金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 民族の魂


 <1940年代の前半期、朝鮮民族は、民族として存在しうるか否か、蹂躙された民族性を復活しうるか否かという運命の岐路に立たされていた。姓を日本式に変えなければ生きていけず、神社参拝をし、朝鮮語を捨てて日本語を常用しなければ生きていけないのが、朝鮮人民に強いられた運命であった。
 朝鮮の愛国的人民と進歩的知識人は、このような悲劇的状況のもとでも、抗日の総帥金日成将軍が活動する白頭山を仰ぎ、民族の魂を守るたたかいをたゆみなくつづけた。
 このことについて金日成同志はつぎのように回想している>


 日本帝国主義者は1940年代に入り、いっそう悪辣に「皇民化」政策を強行しました。「皇民化」とは、朝鮮人を日本人化するということです。5000年の歴史を誇る朝鮮民族を数十年の間に日本化しようとしたのですから、彼らの植民地化政策がいかに悪どいものであったかは想像にかたくありません。

 国民学校の新入生に真っ先に教えたのが、日の丸の旗の歌でした。このように、日本帝国主義者は、国民学校時代から「忠君愛国」を押しつけたのです。自刃して「忠義」を全うしたという狂信的な天皇主義者、乃木(希典=まれすけ)の話を、いたずらに子どもたちの教科書に載せたのではありません。「忠君愛国」思想を吹き込むために、乃木のような軍国主義の権化を忠孝のモデルとして押し立てたのです。「皇国臣民の誓詞」や「皇国臣民体操」もまた、朝鮮人を日本人に同化させようとして押しつけたものです。

 資源を強奪されるのも、生身を切り取られるほど痛恨に耐えないことでした。彼らは資源の略奪にあきたらず、真鍮製の鉢や箸、さじ、はては祭事用の燭台や盃まで奪い去り、女性の髪からかんざしまで引き抜いていきました。

 以前は、金剛山に数百年を経た大樹がたくさんありました。ところが、日中戦争がはじまってからは、金剛山の寺院周辺の大樹までことごとく伐り出したのです。あまりにも莫大な富を略奪されたので、総額がいくらになるか想像がつきません。だから、朝鮮人が憤慨するのは無理からぬことです。

 しかし、それ以上に憤懣やるかたないのは、日本人が、朝鮮人の民族性を抹殺するために、ありとあらゆる悪行をはたらいたことです。色物の服を着ろ、創氏改名をしろ、「国語を常用」せよ、「神社参拝」をせよ、「正午の黙禱」をせよなどと、悪行の限りをつくしたのです。

 わたしが当時、日本人の悪行のなかでもいちばん腹にすえかねたのは、朝鮮人に朝鮮語の使用を禁じ、日本語の常用を強いたことです。民族は、何よりも血統と言語の共通性によって特徴づけられます。朝鮮語を抜きにしては朝鮮民族はありえません。だから、朝鮮語の代わりに日本語を使えというのは、朝鮮民族をこの世から永遠に抹殺しようとする企みでなくて何でしょうか。言語を失えば、民族は死滅するのです。

 当時、日本帝国主義者は、「内鮮一体は国語の常用から」という標語をかかげて、官庁や会社、学校、工場はいうまでもなく、家庭や教会、ひいては銭湯でも日本語を使うよう強要しました。『皇民日報』なる新聞は、「国語の普及」をはかる専門紙でした。日本帝国主義者は「国語の常用」を唱えたあげく、朝鮮人作家に作品を日本語で書くよう強要し、『国民文学』という日本語版の雑誌まで発刊しました。

 日本帝国主義支配時代の末期には、演劇を上演するにあたっても1幕以上は必ず日本語でおこなうよう要求しました。解放後、黄撤、文芸峰、趙霊出らに会って聞いたところによると、朝鮮の映画俳優には日本語の発声を強要し、朝鮮歌謡をレコードに吹き込むときも、1節以上は必ず日本語でうたうよう歌手に要求したそうです。はては、「国民皆唱運動」なるものをくりひろげて、ファッショ的な軍歌までうたわせました。

