『金日成主席革命活動史』

第2節 チュチェ型の革命的党−共産党の創立


 金日成主席は民主朝鮮の建設を指導する一方、革命の参謀部である党の創立に心血を注いだ。

 解放後の党創立活動は困難かつ複雑を極めた。

 新鮮の共産主義運動に大きな弊害を及ぼした分派分子は、解放後の混乱した情勢につけこんで、再び醜悪な派閥争いをくりひろげ、陰に陽に党の創立を妨げた。特に、南朝鮮では、アメリカ帝国主義のスパイ朴憲永(パクホンヨン)に操られる火曜派とエム・エル派が、それぞれ「共産党」の看板のもとに派閥争いをくりひろげ、共産主義者の隊列を分裂させていた。

 一方、アメリカ帝国主義とその追随者は、分派分子の派閥争いを利用して革命勢力の団結と革命的党の創立を破綻させようと策動していた。

 主席はこうした情勢に対処して、早急に新しい型の革命的党を創立する方針を示した。それは、抗日革命闘争で鍛えられた共産主義者を中核とし、各地で活動している共産主義者を結集して党を創立するというものであった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、長いあいだの革命闘争で洗練されたすぐれた共産主義者を中核とし、それに国内国外でいろいろの反日闘争に参加した共産主義者を結集して党を建設しなければなりません」(『我が国におけるマルクス・レーニン主義党の建設と党の当面の任務について』1945年10月10日)

 長年の革命闘争で点検された共産主義者、抗日革命闘士を中核として党を創立してこそ、それは、新しいチュチェ型の革命的党として健全な発展を遂げ、チュチェの革命偉業を完遂する戦闘的な党となることができ、また、国の内外で活動している共産主義者を結集してこそ共産主義者の分裂を防ぎ党を早く創立することができるのであった。これは、それら共産主義者を実地の闘争を通じて点検し教育して、党隊列を早急に拡大する積極的かつ主動的な措置でもあった。

 主席は、次に国土が南北に分断されている状況を考慮して、強力な党中央指導機関として北朝鮮共産党中央組織委員会を結成する方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、北朝鮮のこのような有利な条件を利用して強力な党中央指導機関としての北朝鮮共産党中央組織委員会を結成しなければなりません」(同上)

 アメリカ帝国主義占領下の南朝鮮に反動勢力が台頭している状況のもとで、全朝鮮の共産主義者を網羅する統一的な党を直ちに創立することは不可能であった。だからといって、時機が来るのを待つわけにはいかなかった。

 北と南につくられた情勢は、それぞれの地域の特性に即して一日も早く党を創立することを求めていた。こうした状況のもとで北朝鮮共産党中央組織委員会を早急に結成してこそ、各地方に分散している共産党組織を唯一の組織にまとめて共産主義者の組織的・思想的統一を遂げ、党を健全な基盤のうえで創立し、朝鮮革命全般にたいする党の指導性を確立することができるのであった。

 主席は、チュチェ型の革命的党を創立するため不眠不休の活動を進めた。主席は、国の内外で活動していた多くの共産主義者と会って朝鮮革命の性格と任務、建国路線と党創立方針などを説いてかれらを結束していく一方、平安南道をはじめ、各地方の党組織を訪ねて党創立の準備をおし進めていった。同時に、各地に派遣された抗日革命闘士をとおして地方の党組織を整備拡大し、工場、企業所や農村に党細胞を組織するなど党勢の拡大に努めた。また、党幹部の養成を党創立準備の重要な一環とみなし、労農政治学校をはじめ、各種の幹部養成機関を設けて党幹部の育成にあたった。

 地方の党組織が整備され、各地の共産主義者が組織に結集し、多くの党幹部が育成されて党創立の条件が十分にととのうと、主席は1945年10月5日、党創立の予備会議を招集した。

