『金日成主席革命活動史』

第5節 遊撃区防衛戦。反日連合戦線の実現


 金日成主席の指導によって反日人民遊撃隊および遊撃区が強化され、その影響力が強まっていくことに狼狽した日帝侵略者は、1933年に入って遊撃隊と遊撃区の掃滅に乗り出した。特に、かれらは遊撃根拠地を「東洋平和のがん」だと言って恐れ、揺籃期におしつぶそうと必死になった。

 1933年1月、朝鮮占領軍間島派遣隊、独立守備隊、憲兵隊、警察、かいらい満州国軍警など膨大な兵力が、遊撃区の全面的な「焦土化作戦」に出動するかたわら遊撃区を封鎖し、それを内部から切り崩そうと密偵や破壊・謀略分子が間断なく送りこまれた。

 日本帝国主義の策動を粉砕し、豆満江沿岸の遊撃根拠地を防衛することは緊要な戦略的課題として提起された。遊撃区を守りぬいてこそ、朝鮮革命の主体的な力量を強化し、遊撃区を拠点とする抗日武装闘争を拡大し、ひいては朝鮮の革命を全般的に発展させることができるのであった。

 主席は、こうした情勢と革命の要請を見きわめて遊撃区を防衛する方針を示し、そのたたかいを勝利に導いた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「遊撃区域では、遊撃隊を政治的、軍事的に成長させるだけでなく、赤衛隊、少年先鋒隊などの半軍事組織を拡大し、全人民を武装させて遊撃根拠地を防衛するようにしなければなりません」(『日本帝国主義に反対する武装闘争を組織し展開することについて』1931年12月16日)

 この方針は、抗日革命戦争の全人民的性格と遊撃戦の必然的要求を全面的に反映した独創的な方針であり、自力で敵の侵攻を退け遊撃区を守る最も革命的な方針であった。

 主席は、なによりも反日人民遊撃隊の強化に大きな力を傾けた。

 事実、遊撃区の防衛はもちろん武装闘争の発展も、常備武力であり遊撃区防衛の中核勢力である人民遊撃隊の強化いかんにかかっていた。

 こうして、遊撃区の半軍事組織と革命組織で鍛えられた中核分子や実践のなかで点検された敵の支配区域の青年が、大々的に遊撃隊に入隊した。その場合、特に労働者の比重を高め、貧農と雇農、先進的な愛国青年を広く入隊させて、遊撃部隊の階級的性格を強めた。そして、遊撃隊員の政治思想教育と組織生活を強化し、隊列の思想・意志の統一と団結をかためた。遊撃部隊は短時日で量、質ともにめざましい成長を遂げた。

 遊撃隊を軍事・技術的に強化することにも力が入れられた。

 主席は、反日人民遊撃隊の創建と多くの戦闘で得た貴重な経験を生かして、独創的に遊撃戦の一般原則と戦略・戦術、戦法を編み出し、『遊撃隊動作』『遊撃隊常識』などの著作をとおしてそれを全面的に体系づけた。そこで主席は、遊撃戦の本質と特性を解明し、自己の力量を不断に増大させ、それを最大限に保持しながら、敵を間断なく掃滅し弱体化させることが遊撃戦の基本原則であると規定した。そして、戦闘では常に主導権を掌握して敏活に行動すべきであり、敵が兵力を集中して攻勢をとるときは味方の兵力を分散して随所で敵をたたき、敵が兵力を分散すれば味方の兵力を集中して各個撃破し、大軍との戦闘を避け、敵の弱点を利用して打撃を加え、勝ち目のある戦闘だけを進めることが遊撃戦の重要な戦術的原則であると教えた。また、遊撃戦の重要な戦術的方途は、隠密、迅速、果敢な奇襲によって速戦即決し、襲撃、伏兵、誘導などさまざまな戦闘形態と戦法を駆使して、敵を守勢に陥れ痛撃することであると指摘した。

