金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 反日愛国勢力との団結をはかって


 <全民族の団結と反日愛国勢力の総結集によって祖国の解放を成就することは、金日成同志が抗日革命の全期間、一貫して守りつづけた路線であり、戦略的方針であった。
 金日成同志は、抗日大戦の初期から国内外のすべての反日愛国勢力との団結をはかるため心血をそそぎ、労苦を尽くした。すべての反日愛国勢力の結集をめざす金日成同志の活動は、1940年代の前半期にもたゆみなくつづけられた>


 わたしは生涯にわたって、愛国的かつ進歩的な民族主義者との団結を重要な路線とし、その実現に大きな努力を傾けてきました。

 ひところ、民族主義運動は共産主義運動とともに、わが国における民族解放闘争の2大構成部分の一つをなしていました。朝鮮の民族解放闘争は、民族主義運動からはじまったのです。1940年代の前半期にも、民族主義は依然一つの思潮として残っており、民族主義運動勢力も微々たるものとはいえ、一つの反日愛国勢力として存在していました。改良主義勢力を除く多数の民族主義運動家は、依然として反日の旗をかかげ、国内と海外で日本帝国主義への抵抗をつづけていました。民族主義運動勢力は、国内の人民や海外同胞のあいだで一定の影響力を保っていました。

 梁世鳳との合作の努力が失敗に帰した後も、我々はしりごみせず、反日民族運動家たちとの統一戦線結成のため不断の努力を重ねました。

 反日民族運動家たちも我々との連帯をいろいろと試みました。かつて、共産主義者をあたまから排斥し敬遠していた人たちも、次第に我々の方に傾きはじめました。

 我々との連合を志す反日独立運動家の動きが普遍的な現象として一つの明確な流れとなったのは、1930年代の後半期からでした。1936年5月、我々が祖国光復会を創立して民族総動員を呼びかけ、統一戦線運動を強力に展開すると、民族主義者たちはそれに積極的に呼応しました。南満州で活動していた独立軍の参謀長、尹一坡が我々に支持の書簡を送ってきたことや、上海にある朝鮮人居留民団の朴某なる独立運動家が南満州にやってきて、祖国光復会南満州代表の李東光に会ったこと、また金活石の麾下にあった独立軍の残存勢力が崔允亀に引き連れられて朝鮮人民革命軍に進んで編入したことなどは、その代表的な事例だといえます。

 では、民族主義運動の陣営が、それまでの排他的な立場から脱して、我々との合作を重視しはじめたのはなぜでしょうか。それは一言でいって、朝鮮人民革命軍の権威が高まり、その影響力が強まっていたからです。抗日武装闘争は、朝鮮の民族解放運動の主軸をなしていました。朝鮮人民革命軍は、反日民族解放戦線の主力軍であり、民族独立の意志と信念の最高代表であり、抗日革命の組織者、統率者であったのです。民族解放運動の線上にはさまざまの反日勢力がありましたが、そのなかで敵にもっとも大きな打撃を与えていたのは、ほかならぬ朝鮮人民革命軍でした。日本帝国主義者がもっとも怖れた存在も朝鮮人民革命軍であり、朝鮮人民が最大の期待をかけていた武装力も朝鮮人民革命軍だったのです。朝鮮人民は、日本帝国主義を祖国から追い出すことのできる実際上の軍事力は朝鮮人民革命軍以外にはないとみなしていました。

 金九の側近の話によると、金九は普天堡戦闘で日本軍が壊滅したというニュースを聞き、歓声をあげて喜んだそうです。当時、南京にあった朝鮮民族革命党の機関紙も「朝鮮革命武装運動の吉報」という見出しで、普天堡戦闘について詳しく報じました。編集部は、その新聞を『朝鮮日報』咸興支局にまで発送したとのことです。それは、主義主張を越えた汎民族的な支持と激励、連帯のあらわれでした。我々が普天堡を襲撃したというニュースに、中国関内の独立運動家たちもかなり興奮したようです。

