金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 全民抗争の炎は全国土に


 <金日成同志は、日本帝国主義との最後の決戦にそなえて、朝鮮人民革命軍の総攻撃に全人民の蜂起と背後連合作戦を一つの統一的な体系に結びつける遠大な構想を練り上げ、それを祖国解放実現の戦略的路線としてうちだした。革命武力と全民族の総動員によって祖国解放の大業を成就しようというこの雄大な構想には、抗日革命の炎のなかで成長を遂げた朝鮮人民への絶対的な信頼と期待がこもっていたのである>


 先覚者や闘士の力だけでは国の独立を成就することができないというのは、世界革命運動史の総括であると同時に、わが国の民族解放運動史の教訓でもあります。

 わたしは、抗日革命を開始したときから、一貫して全民抗争を主張してきました。当時、我々が唱えた全民抗争とは、全人民を革命化して抗日革命に総動員するということでした。言いかえれば、全国、全民族挙げての組織的かつ積極的な反日抗戦によって、国の解放を実現するということでした。全人民を革命化するには、彼らを意識化、組織化しなければならず、全民抗争によって日本帝国主義を打倒するには、意識化し組織化された人民を政治的にだけでなく、軍事的にもしっかり鍛えなければならないというのが、全民抗争にかんするわたしの主張だったのです。

 全民抗争の準備が本格的におし進められたのは、我々が白頭山を拠点にして武装闘争を鴨緑江沿岸と国内に拡大しながら、祖国光復会の旗のもとに党建設と統一戦線運動、大衆組織の建設を活発に進めていたころからです。全民族の総動員によって国の解放を成就することを呼びかけた祖国光復会10大綱領は、事実上の全民抗争宣言といえました。

 我々が、全民抗争方針を独自の路線として示し、それを実現する実務的措置を講じはじめたのは、日中戦争がはじまった後だったと思います。全人民的反日抗戦の問題をもって白頭山密営でも会議をし、初水灘と新興でも会議をしました。9月アピールは、全民抗争のアピールとみなしてもよいでしょう。

 我々は白頭山に進出していたとき、北鮮反日人民遊撃隊結成の構想もうちだしたものです。

 我々は、間白山に設けられた講習所を通じて、地方の各組織で鍛えられた人たちを選抜して全民抗争に必要な指導中核を大量に養成する一方、北部地帯をはじめ、国内の各地に半軍事組織をさらにつくり、それを拡大、強化することに大きな力をそそぎました。

 国内に派遣された政治工作員たちは、いたるところで労働者突撃隊や生産遊撃隊を組織しました。最後の決戦の日が迫るにつれて、我々は全民抗争の作戦準備にいっそう拍車をかけたのです。

 こうしたときに、朝鮮支隊の指揮官たちが一堂に会しました。論議の焦点は、最後の決戦の準備にかんする問題でした。会議に参加した朝鮮支隊の指揮官はみな、全人民を反日抗戦に動員する準備を十分にととのえ、我々自身の力で祖国の解放を達成しようというわたしの意見に、全幅の支持を表明しました。

 その後わたしは、国内における党組織と大衆団体の建設状況および秘密武装組織の活動状況を把握したうえで、祖国解放の3大路線を示しました。祖国解放の3大路線とは、朝鮮人民革命軍の総攻撃と、それにともなう全人民の蜂起、背後連合作戦によって祖国解放の歴史的偉業を成就しようというものです。これは、十分に実現可能な路線といえました。何を根拠にそういえたのか。民心を見てそうした判断をくだしたのです。当時、民心は、もっぱら我々に向けられていました。白頭山を仰ぎ見る人は、多く、さらに訪ねてくる人も少なくなかったのです。遊撃隊を訪ねて金日成の部下になるという人は1人や2人ではありませんでした。徴用や徴兵を忌避した人たちも山中に入って鍛冶場を設け、日本帝国主義者と決着をつけるのだと言って武器をつくったものです。日本の統治下では苦しくてもう生きていけない、金日成パルチザン部隊が朝鮮に進撃してきたら、我々も立ち上がって日本帝国主義者に鉄槌をくだそう、生きるか死ぬかけりをつけようというのが当時の民心だったのです。

 釜山と下関を結ぶ関釜連絡船「興安丸」の3等船室の天井に「朝鮮独立大将金日成」と記され、ソウルの南大門に「近日 金日成大将祖国凱旋」という「不穏な落書」が発見されて、日本の官憲を驚愕させたのは、まさにそのころです。

