『金日成主席革命活動史』

第6節 反日民族解放闘争の高揚をはかる
軍事的・政治的課題を提示。苦難の行軍


 抗日武装闘争が急速に発展していた時期、朝鮮革命は厳しい試練をへることになった。

 コミンテルン内の極左冒険主義者は、「満州国」の首都長春の包囲攻撃および熱河遠征によって、中国本土に侵攻する日帝侵略軍に打撃を与えるという無謀な路線をうちだし、コミンテルンの名で満州の武装部隊にその執行を命じた。結局、熱河に遠征した抗日連合軍の一部部隊は、敵の包囲におちて、非常に大きな損害をこうむった。日本帝国主義は、武装闘争が一時的な苦境に遭遇した機会に乗じて朝鮮革命を抹殺しようと人民革命軍にたいする「討伐」攻勢を強める一方、空前の大検挙旋風を起こして革命組織を破壊し、多数の共産主義者と愛国的人民を検挙、投獄、虐殺した。

 朝鮮人民は惨たんとした民族的悲運にあえぎ、朝鮮革命は一大試練をへることになった。

 主席は、難局を打開して民族の運命を危機から救い、朝鮮革命を高揚へと導く主動的な対策を講じた。

 主席の率いる人民革命軍主力部隊は、臨江、蒙江一帯に進出し、積極的な遊動作戦をもって敵の背後攪乱作戦を展開し、他の部隊は、平野地帯で抗日連合軍部隊を包囲攻撃する敵を牽制し、誘導奇襲する戦闘を展開した。

 主席は南満州で活動していた人民革命軍の各部隊を南牌子に集めて、1938年11月25日から12月6日にかけて、朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議を開き、歴史的な演説をおこなった。

 ここで主席は、極左冒険主義的な熱河遠征の本質とそれによる損害がいかに大きなものであったかを指摘し、事態を収拾するためには自主性の原則を堅持することであると強調した。

 主席は、日本帝国主義の策動に対処して、チュチェの革命的旗印を高くかざし、朝鮮革命をひきつづき高揚へと導く方針を示した。すなわち、敵の大攻勢に対応して人民革命軍の主力部隊が国境地帯に進出し、大部隊遊動作戦をくりひろげるとともに、大衆政治工作を活発におこなって人民の気勢をもりあげ、破壊された革命組織を立て直すことであった。

 大部隊遊動作戦の成果をはかって、部隊は3つの方面軍に再編成され、その活動区域が指定された。

 主席のこの新たな闘争方針は、日本帝国主義の反動攻勢と極左冒険主義者の盲動によってもたらされた難局を打開し、自主的立場に立って抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般をひきつづき高揚へと導く綱領的な指針であった。

 南牌子会議後、第一方面軍と第三方面軍を各自の活動分担地域に送った主席は、1938年12月上旬、第二方面軍を率いて、最も重要な地域である鴨緑江沿岸北部国境地帯に向けて出発した。朝鮮人民革命軍の歴史的な苦難の行軍はこうして開始された。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)朝鮮人民革命軍主力部隊は、南牌子会議の方針に従って南牌子から長白にいたる100余日間の行軍を断行し、再び北部国境一帯に進出しました。

 我が革命軍部隊の鴨緑江沿岸の国境一帯への行軍は、あらゆる艱難辛苦にうちかち、敵の狂気じみた反動攻勢から革命を守りぬき、反日民族解放闘争をひきつづき高揚へと導く勝利と栄光の道程でありました」(『積極的な反撃戦によって、日本帝国主義侵略者に連続打撃を加え、祖国に進軍しよう』1939年4月3日)

 抗日武装闘争の全過程が厳しい苦難の連続であったが、南牌子から鴨緑江沿岸国境地帯への行軍は想像を絶する試練にみちた道程であった。

 日本帝国主義は、「東辺道討伐作戦」の名のもとに、「大掃討戦」の主な目標を朝鮮人民革命軍司令部におき、関東軍主力部隊の大部分とかいらい満州国軍の精鋭部隊、武装警察隊、自衛団など数十万の兵力を動員して二重三重の包囲網を形成し、航空隊の支援まで受けながら執拗に襲いかかった。また、人民革命軍の内部崩壊を狙って、「帰順工作班」というスパイ集団をもぐりこませ、あるいは飛行機でビラを散布するなど、あらゆる卑劣な術策を弄した。

 連日、襲いかかる数千数万の敵との血みどろの戦闘、零下40度を上下する酷寒、背丈を越す数年来の大降雪とひどい食糧難……行軍の一歩一歩は筆舌に尽くしがたい困難をともなった。

 主席は、これらの試練を鋼鉄の意志と不屈の革命精神をもって克服し、人民革命軍の北部国境地帯への進出を勝利へと導いた。主席は、南牌子から長白にいたる冬期作戦でたえず変化する状況や敵の戦術的企図を看破し、巧みな遊撃戦術と戦法を駆使して、常に戦術的優位を占め、敵を連続的に掃滅した。

 敵が「要点配置」と「長距離追撃」を組み合わせた「集中討伐」戦術によって革命軍の「せん滅」をはかったとき、主席は行軍の初期、大部隊の集中攻撃による大せん滅戦をもって、これに対応する戦術的方針を示し、南牌子一帯に集結した敵の大部隊に攻撃を加えた。ついで二道花園、五道岔、四道岔、腰溝、螞蟻河、王家店などの敵を奇襲掃討しながら、1939年1月初め七道溝の奥に到着した。

