『金日成主席革命活動史』

第2節 反日人民遊撃隊の創建


 金日成主席は明月溝会議後、抗日武装闘争の基本的力量である反日人民遊撃隊の創建に全力を傾けた。

 国家的後方も民族軍隊の基盤もなく、外部の支援を受けることもできず、全国土が日本帝国主義の圧制と厳しい弾圧下にあった当時、強大な日本帝国主義侵略軍に対抗しうる常備的な革命武力をととのえることは、容易なことでなかった。

 主席は、不退転の意志と非凡な展開力によってあらゆる難関を乗り越え、反日人民遊撃隊の創建を積極的におし進めた。

 ここで武装部隊の組織に第一義的意義を認めた主席は、朝鮮革命軍のメンバーと青年共産主義者に一連の課題を与えて、豆満江沿岸の広い地域に派遣する一方、反日人民遊撃隊の創建を統一的に指導するため、自然地理的条件の有利な安図に移った。そして、朝鮮革命軍と革命組織で鍛えられた青年共産主義者を武装部隊の中核に育成するとともに、先進的な労働者、農民、愛国青年によって赤衛隊、労働者糾察隊、少年先鋒隊などの半軍事組織を拡大していった。

 武装部隊の中核が育成されるにつれて、興隆村、小沙河、大沙河、柳樹河など安図各地に小規模の武装部隊である遊撃隊グループが結成され、つづいて汪清、延吉、和竜、琿春その他、豆満江沿岸の各地でも広く遊撃隊グループが結成された。

 主席は武装部隊の組織とあわせて、武装をととのえるために敵の武器を奪い、自力で武器をつくる活動を指導した。武装部隊と革命組織のメンバーは、いたるところで日帝侵略軍や日満警察、悪質な地主の武器を奪う一方、知恵を集めて各種の武器をつくった。

 主席は、武装闘争の大衆的基盤をきずくため、農村の革命化に大きな力を入れた。

 1932年の初め、主席は同志たちがその身辺を気づかって引き止めたにもかかわらず、「下男」を装って富爾河近くの一農村に入り、かずかずの労苦に耐えながら巧みに大衆工作を進め、1か月余で全村の革命化に成功した。各地に派遣された政治工作員もそれにならって、豆満江流域の多くの農村に、武装闘争を支える大衆的基盤を短時日できずいた。

 こうした成果にもとづいて同年春、東満州の各地で再び大規模な春慌闘争(春の端境期の食糧闘争)が組織された。

 10余万の農民が参加し、日帝侵略者と反動地主に大きな打撃を与えた春慌闘争を通じて遊撃隊グループと革命組織は大きく鍛えられ、闘争のなかで点検された多くの労働者、農民、愛国青年が武装部隊に入隊した結果、武装闘争の大衆的な基盤が強化され、反日人民遊撃隊の創建は急速な進展を見せた。

 主席は、中国人反日部隊との連合戦線の実現にも深い注意を払った。

 当時、日本帝国主義の満州占領に抵抗して抗日の旗をかかげた中国人反日部隊は、満州の広大な地域を占めていたが、日本帝国主義とのたたかいで動揺し、敵の悪宣伝と民族離間策に乗って朝鮮人特に朝鮮共産主義者と見れば容赦なく殺害した。中国人反日部隊の敵対行為を阻止し、連合戦線を形成することは反日人民遊撃隊を組織し武装闘争を展開するうえでゆるがせにできない問題であった。

 主席は、1932年4月安図県小沙河で革命組織責任者の会議を開き、反日人民遊撃隊の創建を促進し、中国人反日部隊との反日連合戦線を実現する問題について強力な対策を講じた。

 主席は、反日人民遊撃隊の創建にあたっては、まず反日部隊に働きかけて敵対行為を中止させ、反日連合戦線を実現すべきである、そのためには、別働隊を組織して反日部隊の兵士にたいする政治工作をおし進める一方、その上層部と談判をおこなうべきであると力説した。

 同月主席は、危険をおして安図の反日部隊を訪ね、司令と会談をおこなった。そして、共産主義にたいする根強い偏見と民族排外主義にとらわれていた頑迷な司令を、公明正大な主張と整然たる論理で説得して、反日共同闘争に同意させた。

