『金日成主席革命活動史』

第4節 日本帝国主義と反動軍閥に反対し、
革命勢力の統一団結をはかるたたかい


 金日成主席は、青年共産主義者と広範な人民大衆を革命的にめざめさせ、組織に結集して日本帝国主義と中国反動軍閥とのたたかいに奮い立たせた。

 日本帝国主義者は、1920年代の中ごろから満州侵略計画に拍車をかけ、満州における朝鮮人民の反日運動を圧殺しようと策した。その一環としてかれらは、1925年6月中国反動軍閥を買収し、朝鮮人反日運動者を逮捕した場合、日本領事館に引き渡すことなどを定めた悪名高い『三矢協定』を締結した。特に、金日成主席の指導によって吉林を中心に人民の反日気運が高まると、あわてた日本帝国主義侵略者は、領事館警察を総動員する一方、中国の官憲を強要して朝鮮人の反日運動を必死に弾圧した。

 主席はこれに反撃を加えるとともに、実践闘争のなかで新しい世代の共産主義者と広範な大衆を政治的にめざめさせ、革命的に鍛えるため、大衆闘争を組織した。

 主席は、青年共産主義者と革命組織のメンバーに具体的な闘争の方針と方法を示し、たたかいに成功するためには、情勢と敵味方の力関係を分析して正確な戦略・戦術を立て、革命勢力の準備程度に合った各種形態のたたかいを組織すること、さしあたっては、合法闘争と非合法闘争を巧みに組み合わせ、小規模の闘争からしだいに大規模な闘争へともりあげること、特に勝利の鍵は、日本帝国主義と反動軍閥に反対するすべての階級と階層、社会勢力を広く動員することにあると指摘した。

 1927年2月、中国の反動軍閥が民族主義者の講演会場を急襲して数百名の朝鮮人を逮捕したとき、主席は直ちに革命組織のメンバーと広範な大衆を釈放闘争に動員した。逮捕された者のほとんどが民族主義者であったが、反動軍閥の暴挙は朝鮮人民にたいする許すべからざる冒涜であり、朝鮮人民の反日闘争を弾圧し、抹殺する反革命的行動であると断定したのであった。講演会をはじめ、さまざまな方法で社会世論が喚起され、大衆デモがくりひろけられた。このたたかいは、反動軍閥とそれを操る日本帝国主義者に大きな打撃を与えるとともに、大衆をめざめさせ革命闘争を発展させるうえに有利な局面を開いた。

 主席は、1928年の夏、日本帝国主義者と結託した中国の反動軍閥に対抗して、毓文中学校で同盟休校を組織した。

 主席の活動によって毓文中学校の革命化が進むと、反動軍閥は特務をもぐりこませて進歩的な教員に圧力を加え、先進的な学生を取り締まり、校内の民主的秩序を踏みにじった。これを放置しては、革命組織の活動が停滞し青年学生の覚醒が阻まれる恐れがあった。

 全校生の同盟休校を呼びかけた主席は、適切なスローガンと要求条件を示し、宣伝活動をくりひろげる一方、授業をボイコットし、集会を開き、檄文や宣伝文を配るなどのたたかいを展開した。また必要な場合、市内の他校でもいっせいに同情ストに入るよう手配した。

 学生たちの組織的な力に恐れをなした反動軍閥当局は、ついに要求条件をのんだ。同盟休校の勝利は、反動軍閥に大きな打撃を与えた一方、実践的に鍛えられた学生たちは勝利の信念をかため闘志をつのらせた。

 主席は、1928年の10月から11月にかけて、日本帝国主義の吉会線鉄道敷設反対闘争と日貨ボイコット運動を大々的に展開した。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「その後、我々は、日本帝国主義者の吉林−会寧(ヘリョン)間の鉄道敷設に反対するデモをくりひろげました。日本帝国主義者は満州侵略の準備として、吉林−会寧間の鉄道敷設を急いでいました。我々は、この侵略的目的をもつ吉林−会寧間の鉄道敷設に反対して闘争に立ちあがったのでした」

