『金日成主席革命活動史』

第4節 反日民族統一戦線運動と党創立準備。
普天堡戦闘の勝利


 金日成主席は、白頭山根拠地の創設、拡大とあわせて、全国的な反日民族統一戦線運動と党創立の準備活動を指導した。多くの政治工作員が各地に派遣され、反日民族統一戦線運動と党組織の拡大および党創立の準備活動が活発に進められた。

 主席は1936年9月、長白県十九道溝で開かれた朝鮮人民革命軍党委員会の会議で、祖国光復会の拡大と党創立準備のために、優秀な指揮官と隊員を政治工作員として派遣する措置をとった。この措置によって、不屈の共産主義闘士金正淑同志、権永璧(クォンヨンピョク)、李悌淳(リジェスン)、金周賢(キムジュヒョン)、池泰煥(チテホン)、朴緑今(パクロム)、崔喜淑(チェヒスク)など多数の政治工作員が鴨緑江、豆満江沿岸一帯と国内に派遣された。主席は、かれらに祖国光復会組織網の拡大と党組織の拡大強化および党創立の準備活動を促進する具体的な課題と方途、組織・政治活動方法、生活規範をはじめ、地下活動の方法や準則にいたるまで詳しく教えた。主席は、敵との血戦がつづく厳しい日々にも、常に政治工作員の活動に気を配り、深い愛を注いだ。

 主席の指導のもとに政治工作員たちは、危険な敵中にあってもおり重なる障害を乗り越え、その任務を着実に遂行していった。

 主席の指示によって1937年の3月中旬桃泉里地方に派遣された金正淑同志は、国内の新坡(シンパ)地区および長白県下崗区、上崗区一帯で活動した。

 彼女は厳しい敵の警戒をかいくぐって人民のなかに入り、主席の主体的な革命路線と方針を広く宣伝し、広範な人民を反日闘争に呼び起こした。そして、各地に祖国光復会の下部組織や婦女会などの革命組織をつくって広範な大衆を組織に結集した。また、朝鮮人民革命軍の軍事活動を保障する偵察活動を活発に進める一方、革命組織と大衆を動かして多量の援護物資を人民革命軍に送った。地下工作中敵に逮捕されたときは、ひたすら主席への敬慕の念に燃えながら、不屈の革命精神と強い意志をもって拷問に耐え組織の秘密を守りとおした。

 そうした模範に励まされた政治工作員たちは、主席の方針を貫くために不眠不休の活動を展開し、党組織と祖国光復会を急速に拡大していった。

 主席は、反日民族統一戦線運動と党創立の準備活動を全国に発展させるため、国内で活動している革命家たちの指導にも深い注意を払った。

 主席は1936年12月、国内の革命家たちに親書を送り、同月末には国内で活動中の朴達(パクダル)を招いて国内共産主義者の当面の任務と活動方針を具体的に語った。まず主体的な党創立の方針を重ねて明らかにし、国内における党組織の建設方途を示した。そして、国内共産主義者の党創立活動における事大主義的傾向を指摘し、党の創立を朝鮮の歴史的条件と共産主義運動の実情に即して自主的におこなうことが重要であり、コミンテルンが党を組織してくれるものと考え、またはその承認がなければ党を創立できないと考えるのは誤った見解である、問題はコミンテルンの承認のあるなしにかかわりなく、朝鮮の共産主義者が主人となって党を組織し朝鮮革命を指導することにあると強調した。また、国内で党創立活動を進めるためにはセクト主義に反対し、主体的革命路線にもとづいた共産主義隊列の統一と団結を実現し、可能なすべての単位、すべての地域で党細胞、党グループを組織し、党組織の建設を下から上へと進めなければならないと指摘した。そして、党創立の組織活動に生じた極左関門主義的傾向を克服し、党勢の拡大に力を入れると同時に、統一戦線運動の原則を党勢の拡大にそのまま適用する誤った見解を厳しく警戒すべきであると述べ、ついで一部の人の党組織を先に結成すべきか大衆組織を先に結成すべきかという無意味な論争を批判し、党組織を先に結成できるところでは党組織を先に結成し、条件がととのっていないところでは大衆組織を先に結成して、そこで点検された中核分子で党組織を結成すべきであると語った。

