『金日成主席革命活動史』

第5節 北朝鮮臨時人民委員会の樹立。
民主的社会経済改革の遂行


 金日成主席は党を強化し革命勢力を結集する一方、革命の基本問題である権力問題を正しく解決した。

 解放後、人民の政権である民主的中央政権機関を樹立することは、新しい祖国の建設を促し、朝鮮革命を全般的に勝利に導くうえで必ず解決しなければならない重要な問題の一つであり、全朝鮮人民の一致した志向と念願であった。

 しかし政権建設のたたかいは、アメリカ帝国主義侵略軍の南朝鮮占領によって、複雑な過程をへなければならなかった。アメリカ帝国主義の植民地従属化政策と民族分裂策動の強化は、統一的な中央政府の樹立に重大な障害をつくりだした。

 アメリカ帝国主義とその追随者の民族分裂策動のため、全朝鮮的な統一政府の即時樹立が不可能であると見きわめた主席は、北朝鮮に暫定的な中央政権機関を樹立する方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「統一的な民主主義政権を成功裏に建設するためには、新しい祖国建設の有利な条件がととのっている北朝鮮で、まずその準備活動を急がなければなりません。我々は、北朝鮮で各階層の広範な愛国的民主勢力を結集する民主主義民族統一戦線を結成し、それにもとづいて人民の利益を代表する暫定的な中央政権機関を創設しなければなりません」(『人民の政府を樹立するために』1945年11月15日)

 この方針は、北朝鮮で早急に反帝反封建民主主義革命を遂行し、北朝鮮を朝鮮革命の強力な基地に変え全国的な純一的中央政府の土台をつくる最も革命的かつ積極的な方針であった。

 主席は、北朝鮮における中央政権機関の樹立を積極的におし進めた。まず、解放直後各地に組織された地方人民委員会の構成と組織体系を整備するとともに、1945年11月にはそれぞれの経済部門の指導と各道相互の経済的連係、社会秩序の維持、人民生活の安定と向上をはかって、産業、交通、逓信など行政10局を設置し、その強化対策を講じた。各行政局が強化され、中央政権機関を樹立する条件がととのうと、民主的政党、大衆団体の代表によって発起委員会が組織され、その準備に拍車がかけられた。

 主席は1946年2月8日に開かれた北朝鮮の民主的政党、大衆団体、行政局、人民委員会代表者協議会で、『当面する朝鮮の政治情勢と北朝鮮臨時人民委員会の組織にかんして』と題する報告をおこない、解放後の人民政権の発展過程を総括し、北朝鮮に中央政権機関を樹立する必要性と当面の課題を示した。

 金日成主席は、協議会で労働者、農民など各階層人民の代表によって北朝鮮中央政権機関である北朝鮮臨時人民委員会を組織した。同会議では全人民の一致した意思と念願を反映して、金日成主席が北朝鮮臨時人民委員会委員長に選出された。

 主席は、北朝鮮臨時人民委員会の性格と使命を明らかにした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「北朝鮮臨時人民委員会は、労働者階級の指導する労農同盟にもとづいて広範な反帝反封建的民主勢力を結集している民主主義民族統一戦線に依拠した人民政権として、人民民主主義独裁の機能を果たしました」(『朝鮮民主主義人民共和国は、朝鮮人民の自由と独立の旗印であり、社会主義・共産主義建設の強力な武器である』1968年9月7日)

 北朝鮮臨時人民委員会は、チュチェ思想を指導指針とし、朝鮮の実情に合った進歩的民主主義を実現する政権であった。その使命は、親日派、親米派、民族反逆者、地主、買弁資本家には独裁を実施し、広範な人民大衆には民主主義を実施して、北半部で反帝反封建民主主義革命の課題を遂行し、革命的民主基地を創設し、社会主義革命段階に移行する条件をととのえることであった。