 1940年代の前半期にいたって、各階層の広範な人民は、ますます我々に民族の運命を託し、我々が祖国を解放する日を待ちこがれていました。民心は天心だといいます。民心には、人民の志向と願望がこもっています。民心がまとまりさえすれば、いかなる大事でもなしえるものです。わたしは、まさにここに可能性を見いだしたのです。祖国解放の3大路線はそういう点を参酌してうちだした路線です。

 最後の決戦のための作戦計画の骨子は、朝鮮人民革命軍の主力部隊が迅速に国内に進出してすべての道を占め、そこで戦闘行動を展開する一方、全国にアピールを発して山中に潜んでいる労働者、農民、青年学生を集結して武装隊伍を組み、これと合わせて全人民的な武装蜂起によって一挙に敵を撃滅し、国を解放するというものでした。これは、勝算のある作戦でした。抗日武装闘争を通して鍛えられた革命軍の隊員を根幹にし、国内の愛国的な青壮年をもって武装隊伍を拡大したあと、いたるところで決死の戦いをくりひろげるなら、我々自身の力で国を解放することは十分可能でした。

 要は、決定的な時期に人民を抗争の場に導くことですが、それも難しいことではありませんでした。3.1人民蜂起のときにも独立万歳を叫んで200余万人が決起したのですから、最後の決戦だと呼びかければ、いかに多くの人民が抗争の場に駆けつけるかは言わずもがなでしょう。

 もちろん、この方針は、何らの反対意見もなしに、誰もが賛同したわけではありません。わたしが全民抗争路線をうちだした当初は首をかしげる人もいましたが、ほとんどの人は最初から十分に成算のある方針だとして支持を表明しました。

 我々の全民武装方針には、東北抗日連軍の指揮官たちも感嘆しました。彼らは、貴国は完全な植民地であるうえに、武装闘争も主に国外で展開しているありさまだというのに、どうしてそのような問題が提起できるのかと言うのでした。それでわたしは、全民武装、全民蜂起は、我々の主観ではない、人民がそれを渇望しているのだ、我々は人民が渇望し求めていることをスローガンとしてかかげたにすぎないと説明しました。

 1940年代の前半期は、国内で日本帝国主義者の支配体制が次第に麻痺していた時期です。太平洋戦争で日本の敗北が確定的なものになるにつれて、官吏のあいだに職務を怠る傾向がさまざまな形であらわれました。

 わたしは趙明善からこんな話を聞きました。小部隊工作で国内に入った彼が、山中で巡査を1人捕らえたことがあります。趙明善はその巡査に、この非常時にどうして山の中でぶらぶらしているのかと聞きました。すると巡査は、日本が敗れる日が遠くないと考えると万事がわずらわしくなり、うさ晴らしに猟でもしようと思って来たと答えたそうです。

 当時の日本の官憲の精神状態はこんなものでした。敵の精神状態がこんなありさまなのですから、支配体制が揺らぐほかありません。敵の支配体制内に生じたこのような脆弱さは、国内抗争組織が大々的な全民抗争を準備しうる可能性をもたらしたのです。

 政治工作員と抗争組織のメンバーは、敵のこうした弱点を利用して、下は面の官吏や警官にはじまり、上は道知事や総督、さらには総理大臣や天皇にいたるまで上下の区別なしに宣言文や警告状を送りつけ、彼らの心胆を寒からしめたものです。


 <1943年2月、国内の抗争組織は、徴兵制の実施と関連して日本の首相東条(英機)に数通の警告状を送りつけた。碧城郡の青年一同の名による警告状をここに紹介する。
 「宛名 東京市 東条首相官邸 東条総理大臣閣下
 (中略)
 朝鮮独立致す。
 …敵国日本よ覚悟致せ。お前等が幾ら半島に徴兵制度を施き兵隊を育成しようとするが、私は早くその日を待ってゐる。我に銃剣を持たせてくれ。我等の敵は日本人だ。…
 我等は祖国朝鮮のために生命を捧げた者ではあるが、敵国日本には何所までも反抗だ。死ぬまでも反抗だ。死んでもなほ反抗だ。我等は… 徴兵にこそ真先に出かける。我が胸に抱かれてゐる宿怨を晴らすため、敵国日本に反抗のため、いや滅亡させるため」〔『特高月報』内務省警保局保安課 昭和18年(1943年)2月分72ページ〕>


