『金日成主席革命活動史』

第6節 朝鮮革命の主体的立場を堅持。
武装闘争の広大な地域への拡大


 金日成主席は、革命闘争が困難で複雑になるほどチュチェの革命的旗印を高くかかげ、革命隊列を破壊しようとするすべての策動と強くたたかった。

 当時、抗日武装闘争を発展させるうえで、革命勢力にたいする日本帝国主義の破壊・謀略策動とあわせて、排外主義者と分派・事大主義者の分裂主義的策動を粉砕することが緊切な課題となっていた。

 武力によるだけでは朝鮮人民の反日革命闘争を阻止できないと悟った日帝侵略者は、朝中人民を互いに反目させ、革命隊列を内部から切り崩そうと、1932年2月、民族改良主義者や革命の裏切り者を糾合して、反革命的なスパイ団体である「民生団」をつくった。「民生団」は、日本帝国主義占領下での「朝鮮人による間島自治」の反動的スローガンをかかげて、朝鮮人民の反日革命闘争を骨抜きにしようと画策した。しかし、日ならずしてその反革命的な正体が露呈し、革命的大衆から排撃されて同年7月解散した。

 陰険な日本帝国主義は、解散後も「民生団」の組織が革命隊列の内部に根を張っているかのようなデマを流布した。

 政治的眼識に欠け、功名心と出世欲にかられていた排外主義者と分派・事大主義者は、日本帝国主義者の謀略を利用して反革命的な目的を遂げようと、反「民生団」闘争を極左的に進めた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「(略)排外主義者と分派分子は、反『民生団』闘争を極左的に展開し、共産主義者と敵の謀略分子を混同して多くの愛国者を迫害することによって朝鮮革命の発展に甚大な損失をもたらし、反日大衆を少なからず革命から離脱させ、朝中人民間の団結を大きくそこないました」(『反日民族解放闘争を強化発展させるための共産主義者の任務』1936年2月27日)

 排外主義者と分派・事大主義者は、朝鮮共産主義者の民族解放の課題を「民生団」の反動的なスローガンと同一視して、朝鮮共産主義者の民族解放闘争に公然と反対し、朝鮮人を理由もなく疑って排斥し、殺害さえした。

 革命の隊列内には恐怖と不信の雰囲気がかもしだされ、共産主義隊列は内部から破壊される危機に直面した。遊撃隊と人民のあいだに間隔が生じ、人々は革命勝利の信念を失い、動揺しはじめた。

 反「民生団」闘争の極左的偏向によって、朝鮮革命に反対し朝鮮の共産主義者と朝鮮人を排斥する重大事態が発生した。

 これを放置しては、朝鮮共産主義者がその立場を守って主体的革命路線を貫徹することができず、革命隊列の統一と団結を保持し広範な大衆を結集して、朝鮮革命を発展させていくこともできなかった。

 しかし、「民生団」の嫌疑をかけられた人々に同情しただけでも迫害され、生命まで奪われていた当時、この険悪な事態を進んで収拾することはだれにも考えることができなかった。

 朝鮮革命の運命にかかわるこの深刻な問題は、確固とした革命的原則と不屈の意志、犯しがたい権威をそなえた金日成主席によってのみ、解決が可能であった。

 主席は反「民生団」闘争の初期に、はやくも排外主義者と分派・事大主義者の反革命的な策動を見ぬき、反「民生団」闘争で堅持すべき原則と方途を示すとともに、断固としてそれを貫いてきた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「反『民生団』闘争は、敵を徹底的に孤立させ、革命隊列の統一と団結を強化し、広範な大衆を革命の側にかたく結集する方向でおこなわなければなりません」(『遊撃区を解散して広大な地域に進出することについて』1935年3月27日)

 主席はまず、反「民生団」闘争は、あくまでも革命隊列の統一と団結を強化することを原則にして進めること、そのためには「民生団」の嫌疑をかけられた人々を軽率に処理せず、十分な根拠と確実な資料にもとづいて慎重に処理すべきであると強調した。

 また反「民生団」闘争は、反日的な要素のある人をすべて結集し革命勢力を拡大する方向で進め、民族主義運動や過去の共産主義運動に参加したからというそれだけの理由で「民生団」のレッテルを張ってはならず、革命闘争に参加した人であればすべて革命隊列に結集してともにたたかうべきであり、ごく少数の悪質な「民生団」分子は処断し、自覚不足で「民生団」にひきずりこまれた人々は再教育して革命の側に立たせなければならないと指摘した。そして、反「民生団」闘争で重要な問題は、これを実践闘争と密接に結びつけておこない、「民生団」事件を何人かの独断によってではなく広範な大衆の意思に従って処理し、先入観をもたずに実際の活動を通じて人々を点検すべきであると述べた。また、反「民生団」闘争の極左的偏向を克服するたたかいを、反分派闘争と密接に結びつけておこなうべきであると強調した。