 主席は11か条の当面の課題と『20か条政綱』を発表し、北朝鮮臨時人民委員会の遂行すべき課題を明らかにした。11か条の当面の課題と『20か条政綱』は、『祖国光復会10大綱領』を解放後の新しい環境に即して具体化した反帝反封建民主主義革命の綱領であり、祖国の統一、独立と民主化をめざす全朝鮮人民の闘争の旗印であった。

 北朝鮮臨時人民委員会の樹立は、主席が抗日武装闘争の時期に示した独創的な人民革命政府路線の輝かしい実現であり、主席の指導のもとに朝鮮の共産主義者と人民が権力のための長期の闘争でかちとった貴い革命の獲得物であった。

 北朝鮮臨時人民委員会の樹立によって、朝鮮人民は、自主的な政権の主人となり、革命と建設の強力な武器をもつことになった。

 主席は政権問題の解決後、民主改革の遂行に着手した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「民主改革を遂行することなしには、民主主義的な完全独立国家を樹立することも、勤労大衆を貧困と無権利から解放することも、また、国の経済と文化を発展させることもできません」(『勤労大衆の統一的党を創立するために』1946年8月29日)

 民主改革は当時、朝鮮の社会経済発展の合法則的な要請であった。民主改革の遂行により、地主、買弁資本家など反動階級の経済的基盤を一掃して社会進歩の道を開き、また人民政権の社会経済的基盤を強化して北半部に強力な革命的民主基地をつくることができるのであった。

 主席は民主改革で堅持すべき基本方針を示し、民主的な社会経済的変革を遂行するためには、階級路線と大衆路線を貫き勤労大衆の利益を擁護し、民主改革を大衆自身の仕事として、全人民的運動として進めるべきであると指摘した。そして、人民大衆のもりあがった革命的気勢をゆるめることなく積極的に改革を進め、敵対分子に息つぐいとまを与えず、一つの課題を遂行したあとには次々と新しい課題をうちだして、最短時日に民主諸改革を徹底的に遂行し、また改革をとおして植民地的半封建的な社会経済関係を一掃するとともに、社会主義革命に移行するための強力な革命勢力と有利な条件を造成する方向で民主改革を遂行することであると強調した。

 主席は、民主改革を成功させるために革命勢力の強化に努めた。まず、思想教育を強化して勤労大衆の階級意識と主人としての自覚を高め、かれらを目的意識的に民主改革に参加させる一方、共産党の指導的役割の向上と労農同盟の強化に重点をおきながら、統一戦線の連携を強めて各政党、大衆団体が民主改革の遂行で同一歩調をとるようにした。これとともに、内外の反動勢力の妨害をはねのけて民主改革の遂行を保障するため、人民政権機関、革命武力、保安、司法・検察機関など独裁機関の強化をはかった。

 主席は社会経済改革の遂行において、まず土地改革に大きな力を入れた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「土地問題を解決することは、反帝反封建民主主義革命の第一義的な課題であります。土地問題が正しく解決されれば、我が国社会発展の足かせとなっている封建的生産関係を一掃して農民大衆を世紀的な立ち後れと貧困から解放し、新しい民主朝鮮を建設することができます」(『人民の政府を樹立するために』1945年11月15日)

 土地問題が解決されれば、農村の封建的土地所有関係を一掃して農民を地主の搾取と抑圧から解放し、農業生産力を急速に発展させることができ、また農村の反動勢力の経済的基盤をなくし、社会の民主的発展をはかることができる。

 土地問題は、農民が人口の大半を占める植民地農業国であった朝鮮の場合、特に重要な問題であった。解放直後、北半部では農家総数の4%にしかならない地主が耕地総面積の58.2%を占め、農家数の56.7%に達する貧農はわずかに5.4%をもっていた。こうした土地所有制によって農民は極貧状態で苦しみ、農業生産力は発展を阻まれた。