 会議では、北朝鮮共産党中央組織委員会の結成問題が討議され、多くの代表が主席の提案に賛同したが、朴憲永派など一部の分派分子は「ソウル中央」を固執した。

 主席は分派分子の醜悪な目的を暴露し、原則的な闘争によってその分裂策動を粉砕した。

 主席は、1945年10月10日から13日にかけて平壌で開かれた党創立大会で、『我が国におけるマルクス・レーニン主義党の建設と党の当面の任務について』と題する歴史的な報告をおこなった。

 報告では、まず党の組織路線が明らかにされた。党の組織路線の規定は、革命的党建設における基本的な問題の一つである。組織路線が正しく規定されれば、党を強固な基礎のうえでたえず強化することができる。これは、分派分子が労働者階級の党建設原則に反する党の創立を企みながら、党建設事業に混乱を引き起こしていた当時の実情のもとでは特に重要な問題であった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々が創立する共産党は、朝鮮労働者階級の真の前衛部隊、朝鮮革命を確固と勝利に導く威力ある政治的参謀部にならなければなりません」(同上)

 主席は、革命的で戦闘的な党をつくるためには、抗日革命闘士を中核として党の組織的根幹を形成し、労働者、農民の先進的分子によってかためられた無産階級の基盤のうえに大衆的な党をつくるべきであると述べ、チュチェ思想を唯一の指導思想として党の統一と団結を強め、セクト主義、地方主義、左右の日和見主義とたたかい、民主集中制にもとづいた革命的規律を強化しなければならないと指摘した。

 この党の組織路線は、党を有力な政治的参謀部に、大衆のなかに深く根をおろした強力な党に、思想的、意志的にかたく統一団結した必勝不敗の戦闘的隊列に発展させる確固とした指針となった。

 報告ではまた、党の政治路線が明らかにされた。党の政治路線は、権力問題をはじめ、革命の基本的問題を明らかにし、党の活動方向を規定づける戦略的路線である。党の政治路線が正しく規定されてこそ、党の思想・意志および行動の統一が保障される。

 これは、朴憲永一味やエム・エル派が、さまざまな左右の日和見主義的見解を広めて人民を混乱させていた状況にてらして、特に重要な問題であった。

 報告ではまた、党の基本的な政治課題が明らかにされた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、民主主義人民共和国を創建し、祖国を富強な民主主義的自主独立国家に発展させなければなりません。これがまさに現段階における我々の基本的な政治課題であります」(同上)

 解放直後の政治課題は、日本帝国主義と封建主義の残りかすを一掃して民主的発展を保障し、祖国の完全な自主独立を達成することであった。そのためには、真の人民の政権であり、革命の強力な武器である民主主義人民共和国を創建し、朝鮮を富強な自主独立国家に発展させなければならなかった。

 主席はこの基本的な政治課題を実現するため、第1に、愛国的で民主的な各政党、各派の参加する民主主義的民族統一戦線を形成することによって、広範な愛国的民主勢力を結集し、朝鮮民族の完全な自主独立を保障する民主主義人民共和国を樹立すること、第2に、民主的建国事業で最も大きな妨げとなる日本帝国主義の残存勢力と国際反動の手先などいっさいの反動分子を一掃して、祖国の順調な民主的発展をはかること、第3に、各地方に人民委員会を組織して民主的改革を実施し、経済を復興発展させ、人民の物質・文化生活を向上させることによって、民主主義独立国家建設の基本的土台を強固にきずきあげること、第4に、これらすべての課題を遂行するため共産党を拡大強化し、大衆団体の活動を活発に進めることであると指摘した。

 報告ではさらに、北半部に強力な革命的民主基地をきずくという党の政治課題が明らかにされた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々はこのような当面の任務の遂行をめざして全力を尽くすことにより、民主主義人民共和国の樹立を促進し、北朝鮮を富強な民主主義的自主独立国家建設の強力な民主的基地につくりあげなければなりません」(同上)

 解放後アメリカ帝国主義の南朝鮮占領によって国土が分断し、北朝鮮と南朝鮮の革命を同じように遂行することができなくなった状況のもとで、有利な条件がそろっている北朝鮮に革命の基地をきずいてこそ、朝鮮革命全般を促進し、全国的な勝利を早めることが可能であった。