 金九は、早くから武力抗争の道を模索しました。1920年代初に彼が組織した労兵会も、実は武力抗争を志向する団体でした。彼は、無抵抗主義的な実力の培養とか外交手段によって朝鮮の独立を遂げようとする人たちを快く思っていませんでした。彼の痛恨事は、大規模な軍隊をもって存分に武装闘争を展開できないことでした。それで、我々の武装闘争に並々ならぬ期待と関心を寄せていたのです。

 解放直後、ロサンゼルスで発行されていた『朝鮮独立』という同胞紙に、金九を非難する記事が掲載されたことがあります。それは、在米同胞が金九の呼びかけにこたえて、金日成部隊と朝鮮義勇軍のために巨額の軍資金を調達して送ったにもかかわらず、献金を呼びかけた当の本人は戦乱を口実にそれを金日成部隊にも朝鮮義勇軍にも送らず、中途で消費してしまったというものでした。金九が、軍資金を送れなかったのは理解できることです。軍資金を送るには組織のルートに頼るしかありませんが、当時、我々へのルートを見つけるのは容易でなかったはずです。わたしは、金九が我々への献金を呼びかけたことから、彼が我々の武装闘争を支援するためにいろいろと努力したことを知りました。間三峰戦闘も中国関内の独立運動家に大きな衝撃を与えたそうです。

 我々の闘争に海外の民族主義運動団体が急激に関心を高め、かつてない容共への活発な動きを見せるようになったのは、我々が祖国光復会を創立して、誰にでも受け入れられる民族共同の闘争綱領である祖国光復会10大綱領を発表したこととも関連していました。

 当時、中国関内の反日愛国勢力は、主義主張と闘争方式の違いから力を合わせることができず、分裂状態にありました。彼らは大きく二派に分かれていて、一つは民族主義派と呼ばれる金九派であり、いま一つは人民戦線派と呼ばれる金元鳳派でした。金元鳳派は、共産主義系に近い独立運動の左派でした。両派は、蔣介石国民党と国民政府軍事委員会、そして、中国共産党とそれぞれ独自のつながりをもっていました。

 中国関内の独立運動家と統一戦線を張るためには、2つの問題点を解決しなければなりませんでした。まず、関内の反日民族団体が一つの勢力として団結することでした。言いかえると、さまざまな主義主張と活動方式をもつ各団体が相異点をさしおいて、抗日愛国の旗のもとに単一の戦線を結成しなければならなかったのです。つぎには、その単一の戦線に結集したすべての反日勢力と我々との合作を、新たな基礎のうえで実現することでした。我々は祖国光復会の創立後、これらの問題点を解決するため、終始熱心に取り組みました。日中戦争の勃発後は、関内の運動との連帯をはかって、いっそう積極的で主動的な活動を展開しました。

 日中戦争の開始後、中国では第2次国共合作が実現し、内外の大きな関心を呼びました。国共合作の実現は、中国人民の救国抗戦に新たな局面を開き、中国革命の発展を大きく促しました。

 このような情勢を背景にして、小党として分立していた金九系と金元鳳系は1940年9月、それまでの対峙状態にいったん終止符を打って単一戦線の結成に成功し、共同宣言も発表しました。共同宣言には、祖国光復会の創立宣言と10大綱領に示されている事項と同様の内容が多く盛り込まれていました。臨時政府はその後、金元鳳系を引き入れて左右合作を果たしました。民族主義運動内部のこうした動きは、我々の注意を引かざるをえませんでした。

 1940年代の前半期にも、我々は、国内と日本の反日愛国勢力の結集に努める一方、満州および関内の反日愛国勢力と手を取るために、いろいろなルートを通じて積極的な活動をくりひろげたものです。