 主席は、土地改革の準備に万全を期した。土地改革の遂行者であり主人である農民を階級的にめざめさせ、組織的に結集し、反地主闘争によって鍛えるため3.7制闘争(収穫の50%以上に及んでいた小作料を30%に引き下げるたたかい−訳注)を組織した。3.7制闘争によって気勢をあげた農民は、全国各地で大衆集会を開き、耕作する農民への土地分与を要請する手紙や請願書を主席に送った。1946年2月末には、北朝鮮各地の300余名の農民代表が主席と会って土地にたいする農民の宿望を伝え、3.1運動記念日には各地で200余万の農民が土地を要求して大衆デモをおこなった。

 3.7制闘争と土地請願運動をとおして、農民は土地改革の遂行者としての自覚と心構えを強めた。

 主席は国の実情に即して土地問題を解決するため、土地所有関係と耕作実態の調査を進め、また、みずから平安南道大同(テドン)郡をはじめ、各地の農村を訪ねて1か月以上も農民とともにすごしながら、農村の実態を調べ土地にたいする農民の要求を確かめた。こうして、複雑にからみあった封建的土地所有関係を分析し、土地の没収対象、没収および分配方法、小作制度の撤廃方法などを確定した。

 以上の準備にもとづいて主席は、1946年3月初め、北朝鮮共産党中央組織委員会第5回拡大執行委員会を開いて、土地改革の諸問題を全面的に解明し、3月5日には『北朝鮮土地改革にかんする法令』を発布した。

 主席は、「土地は耕作する農民に!」というスローガンのもとに、農民を土地の主人にする土地改革の基本原則を示すとともに、そのための土地改革方針を明らかにした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我が党は、働く農民を土地の主人にするため、無償没収、無償分配の原則にもとづいて土地改革を実施し、没収した土地は国家の所有にせず農民の個人所有にする方針をうちだしました」(『我が国における農村問題解決の経験について』1978年7月28日)

 勤労農民の利益を擁護し、かれらを土地の所有者とし、農村における搾取関係を一掃するため、無償没収、無償分配による土地改革方針が示されたが、これは土地を求める農民の宿望をかなえて、祖国建設への革命的熱意をもりあげるため、没収した土地は国有にせず農民の個人所有にする決定がなされたのであった。

 主席は、土地改革の実施で提起される具体的な問題についても明確な規定をおこなった。日本帝国主義者と親日派、民族反逆者が所有する土地と潅漑施設、営農設備が没収対象として規定され、5ヘクタール以上の土地を所有し、それを小作に出していた不労地主は清算対象に規定され、その土地と役畜、農機具、住宅、潅漑施設などいっさいの財産が没収されることになった。また、自力で耕作せずに小作に出している土地は、面積の大小にかかわりなくすべて没収の対象となった。

 没収した土地は、雇農および土地がないか少ししかない農民に家族数および労力者数によって均等に分配し、分配された土地は売買、抵当、小作を禁じ、自力で耕作しない場合は国家に返納させることにした。また、没収した山林、潅漑施設、果樹園および農民の耕作に不利な土地は国有とした。

 これらの措置は、すべて封建的な土地所有制と搾取関係を一掃し、反帝反封建民主主義革命段階における農民問題と農業問題を徹底的に解決し、農村の資本主義的要素である富農経営を極力制限することによって、将来の農業協同化に有利な条件を造成する革命的な措置であった。

 主席は、土地改革で堅持すべき階級政策についても明らかにした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我が党は、土地改革に最も深い利害関係がある雇農と貧農にしっかり依拠し、中農と同盟し、富農を孤立させる階級政策を実施することによって、地主を清算する闘争に成功したのでした」(同上)

