金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 最後の決戦の日


 <金日成同志が朝鮮戦争後、ソ連を訪問したときのことである。クレムリンで金日成同志を迎えたソ連共産党の責任幹部は、自国の幹部を順に紹介した。そのなかには、当時のソ連国防相マリノーフスキー元帥もいた。彼は自分の番になると「わたしたちは、顔なじみですから紹介するには及びません」と笑顔で言った。そしてこう付け加えた。「金日成同志が極東にいた時分にハバロフスクで知り合ったのです」
 金日成同志は、「そのとおりです。わたしたちは古くからの戦友です」と言って、彼と熱く握手を交わした。
 両国の幹部たちは、驚嘆を禁じえなかった。では、金日成同志とマリノーフスキーのよしみが結ばれたきっかけは何か。ハバロフスクではどういうことがあったのだろうか>


 日本帝国主義を撃滅して祖国を解放する最後の決戦の準備は、ヒトラー・ドイツの敗戦後、本格的に推進されました。

 1945年2月、ヤルタではソ・米・英3国首脳の秘密会談が開かれました。ちょうどそのころは、ソ連軍がハンガリーの首都ブダペストを解放し、ベルリンへの総攻撃戦を準備していたときでした。ドイツの敗北は、時間の問題でした。

 ソ・米・英首脳がヤルタで討議した中心議題の一つは、ドイツ敗北後のソ連の対日参戦問題でした。会談で、ソ連はドイツの敗北後2、3か月経って対日戦に参加することにしました。ソ連の対日参戦の確定は、日本帝国主義の支配下にあったアジアの被抑圧民族と革命家にとって大きな励ましとなりました。

 我々は、到来する祖国解放の大事を主動的に迎える準備に拍車をかけました。

 ソ連軍がベルリン解放作戦を開始して間もなく、極東戦線軍司令部は我々にドイツの敗北を知らせてくれました。国際連合軍に所属していたソ連軍将兵はその日、夜通し祝宴を張りました。倉庫の酒は、そのときことごとく飲み尽くされたようです。軍医所のアルコールも一晩のうちに底をついてしまいました。ソビエト人は、もともと酒好きです。ソビエト人、朝鮮人、中国人の別なく、みな戦勝の喜びにあふれて踊り、そして歌いました。我々は、ソ連の勝利を我々みんなの勝利として喜びました。イタリアの敗北がドイツの敗北につながり、ドイツの敗北が早晩日本の敗北へとつながるのは明白なことでした。ドイツの敗戦は、日本の敗戦を予告する前奏曲ともいえました。一時、世界を騒然とさせたファシズム勢力は、いまやアジアとヨーロッパで墓穴へ向かうリレーをしているようなものでした。今度は、そのバトンが日本に渡される番になったのです。

 我々も日本帝国主義の敗亡を早め、祖国の解放を実現する準備を進めなければなりませんでした。

 対独戦勝を祝う集会が終わったあと、連合軍所属の朝鮮人指揮官たちは一堂に会し、祖国解放作戦について長時間論議しました。正式の会合ではありませんでしたが、雰囲気は非常に真摯で厳粛でした。みな情熱にあふれて、日本帝国主義を撃滅して祖国を解放しようと叫びました。いまにも豆満江を渡って国内に進撃せんとする意気込みでした。

 論議の焦点は、自力独立と全民抗争の問題でした。我々は、誰もが自力で祖国を解放するという確固とした主体的立場を堅持すべきである、そのためには、朝鮮人民革命軍の政治的・軍事的威力を全面的に強化し、国内の抗争組織を十分に準備させ、朝鮮人民革命軍の祖国解放作戦に合流させて全人民的な抗争を展開しなければならない、さらには、ソ連、中国の武装力との軍事的連携を強化し、ソ連の全般的対日作戦と緊密に結びつけて共同作戦の準備を整えるべきであるというのがその日の論議の要点でした。

 その後、わたしは、ソ連との軍事的・政治的協力問題をもって、ソ連の極東戦線軍指揮部と数回にわたって協議をおこないました。あるときは周保中や張寿籛と一緒に行き、またあるときは金策や崔庸健と一緒に行って別個に協議をしたこともあります。

 その間、ソ連は、日本の侵攻がありうるとして、対日作戦をひそかに着々と準備してきました。作戦準備はドイツの敗北前も、敗北後も進められました。


 <ソ連指導部はドイツと苦しい戦いをつづけていた1943年ごろ、総参謀部の極東担当部署を強化する措置を講じ、極東兵力を戦時作戦の遂行に適合するよう改編した。スターリンは、極東戦線司令官と各集団軍司令官を、対独戦で豊かな実戦経験を積んだ将官と交代させた。極東戦線司令官アパナセンコがモスクワ南方のボロネジ戦線副司令官に転任し、そのポストにカリーニン戦線司令官であったプルカエフが就いたのもそうした措置の一環であった。スターリンは、1944年に入って、ソ連軍がソ連境外の東ヨーロッパで軍事作戦を積極化していたときにも、極東地域に増援兵力を急派し、戦力を最大限に強化することを命令した>


 ソ連はドイツの壊滅後、対日作戦計画を最終的に検討する段階に入りました。我々は我々なりに、朝鮮人民革命軍の作戦方向と具体的な活動計画を立てはじめました。もちろんそれは、ソ連軍との連合を前提とする計画でした。