 主席は、ついで中国人反日部隊との連合戦線を強化するため反日部隊に別働隊と反日兵士委員会を設けた。主席のすぐれた指導と不眠不休の活動によって、反日人民遊撃隊を創建し武装闘争を展開する準備が完了した。

 主席はついに1932年4月25日、安図で反日人民遊撃隊を結成し、その創建を宣言した。

 主席は、創建式で『反日人民遊撃隊の創建に際して』という歴史的な演説をおこない、まず反日人民遊撃隊の性格と使命を明らかにした。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「反日人民遊撃隊は、日本帝国主義者とその手先に反対し、祖国と人民を愛する労働者、農民および愛国青年で組織された、真に人民の利益を守る革命的武力であります。

 人民遊撃隊の目的と使命は、朝鮮で日本帝国主義の植民地支配をくつがえし、朝鮮人民の民族的独立と社会的解放を達成することです」(『反日人民遊撃隊の創建に際して』1932年4月25日)

 反日人民遊撃隊は、不滅のチュチェ思想を不動の指導指針とするチュチェ型の革命軍隊であった。それは、先進的な労働者、農民、愛国青年で組織され、人民の利益を守って戦う人民の軍隊であり、さらには、あらゆる階級的抑圧と搾取の一掃と社会主義・共産主義の建設を目的とする革命武力であった。また、武器を取って日本帝国主義と戦う戦闘部隊であるとともに、人民大衆を教育して革命闘争に呼び起こす政治的軍隊であり、「全世界の労働者団結せよ!」の戦闘的スローガンをかかげて、朝鮮革命のみならず世界革命の勝利をめざして戦うプロレタリア国際主義的革命軍隊であった。

 主席は演説で、抗日武装闘争を本格的に進める課題を示した。

 それは第1に、反日人民遊撃隊を強化してすべての指揮官と隊員が革命にたいする無限の忠実性と革命軍隊としての高い政治的・道徳的品性を身につけ、実践のなかで点検された先進的愛国青年で遊撃部隊を拡大し、装備をたえず強化するとともに、敏活な遊撃戦術を習得することであった。

 第2に遊撃区を創設する問題が強調され、さしあたっては、豆満江沿岸の北部朝鮮と東満州に遊撃区を設け、しだいにそれを拡大して鴨緑江沿岸と南満州一帯などでも遊撃闘争を展開し、国内革命組織との緊密な連係のもとに、革命根拠地を国内に接近させることであった。

 第3に、中国人民との反日統一戦線をはかって、多くの別働隊を組織し、反日兵士委員会を強化して反日兵士にたいする工作を重要な大衆的運動としてくりひろげ、中国人反日部隊との連合戦線を形成することであった。

 最後に、人民遊撃隊は大衆工作に力を入れて、人民大衆とのつながりを強め、その積極的な支援のもとに戦うべきであることが強調された。

 主席の歴史的な演説は、反日人民遊撃隊を強化し、抗日武装闘争を本格的に展開するうえで提起される諸問題を全面的に解明した綱領的な文書であり、反日民族解放闘争で堅持すべき指導指針であった。

 反日人民遊撃隊の創建は、朝鮮人民の革命闘争に画期をなす歴史的な出来事であった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「我々は反日人民遊撃隊の創建によって、朝鮮の反日民族解放運動の主流である武装闘争を担当し導く原動力をもつことになり、日本帝国主義侵略者に決定的な打撃を加え、我が国の反日民族解放闘争をより高い段階へ発展させうるようになりました」(同上)

 反日人民遊撃隊の創建によって、朝鮮人民は自主性をめざす革命闘争ではじめて日帝侵略軍を撃破しうる革命武力、自己の真の軍隊をもちたいという念願を実現した。その結果、反日民族解放運動の主流である武装闘争の原動力がつくられ、同時に党創立の準備活動と反日民族統一戦線運動など朝鮮革命全般を促進することが可能になった。

 主席は反日人民遊撃隊の創建後、遊撃部隊を不抜の革命武力に強化していった。まず、すぐれた隊員が満州の各地に派遣されて遊撃部隊を組み、多くの愛国青年を入隊させた。こうして汪清、延吉、和竜、琿春などで遊撃部隊が編成されたが、南満州や北満州でも主席の抗日武装闘争路線を支持して遊撃部隊が結成された。

