金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 玄海灘のかなたでも


 祖国解放の大事を主動的に迎える準備を進めていた1940年代の前半期、我々は国内に強力な全民抗争力量をととのえる一方、日本本土内で我々の革命組織が全民抗争運動の一翼を担うようにすることに特別な注目を向けました。

 日本における我々の活動は、2つの方向で進められたといえます。一方では、日本にすでにつくられている祖国光復会の組織と各種形態の反日組織を、朝鮮人民革命軍の最後の攻撃作戦の開始に呼応して立ち上がれるよう整備しながら、ひきつづき新しい組織を増やしていくことであり、他方では、朝鮮人民革命軍の特殊工作員が日本帝国主義の牙城に深く入り込み、敵の軍事情報を探ることによって、対日軍事作戦の勝利のための準備を本格化することでした。

 元来、我々が日本本土に政治工作員を本格的に送りはじめたのは、1930年代の後半期、朝鮮人民革命軍の主力部隊が、白頭山と西間島地区に進出し、祖国光復会の下部組織をつくりはじめてからのことです。敵の心臓部に革命の砲台を築こうというのは、朝鮮の共産主義者が武装闘争の初期からかかげたスローガンでした。

 政治工作員が日本に入るには、もちろん死を覚悟しなければなりませんでした。よくても監獄行き、さもなければ絞首台に立たされるのです。それに、日本への出入りは、船によるほかありませんでした。そこでは、制服、私服の警官や刑事、密偵が常時目を光らせていました。この危険きわまりない通路をとって、工作員が日本に入り込むのは容易なことでありませんでした。それでも、我々は日本を断念しませんでした。


 <日本の内務省警保局が作成したつぎの資料は、朝鮮人民革命軍の日本本土への軍事偵察活動がどれほど活発であったかをよく示している。
 「金日成の鮮内(朝鮮と日本)両地への特殊密偵派遣に関する件。
 在満不逞鮮人…金日成一派の策動は依然熾烈を極める様相にあり、最近本省朝鮮特派員から下記の如き情報がある故、情勢に即して厳重手配すべし。
 特に海港警備、列車移動警察実施等、府、県では大いに留意すること。
 1 派遣目的
 ソ聯から特別に派遣された共匪から成る特殊密偵を用いて朝鮮及び日本に於て諜報勤務に従事せしめる事に有る。
 2 派遣地点
 図佳線、奉吉線の各重要軍事地点
 鮮内の主要港(清津、羅津、釜山、木浦、元山、群山、新義州)
 日本の下関及び敦賀
 3 派遣員の年齢、服装、携帯品
 年齢 20〜25歳の鮮満系男子
 服装 国防色の背広型洋服に編上靴
 携帯品 トランクに政治、経済、文芸等各種雑誌、洗面道具等を持っている。
 其の外は詳らかでないが、この密偵は日本語に堪能で本来教員、警察官等の経験を有する者らしく、言語、態度等に於て日本人と異なる所がないといふ」〔内務省警保局 昭和16年(1941年)11月8日〕>


 我々が日本本土を重視したのは、そこが日本帝国主義植民地支配の牙城であり、本拠であったからです。本拠を揺さぶれば、敵の心臓部を強打し、植民地支配を崩壊させるのにも大きな効果があるのです。

 日本在住の朝鮮人、とりわけ強制連行された多くの朝鮮青年を意識化、組織化するのは、対日作戦が目前に迫っていた当時、軍事・政治情報を収集するためにも必要であり、戦争の弾よけになる運命の彼らをファシズム日本の魔手から救い、集団的に革命の側に引き込むためにも必要であったのです。

 日本本土の反日勢力は、国内と海外の反日愛国勢力とともに、日本帝国主義を最終的に撃滅する対日作戦にさいして朝鮮人民革命軍の戦いに呼応し積極的に進出できる無視できない勢力でした。

