『金日成主席革命活動史』

第3節 白頭山根拠地の創設


 金日成主席は祖国光復会の創立後、白頭山周辺の国境地帯で軍事・政治活動を積極的に展開し、新たな戦略的基地、白頭山根拠地の創設活動をおし進めた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「南湖頭会議以後、我々は武装闘争を国内へ拡大させ、我が国の革命運動を一大高揚へと導くうえで重要な役割を果たす戦略的地帯の確保に大きな力を注いできました」(『大部隊の国内進攻作戦によって人民に祖国解放の希望を与えよう』1937年3月29日)

 主席は東崗会議後、人民革命軍の主力部隊を率いて国境地帯に進出し、白頭山周辺の広い地域で多くの戦闘をおこなった。

 この一帯で軍事・政治活動を積極的に進めることは、敵を軍事的に制圧し、広範な大衆を反日闘争に奮起させて根拠地づくりに有利な条件をつくる極めて重要な問題であった。

 主席は1936年6月と7月に老嶺戦闘、西南岔戦闘、西崗戦闘など多くの戦闘を組織して多数の敵を掃滅し、鴨緑江沿岸に通ずる中心地域を制圧した。ついで8月には撫松一帯の反日部隊と協同して敵の軍事要衝である撫松県城の進攻戦闘を組織し、輝かしい勝利をおさめた。

 この戦闘で金正淑同志は、たぐいない英雄主義と犠牲的精神を発揮して部隊の戦闘と撤収を援護した。

 その後部隊は、鴨緑江沿岸に進出して大徳水戦闘、小徳水戦闘、半截溝戦闘、二十道溝戦闘、二道崗戦闘など多くの戦闘をつぎつぎに展開し、敵に大きな軍事的・政治的打撃を加えた。これらの戦闘は、朝鮮人民革命軍の威力を誇示し、人民と反日部隊の気勢をもりあげ、白頭山周辺の広い地域を掌握して敵の支配機能を麻痺させた。

 主席はこうした軍事活動の成果を踏まえて、白頭山一帯での根拠地づくりをおし進めた。

 まず、主力部隊の多数の隊員が白頭山一帯に派遣されて多くの密営を建設した。それらは、各部隊が自由に移動しながら利用できるよう要所要所にさまざまな形式で建設され、指揮処、兵舎、武器修理所、被服修理所、病院、出版所、連絡所などが設けられた。こうして、白頭山一帯の広い地域には短時日に密営が網の目のように張りめぐらされた。

 また、白頭山周辺のすべての村落で大衆組織・政治活動を活発におこなって、祖国光復会の下部組織を強化し、重要な地域には政治工作員を派遣して革命組織をつくり、その一帯を革命化する措置が講じられた。それとならんで、敵の支配機能を麻痺させ革命活動に有利な状況をつくるため、革命組織のメンバーが敵の支配機関に潜入し、末端支配機関を掌握した。

 こうして撫松、長白地区をはじめ、鴨緑江沿岸の広い地域に党組織、祖国光復会組織、反日青年同盟、婦女会、反日会など多くの革命組織が結成され、その一帯の人民が革命化されていった。

 新設された白頭山根拠地は、大森林地帯の有利な自然地理的条件を利用した密営とその周辺の人民のあいだに深く根をおろした地下革命組織からなる半遊撃区形態の秘密根拠地であり、敵の目には見えない強力な革命の砦であった。

 白頭山根拠地の創設は、朝鮮革命を一大高揚へと導くうえで大きな意義があった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「白頭山根拠地の創設は、我が国の反日民族解放闘争を一大高揚へと引き上げ、武装闘争を国内に拡大するという南湖頭会議の方針を貫徹するうえで画期的な出来事であります。白頭山根拠地が創設された結果、朝鮮人民革命軍はそれにしっかりと依拠して国内深くに入り、軍事・政治活動をさらに強化することができるようになり、人民を大衆的な反日闘争へと力強く立ち上がらせることができるようになりました」(同上)

 白頭山根拠地は、反日民族解放闘争を全国的に拡大するための朝鮮革命の策源地であった。白頭山根拠地の創設は、朝鮮革命全般にたいする金日成主席の統一的で系統的な指導を強化し、全国的に反日民族統一戦線運動と党創立の準備を積極的に進めることを可能にし、抗日武装闘争を中心とする朝鮮革命全般を一大高揚へと導くうえで大きな役割を果たした。白頭山根拠地はまた、国境一帯と国内で抗日武装闘争を強化するための朝鮮人民革命軍の軍事活動の拠点であった。白頭山根拠地は、敵の攻勢が強まっている状況のもとでも、人民革命軍部隊が根拠地の防御にとどまることなく大規模な軍事活動を自由に展開できるようにし、同時に部隊の安全と休息を十分に保障した。それはまた、朝鮮人民革命軍の後方基地でもあった。それらは、人民革命軍の軍事・政治活動に必要な装備と物資を補給し、人民革命軍と人民大衆との連係を強化し、人民革命軍にたいする国内と国境地帯の人民の支援を保障した。