 学校で日本語を使わない生徒は、非国民扱いを受けたものです。朝鮮語を使うと、官庁では相手にされず、配給ももらえませんでした。日本語を使わない人には汽車の切符も売ってくれない世の中だったのです。

 「神棚」というのは、日本の開国神といわれる「天照大神」の神符を祭る棚のことです。そのような「神棚」をすべての家につくらせて、「同祖同根」を宣伝したのです。解放後、祖国に帰ってみると、「神社」のそばで用をたしたというかどで監獄に入れられた人もいました。

 わたしは極東の訓練基地にいたとき、ある農民が姓を日本式に変えないと息子を退学させるとおどされて、しぶしぶ創氏改名をしたが、先祖に申し訳ないことをしたと嘆き悲しんだ末、石をかかえて井戸に身を投げたという話を聞いたことがあります。

 時局がこんなありさまでは、生きていても死んだも同然でした。

 他国を占領した侵略者が植民地で民族同化政策を実施するのは、もちろん驚くべきことではありません。トルコはブルガリアで、イギリスはアイルランドで、帝政ロシアはポーランドで、フランスはベトナムでそれぞれ自己流の同化政策をとりました。しかし、他国の国民から言葉と文字を奪い、自国式に姓名を変えさせたのは、日本帝国主義者以外にはないでしょう。他国の宮廷に押し入り、王妃(閔妃)を惨殺した連中ですから、いったい何を遠慮することがあったでしょうか。日本帝国主義は1940年代に入り、朝鮮社会のあらゆる分野で、前世紀末にあった王家蹂躙のような悪行をためらいもなく強行しました。朝鮮人は、まさに死滅するか、生き残るかという瀬戸際に立たされていたのです。

 朝鮮の知識人には、日本帝国主義者の民族抹殺政策に抵抗するか服従するかの2つの道しか残されていませんでした。いうまでもなく、大半の知識人は抵抗の道を選びました。しかし、一部には、現実から逃避して民族に背を向けた人もおり、屈服してわが身の栄達をはかった人もいました。また、日本帝国主義の民族同化政策にもろ手を挙げて賛成し、協力した人もいたのです。わたしは極東の基地にいたときも、国内の出版物を丹念に読んだものです。それで、誰が愛国的で誰が売国的か、誰が官位につき誰が入獄したか、誰が転向し誰が絞首台の露と消えたかといったことをよく知っていました。みなさんのなかにも、創氏改名にかんする李光洙の文章を読んだ人がいることでしょう。わたしは『毎日申報』紙上でそれを読みました。わたしは天皇の臣民である、わたしの子も天皇の臣民として生きるであろう、姓を香山と改めるのが天皇の臣民によりふさわしいと思って創氏をした云々という内容でした。李光洙は、日本の神武天皇が即位した地の山の名にちなんで香山と姓を改めたということでした。その文章には、朝鮮人の体面や自尊心のかけらもうかがうことができませんでした。李光洙は、まったく汚らわしい人間になり果ててしまったわけです。「民族改造論」で民族衣装の周衣(トゥルマギ)とチョゴリを脱ぎ捨てたとすれば、この文章ではズボンも下着も脱ぎ捨てて、公然と親日を宣言したのです。彼は雑誌に、志願兵制をたたえる文章まで発表しました。

 解放後、李光洙は、その親日行為を「民族保存」のための愛国的行為だったと釈明しました。民族を保存するために親日行為をせざるをえなかったということですが、彼が真に民族の保存を願っていたのなら、どうして志願兵制をたたえたのかということです。志願兵になって戦場から無事に帰った人がはたしてどれほどいたでしょうか。