 遊撃戦のこの独創的な戦略・戦術および戦法は、遊撃隊の戦術教範として、抗日武装闘争の全期間にわたって大きな生命力を発揮した。

 軍事装備の強化にも力が入れられ、主席の措置によって、遊撃隊は多くの戦闘で敵の武器を奪う一方、遊撃区に武器製作所と修理所を設けて手榴弾をはじめ、各種の武器を生産した。これとともに、部隊内に整然とした供給体系が樹立し、給養係は自力更生の革命精神を発揮して食糧、被服などの給養物資を解決した。

 こうして、反日人民遊撃隊は短時日で、数量や技術のうえではるかに優勢な敵を撃破しうる不敗の革命武力に成長した。

 主席は、遊撃区の全人民を武装させ、遊撃区を要塞化する活動も強くおし進めた。

 全人民が武装し、各所に強固な防衛施設をきずくのは、数量上、技術上優勢な敵の「討伐」攻勢を撃破して遊撃区を守る基本的条件の一つであった。

 主席の措置によって、遊撃区の全人民が反日自衛隊、少年先鋒隊、青年義勇軍などの半軍事組織に参加し、遊撃隊の有能な指揮官や隊員がその訓練にあたった。かれらは、あらゆる可能な条件を利用して、根拠地の防衛に必要な武器を自力でととのえた。全人民的防衛体制を確立するため、遊撃区の各所に塹壕や射撃壕、交通壕をつくり、有利な地帯に多くの防衛構築物を設けるとともに、不時の状況にただちに対処しうる全人民的監視・警戒体系と非常動員体系、待避対策などをととのえた。

 こうして遊撃区は、日帝侵略軍のいかなる「討伐」攻勢も粉砕できる鉄壁の要塞、革命の砦となった。

 主席は、反日人民遊撃隊の戦闘力と全人民的防衛体制に依拠して、敵の「討伐」を撃破するたたかいを指導した。

 東満州に膨大な兵力を集結した日帝侵略軍は、朝鮮革命の司令部が位置している小汪清遊撃区に攻撃のほこ先を向け、1933年4月中旬、砲と軍用機の援護のもとに1500余の兵力で進撃してきた。

 防御陣地に依拠した遊撃隊は、緒戦から主導権を握って敵に痛打を浴びせ、いたるところで敏活な誘導戦、伏兵戦、襲撃戦をくりひろげて敵を完全に守勢に陥れた。

 英雄的な遊撃区防衛者たちの強力な反撃に侵略軍は400余の死者を出して敗走した。

 小汪清遊撃区の勝利に励まされて、延吉、和竜、琿春一帯の遊撃区防衛者たちも、比類のない敢闘精神と集団的英雄主義を発揮して敵を撃退した。

 敵の「討伐」を撃破したのち、主席は軍事活動の範囲を広げて、双河鎮をはじめ、敵の軍事拠点や城市を攻撃し、軍用物資の輸送を破綻させるなど多くの戦闘を指揮した。

 日帝侵略軍は「春期討伐」の惨敗を挽回しようと、1933〜34年の冬、再び大々的な「討伐」攻勢を展開した。かれらは、小汪清遊撃区に5000余の「精鋭兵力」と航空隊を投入し、延吉、和竜、琿春地区の各遊撃区にも大兵力を送りこんだ。

 主席は、敵がいかに多くの兵力と近代的技術機材で攻撃してきても、有利な自然条件と防衛施設を活用し多様な遊撃戦法を駆使して戦うならば、敵を守勢に追いこむことができると強調し、遊撃隊員と人民を遊撃区防衛戦に奮起させた。

 遊撃隊と遊撃区の青壮年はもとより婦人や老人、子供までが、主席のまわりに一枚岩となって勇敢に戦った。1か月余に渡る激戦で敵は相つぐ惨敗をこうむったにもかかわらず、数に物をいわせてなんとしても小汪清遊撃区を掃滅しようと新手の兵力をくり出した。

 遊撃区の事情は困難をきわめた。負傷者は増え、銃と弾薬、食糧が欠乏し、酷寒に身を暖める家さえ少なかった。こうした状況のもとで、いつまでも敵と正面から戦うならば、重大な事態をまねきかねなかった。

 主席は、大胆な作戦をもって戦局の転換をはかった。遊撃区の「討伐」に全力をあげている敵の最大の弱点が後方にあることを見ぬき、遊撃区防衛戦と並行して、敵の背後攪乱作戦を展開しようとしたのであった。