 1920年代の後期、日本帝国主義者は、満州の侵略にとって重要な戦略的意義のある吉会線を敷設し、中国東北地方を政治、経済、軍事的に掌握しようとした。

 主席は、かれらの大陸侵略を破綻させ、広範な大衆を反日闘争に立ちあがらせるために、吉会線鉄道敷設反対闘争を組織したのであった。

 1928年10月、吉林市の北山公園で開かれた共青、反帝青年同盟など革命組織責任者の会議で主席は、この闘争の目的と意義を明らかにし、スローガンと闘争の手順、方法を示した。そしてデモの隊伍を組み、責任者を任命するなど準備に万全を期した。

 デモの準備がととのうと、吉林市の学生は、いっせいに授業をボイコットして街頭にくりだした。デモの先頭に立った主席は、熱烈な演説をおこなって吉会線鉄道の敷設工事を進める侵略者の凶悪な企図を糾弾し、一致団結して反対闘争を展開しようと呼びかけた。数千名の青年学生は、「吉会線鉄道敷設反対!」「日帝侵略者反対!」のシュプレヒコールを叫びながらデモをくりひろげた。デモには広範な大衆が合流した。

 主席はたたかいの組織化が進み、デモ大衆の反日気勢が高まると、たたかいを日貨ボイコットへと拡大した。商店に押し寄せた青年学生たちは、日本の商品を運び出して松花江に投げこんだ。かれらは「日本商品の販売をいっさい禁止せよ!」の合言葉のもとに、連日激しいデモをくりひろげた。

 大衆的な反日闘争に驚いた日本帝国主義者は、デモの弾圧を反動軍閥に要求した。

 主席は、デモ大衆を弾圧から守り、闘争をもりあげるために革命組織のメンバーでピケ隊を組む一方、広範な地域の人民をたたかいに決起させた。11月まで連日くり返されたデモは瀋陽、哈爾浜、長春、天津などの大都市、鉄道工事場、農村地域など、中国の広大な地域に及び、国内にも広く波及して、人民大衆を反日闘争へと呼び起こした。

 吉会線鉄道敷設反対闘争と日貨ボイコット闘争は、満州侵略の野望に燃える日本帝国主義侵略者とそれに迎合する中国の反動軍閥に手痛い打撃を与え、勝利をもって終わった。

 このたたかいは、朝鮮人民がはじめて金日成主席の指導のもとに大衆的な反日闘争を展開し、大きな勝利をおさめたたたかいであった。ここに、それまでみじめな失敗をくり返していた朝鮮人民の反日闘争は新しい幕開けを迎えることになった。

 日本帝国主義や反動軍閥との激しいたたかいをとおして、青年共産主義者と革命組織のメンバーは、革命で勝利するためには正しい闘争方法を示し、勝利に導くすぐれた指導者がいなければならないということを確信した。

 主席はまた、日本帝国主義者と反動軍閥の反ソ策動を破綻させるための闘争を指導した。

 1929年7月、中国の反動軍閥は、大陸侵略を企む日本帝国主義者に操られて、ソ連と共同経営する中東鉄道を占拠し反ソキャンペーンをくりひろげた。ソ連の自主権を侵害するこの「中東鉄道事件」の推移を見守っていた主席は、1929年の秋、共青および反帝青年同盟を動かして、事件の侵略的本質を暴露する宣伝活動を大々的にくりひろげる一方、反動軍閥の武力挑発に油を注ぐ反革命勢力とのたたかいを展開した。それは、日本帝国主義侵略者と反動軍閥の反ソ策動に大きな打撃を加え、ソ連人民のたたかいに強力な支援を与えたばかりでなく、青年学生と人民大衆の階級的覚醒を促し、プロレタリア国際主義の精神を高めた。

