金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 対日作戦の突破口


 <対日作戦前夜に、祖国解放の旗、プロレタリア国際主義の旗をかかげて小部隊偵察活動をくりひろげ、壮烈な最期を遂げた朝鮮人民革命軍の勇士は数えきれない。小部隊偵察活動に参加した朝鮮人民革命軍の隊員たちは、犠牲的なたたかいによって対日作戦の突破口を切り開いていった。
 ここに記す金日成同志の回想談を通じて、読者は敵中偵察活動における朝鮮人民革命軍隊員たちの英雄的な偉勲を想起するであろう>


 祖国解放の対日最終作戦を準備していた時期、朝鮮人民革命軍は先鋒に立ってその突破口を切り開いていきました。

 対日作戦の遂行とその準備を進めていた日々、朝鮮人民革命軍の活動は、国際連合軍内の朝鮮人民革命軍主力部隊の直接の線を通しても進められ、国際連合軍別働隊の線を通してもおこなわれました。

 対日作戦を見込んだ軍事偵察活動、とりわけ国際連合軍の共同偵察作戦を積極化するのは、当時の情勢からしてきわめて切迫した問題でした。日本帝国主義者の戦略的企図を事前に探知するには、日本本土はもとより、ソ連と国境を接している満州や朝鮮で軍事偵察活動を大々的に展開しなければなりませんでした。

 1940年代の前半期、祖国解放の大事を前にした我々には、以前とは比べようもない膨大な偵察任務が提起されていました。当時、我々は、日本帝国主義との最後の決戦を準備していました。そのため、偵察対象も増大するほかなかったのです。1つや2つ、または3つや4つの対象にたいする襲撃戦や破壊戦、伏兵戦を主としていた従来の作戦では、勝算のある対象だけを選んで戦いを進めたので、偵察対象も限られたものでした。しかし今度は、敵軍の駐屯地と要塞区域、飛行場、砲火力陣地をはじめ、すべての敵対的要素を偵察対象に含めなければならなかったのです。さらには、反動団体の所在地とその構造的特性、民心の動きなどもすべて偵察対象になったのです。

 1940年代の前半期に我々が軍事偵察を重視したいま一つの理由は、日本軍の機動が頻繁になり、指揮機構がしばしば改編されたことにもあります。

 ドイツがソ連侵攻を開始すると、日本の軍部は満州の関東軍兵力を数十万も増強しました。ドイツ軍がモスクワを占領し、ソ連が混乱に陥ったら、直ちに北攻を開始する考えでした。そうした野心があったからこそ、彼らは満州に軍隊を大々的に移動させたのです。ところが案に相違して、ドイツ軍のモスクワ攻略がならず、膠着状態になりはじめると、抜け目のない日本の軍部は、北攻は時期尚早と判断して「北守南攻」に移り、真珠湾攻撃だのシンガポール陥落だのと騒ぎたて、満州方面に集中していた兵力の大半を南方にまわしました。だから、それを補充するために新たな人員と戦闘機材を移動させるほかなかったのです。

 朝鮮人民革命軍の隊員たちは、満州と国内の広大な地域を縦横無尽に駆け巡りながら、祖国解放作戦に必要な多くの偵察資料を収集しました。

 わたしは、彼らが入手した偵察資料のうちもっとも重視すべきものは、朝ソ、朝満、ソ満の国境一帯に構築された要塞と、要塞区域にかんする資料だと考えました。これらの資料がなかったら、対日作戦をあれほどりっぱに進めることはできなかったでしょう。我々が事前に敵の意図を知りえたので、「虎の子」をもって任じていた関東軍精鋭部隊がろくに抵抗もできずに降伏したのです。