 ソ連の高位指揮官たちは、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の活動に大きな期待をかけていました。国際連合軍の全部隊は、対日作戦を間近にひかえて、以前よりも訓練の度を数倍強めました。そのころの軍事訓練では、国際連合軍を構成している各民族部隊の特性を生かしつつも、すべての民族部隊が対日連合作戦で歩調を合わすことに大きな関心が払われました。

 連合作戦が効力を発揮するには、国際連合軍内の各民族部隊の作戦分担をどう決め、各軍種、兵種間の戦闘時の協同と歩調をいかに合わせるかということが重要でした。国際連合軍の軍事訓練は、この問題の解決にしかるべき力を入れました。

 朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の各部隊はこれと同時に、多年にわたる抗日戦で創造し、練磨した遊撃戦法を完成し、それを大規模正規作戦で効果的に駆使する方法を探求することにも不断の努力を傾けました。我々は、各種の訓練を同時におし進め、とりわけ、祖国解放作戦で欠かせない偵察訓練、工兵訓練、無線通信訓練、空挺隊訓練に重点をおきました。ソ連軍が対独戦中に積んだ最新の戦争経験も十分に研究し、習熟しましたが、そのレベルは相当なものでした。

 国際連合軍が組織されて間もないころ、訓練基地に派遣されてきたソ連の教官は、ほとんどが往年の国内戦の参加者でした。ところが、対日作戦を最終的に準備していたころには、独ソ戦争の参加者が教官の大部分を占めるようになりました。数年間の現代戦で鍛えられた人たちだけあって、教育内容も非常に斬新でした。

 当時、我々は、国内の抗争組織を準備させるため、祖国に多くの工作員を送り込みました。彼らは、白頭山密営や間白山にも行きました。そして、以前からそこで抗争組織を指導していた政治工作員とともに、最後の決戦の準備を進めていきました。

 わたしもそのころ国内に入り、当面の対日作戦と関連して国内の各部隊の活動方向を示す一方、ソ連の全般的対日作戦準備と我々の作戦計画を一致させることに多くの時間をかけました。

 ソ連は1945年の夏、ワシレーフスキーを総司令官とするソ連極東軍総司令部を創設し、3つの大規模戦線軍をそれに所属させました。ザバイカル戦線軍はマリノーフスキーが担当し、第1極東戦線軍はメレツコフが、第2極東戦線軍はそれまで極東戦線軍司令官を務めていたプルカエフが受け持ちました。

 第1極東戦線軍の基本作戦地域はハルビン以南の中国東北の一部の地域と朝鮮であり、第2極東戦線軍の作戦地域はハバロフスク西方の東北地域でした。

 従来、国際連合軍は、第2極東戦線軍に属して軍事作戦をおこなうことになっていましたが、朝鮮人民革命軍部隊は主として第1極東戦線軍と連携していました。ソ連極東軍総司令部の発足後わたしは、第1極東戦線軍司令官メレツコフ、軍事委員スチコフと頻繁に会いました。第25集団軍司令官チスチャコフや集団軍指揮官レベゼフとも親交を結びました。彼らは対日作戦の開始とともに部隊を率いて朝鮮へ進出することになっていました。

 ソ連極東軍総司令部の所在地は、ハバロフスクでした。わたしは、ハバロフスクを行き来しながらワシレーフスキーともなじみ、マリノーフスキーとも親しくなりました。

 1945年の夏に入ってから、ソ連極東軍総司令部は連合作戦会議をたびたび開きました。ワシレーフスキーは、ソ連軍総司令部の作戦構想を我々に詳しく説明してくれました。彼は、関東軍主力を包囲して数個に分断、孤立させ、一挙に掃滅する計画だと語りました。

 我々は、祖国解放にかんしては従来の作戦方針を変わりなく堅持しました。当時我々は、間白山一帯に集結した朝鮮人民革命軍部隊は予定された通路から進攻して各道を解放し、極東の訓練基地に集結している朝鮮人民革命軍部隊は平壌地方をはじめ、各地域に空輸で迅速に進出して、既設の秘密根拠地を足場に電撃的な軍事作戦を展開するという計画を立てていました。同時に、国内で活動している朝鮮人民革命軍の小部隊と政治工作員は、抗争組織を大きく拡大して人民を全民抗争に立ち上がらせ、全民族が各地で朝鮮人民革命軍の進撃に合流するようにしました。

 わたしはいまでも、この作戦計画は、わが国の当時の軍事・政治情勢からして、祖国の解放を短時日に果たすもっとも正しい方法だったと思っています。国内各道に落下傘で降下したパルチザン部隊が全民抗争部隊とともに、四方からいっせいに敵陣に攻め入るのですから、難しいことはないはずです。海岸線に構築された要塞地区へは、ソ連軍が空爆と艦砲射撃の掩護のもとに上陸し、国境方面からは歩兵部隊が機甲部隊を先頭に怒濤のごとく進撃する手筈だったのです。ソ連軍側とは、すでにそのような約束が交わされていました。

 当時、我々は最後の決戦をひかえて、国内に小部隊と工作班を多数送り込んでいました。

 我々は、全パルチザン部隊と人民武装隊および抗争組織に、敵を完全に撃滅した後、植民地統治機構を一掃し、人民の生命、財産を保護し、党と人民政権機関を創設する任務も与えていました。