 この攪乱作戦は、遊撃区に集中した敵の兵力を分散させて守勢に陥れ、「討伐」作戦を粉砕するすぐれた戦術的方針であり、また、長期戦に必要な物資を補充するとともに、敵区人民に大きな革命的影響を及ぼしてかれらを反日闘争に立ちあがらせるきわめて積極的な方針であった。

 主席は、小汪清遊撃区の一部隊を率いて、敵後方の涼水泉子一帯に進出し、日本帝国主義の警察と自衛団、敵の輸送隊を掃討し、転じて新南区、北鳳梧洞、寺洞トンゴルの敵を撃滅した。

 敵が大混乱に陥っているとき、延吉、琿春、和竜地区の遊撃部隊にも敵の背後を攪乱するよう命じた主席は、再び「討伐」拠点の一つである汪清市街攻撃戦闘を指揮して敵に強力な打撃を加えた。

 戦局に根本的な変化が生じた。「討伐」作戦で気力を使い果たし、後方の安全まで脅かされた敵は、「討伐」兵力を撤収しないわけにいかなかった。

 主席の巧みな攪乱作戦によって、敵の「冬期討伐」攻勢は完全に失敗し、約90日間にわたる遊撃隊と遊撃区人民の防衛戦闘は勝利に終わった。

 遊撃区を守って戦った1933〜34年の冬期軍事活動は、主席の独創的な遊撃戦術の威力と全人民的防衛体制の生命力を示した。それは、遊撃隊を不敗の革命武力に強化し、すぐれた戦略・戦術を用い、遊撃区の全人民を武装させ、遊撃区を要塞化して戦えば、帝国主義侵略軍のいかなる攻勢も独力で十分に撃破しうることを実証した。

 主席は、遊撃隊が苦難の闘争を通じて無敵の革命軍隊に成長した状況のもとで軍事活動を積極化するため、1934年3月軍事組織体系を改編し、反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改組した。これによって部隊は、師団、連隊、中隊、小隊、分隊の体系をもち、全遊撃部隊にたいする統一的指揮を強化しうる組織体系が確立した。同時に、政治委員制を実施して隊内の政治工作を統一的に指導することになった。また、朝鮮人民革命軍党委員会が組織されて、すべての党組織を指導する整然とした党組織指導体系が確立した。

 主席は人民革命軍の編成後、武装闘争を積極的に展開した。

 1934年の春、日帝侵略軍はまたも遊撃区の周辺に大兵力を投入して、「囲攻」作戦を試みた。この作戦は、遊撃区を包囲して徐々に切り取っていく「歩々占領の保塁戦術」に集団部落の設置と「保甲制度」による政治的・経済的封鎖を組み合わせる悪質な「討伐」作戦であった。

 主席は「囲攻」作戦を撃破するため、同年3月中旬司令部を腰営口遊撃区に移し、人民革命軍の春期攻勢を組織した。それは、兵力が遊撃区の周囲に分散している敵の弱点をとらえ、集中した力量でその軍事拠点と集団部落を各個撃破する主動的な方針のもとに進められた。

 主席は、人民革命軍の一部隊を率いて春期攻勢の勝利につながる天橋嶺戦闘、転角楼戦闘、百草溝戦闘など多くの戦闘を指揮した。特に、転角楼戦闘では呼びかけ工作でかいらい満州国軍部隊を切り崩し、日本軍守備隊に攻撃を集中して、これを全滅した。人民革命軍の他の部隊も、南蛤螞塘をはじめ、敵の軍事拠点や集団部落を次々と攻撃した。

 朝鮮人民革命軍の強力な春期攻勢によって、「囲攻」作戦の出鼻をくじかれた日本帝国主義は、夏に入ると遊撃区への全補給路を遮断し、包囲兵力を増強した。

 主席はこれに対応して、6月〜8月に夏期攻勢を展開し、「討伐」を本格化しようとする敵の機先を制して、汪清県の羅子溝、大興溝、肇廟台にたいする攻撃戦闘を指揮する一方、安図県にも部隊を派遣して大甸子戦闘をはじめ、多くの戦闘をくりひろげ、「囲攻」作戦に大きな打撃を与えた。

