金日成主席『回顧録 世紀とともに』

8 凱 旋


 
 平壌歓迎市民大会で演説をおこなう金日成主席(1945年10月14日)
 

 <チュチェ34(1945)年8月、朝鮮は解放の熱気に包まれた。三千里の国土を震撼させた感激の渦のなかで、人民は民族の英雄金日成将軍の凱旋を一日千秋の思いで待っていた。
 民族の領袖を生んだ古都平壌は、金日成将軍の凱旋を待って夜も静まることを知らなかった。チュチェ14(1925)年、吹雪のさなかに故郷を発った金日成将軍。その将軍の凱旋を40万の平壌市民は今日か明日かと待ち焦がれた。
 ソウルでは、呂運亨、許憲、洪命熹などの名高い人士たちによる金日成将軍歓迎準備委員会が組織された。ソウル駅前は連日、金日成将軍を迎えようとする数千数万の市民で埋めつくされた。
 3000万の心臓は、金日成将軍の凱旋を待ち構えて、激しく脈打っていたのである>


 日本の無条件降伏を伝えるニュースを聞いて、訓練基地の朝鮮人民革命軍隊員たちは、興奮にかられて帰国の準備に取りかかりました。20年もの間、他郷で雨露をしのいできたわたしも、一刻も早く故郷に帰りたいと念じました。しかし、我々は、祖国と郷里への思いを胸に秘め、帰国の日をしばらく延ばさざるをえませんでした。

 朝鮮人民革命軍の祖国凱旋を待ち焦がれている国内人民の気持ちを、我々も知らないわけではありませんでした。しかし、我々は出発を急ぎませんでした。準備万端ととのえて祖国に凱旋しようというのが、我々の心づもりだったのです。準備とは何か。それは、新しい国づくりの準備でした。祖国解放の戦略的課題が完遂された状況のもとで、我々は新しい国づくりの時間表をくりあげなければならなかったのです。

 1945年9月2日、東京湾に停泊していた米軍戦艦「ミズーリ」号で、日本の無条件降伏を法的に確認する国際的な調印式がおこなわれました。その日、日本政府と軍部を代表して、重光(葵)外相と梅津(美治郎)参謀総長が降伏文書に署名しました。重光は、中国駐在日本公使の任にあったとき、烈士尹奉吉が投げた爆弾によって片足を失いました。梅津も日本軍部の名物男でした。彼は、1939年の秋から1944年の夏まで関東軍司令官を務めました。日本関東軍が存在した全期間に司令官は10回余りすげかえられましたが、彼は最後から2番目の司令官でした。敵が「東南部治安粛正特別工作」という仰々しい看板をかかげて、朝鮮人民革命軍にたいする大「討伐」騒ぎを起こしたのは、ほかならぬ梅津が関東軍司令官に就いていたときのことです。

 多年にわたり、人類にはかり知れない不幸と苦痛をもたらした第2次世界大戦は、日本の降伏と反ファシズム勢力の勝利をもって終結しました。我々の宿敵梅津が降伏文書に署名し、敗戦の苦杯をなめていたとき、我々は、抗日革命に勝利し、民族解放革命の新しい歴史を創造した主人公となって、帰国の準備を進めていたのです。

 第2次世界大戦の終結は、共産主義思想の発祥地であるヨーロッパと植民地民族解放闘争の最前線であったアジア諸国に、民主主義にもとづいて新しい社会を建設する展望を開きました。

 国内情勢も良好でした。

 祖国が解放されるや、全国各地で人民委員会が組織されました。国内党組織の革命家と抗争組織のメンバーが中核となって、いたるところで党組織や大衆団体をつくりはじめました。平壌やソウルなど国内の主要都市には、内外の作家、芸術家たちが、民族文化建設の新たな夢を抱いてぞくぞくと集まりました。労働者たちは、武装自衛隊を組んで工場、企業所や炭鉱、鉱山、港湾、鉄道などを守りました。全民抗争の過程で発揮された人民の救国熱は、解放後、建国熱へと転換したのです。

 朝鮮革命の当面の課題からしても、また、最終的な目的達成の見地からしても、内外の情勢はきわめて楽観的でした。しかし、我々は、いささかも気をゆるめることができませんでした。

 日本帝国主義は敗亡したとはいうものの、反革命は革命への攻撃を断念していなかったのです。日本天皇の無条件降伏宣言後も、日本軍の敗残兵は抵抗をつづけていました。一方、親日派や民族反逆者、そして、搾取階級の代弁者は、裏にまわって新しい国づくりを妨害する陰謀を企てていました。革命の裏切り者と異分子、政治的野心家は、正体を隠して、党組織や人民政権機関に潜入しました。

 我々は極東にいたとき、米軍が38度線以南に進駐するというニュースを聞きました。米軍が進駐すれば、わが国には2大国の軍隊が同時に駐留することになります。戦敗国でもない朝鮮に2つの国の軍隊が駐留するのは、口実や名分のいかんにかかわりなく、好ましくないことでした。

 甲午農民戦争のとき、日本と清国が、それぞれわが国に出兵しました。けれども、朝鮮人民は、彼らの恩恵を何一つ受けていません。両国の出兵は結局、日清戦争へとつながり、朝鮮の国土は戦乱で荒廃化しました。