 主席は、武装部隊を拡大し広範な反日勢力を抗日武装闘争に引き入れるため、1932年5月、小沙河で反日人民遊撃隊幹部会議を開き、遊撃区を速やかに設ける問題を強調し、ついで主力部隊を南満州に進出させる方針を示した。

 南満州は、主席が革命闘争を開始したとき以来の活動地帯であって、早くから大衆的な基盤がきずかれていたが、独立軍部隊もかなり勢力を張っていた。したがって、主力部隊が南満州に進出して反日人民遊撃隊の威力を示せば、武装闘争の大衆的基盤はさらに強化されて武装部隊を速やかに拡大することができ、独立軍部隊と手を結ぶこともできるはずであった。

 主席は小沙河会議後、隊員の政治的・思想的教育と教練に力を入れる一方、南満州進出に先立って反日人民遊撃隊の実力を示し、隊員を戦闘的に鍛えるため、安図−明月溝間通路の伏兵戦を組織した。

 同年6月初旬、主力部隊を率いて南満州進出の途についた主席は、苦しい行軍の末、通化に到着した。ここで独立軍の指揮官と兵士たちに朝鮮革命の路線と反日救国の大路を示し、原則的で整然たる解説で統一戦線に応じるようじゅんじゅんと説き、日本帝国主義と最後まで戦うよう励ました。

 主席はついで柳河、蒙江地区に進出して先進的な労働者、農民、青年学生を遊撃隊に受け入れ、装備の改善をはかるかたわら、活発な政治工作によって人民大衆をめざめさせ、武装闘争の大衆的基盤を拡大していった。

 南満州進出の目的を果たした主席は、増強された主力部隊を率いて両江口に戻った。

 ところが両江口には、悲痛な出来事が待ち受けていた。

 南満州に出発するさい、母は重態のうえ当座の食にも事欠く窮状にあったが、国の独立を志す者が私事に心をわずらわしてはならないという母の戒めに、主席は決然と家を発ったのであった。それがいま同志の勧めで、小沙河の家に立ち寄ると母は既に世を去り、幼い2人の弟が残っているだけだった。主席は、つきあげる悲しみを抑えながら母の遺言をかみしめ、祖国の独立を達成せずにはおかないと母の墓前に誓った。そして、寄る辺のない幼い弟たちを残して両江口を発った。主席は母の死去による心の苦痛に耐え、ひたすら朝鮮革命の勝利のために、祖国解放の日を早めるためにすべての試練にうちかっていった。

 主席は、その後さまざまな障害を乗り越えて北満州の額穆、南湖頭一帯に進出し、いたるところに革命の基盤をきずいた。

 主席は1932年10月、羅子溝における反日兵士委員会会議で前月の両江口会議の方針を具体化し、反日部隊との連合戦線を強化する課題を示した。そして翌年1月、主力の一部隊を率いて、中国人反日部隊の集結地である老黒山方面に進出し、動揺していた反日部隊に革命的影響を与え、その戦意を高めた。

 目的を果たして帰途についたとき、部隊は思わぬ事態に直面した。日本帝国主義の大軍が遊撃隊をせん滅しようと軍用機と砲の援護のもとに老黒山一帯の稜線や峡谷を包囲したのである。

 主席は危地を切り抜けると同時に、隊員をいかなる試練にもめげない不屈の革命戦士に鍛えるため、深い山中に移動して軍事・政治学習を組織する大胆な措置を講じた。隊員たちはその間、主席の温かい配慮と革命的教育によって、どのような逆境にあってもあくまで主席に従い、朝鮮革命をたたかいぬく不屈の革命家に成長した。

 困難な闘争のなかで鍛えられた遊撃部隊は1933年2月、腰営口をへて小汪清に戻った。

 金日成主席が創建直後の反日人民遊撃隊を率いて歩んだ南北満州進出の長途は、数々の難関を切り抜けた苦難の道のりであるとともに、反日人民遊撃隊を短期間で強力な革命軍隊に鍛え、抗日武装闘争を広大な地域で本格的に展開する基礎をきずいた栄光の道のりであった。





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