『金日成主席革命活動史』

第2節 革命活動の開始。打倒帝国主義同盟の結成


 1920年代の半ば、朝鮮革命は労働者階級の卓越した指導者の出現を待望していた。

 暴虐な日本帝国主義者は当時、ファッショ的な各種暴圧機構を大々的に増設し、『治安維持法』などの悪法を乱発して、植民地的略奪と搾取、反日勢力への弾圧をかつてなく強化した。

 他方、初期の共産主義運動で指導的地位を占めていた分派分子は、派閥争いに血迷い、人民大衆の闘争のもりあがりを妨げていた。民族主義者もまた勢力争いをこととして、革命勢力を四分五裂させていた。「指導者」「英雄豪傑」を自任するかれらの独善的な行為は、革命運動にはかり知れない害毒を流していた。

 朝鮮革命は重大な危機に陥り、朝鮮人民の頭上には亡国の暗雲が重々しく垂れこめた。人民は破滅に瀕した祖国の運命を救い、革命を勝利に導くすぐれた指導者の出現をひたすら待ち望んだ。

 こうした民族受難の時期に、代を継いでたたかってでも必ず祖国を解放しなければならないという父の遺言を胸に秘めた主席は、祖国と民族の宿望にこたえて、祖国解放の革命闘争に身を投じた。

 金日成主席は次のように述べている。

 「私の共産主義運動への第一歩は、青年学生運動にはじまりました。それは、私が1926年6月華成義塾に入学して以来のことです」

 主席は、このうえなく複雑で多難な朝鮮の革命を勝利に導く遠大な構想のもとに、1926年6月、樺甸に移った。

 当時、樺甸は民族運動の中心地の一つで、独立運動者が少なくなかった。しかしかれらは、その階級的制約性のため人民大衆から浮きあがっていた。人民から集めた「独立運動資金」をむだに使い、勢力範囲を広げるための派閥争いが、かれらの運動のすべてであった。樺甸一帯の共産主義者も、事大主義や教条主義にとらわれて、自国人民の力に依拠して革命をおこなおうとするのではなく、功名心と出世欲から派閥争いに明け暮れていた。

 樺甸のこうした実情をとおして、民族主義運動の弱点と初期の共産主義運動の制約性を見抜いた主席は、そうした誤った立場と闘争方法によっては祖国の解放と独立を達成することはできないと痛感し、朝鮮革命を第一歩からやり直すための準備活動を積極的にくりひろげた。

 金日成主席は次のように述べている。

 「新しく育った朝鮮の真の共産主義者は、それまでの民族主義運動と初期の共産主義運動から深刻な教訓をくみとり、新たな革命的世界観をもち、民族主義運動着や初期の共産主義運動者とは全く異なる革命の道を選びました」(『朝鮮労働党創立30周年にさいして』1975年10月9日)

 主席は、朝鮮革命の新しい道を見出すために心血を注いだ。朝鮮革命は、独特の社会歴史的条件と民族的特性をもつ極めて複雑多難な革命であっただけに、独自の思索とたゆみない探究をとおしてのみ正しい闘争の道を切り開いていけるのであった。

 主席は、それまでの労働者階級の革命理論と他国の革命闘争の経験、朝鮮の歴史的条件と具体的な実情をつぶさに研究し、分析した結果、朝鮮革命の進むべき道は、日本帝国主義を打倒して祖国を解放し、労働者、農民など勤労大衆の住みよい社会をつくることであるという確信を深めた。また、朝鮮革命を正しく遂行するためには、革命途上で提起されるすべての問題を自分の頭で考え、判断し、自力で解決すべきであるという立場を確立した。そして、革命を勝利させるには、大衆のなかに入ってかれらの自覚を促し、団結した力でたたかうことであるという信念をかためた。