 主席は、このように反「民生団」闘争の原則と方途を示したばかりでなく、直接多くの「民生団」事件を解明して無実の罪に苦しむ多くの人々を救い、この過程で反「民生団」闘争における排外主義者と分派・事大主義者の策動を暴露し、事態を収拾していった。

 反「民生団」闘争の極左的偏向が克服され、不当な嫌疑がかけられた人たちの問題が正しく解決されると、排外主義者と分派・事大主義者はそれ以上、犯罪的な策動をつづけることができなかった。しかし、1934年10月主席が北満州遠征に向かうと、かれらは再び公然と反革命的策動を強行した。かれらは、東満州の各県に「反動派粛清工作委員会」をつくり、各自「粛清工作」の成果を競って朝鮮の共産主義者や革命的大衆を「民生団員」に仕立てておびやかし、殺害した。

 革命勢力はまたしても大きな損失をこうむり、不安と恐怖の雰囲気が遊撃区を包んだ。絶望した人々は、ひたすら主席の帰りを待ちわびた。

 北満州遠征から戻った主席は健康を害していたが、排外主義者とそれに追随する分派・事大主義者の犯罪的策動を粉砕する断固とした措置をとった。

 主席は1935年2月、大荒崴で開かれた党・共青幹部会議で、かれらに決定的な打撃を加えた。

 主席は朝鮮革命の主体的立場を擁護し、民族解放をめざす朝鮮共産主義者の革命的なスローガンと「民生団」の反動的スローガンを同一視して朝鮮人民の民族解放運動に反対する排外主義者の罪過を糾弾した。そして、朝鮮の共産主義者と人民が、自己の革命路線に従って朝鮮革命に責任を負い、民族解放のためにたたかうのは、なんぴとも侵しえない神聖な権利であり、朝鮮人民の崇高な民族的任務であるとともに国際主義的任務であると強調し、朝鮮人を理由もなく「民生団」扱いにし、革命隊列から除こうとする排外主義者の策動を暴露した。

 主席は、東満州で活動する朝鮮の革命家の80〜90%が「民生団員」ないしその「関係者」とする排外主義者の不当な主張を論駁し、それが事実ならば武装闘争をはじめ、この地域の革命運動全般が既に挫折し、遊撃根拠地も存在しないはずである、無原則な排外主義に陥れば敵と味方を識別することも、敵の破壊策動を見破ることもできず、ついには革命を挫折させることになると糾弾した。幹部問題にかんする偏狭な排外主義的見解にも痛撃を加え、幹部の評価は民族にかかわりなく、革命にたいする忠実さ、政治的・思想的準備程度、実務能力を基準とすべきであると強調した。

 主席は大荒崴会議につづいて3月27日、腰営口における朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議で、排外主義者と分派・事大主義者の反革命的策動を重ねて糾弾し、具体的な収拾策を示した。

 主席は両会議ののち、反「民生団」闘争の極左的偏向による弊害をのぞくたたかいを指導した。

 主席は、人民大衆に排外主義者と分派・事大主義者の反革命的行為の全容を知らせ、かれらが朝鮮革命の主体的路線と方針を体得するよう政治工作を強化する一方、有能な政治工作員を人民革命軍各部隊と豆満江沿岸の各遊撃区に派遣して、反「民生団」闘争の極左的偏向を克服していった。

 1935年3月、主席は延吉県の三道湾遊撃区をはじめ、各地の遊撃区をめぐって、具体的な指導をおこなった。三道湾遊撃区では、不屈の共産主義革命闘士金正淑同志をはじめ、書記処員たちに、反「民生団」闘争の原則と方法を詳しく教えた。民族の太陽と敬慕してやまなかった主席と会い、闘争と生活の指針となる教えを受けた金正淑同志は、決然として、排外主義者、分派・事大主義者とたたかい、朝鮮革命の主体的路線を守りぬいた。

 革命隊列を内部から切り崩そうとした日本帝国主義者と、反「民生団」闘争を極左的に進めた排外主義者および分派・事大主義者の反革命的策動が粉砕され、その弊害が除かれた結果、朝鮮革命は危機を克服し、反日民族解放運動はチュチェの旗のもとに新たな勝利に向けて前進することになった。朝鮮人民はこの厳しいたたかいを通じて、主席への敬慕の念を深め、そのまわりにかたく団結して、革命の勝利に向けて力強く進んでいった。

 主席は先の腰営口会議で、朝鮮革命の一大高揚を期して『遊撃区を解散して広大な地域に進出することについて』と題する歴史的な演説をおこない、遊撃区の解散とより積極的かつ主動的な攻勢への移行にかんする方針を示した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「こんにち我々には、既に得た貴重な成果と経験にもとづいて革命闘争をさらに発展させるべき緊急な任務が提起されています。この任務は我々に、制限された地域の遊撃区を離れてより広大な地域へと進出し、大規模な遊撃戦を展開することを求めています」(同上)