 太平洋戦争と日中戦争が激化するにつれて、日本は滅亡の道にいよいよ深くのめりこんでいきました。日本の敗亡を予告する出来事が各地であいついで発生しました。

 激変する情勢は、国内と海外のすべての反日勢力が結集して、日本帝国主義との最後の決戦にそなえることを求めました。数十年間の反日闘争史は、主義や党派を越えた民族力量の強固な団結だけが祖国解放の日を早める道であることを人民大衆に悟らせました。国内外の広範な愛国勢力を結集して強力な全民抗争力量を築くことは、時代が我々に負わせた歴史的な課題であり、各階層の愛国人士と人民大衆の共通の念願だったのです。


 <1940年代における朝鮮の独立運動家の活動方式と民心の動きの変化について、日本の警察はつぎのような記録を残している。
 「内外ヨリスル朝鮮民族ノ策謀目的ハ、民族主義系タルト、共産主義系タルトヲ問ハズ朝鮮独立ニアリ、現在表面的ニ朝鮮独立ヲ明確ニ示シアルハ重慶下ニアル者及アメリカノ下ニアル者ト…ソ聯ト中共下ニアル者ハ終極ノ目的ハ朝鮮独立ヲ明確ニテアリ」〔朝鮮総督府警務局長が昭和19年(1944)年5月に各道警察部長に送った文書〕
 「思想事件に於ける特異なる点
 従来の如く主義主張の理論構成に拘泥せず、中心目標である朝鮮民族の独立に重点を向けており、故に従来対立関係にあった共産主義運動との関係に於いても著しく接近し、民族主義分子と左翼分子との混在合作に依る事件の如きも稀ならぬ状況にあり」〔『高等外事月報』第51号5ページ 朝鮮総督府警務局保安課 昭和19年(1944年)3、4月分〕>


 我々が中国関内の反日愛国勢力との連係を確立するうえで注目した団体の一つは、上海臨時政府でした。日本軍が中国本土に攻め入って以来、臨時政府はつぎつぎと居所を変えました。国民党政府のあとについて所在地を何度も変えたので、内実は看板をどうにか維持するほどの苦境に追い込まれていたのです。臨時政府関係者の回想によると、のべつ引っ越しの荷物を担いで各地を転々としたそうです。あるときは、荷を解きもせずに旅館の片隅に座っていて、戦禍を避けて他所へ移ったということです。

 果てしない派閥争いや憲法改正、改閣などであえいでいた臨時政府は、基本的な生存条件も保てず、身の危険にもさらされて苦労をつづけました。その苦労のほどは、金九が、財政難で政府の体裁をととのえることすらむずかしかった、政府庁舎の借り賃が30元で、雑役夫の月給が20元にみたなかったにもかかわらず、それを支払う力もなかったので、家主に何度も督促される始末だった、自分は臨時政府庁舎の床の上で寝、食事は同胞の商売人の家を訪ね歩いてすませた、乞食も大乞食だったと嘆いたことからも察せられるでしょう。

 1940年、臨時政府は、放浪生活を終えて蔣介石政府の疎開地重慶に落ち着きました。それ以来、彼らの生活はかなり安定したそうです。臨時政府が、光復軍を組織したのも重慶でのことです。臨時政府が傘下に光復軍のような兵力をもったのは、彼らの活動において一つの前進だったといえます。

 当時、光復軍の関係者は、彼らの出版物に、金日成と楊靖宇、趙尚志などの名をあげながら、朝鮮人民革命軍の戦いと東北抗日連軍の活動内容を紹介したものです。

 しかし、その勢力は、その歴史や構成、武装のいずれを見ても脆弱なものでした。臨時政府の関係者も、彼らの武装力の発展には限界があると自認していました。李青天が海外反日勢力の実態を分析して、臨時政府勢力の主導権の確立は困難であるとしたことや、臨時政府は何らの準備もなしに8.15の解放を迎えたと率直に語ったのは、そのような実情を反映したものだと思います。


