『金日成主席革命活動史』

第7節 抗日武装闘争の準備


 金日成主席は卡倫会議後、朝鮮革命を新たな高い段階に引きあげるために全力を傾けた。

 主席はなによりも先に、朝鮮革命を担当する新しい党組織を結成した。

 1930年7月初め、卡倫では、多年の困難な革命的実践をとおして育成された新しい世代の共産主義者によって朝鮮で最初のチュチェ型の党組織が生まれた。そして、これを母体として各地に基礎党組織がつくられ、革命闘争で点検された青年共産主義者を入党対象にして組織網を広げていった。

 チュチェ型の最初の党組織の結成は、主席の主体的な革命路線を貫き、革命勢力を結集して新しい革命的な党を創立するための準備活動において画期的な出来事であった。

 最初の党組織の結成後、主席は抗日武装闘争の準備に取り組んだ。ここでは、なによりも軍事的準備を優先させるべきであると認め、朝鮮革命軍の結成に着手した。新しい世代の共産主義者で武装隊伍を組み、父の形見の2梃の拳銃をもとにして武器を獲得し、綱領と組織規定を作成するなど、その準備に全力が傾けられた。

 そして1930年7月6日、孤楡樹で、共青および反帝青年同盟の中核分子によって朝鮮革命軍が結成された。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「朝鮮革命軍は、わが国最初のマルクス・レーニン主義的武装組織でした」(『反日人民遊撃隊の創建にさいして』1932年4月25日)

 朝鮮革命軍は、チュチェ思想を唯一の指導思想とする朝鮮共産主義者の最初の武装組織であり、本格的な抗日武装闘争を準備するための政治・半軍事組織であった。抗日武装闘争は、朝鮮革命軍の結成によってその第一歩を踏み出した。

 北部朝鮮や中部満州その他の広い地域に派遣された革命軍の各グループは、隊列の拡大、軍事的経験の蓄積、活動拠点と武器の獲得など抗日武装闘争の準備段階に必要な課題を遂行していった。

 1930年の夏、不屈の共産主義者金亨権同志を責任者とする朝鮮革命軍の一グループは、国内に進出し、豊山(プンサン)郡把撥(パバル)里の内中(ネジュン)警察官駐在所を襲って悪質な日本人巡査部長を射殺し、大衆政治工作をくりひろげたのち、利原(リウォン)、北青(プクチョン)、洪原(ホンウォン)などで活動した。かれらは、朝鮮革命の主体的な路線を広範な大衆のなかで宣伝し、大徳(テドク)山広済寺(コンジェ)付近の戦闘、節婦岩(チョルプアム)付近の戦闘など数回にわたる戦闘をとおして日帝侵略者に手痛い打撃を与え、人民に大きな革命的影響を及ぼした。

 朝鮮革命軍の他のグループも長春金剛館戦闘、哈爾浜道裡戦闘、延吉県道木溝戦闘をはじめ、四平街、公主嶺、遼原、安図、敦化、臨江、長白などの広い地域で軍事・政治活動を活発にくりひろげた。

 主席は、革命軍の拡大と中核分子の育成にも大きな力を入れた。闘争をとおして点検された優秀な青年を朝鮮革命軍に入隊させ、また独立軍内の労働者、農民出の愛国的青年を教育し、革命軍に受け入れて武装隊列を急速に拡大していった。同時に孤楡樹の三光学校に高等科を設け、政治的にも軍事的にも有能な指揮官を体系的に養成する一方、孤楡樹と五家子で朝鮮革命軍の隊員や優秀な青年を対象に短期軍政講習会を開いて、革命武力の中核をととのえていった。

 また朝鮮革命軍は、日帝侵略軍や反動警察との戦闘を不断にくりひろげ、密偵や手先に誅罰を加え、さまざまな方法で武器を獲得した。こうして、軍事活動の経験が積まれ、朝鮮革命軍の武装は日を追って強化された。