 雇農と貧農は、土地分与の基本的対象であって、土地改革に最も大きな利害関係があった。中農は、そのほとんどが自作農で、基本的には土地分与の対象でなかったが、地主や高利貸の搾取と抑圧によって不断に没落の脅威にさらされていたので、土地改革を支持した。富農は、土地改革の清算対象ではなかったが、小作に出していた土地は没収されることになったので、改革に反対する立場にあった。主席はこうした実情を見きわめたうえで、雇農と貧農にしっかり依拠し、中農を同盟者にし、富農は地主と結びつかないよう孤立させて、地主を清算する階級政策を提起し、土地改革を具体的に指導した。まず、農村の里を単位に雇農と貧農を中核とする1万1500余の農村委員会が組織された。農村委員会は、土地没収対象と清算対象を規定し、土地を分配するなど土地改革法令の執行を担当し、地主、親日派、民族反逆者との闘争の先頭に立った。また、1万余名の先進的な労働者からなる土地改革支援隊が農村に派遣され、農村委員会を助け、地主や反動分子の謀略を粉砕して農民を励まし、労農同盟を強化した。これとともに、労働組合や農民組合などの大衆団体も土地改革を支援し、共産党は友党との統一戦線を強化して全人民を土地改革の勝利へと呼び起こした。

 主席はまた、平安南道の大同郡、江東郡、江西郡、中和(チュンホワ)郡などの現地に出向いて土地改革の進行状況や農村委員会の活動状況を調べ、偏向は正して、その経験を全国に普及させた。1946年3月、平安南道大同郡柴足(シジョク)面聖文(ソンムンリ)里を訪れた主席は、地主の下男であった農民たちと会って、かれらに最上の土地を与えるようにし、長年下男奉公をしてきた農民には没収した地主の家を与え、手ずから門札にかれの姓名を書いてかけてやった。

 主席は、階級敵の破壊活動を粉砕することにも大きな力を傾けた。アメリカ帝国主義とその追随者が送りこんだテロ・破壊分子や土地を没収された地主一味は、土地改革を破綻させようと躍起になり、一部の地方では改革に反対するデモや暴動の陰謀が発覚した例もあった。

 主席はそれらの破壊活動を防止するため、『土地改革実施にかんする臨時措置法』を公布して人民政権の独裁機能を強め、広範な大衆を階級敵とのたたかいに奮起させた。また、清算された地主の勢力を弱めるため他の地方に移して農業に従事させ、農民にその影響力が及ばないようにした。こうして階級敵の企図はすべて事前に摘発され、公然と悪事をはたらくものはいなくなった。

 土地改革過程には左右の偏向も生じたが、それらは適時に是正された。ある地方では地主や民族反逆者をかばう右よりの偏向が、またある地方では没収対象でない富農や中農の土地を取りあげ、あるいは民族反逆者でないものをやたらに反逆者にしようとする左よりの偏向がみられた。こうした偏向にたいして主席は、党組織や人民政権機関を通じて適時に是正する措置をとった。

 こうして、土地改革はわずか20日余りで完了した。その結果、100万ヘクタール以上の土地が無償没収され、72万余の農家に無償分配された。土地改革は、短期間に大きな偏向もなく順調に、そして徹底的に遂行された。

 主席は土地改革後、その成果をかためる一連の措置を講じた。

 第1に、党の農村陣地の強化に力が入れられ、農村の党組織と人民政権機関、大衆団体を強化し、農民の政治思想教育を強めて、土地改革を破綻させようとはかる旧地主や反動分子の反革命的策動を粉砕する大衆的闘争が展開された。

 第2に、旧時代の供出制度と地税、収益税その他雑多な重税を撤廃して単一の農業現物税制を実施し、農民に役牛や農機具、種子、化学肥料などを国家が保障し、農民銀行、消費組合などの信用・商業協同団体を設立して高利貸や暴利行為の防止をはかるなどの措置がとられた。

 主席はこれとあわせて「解放された朝鮮の最初の春を増産で迎え、ひとうねの土地も残さず耕そう!」というスローガンを示して農民を農業生産へ呼び起こし、労働者、事務員、学生で協力隊を組織し農村に派遣した。

 土地改革に成功し、その成果がかためられた結果、反帝反封建民主主義革命段階での土地問題は立派に解決された。これは朝鮮の革命発展と新しい社会の建設で歴史的な意義のある革命的な変革であった。