 ソ米両軍の駐留によって、わが国は社会主義と資本主義の対決の場と化する恐れが生じ、それを背景に朝鮮民族は、左翼と右翼、愛国と売国とに分裂する危険にさらされたのです。党争がはびこり、党派と外部勢力が結託すれば、行きつくところは亡国しかありません。

 このような状況のもとで、朝鮮民族の自主権を守り、新しい国づくりを進めるためには、何よりも朝鮮革命の主体的力量を全面的に強化しなければなりませんでした。

 朝鮮革命の主体とは、朝鮮人民自身のことです。

 わたしは、革命運動の初期から、抗日革命の直接の担い手である人民を教育し、組織し、動員するために全力を傾けました。祖国解放の最後の決戦に参加した数十、数百万の抗争隊伍は、一時的な感情で戦場に馳せ参じた烏合の衆ではありません。それは、我々が何年もの歳月をかけて鍛えあげた、組織化された大衆の隊伍だったのです。

 わたしは1人の革命同志を得るために、10里の道も遠しとしませんでした。また、人民を守るためなら、肉弾となって火の中にも飛び込んだものです。

 抗日革命の全過程は、人民大衆を歴史の主体とみて、彼らを意識化、組織化し、祖国解放のたたかいの第一線に立たせた愛と信頼の歴史であり、人民大衆自身がみずからの血と汗によって、歴史のりっぱな主体であることを誇示した、偉大な闘争と創造の歴史です。
この人民と人民革命軍の闘士たちこそ、新しい祖国の建設を担当すべき朝鮮革命の主体でした。人民の愛と支持のなかで、人民の力を信じ、人民に依拠してたたかうとき、いかにきびしい試練をも克服し、いかに困難なたたかいでも勝利するというのは、我々が抗日革命の炎のなかで得た貴重な真理なのです。

 国が解放されると、少なからぬ人は、祖国を取りもどすのが難しいのであって、いったん取りもどしてから新しい社会を建設するのはさほど難しいことではないと言ったものです。しかし、わたしは、国づくりこそ複雑にして困難な事業だと考えました。

 抗日革命を朝鮮人民自身の力で遂行したように、新しい祖国の建設も朝鮮人民自身の力でやり遂げなければならなかったのです。建党、建国、建軍はもとより、民族経済と民族教育、民族文化の建設、科学と技術の発展など、あらゆる分野を朝鮮人民自身の力で切り開いていこうというのがわたしの決心でした。人民を新しい祖国の建設へと奮い立たせるには、彼らを教育し、組織し、動員する革命の参謀部と政権がなければならず、新社会の建設を武力で支える軍隊がなくてはならなかったのです。わたしは、こうした見解にもとづいて、1945年8月20日、訓練基地で朝鮮人民革命軍の軍事・政治幹部会議を開き、朝鮮革命の主体的力量を強化するための新たな戦略的課題として、建党、建国、建軍の3大課題を示しました。

 我々は、この3大課題を実現する具体的な活動の方向と方法を討議し、必要な仕事の手配もしました。建党、建国、建軍の3大課題を遂行するための工作班を組み、派遣地も確定しました。姜健、朴洛権、崔光、任哲、金万益、孔正洙らは、中国の東北地方へ派遣されることになりました。

 我々は祖国に向かう前に、数日間にわたって工作員のための講習会を開きました。そこでは、派遣先における活動の内容と方法から各地方の風習にいたるまで、多くの問題が扱われました。講義は、わたしと金策、安吉が受け持ちました。

 講習会が終わると、戦友たちは早く祖国へ行こうとせきたてました。そのころは、誰もがみな帰国の日を待ちのぞんで、子どものようにはしゃいでいたのです。我々は帰国するさい、子ども連れの女子隊員はゆっくり帰国させることにして、訓練基地に残しておきました。

 朝鮮人民革命軍は、分散して帰国しました。それは、ソ連軍との連合作戦計画に従って部隊別に指定の位置を占め、戦闘行動に移ったとき、日本が突如、無条件降伏したからです。

 国内各地に落下傘で降下するため訓練基地で待機していた部隊は、ハバロフスク、牡丹江、汪清、図們を経て陸路で祖国へ帰ることになっていました。ところが、事情によってその計画を取りやめ、コースを変更して船で帰国することにしました。そのころ、関東軍の敗残兵が、牡丹江の南にある鉄道のトンネルを爆破したのです。敵は迂回道路に通ずる橋梁や牡丹江飛行場の滑走路まで破壊していたので、我々は自動車も汽車も飛行機も利用できないありさまでした、それで、やむなく牡丹江から極東基地に引き返し、ウラジオストクから軍艦で帰国の途についたのです。

 ソ連第1極東戦線軍司令部の大佐が、わたしを護衛して同行しました。艦長はわたしに、普通の速力でも1昼夜なら元山に着くと言いました。

 我々がウラジオストクを出た日は、海が荒れていました。艦の両舷から山のような波が甲板をたたくのですが、その光景はじつに壮観でした。ほとんどの隊員が船に乗ったことがないので、船酔いで往生しました。一行は、艦中で一夜を送りました。翌日は、波がおさまりました。船べりから茫々たる大海原を眺めていると、なぜか胸がいっぱいになったのをいまもって忘れることができません。わたしのまぶたには、13歳のときに渡った鴨緑江の姿がふと浮かんできました。亡国の悲しみに凍りついていたあの鴨緑江と祖国のありとあらゆる川が解放の熱気に解けて、この海と化したのではないかと思われました。肉親や親しい友、戦友を異国の土の下に残して、20年ぶりに帰国するわたしは、何とも形容しがたい悲喜こもごもの心境でした。