 日本の歴代天皇の年号をみると、彼らが他国の人たちに慈愛でもほどこしてくれそうな印象を受けます。「明治」「大正」「昭和」という年号は、どれももっともらしい意味をもっています。ところが、昭和の時代は、日本が近隣諸国を人間屠殺場に変え、国際的な殺人魔として登場して数億の人類に不幸と災厄をもたらした時代であり、明るい政治を標榜した明治天皇は、朝鮮を取れ、東洋を取れ、世界を取れ、あれも取れこれも取れとサムライどもをそそのかしました。清国と戦争をし、ロシアとも戦争をして莫大な権益をせしめたのが、あの明治時代だったのです。その時期に、彼らは白昼、銃剣を振りかざしてわが国を強奪しました。大正時代にも、日本は悪行をほしいままにしました。このように、歴史的に日本帝国主義者は、朝鮮人の生皮をはぎ、膏血をしぼりながら、あらゆる蛮行を働いたのです。

 朝鮮人は、日本に連行され、犬畜生のように扱われました。人間を犬や豚、牛や馬のように扱うことにかけては、日本の右に出る国はありませんでした。朝鮮人は、日本に行きたくて行ったのではありません。軍隊や警察が、道行く人たちを捕まえては、荷物のようにトラックに放り込んで連れ去ったのです。夜中に肌着のままで連行され、日本に引かれていった人もいます。強制連行しては、軍隊式に隊伍を組み、わずかな自由も与えませんでした。船や汽車で輸送するときは、便所にまで見張りをつけて監視しました。

 日本人は朝鮮に来て、「一視同仁」という言葉をさかんに使いました。いわば、朝鮮人を日本人とまったく同じように見るということです。それは甘言にすぎません。「一視同仁」が日本人の本心なら、どうして自国に引っ張っていった朝鮮人を牛馬のように虐げたのでしょうか。

 
 北海道中川郡安平志内のタコ部屋で虐待された朝鮮人労働者(1926年「旭川新聞」に掲載)

 旧日本を描いた文学作品のなかに「たこ部屋」という言葉が出てきますが、それは「タコつぼ」「タコ穴」といった意味です。タコは、岩礁の穴にすんでいます。北海道の土木労働者は、もやし箱のような宿舎を「たこ部屋」と呼んでいました。「監獄部屋」と呼ぶのは危険なので、遠まわしに「たこ部屋」と言ったのです。朝鮮人労働者の寝起きする飯場は、「半島部屋」と呼ばれました。半島から来た人の寝泊りする部屋という意味ですが、そこは「たこ部屋」よりもっとひどかったといいます。夜は、外から錠をおろし、何匹もの犬がいて、逃亡はおろか、戸外への出入りもできませんでした。一言でも朝鮮語を使おうものなら、竹刀や棍棒で労働者を突いたり殴ったりしました。逃亡をはかると、鼻にひもを通して、あちこち引きずりまわすようなこともしました。日本の請負業者や雇用主は、朝鮮人労働者の背中を刀で割いて、その中に焼いた鉛のかたまりを入れるという拷問まで平気でしたものです。癇にさわると、作業現場で労働者を殴り殺して水の中に投げ捨てたり、コンクリート・モルタルの中へ埋め込んだりさえしました。

 民族的自尊心の強い朝鮮人に、そんな虐待や侮辱が甘受できたでしょうか。朝鮮人は、おとなしく、素直ではあっても、負けん気は強いのです。日本に徴用や徴兵で引かれていった人は百数十万にのぼったといいますが、彼らはみな腹に一物もっていたのです。それは何かというと、日本を滅ぼそうという腹でした。抗日遊撃隊が朝鮮に攻め込めば、自分たちもいっせいに立ち上がって日本帝国主義者をうちのめそうという腹だったのです。こういうことを考えていたのは、労働者だけではありません。日本に渡って勉学していた青年学生もみな、そんな考えをいだいていたのです。日本にいる朝鮮人留学生は、1万余にのぼったといわれています。留学生が1万名を越えるというのは少ない数ではありません。