 日本人が、この要塞区域を難攻不落と豪語したのも無理からぬことです。人びとは、フランスのマジノ線やドイツのジークフリート線が大規模なものであることは知っていても、日本の要塞や要塞区域がどれほどのものであったかはよく知らないようです。日本人が構築した要塞区域を一つにつなぎあわせると、総延長が1000キロメートル以上になります。日本は長年、莫大な物資をつぎこんでこの要塞線を構築したのですが、一つの要塞区域に平均500ものコンクリートと木造のトーチカが配され、指揮所、監視所、火力陣地、各種掩蓋(えんがい=おおい。特に塹壕などの上を木材・石材で覆って敵弾を防ぐおおい)、塹壕、連絡壕、対戦車および対歩兵障害物などを合わせると、文字どおりアリの這い出るすきまもありませんでした。関東軍の主力がこの区域に配備されていたことからしても、日本の軍部がこの要塞区域を戦略的にいかに重視していたかがわかるでしょう。それで我々は、要塞区域の偵察にもっとも力を入れたのです。

 わたしが小部隊を率いて満州や国内に出入りしていたとき、東興鎮要塞区域の北側を通過したことがありますが、いたるところで敵のトーチカや巧みに擬装された掩蓋に出くわしました。そのあたりで野営し、早暁に目を覚ますと、そこが敵の設けた地下構造物の掩蓋であったり、トーチカのそばであったりしたものです。

 敵の営所の近くの山麓で野営したこともありました。そのとき、わたしは隊員たちをそっと起こして、敵兵の目の届かない所へ連れていきました。朝食をとりながら、君たちが昨晩寝たのはどこだったと思うか、敵の営所のすぐそばだと言うと、みな目を丸くしたものです。

 要塞区域を偵察するにあたっては、一つの対象にいくつかの固定した偵察班を送り込みました。例えば、咸鏡北道の慶興(恩徳)要塞区域は、十余の偵察班が担当しました。琿春、東興鎮、東寧の要塞区域にもそれくらいの班が送り込まれました。

 偵察兵たちはあのとき、要塞区域に潜入して、トーチカのコンクリートのかけらまで持ち帰ったものです。トーチカの大きさや砲の口径などはひもや物差しで計れるでしょうが、敵の歩哨のすぐ近くで、音も立てずにコンクリートのかけらをとってくるというのは想像もつかないことです。ところが、彼らはそんな難題もりっぱにやってのけたのです。

 偵察兵たちは、国境一帯の要塞区域だけでなく、羅津、清津、元山一帯や、はるか祖国の南端にある鎮海要塞、麗水要塞なども偵察しました。彼らは、広大な地域に展開されている要塞やその兵力、大砲、飛行場と飛行機の数、さらには、港湾施設、軍艦の種類と排水トン数、港湾出入秩序、通信接続所の位置、軍需品倉庫など、必要なものはなんでも探知してきました。

 要塞区域と要塞の偵察では、呉白竜を班長とし金鉄万、韓千秋、金赫哲らからなる偵察班がぬきんでた功を立てました。彼らは、国内偵察任務を数十回も遂行しました。

 最初のうちは無線通信機がなかったので、通信手段に伝書バトを利用しました。目的地に到着すると、ハトの足に付けたアルミニウムの筒にその旨を書き入れて、基地に知らせたものです。1942年ごろからは、国内と満州に潜入した小部隊と偵察班のほとんどが無線通信機を利用しました。

 国内に入るときは、たいてい日本人が国民服と呼んでいた服に地下足袋といういでたちで、乾燥食品を携行しました。いったん国内に入ると、汽車や自動車、牛馬などを利用せずに、徒歩で目的地に向かったものです。

 偵察兵たちには、派遣地の地理や風習、言葉づかいについても十分に習熟させました。

 敵は、朝鮮人民革命軍の小部隊や工作班の潜入を防ぐため、豆満江沿岸と北部国境地帯における警戒を片時もゆるめませんでした。革命軍が潜入すると思われる丘陵には糸などを張り巡らして常時監視し、それが切れていたら、すかさず軍犬と住民を駆りたてて捜索したものです。ときには、地面についた足跡を見て、偵察兵の潜入いかんを判断することもありました。