 主席は広範な反日勢力の結集をはかって、民族主義者の分裂策動と分派分子の派閥争いを粉砕するたたかいを強力におし進めた。

 ここではなによりも、かれらの唱える荒唐無稽な主張や反動的理論に攻撃が集中された。

 当時、頑迷な民族主義者は時代遅れの思想にしがみついて、先進思想を求める青年学生や大衆の運動を抑えることにきゅうきゅうとしていた。特に、民族主義運動の「指導者」たちは、植民地支配のもとで「教育と産業の振興による国力の培養運動」が「独立の目的を達成する最短コース」であり、その「力の準備」はアメリカ、フランスなど資本主義列強の「援助」によっておこなうべきであるという外部勢力依存思想、民族虚無主義思想をまき散らしていた。また、「理論家」「指導者」気どりのえせマルクス主義者も、さまざまな日和見主義的理論を唱えていた。かれらは、朝鮮の社会階級関係には目を向けようともしないで、既存理論の個々の命題を引き合いに出して、「プロレタリア革命を遂行すべきである」とか「ブルジョア革命をおこなうべきである」などと、朝鮮革命とはおよそ緑のない詭弁を弄していた。

 主席は、民族主義とセクト主義を克服せずには、広範な人民大衆を反日闘争に結集することも、革命闘争を前進させることもできないと判断し、民族改良主義や左右の日和見主義を思想的に打破するために力をつくした。同時に、それら反動的思想毒素の影響から青年学生や大衆を守るために講演会、演芸宣伝活動、研究討論会、出版宣伝活動などを活発におこなって、さまざまな「主義主張」の反動的本質と、それが朝鮮の共産主義運動と民族解放闘争に大きな弊害となっていることを暴露した。

 民族主義者の指導層が、かれらの運動団体である正義府、新民府、参議府の三府統合問題を日程に乗せ、その指導的地位をめぐって争論に明け暮れていたとき、主席は風刺劇によってかれらの猛省を促し、いつまでも、いさかっていないで心から団結するよう忠告した。良心の苛責を受けたかれらは、形式的なものではあったが三府を統合して国民府をつくった。

 主席のたゆみない原則的な活動によって、民族主義者とえせマルクス主義者の詭弁は粉砕された。青年学生をはじめ、広範な人民大衆は民族主義やセクト主義の弊害をはっきりと知り、その影響からぬけだして正しい革命の道を進むことができるようになった。

 主席はまた、革命勢力を四分五裂させる民族主義者と分派分子の分裂策動とも容赦なくたたかった。かれらは「ヘゲモニー」をめぐって派閥争いに血道をあげ、青年学生をはじめ、人民大衆をその影響下に引き入れるために卑劣な策動を弄していた。これを放置しては、革命勢力の統一団結を実現することは不可能であった。

 分派分子は青年共産主義者の革命的影響力が強まって、自己の基盤がゆらぎはじめると、1928年の夏、中国にある朝鮮青年団体の「統合」を唱えて、磐石県集廠子で「朝鮮青年運動者協議会」を開き、「駐中青総」の結成を企てた。それは、かれらが青年運動の「ヘゲモニー」を握り、中国の全朝鮮青年団体を支配しようとする醜い分裂策動であった。

 分派分子の野心を見破った主席は、反帝青年同盟員である旅新青年会の幹部を会議に送って原則的な闘争を展開させた。そして、「駐中青総」の結成が強行されると、旅新青年会の立場を主張する声明を発表させて分派分子の陰謀を暴露し、その分裂主義的策動を破綻させた。

 国民府の民族主義者も、青年の革命的気勢を抑え、青年団体を掌握するため、1929年の秋、興京県旺清門で「南満青総」大会を開いた。

 主席は南満青総とは連係がなかったが、民族主義者の「統合」劇を粉砕することによって青年運動の発展を阻む障害を除き、民族主義の影響下にある青年を正しい道に導くため、大会に参加した。大会準備委員に選ばれた主席は、各地から集まった青年たちに陳腐な民族主義的観念を捨て、正しい革命の道に進むよう説得する一方、大会の決議案には進歩的青年の意思を十分に反映させるよう努力した。