 主席は白頭山根拠地の創設後、それに依拠して国境一帯での武装闘争を急速に拡大した。

 これに脅威を感じた日本帝国主義者は、1936年10月朝鮮総督と関東軍司令官の「図們会議」で、国境警備の強化、兵力の増強による大「討伐作戦」の強行、人民革命軍の孤立をはかる集団部落の大々的な設置などを骨子とする「三大政策」を決定した。

 こうして、国境沿線に警察機関をはじめ、砲と重火器を張りめぐらし、山間部の民家は残らず焼き払って人民を集団部落に移住させた。そして通化に「討伐司令部」を置き、1936年初冬から白頭山一帯の山をくまなく捜索する「すきぐし戦術」を適用して大々的な「冬期討伐」を強行した。

 主席はこれに対処して、敵の攻勢を撃破して白頭山根拠地を強化し、武装闘争を拡大する活動を展開した。

 主席は1936年11月、白頭山密営で朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部会議を開き、敵の「冬期討伐」を撃破するため大部隊と小部隊の活動を密接に組み合わせて主動的に敵を奇襲し掃討する戦術的方針を示した。

 会議後、敵の「冬期討伐」を撃破するたたかいが展開された。

 主席の率いる人民革命軍の主力部隊は1936年11月、コムイゴルのはずれで敵の大部隊を迎え撃って500余名を掃滅し、「冬期討伐」攻勢の出鼻をくじいた。その後、大部隊活動と小部隊活動を巧みに組み合わせて、十四道溝戦闘をはじめ、多くの襲撃戦闘で敵を掃滅した。

 主席のすぐれた遊撃戦術と朝鮮人民革命軍のめざましい軍事活動によって「冬期討伐」に大きなひびが入ると、1937年1月、敵の現地軍首脳は天皇の特使を迎えて「討伐」強化の密議をこらし、白頭山西南部一帯への「討伐」兵力を増強した。

 しかし、主席は独創的な遊撃戦術と巧みな戦法を駆使して、1937年2月に紅頭山戦闘、桃泉里戦闘、鯉明水戦闘など多くの戦闘をつぎつぎに進め、「冬期討伐」攻勢を完全に撃破した。

 それは、主席のすぐれた軍事戦略思想と巧みな遊撃戦術の輝かしい勝利であった。偉大な軍事戦略家である金日成主席は、さまざまな遊撃戦術と戦法を駆使して常に主導権を握り、勝利をもたらした。

 軍事活動とあわせて大衆政治工作にも大きな力が入れられた。

 主席は、人民革命軍の隊員と人民に朝鮮革命の主体的な路線と戦略・戦術、革命闘争の原則と方途を教え、闘志をかきたてるため各種の出版物を刊行した。この時期に『祖国光復会十大綱領』『祖国光復会創立宣言』『朝鮮人民革命軍暫行条例』など主席の著作や多くの革命的な書物が出版された。1936年12月1日、主席の指導によって祖国光復会の機関誌『3.1月刊』が創刊され、つづいて朝鮮人民革命軍の隊内機関紙『曙光』、隊内週間紙『チョンソリ(鐘の音)』が発刊された。

 主席は人民大衆の革命化をはかって、大衆宣伝活動、特に革命的文芸活動を強化する措置をとった。

 主席の執筆した不朽の名作『血の海』『ある自衛団員の運命』などの作品は、人民革命軍隊員ばかりでなく人民大衆を民族的、階級的に覚醒させ革命化する貴重な教科書となった。

 主席は、軍民一致の革命的気風の確立に深い関心を払った。

 主席は「魚が水をはなれては生きていけないように、遊撃隊は人民をはなれては生きていけない」というスローガンのもとに、常に人民を尊重し、その生命と財産を守り、敵にたいしては怒れる獅子のごとく勇猛であり、人民にたいしては羊のごとく従順でなければならないと教え、人民を愛する生きた模範で隊員たちを教育した。

 1936年10月下旬、食糧工作に出向いた隊員が薬水洞の村人から贈られた牛を引いて来たとき、主席は、この牛を手放せば、村人が牛にかわって苦しい力仕事をしなければならないだろう、この場合、いくら人民の好意だからといっても、それに甘んじるべきではない、牛を飼い主に返そうと言った。そして、朝鮮人民革命軍の全部隊に大衆規律を厳守するよう指示文を送り、人民の生命と財産の保護対策を講じた。このことに感動し励まされた人民は、人民革命軍の援護活動に全力を尽くした。

 人民革命軍が、白頭山一帯に進出して活発な軍事・政治活動を展開すると、主席にすべてを託していた人民は喜び勇んで反日民族解放のたたかいに参加し、長白県一帯の愛国青年は先を競って人民革命軍に入隊した。

 長白一帯に兵力を集中した敵の「冬期討伐」攻勢を撃破した主席は、その成果をかためて人民革命軍の力量を強化し、国内進出に有利な状況をつくるために主力部隊を率いて撫松地区に進出した。





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