 仏教徒のなかに韓竜雲という詩人がいました。3.1人民蜂起のさい、民族代表33人のなかに名をつらねた人です。彼は仏僧でしたが、朝鮮の独立は請願によるべきではない、民族みずからの決死の行動なしにはそれは不可能であると主張した行動派でした。敵に逮捕されたときは、弁護士も差し入れも保釈も、いっさい断りました。ほとんどの民族代表がおじけづいて動揺していると見てとるや、監房の便器を床に叩きつけ、卑劣漢ども、いったい貴様らは国と民族に尽くそうとする者たちなのかと大喝したそうです。

 後日、日本人が買収をはかって、彼に国有地を分けてやるともちかけました。しかし、韓竜雲はそれもきっぱりと断りました。同僚や親友たちが金を出しあって、ソウルの城北洞に家を建ててやろうとしたときは、総督府の石造建築が目障りだといって、家をそれと反対向きに建てさせたものです。

 ある日、彼は鐘路の四つ辻で李光洙に出くわしました。そのころ、李光洙は朝鮮の青年に学徒兵になるよう勧めていたそうです。李光洙と韓竜雲は、親しい間柄でした。ところがその日、韓竜雲は李光洙に目もくれず通りすぎようとしました。あっけにとられた李光洙は韓竜雲の腕をとらえ、おれは春園だ、おれがわからないのかと問いつめました。すると、韓竜雲はかぶりを振って、自分の知っている春園李光洙はもうこの世の人ではないと答えたそうです。これは、仏僧が、民族の魂を捨てた李光洙にくだした死刑宣告であったといえます。

 崔南善も愛国から親日に転向しました。彼は、朝鮮は日本文化に同化せざるをえない運命にあると言ってはばかりませんでした。李光洙や崔南善は、知識にかけてはひとかどの人でした。しかし、信念のない知識や文才は無用の長物にすぎません。崔麟も日本人の同化政策に屈服しました。文人のなかには、親日的な詩を書いて総督府から賞をもらった人もいました。

 一部の知識人が、朝鮮人に生まれたことを嘆き、先祖を改めて日本の着物を着、宮城遥拝をし、はては「天皇のため誉れ高く死のう」などとたわ言を並べて民族に背を向けていたとき、愛国的な学者や教育者、作家、芸術家、言論人など良心的な知識人は、そんな連中につばを吐きかけ、朝鮮人の志操をあくまで守りぬいたものです。

 李箕永の例をとりましょう。

 李箕永は、「カップ(朝鮮プロレタリア芸術同盟)」事件で二度も投獄されました。林和のような人間は入獄するとたちどころに変節しましたが、彼は出獄後も愛国的文人の姿勢を崩しませんでした。

 彼が出獄後、失業者としてソウル市内をさまよっていたころは、日本帝国主義者が「朝鮮思想犯保護観察令」を公布し、思想犯とされる愛国者や進歩的な人士を思想犯保護観察所に強制収容していたときでした。そして、親日思想にもとづく「報国」を強要しました。「報国」はほかならぬ転向を意味していました。

 李箕永も3日にあげず警察署に呼ばれて転向を強要されました。敵は、彼にも日本語で作品を書き、日本語で親日講演をするよう要求しました。しかし、剛直な彼にはいかなる強圧も通じませんでした。敵が「国民文学」を押しつけると、彼はこれみよがしに朝鮮語で小説を書き、敵の「皇民化」政策に対抗しました。「要注意人物」のリストに載ったあとの彼の暮らしはきわめて苦しかったそうです。どれほど金に困っていたのやら、次男が死んだとき、葬儀の費用も工面できず、わが子の遺体のそばで『銭』という短編小説を書いたということです。

 李箕永は、うるさくつきまとう警察に我慢できず、家族を連れて金剛山のふもとの谷間に居を移しました。しかし、監視の目は、山奥でもまといついて離れませんでした。親日分子らに石を投げられて、家の戸が何度も壊されたそうです。それでも彼は、愛国的知識人の気骨をみじんも失いませんでした。夜になると、山中に潜んでいる徴兵・徴用忌避者たちが彼の助言を求めるために訪ねてきました。そんなときは彼らに、牛や馬のように草をはんでも山をおりずに日本人に抵抗せよとアジったものです。そのとき、李箕永の影響を受けた青年たちは、解放後、彼が住んでいた地方の幹部になったそうです。