 <日本の警察が光復軍について残した記録の断片をつぎに引用する。
 「光復軍の陣容は臨時政府の誇大な宣伝とは裏腹に、極めて貧弱で、各支隊員はわずか10余名に過ぎず、但第5支隊のみが総計50名を数えるが、そのうち20名は羅月煥直属の無政府主義者、残りはすべて朝鮮人捕虜なるも文盲に近く、阿片を密売する不逞業に従事した者大部分なれば、極めて貧弱にして、殆ど見るべき活動をせずに過ごしていた」〔黄海道警察部高等警察課 昭和18年(1943年)2月〕>


 それでも我々は、金九系とも手を握ろうとしました。彼らとの合作が成功すれば、祖国解放の最終作戦に彼らの武装力も動員できるというのがわたしの見解だったのです。

 金策は最初、我々が臨時政府の金九系と合作するのを快く思っていませんでした。その理由は、反共分子の金九との合作が果たして可能であろうか、たとえ合作が実現したとしても、それがどれほどの効果をあげるだろうかということでした。しかし、わたしの説明を聞くと、自分は金九の愛国心を重く見るのでなく彼の反共的な面だけを問題視していたと反省し、わたしを支持しました。そして、関内の反日勢力との関係は許貞淑を通して促進するのがよいだろうと提案するのでした。

 崔庸健も、最初は金九との提携に気乗り薄でした。臨時政府にたいする態度からいうと、金策よりもずっと懐疑的でした。派閥争いをこととする者と手を握る必要はない、手を握ったところで得にはならない、合作するならむしろ金元鳳系とすべきではないかと言うのでした。もっとも、崔庸健ものちには金策と同様、わたしの主張に理解を示しました。

 金元鳳は義烈団をつくって、関内と東北地方はもとより、国内でも暗殺や襲撃・破壊活動をおこなっていました。その後、朝鮮義勇隊を組織しましたが、その第1区隊長は、解放直後、中央保安幹部学校の校長をしばらく務めた朴孝三でした。朴孝三は、40人ほどの隊員を従えていました。後日、金元鳳から聞いたところによると、朝鮮義勇隊は規模も小さく装備も貧弱で、独自の活動はほとんどできず、中国人部隊にまじって、拡声器で反戦宣伝や敵軍切り崩し工作などをしたということです。

 我々は、規模や装備は貧弱であるにせよ、武力で日本帝国主義を打倒しようという彼らの意気込みを重んじたのです。

 我々は、華北の朝鮮独立同盟と朝鮮義勇軍の存在にも関心を向けました。

 当時、武亭がそこで大きな役割を果たしましたが、彼は紅軍の建設と中国人民の解放闘争にも寄与したことで知られています。祖国に帰ってからは、民族保衛省副相や砲兵司令官を務めました。わたしは、彼の住まいをわが家の近くに定めてやりました。

 武亭は、祖国に帰ってからも武力建設に参加して功を立てましたが、もともと軍閥官僚気分の強い人で、祖国解放戦争のときに批判を受け、軍職から身を引きました。武亭は解職処分を受けましたが、彼が重病をわずらっていたとき、わたしは最善の治療対策を立ててやりました。当時、中国の長春には、ルーマニア医療団が経営する病院がありました。武亭は、そこで治療を受けたのです。その後、武亭がわたしのそばで目を閉じたいというので、彼を祖国に連れもどしました。彼が他界したとき、わたしは彼の功労をたたえて葬儀をりっぱにとりおこないました。

 武亭はわたしとはじめて会ったとき、金将軍の噂はよく聞いた、そのたびに力が湧いた、日本の侵略者を震えあがらせる将帥が朝鮮にいると思うと本当にうれしかった、自分は八路軍にいたが心はつねに白頭山に飛んでいた、朝鮮義勇軍が金将軍部隊に合流できないものだろうか、朝鮮義勇軍と朝鮮人民革命軍が協同して日本帝国主義を撃滅できないだろうかと考えて、金日成将軍と手を握ろうとあれこれ苦心したと語ったものです。