 このころ敵は、人民革命軍司令部が白頭山地区へ進出していることを知り、全兵力を集結して包囲陣をしき「最後の対決」態勢をとりつつあった。七道溝の奥では朝鮮人民革命軍主力部隊の幹部会議が開かれ、大部隊活動から分散活動に移行する方針が採択された。こうして主力部隊は、佳在水方面とコムイゴル一帯および東崗地区の3方面に分かれて活動し、縫製隊員と老弱者は青峰密営に送られることになった。

 大部隊活動から分散活動へ移行することによって人民革命軍は、敵の集中攻撃を分散、撃破して大混乱に陥れた。

 佳在水方面に向かう部隊を率いた主席は、青峰から、紅土山子、富厚水台地に移動し、その間巧みな用兵術と意表をつくはかりごとで次々に敵を撃破し、1939年2月中旬、敵の兵力が集中している長白の密林地帯をぬけだして佳在水の丘陵地帯に到着した。ここに宿営地を設けて大衆政治工作をくりひろげ、軍事・政治学習会も組織した。その後、主席は、長白の奥地に集中していた敵の大部隊が司令部の所在をつきとめて、丘陵地帯に侵攻するものと予測し、敏速に密林地帯に移動した。その過程で北徳嶺の敵を奇襲掃討し、ついで十三道湾集団部落の敵を襲撃した。

 1939年3月初めには、敵を混乱させて守勢に追いこみ、次の作戦に移行する戦術的措置として十三道溝戦闘が組織された。その直後に再び集結した主力部隊は、間三峰と十二道溝一帯で活発な軍事・政治活動をくりひろげ、1939年3月末、北大頂子に到着した。

 歴史的な人民革命軍主力部隊の苦難の行軍は大勝利をもって終わった。主席のすぐれた用兵術と戦略・戦術は、比類なく困難な苦難の行軍を勝利に導いた決定的な保障であった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、(略)苦難の行軍過程を通じて朝鮮人民革命軍のすぐれた遊撃戦術の不敗の威力を実証しました」(同上)

 主席は、人民革命軍の北部国境一帯への行軍途上で、兵力の集中と分散、大部隊による集中攻撃と小部隊による奇襲、迅速かつ巧妙な機動戦、誘導戦術と伏兵戦術、敵を同士討ちさせる望遠戦術、旋回戦術など、すぐれた戦略・戦術と戦法を駆使して、常に主導権を握り、兵力の優勢な敵を意のままに操りながら次々に撃滅した。朝鮮人民革命軍を冬が終わるまでに「完全掃滅」すると豪語していた日帝侵略軍は、主席の臨機応変、千変万化の戦術にほんろうされ、雪におおわれた長白の奥地に屍をさらして敗退した。

 人民革命軍の隊員たちは、主席の慈父にもまさる無限の愛、隊員と苦楽をともにする崇高な革命的同志愛に励まされ、生死を分かつ厳しい試練のなかで集団的英雄主義をいかんなく発揮した。主席は、激しい戦闘に明け暮れた厳しい行軍の日々に、隊員たちを朝鮮革命に限りなく忠実な革命家に、いかなる苦境も勇敢に乗り越える不屈の闘士に育成するため心血を注ぎ、常に陣頭に立って苦難にたちむかい、高潔な革命精神と革命的同志愛の模範を示して、おり重なる難関を打開していった。主席は、戦闘と行軍に疲れ、酷寒と飢えに苦しむ隊員たちを「もう少しのがまんだ。元気をだして困難にうちかってこそ、祖国へ進撃することができるのだ!」と言って励まし、銃や装具を背負ってもやれば、肩をかして歩きもしながら、深い雪を踏み分けて部隊の行軍を導いた。主席は一合しか残っていなかったはったい粉さえ辞退し、隊員たちに分け与えた。

 主席の慈父の愛と深い配慮に励まされた隊員たちは、不死鳥さながらに不屈の闘志と革命精神を発揮し、また、いかなる苦境にあっても戦友と生死をともにし、その苦しみを減らすため犠牲的にたたかった。主席にたいする人民革命軍隊員の限りない忠実さと主席を中心とする革命隊列の不敗の統一と団結は、苛烈な冬期作戦の勝利を保障した重要な要因であった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「苦難の行軍の全過程は、朝鮮人民革命軍の隊員が一つの思想、一つの意志でかたく団結し、あらゆる試練を乗り越えて内外の敵と戦って勝利した栄えある闘争過程でありました」(同上)

 主席に限りなく忠実な人民革命軍の指揮官と隊員は、いかなる苦境にあっても主席の命令・指示を徹底的に実行し、革命の司令部を生命をとして防衛した。呉仲洽(オジュンフプ)連隊は、敵の包囲から司令部を守るために司令部をよそおい、危険をおかして敵の大部隊を長白の奥地に誘い込んで撃破した。

 主力部隊が司令部を守って厳しい闘争をつづけていたとき、縫製隊員と老弱者を引率して青峰密営におもむいた金正淑同志は、主席の思想を歪曲し革命隊列の破壊を企む裏切り者を摘発して断固とたたかい主席を政治的、思想的に擁護した。

 主席の独創的な遊撃戦術とすぐれた用兵術、革命戦士にたいする深い愛情と、革命の司令部を守ってたたかった人民革命軍隊員の共産主義的信義にもとづく信念化した忠実さ、高潔な革命的同志愛と不屈の闘争精神のゆえに、人民革命軍は冬期作戦で日本帝国主義の数十万大軍の包囲攻撃を撃破し、輝かしい勝利をおさめたのであった。

 100余日の苦難の行軍の末、主席の率いる人民革命軍主力部隊は北部国境地帯への進出に成功し、その結果、抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般をひきつづき高揚へと導く新たな局面が開かれた。





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