 我々は全民抗争の準備を進めるうえで、つぎのような問題に深い関心を払いました。その一つは、国内にある秘密根拠地を全民抗争の軍事的・政治的拠点としてさらにかためながら、新たな臨時秘密根拠地を設けることであり、いま一つは、国内により多くの小部隊と工作班、政治工作員を送り込み、新たな情勢の要請に応じて全民抗争の力量を祖国解放作戦にしっかりそなえさせることであり、さらにもう一つの問題は、国内の全民抗争の力量にたいする統一的指導を実現することでした。

 全民抗争は、武装蜂起を抜きにしては考えられず、活動の拠点なしには実現できるものではありません。それゆえ、わたしは全民抗争にかんする路線をうちだしたとき、狼林山脈をはじめ、主要な山脈に朝鮮人民革命軍部隊の活動基地、作戦基地、補給基地、全民抗争力量の武力的拠点となる秘密根拠地などを設けることに第一義的な注意を向けたのです。こうして、白頭山脈を中心とする東北部地域、鴨緑江沿岸と狼林山脈、赴戦嶺山脈を中心とする北部内陸地域、それに西部地域や中部地域など、全国各地に数多くの秘密根拠地が設けられました。

 1940年代に入ってからは、新たな情勢の要請に応じて、このような秘密根拠地以外に、祖国解放作戦を展開するうえで戦略戦術上、重要な意義をもつ全国の要所要所にさまざまな形態と規模の臨時秘密根拠地を設けました。

 我々は、根拠地の建設を先行させながら、国内に多くの小部隊と工作班、政治工作員を送り込みました。わたしもたびたび小部隊を率いて国内深くに進出したものです。

 我々が送り込んだ小部隊や工作班、政治工作員は、豆満江と鴨緑江沿岸の国境地帯だけでなく、ソウルを含む中部朝鮮一帯と釜山、鎮海をはじめ、南部朝鮮一帯、そして遠くは、日本にまで潜入して政治・軍事活動を活発にくりひろげ、広範な反日大衆を全人民的抗戦にそなえさせました。


 <金日成同志が派遣した政治工作員の活動について、日本の官憲資料にはつぎのように記されている。
 「金日成輩下思想班長の検挙
 在満不逞朝鮮人の首領金日成は従来より抗日不逞策動に狂奔中なるが、尖鋭分子なる其の輩下思想班長金某(当21歳)が最近不逞目的を以て間島省図們に潜入し、地下工作に従事中、同地警備機関に検挙せられ目下厳重取調中なるが、現在迄に判明せる潜入目的並活動状況次の如し。
 (1) 潜入目的 日蘇開戦の際、満州並朝鮮に於ける後方攪乱及鮮系第5列部隊組織並日銀券蒐集の為。
 (2) 活動状況 金日成の思想班長として前記の如き使命を帯び哈府より秘かに入満し、図們に於て鮮系不逞分子約20名を獲得…
 (3) 背後関係 京城 (ソウル)に第5列本拠の存在すること明瞭となり、目下詳細取調中なり」〔『特高月報』内務省警保局保安課 昭和18年 (1943年)2月分 82ページ〕>


 全民抗争の準備を進めるうえでいま一つ重要なのは、国内の抗争運動を統一的に指導する指導機関を設けることでした。

 国内党工作委員会の組織後、全国各地に党グループがつくられ、それらが大衆団体を指導しました。1930年代の末からは、各地域に散発的につくられた党グループと反日大衆組織にたいする統一的な指導を実現する使命を帯びた地区党委員会が生まれ、地域的指導機関としての役割を果たしはじめました。一例として、金正淑が組織した延社地区党委員会を挙げることができます。

 1940年代の前半期には、平安南道一帯で共産主義の先覚者からなる地区党委員会が組織されて活動しました。平安南道地区党委員会は、平壌、价川、南浦をはじめ、各地域に傘下の党グループをもち、それを通じて道内各地の祖国光復会組織と全民抗争組織を指導しました。咸鏡北道に組織された清津地区党委員会は、日鉄を中心に清津地区の各工場に多くの党細胞を擁していました。