 民族主義者は計画の破綻を恐れて、先進的な青年たちを逮捕する暴挙に出た。主席は一身の危険をかえりみず、国民府の首脳と会って、その非を鋭くなじった。

 金日成主席は、次のように述べている。

 「あなたがたは、たとえ幾人かの身柄は拘留できても、共産主義を志す青年の思想は抑制できるものではない。いま、青年たちの思想は日をおって発展している。あなたがたも革命をおこなう気があるなら、青年の革命的気勢に歩調を合わせるべきである。共産主義をめざす青年の気勢はくじくことも、抑えることもできるものではない。もし、あなたがたがそれを試みるならば、革命にとりかえしのつかない損失を招くだけである」

 主席の原則的な闘争によって、民族主義指導者たちが計画した「南満青総」大会は破綻し、青年運動の分裂は防がれた。

 しかし、逆上した国民府の首脳部は、大会準備委員会の一部委員を殺害する蛮行をはたらいた。主席は陵街で、国民府上層部の非人間的民族反逆行為と悪らつな反革命的罪状を暴露する声明文を作成し、三源浦で公表した。こうして、国民府は人民の排斥を受け、かれらに期待をかけていた人たちも、民族主義運動に見切りをつけた。

 主席は、民族主義者や分派分子の派閥争いを粉砕するためにたたかう一方、その影響下にあった多くの青年学生や人民を革命の道に導き、革命の中核勢力に育てた。

 こうして、朝鮮の民族解放運動と共産主義運動の内部に根強く残っていた固ろうな民族主義とえせマルクス主義が克服され、革命勢力の統一と団結が実現されていった。

 このように、非凡な英知とすぐれた指導力、高邁な徳性を備えた金日成主席が革命の陣頭に立ったときから、朝鮮革命の戦闘隊伍が強固にととのい、久しい受難の歴史をへてきた朝鮮の革命は、自主の旗のもとに栄えある勝利の道を力強く前進する誇らしい時代を迎えたのである。

 朝鮮革命の黎明期であるこの歴史的な時期に、青年共産主義者と革命組織のメンバーは、主席を祖国と民族の運命を救う指導者、朝鮮革命の勝利を保障する導きの星、全民族の統一団結の唯一中心として、そのまわりに一枚岩のように結束したのであった。車光洙、金赫、崔昌傑などの青年共産主義者は、主席に限りない信頼と尊敬の念をこめて朝鮮人民を暗黒の世界から解放の夜明けへと導く晩の明星になってほしいという願いをこめ、その名を一星(ハンビョル)、あるいは金一星(キムイルソン)と呼んだ。そして、主席を指導者に仰ぐ無限の喜びと栄光、つきない敬慕の念をこめて、主席の偉大さを称えた不滅の革命頌歌『朝鮮の星』を創作し、普及した。この偉大な名と不滅の歌には、実に教千年の歴史において、はじめて革命の卓越した指導者を迎えた青年共産主義者と革命的大衆の無限の感激と喜びがこめられており、主席を朝鮮の明星、民族解放の救いの星と仰ぎ、永遠に慕い従おうという人民の熱烈な念願と不抜の意志がこめられていた。

 その後、主席の指導のもとに朝鮮革命を力強く前進させていた感激的な日々に、主席の思想・理論の偉大さと賢明な指導、高邁な風格にさらに深い感銘を受けた青年共産主義者と革命的大衆は、その名、一星を日成と改めて呼ぶようになった。

 金日成、この偉大な名は、太陽のように燦然と時代と革命の前途を照らし、太陽のように温かく人民を包んで革命家に育て、太陽のように明るく民族再興の曙光をさし照らす主席への、朝鮮人民の絶対的な信頼と大いなる期待、つきない敬慕の表明であった。人民と革命家は、亡国の暗雲に閉ざされた民族受難の時期に、金日成主席を指導者に迎えた大きな誇りと革命的自負を胸に秘めて、主席の名を団結の旗、闘争の旗、勝利の旗になぞらえ朝鮮革命の勝利めざして不屈にたたかった。





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