 ソ連極東軍の指揮官のうち、わたしがいちばんよく会ったのはメレツコフでした。彼は、頭のはげかかった40代末の将官でした。わたしはメレツコフの経歴を知って、スターリンが彼を沿海州方面の戦線司令官に任命したことがうなずけました。いっとき極東の一部隊で指揮官を務めたメレツコフは、レニングラード軍管区司令官を経てソ連―フィンランド戦争で主力を担当した第7集団軍も指揮しました。彼は、ソ連軍総参謀長も務め、極東への赴任前はモスクワ北西部のカレリヤ戦線司令官として活躍したとのことでした。

 メレツコフは、旧友にでも会ったかのようにわたしの手を強く握り、会えてうれしいと言いました。彼はわたしに席を勧めてから、日本帝国主義との戦争では朝鮮の同志たちが我々の先輩です、対日作戦における朝鮮の同志たちの役割は非常に重要です、我々はあなたがたの活動に大きな期待をかけていますと言うのでした。

 メレツコフは、国際連合軍における朝鮮支隊の活動について大まかに聴取したあと、朝鮮国内の軍事・政治情勢を詳しく説明してほしいとわたしに頼むのでした。彼とその同僚たちは、朝鮮における日本の兵力配置と統治方法、国内人民の反日闘争と革命組織の分布状況、秘密根拠地と結びついた武装隊の活動などに格別な関心をもっていました。

 対日作戦をひかえたある日、わたしは連合軍指揮官たちと一緒にモスクワヘ行きました。ソ連軍総参謀部が催した会議に出席してみると、メレツコフやスチコフをはじめ、対日作戦に関連のある各戦線司令部の責任幹部がみな集まっていました。そこでは、ワシレーフスキー総司令官とも再会しました。

 朝鮮人民革命軍の空挺隊戦法にもとづく祖国解放作戦計画については、全員が賛成しました。そのとき、東北抗日連軍の各部隊には、満州地方の主要都市に真っ先に飛んで、ソ連軍地上部隊の進撃路を開く任務が与えられました。

 わたしは、モスクワでジューコフとも会いました。当時彼は、ドイツ占領ソ連軍総司令官兼ドイツ管理監督理事会のソ連側代表でした。ジューコフがどうしてそこに来ていたのかはわかりませんでしたが、わたしとしてはたいへん印象深い対面でした。名高い歴戦の勇将ジューコフは、非常におおらかで気さくな人でした。

 ソ連の人たちは、心から我々を厚くもてなしてくれました。それは、外交的慣例を越えた特別な歓待でした。我々はモスクワ滞在中、レーニン廟を参観し、歴史博物館にも行ってみました。モスクワ防衛戦の有名な戦跡地も訪れ、2度目ですが映画『チャパーエフ』も観ました。

 対日作戦にかんする会議が終わってからも、ソ連の人たちはなぜか我々をすぐ極東に帰そうとはせず、ゆったりと市内見物ばかりさせるのでした。数日後、彼らは我々をジュダノフのもとへ案内しました。当時、ジュダノフは、ソ連共産党中央委員会政治局員兼書記を務めていました。ジュダノフの所には、スチコフが先に来ていました。ジュダノフは、スターリンの委任により東方から来た人たちに会うことになったと前置きして、我々の抗日武装闘争を激賞するのでした。彼は、スターリンやスチコフから朝鮮のパルチザン金日成のことをいろいろと聞いていたが、思っていたよりもずっと若く見えてうれしいと言いました。彼によれば、スターリンも我々の活動に格別の関心を寄せているとのことでした。

 わたしとジュダノフとの話し合いは、当面の軍事・政治情勢についての問題からはじまりました。わたしはその日、ジュダノフとの話し合いを通して、彼が解放された朝鮮を民主主義的独立国家につくりあげる方途についてのわたしの見解を知りたがっていることを感じました。話し合いの途中、ジュダノフはだしぬけに、朝鮮人は国の解放後何年ぐらいで独立国家を建設できるだろうかと尋ねました。わたしは、長くても2、3年なら十分だろうと答えました。わたしの返事を聞いたジュダノフは両手をこすりながら喜びました。それでもなお、意外だといった表情は隠そうとしませんでした。

 わたしはそのとき、ジュダノフがなぜ朝鮮解放後の自主独立国家建設問題に大きな関心をもち、2、3年というわたしの返事を聞いて半信半疑の面持ちを隠さなかったのかを察しました。その理由は、ほかでもありません。ヤルタ会談で戦後の朝鮮問題の処理が論議されたさい、ルーズベルトが信託統治案を持ち出していたからです。植民地から解放されたアジアの弱小国は、強大国の後援のもとに「民主的制度のもとで教育されるべきである」というのが、彼の一貫した主張だったのです。ルーズベルトは1943年の春、ワシントンで米国務長官、英国外相らと会談したとき、朝鮮とインドシナは強大国の信託統治下におかれなければならないと言明しました。彼は、朝鮮人には「完全な独立を得るまでには約40年間の収拾期間」が必要だと言いました。彼は、朝鮮民族をひどく見くびっていたようです。

