『金日成主席革命活動史』

第1節 主席の誕生とその生い立ち


 民族の太陽であり、伝説的英雄である金日成(キムイルソン)主席は、1912年4月15日、平壌(ピョンヤン)市の万景台(マンギョンデ)で誕生した。

 主席の家門は、歴史にたぐいのない偉大な革命的な家柄として知られている。曾祖父、祖父母、両親、叔父、弟、外祖父、母方の叔父など主席の一家は代々、朝鮮近代革命運動の幕開け以来祖国の独立と人民の自由と解放のため、労働者階級の革命偉業の勝利のため、侵略者をはじめ、階級の敵に抗して人民大衆の先頭に立ってたたかった最も愛国的で革命的な家庭であった。一家は代々小作によって暮らしを立てながらも、勤勉な労働によって極貧の生活を支えてきた勤労家庭のかがみであり、高潔で情義に厚く、国を愛し正義を重んずる子弟教育を家風としてきた人民的で革命的な家庭の手本であった。それはまた、主席の偉大な革命思想と階級意識、不屈の革命家的意志と気高い共産主義的徳性をはぐくんだ土壌であり、朝鮮労働党の栄えある革命伝統と、祖国の隆盛と人民の幸福、繁栄のもといをきずいた革命の揺らんであった。

 主席は、偉大な革命的家庭に生まれ、幼少のころから熱烈な愛国者、不屈の革命家としての気質を養い、成長した。幼時から抜きんでた才能と強い探究心、広い度量と強じんな意志、闊達な品性を備えていた主席は、両親の愛国主義教育と革命的影響、たゆみない探究と矛盾にみちた社会的現実のなまなましい体験、日本帝国主義に抗する革命闘争の実践をとおして偉大な革命家に育った。

 金日成主席は次のように述べている。

「私は幼いころから、日本帝国主義者や地主、資本家は、よこしまな人間であり、植民地社会が不合理な社会であることを両親に教わりました。また実際に、かれらが平気で人民を苦しめ、踏みつけるのをいやというほど目撃しました。(略)
 私は、このような矛盾した不公平な社会現象を何度となく体験するなかで、資本主義社会の反動的本質をより明確に認識したばかりでなく、人民を抑圧し搾取する地主、資本家や日本帝国主義侵略者をうち倒さなければならないという決心をいだくようになりました」

 主席は、幼年時代に両親から愛国主義教育と革命的な影響を強く受けた。

 父の金亨稷(キムヒョンジク)先生は、祖国の解放と人民の自由と幸福のために生涯をささげた不屈の革命闘士であり、反日民族解放運動のすぐれた指導者であった。

 遠大な志をいだいて中学時代から革命運動に身を投じた先生は、1917年3月23日、当時、反帝的立場が最も強く、かつ最大規模の反日地下革命組織であった朝鮮国民会を結成し、指導した。そして1919年の3.1人民蜂起後は、情勢の要請にこたえて、朝鮮人民の反日民族解放運動を民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換させる先駆者の役割を果たした。

 先生は、先進思想の普及とたゆみない組織活動によって労働者、農民を革命闘争に奮い立たせるとともに、武力活動に備えて武装隊の組織に大きな力を傾けた。また、各地に学校を設け、青少年を祖国解放の闘士に育成するために心を砕いた。

 先生は、しいたげられ、苦しめられている人民に常に心を寄せ、深くいたわった。

 母の康盤石(カンバンソク)女史は、生涯を朝鮮革命の勝利と婦人の社会的解放にささげた不屈の革命闘士であり、婦人共産主義運動のすぐれた指導者であった。

 女史は、朝鮮最初の革命的婦人大衆組織である反日婦女会を結成して、祖国の解放と婦人の社会的解放に尽くす一方、極貧にめげず、官憲の迫害にも屈することなく金亨稷先生と金日成主席の革命活動を献身的に助けた。

 金亨稷先生と康盤石女史は、子弟を立派な革命家に育てることに常に深い関心を払った。

 主席は両親から、うるわしい祖国や勇敢で英知にとむ朝鮮民族について、誇らしい朝鮮人民の闘争史と愛国名将、レーニンと社会主義十月革命について、祖国を蹂躙している日本帝国主義侵略者の野蛮な弾圧と民族蔑視、地主、資本家の苛酷な搾取と抑圧についていろいろと聞かされ、幼年時代から熱烈な愛国心と革命の大志をはぐくんだ。特に、朝鮮人民自身の力で日本帝国主義を打倒し祖国を解放すべきであり、そのためには必ず人民大衆の力を結集しなければならないという父の革命的で愛国的な教育を受けながら、強烈な自主意識と階級意識をつちかった。

 主席は5歳のとき、江東(カンドン)で、日本帝国主義の警察に連行されながらも相手を威圧してやまない父の毅然たる態度と、警官の乱暴な家宅捜査に抗議する母の剛毅な姿、そして、翌年、平壌監獄でふれた、獄中の苦しみに衰弱していても火のような熱情と革命的気概をいささかも失っていない父の不屈の革命精神などをとおして、日本帝国主義への復讐心と革命的闘志をかきたてた。