 我々が元山港に上陸したのは、1945年9月19日でした。埠頭で我々を迎えたのは、元山市駐屯ソ連軍司令部の人たちでした。あの日、埠頭にいた朝鮮人のなかで記憶に残っているのは、当時ソ連軍将校だった韓一武です。彼が、江原道党委員長を務めたのはその後のことです。

 ソ連軍側がわたしの動きを秘密に付していたので、埠頭には歓迎大衆の姿が見えませんでした。

 後日、許憲、洪命熹、呂運亨など、わたしの凱旋を待ち構えていた国内の人士たちは、上陸のさい群衆の歓迎がなかったことを知って、なぜ事前に知らせなかったのか、そんなふうにこっそり帰ってきては、民衆の気持ちはどうなるのかと残念がるのでした。元山市党委員会の李舟河も同じようなことを言いました。許憲は、わたしの帰国の日が事前に公開されていたなら、毎日ソウル駅で待ち受けていた人たちはもとより、ソウル市民の大半が、徒歩や汽車で元山に駆けつけただろうと言うのでした。

 しかし、我々はそのような仰々しい歓迎をいささかも望んでいませんでした。抗日闘士たちは、民族解放のために数千数万の日々、戦場や絞首台で流した血と苦労の報いを受けようなどとは思ってもいなかったのです。

 わたしはあのとき、祖国に帰ってすぐ朝鮮人民革命軍の凱旋を公表するのでなく、黙って人民のなかへ入り、建党、建国、建軍の3大課題を遂行するための地ならしをするつもりでした。その地ならしが終わったあとで、祖国の人民に挨拶をしようと思っていたのです。

 わたしは元山に到着したあと、地方の党活動家との接触を通して、早く人民のなかへ入る必要をいま一度痛感しました。

 わたしは元山に上陸した日、多くの人と語らいました。元山市党の人たちとも話し、東洋旅館で労働組合の代表をはじめ、地方の有志たちとも会いました。なかでも、李舟河とはじっくり話し合ったものです。

 元山の人たちと会ってわたしが総じて受けた印象は、国内のどの党派、どの組織も人民に明確な建国路線を示していないということでした。

 元山市党の一部の幹部は、ソビエトを夢見ていました。彼らは、朝鮮の進路の問題が話題にのぼると、即時社会主義革命をおこなうべきだと主張するのでした。彼らのそうした主張は、元山市党の建物の壁にかけてあった「共産主義の旗のもとにプロレタリアートは団結せよ!」というスローガンにもそのまま反映されていました。

 わたしはそのスローガンを見て、あなたたちは労働者階級の力だけで新しい祖国を建設するつもりなのかと尋ねました。すると彼らは、自分たちは共産革命をめざしてたたかっているのだから、労働者階級に頼るしかないではないかと言うのでした。

 彼らの主張は、1920年代の後半期にわたしがしばしば出くわした初期共産主義者たちの主張と大して変わるところがありませんでした。あれから20年経ち、解放された祖国でそんな主張をまた聞いたのですから、うっとうしくてなりませんでした。彼らの政見や主義主張には、なんらの進歩も認められず、時勢の新しい流れにそって動こうとする真剣な態度もみられませんでした。

 わたしは元山市党の人たちに、「共産主義の旗のもとにプロレタリアートは団結せよ!」というあのスローガンは、反帝反封建民主主義革命を当面の課題としているわが国の実情には合わない、民主主義の旗のもとに団結せよと改めるべきだ、解放された祖国で人民の自由と権利が保障される民主的な社会を建設するには、労働者階級だけでなく、その同盟者である農民はもとより、新しい社会の建設に利害関係のある各階層の愛国的な大衆を統一戦線に結集し、全民族の力でわが国を富強な自主独立国家につくりあげなければならないと説きました。

 夕食の前からはじまった彼らとの対話は食後にもつづけられました。彼らがしきりに質問するので、わたしはなかなか席を立つことができませんでした。徐哲と金益鉉がわたしに随行していたのですが、金益鉉がわたしに、もう12時です、山でもしょっちゅう夜を明かしていたのに、解放された祖国に来てまで徹夜をするつもりですかと言うのでした。わたしは、国は解放されたが、我々はいま新たな出発点に立っていることを忘れてはならないといましめました。

 元山市党の人たちとの話し合いは、帰国後、わたしが祖国光復会10大綱領の精神にもとづいて国内の人たちに建国路線の輪郭を示した、祖国における最初の対話でした。わたしはその日、わが国に樹立されるべき政権形態は、民主主義人民共和国でなければならないということも主張しました。

 李舟河をはじめ、元山市党の人たちや元山市の有志たちと会ってみて、わたしは、8.15の解放後ただちに建党、建国、建軍の3大課題を内容とする新しい朝鮮建設の里程標を作成し、そのうえで帰国の途につき、祖国に着くとその足でそれぞれ指定の派遣地へ向かうことを決心したことがまったく正しかったことを改めて確認しました。

 わたしは元山に到着すると直ちに、咸鏡南北道で活動することになる工作班の一部を北行き列車に乗せて送り出したのです。同じ日、鉄原方面を担当した工作員たちも南行き列車に乗って派遣地へ向かいました。

