『金日成主席革命活動史』

第7節 茂山地区進攻作戦と白頭山東北部における大部隊旋回作戦


 金日成主席は苦難の行軍を勝利に導いたのちの1939年4月、北大頂子で朝鮮人民革命軍の幹部会議を開き、『積極的な反撃戦によって日本帝国主義侵略者に連続打撃を加え、祖国に進軍しよう』という歴史的な演説をおこなった。

 主席は苦難の行軍でおさめた輝かしい勝利を総括し、再び祖国に進出する新たな闘争方針をうちだした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々には、苦難の行軍の輝かしい成果を踏まえて、敵にひきつづき打撃を加え、祖国へ進軍すべき課題が提起されています。

 敵は、冬期『討伐』作戦で挽回することのできない惨敗を喫し、四方八方に分散したままひっこんでいます。我々は敵に息つくまを与えず、積極的な反撃戦に移行し、日本帝国主義侵略者にひきつづき打撃を加え、再び祖国へ進軍しなければなりません」(『積極的な反撃戦によって日本帝国主義侵略者に連続打撃を加え、祖国に進軍しよう』1939年4月3日)

 主席は、当面して鴨緑江に沿う国境一帯の敵の要衝を攻撃する春期攻勢を展開し、祖国進攻の万端の準備をととのえたのち、人民革命軍の主力部隊が茂山地区に進攻して植民地支配のもとで苦しんでいる朝鮮人民に民族再興の希望をいだかせ、かれらを反日闘争へと励まさなければならないと指摘した。そして、政治工作員と小部隊を国内各地に派遣して破壊された革命組織を立て直し、新しい組織をつくり、積極的な地下活動をおし進め、広範な愛国勢力を結集するなど、人民革命軍の武装闘争とあわせて各種形態の祖国解放運動をもりあげなければならないと強調した。

 主席はさらに、茂山地区進攻作戦後、白頭山東北部で大部隊による新たな作戦を展開する方針を提起した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、茂山地区進攻作戦を成功裏に終えた後、白頭山東北部で大部隊による新たな作戦を展開しなければなりません」(同上)

 主席は、敵が長白一帯に大兵力を集中しているとき、人民革命軍の主力部隊は白頭山東北部に移動し軍事・政治活動を果敢にくりひろげて、日帝侵略者に甚大な打撃を加え、抗日武装闘争をさらに発展させなければならないと指摘した。

 この方針は、敵をひきつづき守勢に陥れ、朝鮮革命を高揚へと導く最も積極的かつ主動的な方針であった。

 会議後ただちに春期攻撃戦が開始された。主席は、邱家店戦闘、十五道溝戦闘、半截溝戦闘など多くの戦闘を勝利に導き、祖国進攻の万端の準備をととのえた。

 1939年5月18日、朝鮮人民革命軍主力部隊は、鴨緑江を渡河し、青峰(チョンボン)に到着した。ここで部隊の宿営を命じた主席は、地形と敵情を具体的に調べる一方、胞胎(ボテ)里方向に小部隊を送って政治・宣伝工作にあたらせた。

 主席の指示に従って金正淑同志は、他の隊員とともに青峰の立木に「朝鮮の青年よ!速やかにはせ参じて抗日戦に力強く参戦せよ」「立て、団結せよ、世界の勤労大衆よ、自由と解放のためにたたかおう!」などの戦闘的スローガンを書きつけた。それらのスローガンは、人民に祖国解放の希望と勇気を与え反日闘争へと力強く呼び起こした。

 部隊はさらに乾滄(コンチャン)をへてぺゲ峰に到着した。5月20日、ここで朝鮮人民革命軍指揮官会議が開かれた。主席は当面の状況と敵の戦術的企図を分析し、一行千里の戦術で速やかに茂山地区に進出する方針を示した。

 5月21日、部隊は行軍の途中三池淵(サムジョン)で休息した。主席は、祖国の美しい景色、特に三池淵の風致に魅せられ深い感動にひたっている隊員たちに、三池淵の清い水で喉をうるおし、力強く戦って祖国を解放しようと励まし、かれらを新たな希望と英雄的偉勲へと呼び起こした。

