『金日成主席革命活動史』

第6節 南朝鮮人民の闘争方針を提示。アメリカ帝国主義の
植民地従属化政策に反対する南朝鮮人民の大衆的闘争


 北朝鮮で民主改革が遂行されていたとき、アメリカ侵略軍占領下の南朝鮮は反動と植民地従属化の道を進んでいた。

 アメリカ帝国主義者は、解放後南朝鮮を占領すると直ちに植民地従属化政策を実施し、暴圧政治を強行した。かれらは、人民の創意によって樹立された人民委員会を解散して軍政を布き、親日派、民族反逆者を糾合して親米的な反動政党や団体をつくり、民主勢力を過酷に弾圧した。

 アメリカ帝国主義者は1946年5月、「紙幣偽造事件」をでっちあげて共産党に弾圧を加えるとともに、民主的な政党や大衆団体にたいする反動攻勢を強め、南朝鮮の労働者、農民の民主的自由と生存のためのたたかいを銃剣をもって弾圧した。そして、一方では手先を使って、「左右合作」の陰謀を企み、民主勢力の分裂と動揺する中間勢力の抱きこみを策した。

 アメリカ帝国主義者はまた、南朝鮮の経済的従属化をはかり、まず南朝鮮の経済命脈を手中におさめ収奪を強化するため、社会経済関係の再編成を強行した。

 かれらは、日本帝国主義が朝鮮人民から強奪した財産を「敵産」という名目で取りあげ、その一部を南朝鮮の追随者や投機悪徳業者に安価で払いさけ収奪の案内役をする買弁資本家を育成した。そして、多くの工場や企業を閉鎖して民族経済の発展を抑え、余剰商品を大量に引き入れた。また、農村で多くの土地を収奪し、封建的搾取関係を保護助長し、供出と雑多な重税を農民に強要した。

 アメリカ帝国主義の収奪によって、南朝鮮の経済は疲弊してアメリカの経済に従属し、人民生活は窮乏の一途をたどった。

 アメリカ帝国主義は、南朝鮮を戦争挑発の軍事基地に変えるためいたるところに軍事施設を建設し、悪質分子を集めてかいらい軍の編成を急いだ。また、朝鮮の民族文化を蹂躙し、腐りきったアメリカ的な生活様式と文化を扶植して南朝鮮人民にアメリカへの幻想と崇米事大主義思想を吹き込んでいった。

 アメリカ侵略軍占領下の南朝鮮は、テロが横行し、民族経済と人民生活が無残に破壊された暗黒の巷と化し、南朝鮮の革命運動は苦難の道を歩まなければならなくなった。

 主席はこうした情勢を分析し、南朝鮮人民の闘争課題を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「南朝鮮でも北朝鮮と同様、人民が主人になって徹底した民主改革を実施することなしには、朝鮮人民の基本的要求である民主主義的自主独立国家の創建を実現することができません」(『8.15解放1周年平壌市慶祝大会でおこなった報告』1946年8月15日)

 主席は南朝鮮人民の闘争課題は、南半部に人民政権をうち立てて、民主改革を実施し、北朝鮮人民と力を合わせて統一的な完全自主独立国家を建設することであると指摘した。

 そのためには、なによりもアメリカ帝国主義にたいして原則的な立場に立ち、反米闘争を力強くくりひろげることであった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我が国の植民地化を企むアメリカ帝国主義の策動が露骨になっている状況で、我々がアメリカ軍政に反対してたたかわないならば、完全自主独立国家を建設できないことは言うまでもなく、朝鮮人民は再び亡国の民の悲惨な状態に陥るでしょう。3000万朝鮮人民は、たとえ、たたかって死のうとも、アメリカ帝国主義者の奴隷になることはできません」(『アメリカ帝国主義の反動的策動を暴露、粉砕しよう』1946年9月18日)

 解放後、朝鮮の社会発展に歯止めをかけ、南朝鮮人民の革命闘争を妨げた主な勢力はアメリカ帝国主義者であり、したがって、かれらは朝鮮民族の敵、朝鮮革命の対象となった。しかし、南朝鮮の多くの人々は、アメリカが第2次大戦で連合国に加わったこと、李承晩などの親米売国奴一味や朴憲永一味が崇米事大主義思想をまき散らしていたことなどから、アメリカ帝国主義に幻想を抱き、かれらが朝鮮の独立を保障してくれるものと期待してかれらとの原則的闘争をおこなわなかった。

 主席は、こうした実態にてらしてアメリカ帝国主義の侵略的本性と罪状を暴露し、アメリカへの幻想を捨ててアメリカ帝国主義者と売国奴、民族反逆者とはあくまでたたかうべきであり、そのためには革命勢力を強化し、大衆を革命闘争に決起させなければならないと指摘した。そして、ここではなによりもまず革命的党を建設すべきであり、共産主義隊列のなかで派閥を一掃し、唯一の思想にもとづく統一と団結を達成し、民主集中制の原則に立脚した党組織を結成すべきであると強調した。