 人間の体験することのできる最悪の苦しみと逆境のなかで、革命に青春をささげながらも、まったく休息をとることができなかった戦友たちに、1日の休みも与えず、早く発つようにと促すほかなかったのですから、わたしの心も軽くありませんでした。まして、我々が元山港に上陸した日は中秋の前日でした。元山で中秋をすごし、疲れをいやしてから戦友たちを送りたいという思いが胸をよぎりましたが、緊張した国内の情勢を知って、そんな未練を払いのけたのです。咸鏡南北道へ向かう工作班は、列車の中で中秋を迎えました。車内は、墓参りに行く人たちで超満員だったそうです。

 派遣員のなかには、金策や安吉もいたし、崔春国、柳京守、趙政哲もいました。彼らは、わたしと別れるのをたいへん残念がりました。

 わたしも寂しい思いをしました。抗日戦争で重傷を負った崔春国と趙政哲が肩を組んで不自由な足を引き引きデッキに立ち、わたしに手を振るのを見ると、胸中が穏やかでありませんでした。麻酔もせずに手術を受けたその足で、彼らはどんなに多くの戦場といばらの道を切り抜けてきたことでしょう。

 崔春国と趙政哲は、解放された祖国で戦傷者の待遇を受けながら、何年間か抗日の戦場で積もった疲れをいやしてしかるべき人たちでした。しかし、彼らは、その疲れをいやすいとまもなく、笑顔で北方の派遣地へ向かったのです。

 前途には、富強な自主独立国の建設という未踏の高峰が幾重にもそびえていました。それらの峰を越えるには、さらに多くの血と汗を流さなければならないのです。抗日大戦も前人未踏の戦いでしたが、新しい祖国の建設も道なき道を進むたたかいだったのです。それが、道なき道、無数の困難と試練が横たわるいばらの道でなかったなら、そんなにまで急ぎはしなかったでしょう。

 わたしは出発を前にした金策に、暇をみて必ず郷里を訪れるよう念を押しました。崔春国と柳京守、趙政哲、李乙雪にも、そう言いました。彼らの故郷は、みな咸鏡南北道だったのです。しかし、派遣地から平壌に呼び戻されるまで、誰一人として郷里を訪ねた人はいませんでした。故郷への慕情が冷めたからではありません。高度の使命感と責任感がそれを許さなかったのです。みなさんは、わたしが降仙製鋼所へ行くとき生家にも立ち寄らなかったと、『万景台の分かれ道』という歌を作ってうたっていますが、実際のところ抗日革命闘士は凱旋後、1人として故郷を訪れず、建党、建国、建軍の地ならしをしました。司令官の命令、指示を遂行するまでは、故郷に帰る権利がないというのが、彼らの思考方式だったのです。

 このように、我々は祖国の地を踏んだその日から、人民のなかへ入っていきました。抗日闘士たちは、白頭山で履いた靴のひもをほどくいとまもなく、新たなたたかいの場へと向かったのです。彼らは一様に、その派遣地を一つの作戦地域と考えていたのでした。我々の祖国凱旋は、凱旋というよりも、新たな革命の大路を開くための戦略的移動であったと言うべきでしょう。

 1945年9月20日、わたしは西海岸地区へ赴く戦友たちと一緒に、平壌行きの列車で元山を後にしました。浮来山駅では、汽車で平壌から来た北朝鮮駐屯ソ連軍司令部の代表に迎えられました。彼は、祖国凱旋を熱烈に祝賀すると言って、わたしの手をかたく握りしめました。

 我々一行は、9月22日の午前に平壌に到着しました。

 訓練基地に残っていた女子隊員たちは、その年の11月末ごろ、咸鏡北道の先鋒を経由して帰国しました。金正淑は、清津に着くとすぐ、電話でわたしにそれを知らせました。彼女ら一行は、安吉、崔春国、朴永純など清津派遣班の助力を受けながら、建党、建国、建軍の3大課題のための大衆工作に努めました。

 清津に滞留中、金正淑は、清津製鉄所、古茂山セメント工場、富寧冶金工場をはじめ、多くの工場、企業所、教育・文化機関などを見て回り、各階層大衆の政治工作にもあたりました。彼女が会った人たちのなかには、労働者、農民、事務員、家庭の主婦、そして、党と政権機関、勤労者団体の責任幹部はいうまでもなく、中学生もいました。

 清津市民は、金正淑を熱烈に歓迎したそうです。『セギル新聞』は、第1面に「金女史の半生」という見出しで、彼女の革命活動を大きく報じたものです。

 北方都市で多くのことを体験した彼女は、平壌に来てからも清津のことばかり話していました。彼女は、中学生たちと写真を撮ったことや、自分たち一行に昼食をもてなしてくれた羅津そば屋の人たちの温かい心づかいなどについて、よく話したものです。幼い金正日も女子隊員たちと一緒に祖国に帰りました。

 わたしも平壌入りした翌日から戦友たちとともに、建党、建国、建軍の3大課題の遂行に取り組みました。8.15の解放後、わたしがもっとも多忙な日々を送ったのはそのころです。

 凱旋後の活動でも、基本は対人活動、人民大衆との活動でした。一方では、工場や農村、住民地区で人民に会い、他方では、事務室や宿所で白頭山時代のように戦友たちと寝食をともにしながら、内外から訪ねてくる各階層の人たちと会って国事を論じました。