 主席は国内で祖国光復会の組織を拡大する具体的な方途についても明らかにし、国内の共産主義者が反日民族統一戦線路線を前面に押しだし、労働者、農民をはじめ、日本帝国主義に反対するすべての階級と階層を祖国光復会の旗のもとに結集するために努力し、当面は反日大衆組織である甲山(カプサン)工作委員会を祖国光復会の下部組織に改組してそれを早急に拡大し、国内各地に祖国光復会組織を結成しなければならないと指摘した。

 その後主席は、国内の共産主義者で党グループを組織して党組織と祖国光復会を国内に拡大する活動で中核的な役割を果たすようにし、その活動を綿密に指導した。主席の指導のもとに国内の共産主義者は、祖国光復会組織綱の拡大と党創立の準備活動を活発に進めた。

 主席は各地に派遣された政治工作員と国内共産主義者の活動を指導する一方、反日民族統一戦線運動を強化し、党創立の準備活動をおし進めるため多くの革命的措置を講じた。まず白頭山一帯の労働者、農民のなかで組織・政治活動をくりひろげて祖国光復会下部組織の結成をおし進め、その一帯に祖国光復会運動の拡大拠点をつくった。こうして1937年には、祖国光復会長白県委員会が結成され、国内の下部組織としては朝鮮民族解放同盟が結成されて、祖国光復会の組織網が全国的な広がりをもつことになった。

 主席は各階層の広範な大衆を祖国解放の旗のもとに結集するため、青年学生、都市小市民、中小商工人、民族主義者、宗教者、それに敵の支配機関で働く良心的な人まで教育して包容した。特に宗教者との活動に特別の関心を払い、天道教の下層信者を対象とする活動を強めるとともに、上層の信者にも革命的な影響を及ぼして信者やその傘下の人々を祖国光復会に広く参加させた。

 主席は、党組織の建設と党創立の準備活動を全国で統一的に指導するため、1936年12月下旬には国内党工作委員会を組織し、1937年2月には白頭山根拠地内の党組織にたいする指導を強化するため長白県党委員会を組織した。同時に、未組織地域には党組織をつくり、また党員の党生活を決定的に強化し、共産主義隊列の思想・意志の統一と団結を強化するよう導いた。特に、党の組織指導体系の確立に深い関心を払い、人民革命軍内のすべての党組織と各地方の党組織が人民革命軍党委員会の統一的な指導のもとに活動する整然とした党組織指導体系を確立した。

 主席のたゆみない指導によって、反日民族統一戦線運動は全国に急速に拡大していった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「祖国光復会は、創立後極めて短い期間に、数多くの反日大衆をその傘下に結集した強力な地下革命組織に、最も広範な大衆的組織に発展した」(『朝鮮共産主義者の任務』1937年11月10日)

 祖国光復会の組織は、わずか数か月間に恵山(ヘサン)、甲山、豊山(プンサン)などの北部朝鮮と平壌などの中部朝鮮、そして南部朝鮮にまで急速に広がり、東満州と南満州、北満州の広範な朝鮮人居住地域にも深く根をおろした。祖国光復会には、労働者、農民をはじめ、各階層の数十万の反日愛国勢力が広く参加し、民族主義者の独立軍も反日民族統一戦線運動に加わった。

 主席の指導のもとに、党組織の建設と党創立の準備活動も全国的に活発に進められた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、既に党創立の組織的・思想的基礎をきずくたたかいをねばりづよく進めて、少なからぬ成果をおさめた。我々は党中央を宣言してはいないが、朝鮮人民革命軍部隊内と国内国外の労働者、農民のなかに党組織と各種の地下革命組織をつくり、これにたいする統一的な指導を保障している」(同上)

 党創立の準備活動が着実に進められた結果、党創立の組織的根幹と思想的基礎、大衆的基盤がかためられた。国内外の各地に多くの党グループと党細胞、党委員会が組織され、朝鮮人民革命軍党委員会がすべての党組織を指導するようになり、民主集中制の原則にもとづく整然とした党の組織指導体系が確立した。その結果、チュチェ型の革命的党創立の準備があらゆる面でととのい、党中央の宣言こそしていなかったがすべての党組織と各種の地下革命組織にたいする主席の唯一的・統一的指導が保障された。

 祖国光復会組織網の急速な拡大と党創立準備活動の進捗は、広範な反日愛国勢力を祖国解放のたたかいへと決起させ、抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般の高揚をもたらす強固な保障となった。