 呉白竜の偵察班は、何度も危険にさらされたものです。

 あるとき、彼らは雄基(先鋒)から慶興(恩徳)へ抜ける猪瑟(チョスル)嶺という峠道で、悪質な警防団員に遭遇しました。翌朝、敵の軍警は、警防団員の死体を発見し、猪瑟嶺一帯で大々的な捜索をくりひろげました。この捜索には、数百名の住民まで駆り出されました。偵察兵たちはナラの林に潜んでいたのですが、住民たちは彼らを見ても見ぬふりをしました。金鉄万はそのとき、ナラの枝に、我々は朝鮮独立のために戦う革命軍であるとしたためた紙切れをつるしておいたそうです。捜索に駆り出された人たちはそれを見て、ひそひそ話し合った末、ここにはいないと言って、つぎの谷間に向かったということです。

 呉白竜の偵察班は、国内工作にあたって、多くの臨時秘密根拠地をつくりました。甫老知山や小炭窯場、青鶴山などにあった臨時秘密根拠地は彼らが設けたものです。彼らは、このような臨時秘密根拠地に依拠して、大衆工作も主動的に進めました。その過程で積極的な協力者を少なからず獲得しました。彼らは、炭焼きの老人を味方に引き入れ、情報工作や新聞・雑誌の購入にあたらせました。そして、彼がある程度情報工作に慣れると、清津港と元山港の偵察任務を与えて現地へ送りました。彼は、元山の親類の家を根城にして長い間元山要塞を偵察し、重要な情報を呉白竜の偵察班に提供しました。

 呉白竜はまた、甫老知山の奥で畑仕事や炭焼きをして生計を立てている日本語の達者な人を偵察活動に引き入れ、しばらく訓練したあと日本に派遣しました。当時、日本軍は、その地方の軍馬補充部で馴らした馬を毎年、秋に日本に積み出していました。そのたびに朝鮮人のなかから馬方をつのって日本に送ったのですが、呉白竜は馬方のなかにその人を潜り込ませたのです。呉白竜から極秘の任務を受けた彼は、日本に渡ると、羅津――新潟、清津――敦賀航路を利用して朝鮮――日本ルートを開くことに尽力しました。

 呉白竜偵察班の活動における特徴は、活動範囲が広く、資料がきわめて科学的であることでした。

 朝鮮南端の要塞の地、鎮海、馬山、釜山一帯の情報も、呉白竜が派遣した情報員が入手したものです。釜山に送り込まれた情報員は、雑貨商を装って偵察任務を遂行したそうです。麗水要塞でも、我々が送った工作員が活動しました。彼らは大がかりに、しかも巧妙かつ正確に偵察活動を展開しました。対日戦争前夜にソ連軍が作成した羅津、雄基、清津など、東海岸地帯の主要港湾上陸作戦計画は、全的に呉白竜の偵察班が集めた資料にもとづいたものでした。彼らは、港湾の偵察を実に大胆におこないました。

 金赫哲は、この偵察班が生んだ朝鮮人民革命軍の英雄戦士です。彼は10回目の祖国への偵察工作のさい、惜しくも戦死しました。3名で班を組んで国内に入ったのですが、そのなかに関節炎に悩まされていた隊員がいました。任務はりっぱに遂行したものの、その隊員が歩行困難になり、偵察班は窮地に陥りました。それで、金赫哲は彼を背負って歩きました。その日は大雪だったので、歩を運ぶのにたいへん苦労したということです。3人が雪の中で悪戦苦闘している間に時間が過ぎ、川向こうの約束の地点で彼らを待っていた案内員は引き揚げてしまいました。班長は、数日間なに一つ口にできず餓死寸前に陥った戦友たちを救うために、食料を求めて村へおりていきました。そのあと、金赫哲の懸命の介抱にもかかわらず、関節炎に苦しんでいた隊員は息を引き取りました。金赫哲もかろうじてわが身を支えているありさまでした。彼は雪の中を這っていくうちに力が尽き、二度と再び立ち上がれませんでした。抗日武装闘争の時期に金赫哲のように餓死した人は1人や2人ではありません。

 翌春、村の農民たちが、彼の遺体を発見し、豆満江の岸辺に埋葬しました。関節炎に苦しんだ隊員の亡骸もそのかたわらに葬られました。金赫哲は、最期の瞬間まで拳銃を握っていたそうです。農民たちはそれを見て、彼らがパルチザンであることを知ったのでしょう。金赫哲は、金正淑が桃泉里で地下工作にあたっていたときに部隊に連れてきた人です。非常に勇敢で忠実な人でした。桃泉里出身の隊員はみなりっぱに戦ったものです。