 わたしは、朝鮮人民が長期にわたる抗日武装闘争と民族解放闘争を通して政治的に大きく目覚め、鍛えられたことと、その過程で自力で国家を建設できる堅実な指導中核と広範な愛国勢力が形成され、豊かな闘争経験と無限の創造力、洗練された組織力と強力な動員力をそなえるにいたったことを力説しました。

 ジュダノフは、わたしの説明を注意深く聞いたあと、解放後の朝鮮人民の建国闘争にどのような支援が必要だろうかと尋ねました。

 わたしは、ソ連はドイツと4年間も戦い、今度はまた日本と大戦争をしなければならないのに、何の力があって我々を援助するというのか、もちろん、援助してくれるのはありがたいが、我々は可能なかぎり自力で国づくりをするつもりだ、困難でもそうするのが将来のためにもよいと思う、わが国では歴史的に事大主義が亡国の根源として存在しつづけた、新しい国の建設では、事大主義の弊害が絶対に生じないようにするのがわたしの決心だ、わたしが期待するのは、わが国へのソ連の政治的支持だ、ソ連が今後、国際舞台で我々を積極的に支持し、朝鮮問題が朝鮮人民の利益と意思に即して解決されるよう努力してくれることを望むと言いました。

 ジュダノフは、わたしの話を聞いて満足しました。彼は、先ごろ東欧のある国の人は、自分に会う早々、自国はもともと経済的に立ち遅れているうえに戦災が甚しく、困難が1、2にとどまらない、ソ連が本家になったつもりで援助してほしいと言った、あなたの立場と何と対照的ではないか、これこそ東方と西方の違い、日昇る国と日没する国との違いなのかもしれないと言うのでした。この最後の言葉はもちろん冗談でした。そこに日昇る国と日没する国の違いがあろうはずはありません。違いがあるとすれば、東欧の指導者たちが自国人民の力よりもソ連を頼りにしたということです。東欧諸国は、ほとんどがソ連軍によって解放されました。それで、それらの国は、ソ連に依存し、ソ連式に社会主義を建設しました。ソビエト人が「A」と言えば彼らも「A」と言い、はては、モスクワが雨になると彼らも傘をさすといわれたほど事大主義がひどかったのです。東欧社会主義諸国が滅んだ原因の一つがこの事大主義にありました。

 ジュダノフは、わたしとの話し合いの内容をスターリンに報告すると言いました。わたしは、その後もジュダノフと何度か会い、親交を深めました。

 メレツコフもスターリンにわたしのことをいろいろと話したようです。わたしはいまも、旅順でのことが忘れられません。解放直後、わたしは旅順に行ったことがありますが、そこでメレツコフに会いました。彼はわたしといろいろ話したあと、自分はすぐにモスクワへ行ってスターリンに会うことになっているが、彼に頼みたいことはないかと尋ねました。わたしは、ソ連軍司令部の軍票を廃止して朝鮮の貨幣を発行する問題、産業国有化の問題、朝鮮人民革命軍を現代的な正規軍に改編するのにソ連が必要な援助を与える問題など、いくつかの案を出しました。メレツコフはその後も、我々の活動をいろいろと助けてくれました。

 彼は、沿海辺境軍管区司令官であったころ、ときおり平壌へやってきましたが、そのたびにソ連軍司令部より先にわたしの家を訪ねたものです。メレツコフは、マリノーフスキーと一緒に平壌を訪れたこともあります。そのとき、駐朝ソ連軍司令官は、彼らを外国人専用のホテルに案内しようとしました。しかし、彼らは司令官の好意を退け、自分たちは金日成同志を訪ねて来たのだから、邸宅へ行って夫人にマントーでもつくってもらうつもりだと言ってわが家を訪ねました。マリノーフスキーとメレツコフは、わたしが在宅していようがいまいが、まったくお構いなしでした。彼らは、非常に鷹揚でざっくばらんでした。けれども、何の前触れもなしに客の訪問を受けたので、さすがに金正淑も当惑したようです。マリノーフスキーは、自分たちが平壌に向かうとき金日成同志にそう知らせておいたのだが、連絡を受けながらも飛行場に出迎えに出ず、家を留守にしているところを見ると、よほど忙しいのだろう、多忙な人を待つことはない、先にごちそうにあずかることにしようと言って、朝鮮冷麺に「朝鮮フレーブ(餅)」を注文したそうです。

 ジュダノフとの会見を終えたわたしは、スチコフと一緒に極東にもどりました。極東で結ばれたスチコフとの親交はその後もつづきました。スチコフは、朝鮮問題の解決をはかっていろいろと努力してくれました。彼は、モスクワ3国外相会議の決定によって設けられたソ米共同委員会のソ連側代表団団長として、朝鮮の統一と自主的発展のための外交活動を情熱的にくりひろげました。

 モスクワから帰ったわたしは、朝鮮人民革命軍の指揮官たちを集め、その間の活動状況を知らせました。

 1945年8月9日、ソ連は、同盟国との協約によって対日宣戦布告をし、日本軍と交戦状態に入りました。

 同日、わたしは、朝鮮人民革命軍の全部隊に、祖国解放のための総攻撃戦開始の命令をくだしました。そのとき、最後の攻撃作戦に先立って、朝鮮人民革命軍各部隊に、雄基郡土里、琿春県南別里、東興鎮など敵の国境要塞区域の各軍事要衝を奇襲して敵軍の防御体制を混乱させ、要塞区域内の兵員と火器機材に打撃を加えるよう命じました。