 李光洙は創氏改名をしましたが、李箕永は日本帝国主義が滅亡するまでそれを拒みました。彼は、創氏改名をすると犬畜生に堕するといって、自分はもとより親類にもそれを許しませんでした。

 解放後、平壌で李箕永にはじめて会ったとき、先生はそんなにひ弱い方なのに、どうして獄中の苦しみにも堪え、創氏旋風にもうちかつことができたのか、何とも驚くほかないと言いました。すると彼は、柳寛順のように17歳のうら若い娘が生命をなげうって節操を守ったというのに、わたしのような文人が志操を曲げたらどうなるのですか、自分は関東大震災のとき、東京で日本人が竹槍や日本刀、鉤(かぎ)などで朝鮮人を手当たりしだいに殺すのを見て、死んで鬼神になってでも彼らに復讐せずにはおかないと心に決めたと答えるのでした。

 民族の魂を奪おうとした日本帝国主義の同化政策に歯向かって断固たたかった愛国者のなかには申釆浩もいました。

 申釆浩は、歴史学の権威であり、著名な作家、エッセイストでもありました。彼は実に名文家でした。吉林時代に、孫貞道牧師から申釆浩の弾劾文を見せてもらったことがあります。朝鮮をアメリカの委任統治領にすることを要望した李承晩を論難した長い文章でしたが、その迫力ある鋭い論調に感服し、くりかえし読んだものです。孫牧師も、それで弾劾文を大事に保管しているのだと言っていました。

 申釆浩は、上海や北京などでいろいろな新聞、雑誌を出して、妥協主義者を糾弾する文章を多く書きました。彼の文が新聞に載ると、人びとは我先に新聞を買ったそうです。彼の文章を読むと、ぴちぴちと跳ねる生命体を見るような気がします。1字1句に朝鮮人の魂が躍動しているような文章でした。

 申釆浩は、1920年代末に日本帝国主義者に逮捕され、旅順監獄で服役しました。彼は10年近い月日を獄中で送りながらも、日本人に屈服しませんでした。彼は獄中にあっても、民族の魂が脈打つ文章を書きつづけました。彼が、旅順監獄で『朝鮮上古史』と『朝鮮上古文化史』を書きつづけたこの一事をもってしても、彼がいかに民族の正統性と魂を守るために努力したかがよくわかります。申釆浩は血の最後の1滴まで注いで執筆をつづけ、異国のわびしい監房で息をひきとりました。

 監獄の露と消えながらも、わが身を燃やして民族の魂を守り、民族精神を啓発しようとした愛国の士や知識人の不屈の抵抗精神を見て、わたしは、彼らの魂を守り、その1人1人の魂を一つに合わせて全民抗争力量の重要な一翼とならしめるべきだという思いをいっそう強くしたものです。民族の魂を守る問題と全民抗争の準備は、不可分の関係にありました。民族の魂を守る問題は、全民抗争準備の精神的基礎であるばかりか、その重要な一環でもありました。民族の魂を守るたたかいなくしては、全民抗争の隊伍に広範な愛国勢力を結集することができなかったのです。

 我々は、民族の歴史と文化、伝統を守るべき知識人の使命を重視し、国内外の知識階層のなかに工作員を間断なく送り込みました。

 わたしは国内に向かう政治工作員たちに、母があって子があるように、人間は誰もが、民族の懐から生まれ、死んでも民族を離れることはできない、我々は誰もが民族という一つの家で一つの血をもってつながっている、だから、民族を守るたたかいでは主客が別に存在するのではない、革命も民族のためにおこない、武装闘争も民族を守るためにおこなうのだ、我々が取りもどそうとするのは国土だけではなく、我々の歴史と文化、民族そのものである、したがって君たちは、全人民の武装化と民族の魂を守る闘争をしっかり結びつけて、全民抗争の準備をりっぱにおこない、学者、教育者、言論人、作家、芸術家をはじめ、広範な知識階層のあいだで祖国光復会の組織を拡大して、彼らがこぞって民族の魂を守る火花となり、弾丸となるようにしなければならないと強調したものです。