 全民族的な反日抗戦によって日本帝国主義を撃滅するための我々の主動的かつ積極的な政治・軍事活動の結果、1940年代の前半期、国内では全民抗争の力量が急速に成長しました。1942年に日本帝国主義が探知した国内の反日地下組織だけでも180余にのぼり、その人員は50万人を越えるといわれました。敵に知られなかった組織まで合わせると、その数ははるかに多かったものと思われます。

 当時、国内外の反日団体の活動における一般的な傾向は、大半の組織が政治的性格と軍事的性格をあわせもつ組織に発展しており、全民蜂起と武力抗争を主要な闘争目的、課題としていたということです。多くの闘争団体が、みずからの闘争目的は、全民抗争、一斉蜂起、武装暴動、朝鮮人民革命軍の最後の攻撃作戦に合流することにあると公然と表明し、組織の名称も「金日成隊」、白頭山会などと、我々とじかに結びついたものを用いたものです。

 ソウルで組織され、済州島のモスルポをはじめ国内各地、そして、日本にまで勢力を広げた「金日成隊」は、目的や活動方式からみても、抗日革命の末期に活動した注目に値する全民抗争組織でした。

 「金日成隊」という抗争組織の存在が明らかになったのは、1945年6月ごろだったと思います。そのころ、新潟県警察部は、徴用で日本に連行された朝鮮人のあいだで「金日成隊」という組織が活動していることをかぎつけ、それを摘発しようと血眼になりました。

 「金日成隊」は、広範な反日大衆を結集して抗争態勢を確立し、朝鮮人民革命軍が国内進攻を開始すれば、それに合流して祖国解放の最後の聖戦に参加することを目的にしてたたかいました。この組織は、主要な軍需工場、企業所、港湾、軍事施設建設場など作業現場に根をおろした組織でした。日本の機密文書によると、「金日成隊」は、大東亜戦争は間もなく日本の敗戦をもって終結し、日本の敗戦と同時に朝鮮は独立するということ、敗戦後の朝鮮の政治形態は、富める者も貧しい者もおらず、すべての人が平等に幸せに暮らす政治形態になるということ、そして、「独立後の朝鮮の最高指導者は金日成」であるということなどを宣伝したとのことです。

 いま少なからぬ研究者が、1942年3月に済州島の某飛行場で起こった朝鮮人労働者の大規模な暴動は「金日成隊」が陰で糸を引いたものと見ていますが、その見解にも一理あると思います。


 <つぎに、『ニューヨーク・タイムズ』1942年7月18日付けの記事を引用する。
 「朝鮮人、日本の大基地破壊
 労働者たちが朝鮮西海の入口に位置するクエルパート(済州島)を攻撃して空軍兵力142名を射殺。
 愛国者の暴動はつづいている。
 (中略)
 ワシントン発7月17日… 去る3月、朝鮮でつづいている積極的な反日暴動は、クエルパート島にある日本空軍基地の甚大な破壊をまねいた。…
 クエルパート島は朝鮮半島南端の向こうにあり、朝鮮海峡と朝鮮西海の入口の重要地点を占めている。報道によれば、3月29日、島の朝鮮人労働者が空軍基地を襲撃したという。彼らは無線通信所を破壊し、4棟の地下格納庫に火を放った。この襲撃で142名の日本人飛行士および技術要員が死亡し、200名が火傷もしくは負傷した。
 二つのガソリン貯蔵タンクと69機の飛行機も破壊された。日本はその後、襲撃後生き残った400名の朝鮮人を全員殺害した。
 報道によれば、3月1日、北部朝鮮でも朝鮮人たちが爆薬で三つの発電所を爆破したという」>


 白頭山会は1942年の夏、咸鏡北道城津(現在の金策市)で組織されました。日本警察の資料によると、白頭山会は、早稲田大学に籍をおく人物の指導のもとに組織されたとされています。我々が白頭山を根拠地にして戦っていたので、それを組織の名称とし活動中だということでした。この資料には、白頭山会が朝鮮独立をめざして人民革命軍への参軍闘争と民族意識高揚の活動をくりひろげたという記録もありました。

 平壌一帯には、祖国解放団という名の抗争組織がありました。わたしの従弟の金元柱が、属していた組織です。祖国解放団は、朝鮮人民革命軍の祖国解放作戦に合流して武装暴動を起こすことを主な目的とする積極的な抗争組織でした。彼らは、平壌をはじめ、朝鮮中西部の工場地帯と農村に入り、労働者、農民、青年学生など各階層大衆のあいだに組織を広げていきました。組織網は、警察機関と敵の官公署にまで張りめぐらされていました。