 白頭山根拠地に依拠した朝鮮人民革命軍の軍事・政治活動の強化と反日民族統一戦線運動と党創立準備活動の全国的規模での急速な発展にともない、共産主義者と人民のあいだで金日成主席にたいする深い信頼と敬慕の念は日ましに深まっていった。人民は、主席を「民族の英才」「国を救う不世出の名将」としてたたえ、すべてを主席に託して祖国解放の正義の戦いに立ちあがった。

 主席は、南湖頭会議と東崗会議の方針を貫くたたかいでおさめた成果を踏まえて、大規模な国内進攻作戦を計画した。

 当時、朝鮮の情勢は、朝鮮人民革命軍の大部隊による国内進出を切実に要請していた。日本帝国主義は、朝鮮の植民地支配を強化し、朝鮮人民の些細な反日的要素をも抹殺するため『思想犯保護観察令』など各種の悪法をつくり、高等警察機構をはじめ、ファッショ的支配機構を大々的に増設し無数の愛国的人民を検挙、投獄、虐殺した。また、大陸侵略戦争の準備を完了するため、人民を駆り出して北部朝鮮一帯の軍事施設を大々的に拡張し、朝鮮の豊かな資源や農産物をほしいままに奪っていった。かれらは、「内鮮一体」「同祖同根」などと言って朝鮮人民の民族性まで抹殺しようとした。朝鮮は文字どおり生き地獄と化し、殺伐とした恐怖の雰囲気に包まれ、人民の怨嗟の声が高まっていた。

 朝鮮人民革命軍の大部隊による国内進出はまた、朝鮮革命全般を一大高揚へと導くための、朝鮮革命と武装闘争の要請でもあった。

 人民革命軍の大部隊が国内に進出してこそ、日帝侵略者に手痛い軍事的・政治的打撃を加え、人民に革命勝利の確信をいだかせ、朝鮮革命全般を一大高揚へと導くことができるのであった。

 主席はそうした状況のもとで、1937年3月、西崗で朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部会議を開き、『大部隊の国内進攻作戦によって人民に祖国解放の希望を与えよう』と題する歴史的な演説をおこなった。

 主席はここで大部隊による国内進攻作戦方針を提起した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は、大部隊の国内進攻作戦によって日本帝国主義侵略者に痛撃を加え敵の牙城に火を放ち、人民に朝鮮人民革命軍は健在であり、祖国解放の正義のたたかいで勝利しつづけていることを明白に示すべきであり、人民革命軍が存在するかぎり、朝鮮は必ず独立するということを認識させなくてはなりません」(『大部隊の国内進攻作戦によって人民に祖国解放の希望を与えよう』1937年3月29日)

 この国内進攻作戦方針は、朝鮮人民に祖国解放の希望と勝利の信念を与える革命的な方針であるばかりでなく、日本帝国主義の「討伐」攻勢も撃破し、朝鮮革命の決定的な勝利を早める主動的かつ積極的な方針であった。

 主席は大部隊による国内進攻作戦で勝利をおさめるためには、人民革命軍部隊を3つの方面に分け、主力部隊は鴨緑江を渡って日本帝国主義の国境警備の要衝である恵山方面に進出し、1個の部隊は白頭山を迂回して安図、和竜をへて豆満江沿いの北部国境一帯に進撃し、他の1個部隊は臨江、長白一帯の鴨緑江沿岸に進出しなければならないと指摘した。

 主席は会議後、人民革命軍主力部隊の優秀な隊員で遠征隊を編成し国内進攻作戦の主攻撃方向である恵山方面に進撃した。他の部隊も予定の地域に進出し、敵を果敢に攻撃して国境一帯に集中している敵の兵力を分散させ、国境警備体制に大混乱を起こした。

 豆満江沿岸の茂山地区に進出した人民革命軍部隊の痛撃を受けた敵は、大兵力を集中して包囲攻撃を試みた。部隊は、数十倍の敵と激戦をくりひろげ、その包囲に陥る危険にさらされた。

 茂山(ムサン)方面および臨江、長白一帯の国境対岸に進出した部隊の活動状況と敵の動きを注視していた主席は、予定をくりあげて普天堡(ポチョンボ)に進撃した。遠征隊は、日本帝国主義が「鉄壁」を誇っていた国境警備陣を突破し、1937年6月4日、敵の戦略的要衝の一つである普天堡を攻撃した。人民革命軍は機敏な攻撃を加え、警察官駐在所、面事務所をはじめ、侵略者の支配機関を瞬時に掃討した。隊員たちは、主席が作成した『布告』『祖国光復会十大綱領』を街に張り出し、各種のビラをくばりながら宣伝活動をくりひろげた。