 <朝鮮義勇軍華北支隊の組織後、支隊が金日成同志との連係をはかって活動した状況について、日本の官憲資料にはつぎのように記されている。
 「朝鮮義勇軍華北支隊の動静
 …1941年5月、6月頃に新たに朝鮮義勇軍華北支隊を編成した。
 その後、京漢線一帯の我等の占領した地域を目標にして同志獲得、各種謀略宣伝に狂奔すると共に、在満不逞鮮人金日成との提携、鮮内同志との連絡等工作中にあり…『我等は内部の団結を固め、華北朝鮮同胞20万、東北(満州)、国内(朝鮮)の革命人士及び革命団体、武装隊伍を連合して、朝鮮民族解放のために終始一貫反日闘争を堅持する』云々の宣言発表…」〔黄海道警察部高等警察課 昭和18年(1943年)2月〕>


 解放後、内閣の初代文化宣伝相を務めた許貞淑も、1940年代には延安にいました。彼女の話によると、延安で活動した朝鮮人運動家のなかにはひとかどの人物がかなりいましたが、彼らはみな我々の部隊にあこがれていたそうです。あこがれの余り、彼女も周恩来と朱徳に満州に行かせてくれと何度も頼み、そのために中国の人たちから、それは民族主義だと批判されたとのことでした。

 わたしはその話を聞いて、我々が関内との連係を模索していたとき、関内の朝鮮人運動家や愛国人士も我々との合作を熱烈に望んでいたということがよくわかりました。

 当時、彼らは八路軍に属して敵軍切り崩し工作をさかんにおこなったのですが、その主な対象は日本軍内の朝鮮青年たちでした。彼らはそのような青年たちに向かって、日本軍の弾よけになるな、敢然と脱出して、北中国方面の者は朝鮮義勇軍か八路軍へ、中部中国と南中国方面の者は朝鮮義勇隊か新四軍へ、満州方面の者は金日成部隊へ行けと呼びかけました。彼らは、脱出してくる朝鮮人徴兵者にかんする待遇規定の宣伝もしました。それは、重機関銃を持ってきたら、しかじかの賞金を与え、3年間日用品の優待特典を与える、軽機関銃か擲弾筒、小銃を持ってくればいくら、また投降する者は各自の希望に応じて勉強もでき、治療も受けられるといったようなものでしたが、その効果は大きかったそうです。

 中国関内で活動した朝鮮の愛国者のなかには、共産主義者もいれば民族主義者もいました。彼らは主義主張にかかわりなく、誰もが我々との連帯と合作を求めていました。それは、どの面からみても歓迎すべきことでした。

 我々も主義主張をもって人びとを色分けして差別するようなことはしませんでした。中国共産党の影響下にあろうが、蔣介石の保護下にあろうが、そんなことはいっさい問題にせず、愛国を志向する人なら誰でも合作の対象とみなしたのです。

 中国関内との連絡ルートには事欠きませんでした。ソ連の軍事当局やコミンテルンのルートも利用できたし、東北抗日連軍が関内に派遣する連絡員を利用することもできました。また、我々がじかに連絡員を必要な方面に送り込むことも可能でした。

 我々が中国の東北地方で武装闘争を進めていたとき、関内との連絡に利用したルートのなかには、饒河・東崗方面の東北抗日連軍第7軍のルートがありました。それに、新疆省の伊梨と甘粛省の蘭州、延安に通じる国際ルートもありました。いま一つのルートは、満州の東辺道から満州と中国の国境線を結ぶ遊撃路でした。

