やかに合同して、勤労大衆の統一的政党である労働党を創立することが緊要な課題として提起された。

 当時、その基礎も十分にきずかれていた。主席の指導によって、共産党は各地方と主要工場・企業所に党勢を急速に拡大して27万余の党員を擁するにいたり、主席を中心とする統一と団結が実現していた。しかも、党は革命と建設において貴重な経験を積み、闘争のなかで革命的に鍛えられ、人民大衆のあいだで絶大な権威をかちとり、革命と建設にたいする指導的地位を確立していた。南朝鮮でも誠実な党員の活動によって党勢が拡大し、大衆の闘争気運が高まった。こうした状況にあって共産党は他の勤労者政党と合同しても、それを十分にこなし、強力な大衆的政党に発展することが可能であった。

 主席は、勤労大衆の統一的党の創立を強くおし進めた。1946年7月の北朝鮮共産党中央組織委員会第8回拡大執行委員会では、今後創立される新党の名称を労働党とすることや、党合同の手続き、党中核の育成など、合同と関連した原則的問題を明らかにし、党綱領および規約草案を発表した。

 主席は会議でまず、合同後も党の革命的性格は変わらないことを明確にした。共産党が労働党になっても、それは、主席によって創立され指導される党であり、また、党は主席の思想と指導を実現する武器であるために、チュチェ思想を唯一の指導思想とし、主席が提起した組織路線を党建設の原則とすることは、不動の方針であった。

 主席は次に、合同後、党を広い基盤のうえで拡大すべきであると指摘した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、労働者、農民、勤労インテリのうち、新しい民主朝鮮建設のために積極的にたたかう民主的先進分子は、誰でもみな労働党に入党できるようにしなければなりません」(『労働党の当面の任務について』1946年8月29日)

 大衆的党には、筋金入りの共産主義者だけでなく、愛国的熱意と積極性を発揮して新しい社会建設のためにたたかう労働者、農民、勤労インテリが入党できるが、その党はもともと労働者階級の党であるから、農民や勤労インテリが入党しても、党の教育と訓練を通じてすぐれた革命家、共産主義者に育成することができる。したがって、民主的な先進分子を受け入れるのは大衆的党建設の重要な原則となるのである。

 主席はまた、党の中核隊列を強化し、その拡大に努めるべきであると指摘した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「大衆的な党を建設するなかでたえず細胞の中核を育成するのは、我々の一貫した組織路線であります。中核とは、共産主義の真理を学びとり、ゆるぎない態度で革命の道を進むことのできる党員のことであります」(『思想活動において教条主義と形式主義を一掃し、主体性を確立するために』1955年12月28日)

 党は階級の先進分子をもって組織されるが、その水準は一様でない。まして、共産党と新民党の合同で急増する党員の思想理論水準や活動能力に格差が生ずるのは必然である。したがって、思想理論水準が高く活動能力のすぐれた中核党員を育成し、その役割を高めることによってのみ、党員の全般的水準を急速に引きあげ、党を質的に強化することができるのである。

 主席は1946年7月、北朝鮮共産党および朝鮮新民党中央委員会拡大連席会議を招集して、両党の合同にかんする決議を採択し、党綱領と規約草案を全党の討議にかけた。そして連席会議後、党の合同を下から上へ積みあげる方法でおこなう方針を示し、細胞から道党委員会にいたるまで順次合同会議を開いて討議するようにした。

 主席は、こうした過程で合同を「新民党化」「小ブルジョア階級化」だと言って反対したり、合同後「大量粛清」がおこなわれるだろうと言って合同を妨害する偏向をともに批判し、そのような偏向に走らないよう厳しく戒めた。

 主席は地方党組織の合同が終わると、1946年8月28日から30日にかけて北朝鮮労働党創立大会を招集し、『勤労大衆の統一的党を創立するために』と題する歴史的な報告をおこなった。

 ここで主席は、労働党の性格と基本的任務を明らかにし、朝鮮勤労大衆の利益を代表し擁護する前衛部隊である労働党は、朝鮮の自主独立と民主化をめざす闘争において、当然主導的な力となり、民主主義民族統一戦線で中核の役割を果たさなければならないと指摘し、党を強力な戦闘部隊につくりあげるための課題を示した。

 主席はまず、党隊列の思想、意志の統一と鉄の規律を確立すべきであると指摘した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、党の思想、意志の統一と鉄の規律を極力強化すべきであり、これにそむくいっさいの傾向と容赦なくたたかわなければなりません」(『勤労大衆の統一的党を創立するために』1946年8月29日)