 組織の運動方針も線が太く、進取的なものでした。例えば、祖国解放団は、朝鮮の青年を徴兵、徴用の名で強制連行する第一線機関の破壊を計画し、また、人民革命軍と連絡をつけて武器を入手したあと、組織メンバーのなかから優秀な者を選んで武装闘争に直接参加させることも計画していたのです。警察署と面事務所を襲撃すること、供出米を奪回すること、徴兵・徴用文書を奪取すること、交通機関を破壊すること、九月山に鍛冶場を設けて刀槍武器をつくること… このように実行計画は、1つや2つにとどまりませんでした。祖国解放団の指導部は、日本軍や軍需工場内に組織をつくることも考えていたのです。

 元柱の話によると、祖国解放団は斗団里で組織されたということです。元柱が逮捕されたのは、日本帝国主義統治末期の拳銃奪取事件のためです。元柱が逮捕された後、警官が毎日のように家に押しかけ、銃を探し出そうと家中をひっかきまわしました。警察は元柱を逮捕して、金日成の従弟を捕らえたと騒ぎ立てたそうです。

 国内の抗争組織のうちで比較的規模の大きい組織としては、日鉄秘密結社と京城帝大出身者からなる武装蜂起準備結社を挙げることができます。

 日鉄秘密結社は、我々の一小部隊から送り込まれた政治工作員の指導のもとに、日鉄労働者を中心にして結成された組織です。1940年代に日鉄に共産党再建組織がつくられたのは、それなりの理由があります。この組織を主導したメンバーのなかには、共産主義運動の経歴からすると既成の世代に属し、労組や農組の運動にかかずらって監獄の飯も何度か食べた人が少なくありませんでした。

 日鉄秘密結社は、朝鮮人民革命軍の国内進攻に合流して武装暴動を起こすことを主な目的とし、その準備を進めました。この結社は、富潤地区に秘密根拠地を設け、武器と食糧、医薬品を貯蔵し、ビラやパンフレットもつくりました。また、主要な工場に行動隊を組織し、武装暴動開始の合図と日時、武器奪取の対象と手順、方法を明らかにした具体的な行動計画まで作成していたのです。日鉄秘密結社は、組織が発覚するまで、日本帝国主義者の戦時生産にブレーキをかける破壊工作も活発におこないました。この抗争組織は、工場の周辺にある日本軍の高射機関銃を奪取するという大胆な計画まで立てていました。日鉄反日会組織は、鉄の生産を破綻させる闘争とともに、生産された銑鉄を日本へ積み出せないようにする荷積み拒否闘争も組織しました。そのため、多くの貨物船が、鉄を積めずに清津港に何日間も停泊するという事態まで発生しました。

 ソウルで組織された武装蜂起準備結社も規模が大きく、実践の態勢をととのえた組織でした。京城(ソウル)地区武装蜂起準備結社には、既成世代の共産主義者とともにインテリが多く参加しましたが、国内の秘密結社のなかで知識人があれほど多く参加した組織は、ほかになかったと思います。一名、城大秘密結社とも呼ばれた組織です。解放前、巷で「城大事件」として騒がれたのが、ほかならぬこの結社にかかわる事件だったのです。

 京城帝国大学を略して城大ともいうのです。この結社を裏で動かしたのは、我々が準備させて送り込んだ工作員でした。京城地区武装蜂起準備結社の組織者である金一洙や徐重錫は、わたしが吉林にいたころからなじみになった古くからの共産主義者でした。

 金一洙はソ連の極東地方に入り、李儁の息子、李繧ニ一緒にソ連赤衛軍の朝鮮人大隊で中隊長を務めたこともあります。白衛軍を撃滅する戦いにもたびたび参加し、多くの軍功を立てたといいます。1920年代初には、高麗共産党の李東輝らと一緒に活動したとのことです。彼は一時、朝鮮共産党の再建運動にも参加しましたが、後日、党は再建すべきだが、芋の印判を持ってコミンテルンを訪ねるといった馬鹿なまねは二度としないと語ったそうです。

 彼は、党の建設は中央を先につくって創立を宣言する下向きのやり方ではなく、大衆のなかに入って基層党組織を先につくるというように、上向きのやり方で進めるべきだというわたしの主張も虚心に受け入れました。