 1938年末、『東亜日報』は、ソウルの延禧専門学校で赤色研究会なる秘密結社が摘発され、その嫌疑者が検挙されたという記事を載せて読者の関心を集めました。共和国の初代教育相、白南雲も赤色研究会のメンバーでした。

 屈服すれば「人間扱い」を受け、抵抗すれば畜生のように扱われたあのきびしい時期に、白南雲は知識人として民族性を守りつづける抵抗の道を選びました。彼は、日本で苦学し、商科大学を出ました。そしてその後、延禧専門学校の教壇に立ったのです。『朝鮮社会経済史』は、彼の代表的な力作です。彼は教鞭をとるかたわら、著述に専念しました。日本帝国主義が、民族経済を圧殺し、朝鮮民族という言葉自体をなくそうと狂奔していたときに、白南雲が朝鮮の社会経済史を著わしたのは、たいへん愛国的な行為といえます。

 延禧専門学校には、経済研究会という合法団体がありました。この団体を革命的性格の強い組織に発展させるうえで主要な役割を果たしたのが白南雲だったのです。彼は仲間の教授たちとともに、たんなる学術研究団体であった経済研究会を、共産主義を志向する赤色研究会という政治的色彩の濃い組織に発展させました。わたしが送った政治工作員と連係がついてからは、赤色研究会の全般的活動は祖国光復会10大綱領の実現を指向しました。学期休みには、会員すべてが大衆のなかに入って啓蒙活動をおこなったそうです。

 朝鮮総督府警務局発行の「最近に於ける朝鮮治安状況」という官憲資料には、赤色研究会が、共産革命達成の目的のもとに、研究討論会、講習会、読書会などを催し、会員に共産主義思想の注入と宣伝をするなど、積極的な活動をつづけてきたと記されています。

 白南雲は、日本帝国主義が敗亡するまで隠遁生活をしながら『李朝実録』の翻訳に携わったということです。彼が、『朝鮮社会経済史』を書いたり、経済研究会を赤色研究会に発展させたり、『李朝実録』の翻訳を決心したりしたのは、日本帝国主義の「皇民化」政策への挑戦だったのです。

 普天堡戦闘のニュースを聞いてその年の冬からストーブに火をつけず、冷たい部屋で頑張り通したという人が白南雲です。どうして、ストーブに火もつけずに過ごしたのでしょうか。金日成以下パルチザンの全将兵が、年中枯れ葉を夜着にし、粗食で過ごしていることを知り、申し訳なく思ってそうしたということでした。

 わたしは内閣を組織するとき、白南雲を初代教育相に任命しました。彼はその後、科学院院長や最高人民会議常任委員会副委員長などを歴任しましたが、たいへん良心的に活動しました。

 朝鮮人民が生んだ世界的な遺伝学者であり、育種学者である桂応祥先生も民族的自尊心が人一倍強く、科学的信念のかたい人でした。

 彼は、少年のころからひたすら勉学に励みました。非常に貧しくて紙の代わりに落ち葉に字を書いたくらいだそうです。たまたま靴下などが手に入ると、普段は履かずにポケットに入れておき、人の家を訪れるときだけ履き、履き物もすり切れないように、いつも持って歩いたということです。