 遊撃区を解散して広大な地域へ進出することは、抗日武装闘争を発展させる合法則的な要請であった。

 朝鮮人民革命軍は、遊撃区に依拠して4、5年間苦難のたたかいを展開する過程で政治的、思想的に鍛えられ、豊かな戦闘経験を積み、大規模な根拠地防衛戦や城市攻撃作戦までおこなう強力な部隊に成長した。そして、革命闘争のなかで多くの青年共産主義者が育成され、セクト主義と極左日和見主義を克服する闘争を通じて革命隊列の統一と団結が強化された。各階層の広範な大衆を革命の側に結集することによって、武装闘争と党創立の大衆的基盤がきずかれ、中国人民との反日共同戦線も実現した。

 こうした状況のもとで、朝鮮人民革命軍部隊は、限られた地域である遊撃区にいつまでも踏みとどまるべきでなく、広大な地域へ進出して大規模な遊撃戦を展開することによってのみ、日帝侵略者により大きな政治的・軍事的打撃を加え、反日民族解放闘争を発展させることが可能であった。

 遊撃区を解散して広大な地域へ進出することは、情勢の要請でもあった。

 当時、日帝侵略軍は、精鋭武力を大々的に投入して遊撃区を二重、三重に包囲し、連日狂気のように「討伐」作戦をくりひろげ、さまざまな悪宣伝と「帰順工作」によって、人民革命軍と人民のつながりを断ち切ろうと躍起になっていた。

 こうした情勢のもとで固定した遊撃区の防衛にのみ没頭するならば、多年にわたって育成した革命勢力を失い、戦闘で守勢に陥る恐れがあった。

 遊撃区の解散と広大な地域への進出方針は、当時の状況のもとで抗日武装闘争をより高い段階に発展させる唯一の正しい方針であった。

 主席は会議で、遊撃区の解散は革命における退却、逃避を意味するとして「遊撃区死守」を固執した一部の見解について、それは一見革命的なようであるが、実際には座して死を待つにひとしい無謀な行為であり、革命の要請を無視した誤った見解であると辛辣に批判し、新たな戦略的方針を実行するうえでの課題を明らかにした。

 主席は腰営口会議後、遊撃区の解散を指導した。

 解散に先立ち、各遊撃区では軍民連合大会を開き、思想動員をおこなった。主席は、1935年4月に開かれた腰営口軍民連合大会に参加して遊撃区解散の目的と意義を説明し、住民が解散後、敵区に移住する手順やそこでおこなうべき闘争の方向を示した。そして、かれらの移住地を指定し、安定した生活が営めるよう対策を講じた。

 主席はまた、青年義勇軍、反日自衛隊などの半軍事組織と革命組織の多くの青壮年で人民革命軍部隊を拡大する一方、敵区における地下活動を強化するため、遊撃隊と遊撃区内の革命組織で鍛えられた活動家を国内と満州の各地に派遣した。

 主席は多忙ななかにも、敵区へ向かう住民の生活に深い配慮をめぐらし、遊撃区周辺の敵を掃討して、かれらが安全に目的地へ行けるようにした。

 遊撃区の解散は順調にはかどり、自己の使命を果たした豆満江沿岸遊撃区は、発展的に解散した。

 主席はその後、朝鮮人民革命軍を豆満江沿岸と南満州、北部朝鮮一帯に進出させて積極的な攻勢をとった。

 北満州で活動中の武装部隊を助け、当地の人民に革命的影響を与える目的で、主席は同年6月下旬、人民革命軍主力部隊を率いて再び北満州遠征の途についた。

 主席は、これに先立ち同月中旬、老黒山一帯の村落を略奪し人民を虐殺していた悪質な「靖安軍」を掃討した。老黒山戦闘の勝利は、朝鮮人民革命軍の威力を示し、広大な地域へ進出する革命軍隊員の士気を奮い立たせた。

 戦闘後、険しい老爺嶺を越えた人民革命軍は、広大な北満州各地を遊動しながら、山東屯、青溝子、柳莱溝戦闘など多くの戦闘をおこない、敵に痛打を加えた。

 同時に政治工作を活発に進め、広範な大衆に革命的影響を与えて反日闘争に立ちあがらせた。

 主席は常に、隊員たちに人民の財産を愛護するよう教えた。1936年1月中旬官地付近に駐屯していたさいは、貧しい村民の暮しに思いをいたし、部隊を黄泥河子の深い森に移して旧の正月を迎えた。

 主席はまた、主力部隊の優秀な指揮官と隊員を北満州の各遊撃部隊に送って政治的、軍事的に補強し、北満州一帯での武装闘争の高揚をもたらした。

 主席の卓越した戦略・戦術的方針にそって北部朝鮮と豆満江沿岸、南満州に進出した各部隊も、活発な政治・軍事活動をくりひろげた。このように、人民革命軍が広大な地域へ進出して軍事・政治活動を活発に進めた結果、抗日武装闘争を中心とする朝鮮反日民族解放運動は高揚の一路をたどった。         





inserted by FC2 system