 戦友たちは、わたしに会うたびに、まず帰郷して祖父母に挨拶するのが道義ではないかと言いました。いくら勧めてもわたしが言うことを聞こうとしないので、林春秋はわたしに内緒で万景台を訪れ、行きずりの旅人をよそおって家族の安否をうかがってきました。そのおかげで、わたしは故郷の一家のことを詳しく知ることができました。

 9月末ごろ、どうしてわかったのか、わたしが平壌に来ているという噂が市内に広がりました。噂を聞いて、叔父の金亨禄が平安南道党を訪ね、わたしに会わせてほしいと懇請しました。林春秋は叔父に、甥の特徴を話してくれと言いました。叔父は、「甥の本名は、金成柱です。万景台ですごした子どものころはツンソニとも呼ばれました。笑うと、えくぼができたものです」と答えました。

 その日の夕方、林春秋は、わたしの宿所へ叔父を案内してきました。叔父はわたしを見ると、「たいへんな苦労をしたろうな」と言ったきり、涙にむせびました。異境の空の下にさびしく眠る肉親と、20年の歳月、雨風にさらされ、心を痛めてきたすぎし日々を思い起こして、胸がつまったのでしょう。叔父のなめた苦労もまた、いかばかりであったでしょう。

 「成柱が国を取りもどして帰ってくるまで、わしは家事に追われて、兄さんや義姉さんの墓にも行けなかった。うちの家族はどうしてこうも寿命が短いのだろう」

 叔父は、こう言ってわたしの顔をまじまじと見つめました。そして、あんなにきれいだった顔がどうしてこんなに荒れてしまったのか、白頭山の風のひどさは聞きしにまさるようだと顔を曇らせるのでした。

 しかし、顔の荒れ様は、叔父の方がひどかったのです。20年前より倍も老けてみえる叔父の姿に、わたしも涙を抑えることができませんでした。どうして、こんなにしわが増えたのか、この無数のしわの1本1本にどれほど多くの人生の苦労が刻まれているのだろうかという思いがしました。

 「白頭山が近くにあったら、わらじでもつくって成柱の軍隊に送れたものを、20年もの間、わしは何一つしてやれなかった」

 叔父のこの言葉に、わたしはこう言って慰めました。

 「叔父さんは、家を守ってくれたではありませんか」

 その日、わたしは、叔父と夜もすがら昔語りをしました。そして翌日、万景台に帰しました。そのさい、わたしに会ったことを誰にも話さないでほしいと言うと、叔父はわかったと答えました。ところが万景台に帰ると、祖父に成柱が平壌に来ているとそっと耳打ちしたのです。祖父は、「そりゃそうだろう。たとえ白頭山が変わっても、うちの成柱が変わるはずがなかろうて。いま巷では『全羅道の金日成』だの『咸鏡道の金日成』だのと騒いでいるが、朝鮮にそんなに大勢金日成がいてたまるもんか」と言ったそうです。

 わたしは10月9日に降仙製鋼所を視察し、翌日党を創立したのち、10月14日に平壌市民の歓迎大会ではじめて祖国の人民に挨拶をしました。

 実のところわたしは、歓迎市民大会といった大げさな場で人民にまみえる気など毛頭ありませんでした。ところが、国内の人士や戦友たちが、盛大な歓迎集会を主張して譲らなかったのです。

 わたしがある日の会合で金栄煥という仮名を使わずにはじめて本名を名乗ったとき、誰かが演壇に立ち、金日成将軍の祖国凱旋を歓迎する全民族的な集会を開こうと提案しました。参会者は、こぞって熱烈な賛意をあらわしました。そのころすでに、平安南道党と平安南道人民政治委員会が共同でわたしを歓迎する行事の準備を内々に進めていたのです。大会の前日には、牡丹峰のふもとの公設運動場に松葉のアーチや仮設舞台まで設けられました。

 わたしはあらかじめ金溶範に、仰々しい行事などしないようにと言いつけました。しかし、平安南道党の人たちは聞き入れませんでした。彼らは、市内の大通りや路地に、金日成将軍が平壌入りし、14日、公設運動場で人民に挨拶をするというビラまで張り出したのです。

 

 1945年10月14日正午前、会場の平壌公設運動場へ向かうため車で大通りに出たわたしは、広場や道路にあふれる人波を見てびっくりしました。大会場は、すでに黒山の人だかりでした。場外の木々にも大勢の人が登っていたし、最勝台や乙密台の方も群衆で埋め尽くされていました。会場の内外にみちあふれる歓迎の熱気に包まれ、わたしは群衆が歓声をあげるたびに手を振って答礼しました。

 この市民大会には、ソ連第25集団軍司令官チスチャコフ大将やレベゼフ少将も列席しました。

 その日、多くの人が演説をしました。曹晩植も演壇に立ちました。彼の演説のなかで、聴衆を笑わせた一こまが思い出されます。彼は調子づいて、朝鮮が解放されたと聞いて夢ではなかろうかと、この腕をこんなふうにつねってみたところ確かに痛かったですと手真似をしながら話したものです。