 当時、極東の訓練基地には、中国関内で紅軍師団長を務め、ソ連で軍事教育を受けた後、延安に帰らず国際連合軍に加わり、講義を受け持つこともあった劉亜楼と盧冬生、中国共産党の連絡員、王朋らがいました。わたしは、彼らが関内に帰るときには、延安と重慶の朝鮮人への手紙を頼むつもりでした。ところが、この3人は、日本帝国主義が敗亡するまで延安に帰れませんでした。劉亜楼は、東北解放作戦のさい、東北野戦軍参謀長を務めました。のちに中国人民解放軍空軍司令員になっています。盧冬生も東北地方に残って松江軍区司令員を務めました。彼は、たしか宋明とも呼ばれていたはずです。彼は1945年末に戦死しました。

 我々は、東北地方へ向かう小部隊や国内の地下組織のルートを通じても、関内の人たちと連絡をとろうと努めました。

 わたしは金策の助言を聞き入れ、許貞淑を重視しました。許貞淑との連絡がつけば、彼女を通して延安と重慶一帯の反日勢力と手を握る道も開けるはずでした。わたしが許貞淑に白羽の矢を立てたのは、彼女の愛国的な闘争歴を評価したからであり、また彼女が金策と縁の深い許憲の娘であったからです。

 わたしは「トゥ・ドゥ」の一員であった康炳善の主宰する新義州の地下組織に、関内との連絡をつけるよう指令を与えました。その指令に従って、新義州の地下組織は天津の一工作員に、重慶と延安方面に朝鮮人民革命軍の連絡ルートを開く任務を与えました。彼は、我々と重慶、延安との合作のための中間連絡地点を設けることに努めたそうです。


 <金日成同志が国際連合軍の時期、中国関内の反日愛国勢力との民族統一戦線、中国共産党など抗日勢力との反帝共同戦線をはかって幅広く活躍した事実にかんして、日本の警察機関は数件の情報を入手した。
 「金日成の活動状況
 金日成は…現在、ソ聯極東ウラジオストク付近のオケアンスカヤ野営学校にあり、在満不逞鮮人の獲得、領導に暗躍中なり。最近の情報に依れば、米ソ合作の秘密協定に基づき、在中米空軍の満鮮地方空襲に呼応して、満鮮地帯で満鮮連絡の鉄道破壊に依り軍需輸送を妨害すると共に、民心攪乱工作を展開するため近辺の満鮮主要地区への工作員密派を目下準備中とのこと。
 乃ち金日成は去る6月中旬頃、前後2回に渡りモスクワヘ赴いた他に、また重慶、延安に渡り駐中ソ米大使館及び中共関係機関と協議を重ねた後、将来に対処する…工作密派要員を、以前鴨緑江沿岸地帯で活動した当時の鮮満人抗連匪をもって鉄道破壊謀略団及び思想謀略工作班を再編し、ソ聯ハバロフスク付近で斯の謀略工作の教育訓練中と伝えられるものなり」〔『特高月報』内務省警保局保安課 昭和19年(1944年)11月分76ページ〕>


 我々が関内の反日愛国勢力との連携を模索していたころ、重慶にいた反日愛国勢力も我々との合作を実現するため大いに活動しました。安重根の甥で金九の秘書を務めた安偶生の回想によると、金九も我々に連絡員を派遣したそうです。遺憾ながら、連絡員は満州の地を踏む前に解放を迎えたということでした。1942年12月には、臨時政府派遣員の資格で金某なる人が牡丹江まで来ながら、我々に会えず重慶に帰ったそうです。

 日本帝国主義は、我々と中国共産党に所属する関内の朝鮮人共産党系が中江鎮、臨江、恵山鎮、通化付近を中心線として連絡しあっているという情報も伝えています。

 我々は国際連合軍の時期に、小部隊工作を進めながら宗教勢力にも関心を向けました。

 1942年末、寧安県東京城にある大倧教本部の第3世教主、尹世復をはじめ、多くの教徒が警察に検挙される事件が発生しました。彼らは、自教の使命は日本と満州国のくびきから脱し、朝鮮民族による倍達(ペダル)国の再建をはかることにあるとして、反日活動を展開したそうです。大倧教の一幹部は、大東亜戦争での日本の敗北は避けられない運命にある、だから、この機会に祖国解放を早めるべきだ、ビルマにバ・モーがいるなら朝鮮には金日成がいる、朝鮮民族の幸福は独立によってもたらされると公然と主張しました。