 倹約して学問に励んだかいがあって、桂応祥は、日本で大学を卒業し、大学院も出ました。彼は学生時代から秀才として聞こえていたので、大学院を出ると日本各地から引く手あまたでした。大学の指導教師も彼を欲しがりました。彼は、満州にすばらしい農事試験場ができるから、そこへ行って一緒に研究をしようともちかけました。しかし、桂応祥は、それらの要請を一切断りました。日本軍のいない土地でカイコの研究をつづけるのが願望だったのです。彼は、祖国で科学の研究をしたかったのですが、それも断念しました。

 彼は長い間思いわずらった末、中国関内に行くことにしました。そのころはまだ、中国の南方地帯に日本軍が侵入していなかったのです。日本軍が関内に進攻したのは7.7事変以後のことです。日本軍が広東を占領するに及んで、彼は祖国に帰ろうと思いました。そこまで日本人の統治下に入ったからには、先祖の墓がある祖国の地に帰ろうと決心したのです。彼は南中国から帰るさい、異国の地で苦労を重ねてつくり出した新品種の蚕卵を持ってきました。

 解放後は、米軍政のやり方が気にくわず、トランクに蚕卵をつめて平壌に移ってきました。桂応祥にはじめて会ったとき、朝鮮人の魂をもってしては米軍の統治下ではどうにも生きていくことができなかったという彼の話を聞いて、わたしは彼が民族的自尊心が非常に強い学者だという思いをいっそう強めたものです。桂応祥は、共和国北半部にやってきてから、生産性が高く免疫性の強いカイコの優良品種を数多くつくり出しました。

 民族の魂は、信念の強い人だけが守っていけるのです。知識人として真に祖国と人民に尽くすには、熱烈な愛国心と強靱な科学的信念をもたなくてはなりません。

 日本帝国主義植民地支配の末期、国内で民族の魂を守って激しいたたかいをくりひろげた組織のなかには、朝鮮語学会もあります。李克魯の話によると、朝鮮語学会は1930年代初につくられたそうです。朝鮮語研究会というのはその前身です。

 朝鮮語学会は、人びとに広く知られることはありませんでしたが、多くのことをおこないました。わが国で朝鮮語辞典の編纂事業が本格的に進められたのは、朝鮮語学会が組織されてからです。それまでは、わが国にこれといった朝鮮語辞典はありませんでした。もちろん、辞典をつくろうと苦心した学者は少なくありませんでしたが、国が滅びている状況のもとでりっぱな辞典をつくるというのは、きわめて困難なことでした。にもかかわらず、朝鮮語学会の人たちは進んでその任に当たったのです。

 言語を抜きにした文化の発展は考えられません。文化の発展は、その基礎にある言語と文字を合理的に整理し、統一することなしには不可能です。言語と文字を合理的に整理し統一するうえでもっとも有力な手段は、民族の言語資源を総合し、集大成した辞典だといえます。

 民族語辞典の編纂にはおそろしく手間がかかるうえに、彼らにはその資金もありませんでした。日本人の目を避けて秘かにやらなければならなかったので、広範な大衆の援助を受けることもできないありさまでした。言葉と文字を表記するための統一的な規準も定立されていなかった状況下で、膨大な辞典の編纂に取り組まなければならなかったのですから、その苦労は推して知るべしです。彼らは、不慮の事態にそなえて、原稿も2枚ずつ書き、別々に隠しておきました。国が滅びて数十年経ち、日本語ができなければ、口があっても言語障害者以上に蔑視された時期に、石ころのように見捨てられていた朝鮮語の単語を宝石のように1語1語集めて辞典に載せたのですから、彼らはなんとりっぱで義にみちた愛国者たちでしょうか。

 朝鮮語学会は、秘密裏に対外活動も積極的にくりひろげました。1935年、イギリスで開かれた国際音声学会や、翌年デンマークで開かれた世界言語学会議にも参加して、日本帝国主義が朝鮮語をどのように抹殺しているかを全世界に告発しました。