 わたしが演壇に立つと、「朝鮮独立万歳!」を叫ぶ群衆の歓声は最高潮に達しました。

 歓呼の声を耳にした瞬間、20年間積もり積もった心身の疲れが一挙に吹き飛ばされるようでした。民衆の歓呼の声は熱風となって、わたしの身に、そして心に強く迫りました。

 10余万群衆の燃え上がる熱気と歓呼を一身に受けながら壇上に立ったとき、わたしを包んだのは、いかなる美辞麗句をもってしても形容することのできない幸福感でした。生涯でもっとも幸福なときはいつだったかと聞かれたら、わたしは、まさにあのときだったと答えるでしょう。それは、民衆の子として民衆のためにたたかったという幸福感、民衆がわたしを愛し信頼していると感じるところからくる幸福感、その民衆の懐にいだかれているという幸福感にほかなりません。

 1945年10月14日、平壌公設運動場にあがった民衆の歓呼の声は、祖国と同胞のためにわたしがなめた半生の艱難辛苦への表彰であり、謝礼であったといえます。わたしはその謝礼を、わたしにたいする人民の愛と信頼として受けとめました。わたしがつねづね言っていることですが、この世に人民の愛と支持を得ること以上の幸福はありません。

 人民の愛、人民の支持――わたしはいままで、これを革命家の存在価値と幸福をはかる絶対的な基準としてきました。人民の愛と支持を抜きにして革命家に何が残るでしょうか。残るものは何もありません。

 ブルジョア政治家は金で人民を引きつけますが、我々は血と汗によって人民の信頼を得ました。わたしは、人民が示した信頼に感激し、それをわたしが享受しうる一世一代の幸福と受けとめました。

 その日のわたしの演説の骨子は、民族の大団結でした。わたしは、力のある人は力で、知識のある人は知識で、金のある人は金で愛国事業に貢献しよう、全民族が一致団結してこの地に富強な自主独立国家を建設しようと呼びかけました。群衆は、天地をゆるがす拍手と歓呼で支持賛同を示しました。


 <当時の新聞『平壌民報』は、10月14日の平壌公設運動場での光景を「錦繡江山を揺さぶった40万の歓声」という見出しでつぎのように伝えている。
 「4000年の歴史を誇る平壌、40万の人口を擁する平壌とはいえ、かつて、これほど多くの人が集まった例があるだろうか。これほど意義深い集会をもった例があるだろうか。…
 …とくに大会を歴史的に意義あらしめ、会衆を感動させたのは、朝鮮の偉大な愛国者、平壌の生んだ英雄金日成将軍がここに臨席し、民衆に喜ばしくも熱烈な挨拶と激励を送ったことである。…朝鮮同胞がもっとも敬慕し待望していた英雄金日成将軍がそのりりしい勇姿をあらわすと、場内には熱狂的な歓声が沸きあがり、会衆は歓喜のあまり感涙にむせんだ。…群衆に与えた感動は鋼鉄のようで、山野を震わす歓声のうちに、『この人とともにたたかい、ともに死のう』という人びとの決意は見る見る高まった」>


 当日の市民大会は、朝鮮人民が新しい国づくりの壮途につく行軍の第一歩だったといえます。

 わたしはその日、会場で叔母の玄養信と外叔父の康用錫とも会いました。大会が終わり、幹部壇からおりて叔母に会ったときのことを思うと、いまでも目頭が熱くなります。身動きすらままならぬ、あの人ごみをどうかきわけてきたのか、叔母はわたしの乗用車の中で涙を流していました。幹部壇へとしゃにむに進む叔母を朱道逸が引きとめて車に乗せたということでした。

 叔母は、わたしの手を握りしめ、「成柱、何年ぶりか」と言って喉をつまらせました。

 「叔母さん、大所帯のきりもりで、さぞかし苦労なさったことでしょう」と、わたしは手短に挨拶をしました。

 「苦労は、山で戦った成柱のほうがよっぽどひどかったろうに、年中あったかいオンドル部屋ですごしたわたしらに何の苦労があったと言うんだ。わたしは、ここへ来ながらも内心心配したものだよ。うちの人は成柱が帰ったと言ってたけど、成柱じゃなくて『全羅道の金日成』だったらどうしようかとね。ところが、演壇を見上げたら間違いなく成柱じゃないか。どんなにうれしかったことか」

 叔母はこう言って、また涙を流すのでした。

 その光景を見て、戦友たちもみな涙をこぼしました。

 「叔母さん、平壌中が笑いさざめき、踊りをおどっているというのに、こんなうれしい日にどうして泣いてばかりいるんですか」

 「成柱を見ていると、義姉さんや義兄さんのことが思い出されてね。こんな日に、義姉さんや義兄さんが生きていて、成柱の演説を聞いたらどんなに喜んだことか」

 「叔母さん、きょうは叔母さんがわたしの母代わりです」

 こう言うと、叔母は、わたしの胸に顔をうずめて号泣しました。

 わたしは、叔母がわたしの母を思って泣いているということがよくわかりました。母と叔母は、実の姉妹よりも仲がよかったのです。叔母が、わたしの家に嫁入りしたのは15歳のときだそうです。わが家の暮らしがあまりにも貧しかったので、はじめのうちは家の人たちとよくなじめませんでした。それを、わたしの母にいたわられて、しだいに家族になじむようになったのです。