 主席はまた、朝鮮革命の新しい道を切り開くためには、新しい世代の真の共産主義者を育成しなければならないと認め、まず、その活動を華成義塾の学生たちのあいだではじめた。かれらは民族主義の影響下にあったとはいえ、ほとんどが労働者、農民の出で、日本帝国主義侵略者とのたたかいを志した青年たちであった。かれらが、新しい先進思想にめざめ、闘争のなかで鍛えられれば、ざん新な青年共産主義革命家に成長するであろうことは疑いなかった。

 主席は、労働者階級の先進思想を普及し、朝鮮革命の正しい前途を切り開く必要性を熱心に説いた。そして、かれらとの友情を深め、一人ひとりを理解していくなかで、生死苦楽をともにする同志をつのり、朝鮮革命の中核をかためていった。

 ついで主席は革命組織の結成をはかって、1926年10月10日、準備会議を開き、組織の名称と性格、綱領、活動規約を討議にかけ、当面の闘争対策を示した。

 この会議にもとづいて、同月17日樺甸で打倒帝国主義同盟(略称「ㅌ.ㄷ−トゥ・ドゥ」)が結成された。

 打倒帝国主義同盟は、朝鮮における最初の真の共産主義的革命組織であった。

 主席は打倒帝国主義同盟の結成集会で、朝鮮革命の当面の課題と最終目的を示す闘争綱領を発表した。

 金日成主席は次のように述べている。

 「我々は、打倒帝国主義同盟の当面の課題を日本帝国主義を打倒して朝鮮の解放と独立を達成することであるとし、最終の目的を朝鮮に社会主義・共産主義を建設し、すすんでは、すべての帝国主義を打倒して世界に共産主義を建設することであると規定しました」

 打倒帝国主義同盟のこの綱領は、はじめて朝鮮革命の自主的発展の道を示した革命の綱領であり、朝鮮人民を真の闘争の道、民族的および階級的解放の道へと力強く導く戦闘的な旗印であった。

 主席は、同盟の綱領を実現するためには同盟員がマルクス・レーニン主義を深く研究し、広範な大衆のあいだで組織を急速に広げていくべきであると述べ、その具体的な課題と活動規範を示した。

 打倒帝国主義同盟の結成は、朝鮮人民の革命闘争で新しい時代を開く偉大な出来事であった。それは、朝鮮における新しい世代の共産主義的中核勢力の登場と朝鮮革命の新たな出発を告げる歴史的な宣言であった。打倒帝国主義同盟が結成されたときから、朝鮮の共産主義運動と民族解放闘争ははじめて自主性の原則にもとづいて進められ、ここに栄えある朝鮮労働党の根元がつちかわれた。

 主席は打倒帝国主義同盟の結成後、組織を拡大し、その活動範囲を広げるために全力を傾けた。

 主席は、まず同盟員を労働者階級の革命思想で武装させ、組織を強化することに力を入れた。読書会その他さまざまな方法をとおして同盟員がマルクス・レーニン主義の基本原理を朝鮮の現実と結びつけて深く身につけ、朝鮮革命の特性と革命闘争における原則的な問題について正しい見解をもち、正しい立場に立つよう、ゆきとどいた指導がおこなわれた。

 主席はまた、青年学生のなかに入ってかれらを教育し、組織に引き入れる一方、各階層の広範な大衆のあいだで組織活動をくりひろげるため、崔昌傑(チェチャンゴル)、金園宇(キムウォンウ)、桂永春(ケヨンチュン)、白信漢(ペシンハン)、李宇(リウ)、カン・ビョンソンなどの同盟員を南満州と東満州各地の朝鮮人居住地域に送った。打倒帝国主義同盟は、日を追って組織を拡大し、活動範囲を広げていった。

 金日成主席が打倒帝国主義同盟を結成し、革命の陣頭に立ったときから、朝鮮革命は真の意味での出発をはじめ、栄えあるチュチェの革命偉業が切り開かれた。               


<参考>回顧録「世紀とともに」−打倒帝国主義同盟




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