 わたしは、日本での朝鮮人の惨状を耳にするたびに、心が痛んでなりませんでした。それにくらべれば、満州にいた朝鮮人はそれでも我々の保護を少しは受けていました。ところが、日本にいる朝鮮人はそんな保護を受けることができませんでした。それで我々は、彼らをなおさら同情したのです。しかし、同情だけで彼らを救えるものではありません。人間が人間に同情するのは、誰にでもできることです。搾取と抑圧に苦しむ人民大衆に、共産主義者がしてやれる贈り物のうちでもっともすばらしいものは組織です。組織だけが人民を破滅から救うことができるのです。

 日本で朝鮮人がつくった組織は、たくさんありました。共産主義組織、民族運動組織、啓蒙組織、学生組織、そのほかにもさまざまな組織がありました。

 日本でくりひろげられた反日運動でも、青年学生が重要な役割を果たしました。彼らは、在東京朝鮮人留学生学友会という組織をつくり、3.1人民蜂起の前夜には独立宣言書も作成しました。その宣言書の写しが国内にも持ち込まれて、独立運動家たちに大きな衝撃を与えたものです。

 日本が武力をもってわが国を併呑したときは、抗議のしるしとして東京と京都にいた大勢の朝鮮人留学生が集団的に帰国したそうですが、この一事をもってしても、朝鮮の青年学生の抵抗精神がいかに強いものであったかがうかがわれるでしょう。

 民族運動の形態で進められた在日朝鮮青年学生運動は、請願、デモ、実力養成などという消極的な闘争形態で敵に抵抗していたとはいえ、それは朝鮮同胞に少なからぬ影響を与えました。

 有名な無政府主義者の朴烈も日本留学生でした。彼は、日本天皇の暗殺を企てたという罪名で無期懲役刑に処せられました。20余年も獄につながれ、解放後釈放されました。

 
 1945年10月、秋田刑務所から出獄する朴烈を迎える在日朝鮮人

 1925年に朝鮮共産党を創立した人のなかには、日本に留学した人が少なくありません。日本にマルクス主義が伝播すると、彼らはさまざまな思想団体や組織をつくり、新思潮の研究と普及に努めました。1930年代初、在日朝鮮人の共産主義団体は早くも30余に達し、それらに加わった人員数は数千にのぼったといわれます。

 共産党組織は、日本共産党の一つの支部の形態で存在しました。

 新思潮の影響下に、在日朝鮮人のあいだでは労働運動も発展しました。大阪には、東亜合同組合という民族企業団体もありました。朝鮮人は、日本に渡って、宗教組織も多くつくりました。日本には新幹会の支部もありました。

 このように、在日朝鮮人のあいだには、各種形態の組織が綿密につくられていたのです。もちろん、それらの組織は、主義主張もさまざまで、活動方式もそれぞれ違っていました。啓蒙、親睦、相互扶助などの枠内にとどまる組織もありました。しかし我々は、全民抗争の見地からして、それらの一つ一つがみな大きな底力になりうると考えました。純然たる啓蒙団体であっても、息を吹き込んで革命的な実践闘争の場に引き出すのは十分可能なことでした。すべての組織が反日を志向していたのですから、その成否は我々の努力いかんにかかっていたのです。

 日本に引かれていった朝鮮同胞のなかのあれこれの組織はいずれも、日本帝国主義の心臓部にある時限爆弾のようなものでした。この爆弾に火を点ずる使命が我々に負わされていたのです。それで我々は、朝鮮人からなる数十万の労働力と反日勢力が集中している日本本土を特別に注目するようになったのです。

 日本への工作員の派遣は、反日朝鮮人運動と抗日武装闘争を一つの脈絡に結びつけ、日本各地で自然発生的、散発的に進められている朝鮮人の大衆運動を統一的に指導するとともに、この運動を新たな情勢の要請に即して質的に発展させるため早々に実行しなければならない問題でした。

 日本への工作員派遣ルートとしては、主として釜山―下関航路と清津―敦賀航路が利用されました。長期間潜伏させる重要な政治工作員は、第3国の港を利用し、遠く迂回して送り込みました。