 母は生前、叔母にたいへんやさしくしてやったものです。母と叔母は、野良仕事のときもいつも一緒でした。畑の草取りの合間には、寝不足で疲れきっている叔母を少しでも眠らせようと、母は自分の膝を枕にしてあげました。そして、寝入った叔母の髪をそっとといてやるのでした。このように、母のあたたかい心遣いを受けながら嫁入り暮らしをはじめたのですから、母を忘れることができなかったのでしょう。叔母は、母が他界したとき、安図へ行って焼香一つできなかったことを非常に心苦しく思っていました。

 叔母は、自分のようなつまらない人間が100人集まっても、義姉さんの代わりはできない、だけど、今日は義姉さんの魂が飛んできて、この運動場にいるみたいだと言って、袖で目じりを押さえるのでした。そして、泣いては笑い、笑っては泣きながら、亨禄叔父と大喧嘩をした話をしました。叔母は、腹黒いあの人は、わたしに内緒で城内へ行ってお前に会って来たんだよ、なのにずっと知らぬふりをしていて、昨日はじめてその話をするじゃないの、それでひとしきり文句を言ってやったのさ、金日成があんた1人の甥で、わたしの甥じゃないって言うのかいと言ってやったら、ひじは内側に曲がるもので外側には曲がらないもんだ、なんて突拍子もないことを言い出して、大喧嘩になったのよ、とひとしきり話すのでした。

 その日の午後、わたしは叔父、叔母と一緒に万景台へ向かいました。一行は現在の道路を行かずに、順和江の渡しで車を降り、そこから舟で故郷の村へ行ったのです。岸のぬかるみには、昔と変わらず渡し舟まで歩いて行けるように飛び石が並べてありました。わたしが、子どものころズボンをまくりあげてモクズガニ捕りをしたところです。

 
 革命の壮途についてから20年ぶりに万景台のふるさとの家を訪れた金日成主席

 あの日、故郷の村に足を踏み入れたとき、わたしを迎えてくれたきぬたの音と万景峰の若松の芳香はいまでも忘れられません。あのきぬたの音がなぜそんなにも潤いがあり、あの若松の芳香がなぜそんなにもすがすがしかったのか、いまもってわかりません。カルメジ原のほうから長く尾を引いて聞こえてくる牛の鳴き声に耳をすまし、久方ぶりに味わう情趣に胸が締めつけられる思いをしたものです。

 獄中の父を思って寝つかれなかったあの幼年時代が昨日のことのように思われるのに、いつしか33歳になっていたのですから、いにしえの人たちがどうして無情な歳月の流れを、一寸の光陰にたとえないわけがありましょうか。

 亡国40年目にして祖国を取りもどし、離郷20年目にして故郷に帰ったのだから、わたしは、その祖国と故郷のためにあまりにも長い歳月をささげたのではという思いがしました。

 亡国は一瞬であり、復国は1000年だというのが、抗日革命20年の行程を歩みながら、わたしが得た一つの重要な教訓でした。失うのはたやすいが、取りもどすのは難しいのがすなわち祖国だという意味です。一瞬にして失った祖国を取りもどすために数十年、数百年の苦労を強いられるというのが、現世のきびしい掟なのです。

 インドが英国の植民地となり、200余年ぶりに独立したということは周知の事実です。フィリピンとインドネシアは300余年、アルジェリアは130余年、スリランカは150余年、ベトナムは100年近くにして、それぞれ国の独立を果たしたのですから、亡国の代価はなんと高いものでしょうか。だからこそ、わたしはいまも、折に触れ若い人たちに、祖国を失えば生きていても屍にひとしい、亡国の民になりたくなかったら国をしっかり守れ、亡国の悲しみに痛哭する前に、祖国をいっそう富強にし、石くれ一つでももっと拾って城塞を高く築けと言い聞かせているのです。

 故郷に帰ったその日の風景のうちでいまだに忘れられないのは、股裂けズボンをはいた2、3歳の男の子が、道端で我々一行に向かって手を振っていた姿です。その平凡な光景がなぜか、わたしの胸を熱くしたのでした。美しい故郷、その平和な世界で無邪気に、のんびりと手を振る子どもの姿は、明らかに新朝鮮のシンボルだと思われました。

 叔母のあとに従って生家の庭に足を踏み入れたときは、胸が高鳴りました。20年前は広場のように思えた庭が、そのときは手のひらほどにしか見えませんでした。しかし、ここが20年にわたる苦難にみちた行軍の終着点だと考えると、洋々たる大河を渡って岸にあがったような心地でした。

 見慣れた生家の軒を目にすると、幼いころ子守歌をうたい、凍えた手を息で温めてくれた父と母、春に散る花のように地中に埋もれたその父と母が、昔の面影そのままに生き返り、「成柱!」と呼びながら走ってきてわたしを抱きしめてくれるのではという幻覚にとらわれて、わたしは足を踏み出すことができませんでした。

 ポソン(朝鮮の足袋)のまま庭に走り出てきた祖父は、わたしを抱きしめ、「帰ってきたのか…よく顔を見せてくれ、顔を」と涙にくれるのでした。祖母も、「父さんと母さんは、どこへ残してお前一人で帰ってきたのだい…どうして一緒に帰ってこなかったのかい」と声をあげて泣くのでした。