 この革命的民主基地創設方針は、党の政治路線の重要な内容の一つであった。それは、革命勢力の強化を促し、朝鮮革命をどこまでも朝鮮人民自身の力で遂行しようという自主的立場に立った主体的な方針であり、アメリカ帝国主義侵略者とは最後までたたかいぬくという朝鮮人民の徹底した反帝的立場を反映した革命的な方針である。

 金日成主席は大会で、党中央指導機関として北朝鮮共産党中央組織委員会を結成し、チュチェ型の革命的党の創立を宣言した。

 チュチェ型の革命的党の創立は、朝鮮の共産主義運動と革命の発展で画期的な意義がある歴史的な出来事であった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我が党の創立は、マルクス・レーニン主義とチュチェ思想を指導思想とする新しい型の革命的な党の誕生であり、党を創立するための朝鮮共産主義者の長期にわたる苦難の闘争の輝かしい結実であります」(『朝鮮労働党創立30周年にさいして』1975年10月9日)

 党の創立は、栄えある抗日革命伝統を継承し、偉大なチュチェ思想を唯一の指導思想とする金日成主席の党、チュチェ型の新しい革命的党の誕生であった。

 共産党の創立は、抗日革命闘争の時期から労働者階級の革命的党を創立するため心血を注いできた主席の活動の貴い結実であり、ここに戦闘的な党の創立を待望していた朝鮮の共産主義者と労働者階級の長年の念願は輝かしく実現したのであった。

 共産党の創立によって、朝鮮の共産主義者と革命隊列の統一と団結は新たな発展段階を迎え、党の指導のもとに革命の急速な前進が保障されることになった。朝鮮人民は、このときから強力な戦闘的前衛部隊、革命の参謀部をもつ尊厳ある有力な人民として、必勝不敗の指導的力量をもつ強力な民族部隊として堂々と国際革命隊列に伍するようになった。

 新しい祖国建設途上での緊急な諸問題、特に革命の参謀部である党創立の歴史的偉業をなし遂げた主席は、はじめて平壌市民の歓迎大会に参席した。

 1945年10月14日、金日成将軍歓迎市民大会開催の知らせに全国は興奮のるつぼと化した。

 会場は、平壌はもとより新義州(シンイジュ)、咸興、清津、海州など各地から集まった人民で立錐の余地もなかった。そこには、ソウルや開城(ケソン)など南朝鮮各地からかけつけた人も大勢いた。

 午後1時、3000万同胞が一日千秋の思いで待ちわびた民族の太陽、偉大な指導者金日成主席が幹部席に姿をあらわすと、会場には嵐のような歓声と驚嘆のどよめきが起こり、「金日成将軍万歳!」の歓呼が天地をゆるがした。

 うちつづく「金日成将軍万歳!」の歓呼は、数千年の歴史上はじめて迎えた偉大な指導者への朝鮮人民の忠誠の歓呼であり、暴虐な日本帝国主義侵略軍を打ち破って祖国を解放した主席への全朝鮮人民のつきない感謝と祝福の歓呼であった。

 このときの模様について当時『平壌民報』は、「錦繍江山をゆさぶった40万の歓声」という見出しで、次のように伝えている。

 「4000年の歴史を誇る平壌、40万の人口を擁する平壌とはいえ、かつてこれほど多くの民衆が集まった例があるだろうか。これほど意義深い集会をもった例があるだろうか…。

 …大会を歴史的に意義あらしめ、群衆の感動を呼び起こしたのは、朝鮮の偉大な愛国者、民族の英雄金日成将軍がここに参席して、民衆に情愛に満ちた熱烈なあいさつと激励をおくったことである。…朝鮮同胞が最も敬慕し待望していた英雄金日成将軍がそのりりしい勇姿を場内にあらわすと、熱狂的な歓声が沸きあがり、全会衆は歓喜のあまり感涙にむせんだ」