 我々との連合作戦で第1極東戦線軍司令部が何よりも苦慮したのは、もっとも効果的な打撃を加えうる場所を選択することでした。つまり、要塞化された国境地帯のどの地点をたたけば、日本軍の防御体制全般をゆさぶることができるかということでした。わたしは、我々がその問題を解くことにしました。

 日本軍は、1945年まで満州とソ連、モンゴルとの国境地帯におびただしいトーチカを構築しました。朝鮮に建設された4か所の要塞地帯は、すべてソ連攻撃の発進基地でした。

 日本帝国主義が10余年にわたって建設した、朝ソ、朝満、ソ満国境一帯の要塞区域には、関東軍と朝鮮駐屯軍管下の各部隊をはじめ、陸海空軍の膨大な兵力が集結していました。敵は、この要塞区域を「難攻不落の防御線」と豪語していました。敵が構築した要塞は、すべて秘密地下要塞でした。日本帝国主義は、要塞建設に駆り出した人夫を秘密保持の名目で皆殺しにしました。それらの要塞は、対日作戦の遂行において最大の障害となっていました。ソ連軍の指揮官たちは要塞線の背後にある関東軍を大敵とみなしましたが、わたしは要塞線の突破こそ難題だとみました。わたしが、要塞区域の何か所かをたたいてみようと考えたのもそのためです。

 わたしが、開戦に先立って局地戦をやってみようと提案すると、第1極東戦線軍の高位指揮官たちはみな面食らった表情でした。わたしは、対日作戦の突破口を開くには、軍事要衝を何か所か襲撃して、敵が隠密裏に増強してきた防御体制と隠蔽している兵員および火器機材を一挙に露出させるべきだと主張しました。

 こうして、朝鮮人民革命軍の一部隊が、開戦前夜、豪雨をついて、豆満江一帯に構築された要塞の一角、土里を襲撃したのです。土里は、慶興要塞区域と雄基―羅津要塞区域に沿った奇妙な位置にありました。土里が落ちれば、敵はその一帯の広い地域を手放さなければならず、慶興要塞も危険にさらされるのです。わが戦闘員たちは、土里の警察官駐在所に焼き討ちをかけ、村を解放しました。土里は、祖国解放の最後の決戦で朝鮮人民革命軍部隊が真っ先に解放した村です。

 敵は増援部隊を急派しましたが、援軍は恐れをなして雄尚嶺で足踏みし、駐在所が炎上するのを遠見するだけで引き返したそうです。


 <朝鮮人民革命軍部隊の土里襲撃について、日本の一出版物はつぎのように伝えている。
 「8月8日、午後11時50分、朝鮮人の一団約80名がソ連軍とともに快速艇に乗って豆満江を渡り土里に来襲した。
 ここは、ソ連領土を指呼の間に望むところである。まず土里の警察官駐在所が襲撃された。…9日午前3時ごろ…トラックを土里に向かわせたが、ときすでにおそく…トラックは雄尚嶺からひき返してきた」〔『朝鮮終戦の記録』29ページ〕>


 ソ連軍と連合戦線を形成した朝鮮人民革命軍の別働隊、先遣隊の勇戦によって開かれた突破口は、対日戦の電撃的終結をめざす我々の作戦的意図を貫くうえで決定的な契機の一つとなりました。

 間白山密営を最後の攻撃作戦の出撃陣地としていた朝鮮人民革命軍各部隊は、隊伍を増強しながら作戦計画に従って進撃し、他方、豆満江沿岸に集結した各部隊は一気に敵の国境要塞を突破して慶源、慶興一帯を解放し、ひきつづき雄基方面へと戦果を拡大して国内の広い地域を解放しました。そして、海岸上陸部隊の先遣隊として出陣していた一部の部隊は、地上部隊との緊密な協同作戦によって雄基に上陸し、戦果を拡大しながら清津一帯へと進撃をつづけました。

 他の部隊は、金廠、東寧、穆棱、牡丹江を解放し、追撃戦をくりひろげて関東軍に致命的な打撃を与え、豆満江の対岸に進出しました。

 早くから国内に派遣されていた朝鮮人民革命軍の小部隊と政治工作員たちは、人民武装隊や武装蜂起組織、広範な人民を武装暴動へと力強く動員しました。彼らは、全国各地で日本帝国主義侵略軍と憲兵、警察機関を襲撃、掃討して敵背攪乱闘争を果敢に展開し、進撃する人民革命軍部隊を極力支援しました。

 慶興要塞を撃破する戦闘では、桃泉里出身の韓昌鳳がりっぱに戦いました。韓昌鳳は、国際連合軍の先遣隊のなかでも真っ先に豆満江を渡った人です。豆満江を渡河した先遣隊は、地方革命組織の支援を受けながら敵の砲台やトーチカを一気に破壊し、元汀一帯を解放しました。