 わが国で朝鮮文字を整理、考究した最初の機関は、世宗王が設けた正音庁でした。世宗が事大主義に染まった崔万理のような学者たちの必死の反対を押し切って訓民正音を勧奨したのは、非常にりっぱなことだといえます。彼は、『龍飛御天歌』も朝鮮文字でつくらせ、公文書も朝鮮文字で書かせ、儒教、仏教の経典も朝鮮文字で出版させました。

 正音庁が廃止され、朝鮮文字がないがしろにされはじめたのは、燕山君の時代からです。朝鮮文字は数百年間、雑草のように見捨てられ、1894年の甲午更張によってよみがえりました。前世紀末にようやく日の目を見た朝鮮文字を、今度は日本人が「国語常用」を云々して踏みにじりはじめました。これに反旗をひるがえしたのが、ほかならぬ朝鮮語学会だったのです。

 ところが、祖国の独立と朝鮮語の整理、普及をめざしてたたかったこの団体は、1942年の秋から弾圧を受けはじめました。そして、朝鮮語学会の数十名の学者と関係者が日本の警察に逮捕されたのです。

 国内の小部隊工作から帰った隊員からその話を聞いて、怒りを抑えることができませんでした。スターリングラードでソ連軍が数十万のドイツ軍を壊滅させたというニュースにキャンプ中が沸き立っているときでしたが、わが国の学者が数十名も捕まって拷問を受けていると思うと、食事も喉を通りませんでした。

 学者たちは、咸興監獄で辛酸をなめ、悪どい拷問の余りに予審中に獄死を遂げた人もいました。日本の警察は朝鮮語学会が反日独立団体であるとしながらも、それが我々の影響下にある組織だということまでは見抜けませんでした。収監された学者たちが、命をささげ、血を流しながらも、あくまで秘密を守ったからです。

 朝鮮語学会内部には、我々の組織とじかにつながっていた李克魯をはじめ、先覚者からなる秘密の地下組織がありました。崔一泉がソウルに李克魯を訪ねたのは、1936年の秋と37年の夏のことですが、そのとき我々の組織は彼に、国内の知識人のあいだに祖国光復会組織をつくる任務を与えて送ったのでした。崔一泉は、長春の『東亜日報』支局長としてソウルに出入りしながら、任務をりっぱに果たしました。

 李克魯も監獄でひどい拷問を受けました。彼が悪どい拷問を受けたのは、同志たちがしたことまで自分がしたと言い張って、人の「罪」までかぶったからです。彼は、ソウルに帰ってからも満身創痍の身をかえりみず、朝鮮語学会を拠点に、民主勢力の団結と自主的な独立国家の建設をめざして大いに活動しました。

 解放後、李克魯が4月南北連席会義に参加するため平壌に来たとき、わたしは彼に、我々は朝鮮語学会事件を深い関心をもって見守った、日本警察の連日の拷問に死人も出ていると聞いて心配でならなかった、ところが朝鮮語学会の人たちは獄中でも屈しなかった、我々はその強靱な反日意志と集団的な愛国心に感服したものだと言いました。すると彼は、「それはほかでもなく、頼るところがあったから頑張りぬけたのです。自分たちの意地がどこから出たとお思いですか。白頭山のほかにはありえないではありませんか」と答えるのでした。そして普天堡戦闘後、語学会の会員たちは、有り金をはたいて焼酎を一本買い、それを酌み交わしながら感激の涙を流したと話したものです。

 李克魯が民族の魂を守るうえで鑑となる人物であり、共産主義者からも民族主義者からも愛される人物であったからこそ、我々は4月南北連席会議の幹部壇に彼を座らせ、また参会者の名義による『全朝鮮同胞に檄す』という文書の朗読もさせたのです。

 4月南北連席会議が終わったとき、李克魯は平壌に残ってわたしと一緒に働きたいと言いました。それで、ソウルにいる彼の家族もみな平壌に呼び寄せました。彼は、長年内閣で閣僚を務めました。彼は、誰にたいしても敬語を使う、謙虚で礼儀正しい人でした。