 のちに満州に亡命した彼は、東満党特委で活動中、日本の警察に逮捕され、数年間獄中生活を強いられました。刑期を終えて出獄した彼は、我々の部隊を捜すため東北地方に向かい、あちこちさまよい歩いたそうです。しかし、我々を探し当てることができなかったので朝鮮にもどり、労働者のなかに入っていったのです。彼が労働者階級を重視したことからみて、古い殼を脱していたことは確かです。

 徐重錫、徐完錫兄弟もわたしとじっこんの間柄です。

 徐重錫は、もともとはソウル派に属していましたが、のちにM・L派に鞍替したのです。彼は吉林にいたとき、黄貴軒の父親黄白河と親交がありました。

 わたしは、徐重錫が吉林で青年活動をしていたころに彼と知り合いました。わたしが下宿していた張戊Mの家の隣に彼が住んでいたので、なじみになったのです。それで、我々はよく論争を戦わせたものです。その後、彼は派閥争いはやめにすると断言しました。1国1党制に従って、人びとが中国の党に籍を移したとき、彼は最後まで頑張って党再建運動に奔走しました。そのうちに逮捕され、数年の間、獄中生活をしました。それなりの定見もあり、志操も堅固な人でした。徐兄弟は解放後も、祖国の統一と南朝鮮革命のために献身しました。

 ソウルで武装蜂起準備結社をつくった国内の抗争闘士たちは、興南窒素肥料工場をはじめ各地の工場や鉱山、学校などに組織を拡大していきました。京城地区武装蜂起準備結社は、秘密活動拠点を設けて、武器の購入から出版物の印刷、軍事情報の収集にいたる幅広い活動を積極的にくりひろげました。さらには、組織のメンバーに武器の使用法を教え、軍事訓練もほどこしました。

 日本帝国主義支配当時、朝鮮に一つしかなかった京城帝大に通う学生は名うての秀才ぞろいで、ほとんどが有産階級の子弟でした。日本人が、朝鮮人を啓蒙するためにそんな大学を建てたわけではありません。朝鮮人が私立大学設立運動をはじめたのでそれを禁じ、その代わりに、植民地支配の手先を養成する大学を一つつくり、帝国大学と名付けたにすぎません。そんな大学で武装蜂起準備結社が生まれたというのは何とも驚くべきことです。

 安亨俊もソウルで全民抗争組織をつくってりっぱにたたかいました。彼は早くから北部国境一帯で、わたしの叔父金亨権の指導を受けながら反日青年運動を展開しました。

 彼はソウルの鐘路に某株式会社の看板をかかげ、その傘下にいくつかの企業所を設けて組織工作を進める一方、革命の資金を調達するため大胆に活動しました。また、傘下企業所の林業労働者や筏流しのあいだに全民抗争組織をつくりました。彼は他の同志たちと一緒に、経営難で倒産した日本人の皮革工場を安値で買い取り、それを武装蜂起準備結社の後方基地、連絡基地にし、工場の数万円の収益金を腹に巻いて歩きながら、武器などを購入したということです。解放直後、彼は、ソウル市人民委員会の初代宣伝部長を務めました。わたしは1946年の春、金策と一緒に北朝鮮臨時人民委員会の執務室で彼に会ったことがあります。

 李克魯をはじめ、朝鮮語学会の学者たちも組織をつくってたたかいました。

 咸鏡北道の人たちは、会寧の鵲峰人民武装隊、熊山労農武装隊、羅津人民武装隊などと郷土の武装隊の自慢をよくしますが、実際、彼らが自慢するだけのことはあります。それらの武装隊は、少なからぬ役割を果たしました。茂山鉱山の青年労働者からなる白衣社という組織は、ソ連から流される朝鮮語放送を聞きながら、宣伝工作をし闘争もくりひろげました。

 鉄山の愛国団や順安鉄工所の反日武装隊など、さまざまな名称の武装隊が全国各地にありました。それらのうち、少なからぬ組織はわたしとともに活動したか、わたしが派遣した人たちによってつくられたものです。我々の影響のもとに活動した興南地区の抗争組織は、日本帝国主義が極秘のうちに開発していた大量殺りく兵器の生産を破綻させるため決死のたたかいを展開し、彼らが敗亡するまでその開発を阻みました。朴寅鎮、李昌善らと一緒に早くから豊山一帯で反日大衆団体の結成に尽力した李貴顕が送り込まれた咸鏡南道の虚川一帯でも、水力発電所工事場の労働者と多くの愛国者が組織をつくってりっぱにたたかいました。