 豆満江一帯の要塞突破作戦では、訓戎の馬乳山戦闘も有名です。馬乳山と月明山一帯は、敵が難攻不落と豪語していた所です。敵は、訓戎橋を爆破し、トーチカを築いた高地に陣取って、決死の戦闘態勢を整えていました。朴光鮮は、日本兵に変装した朝鮮人民革命軍偵察班を率いて夜半豆満江を渡り、馬乳山の背面にひそんで敵情をつぶさに偵察しました。敵の馬乳山防御兵力は、およそ2個大隊だとのことでした。偵察班は、本隊に無電で敵情を知らせ、豆満江を強行渡河した部隊の先頭に立って勇敢に戦いました。

 馬乳山一帯の人民武装隊は、交戦前に敵の火薬庫と砲弾、弾薬の野積み場を爆破し、全般的な戦闘の勝利に寄与しました。

 土里襲撃戦に参加した呉白竜の先遣隊は、万香峠での戦闘でも偉勲を立てました。万香峠は、雄基―羅津要塞への陸路を遮断する敵側の重要な関門でした。万香峠で部隊の前進が阻止されると、呉白竜は自分たちが敵のトーチカと砲台を破壊すると申し出ました。彼は、隊員たちを率いて高地に這い登り、味方の前進を妨げるトーチカを残らず爆破して部隊の進撃路を開きました。ソ連軍将兵は親指を立てて、朝鮮のパルチザンが一番だとたたえました。

 朝鮮人民革命軍の隊員のなかには、祖国の解放を1日後にひかえて戦死した人もいます。それは金鳳錫です。金鳳錫は、わたしがとりわけ目をかけていた伝令です。彼は、わたしの連絡任務をずいぶん遂行しました。彼は伝令でしたが、政治工作をりっぱに果たして人ひとを驚嘆させたことが一度や二度ではありません。

 1930年代の末ごろ、金鳳錫が尹炳道と一緒に、わたしから任務を受けて敵の「討伐」拠点である竜井に潜入し、中学校に入学して学帽をかぶり、青年学生のなかで工作をおこなったということを知れば誰もが驚くはずです。朴寅鎮を護衛してソウルへ行き、天道教徒の記念行事に参加して天道教上層部に革命的影響を与えた遊撃隊員がほかならぬ金鳳錫なのです。

 金鳳錫は、祖国解放作戦遂行中の呉白竜にわたしの命令を伝え、その帰途戦死したのです。わたしは、ソ連軍との連合作戦にかんする具体的な命令を呉白竜に伝えるために金鳳錫をさし向けたのでした。彼は、任務を果たしてすぐに引き返しました。途中、ある家に立ち寄って食事をしたのですが、そこの主人が、悪者で、警察に密告したのです。彼は追跡する敵と勇敢に戦い、壮烈な最期を遂げました。その日は1945年8月14日でした。わたしが非常に愛していた隊員でしたが、遺骸すら見つけることができませんでした。革命烈士陵を訪れる人たちは、祖国解放の1日前に戦死した彼の胸像の前で哀惜の念にとらわれ、その場に長いこと立ち尽くすそうです。

 羅津を解放したのは、羅津人民武装隊です。

 羅津上陸作戦を担当したソ連太平洋艦隊所属の戦隊は、この作戦が困難な戦いになるだろうと予想していました。羅津は、敵が莫大な労力を投じて建設した規模の大きい要塞地だったからです。港湾には、敵艦が常時停泊し、市周辺の高地には高射砲部隊もいました。

 しかし、ソ連軍が羅津に進出したとき、都市はすでに解放されていました。

 羅津に陣取っていた日本軍は、最初ソ連軍が市内を爆撃し、艦砲射撃を加えると、張鼓峰事件と同様の衝突だろうと思い、決死の防御態勢を取ったといわれています。このような状況のなかで、人民武装隊の一小部隊が夜半、市内にひそかに進入して要塞司令部と憲兵隊、警察署を襲撃し、陸軍の軍用倉庫に火を放ちました。ひきつづき、待機していた人民武装隊の本隊が市内に突入し、敵を挾み撃ちにしたのでした。


 <羅津解放戦闘に参加したソ連の一将校は手記にこう書いている。
 「…我々が都市に接近したとき、機関銃の連射音と砲声が聞こえてきた。都市周辺で朝鮮の農民たちが手を振りながら『万歳』を叫んでいた。彼らの話によると、市内ではすでに2日間も金日成パルチザン部隊と日本軍との間で戦闘がおこなわれているとのことだった。羅津市内の小さな広場や狭い道路は、敵軍のトラックと荷車で埋め尽くされていた。朝鮮のパルチザンが、日本軍の退路を断ち、彼らを市内に封じ込めたことを知った。我々とパルチザンに挾まれた日本のサムライたちは、武器を捨てて捕虜になりはじめた。我々は、郊外からこちらに走ってくる100余名の武装した一団を見た。『我々は金日成パルチザンの隊員です』と部隊の指揮官が戦車部隊の大佐にせきこんで言った」〔イ・ウルジュメラシュビリ『朝鮮での手記』より〕>


 人民武装隊は、全国各地で種々の名称をもって日本帝国主義を撃滅する戦いに参加しました。人民武装隊は、各道のほとんどすべての地域で活動しました。

 咸鏡北道では、慶興、雄基地区に組織された人民武装隊が開戦当初から朝ソ連合軍と力を合わせてりっぱに戦いました。清津、吉州、城津地区の武装部隊は、敗残兵を掃討し、8.15解放前に早くも武力で各工場を掌握し、警察機関を奇襲、掃滅しました。