 主席はまた、同志と人民を深く愛し苦楽を分かち、そのあつい信頼と積極的な支援のなかで革命運動をおこなう父の精力的な活動と、温和でやさしいうちにも慎重で原則に強く、大事を前にしては決して私情にとらわれない母の人柄から大きな影響を受け、革命家の高潔な品性を養っていった。そして、身に危険が迫ったときにも、また病中にあっても闘争を中止することのなかった父の革命への忠実さと、死を前にしても祖国の運命と革命の未来を案じ、身が引き裂かれ粉になろうとも必ず祖国を解放しなければならないと言いのこした父の言葉に励まされ、革命に生涯をささげる決意をかためたのであった。

 主席は、日本帝国主義支配下の苦しい生活体験をとおし、そして祖国と民族の苦痛と惨状を目撃しながら反日愛国思想と階級意識を強め、革命への大志をはぐくんだ。

 主席の生い育った時期は、朝鮮が日本帝国主義の植民地に転落した民族受難の時代であった。1910年、『韓日併合条約』によってその野望を果たし、朝鮮を完全な植民地に変えた日本帝国主義者は、武断統治によって人民を手当たり次第に検挙、投獄、虐殺し、苛酷に搾取した。朝鮮全土は文字どおり、大きな監獄に、生き地獄に化した。

 主席は、年々農事に精出しながらも雑炊で飢えをしのぐ一家の貧しい生活や、日本帝国主義者とその手先の厳しい搾取と虐待にあえぐ朝鮮人民の悲惨な生活をとおして、搾取社会の矛盾と腐敗ぶりを鋭く感じとった。

 日本帝国主義に抵抗して全民族が決起した3.1人民蜂起は、人一倍正義感に燃え、不正を憎む主席に大きな衝撃を与えた。当時7歳の主席はデモ群衆にまじって、万景台から普通(ポトン)門まで十数キロを行進し、朝鮮人民の勇敢なたたかいぶりとそれを銃剣で弾圧する軍警の蛮行を見て、日本帝国主義への反抗精神をかきたてた。

 特に、苦難にみちた革命運動をおこなう両親に従って中江(チュンガン)、臨江、八達溝などの各地に移住しながら、亡国の民の悲哀と苦痛を骨身にしみて感じとり、日本帝国主義を打倒してやまない不退転の決意をかためた。

 主席は、学習と革命的実践をとおして革命的な世界観を確立し、非凡な革命家に成長していった。

 主席は、幼年時代から読書に親しんだ。特に、小学校時代に学業に励むかたわら、朝鮮の愛国名将や世界の偉人の伝記、革命的な小説など多くの本を読み、社会と革命闘争にたいする鋭い眼識と独自の思考力を養った。

 1923年3月、祖国の厳しい現実を知り、母国語をより深く学ぶようにという父の教えに従って、わずか11歳の身で両親のもとを離れ、八道溝から単身百里の道のりを踏破して故郷万景台に帰った主席は、チルゴルの彰徳(チャンドク)学校に通った。祖国の実情にふれ、学習を深めるなかで、日本帝国主義者と地主、資本家はひとつ穴のむじなであり、かれらのいない社会をうち立ててこそ、すべての人が幸福になれるという革命の貴い真理をきわめた主席は、革命をやり遂げずにはおかないとかたく心に誓った。

 父が日本帝国主義の警察に逮捕されたという知らせを受けた主席は、1925年1月、万景台をあとに再び百里の道を歩いて八道溝に向かった。13歳のときであった。主席は、祖国を取り戻さずにはやまないかたい決意を胸に秘めて鴨緑(アムノク)江を渡った。

 金日成主席はこのときを回想して、次のように述べている。

 「私は13歳のとき、朝鮮が独立しなければ二度と再び帰るまいとかたく決心して鴨緑江を渡りました。そのとき私は誰かがつくった『鴨緑江の歌』をうたいながら、いつまたこの地を踏むことができるだろうか、自分が育ち、先祖の墳墓のあるこの地に再び帰る日は果たしていつのことであろうかと思うと、幼心にも悲しみをおさえることができませんでした」(『新しい民主国家建設のための我々の任務』1945年10月18日)

 祖国解放の大志をいだいて鴨緑江を渡った主席は、八道溝から臨江をへて撫松に移った。撫松では脱獄に成功した父が革命活動をおこなっていた。主席は学業に励むかたわら、父から与えられる重要な革命任務をいつも正確に果たした。また、学生や大衆のなかで反日愛国思想の宣伝にも努めた。侵略者の許すべからざる罪悪や祖国と同胞の悲惨な運命に怒りと悲憤をこめて語る主席の熱弁は、人々に日本帝国主義にたいする憎しみと復讐心を燃えたたせた。

 遠大な志と大きな抱負、深く広い政治的識見と、おうような品性にめぐまれた主席を青少年や大衆は非凡な革命家、指導者として深く尊敬し、心から慕った。

 幼時から聡明で剛毅、しかも心のやさしい主席は、このころ既に深い洞察力と非凡な英知、すぐれた指導力と高邁な徳性を備えた革命の指導者としての風貌をあらわしはじめ、反日民族解放運動を導く偉大な革命家、傑出した指導者に成長していった。





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