 慶興要塞区域の偵察は、孫泰春の偵察班が受け持ちました。彼らも任務をりっぱに遂行しました。彼らは雄基の裏山に臨時秘密根拠地を設け、多くの情報を集めたものです。孫泰春は1942年の夏、敵に包囲されると、襲いかかる敵兵に素手で立ち向かい、壮烈な戦死を遂げました。

 孫泰春は、和竜遊撃隊から我々の主力部隊に編入された人です。我々の部隊に移ってからは、分隊長や小隊長も務めました。同じ和竜出身の朴永純と金周賢は口をきわめて彼をほめちぎったものです。彼らは孫泰春のことを、しっかり者、剛直で信念と志操の堅い情熱家だと評しました。その評価は、いささかも誇張されたものではありません。彼は、戦友たちからたいへん愛されていました。遊撃隊の経歴からすると、金周賢と入隊年度を同じくする老兵クラスに属していました。彼は、ちぢれ毛の美男子でした。

 孫泰春には、彼の人となりをしのばせる小説のようなエピソードがあります。

 彼は和竜に住んでいたとき、親同士の約束である娘と結婚することになっていました。親たちの約束はともあれ、彼らは互いに深く愛しあっていました。2人の仲に影がさしはじめたのは、革命活動に携わっていた娘の兄が逮捕されて入獄し、そのうえ借金のかたに地主にあばらやさえも差し押さえられ、一家が村の葬具小屋で暮らさなければならなくなったときからです。

 当時、孫泰春は、長仁江という所で共青活動をしていました。いいなずけの一家の窮状を目のあたりにした彼は、胸が張り裂ける思いでした。けれども、彼には、娘の一家を救う術がありませんでした。考えあぐねた末に、近くの村で共青活動をしている金某なる青年の父親を訪ね、いい嫁を世話するから、その代わりに牛を一頭もらえないだろうかと持ちかけました。いい嫁という言葉に気がそそられた父親は、何年かのちに牛代を払ってくれるなら異存はないと答えました。孫泰春が、約束したいい嫁とは自分のいいなずけのことだったのです。

 こうして、牛を手に入れた孫泰春は、それを売って地主に借金を返し、差し押さえられたあばらやを取り戻し、娘の一家を葬具小屋から救い出しました。そのあとで娘に会い、事情を打ち明けたのです。娘は最初、絶対にほかのところには嫁に行かないと泣きくずれました。しかし、「ぼくだって君をほかへやりたくない。でも、地主に苦しめられている父母兄弟のためにぼくたちの仲を犠牲にすべきではないか。だから反対しないでくれ」と孫泰春に説き伏せられて、何も言えずに泣くばかりだったということです。

 ところが不運なことに、結婚当日、「討伐隊」が村を襲ったのです。村は修羅場と化し、新郎新婦は礼服姿のまま逃げ出しました。こうして一家は散りぢりになり、新郎は遊撃隊に入り、新婦は敵地にとどまって共青活動に携わったそうです。そして、孫泰春も遊撃隊に入隊しました。金某なる青年はその後、汪清遊撃隊に属して戦い、戦死しました。数奇な運命をたどったその女性は、孫泰春のことが忘れられず、一生独身で通したということです。

 わたしは、孫泰春にはいつも困難な任務を与えたものです。彼は、間三峰戦闘や茂山地区戦闘、紅旗河戦闘など、わたしが指揮した重要な戦闘に毎回参加し、そのつど人並みはずれた気概をもって勇敢に戦いました。紅旗河戦闘のときは、尖兵の任務をりっぱに果たしました。

 孫泰春の一家は、汪清の呉泰煕一家と同様に、家族の者がみな抗日戦に身を投じた革命家の家門です。孫泰伊、孫泰雲、孫泰竜など、兄弟の多くが遊撃隊や革命組織に入って戦い、犠牲になりました。