 日本にもっとも容易に出入りできる階層は留学生でした。富裕な人たちが、トランクや行李をさげて日本に留学するのは一種の流行でした。

 わたしは朴達と金正淑に、我々の工作員として活動できる有望な留学生を物色するよう任務を与えました。その後金正淑は、豊山地方から日本に渡って苦学をしている青年たちが東京に留学生組織をつくっていることを探知しました。敵の首都にある留学生組織を革命的な組織に改編すれば、日本本土の心臓部から朝鮮人を革命化する道が開かれるのです。東京―横浜を中心とする京浜地区は、日本で人口がもっとも稠密な工業地帯でした。朝鮮人留学生と労働者がもっとも多いのも京浜地区でした。

 わたしは金正淑に祖国光復会10大綱領を渡し、豊山出身の留学生と連係をつけて、東京にあるという彼らの組織を我々の影響力が及ぶ傘下組織につくり変える方途を考えてみるよう指示しました。金正淑は朱炳譜にわたしの意向を伝え、東京の留学生組織を掌握する方途を相談しました。朱炳譜が日本に送る適任者として選んだのは、ほかならぬ李仁模でした。

 東京で豊山出身の留学生がつくった組織というのは、豊友東京苦学生親睦会です。豊友とは豊山出の友という意味です。この親睦会は、ときどき集まっては時局を談じたり、身の上話をしたり、読書の感想を語りあったり、ときには、会員にアルバイトの口を世話したりしていました。文字どおり、純然たる親睦団体だったのです。多少なりとも政治的色彩をおびていたとすれば、それは「内鮮一体」はごまかしだ、「同祖同根」はほらだ、「一視同仁」は嘘八百だなどと、日本帝国主義をののしっていたことぐらいです。

 李仁模は東京に到着すると直ちに、この組織に白頭山の風を吹き込みました。豊友東京苦学生親睦会のメンバーは、祖国光復会10大綱領と創立宣言を読んで俄然色めき立ちました。こうして、何の目標も方向舵もなく、うつうつとしてむなしい日々を送っていた親睦会は、反日愛国団体につくり変えられたのです。

 当時、日本の大学で勉強していた朝鮮人留学生は、白頭山で戦う我々を支持し、我々と合流すべくいろいろと努力しました。

 反日地下組織は、高等学校、中学校、専門学校などにも少なからずつくられていました。

 1944年の上半期に日本の警察によって摘発された金沢朝鮮人学生民族主義グループも、朝鮮人民革命軍主力部隊の政治工作員によってつくられた抗争組織でした。金沢中学校の朝鮮人留学生の活動について、わたしは朝鮮人民革命軍の政治工作員、李哲洙から詳しく報告を受けていました。李哲洙は、特殊任務をおびて清津で活動しました。彼は学生の身分で政治工作をおこなっていたとき、日本の金沢中学校へ留学する学生のなかに工作員を潜り込ませました。金沢に渡った工作員は、朝鮮各地から来た学生たちを糾合して、校内に無名の組織をつくりました。無名としたのは、敵の弾圧にそなえての措置だったそうです。この組織もやはり、決定的な時機に武装蜂起をもって人民革命軍の国内進出に呼応することを最終目的としていました。

 日本警察の資料によると、この無名の組織に参加していたメンバーは、北朝鮮出身の独立運動家金日成が白頭山を根拠地にしてパルチザンを組織し、朝鮮の独立をめざして戦っており、また、優秀な朝鮮同胞を訓練しているから、自分たちもその麾下に馳せ参じて独立運動に尽力しようという誓いを立てていたそうです。日本にはいくつかの系列の反日抗争組織がありましたが、このように白頭山へ来て我々の戦いに合流することを闘争目標として明確にかかげた組織はいくらもありません。ほとんどの抗争組織は、我々の闘争ニュースに力を得て、我々が最後の攻撃作戦を展開するとき、それに呼応するという意気込みでたたかってはいましたが、警察の弾圧を考慮して、そのような闘争目標を表面にうちだしてはいませんでした。

 大阪には、苦学生からなる忠誠会という組織もありました。もともと大阪には、済州島と慶尚道から渡っていった苦学生や労働者が大勢住んでいました。済州島の人たちは、抵抗精神が高く、団結力が強いと言われています。総聯の人たちの話によると、大阪の貧民区域に集まって暮らし、大学の夜間学部で勉強していた済州島の青年たちはおしなべて民族意識が強かったそうです。民族意識の強い所では、組織も生まれ、革命家も輩出するものです。