 全民抗争組織は、日本侵略軍の内部にもありました。

 1944年、鎮海海兵団所属の朝鮮青年たちが、日本帝国主義の敗亡を確信し、敗戦国の軍隊で犬死にするくらいなら、金日成部隊に馳せ参じて朝鮮の独立に尽くそうと衆議一決して集団脱走したという有名な話は、みなさんもよく知っているはずです。

 いつぞや、中国を訪問したとき、周恩来と彭徳懐が語ったところによると、抗日戦争当時、中国戦線から武器を携行した多くの朝鮮青年が訪ねてきて、金日成部隊に送ってほしいと要請したが、当時の状況がそれを許さなかったので、華北の義勇軍に送ったということでした。

 平壌に駐屯していた日本軍第30師団でも、朝鮮の青年たちが反日学徒兵武装隊を組織し、朝鮮人民革命軍に集団的に合流する計画を立てていたそうです。この武装隊は、傘下に2個の支隊をもち、また支隊が4、5個の分支隊をもつ整然とした組織でした。結成当初は闘争の方向が分からず暗中模索の状態でしたが、我々との連絡がとれてからは正しい進路を見いだし、活動をいちだんと積極化したということです。

 反日学徒兵武装隊の行動計画は、きわめて大胆なものでした。彼らは、中秋を機に一斉に兵営を脱出して、いったん陽徳郡北大峰のふもとに集結し、警察署や憲兵隊を襲って武器、弾薬、食糧を補いながら、山を伝って普天堡近辺の山中に行くことにしました。そこで、山中に潜んでいる徴用・徴兵忌避者を集めて隊伍を補充し、活動拠点を設けて遊撃闘争をくりひろげ、そのうちに朝鮮人民革命軍の主力部隊と合流して祖国解放作戦に参加するという計画でした。彼らは最後の作戦会議で、目標は白頭山というスローガンをうちだし、朝鮮人民革命軍に合流する準備を周到に進めたのですが、1人のメンバーの不注意のため計画は失敗に終わりました。当時、日本の軍部は、この事件について建軍以来最大の反乱陰謀の一つだと慨嘆したものです。

 以前、国内で共産主義運動にかかずらっていろいろな組織に属した少なからぬ人たちも、全民抗争路線を支持し、日本帝国主義との最後の決戦の時期に我々の戦いに合流しました。

 李鉉相もコミュニスト・グループ事件で西大門刑務所で服役していたときに、我々の全民抗争方針に接したそうです。そこには、朴達や権永璧、李悌淳もいました。彼らが、李鉉相に祖国解放作戦にかんするわたしの構想を伝えたということです。そうして、彼は断食をはじめました。なんとしてでも出獄し、抗争隊伍を組んで日本帝国主義を打倒しようと決心したのです。20余日間の断食で病気になった李鉉相は仮釈放され、しばらく療養生活をしたあと智異山に入り、徴兵、徴用を忌避して潜んでいた青壮年や学生たちを集めて武装小部隊を組みました。彼が陣取った智異山は、解放区形態の根拠地でした。彼は、我々との連合作戦を実現するため、白頭山に連絡員を派遣したこともあるそうです。

 わたしが派遣した趙東旭もソウルで全民抗争の準備をりっぱにおこないました。彼がつくった6.6同盟という組織は、傘下に登山隊や蹴球団をはじめ、いくつもの合法組織を擁していましたが、ソウルの反日組織とも深い連係をもっていたそうです。趙東旭は、解放後もソウルに残り、南朝鮮の青年運動をわたしの意図にそって導くために努力をつくしました。彼は平壌に来ると、その足でわたしを訪ね、10年間の活動について報告したものです。

 獄中で秘密組織をつくり、我々の全民抗争方針を貫くたたかいを進めた人のなかには金三竜もいます。彼は、ソウル西大門刑務所で服役していたとき、獄中で共産主義者サークルを組織し、日本帝国主義の転向強要に反対するたたかいをくりひろげました。彼が投獄されたのは、コミュニスト・グループ事件のためでした。彼はコミュニスト・グループの結成後、組織部の責任者として活動しました。ソウルコミュニスト・グループというのは、ソウル共産主義者グループという意味です。それは、党の再建をめざす組織でした。