 いつだったか、李克魯の履歴書を見て驚いたことがあります。訪問していない国がなく、会見していない人がいないのです。中国、日本、ソ連、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなど有名な国はすべて訪れていたのです。彼はレーニンにも会っています。それは、モスクワで極東人民代表会議が催されたときのことです。そのころ上海にいた李克魯は、李東輝、朴鎮淳らと一緒にモスクワへ行き、クレムリンでレーニンに2度も会ったそうです。彼は、民族運動家のなかでも大物といわれる人にはほとんど会っています。彼は、崔一泉、辺大愚、黄白河をはじめ、東北地方で活動した人たちもよく知っていました。李克魯にドイツ留学を勧めたのは、モスクワに滞在していたウィルヘルム・ピークだったということです。彼の斡旋でベルリン総合大学に入学し、卒業するときには哲学博士号を授かりました。

 いつぞや李克魯に、哲学博士号を得たというのに、どうして朝鮮語の研究を専門にするようになったのか、先生が祖国に帰ったとき、実業界に進出するよう勧めた人もあり、官職について頭角をあらわすよう勧めた人もいたそうだが、なぜ言語学者になったのかと聞いたことがあります。すると彼は、アイルランドを旅したとき、その国の人たちが、自国語の代わりに英語を公用語にし、看板や道路の標識など何から何まで英語で書かれているのを見て、朝鮮の言葉と文字もこんな運命に追いやられるのではないだろうか、国に帰ったら母国語を守る運動に一生をささげようと決心したと言うのでした。

 朝鮮語学会事件は、我々に大きな衝撃を与えました。銃剣も絞首台も恐れず、血をもって民族の魂を守りぬいた知識人の姿に、我々は、生きている祖国、生きてたたかっている祖国の姿を見たのです。

 京城帝大の学生たちも組織をつくり、民族の魂を守って大いにたたかいました。この組織に加わった愛国的知識人たちは、最初から日本帝国主義の朝鮮民族抹殺政策に反旗をひるがえし、民族の魂を守るたたかいを果敢にくりひろげたのです。

 京城大組織の愛国的知識人たちは、親日的な文人や御用学者たちのたわ言に反撃を加える一方、合法的な演壇を通じて朝鮮民族の優秀性を広く宣伝しました。彼らは、朝鮮民族は、怠惰な民族ではない、派閥争いを好む民族でもない、朝鮮人の生活が苦しいのは怠惰のせいではなく日本帝国主義者のためだ、彼らが朝鮮民族の富をことごとく奪っていくからだ、誰があえて朝鮮民族を立ち後れた民族だというのか、朝鮮民族は知恵や文明度において世界に堂々と誇りうるすぐれた民族だ、日本帝国主義者がいかに弾圧を加えても、そしていくら大きな犠牲を払おうとも、朝鮮民族はみずからの民族性を守りぬくであろうと弁じたのです。

 しかし、言論だけでは暴力を振り回す連中に太刀打ちできないというのが、知識人たちの得た教訓でした。そこで彼らは、大きな山脈に根拠地を構え、炭鉱や鉱山の労働者、山中に潜む徴兵・徴用忌避者で武装隊伍を組む準備に取り組んだのです。

 数多くの青年学生や学者、宗教家、教育者、作家、芸術家、言論人が、全民抗争組織に加わり、日本帝国主義の民族抹殺政策に抗して最後まで勇敢にたたかいました。組織外の知識人たちも信念を抱いて、敵の同化政策に抵抗しました。いかに暴虐な抑圧や鉄鎖も、覚醒した知識人の民族の魂を守るたたかいをくじくことはできないものです。

 歴史に名を残した功労ある知識人は例外なく、祖国と民族に忠実な、信念と意志の強い人たちでした。それで、わたしはつねに、知識人たちに祖国と民族を熱烈に愛し、いかなる逆境にあっても不屈の意志、革命的信念を貫くよう強調しているのです。



 


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