 普天堡の街にとどろいた人民革命軍の銃声とその夜空に燃えさかった革命の炎は、暗雲のもとで苦しみもだえていた人民を無限に励まし勇気づけた。

 街にあふれでた人々は、「金日成将軍万歳!」「朝鮮独立万歳!」を絶叫し、金日成主席に熱狂的な歓呼を送った。

 主席は、歓呼する群衆の前で『祖国の解放をめざして力強くたたかおう』と題する歴史的な演説をおこなった。

 主席は、朝鮮人民にたいする日本帝国主義のファッショ的弾圧と強盗さながらの略奪行為を糾弾し、人民革命軍は復讐の銃剣をさらに力強く握りしめ、必ず祖国を解放するであろうと強調した。そして、各階層すべての人民が正義の反日戦に立ちあがり、万難を排し誠意と熱意の限りを尽くして一致協力し、力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で朝鮮の独立をめざす正義の反日戦に総決起するよう訴えた。

 主席の火を吐くような演説は、人民に民族再興の前途を明るく照らす不滅ののろし、不屈の闘争精神を呼び起こす革命の炎となった。

 朝鮮人民革命軍の国内進出にろうばいした日本帝国主義は、国境特設警備隊をはじめ、多くの警察隊、国境守備隊、かいらい満州国軍部隊を動員して追撃した。

 主席は、追いすがる敵を口隅水山で掃滅し、勝利した人民革命軍の主力部隊を率いてコムイゴルに到着した。

 主席は6月13日、芝陽蓋村で開かれた軍民交歓会で国内進攻戦闘の輝かしい勝利を総括し、抗日武装闘争を発展させる新たな戦闘的課題を示した。

 あいつぐ惨敗をこうむった敵は、朝鮮駐屯第19師団所属の咸興(ハムフン)第74連隊2000余名とかいらい満州国軍500余名の大兵力を出動させ、朝鮮人民革命軍の「掃滅」を豪語して進撃してきた。

 主席は、これを迎え撃つため部隊を間三峰界線に進出させ、6月30日一大せん滅戦を展開して、敵兵1500余名を殺傷し、その「討伐」企図を粉砕した。

 主席は、普天堡戦闘と口隅水山戦闘につぐ間三峰戦闘を勝利に導き、人民革命軍の国内進攻作戦の成果をさらに輝かせた。

 普天堡戦闘を中心とした国内進攻作戦の勝利は、朝鮮人民の反日民族解放闘争史にとって大きな意義のある出来事であった。

 金日成主席は普天堡戦闘の歴史的な意義について、次のように述べている。

 「その意義は何人かの日本人を殺したことにあるのではなく、朝鮮人は死なずに生きており、日本帝国主義と戦えば勝利するという信念をもりたてる革命の曙光を照らしたことにあります。普天堡戦闘は、朝鮮人は日本帝国主義に抵抗する、『内鮮一体』を認めない、日本人と朝鮮人は『同祖同根』でない、朝鮮人は日本帝国主義者に協力して中国を侵略しない、朝鮮人は母国語をすてないであろうし、自分の姓氏を日本の姓氏にかえない、朝鮮人は死なずに生きている、日本帝国主義者に抗して戦えば勝てるということを全世界に宣言しました。これが普天堡戦闘の戦略的意義であります。ここに普天堡戦闘の歴史的意義があるのです」(『両江道党組織の任務』1958年5月11日)

 普天堡戦闘を中心とした国内進攻作戦の勝利は、朝鮮人民に日本帝国主義のファッショ的植民地支配のもとでも朝鮮人が死なずに生きており、侵略者と戦えば勝利するとの確信をいだかせ、反日民族解放闘争を力強く前進させた。

 そして、侵略者に政治的・軍事的痛撃を与えて恐怖に陥れ、その植民地支配体制を大きくゆさぶった。それはまた、人民が侵略者に抗して最後まで戦えば必ず勝利するということを示し、世界の革命的人民の反帝反ファッショ闘争と民族解放闘争を大きく励ました。





inserted by FC2 system