 行軍準備を十分にととのえた部隊は、40余キロメートルの「甲茂(カプム)警備道路」を白昼行軍して、その日のうちに茂浦(ムポ)に着いた。

 茂浦宿営地で開かれた指揮官会議では、部隊を大紅湍(テホンダン)地区に進め、新四洞(シンサドン)、新開拓(シンゲチョク)一帯で政治・軍事活動を展開することが決定された。

 5月22日、主席は、新四洞の人民の前で『祖国の解放を促進するため、反日闘争に積極的に立ち上がろう』と題する歴史的な演説をおこない、日本帝国主義のファッショ的暴圧と収奪行為を厳しく糾弾し、人民革命軍の崇高な使命と闘争業績について指摘したあと、全民族が一致団結して祖国解放戦線に結集し、侵略者に抵抗して力強く戦うとともに、人民革命軍を積極的に支援するよう訴えた。

 主席は、人民革命軍の茂山地区進攻を阻止するために出動した敵を大紅湍原でせん滅する作戦計画を立て、5月23日、巧みな誘導伏兵戦術で敵の守備隊と警察隊を撃滅した。

 茂山地区進攻作戦は、日帝侵略者に大きな政治的・軍事的打撃を加えて人民革命軍の不敗の威力を重ねて誇示し、人民に勝利の信念と勇気を与え反日闘争へと奮起させた。

 茂山地区進攻作戦の遂行後、人民革命軍主力部隊は白頭山東北部へ進出した。

 1939年5月24日、主席は安図県クンゴルで朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議を開き、白頭山東北部における軍事・政治活動の基本方向を示した。

 それはまず、主力部隊を連隊規模の大部隊に再編成し、広範な地域で集中、分散、移動を巧みに組み合わせて敵を不断に掃滅する一方、大衆組織・政治活動を活発に展開して革命組織を速やかに再建拡大し、大衆的基盤を強化することであった。主席はさらに、当面の情勢と部隊活動の特性に即して機動的な臨時密営を設置することによって、白頭山東北部に柔軟性のある秘密根拠地をつくる課題を示した。

 主席は会議後、各地に分散して活動する部隊を統一的に指導する一方、6月には奥爾基江戦闘をはじめ、多くの戦闘を指揮して新たな作戦の地ならしをした。同時に、大衆組織・政治活動をくりひろげるため、優秀な政治工作員や政治工作グループを茂山地区および豆満江沿岸の広い地帯に派遣した。

 主席は白頭山東北部の実情を考慮して、長白一帯での大衆政治工作方法とは違った方法、つまり政治工作員は武装した小部隊の援護のもとに工作を進め、大部隊も軍事作戦後には、きまって大衆組織・政治活動をおこなうようにした。

 主席は政治工作員の活動を指導するかたわら、玉石洞と柳洞一帯で革命組織を立て直し、大衆組織・政治活動を進めた。

 人民革命軍の各部隊と政治工作グループは、主席の模範にならって敵の策動を退け、広範な大衆組織・政治活動をくりひろげた。こうして、党組織や祖国光復会などの革命組織づくりが急速に進み、抗日武装闘争の影響のもとに各地でさまざまな大衆闘争が活発に展開された。

 人民革命軍の茂山地区進出と白頭山東北部における積極的な政治・軍事活動にろうばいした日帝侵略者は、大兵力を動員して、それまでになく悪らつな「討伐」を強行した。

 1939年9月、関東軍司令官の直属下に「野副討伐司令部」が吉林に設けられ、関東軍、かいらい満州国軍のほか警察隊、自衛団をも含めて20余万の「討伐部隊」が編成された。そして、同年末まで「討伐」を完了する構想のもとに「東南部治安粛正特別工作」に乗り出した。こうして、山と谷を「討伐隊」で埋めつくし人民革命軍の密営を封鎖する大包囲作戦とならんで人民革命軍をとらえて放さない「長距離追跡」戦術を用いる「討伐」作戦が強行された。

 主席はこの「討伐」作戦を破綻させるため、1939年10月6日と7日の両日、南江口で朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議を開き、大部隊旋回作戦を進める新たな方針を示した。それは、人民革命軍の大部隊が所定の秘密コースにそって広大な地域をたえず旋回しながら、敵を奇襲してはいちはやく姿を隠し、旋回中敵があらわれれば有利な地点に移動して撃滅するというものであった。