 金学松は、慶興要塞区域の偵察任務の遂行中に戦死しました。彼も孫泰春と同じく、敵に包囲されたそうです。彼は入手した偵察資料を金鳳錫に託し、敵兵を誘引して戦死したのです。

 清津と羅南の要塞の偵察には、韓泰竜の班も参加しました。彼らは、日本の憲兵や靴の修繕屋、人力車夫などに擬装して活動しました。しかし、いかに巧みに擬装し、臨機応変に活動しても、山中の高射砲陣地だけは、警戒が厳重で、偵察のしようがありませんでした。陣地に接近せずには砲の口径や数を確かめることができないというのに、どうにも近づきようがなかったのです。

 ある日、韓泰竜らは、高射砲陣地の方に通じる坂道で荷車を引いている1人の老人を見かけました。老人が往生しているので、彼らは荷車を押してやりました。老人は何度も礼を述べました。そのとき、韓泰竜は、「食を乞いながらさ迷い歩く」わが身を嘆きました。老人は彼に同情し、日本人が滅びたら朝鮮人も暮らしのめどがつくのだがと嘆息するのでした。韓泰竜は、すかさず高射砲陣地を指さし、日本人はあんなに多くの大砲を持っているのだから滅びるはずがないと言いました。老人は苦笑をもらし、あの山の大砲はほとんどがにせものだ、本物は数門にすぎず、残りはみんな木製のにせものだ、ここで木を伐って皮をはぎ、ペンキを塗って陣地に運び込んだものだと言うのでした。彼は、清津一帯の兵力配置や清津港の船舶の出入り、物資の輸送状況まで詳しく知っていました。老人の話を他のルートを通じて得た資料と照らし合わせてみると、完全に合致したということです。

 穏城、慶源、慶興をはじめ、北部国境地帯の要塞区域と要塞の偵察では、朴光鮮や洪春洙の偵察班が大きな功を立てました。

 朴光鮮の偵察班は、軍事偵察と大衆工作を巧みに結びつけました。彼らは、軍事偵察に主力をそそぎながらも、大衆を革命化する政治工作を片時もないがしろにしませんでした。彼らは大衆工作をりっぱにおこなったので、軍事偵察を進めるにあたっても人民から多くの援助を受けることができたのです。穏城、雄基、慶源、慶興、羅津一帯には、1930年代初から我々が設けた組織が多くありました。朴光鮮の偵察班が多くの情報を集めたのは、これらの組織をうまく動かしたからです。

 解放後、朴光鮮は、小部隊活動の時期を回想し、自分たちの偵察班が咸鏡北道の北部一帯で活動したとき、穏城の人たちにいちばん世話になったが、彼らは1930年代の前半期から「吉林の風」と「間島の風」の影響を多分に受け、援軍活動をたゆみなくつづけてきた組織のメンバーやその子たちだったと語ったものです。あのとき穏城で偶然に手を組んだ区長も地下組織のメンバーだったということです。区長は偵察兵に会うと、今夜は豆満江の渡し場の取り締まりを強化せよという指令がくだったから川を渡るな、電話を盗聴するのならどこそこでするのが安全だ、といったように必要な情報を適時に知らせてくれたそうです。

 朴光鮮の偵察班を助けてくれた人のなかには、南陽憲兵分隊の憲兵伍長もいたそうです。朝鮮人が憲兵伍長を務めるというのは珍しいことでした。まれに、洪鐘宇のように憲兵補助員をした人はいても、憲兵伍長にまでなった朝鮮人はほとんどいなかったのです。

 朴光鮮らは、その伍長を味方につけることにし、積極的に接近しました。伍長と接触を重ねるうちに、彼が1940年代初期から孫長春とつながりがあった祖国光復会の特殊会員であることが判明しました。慶源郡で小部隊活動をしていた孫長春が戦死したあと、彼は人民革命軍の手が届くのを待ちながら深く潜伏していたのです。