 崔一が組織した鵲峰武装隊は、祖国解放の最後の決戦で大きな役割を果たしました。崔一は1941年の夏、会寧地区に派遣されました。そのとき、呉白竜の工作班が彼の道案内をし、活動地域も選定してやったそうです。崔一が、炭焼きや徴用・徴兵忌避者、先進的な青年たちで武装隊を編成し、隊長となって活動した地域は、会寧の鵲峰一帯でした。武装隊を組むさい、誓書を朗読し、宣誓もしたとのことです。その武装隊には、臨時の規則や行動準則までありました。

 崔一は、慶興郡鹿野里の態山地区で活動していた朴昌範とも連係を取りました。朴昌範は、熊山臨時秘密根拠地を拠点にして活動した我々の政治工作員でした。

 鵲峰武装隊は、最後の決戦がはじまる前に早くも戦闘行動に入っていました。北部国境地帯で戦いがはじまったときは、元汀、青鶴、馬乳山界線から敗走する敗残兵を掃討し、火薬庫や燃料油倉庫も爆破しました。この武装隊は、ソ連軍の進出を待たずに自力で会寧を解放しました。彼らが、鵲峰地区で掃滅した敵兵はかなりの数にのぼるといわれています。彼らは、飛行機をはじめ、高射砲と多数の被服類や装具類を奪取しました。

 両江道と咸鏡南道一帯の抗争組織は、ソ連軍の進撃に先立って多くの警察署と敵の統治機関を襲撃、掃滅しました。

 江原道の鉄原、法洞地区や、平安北道の塩州、朔州地区の抗争組織もりっぱに戦いました。

 新義州地区の抗争組織は、総攻撃命令がくだった翌日から警察官派出所や国境守備隊営所を襲撃、破壊し、道警察部と道庁を占拠し、飛行場にたむろしていた一群の敗残兵を武装解除し、8月下旬に進駐したソ連軍司令部に引き渡しました。

 平安南道と平壌地区では、祖国解放団を中心に構成された大規模な抗争隊伍が、兵器廠を襲撃し、道庁と府庁を占拠し、敗残兵力を制圧しました。

 黄海道の抗争組織も、日本帝国主義の降伏前に各地の敵を襲撃、制圧しました。

 最後の決戦のころを思い出すたびに残念でならないのは、ソ連の訓練基地で数年間、祖国解放作戦の準備を進めてきた朝鮮人民革命軍の主力部隊が従来の計画通りに作戦をおこなえなかったことです。わが軍が北部国境地帯で日本軍との交戦状態にあったと
き、わたしは前線部隊の作戦を指揮するかたわら、空挺隊の朝鮮出撃準備を完了していました。前線の状況に合わせて空挺隊を部分的に改編もし、武器や弾薬、装具類一式を新品で供給もしました。そうして、空挺隊はトラックで飛行場に向かいましたが、そこで引き返さなければなりませんでした。それは、日本が突如として降伏したからです。日本が降伏したという驚くべきニュースが伝えられたとき、はじめのうちはとうてい信じられませんでした。あれほど傲慢、暴虐で執拗な日本という強敵が、開戦一週間にして降伏しようとは想像もできなかったからです。しかし、日本の降伏は疑うべくもない厳然たる事実でした。

 日本の敗亡は、我々の父祖が目を閉じながらも念じた悲願であり、朝鮮人民が数十年間耐えがたい苦痛と犠牲を強いられながらも、歯を食いしばってねばり強くおし進めてきた抗争の終着点でした。日本の敗亡によって、わが祖国と民族の前途には、輝かしい再生の道、復興の道が開かれました。

 日本のあわただしい降伏を日米間の駆け引きの所産と評する向きもありますが、内幕はともかく、日本がもう何か月だけでもあがいていたら、我々は自力で十分朝鮮全土を解放することができたでしよう。


 <日本帝国主義の突如の降伏と関連した、当時の状況について記した文を引用する。
 「日本が次第に敗戦の道に落ち込み、ソ連が正義の武器を取って日本への攻撃を準備していたとき、金日成将軍は再び部下の精鋭を満州に派遣し、関東軍を全滅させる計画を立てた。
 満州のすべての要衝に軍隊を配置し、飛行機20余機も用意されていた。それは、ほとんどが徴兵、学徒兵など日本軍内の朝鮮人将兵と連絡して立ち上がる計画だった。そこでこの世紀的な計画をまさに実行しようとした直前、日本の降伏を見ることになり、遺憾ながらこの計画は反故になって中止されたのである。もし、この計画がもう少し早く立てられたか、あるいは日本がもう少し遅く降伏したとしても、金日成将軍はその絶倫の戦略戦術を思う存分発揮し、ごうごうたる飛行機のプロペラの音とともに、そして勇壮な軍隊の砲声とともに喊声も高らかに歩武堂々と入国したであろう。これはひとり金日成将軍だけでなく、わが民族にとって千載の恨事である」〔東京で発刊された『文化朝鮮』誌所載「金日成論」から 昭和22年(1947年)5月〕>