 主席は、武装闘争の大衆的基盤をきずく活動も積極的におし進めた。

 ここではなによりも革命組織の拡大に深い注意が払われた。主席は1930年の5月から10月にかけて、敵の厳しい警戒と弾圧の網の目をかいくぐって敦化、卡倫、吉林、海竜、清原、蛟河、哈爾浜、孤楡樹、和竜、汪清など満州の各地をめぐり、四散した組織員を一人ひとり探し出し、破壊された革命組織を再建、拡大し、闘争のなかで点検された共青員や労働者、農民出身の中核分子をもって基礎党組織をつくっていった。また国内の穏城(オンソン)一帯を訪れ、豊利(プンリ)洞、コジャク洞、竜南(リョンナム)洞、上和(サンホワ)洞、月坡(ウォルパ)洞などの革命組織の活動状況を調べ、トゥル峰で地下革命組織責任者の会議を開いて具体的な指示を与えたのち、大衆のなかで政治工作をおこない反日闘争へと奮い立たせた。こうした不眠不休の活動によって、満州の広大な地域はもちろん、国内においても危機に瀕していた革命組織が立ち直り、人民の革命的気勢は再び高まりはじめた。

 主席はまた、農村に武装闘争の基盤をつくるため、農村の革命化に取り組んだ。主席は革命軍隊員を各地に派遣する一方、みずから五家子その他の地方に出むいて農村革命化の手本を示した。

 五家子一帯の農村では、大衆政治工作に力を入れて村人たちの革命的自覚を促し、階層別に組織を結成した。こうして、五家子一帯には農民同盟、反帝青年同盟、婦女会、少年探検隊など各種の革命組織が生まれ活動した。

 主席は農村の革命化で学校と夜学の果たす役割に注目し、各地に夜学を設けるとともに、卡倫の進明学校、孤楡樹の三光学校、五家子の三星学校などで革命的な教育を実施した。そして、ここで育成された中核分子を各地に派遣して農村の革命化をおし進めた。

 大衆教育の手段として革命的な出版物が刊行され、文学・芸術活動が活発にくりひろげられた。主席は、『農民読本』その他の教科書を執筆し、雑誌『ボルシェビキ』や『農友』など数多くの革命的な出版物の刊行を指導した。また、不朽の名作である革命演劇『地主と下男』『城隍堂』など多くの文芸作品を創作し、青少年演芸宣伝隊の巡回公演をとおして人民大衆の民族的および階級的自覚を高め、反日闘争へと奮い立たせた。

 主席はそのほかにも、日本帝国主義や地主とのたたかい、農村を防衛するたたかい、秘密連絡、朝鮮革命軍援護活動など、一連の実践闘争を通じて革命組織のメンバーや革命大衆をたくましく鍛えていった。

 主席の指導のもとに、農村の革命化が活発に進められた結果、広範な大衆が革命闘争に意識的に参加し、広い地域に武装闘争の大衆的基盤が強固にきずかれていった。

 このように、抗日武装闘争の軍事的準備がととのい、大衆的基盤がきずかれていくと、主席は武装闘争の準備を完成するため、1930年12月、五家子で朝鮮革命軍および革命組織責任者の会議を開いた。ここで主席は、極左冒険主義的5.30暴動とその延長である8.1暴動の後遺症を速やかに癒し、武装闘争の準備を促す課題を示すとともに、その具体的な方途を明らかにした。ついで、豆満江沿岸地帯に抗日武装闘争の戦略的基地をつくる課題を示し、最後にコミンテルンとの連係を強める問題について指摘した。

 主席は会議後、革命活動の中心地を豆満江沿岸に移した。

 その一帯は朝鮮に隣接しているばかりでなく、朝鮮人居住者が多く、その階級的構成もよかったし、敵の植民地支配が比較的弱く、険しい山やうっそうとした森林におおわれているので武装闘争に有利であった。

 しかし、当時そこではまだ、5.30暴動と8.1暴動の残した混乱を収拾しきれないでいた。

 豆満江沿岸に活動拠点を移した主席は、混乱を早く収拾し、武装闘争の準備活動をおし進めるため、国内と豆満江沿いの各都市と農村に工作員を派遣する一方、再び延吉、安図、和竜、汪清などの各県と国内の鐘城(チョンソン)、穏城地区などをめぐって活動を進めた。敵の執拗な監視と尾行がつづく危険をもかえりみず不眠不休の活動と非凡な革命的展開力によって、武装闘争の準備は着々と進み、革命を発展させる基盤が強固にきずかれた。

 1931年に入って、日本帝国主義者は、中国侵略を公然と進め、朝鮮人民にたいする植民地的弾圧と搾取をかつてなく強化した。こうした情勢は、本格的な抗日武装闘争の準備を一日も早く完了することを要請した。