 主席はさらに、南朝鮮の革命家は党組織を強化し、そのまわりに労働者、農民を結集して革命の主力部隊をかため、これにもとづいて民主主義民族統一戦線を結成することによって各階層の愛国的民主勢力を組織的に結集しなければならないとし、有利な情勢を待ちながら積極的に闘争しない右翼的偏向と、力関係の正確な検討もなしに無謀な闘争を進める極左的偏向にともに反対し、主・客観的状況に合わせて政治闘争と経済闘争、暴力闘争と非暴力闘争、合法闘争と非合法闘争など、いろいろの形態と方法を巧みに組み合わせて大衆闘争を展開すべきであると指摘した。また、南朝鮮の革命家と人民が革命闘争で勝利するためには、正しい建国姿勢を保つことが重要であるとし、事大主義と外勢依存思想を排し、自主的立場に立って自力で闘争を進めなければならないと強調した。

 この方針は、解放後の南朝鮮の現実を正しく分析したうえでの科学的な方針であり、南朝鮮における党建設と革命運動を主体的な立場に立って急速に発展させる方途を示す指導指針であった。

 主席の独創的な闘争方針と北半部における民主建設の成果に励まされた南朝鮮人民は、アメリカ帝国主義の植民地従属化政策に反対するたたかいに力強く立ちあがった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「南朝鮮人民は、アメリカ帝国主義者の植民地従属化政策とその手先の民族分裂政策に反対し、民主的変革を要求して、繰り返し大規模な開争を展開しました」(『朝鮮労働党創立20周年にさいして』1965年10月10日)

 南朝鮮人民の闘争は、1946年の夏に入ってさらにもりあがった。6月初めの三陟炭鉱における4000余名の労働者のストを皮切りに各地の8。15解放1周年記念闘争、8月の光州和順(ホスン)炭鉱労働者の闘争、各地農民の「夏穀徴収」反対闘争、青年学生の「国大案」反対闘争(「国大案」は、アメリカ帝国主義の植民地奴隷教育政策による「国立ソウル大学校」案のこと。このたたかいによってアメリカ人の大学総長がその地位を追われた−訳注)などが起きた。

 闘争は、同年秋に入って大きく発展した。9月に4万余名め鉄道労働者が大衆的ストに立ちあがると、これをきっかけに全産業労働者30余万名が食糧の保障、賃上げ、米軍政暴圧の即時中止、民主的労働法の実施などを要求するゼネストを断行した。ゼネストは、数百万大衆の積極的な支持を得、学生、事務員、市民などの合流によってたちまち南朝鮮全地域に拡大した。

 主席は、全党員と勤労者を南朝鮮労働者の支援へと呼び起こした。北朝鮮の労働者、事務員、文化人は、支援大衆集会を開き、労働時間を延長して得た賃金全額を援護金として南朝鮮労働者に送った。

 南朝鮮労働者のゼネストに狼狽したアメリカ帝国主義者と反動勢力は、米軍と警察隊、テロ団、そして飛行機や戦車まで動員して、たたかう労働者とこれに合流した人民を過酷に弾圧した。憤激した大衆はストから大衆デモに移り、それは10月に入ると全人民的反米救国抗争に発展した。

 抗争に決起した人民は、「アメリカ帝国主義の植民地従属化政策に反対!」「政権を人民委員会へ!」「北朝鮮のような民主改革を実施せよ!」などのスローガンをかかげて各地でデモ、スト、暴動を決行し、警察署や郡庁などの弾圧機関を襲い、反動警官と悪質官吏を処断した。

 南朝鮮人民は、アメリカ帝国主義者とその手先の暴圧と虐殺にも属することなく、ほぼ2か月間にわたって、英雄的にたたかった。これには、南朝鮮全地域の230余万の愛国的人民が参加した。

 9月のゼネストが10月の人民抗争に移行すると、アメリカ帝国主義は戒厳令を布き、米軍と武装警察隊を増強して、無数の人民を検挙、投獄、虐殺した。朴憲永一味とエム・エル派も南朝鮮人民の闘争を妨害する罪悪行為をはたらいた。

 朴憲永一味は、労働者のストを農民の秋の収穫期の闘争と結びつけるのではなく、これを繰りあげることによって労働者と農民の共同闘争を妨げ、結局たたかいは各個撃破されることになった。また、大衆を無謀な暴動に駆り立てて多くの犠牲者を出し、党組織と革命組織の破壊をまねいた。エム・エル派は朴憲永一味と対抗して、最初は自派影響下の労働者のストを別途に組織し、その後は個別的スト・グループに「米軍政庁」との単独交渉に入らせて統一行動を破壊した。また、十月人民抗争のさいには事態収拾の名のもとに、反動的政党・大衆団体と共同行動をとって人民抗争を破壊し、抗争が下火になりかけたころ自派の功名のため大衆を暴動に駆り立てて、大量虐殺の惨事をまねいた。

 英雄的な九月ゼネストと十月人民抗争は、アメリカ帝国主義者の暴圧と分派分子の策動によって予期の成果をおさめることができず鎮圧され、南朝鮮の革命勢力は大きな損失をこうむった。

 その後、民主勢力にたいする弾圧はますます強まり、南朝鮮の革命運動は大きな困難に直面することになった。

 主席は、こうした難局を打開し南朝鮮人民の革命闘争をいちだんともりあげるため、一連の革命的対策を講じた。




inserted by FC2 system