 土地改革の実施は、封建的土地所有関係と搾取制度の撤廃によって農民を中世的な搾取と従属から解放して土地の主人にし、農業生産力を封建的束縛から解放し、人民経済の全般的な復興発展を促した。それはまた、党の農村陣地を強化し、労農同盟を強め、農村に強力な革命勢力をととのえた。そしてそれは、南朝鮮人民に希望と確信を抱かせ、かれらのたたかいを励ました。

 アジアで最初に実施された朝鮮の土地改革は、植民地的・封建的搾取と抑圧に苦しむ諸国人民に解放の道を示す灯台となり、かれらの反帝反封建闘争を大きく励ました。

 主席は土地改革についで、重要産業の国有化に着手した。

 解放前産業の大部分は日本帝国主義と買弁資本家の独占下にあったため、民族経済の発展は極度に抑えられていた。重要産業を国有化せずには、帝国主義とその追随者の経済的基盤を一掃して労働者階級を植民地的従属と搾取から解放することも、民族経済を急速に発展させて富強な自主独立国家を建設することも不可能であった。

 主席は国の実情を見きわめたうえで、従来、社会主義革命の段階での任務とされていた産業国有化を、反帝反封建民主主義革命の重要な任務として提起し、1946年8月10日、『産業、交通運輸、逓信、銀行などの国有化にかんする法令』を発布した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「日本国家と日本法人および私人の所有、または朝鮮人民族反逆者の所有となっていた企業所、鉱山、発電所、鉄道運輸、逓信、銀行、商業および文化機関などをすべて無償で没収し、これを朝鮮人民の所有、すなわち国有とする」(『産業、交通運輸、逓信、銀行などの国有化にかんする法令』1946年8月10日)

 主席は反帝反封建民主主義革命の段階にてらして、重要産業の没収対象を日本帝国主義と朝鮮人民族反逆者の所有のみに限った。そして、国の実情に即して民族資本家の所有とその企業活動は法的に保護し奨励した。

 重要産業の国有化によって全産業の90%以上に及ぶ1034の重要産業施設が全人民的所有となった。

 重要産業の国有化により、社会的不幸の根源が産業分野から基本的に取り除かれ、主要な生産手段が国家の発展と勤労大衆の福祉増進にあてられ、社会主義的生産関係が産業分野の支配的地位を占めて人民経済を計画的、均衡的に発展させ民族経済の自立的土台をきずくことができるようになった。また、労働者階級は政権の主人としてだけでなく主要生産手段の主人となり、同家・社会生活の各分野で労働者階級の指導が強化された。

 主席は、勤労者の民主的自由と権利を保障する変革にも大きな力を注いだ。

 1946年6月24日には、『北朝鮮の労働者、事務員にたいする労働法令』を発布して労働者にはじめて8時間労働制と同一労働にたいする同一賃金制、有給休暇制、社会保険制をはじめ、労働と休息にたいする民主的自由と権利を全面的に保障した。また1946年7月30日には、『北朝鮮男女平等権にかんする法令』を発布して、人口の半分を占める女性に選挙権と被選挙権、労働と教育の権利をはじめ、社会生活の各分野で男子と同等の権利を与え、社会発展における女性の役割を高めることを法的に保障した。

 主席は、司法・検察、教育および文化を民主化する施策も実施した。日本帝国主義の反人民的で植民地的な司法・検察制度を撤廃し、勤労人民大衆の民主的な権利と自由を法的に擁護する民主的司法制度を制定した。また、少数の特権階級のための古い教育制度を撤廃し、すべての勤労人民の子弟が十分に学べる民主的教育制度をうち立てた。文芸部門に残っている日本帝国主義思想を一掃し、新しい人民的で民主的な文学・芸術の発展をはかる革命的な措置もとられた。