 日本の敗戦が伝えられた日、全国が喜びの涙にむせんだといいます。平壌の練光亭や乙密台の前では終日、踊りの輪がくりひろげられたそうです。国権を強奪されて40年、国土を併呑されて36年、長い暗黒の夜と忍びがたい奴隷生活から脱した民族の歓呼は三千里全土を震撼させました。

 日本天皇が降伏宣言をした1945年8月15日以後も、日本軍は抵抗をつづけました。それは、戦後朝鮮の共産主義化を防止し、朝鮮の自主独立を妨害すべく米日両帝国主義が人為的に仕組んだものでした。

 1945年8月16日、朝鮮総督府と朝鮮軍管区司令部は、「政治運動取締要領」なるものを公布し、各地方に駐屯している管下の部隊に、朝鮮人民の解放闘争の鎮圧を指令しました。彼らは、朝鮮駐屯軍はいまなお健在だと公言し、日本の無条件降伏を奇貨として独立運動を起こすなら、断固武力を行使するゆえ軽挙妄動するなとあえて警告を発したほどでした。これは、日本の無条件降伏後も朝鮮では戦闘行為が終息しなかったことを示しています。朝鮮総督府と朝鮮駐屯軍が降伏宣言を無視している状況のもとで、国内の抗争勢力は抵抗をつづける日本軍敗残兵と統治機構を仮借なく掃討しました。

 平壌市と平安南道では、抗争組織と武装組織がソ連軍の入城に先がけて日本軍敗残兵力を掃討して武装を解除する一方、党組織をつくり、地方自治機関を創設しました。人民的な自治機関は末端にまでつくられて道内の行政を管掌し、民政を主管しました。

 史料によると、咸鏡南北道を除いても、国内の抗争組織と武装隊は8月中旬の1週間だけでも1000か所近くの敵統治機関を襲撃、掃滅しています。

 以上のように朝鮮の解放は、15年にわたって日本帝国主義者に強力な軍事的打撃を与え、それを根底から揺さぶった朝鮮人民革命軍と、各階層を結集した全民抗争力量の総動員によってなし遂げられたのです。朝鮮人民革命軍と人民の長期にわたる抗戦があったからこそ、ソ連の対日作戦はこのように短期間に終結しえたのです。

 朝鮮の解放は、ソ連軍が日本の関東軍を撃滅していた有利な状況のもとで、朝鮮人民と人民革命軍がみずからの力によってなし遂げた偉大な結実です。1930年代と40年代の前半期に我々が組織した国内の抗争組織と武装隊が、朝鮮人民革命軍の最後の攻撃作戦計画に従って、国内各地に陣取っていた日本帝国主義の侵略兵力と植民地統治機構を制圧、掃討して国を解放したのでした。


 <朝鮮人民みずからの主体的な力によって朝鮮の解放が成就されたことを明示している資料を引用する。
 アメリカ人は早くも1945年8月15日以前に、外交文書のなかで、「朝鮮共産軍(金日成部隊)が適切な時期に朝鮮半島を席捲するかもしれない」とし、アメリカの一大学教授は、「旧満州(中国東北地方)こそは太平洋戦争の核心部であり、金日成将軍によるレジスタンスは、その後の日本の軍事的膨張を挫折させる大きな原因となった」と書いている。
 日本帝国主義の敗亡をもたらし、朝鮮を解放するうえで朝鮮人民革命軍の果たした役割について、ソビエト人はつぎのように書いている。
 「朝鮮…は40年間(1905年以来)…圧制者に対する闘争を独力でつづけてきた。1945年8月まで、朝鮮ではパルチザン部隊が活躍し、…ソビエト軍の日本撃滅戦を積極的に援助した」〔エル・マリノーフスキー『関東軍撃滅す』翻訳版311ページ〕
 敗戦後、日本軍平壌守備隊長竹下は、ソ連軍第25集団軍司令官チスチャコフ大将と面会した時、朝鮮に2個軍団と9個師団、それに多数の憲兵、警官を擁していたのは、対ソ戦の準備と同時に、朝鮮のパルチザン闘争を撃破することに重要な目的があったとうち明けた>


 朝鮮人民は、数百年にわたる反日闘争の歴史をもっています。早くも16世紀末にわが国は数十万の日本侵略軍と7年間もの壬辰祖国戦争(文禄・慶長の役)を戦いました。

 近代から数えても、朝鮮民族の反日闘争史は70年を越えるといえます。1875年の雲揚号事件のときにも、朝鮮人民は武器を取って日本侵略軍と戦いました。支配層は、日本軍の威勢に恐れをなして、なすすべを知りませんでしたが、軍隊と人民は断固として戦いました。

 その後、衛正斥邪運動や義兵闘争、啓蒙運動、独立軍運動など、暴力と非暴力、合法と非合法を問わず多様な方法で、侵略勢力を駆逐すべく数十年間闘争をつづけてきました。

 白頭山が祖宗の山として朝鮮の諸山を率いているのと同様、白頭の密林で開かれ発展してきた我々の抗日武装闘争は、民族の解放と社会の進歩をめざす朝鮮人民のたたかいの主流をなしています。

 朝鮮の解放は、20年の歳月にわたった抗日革命闘争の総括であると同時に、内外の広範な反日愛国勢力が数十年間、血と汗を惜しみなくささげ、犠牲をいとわず民族をあげてくりひろげた英雄的抗戦の結実であるともいえます。



 


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