 この大部隊旋回作戦方針は、朝鮮人民革命軍が常に主導権を握って、数量上はるかに優勢な敵を掃滅するすぐれた方針であり、当時の情勢に即して人民革命軍の兵力を最大限に維持し、抗日武装闘争を不断に発展させる最も革命的な方針であった。

 主席は、会議後ただちに大部隊旋回作戦を指揮した。

 そして、みずから鶏冠※(※は、石偏に立)子戦闘、長仁村戦闘を指揮する一方、寒葱溝戦闘をはじめ、豆満江沿岸の各地の敵を掃滅する戦闘を組織し、和竜、安図一帯の山と谷あいに誘い入れたのち、敦化の奥地に進出した。そして、1939年12月六棵松と@信子の木材所を連続的に攻撃して大きな勝利をおさめた。主席は木材所労働者たちの前で、抗日武装闘争の支援を呼びかける演説をおこない、政治工作を活発に展開して、200余名の労働者を入隊させた。

 白頭山東北部一帯に密集していた「討伐隊」は、敦化の奥地で木材所が襲撃されたことを知ると、あわただしく敦化の密林に押し寄せた。

 それをしり目に、主席は部隊を率いて安図−−撫松県境の松花江流域に進出し、撫松県の白石灘で40余日のあいだ冬期軍事・政治学習会を組織した。学習会をとおして数百名の新入隊員は政治的、軍事的に鍛えられた。

 学習会が終了した1940年2月、部隊は白石灘を出発し、所定のコースに沿って再び豆満江沿岸の国境地帯に進出した。

 そして3月には、国境一帯の「討伐」拠点の一つである大馬鹿溝を襲撃して勝利をおさめ、花拉子の密林に撤収後、再び軍事・政治学習会をおこなった。

 主席の巧みな戦術と戦法によってあいつぐ大打撃をこうむった侵略軍は、多数の「討伐隊」を動員して人民革命軍主力部隊を執拗に追撃した。追いすがる敵の掃滅を決心した主席は、紅旗河戦闘を指揮し「精鋭部隊」として知られる前田部隊を瞬時に全滅した。

 白頭山東北部における大部隊旋回作戦は、日帝侵略軍の比類のない大「討伐」攻勢を粉砕し、朝鮮人民に勝利の信念と祖国解放の希望をいだかせた。それはまた、朝鮮人民革命軍の兵力を消耗することなく不敗の革命武力に強化し、白頭山東北部における革命の基盤を守り、朝鮮革命を力強く発展させる無限の力をたくわえた。

 主席は1940年4月、花拉子で人民革命軍主力部隊の軍事・政治幹部会議を開いて大部隊旋回作戦の輝かしい勝利を総括し、敵の「東南部治安粛正特別工作」を破綻させるため、森林地帯に「討伐」兵力が集中しているすきに、敵の後方を連続的に奇襲する新たな軍事活動方針を示した。

 この方針にもとづいて、主力部隊は洋草溝と東南岔を同時に奇襲し、ついで北二道溝、南二道溝、神仙洞などの敵を襲撃、掃滅した。そして、同年4月末から分散活動に移行した人民革命軍部隊は、安図、和竜、延吉、敦化、汪清その他の各県で奇襲作戦を展開し敵を大混乱に陥れた。

 主席は1940年の初夏、主力部隊の一部隊を率いて小哈爾巴嶺一帯に進出した。その途中、大沙河の奥地で日帝侵略軍の最も悪質なかいらい武装集団「神選隊」と遭遇したが、主席は巧みな戦術でこれを全滅させた。

 金正淑同志は、この戦闘で主席が敵兵に狙われる危険な瞬間、主席を身をもってかばい、敵兵を矢つぎばやに撃ち倒した。

 このように金正淑同志は、戦闘のたびに主席の身辺を守って高潔な革命精神と犠牲的精神を発揮するのが常であった。それは、主席の忠実な革命戦士としてのかがみであった。

 金日成主席は、人民革命軍の大部隊旋回作戦とその後数か月にわたる積極的な軍事・政治活動を指揮して、「東南部治安粛正特別工作」を粉砕し、日帝侵略者に大きな政治的・軍事的打撃を与えた。こうして反日民族解放闘争は、チュチェの旗のもとにひきつづきもりあがっていった。





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