 済州島出身の留学生たちは、大阪で、済州島生まれの青年をもって同人夜学を設け、そこで学んだ人たちで反日親睦団体をつくっていたのですが、我々の工作員たちから祖国光復会10大綱領を入手したあと、反日親睦団体のメンバーと日本大学夜間中学部の学生たちで忠誠会という新組織をつくったのでした。この組織の綱領と闘争任務はりっぱなものでした。忠誠会がどんな組織であるかは、会の趣旨を見るだけでも十分わかります。すなわち、ソ連と日本が戦争をはじめれば、直ちに朝鮮に帰り、同胞青年を指導して日本に抗する独立運動をくりひろげ、金日成が本格的な攻勢に転じるときには、それに呼応して果敢に決起するというのがこの会の趣旨でした。

 忠誠会が日本帝国主義の弾圧を受けると、関係者たちはソウルに帰り、我々が送った国内工作員と手を取って革命活動をつづけました。解放後は、南朝鮮と日本で祖国統一をめざすたたかいに力をつくしました。彼らは、済州島パルチザンとも連係をつけていました。

 朝鮮人留学生の反日地下組織は、日本の神学校にもありました。代表的なものとしては、神戸の中央神学校の朝鮮人学生民族主義グループをあげることができます。彼らのたたかいで注目に値するのは、白頭山で戦うわたしを、将来が大いに期待される独立運動家とたたえ、民族意識と独立精神、愛国心をはぐくんでいたことです。

 岡山の第6高等学校につくられた朝鮮人学生親睦会も、祖国光復会の下部組織に改められました。岡山の6高朝鮮人学生親睦会を祖国光復会の下部組織につくり変えたのは、当時、東京の大学に通っていた閔徳元です。彼は、朝鮮の解放は朝鮮同胞の至上の課題だ、祖国光復会は民族のすべての愛国勢力を祖国解放の聖戦に結集することを呼びかけている、留学生も朝鮮の知識人として、日本帝国主義者に連行されてきた不幸な朝鮮同胞を啓蒙し、意識化して反日組織に結集し、日本内部に混乱期が到来したとき、いっせいに立ち上がって独立を成就しようと訴えたそうです。当時、工作員たちは、おおむね、そうした内容の宣伝を多くしました。

 閔徳元は、呂雲昌、金在鎬など組織のメンバーに学期末休暇中の闘争任務も与えたそうです。組織のメンバーは、学期末の休暇に入ると郷里に帰り、一家親戚や友人、同窓生のあいだで啓蒙活動をくりひろげました。

 当時の啓蒙活動の中心は、抗日遊撃隊の戦果を宣伝することでした。戦果を知らせ、祖国光復会10大綱領などの解説をおこないながら、朝鮮の独立を心から願うなら祖国解放の聖戦に奮い立とう、そんな気持ちはないのかと単刀直入に問いただしたものでした。このようにして、信頼のおける親類や親友から先に糾合して組織に引き入れていきました。

 6高事件には、注目すべき点が少なくありません。6高組織のメンバーは、弟やその友人が日本人の宣伝にだまされて少年航空兵を志願しようとすると、彼らに金日成部隊を訪ねていけと勧めたという話もありますが、それも注目に値することです。そのとき、組織メンバーの宣伝に共感した数名の青少年が満州に向かったものの、我々を探し当てることができず、空しく引き返したということです。

 祖国光復会岡山分会の一部の人は、解放後、祖国統一のための活動に献身し、ある人たちは智異山に入って李鉉相らとともにパルチザン闘争を展開しました。

 反日抗争組織は、労働者のなかにもたくさんありました。日本の主要工業地帯である京浜地区や阪神地区、そして、北海道や新潟など朝鮮人の多い所には、労働者の抗争組織が少なくありませんでした。