 そのためには、主体的な革命勢力を十分に準備することが重要であった。この問題を解決するために主席は、1931年5月20日、明月溝で党および共青幹部会議を開き、『極左冒険主義路線を排撃し、革命的組織路線を貫徹しよう』と題する歴史的な演説をおこなった。主席は、情勢の要請にこたえて武装闘争を本格的に展開する準備を十分にととのえるには、盲動的で冒険主義的な5.30暴動の結果革命勢力がこうむった重大な損失を一日も早く回復し、そのためには、分派・事大主義者の極左冒険主義路線を排し、革命的組織路線を貫かなければならないと強調した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「現在、朝鮮共産主義者の最も重要な課題は、革命の基本大衆をしっかりと結集し、そのまわりに各階層の反日勢力をかたく団結させ、全民族を一つの政治勢力に結集する革命的組織路線を徹底的に貫くことであります」(『極左冒険主義路線を排撃し、革命的組織路線を貫徹しよう』1931年5月20日)

 革命的組織路線を貫くためには、各地方で革命的指導中核をかためて、その自立的役割を高め、破壊された大衆団体を立て直し、広範な大衆を教育、結集して革命の大衆的基盤をかため、大衆を闘争のなかで鍛え、敵の弾圧と破壊・謀略策動から革命的大衆を防衛しなければならない。同時に、日本帝国主義侵略者の民族離間策を暴露し、朝中人民間の戦闘的友好と革命的団結を強めるために努力しなければならない。

 主席によって示されたこの革命的組織路線とそれを貫く方針は、反帝反封建民主主義革命段階における革命勢力編成の基本的な原則と方途を示した独創的な路線と方針であり、抗日武装闘争のための革命勢力を強化するうえで朝鮮の共産主義者が堅持すべき指導指針であった。

 会議後、主席は革命的組織路線を貫くたたかいを展開した。

 多くの党および共青の幹部、朝鮮革命軍の隊員が間島の広い地域と国内の各地に派遣されていった。主席はかれらの活動を具体的に指導する一方、興隆村、柳樹河、小沙河、大沙河など安図県、敦化県の各地域で革命的組織路線を貫くために全力を傾けた。

 階級的自覚と闘争意欲が強く、実践闘争を通じて鍛えられた人たちが指導中核に育ち、かれらによって基礎党組織が拡大され、党の隊列は不断に強化された。また、共青の戦闘力が強まり、その隊列がたえず拡大されていくなかで、大衆団体での生活をとおして鍛えられた意志の強い勇敢な青壮年によって半軍事組織である赤衛隊が結成され、少年先鋒隊もつくられた。かれらは武装闘争の中核として成長していった。

 主席はまた、いろいろな形式と方法によって広範な大衆を教育してその自覚を促し、農民協会、反帝同盟、革命互済会、婦女会、児童団など各種の反日大衆団体を組織し、革命組織の拡大に努めた。

 主席は、1931年の夏、急速に拡大する革命組織を円滑に指導し、全般的地域での大衆の組織化活動を強力におし進めるため、革命組織区を改編または新設する革命的な措置を講じた。

 主席の正しい指導と不眠不休の活動によって、豆満江沿いの広い地域では5.30暴動と8.1暴動の弊害が一掃されて強力な革命勢力がととのい、武装闘争を本格的に展開する大衆的基盤がきずかれた。

 こうした成果を踏まえて、主席は小作料の引き下げ闘争、賃上げと待遇改善を要求するたたかい、そして、日本帝国主義の民族離間策と満州侵略策動を粉砕するたたかいへと人民大衆を奮い立たせた。1931年の9月から12月にかけて、東満州の全地域で広範な大衆が主席の指導のもとに大規模な秋の収穫期闘争を展開した。各革命組織は、闘争委員会を組織し、闘争スローガンをうちだし、ピケ隊を組むなど万端の準備をととのえたのち、大衆をたたかいに立ちあがらせた。東満州の10余万の農民が組織的に参加した大規模な秋の収穫期闘争は暴力闘争に発展し、日帝侵略者と反動地主に痛撃を加えて勝利した。この闘争を通じて武装隊伍を担う多くの中核分子が育ち、広範な革命大衆が実践的に鍛えられ、朝中人民の戦闘的団結が強化された。

 主席はこのように、抗日武装闘争を本格的に展開するための軍事的準備と大衆的基盤を十分にととのえ、組織的な武装闘争を開始する万全の態勢をかためた。                 





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