 この組織に加わっていた少なからぬ人は、国内共産主義運動にたいする我々の指導を受け入れ、のちに全民抗争に合流しました。前にも話したように、我々が派遣した工作員たちは、ソウル市内に潜入して、コミュニスト・グループのメンバーに「祖国光復会10大綱領」を配布し、朝鮮人民革命軍の戦果も伝えたといいます。

 ソウルコミュニスト・グループは、ソウル一帯の各工場、企業所に職種別傘下労組まで設け、さまざまな形態の反日闘争も進めたそうです。この闘争を組織し指導した金三竜は、獄中でも敵に屈しませんでした。ソウルから帰った朴達は、折に触れ、金三竜は信義に厚く志操の堅固な革命家だと話したということです。獄内でも日本帝国主義者に屈せず最後までたたかった数少ない人のうちの1人だということでした。李鉉相と同様、金三竜も西大門刑務所で朴達らに会ったのです。獄中で2人は親交を深めたようです。出獄した朴達をソウル病院に入院させ、誠心誠意面倒を見てやったのが金三竜です。朴達がわたしの命を受けて平壌に来るときも、彼が手回しをしたということです。彼は朴達に託して、わたしに安否を問う手紙も寄こしました。

 金三竜は、強い信念と敏腕な組織力をそなえた党活動家であり、国と民族、共産主義偉業のために一生をささげた愛国者でした。南朝鮮労働党が非合法化されたとき、わたしは金三竜の身辺を気遣い、情勢が険しくなったらためらわずに北半部に来て活動するようにと伝えました。しかし、彼は持ち場を離れず、地下に潜って南朝鮮の党活動を責任をもって指導しました。そして、裏切り者の密告で南朝鮮の警察当局に逮捕され、銃殺されたのです。

 朝鮮革命は1940年代の前半期、祖国解放の大事をひかえて、全人民を周到に準備させました。1945年8月、わが国で敵の支配体制がどうしてあんなにもろく崩壊したのでしょうか。それは、我々の全民抗争組織が全国各地で決起し、日本人の統治機関を徹底的に破壊したからです。


 <1940年代の前半期、全国各地に組織された全民抗争力量の反日闘争が積極化したことについて、旧ソ連の出版物にはつぎのように記されている。
 「太平洋戦争の時期、朝鮮で反日運動がいちだんと強化され、日本の形勢は悪化した。
 朝鮮では、日本の軍事対象におけるサボタージュと破壊工作にかんする事実が数多く記録されている。例えば、1942年2月、新義州で軍需物資を積んだ7両の車両が爆破され、製紙工場が焼き払われた。雄基では6棟の燃油庫が爆破され、倉庫が焼け落ちた。済州島では日本の航空基地の朝鮮人労働者が69機の日本軍用機を破壊した。…」〔べ・ヤロボイ『朝鮮』43〜44ぺージ ソ連海軍出版社 1945年9月〕>


 祖国解放をめざす最後の決戦を準備するとき、朝鮮民族の内部の力は総動員されました。民族内部の愛国勢力が最大限に団結し決起した全民族的な反日抗戦──これは、1940年代前半期における朝鮮革命発展の新しい様相であり、特出した成果であるといえます。

 対峙していた共産主義と民族主義の2つの勢力が、この時期にいたって、理念の違いを越えて再び合作を遂げたのだともいえるでしょう。

 李繧ヘ、共産主義者だったでしょうか。そうではありません。彼は、もともと民族主義者でした。それも、わたしの父と同年配の老世代に属する人でした。にもかかわらず、彼は我々に同調したのです。真に国を愛する人には、共産主義か民族主義かということは問題ではありません。

 金九は、共産主義者だったでしょうか。そうではありません。彼は民族主義者であり、しかも頑固な反共分子でした。にもかかわらず、我々に軍資金を送ることをアメリカ在住の同胞にまで呼びかけたのです。のちには、我々との軍事的連合をはかって連絡員まで派遣しました。

 日本に留学していた学生たちは、共産主義の信奉者であったから金日成の部下になると絶叫したのではありません。白頭山への道が、愛国の道であり、独立の道であることを知っていたからです。

 主義主張や理念にこだわっていては、民族の団結をなし遂げることはできません。1940年代の前半期に祖国解放の大事を迎えたときのように、各自の主義は差しひかえて共通点を見いだし、それを絶対的なものとみなすべきです。抗日革命の経験と教訓は、それゆえに重要なのです。



 


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