 京浜地区の組織のうちきわだっていたのは、東京で組織された同盟会です。同盟会は、労働者を根幹にし、これに苦学生を加えた反日組織でした。この組織は、日本天皇の正統性を否定し、また、派閥を排撃し、朝鮮人愛国者の活動や朝鮮人民革命軍の戦いを称揚しました。同盟会は、労働者や苦学生のあいだで我々の宣伝をさかんにおこないました。


 <日本の官憲資料は、同盟会がおこなった宣伝内容についてつぎのように記している。
 「北満に於ける… 金日成は我が同胞にして其の勢力たるや偉大にして日本軍隊も相当悩まされつつあり、屢々鮮内を襲撃するも朝鮮人同胞の家は決して襲はず、日本人家屋並に日本人目掛けに為す処は実に見上げたる行為なり」〔『特高月報』内務省警保局 昭和17年(1942年)3月分 202ページ〕>


 同盟会の戦略は、敵の志願兵制を逆に利用していったん軍事教練を受け、有事に日本帝国主義者に銃口を向けるというものでした。同盟会は、朝鮮の独立は共産主義運動を通してのみ成就できると主張していました。


 <金日成同志にたいする京浜地区の朝鮮人労働者の敬慕と反日気勢がいかに高いものであったかは、東京のある労働者組織メンバーのつぎのような決意からも十分にうかがい知ることができる。
 「1 金日成は満州国に於て朝鮮独立団を組織して活動している。将来朝鮮の大統領は金日成であり、吾々は彼の後に続くべきだ。2 徴兵に合格して日本の為に戦死することは犬死である。金日成の下に馳せ参じ朝鮮の為に働くべきだ」〔『特高月報』内務省警保局 昭和19年(1944年)3月分 75ぺージ〕>


 京浜地区は、1920年代に在日本朝鮮労働総同盟が発足して活動した所です。この労総はずっと前に解散し、その余韻として労働運動がかすかにつづけられていたのですが、そこへ白頭山の風が吹き込んで既成の組織が革命組織に改められ、新しい組織も生まれるという旋風が巻き起こったのでした。

 我々が工作員を多く送ったのは北海道地方でした。北海道に入り込んだ工作員のなかに、金太玄という偽名の人がいました。北海道が目的地だったのですが、彼はそこへ直行せずに、まずクリル(千島)列島にある軍用基地建設場に行き、祖国光復会10大綱領を宣伝しながらひそかに組織をつくっていきました。そのうちに逮捕され、刑務所へ護送されていく途中、脱走して地下に潜りました。しばらく隠れていたあと北海道に渡って活動をはじめ、炭鉱、鉱山、飛行場、水力発電所建設場などで働く朝鮮人徴用労働者を反日組織に結集していきました。彼は、政治工作を巧みにおこなったそうです。

 彼は労働者たちに、祖国とは何か知っているか、あなたたちは祖国を失ったために、海を渡り、この北海道に連れてこられて苦労のかぎりを尽くしているのだ、祖国ではわが民族が国を取りもどすために、血みどろのたたかいをつづけている、あの白頭山の密林には、銃を手に生命を賭して日本軍と戦っている人たちがいる、祖国があってこそ我々も存在する、我々は金日成部隊とともに戦って、1日も早く祖国を解放しなければならない、祖国を解放するには必ず組織をもち、人びとを我々のまわりに結集しなければならないと宣伝し、祖国光復会10大綱領を1条ずつ解説しました。そのあとに、10大綱領を支持する人たちで組織をつくっていったそうです。このようにして獲得した労働者たちが、のちに北海道各地の強制労働現場でストの先頭に立ってたたかった主人公なのです。夕張炭鉱労働者の暴動も、ほかならぬその工作員が組織したものでした。

 日本で出版された『朝鮮人強制連行・強制労働の記録』を読むと、北海道と南サハリン、クリル列島などで進められた組織づくりの状況や、反日・反戦闘争の内容をかなり詳しく知ることができます。この本は、朝鮮人強制連行真相調査団が編纂したものです。調査団の副団長、藤島宇内は、著名な評論家で、わが国をたびたび訪問しています。彼は、日本人のなかでは、わが国の革命戦跡地をいちばん先に踏査した人です。