 小部隊工作に出ていた隊員たちから、牡丹江省警務庁が大倧教の幹部を手当たり次第に逮捕していることを聞いたわたしは、寧安県に総本部をおいていた第2方面軍所属の反日会に、敵の弾圧策動を粉砕して愛国的宗教家たちを保護する対策を立てるとともに、樺甸、敦化、安図一帯の反日勢力を組織のまわりに結集する活動に拍車をかけるよう指示しました。

 対日作戦を準備していた日々に我々が注目した国内の反日民族団体は、呂運亨が組織した朝鮮建国同盟でした。朝鮮建国同盟は、1944年に発足した反日地下団体です。この同盟は、呂運亨の郷里である京畿道楊平一帯の農民を中心にしてつくられた農民同盟という傘下組織ももっていました。

 1944年といえば、民族主義団体への日本帝国主義の弾圧が極度に達していたときです。敗亡を前にした日本帝国主義者は、国家総動員令だのなんだのといったファッショ的悪法を振りまわして、反日的な要素があると見たら、相手かまわず捕まえていっては、取り調べ、処刑していたのです。そのようなときに、ソウル一帯で朝鮮建国同盟という反日団体をつくったのは、いかにも呂運亨らしい剛毅なやり方でした。

 建国同盟が秘密をかたく守ったので、ソウルにいた我々の工作員も、当初は目の前でそんな組織が動いていることを感知できませんでした。我々は、1945年に入ってはじめてその存在を知ったのです。

 呂運亨は、朝鮮建国同盟をつくるとすぐにわたしに人を送り、朝鮮独立同盟にも連絡員を派遣しました。残念ながら、連絡員は我々を探しあてることができずに引き返しました。呂運亨が延安へ送った人は、朝鮮独立同盟の人たちに会ったそうです。呂運亨の連絡員がわたしに会えなかったのは、当時、我々がソ連の訓練基地で活動していたからです。

 呂運亨が普天堡戦闘後、我々に会おうといろいろと努力したように、我々も彼との合作に努めました。呂運亨への働きかけは、ソウルにいる政治工作員に任せました。なんとしても呂運亨に接近するよう任務を与えたのですが、後日聞いたところでは、相手がどうしても心を許さないので、一度も腹を割って話をすることができなかったということです。

 呂運亨は、建国同盟内に軍事委員会を設け、武装闘争によって日本帝国主義の背後を攪乱する計画も立てたとのことです。この計画は、我々の志向する全民抗争路線に合致するものでした。

 関内のすべての反日愛国勢力との合作をめざした我々の活動は、しかるべき結実を見ることができませんでした。日本の敗北があまりにも早かったからです。朝鮮人民革命軍の主力部隊と国内の抗争組織が呼応して祖国解放の最終作戦をくりひろげたとき、関内の武装力はそれに直接参加できませんでした。金九は、このことを非常に残念がりました。彼は、日本の降伏は自分にとって吉報と言うよりも天が崩れ落ちるようなショックだった、長年、苦労を重ねて参戦の準備をしたというのに、そのすべてが水泡に帰したと痛嘆し、自分たちは今度の戦争で何もできなかったから、将来、発言権が弱まるだろうと憂慮したそうです。

 しかし、合作をめざす双方の努力がまったくの水泡に帰したわけではありません。そのときは実を結ばなかったにせよ、いずれ効果をあらわすものです。一念天に通じるという言葉もあるように、民族の解放に尽くした努力は、歴史によって必ず報われるものです。