 憲兵伍長は、憲兵隊を経由する情報をもれなく偵察班に伝えました。また、朝鮮人民革命軍の小部隊や革命組織のメンバーを積極的に保護しました。あるとき、豆満江流域の要塞区域の偵察にあたっていた小部隊のある班が敵に検束されました。そのとき、憲兵伍長は彼らを見張っている警防団員と密偵たちに、自分が確認してみると言いました。そして、この男たちは憲兵隊所属の「密偵」だ、味方を捕まえるとは何ごとだと怒鳴りつけ、偵察兵たちを釈放させたということです。

 南陽は、国境一帯の要塞区域と日本本土との連係を保つ中継地点でもありました。わが国の北部国境地帯と中国の東北地方を結ぶ主要な道路と鉄道、通信網は主として南陽を経由し、大陸侵略のための補給物資も南陽を経て東北地方に送り込まれていました。そうした意味からして、この偵察班が南陽の憲兵伍長を情報工作に引き入れたのは、敵中工作における大きな収穫であったといえます。

 朝鮮人民革命軍の小部隊と工作班は大胆にも、敵機関で働く人たちまで軍事偵察に引き入れました。西水羅警察署の給仕は、慶興要塞区域と羅津要塞の偵察に参加した偵察班を大いに助けました。彼は仕事に精を出して署長の信頼を得たあと、多くの情報を収集し、のちには重要な軍事機密文書まで盗み出しました。韓昌鳳と趙明善が北部国境地帯で活動していたとき、頻繁に出入りした青鶴の日本人警官のなかには、彼らの影響を受けて情報工作を積極的に助けてくれた人もいたそうです。

 小部隊と工作班は、偵察活動を通して日本帝国主義者の作戦企図と兵力の移動状況を随時探り、我々が最後の攻撃作戦を練るうえで参酌すべき価値ある膨大な資料を集めました。日本人はよく手管を弄するので、偵察兵たちは反復偵察をおこなったのです。敵は手練手管をつくしましたが、偵察兵たちの目を欺くことはできませんでした。

 尹泰興も関東軍第1方面軍の編成状態についての正確な情報を集めて、国際連合軍指揮部の対日作戦計画の策定に大きく寄与しました。

 我々は、敵の支配区域に多くの工作員を長期潜伏させることにも大きな関心を向けました。当時、工作員たちは、敵中の重要な機関、満州国軍や満州国警察はいうまでもなく、日本軍部隊にも潜伏していました。

 地下工作にあたる人には、必ず守るべき一つの重要な原則があります。どのような状況のもとでも、自分を派遣した人の帰還命令を受けないかぎり、むやみに工作地を離れたり、工作の秘密をもらしてはならないのです。この原則は、生命を賭して守らなければなりません。朝鮮人民革命軍の工作員たちは、この原則を命をかけて守りぬきました。

 池京洙の場合を例にあげましょう。朝鮮人民革命軍司令部は、最後の攻撃作戦をひかえて、彼に敵中に長期潜伏して地下工作をおこなうよう命じました。工作地は、ソ満国境地帯でした。彼は、工作資金で土地と家を買い、所帯も持ちました。彼は地主になりすまし、巧みに日本の軍警を取り込みました。そして、彼らから得た極秘情報をそのつど司令部に送ったのです。彼の情報は、祖国解放の最後の攻撃作戦で効力を発揮しました。

 わたしは、祖国が解放された後も彼を呼び戻しませんでした。彼の潜行地でやがて蔣介石の国民党軍との決戦がおこなわれると考えたからです。池京洙は、工作地が解放されると、小作人たちに襲われる前に進んで土地と家屋を差し出し、黙々と野良仕事に励みました。自発的に土地と家屋を差し出したおかげで、彼は打倒の対象になりませんでした。ところが、ほどなくしてその地帯が国民党軍の支配下に入ったのです。彼は、小作人たちに分け与えた土地を取り戻し、また地主になり、国民党軍の上層部と親交を結んで彼らから貴重な情報を引き出しました。

 しかし、そのように黙々と功を立てた池京洙は、東北地方が国民党軍の統治下から解放されると、反動派の烙印を押されて審判台に引き出され、あやうく農民の手にかかりそうになりました。彼は審判場で殴打されながらも、自分の素性を明かさなかったのです。そこに居合わせた同志たちが、彼が抗日遊撃隊員であることを保証したからよかったものの、さもなければ大変なことになるところでした。わたしは、そのことを知って直ちに彼を祖国に呼び戻しました。