 主席は民族幹部の問題に深い関心を払い、その解決に力を注いだ。

 日本帝国主義の長年の植民地支配の結果、解放後の朝鮮には専門家や技術者が極めて不足し、勤労者の大多数は近代技術文明から遠く立ち後れていた。

 主席は、民族幹部の問題を革命の勝敗と民族の将来を左右する問題として重視し、独創的な解決方法を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我が党は古いインテリを改造するとともに、勤労人民出身の新しい民族幹部を養成することに最大の関心を払った」(『朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命について』1965年4月14日)

 古いインテリの改造は、民族幹部問題を解決するうえで極めて重要な問題であった。朝鮮の古いインテリは、ほとんどが裕福な家庭の出身で、日本帝国主義と搾取階級に服務してきたが、民族的な抑圧と差別に不満をいだき反帝革命意識と愛国思想をもっていたので、労働者階級と勤労人民大衆に服務することができるのであった。それに、古いインテリが改造されて革命の側につけば、新しい祖国建設に必要とされる人材の問題が解決し、かれらに依拠して新しい民族幹部を早急に育成することができるのであった。

 民族幹部問題を解決するうえで大切なことはまた、勤労人民出身の新しい幹部を大量に養成することであった。それによって不断に増大する民族幹部の需要をみたし、民族幹部の階級構成を急速に改善することが可能であった。

 主席の示したこの民族幹部解決方針は、植民地および半植民地諸国人民に民族幹部問題を自力で解決する方途を示した賢明な方針であった。

 主席は古いインテリの教育、改造に大きな力を入れ、解放直後全国各地に分散していた科学者、技術者、文化人、芸術家を呼び寄せて大きな政治的信任と配慮をめぐらし、新しい祖国の建設にその知恵と熱意を遺憾なく発揮するようあらゆる条件を保障した。こうして古いインテリは、回生の道を見出しすすんで革命隊列に加わって働くようになった。

 主席は勤労人民出身の新しい民族幹部を育成するため、1946年6月中央党学校を創立し、つづいて各級養成機関を設立した。また万景台革命家遺族学院を設けて革命家の遺児を革命の立派な継承者に育てる措置を講じた。そして1946年10月には、民族幹部の養成基地である金日成総合大学を創立し、これを母体にして多くの大学を新設し、専門学校も急速に拡大させていった。

 解放直後、北朝鮮臨時人民委員会第1回会議の議案として鉛筆生産問題をとりあげるなど、教育事業に常に大きな関心を払ってきた主席の指導と配慮があったからこそ民主主義革命の時期から次代の教育で大きな成果をあげ、国家の興亡を左右する民族幹部問題を成功裏に解決することができたのであった。

 主席の指導のもとに、北半部では反帝反封建的社会経済改革が短期間で完遂された。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「党は、人民政権を武器として土地改革、産業国有化などの民主主義的諸改革を遂行し、日本帝国主義植民地の遺物を一掃して、我が国の北半部で解放後極めて短い期間に反帝反封建民主主義革命の任務を勝利のうちに完遂しました。その結果、我が人民は、帝国主義的・封建的束縛から完全に脱し、北半部には人民民主主義制度が確立されました」(『朝鮮労働党創立30周年にさいして』1975年10月9日)

 反帝反封建民主主義革命の完遂によって朝鮮の社会経済体制の植民地的および封建的性格は完全に解消され、社会経済関係は根本的な変革を遂げた。人民経済では、社会主義的経済形態が指導的地位を占め、国の経済を急速に発展させる土台がきずかれ、階級関係では、地主、買弁資本家、親日派、民族反逆者が清算され、労働者階級と農民が社会の基本階級、政権と生産手段の主人となった。こうして、北半部には人民民主主義制度が確立し、祖国統一の強力な保障である革命的民主基地がきずかれた。

 北半部における反帝反封建民主主義革命の遂行は、南朝鮮人民に大きな革命的影響を及ぼし、その闘争を強く励ました。また、北半部における反帝反封建民主主義革命の勝利は、世界の被抑圧人民の民族解放闘争と新興諸国人民の国づくりを大きく励まし、朝鮮の北半部をアジアにおける人民民主主義の発祥地として位置づけた。





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