 反日愛国勢力との団結をめざした我々の努力は、歴史の培養土となり、解放された祖国で、各階層の参加する統一戦線の結成として日の目を見たのです。

 わたしはいまも、我々が抗日革命の初期から統一戦線活動を一つの重要な目標、路線とし、その実現をめざして全力を尽くしてきたのは、きわめて正当なことだと思っています。

 正直に言って、一時、青年共産主義者と民族主義者の間には多少の摩擦と対立がありました、高而虚や玄黙観ら国民府の上層部が我々の同志たちを数名殺害した旺清門事件以後、我々はしばらく民族主義者との接触を断ち、彼らをきびしく糾弾しました。その事件のあと、一部の同志たちは、このさい民族主義者とはきっぱりたもとを分かとうと主張しました。

 しかし、旺清門における犠牲が、いかにひどく、痛ましいものであっても、国民府の反動的な上層部の罪業を民族主義陣営全体の過ちに増幅して転嫁するわけにはいきませんでした。我々は、大義のために、同志たちの犠牲による悲しみと怒りを忍び、統一戦線の旗を一貫してかかげなければならなかったのです。それで、過去を水に流して、国民府の残存勢力として南満州で活動していた梁世鳳の部隊を訪ね、反共の代名詞のような存在であった金九との合作も模索したのです。

 我々がそうした心理的な苦渋を克服できず、感情に任せて極端な行動に走り、民族主義者を敵視しつづけていたならば、統一戦線は机上の空論に終わったことでしょう。

 統一戦線に向けた我々のひたむきな努力と誠意の前には、金九のように頑固な反共人士も感動せずにはいられなかったのです。金九のような民族主義者が一朝にして我々と手を組んだと考えてはなりません。彼が、臨時政府を認めない米軍政のやり方に反感をいだき、また、たんに李承晩と気が合わないからといって、反共から容共に移ったわけではありません。抗日の日々から胸にいだいてきた愛国の熱情が、我々と金九を融合させたのです。

 歴史的事実が示しているように、我々が早くから念頭においていた人たちは、解放後、みな統一戦線の旗のもとに集まりました。1948年4月の南北連席会議に参加した政客たちの顔ぶれを見てみましょう。金九、金奎植、趙素メ、崔東旿、厳恒燮、趙皖九、金月松…など名だたる民族主義者はすべて参加したではありませんか。つまるところ、金九ら臨時政府の人士は1人残らず我々を訪ねてきたことになります。

 朝鮮建国同盟の主人公、呂運亨も平壌に来てわたしに会って帰ったし、朝鮮独立同盟の指導者たちも同僚たちと一緒に平壌に来ました。金元鳳も平壌に来て初代国家検閲相を務めました。

 共和国北半部では早くも1946年に、各党、各派、各界の愛国勢力の参加する民主主義民族統一戦線が結成されました。

 民族の大団結をなさんとする我々の意志は、対日作戦を準備していた日々にいっそう磨かれ強固なものになりました。もし、そうした意志の練磨過程がなかったとしたら、解放後、愛国と売国、進歩と保守、民主と反動との間に鋭い闘争がくりひろげられていた複雑な状況のもとで、主義主張と闘争経歴の異なる内外の各階層の愛国勢力をあれほど忍耐強く統一戦線の広場に呼び集めることはできなかったでしょう。

 常時、外部勢力の威嚇を受けている朝鮮民族の座右の銘は、何よりも民族大団結であるべきです。民族の栄枯盛衰は、ひとえに民族の全構成員がこの座右の銘にどれほど忠実であるかにかかっていると思います。

 思想と理念、政見と体制よりも民族を優先視する、公明正大にして一貫した政策の深い歴史的根源と多大な業績、貴重な経験があるからこそ、我々は今日、祖国統一のための全民族大団結10大綱領をうちだし、全民族を統一偉業へと立ち上がらせることができるのです。



 


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