金日成主席『回顧録 世紀とともに』

注 釈
−第8巻:第22・23・24章−


 9.18事変 1931年9月18日、日本帝国主義者が強行した中国の東北地方にたいする武力侵攻事件。 「満州事変」ともいう。

 7.7事変 1937年7月7日の夜、日本帝国主義者が全中国を占領する目的で蘆溝橋駐屯中国軍を不意に攻撃した事件。これが発端となってはじまった日中戦争は、1945年までつづいた。「蘆溝橋事件」ともいう。

 『子守歌』 朝鮮反日民族解放運動の指導者金亨稷先生が、金日成同志を愛国者、国と民族の英雄に育てるためにつくった歌。先生は、康盤石女史とともに、幼い金日成同志にこの歌をよくうたって聞かせた。

 1 眠れ眠れ わが子よ眠れ
   ぐっすり眠り 大きくなれ
   家では孝行者 となりにゃ なかよし
   眠れ眠れ いとしいわが子よ
 2 眠れわが子よ じきに小学校
   ぐっすり眠り いつしか大学生
   博士になれ 英雄になれ
   国の解放 もたらしておくれ

 『鴨緑江の歌』 日本帝国主義者に国を奪われた朝鮮人民の愛国的感情を反映して、3.1人民蜂起(1919)直後に創作された革命歌。『渡江歌』ともいう。

 1 1919年3月1日
   この身 鴨緑江を渡れる日
   年ごと この日きたりても
   誓い果たさずんば われ帰らず
 2 鴨縁江の流れよ 祖国の山河よ
   故郷に帰る日 いつのことか
   死しても忘れぬ 誓い胸に
   国とりもどし 帰りなん

 『朝鮮の歌』 抗日革命闘争の初期、金日成同志によって創作された革命歌。

 1 朝のひざしが 美しくうるわしく
   われらの国の名を 朝鮮と呼んだ
   これほど貴く 美しい祖国
   この世に2つとない わが祖国
 2 金銀財宝あふれる 三千里山河
   5000年の歴史誇る わが祖国
   悪らつな日帝 この地から追い出し
   解放の鐘の音 高らかに鳴らさん
 3 日帝も地主もいない 新朝鮮
   自由なこの地に わが政権立てよう
   英知ある人民 暮らす祖国
   われらが 永遠に輝かさん

 腰営口会議 チュチェ24(1935)年3月21日から27日にかけて、中国の汪清県腰営口で開かれた朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部会議。金日成同志はこの会議で、反「民生団」闘争の極左的な誤りを克服する問題を提起するとともに、遊撃区を解散し広大な地域に進出して遊撃戦を展開する方針とその課題を示した。

 反「民生団」闘争 日本帝国主義者が朝鮮人民の革命闘争を内部から切り崩そうと、1932年2月、中国の間島地方でつくりあげた反革命的スパイ団体である「民生団」に反対する闘争。「民生団」は、その反革命的正体があばかれて1932年4月に解体されたが、日本帝国主義者は革命隊伍内にその組織が深く根をおろしているかのように見せかけるため謀略と術策の限りをつくした。彼らの奸計にはまった左傾日和見主義者と分派・事大主義者は、反「民生団」闘争を極左的に展開し、朝鮮人に「民生団」のレッテルを張りつけて殺害した。そうして、数多くの堅実な革命家が犠牲となり、革命隊伍内には不安と恐怖の雰囲気がただよい、隊伍の統一団結と朝鮮革命の発展に重大な損失をもたらした。反「民生団」闘争における極左的偏向は、金日成同志の原則的な闘争によって解消された。

 大荒崴会議 チュチェ24(1935)年2月24日から3月3日にかけて、中国の汪清県大荒崴で開かれた党および共青幹部会議。この会議では、反「民生団」闘争を極左的に展開し、朝鮮人を「民生団分子」ときめつけて処刑し、朝鮮革命の発展に重大な危機をまねいた左傾日和見主義者と分派・事大主義者の偏向を克服する問題、幹部の抜擢で、朝中人民の戦闘的団結と反日共同闘争の強化に即して、革命にたいする忠実性と能力を基本とする原則を堅持する問題、朝鮮の共産主義者がかかげた民族解放のスローガンにかんする問題などが討議され、しかるべき対策が講じられた。

 青山里戦闘 間島一帯で活動していた独立軍部隊が1920年10月、吉林省和竜県青山里で日本軍に壊滅的打撃を与えた戦闘。

 火曜派 1923年5月、朝鮮の初期共産主義者によって組織された「新思想研究会」が、1924年11月にマルクスの誕生日が火曜日であることにちなんで「火曜会」と改称。1925年に創立された朝鮮共産党内に多くの派閥が生じ、そのころから「火曜派」と呼ばれるようになった。1920年代、朝鮮の労働運動と大衆運動を分裂させ、派閥争いをこととして、朝鮮共産党を破壊(1928年に解散)した分派の一つ。解放(1945・8・15)後には、南朝鮮の党組織を破壊し、人民の革命闘争を失敗に導いた。共和国北半部に入ってからも朝鮮労働党の破壊を企て、祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期には党と政府の転覆をはかった。1952年12月の朝鮮労働党中央委員会第5回総会を契機に粛清された。

 M・L派 この名称は、1920年代の中葉に旗揚げしたレーニン主義者同盟に由来する。M・L派をはじめ、分派分子の策動によって、1925年に創立された朝鮮共産党は3年後に解散を余儀なくされた。党の解散後も派閥争いは続いた。解放(1945・8・15)後には、南朝鮮の党組織を破壊し、大衆運動を失敗に導いた。祖国解放戦争(朝鮮戦争)と戦後の時期には、敵と結託して朝鮮労働党と共和国政府の転覆をはかった。1956年8月の朝鮮労働党中央委員会総会を契機に粛清された。

 趙基天(1913・11・6〜1951・7・31) 詩人。咸鏡北道会寧の出身。日本帝国主義の朝鮮占領後、両親とともにシベリアに移住し幼年時代を送る。オムスク・ゴーリキー師範大学を卒業し、中央アジアの朝鮮師範大学で約2年間教鞭を取る。このころから詩作を手がける。祖国の解放後、帰国し、新しい祖国の建設に立ち上がった人民のたたかいと、祖国解放戦争(朝鮮戦争)の時期の人民軍軍人の戦いを描いた数多くの詩を創作。代表作は、金日成同志の革命活動史における意義深い出来事の一つである普天堡戦闘を描いた長編叙事詩『白頭山』。1951年3月から朝鮮文学芸術総同盟中央委員会の副委員長をつとめる。同年、米軍の爆撃によって死亡。

 鄭寛K(1916・11〜1983・12) 画家。平壌出身。1949年から終生、朝鮮美術家同盟中央委員会の委員長をつとめる。抗日武装闘争の時期、金日成同志によって組織、指揮された普天堡戦闘を描いた油絵『普天堡の炎』と油絵『鋼鉄をつくる人々』をはじめ、さまざまなテーマの美術作品を数多く創作。

 衛正斥邪運動 外国の侵略から国を守るため愛国的な儒者が中心となって展開した反侵略運動。18世紀末、欧米資本主義諸国の侵略に抗する儒者によって開始。19世紀末、日本帝国主義者の朝鮮侵略が強まると、この運動に参じていた一部の儒者は反日義兵闘争に参加した。

 甲午農民戦争(1894〜1895) 封建支配層と日本の侵略者に抗して全羅道地方で起こった農民戦争。1894年が甲午年であることから、甲午農民戦争という。



 


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