 朝鮮人強制連行真相調査団が編纂した本には、北海道のある土木工事場に入り込んだ工作員が朝鮮人労働者に朝鮮人民革命軍の活動内容を宣伝し、彼らを反日闘争に立ち上がらせたという資料もあります。その工作員は、工事場でサボタージュをしばしば組織し、逃亡者も大勢出して軍需生産に支障を与えました。逃亡者たちは、他の工事場に潜り込んで、闘争の火付け役を果たしました。

 日本帝国主義者は敗亡の日が迫ると、「作れ、送れ、勝て」というスローガンをかかげて、軍需生産を必死に進めました。日本の共産主義者や反戦活動家は、「作らない、送らない、勝てない」という反対のスローガンをかかげてたたかいました。

 そんなときに我々の工作員が反日勢力を動かして軍需生産にブレーキをかけたのは、日本の敗北と朝鮮の解放を促すうえでたいへん有益なことでした。

 北海道の札幌に入り込んだ工作員は、軍事基地の建設場に引っ張っていかれた朝鮮人労働者のあいだに地下組織をつくり、それを次第に拡大しながら、武装蜂起の準備まで進めたそうです。

 工作員たちは、北海道の大学をはじめ、各学校でも活発に動きました。彼らの影響のもとに、日本人労働者や進歩的青年学生も反帝・反戦闘争に合流しました。

 日本の主要工業地帯の一つである阪神地区は、我々の工作員の影響が強く及んだ所です。この地区の組織のなかできわだっているのは、兵庫県のある工場の朝鮮人徴用労働者たちがつくった協和訓練隊特別青年会という組織でした。ここに入り込んだ工作員は、我々が派遣した政治工作員から教育を受け、訓練された人でした。

 旧日本の秘密文書には、国内工作員の名が高英石となっていますが、わたしの記憶にないことからみて、それは本名ではなく、偽名だと思われます。


 <協和訓練隊特別青年会事件にかんする日本官憲の資料の一部を引用する。
 「在尼崎朝鮮人民族主義グループ協和訓練隊特別青年会事件検挙取調状況
 …主謀人物 … 炳奎(27歳)は… 漸次民族的自覚を持ち居りたる処、偶々在満朝鮮独立運動の… 金日成麾下の高英石と称する者より『近く日ソ開戦し之に呼応して朝鮮も立上らねばならない。昭和20年(1945年)8月頃満州の金日成は朝鮮に侵攻することになって居る。それで之が準備として自分は朝鮮青年の統一及び食糧確保… 使命を帯びて今回は金日成より密派されたのである。朝鮮青年は将に祖国独立の時機を迎えたのであるから大いに活躍してもらい度ひ…』との扇動を受け… 当面同志の獲得には鮮内よりは寧ろ朝鮮青年の多数が稼働する内地に移入労働者として潜入、其の集団生活を通じて一大組織を結集し金日成一派の朝鮮侵攻に内鮮呼応して一斉蜂起すべしとなし昭和19年(1944年)3月下旬大谷重工業尼崎工場に渡来し同僚たる移入朝鮮人労務者を目標に民族意識を覚醒メ揚して結集団結を図る等策動を推進する所有りたり」 〔『内鮮関係月報』昭和20年(1945年)6月〕>


 極東の訓練基地にいたころ、我々は、国内と満州、日本に多くの政治工作員を送りましたが、彼らは朝鮮人民革命軍の総攻撃戦に合流できるよう、全民抗争力量をりっぱに準備しました。

 当時、日本には金昌国のように、わたしがじかに選んで送った政治工作員もいれば、我々の指導下にある国内組織が、わたしの指令を受けて派遣した政治工作員もおり、国際連合軍別働隊の線とつながる特殊偵察員もいました。とにかく、彼ら政治工作員はみな、我々の全民抗争計画に焦点を合わせて、日本でのすべての反日勢力をしっかり準備させるために大いに活躍しました。