 琿春県密江付近にはソクセ谷という地がありますが、そこに廉某なる老人が住んでいました。彼は猟で生計を立てていました。当時、日本の官憲は、一般住民には猟を許可しませんでした。許可する場合は、彼らの情報活動に協力するという条件をつけました。廉老もそうした条件をのんで猟をしていたのです。

 ところが、図們の偵察を担当した任哲の偵察班が、彼に近づいて協力を求めたのです。廉老はそれに応じました。つまり、彼は日本の官憲の指令と遊撃隊の要請を同時に実行する2重スパイを務めることになったのです。彼は、敵には偽りの情報を与え、遊撃隊員には本当の情報を提供しました。

 任哲の偵察班が図們の偵察に成功したのは、この老人をうまく利用したからです。それまで、図們地区に派遣された偵察班は敵の防諜網にかかって失敗を重ねていたのに、この偵察班だけは成功したのです。図們は、日本帝国主義の秘密諜報機関や軍警の集結地でした。

 解放後、廉老は、日本のスパイをはたらいた反動派だということで、家産を没収されました。彼も池京洙のように審判場に引き出されて、つるし上げられたようです。1946年の初めに、任哲が廉老の潔白を保証しました。それ以来、彼は愛国者として人びとから尊敬されるようになりました。

 対日作戦の突破口を開く軍事・政治活動は、対日作戦の日が近づくにつれて、いっそう積極化されました。

 敗戦前夜、日本の政界と軍部では「朝鮮を死守」すべしという主張が台頭しましたが、彼らは、朝鮮は自活自全体制での大陸戦争の兵站基地、最終戦の拠点になるだけでなく、日本の運命を決する輸血路になる、ゆえに絶対に放棄してはならないと騒ぎ立てました。「朝鮮死守論」は、朝鮮を最後の拠点にしてあくまで戦い、なんとしても生き残ろうということです。いわゆる「朝鮮死守論」が実践に移されるということは、すなわち朝鮮が日本帝国主義を撃滅する最後の決戦場になるということを意味しました。

 こうした実情からして、我々は国内の偵察により大きな力をふり向け、敵の重要な軍事機密を探り出すことに重点をおくことにしました。なかでも、敵の軍用飛行場の偵察は重要な意義をもっていました。

 日本帝国主義者は戦争をエスカレートさせながら、朝鮮と満州に多くの飛行場を新設または拡張しました。朝鮮では東海岸一帯に飛行場を建設したのですが、清津や吉州などにある飛行場はすべて戦争を拡大する過程で建設されたものです。

 ところが、吉州に新設された飛行場では、飛び立った飛行機がみな墜落するのでした。試験飛行をくりかえして、ようやくそれが吉州地溝帯の気流のせいだということがわかりました。それで、日本人は直ちにこの飛行場を閉鎖しました。飛行場の建設のため多くの農民が農地を失い、路頭に迷ったということです。東海岸地区に派遣された偵察兵たちは、こんな情報まで集めてきたのです。

 会寧飛行場に派遣された偵察班は、この飛行場には本物の飛行機は数機しかなく、残りはすべてにせものであることを確認しました。

 東海岸から平壌まで足を伸ばした金慈麟の偵察班は、牡丹峰に登って飛行場を撮影しました。飛行場には、飛行機と自動車の修理工場がありました。それに、部品倉庫、運輸職場、病院、食堂など多くの付属建物も見えました。彼らは、それらをみなカメラに収めました。飛行場の中に入るときは、日本の憲兵に変装したということです。

 北満州に派遣された金大洪も飛行場の偵察をりっぱにおこないました。彼は日雇い労働者を装って、4か月もの間、ソ満国境地帯にある飛行場を偵察しました。そこの飛行機も本物は20機未満で残りはにせものだったそうです。

 偵察兵たちの苦労は大変なものでした。ある偵察班は、敵の移動状況を偵察すべく、鉄道のそばの構造物の汚水の中に何日も潜んで、軍用列車の通過時間と車両編成を調べ、またある偵察班は、酷暑の日に敵の戦術訓練状況を偵察すべく、1日中、息がつまりそうなアナグマの穴のような所に隠れて、あぶら汗を流したものです。