 主席は、人々の歓呼にこたえ、『すべての力を新しい民主朝鮮建設のために』と題する歴史的な演説をおこなった。

 主席は、36年のあいだ朝鮮民族を抑圧し、搾取した暴虐な日本帝国主義は敗退し、朝鮮民族が待ちこがれていた解放の日はついにやってきた、解放された朝鮮に民主的な自主独立国家を建設してこそ、朝鮮を富強で文化的な国家につくりあげ、民族の繁栄を達成することができると述べた。そして、新しい祖国建設にともなう具体的な課題を示し、この歴史的偉業を遂行するためには、すべての人がこぞって新しい祖国の建設に立ちあがり、全民族の団結をはかるべきであると強調した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「朝鮮民族が、新しい民主朝鮮を建設するために力を合わせるときはきました。各階層の人民は、すべて愛国的熱意を発揮して新しい朝鮮の建設に奮起しなければなりません。力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で、建国事業に積極的に貢献し、真に祖国を愛し、民族を愛し、民主を愛する全民族がかたく団結して民主主義自主独立国家を建設していかなければなりません」(『すべての力を新しい民主朝鮮建設のために』1945年10月14日)

 主席の演説は、植民地奴隷の運命から解放された朝鮮人民に新しい朝鮮の主人、自主独立国家の担い手としての高度の自覚をもたせ、民主朝鮮建設の壮大なたたかいに呼び起こす綱領的な指針となった。

 平壌歓迎市民大会は、朝鮮人民に、主席をいつまでも領袖と仰ぎ、そのまわりにかたく団結してチュチェ朝鮮の威容を誇示しようという不動の決意をいだかせた。

 主席は、平壌歓迎市民大会で祖国と人民に凱旋のあいさつをしたその日の夕方になってようやく万景台に向かった。

 万景台では、村をあげて主席を歓迎した。

 「ほんとうにおまえが、とうとう帰ってきたんだね! これは夢では…」白髪の祖母が涙声でこう叫びながら両腕を広げて走り寄った。

 主席もかけよって祖母の肩を抱いた。

 感激的な再会であった。祖国解放のたたかいで二人の息子と嫁、それに2番目の孫がたおれ、いまは帰らぬ人となった。日本帝国主義侵略者に強要されて満州まで連れていかれたときは、会いたくも会ってはならなかった孫、きょうは人民の太陽となって帰った孫の広い胸に抱かれた祖母は、肩を波うたせながらとめどもなく涙を流した。

 主席は、歓呼する村人たちにあいさつを返しながら祖母とともに生家の庭に入った。祖父が素足のままで飛び出してきた。深いしわにおおわれた祖父の顔には、涙が雨のように流れた。

 主席は祖父の両手を握ってあいさつをした。

 家族と親戚、村人たちが感激に胸をふるわせ熱い涙で頬をぬらしているとき、祖母はあふれる喜びのなかでも、この世を去った息子や嫁が忘れられず「おまえを見たら生涯この胸につもっていた悲しみが一度に晴れたようだよ…。でも、おまえの父さんと母さんも一緒だったらどんなによかったろう…おまえ一人だけが帰ってくるなんて…」と言葉を結べなかった。

 胸を打つ祖母の言葉に居合わせた人々は声もなく涙をぬぐいながら、朝鮮民族解放運動のすぐれた指導者金亨稷先生と朝鮮の母、康盤石女史の不滅の業績をしのんだ。

 万景台のわらぶき家では、20年のあいだ胸につもりつもった話が花と咲いた。

 万景台では祝い事かつづいた。主席が故郷を訪問した数日後、金正淑夫人が息子を連れて万景台を訪れたのである。

 孫嫁のあいさつのあと、曾孫を抱いた祖父母は言い知れぬ幸福感にひたった。

 祖父は、曾孫を抱きあげて目に涙を浮かべた。「うちの家門もこれで安泰じゃ」

 祖母も胸にあふれる喜びをおさえきれず、「うちの成柱が帰り、こんな立派な孫嫁も来てくれて曾孫まで抱けるとは…」と言った。

 金正淑夫人が息子と一緒に万景台を訪れた日は、朝鮮人民にとって大きな祝日であり、祖国の青史に末永く伝えられる栄光の日であった。





inserted by FC2 system