 わたしは、祖父と祖母に平壌から持参した酒をすすめながら、こう言いました。

 「おじいさん、おばあさん。30を越すこの年まで孝行を尽くすことができず、申し訳ありません」

 「そんなことを言うもんじゃない。お前の父さんが果たせなかった朝鮮独立をお前がやり遂げたのだから、それが孝行というもんじゃ。それにまさる孝行がどこにある。国と民に尽くすことが孝行なんじゃ」

 祖父はこう言って、一息に杯をほしました。そして微笑をたたえ、きょうは酒がほんとうにうまいと言うのでした。けれども、その手はかすかに震えていました。その日は、祖母も気軽に杯を傾けました。

 しかしわたしは、祖父母に孝行を尽くせなかったという申し訳ない気持ちをぬぐい去ることができませんでした。祖父母にあまりにも心配をかけとおしたという思いが頭にこびりついて離れなかったのです。国と民に尽くすのが孝行だと言った祖父の言葉をありがたく受けとめるほかありませんでした。

 その日、南里の人たちは、みなわが家に集まりました。わたしが帰郷したと知って、斗団里や楸子島からも人びとが連れ立ってやってきました。わたしの幼友達も飲食物を携えてぞくぞくと集まってきました。

 ささやかな家族宴は、数十人を数える大宴会に変わりました。大勢の人が、わたしを歓迎して踊り、歌いました。曽祖父の金膺禹の代からいろいろとわが家の世話になった崔老人も、「クンニリ節」に合わせて踊りをおどったものです。叔母は、わたしの父がつくった子守歌をうたいました。

 その夜、わたしは20年ぶりに故郷のわが家で休みました。そのとき、わが家はオンドルの修理中で、戸も外されたままでした。まだ乾ききらない床にはわらが敷かれ、その上にござむしろが置かれていました。

 祖父は、近所の家の離れに宿を取っておいたから、今夜は窮屈でもそこで泊まるようにと言いました。わたしは祖父に、わたしたちは、山でぜいたくに暮らしていたのではありません、雨露に濡れながら野宿をしたものです、空を屋根に、草木をふとんにして生きてきたのです、こんなにすばらしいわが家に帰りながら、どうして人の家に厄介にならなければならないのですか、わたしはここで寝ますと言いました。

 祖父は満面に笑みをたたえ、お前がそうしたいのなら、その家には断りを出そう、20年ぶりに帰ったわが家だ、人の家に厄介になるなんて確かに気づまりだと言うのでした。

 祖母は、ござむしろの上に、わが家に代々伝わる木綿の布団を敷いてくれました。布団の皮は、祖母が織った木綿の布でつくったものでした。

 深夜、祖母は、わたしの枕の下に腕を差し入れて、そっと聞くのでした。

 「山で嫁をもらったんだって? 嫁も山にいたのかい」

 「はい、わたしと一緒にパルチザン闘争をした人です」

 「子どもはお前に似ているのかい」

 「似ていると言われています」

 「それはよかった」

 祖母は、ほかにもいろいろと尋ねました。わたしは祖母の腕が痛むのが心配で、おばあさん、わたしの頭が重くありませんかと聞きました。祖母は、なにが重いもんかねと言いながら、もっと深く腕を差し込むのでした。30を越える孫がかわいくて、幼年時代にそうしたように、腕を枕にしてくれる祖母の愛情がわたしの胸を熱くしました。

 「国が解放されたのだから、満州にある父さんと母さんの墓も移してこなくては」

 これは、その晩、祖母が最後に切り出した話でした。祖母としては、当然気になる問題だったのです。他郷の土の下に眠るわが子たちの骨を郷里に移して葬りたいと願う、その気持ちを理解できないわけがありましょうか。

 「おばあさん、墓を移すのも大事ですが、わたしにはそれより先に捜さなければならない恩人がいます。姻浦里の居酒屋でお父さんを救ってくれた黄さんと、カドク嶺の全州の金老人、傷寒にかかったわたしを死境から救い出してくれた趙老人たちを捜したいのです。その方たちを捜したあとで、墓を移すつもりです」

 「よく言った。そうしたら陽地村に眠る父さんも喜ぶだろうよ」

 わたしは祖母に、吉林時代と間島時代、そして白頭山時代にわたしを助けてくれた恩人や戦友、知人のことを夜通し話しました。また、異国の山野や他郷の名も知れぬ丘で寂しく眠っている父や母、叔父の金亨権や弟の哲柱のことがしのばれて、涙にぬれました。すると祖母も声を殺してむせび泣くのでした。

 祖母は嗚咽をこらえてわたしの腕をさすり、こう慰めてくれました。

 「父さんと母さんは亡くなったけど、その代わり正淑を家に迎えたじゃないか。それに正日が生まれて、わが家の代を継ぐことになったしね」

 わたしは、白頭の山々や満州の雪原における戦いの跡を静かに振り返り、わたしとともに祖国に帰れなかった戦友たちの面影をしのび、恩人たちのことを思い、幼年時代を追憶し、そして、我々が建設する新しい祖国の未来をまぶたに描きました。

 解放された祖国で20年ぶりに味わう万景台の夜、その夜はまさしく平和な夜でした。世界大戦が終わり、祖国が解放されてから満2か月、しかし、3000万の朝鮮民族は、なおも解放の喜びにひたっていました。

 しかるに、その3000万のなかで、祖国の解放がそのまま国土の分断と民族の分裂を生み、それが半世紀になんなんとする大国難につながるものと予測した人がはたしていたでしょうか。



 


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