 訓練基地から数百キロ離れた所で偵察活動をおこない、全員が壮烈な戦死を遂げた偵察班のことが忘れられません。その偵察班は、指定の日には、必ず偵察の結果を無電で司令部に報告したものです。偵察資料が豊富で正確なうえ、時を移さず報告してきたので、我々はもとよりソ連側の同志たちも非常に満足していました。

 そんなある日、その偵察班が無電で非常信号を送ってきたのです。偵察班が敵の包囲に陥った、無線通信機は山の頂にあり、最後の情報を送るから即時受信せよというものでした。現在、敵が無線通信機のある山を包囲し、しだいに接近している、若い隊員が先に出ていき奮戦したが戦死し、ついで年配の隊員も戦死した、無線通信士の自分は情報を送信したあと、手榴弾の束を爆破させ、1人でも多くの敵兵を倒して死ぬ覚悟だという内容でした。南満州生まれの女子無線通信士は、以上のような通信を送ったあと、壮絶な戦死を遂げたのです。

 金洪洙も壮烈な最期を遂げました。彼は1943年に偵察任務をおびて琿春方面に向かい、そこで逮捕されました。敵は拷問の限りをつくし、秘密を吐けと迫りました。それでも口を開かないので、敵はジャガイモをすりつぶす機械に彼を投げ込んで惨殺したのです。

 彼の最期を伝える記事が、国際連合軍の新聞に大きく掲載されたものです。困難な任務をいつも進んで引き受けるので、わたしがとくに目をかけていたのですが、かくも壮絶な最期を遂げたのです。

 池鳳孫も同年の春、偵察任務の遂行中、琿春で戦死しました。

 朝鮮人民革命軍の小部隊と工作班の偵察活動とその過程における彼らの英雄的闘争について話せば、枚挙にいとまがありません。

 対日作戦の突破口を開く敵中偵察活動の日々に我々がおさめた成果は、人民の支持を抜きにしては考えられません。あのとき、我々は人民から多大の援助を受けました。

 我々は、困難な敵中偵察を準備するにあたって人民の援助に大きな期待をかけ、小部隊や工作班を送り出すときには、敵中では必ず人民に依拠し、人民の援助を受けるよう重ねて強調したものです。しかし一方では、敵中偵察という新しい方式のたたかいが、以前東北地方や国内で銃声をとどろかせながら大部隊で遊撃戦をくりひろげていたときのように、人民と親しんで血のかよったきずなを結び、彼らの理解と共感、支持を得ることができるだろうかという不安もつきまといました。

 しかし、対日作戦の血路を開くこの苦難の戦いで、我々は、行く先々で人民の支持と声援を受け、我々が変わることなく人民を信頼し、人民に依拠したのはまったく正しかったということが実証されました。わたしはあの日々に、我々が人民を信頼し、人民に依拠したように、人民も朝鮮人民革命軍を信頼し、白頭山を仰ぎ見ながらたたかっているということをいっそう強く感じたものです。我々が人民を信頼し、人民も我々を信頼し、全民族が我々を支持するかぎり、我々は必ず勝利するというこの真理、この確信は、我々に、はかりしれない力と勇気を与え、日本帝国主義撃滅の最後の決戦へと突き進ませたのです。

 我々が集めた数百、数千の偵察資料は、対日作戦の準備と最後の勝利に大いに寄与しました。朝鮮人民革命軍のこのような大胆かつ幅広い偵察活動がなかったならば、100万の関東軍を撃破する対日作戦がかくも短時日に勝利をもって終結することはなかったでしょう。

 それゆえ我々は、1940年代の前半期に、朝鮮人民革命軍が、積極的な小部隊および班活動と、地道で果敢な軍事偵察活動によって対日作戦の突破口を血潮をもって開き、日本帝国主義を撃滅、掃討するうえで前衛的かつ決定的な役割を果たしたことに、大きな誇りと自負をいだいているのです。



 


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