 「金日成隊」を例にとっても、彼らは、新潟鉄工所に強力な反日勢力を築き、主要軍需品の生産を妨げて日本の戦争遂行能力を弱め、また数十名の新入り徴用労働者の集団逃走も成功させました。

 京都の朝鮮人労働青年たちは、やがて白頭山を根拠地にして朝鮮独立の計画を実行する目標を立て、いくつもの工場に反日組織をつくりました。

 実に、北は北海道から、南は九州にいたるまで、日本のいずこにも、そして、大学生や神学生、炭鉱労働者や徴用労務者にいたるまで、朝鮮人のいる所にはどこでも我々の組織がつくられていたのです。


 <つぎの資料は、朝鮮人民革命軍の政治工作員や特殊偵察員の日本派遣に、日本の警察当局がどれほど戦々恐々としていたかをよく示している。
 資料は、朝鮮北部の航路に就航中の船舶が補充船員を募集したところ、ふだんは応募者がまるでいなかったのに、そのときは、かなり教養があると思われる日本語の達者な者がどの港でも47、8名も応募したので、彼らの腹のうちが疑わしく採用を中止したとし、その理由をこう述べている。
 「情報に依れば彼等は何れも濃厚な民族主義思想抱持者なるが、内地渡航の容易ならざるを知り、比較的容易に内地に渡航し得る船員を志望し内地港湾に寄港したる際脱船して、東京、大阪、其他の大都市に潜入し、在住朝鮮人を扇動して、其の民族意識を高揚せしめ、内外呼応して不穏行動に出でんとしつつものの如くなるを以て、満州方面より渡航する朝鮮人並容疑朝鮮人船員の動向には厳重警戒の要あるべし」〔『特高月報』内務省警保局 昭和16年(1941年)8月分 77ページ〕>


 日本本土は、全国にびっしりと張りめぐらされた朝鮮人抗争組織によって、噴火寸前の活火山の上におかれている状態だったといえます。これは、我々の政治工作員と各工作班の積極的な闘争によってなされたものでした。

 しっかりした精神をもつ朝鮮人のなかには、強大国の協商によって民族の前途が開かれると考えるような愚か者はいませんでした。武装闘争こそ国と民族を救う唯一の道であると確信した朝鮮人民の一致した立場と観点が、朝鮮のすべての愛国勢力を人民革命軍のまわりに結集する要因になったといってよいでしょう。

 朝鮮人は、いたずらに白頭山を仰ぎ見たのではありません。そこに革命軍がいたからこそ、白頭山、白頭山と異口同音に叫んだのです。昔は白頭山が祖宗の山として民族に愛されたのですが、朝鮮の共産主義者がここで抗日大戦をくりひろげるようになってからは、革命の聖山として民族に愛されているのです。

 我々が武装闘争を急速に発展させ、それを主軸にして主体的な革命力量をうちかためてきたことには、実に大きな意義があります。抗日革命の全過程が示しているように、植民地民族解放闘争では、基本の基本が武装闘争です。武装闘争を高いレベルでおし進めてこそ、人民もそれだけ早く目覚め、各階層の広範な大衆を帝国主義侵略者にたいする抗戦へと容易に動員することができるのです。

 亡国によって深手を負った朝鮮人民の民族的自尊心は、我々が白頭山で武装闘争をくりひろげるようになってから、100倍、1000倍に高まりました。それは、以前の民族的自尊心とは比較にならない高い形態の革命的自負です。こうしてみると、朝鮮人民の真の民族的自負と祖国愛は、白頭山にその始原があると言ってよいでしょう。

 抗日武装闘争の影響のもとに日本本土につくられた全民抗争諸組織は、各種形態の実践闘争を通じて民族自主意識を高め、日本帝国主義の敗亡を早めるのに寄与しました。

 このような歴史がなかったとしたら、総聯の運動も現在のような発展を遂げることはできなかったでしょう。総聯が強力なのは、その土台がしっかりしているからなのです。


 
 (注)挿入画像の出典:「映像が語る『日韓併合』史」 労働経済社 1987年8月15日発行
 「斥候隊」は、在日朝鮮人の思想団体「北星会」機関誌。


 


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