 主席は、2つの党が合同したため、党内にそれぞれ異なる傾向が生じうるとし、全党員は党綱領にもとづく唯一思想で武装し、原則的な同志的団結と政治的自覚を強めるべきであると指摘した。特に、歴史的に朝鮮の革命運動に大きな弊害をもたらしたセクト主義を一掃し、党を統一した強力な鋼鉄の隊列につくりあげなければならないと強調した。

 主席はまた、党は大衆のなかに根をおろし、大衆とのつながりを緊密にし、大衆団体にたいする指導を強め、幹部問題に最大の関心を払うべきであると指摘した。

 大会は、主席の発議によって党の綱領と規約を採択し、党中央委員会の機関紙・誌として『労働新聞(ロドンシンムン)』と『勤労者(クンロジャ)』の発刊を決定した。

 主席の指導のもとに、北朝鮮での共産党と新民党の合同は、極めて短い期間に順調に進められた。

 労働党の創立は、党と革命の発展で画期をなす出来事であった。労働党の創立によって党は急速に拡大強化され、広範な大衆のなかに根をおろし、革命と建設にたいする主席の唯一指導が徹底して実現されるようになった。また、勤労大衆の分裂を防ぎ、労働者、農民をはじめ、各階層の民主勢力を統一戦線の旗のもとに結集し、北朝鮮で革命を新たな段階に発展させ、祖国の自主的統一をめざすたたかいを力強くおし進めることができるようになった。

 主席は北朝鮮労働党の創立活動とならんで、南朝鮮における共産党、新民党、人民党の合同にも深い関心を払った。

 主席は南朝鮮の党合同問題について再三具体的な課題を示し、1946年の夏には南朝鮮から死線を越えてきた人民党および新民党の幹部と会って党の合同方針を実現するための助言を与えた。南朝鮮の各党の党員と勤労者は、主席の方針を支持し、党合同のたたかいに積極的に取り組んだ。

 しかし、南朝鮮における党の合同は、アメリカ帝国主義者とその手先の破壊謀略策動と、とりわけ分派分子の分裂主義的策動によって難渋した。南朝鮮の分派分子は、たんなる地位欲からそれぞれ自派の「労働党」を結成しようとはかり、合同は一時的、暫定的である、各党の綱領が互いに異なるから統一は不可能であるなどと主張して党の合同に反対した。火曜派は自派だけで「党合同準備委員会」を結成して合同を機会に自派の基盤を拡張しようとし、エム・エル派はこれと対抗して直ちに党合同問題を討議し決定する「大会」を開こうと主張して合同を妨げた。

 主席はこうした事態を収拾するため1946年9月、『北朝鮮労働党の創立と南朝鮮労働党の創建問題について』と題する論文を発表した。論文では、党合同を妨害する分派分子の策動が厳しく批判され、合同を積極的に進めるための課題と方途が示された。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「勤労大衆の利益に忠実なすべての民主主義者は、反動勢力の陰謀と妨害を克服し、栄達主義分子や私利私欲におぼれた者、派閥分子らの分裂行動を暴露、粉砕し、まだ党の合同について正しい認識をもっていない一部の党員を説得し、一致団結して党の合同を短時日のうちに完成すべきである」(『北朝鮮労働党の創立と南朝鮮労働党の創建問題について』1946年9月26日)

 党合同にかんする論文は、分派分子に大きな打撃を与えた。南朝鮮の党員と広範な大衆は論文を支持して、党の合同を早急に実現することを強く要求した。情勢が不利であると見た朴憲永一味は、自派一色の労働党を組織しようと策し、エム・エル派はこれと対抗して「社会労働党」を結成した。

 主席は、「社会労働党」を結成した分派分子の分裂策動は利敵行為であると批判し、分派行為を即時中止して早急に党を合同すべきであると指摘した。こうして、「社会労働党」は直ちに解散したが、朴憲永一味は1946年11月、反対派を排除し、共産党、人民党、新民党内の自派支持者を集めて南朝鮮労働党の創立を宣言した。南朝鮮労働党はこのようにして結成されたが、党の合同は名ばかりで、勤労大衆の統一的党の組織という本来の目的は実現できなかった。

 主席はこうした状況にてらして、分派行為を一掃し、南朝鮮で党建設と党活動を正しく進めるための新たな対策を講じた。




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