 1934年夏の軍事作戦に失敗した敵は、9月からは「長期特別治安工作」の名のもとに、かつてない規模の政治的・軍事的攻勢を強行した。

 主席は敵の新たな攻勢にそなえて、人民革命軍を敵中深く進出させ、再び背後攪乱作戦を猛烈に展開した。そして、10月下旬には一部隊を率いて北満州に遠征し、いたるところで敵に痛打を浴びせた。特に翌年の初めからは、「囲攻」作戦粉砕の決め手となった天橋嶺戦闘、塘水河子戦間など多くの軍事作戦を相ついで展開した。同時に積極的な敵軍切り崩し工作で、大荒溝駐屯かいらい満州国軍1個中隊を獲得するなど敵陣に大混乱を引き起こした。こうして、侵略軍の戦闘力は著しく弱化し、ついに「囲攻」作戦は総崩れとなって、武装闘争を広大な地域へ拡大する基盤がきずかれた。

 主席は遊撃区防衛戦を勝利に導く一方、反日部隊との連合戦線の全面的実現に努めた。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「中国人反日部隊は朝中人民の共通の敵日本帝国主義に反対し、我々とともに戦うことのできる武装力です。反日部隊は少なからぬ武装力をもち、満州の広大な地域をしめて軍事活動を展開しています。それゆえ、人民遊撃隊が中国人反日部隊との連合戦線を形成することは、日本帝国主義侵略勢力を孤立、弱体化させ、反日武装力が確固たる優勢を保つうえで大きな意義をもちます」(『反日人民遊撃隊の創建に際して』1932年4月25日)

 日本帝国主義に反対して抗日遊撃隊と共同闘争を進めてきた反日部隊の上層部は、1933年に入って、再び日本帝国主義の陰険な民族離間策と排外主義者および分派・事大主義者の反革命的策動に乗せられて朝鮮共産主義者を敵視し、別働隊で活動していた遊撃隊員を虐殺する惨事を引き起こした。

 同年5月、汪清で開かれた革命組織責任者および遊撃隊指揮官会議で反日部隊との連合戦線を強化する強力な対策を講じた主席は、6月、一身の危険をかえりみず羅子溝の反日部隊司令呉養成と談判をおこなった。主席の整然とした論理と強い説得力、大きな度量と包容力に驚嘆した呉養成は、反日連合戦線の形成に同意した。

 主席の努力によって反日部隊との連合戦線は強化され、朝中人民の離間を企んだ日本帝国主義の陰謀は破れた。

 主席は談判後、反日部隊にたいする工作を幅広くおこなうため、多くの政治工作員を派遣して反日部隊が抗日救国の旗を守って戦うよう励ますとともに、反日部隊との連係を保つ常設機関として反日部隊連合弁事処を設け、その活動を強化した。

 不屈の共産主義革命闘士金哲柱(キムチョルジュ)同志は、安図地区救国軍部隊を訪れて連合戦線形成に成功し、また、理路整然とした説得と闊達な包容力、老練な活動方法によって共産主義者にたいする頑迷な偏見にとらわれていた延吉県一帯の反日部隊平日軍の上層部と手を取った。

 主席は反日連合戦線の強化をめざして、1933年9月東寧県城戦闘を組織した。この戦闘では、遊撃隊が終始陣頭で勇敢に戦い、危地に陥った反日部隊の史旅長を救って、反日部隊の兵士に大きな影響を及ぼした。かれらは、主席への敬慕を深め、朝鮮共産主義者にたいする認識を新たにした。

 敵の重要な軍事拠点の一つであった東寧県城を攻略する大連合作戦は、主席のすぐれた指揮によって勝利をおさめた。これは、反日連合戦線の正しさと生命力を誇示し、連合戦線を発展させる決定的な転機となった。

 主席はその後も、敵の重要拠点にたいする大規模な戦闘に極力反日部隊を引き入れて、反日連合戦線の強化に努めた。

 反日連合戦線の全面的な実現は、日帝侵略者に手痛い政治的・軍事的打撃を与え、抗日武装闘争の発展を促した。





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