金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 解放の日を思い描いて


 <祖国の解放後、抗日革命闘士の多くは、履歴書の学歴欄に「88軍官学校」、または「88野営学校」と記入した。当時、幹部事業を担当していた人たちは、多難な遊撃闘争をつづけてきた抗日革命闘士のほとんどが軍官学校を出ていることに驚きを禁じえなかった。朝鮮革命の1世たちが、誇りをもって履歴書の学歴欄に記入した「88軍官学校」の実体は何か。
 彼らは後日、国際連合軍時代の軍事・政治訓練にかんする金日成同志の回想談を聞いてはじめて、その実相を知った>


 国際連合軍の編成後、我々は小部隊作戦と偵察活動を猛烈にくりひろげる一方、軍事・政治学習と訓練も大々的におこないました。

 当時、我々が使ったテキストは、正規の軍事教育機関で扱われていたものよりも内容上幅広く、深みのあるものでした。それにいっそう多面的でもありました。訓練の強度も正規の軍事学校のそれに比較すべくもありませんでした。訓練綱領自体が、指揮官の養成を目標にしたものだったので、軍官学校を卒業したといってもさしつかえないでしょう。抗日革命闘士たちが履歴書の学歴欄に、国際連合軍時代を念頭において「88軍官学校」とか「88野営学校」と記入したのは、そうした理由によるものとみなすべきです。もちろん、そんな看板がかかげられていたわけではなく、卒業証書のようなものもありませんでした。けれども数年間の訓練課程を終えると、誰もがみな現代的な軍事・政治大学を卒業したものと考えたのです。

 彼らは、そのとき多くのことを習得しました。軍事理論も学び、現代正規戦の戦術や戦法も学びました。国際連合軍時代の教育は、軍事一面の教育ではありませんでした。それは、政治と軍事を兼ねた総合的な教育と訓練であり、祖国解放作戦の準備であると同時に、解放された祖国における党・国家・武力建設の準備でもあったのです。それで我々は、政治教育と軍事教育をともに重視しました。経済学や哲学も学び、党建設理論も研究し、経済の運営にかんするテキストも勉強しました。

 しかし、そのすべてが、最初から順調に運んだわけではありません。

 1942年末から1943年初にかけて、第2次世界大戦の形勢は、反ファシズム勢力の側に有利に進展しはじめました。スターリングラードにおけるソ連軍の大勝は、ファシズム・ドイツの気勢をくじき、独ソ戦争だけでなく、第2次世界大戦の戦局を逆転させたのです。

 待望の祖国解放の日が近づくにつれて、わたしの仕事も山積しました。あのとき、わたしがもっとも苦心した問題の一つは、解放された祖国における新しい国づくりをどのようにおこなうべきかということでした。党を創立し、国家を建て、武力建設、経済建設、文化建設などもおし進めなければならないのに、革命の指揮メンバーであり中核力量である幹部の不足が最大の難題だったのです。

 わたしが当時考えたことは、多難な武装闘争を通して鍛えられ、点検された抗日闘士たちを、軍事のみならず党活動をはじめ、国家管理や経済、教育、文化のどの部門を担当させても問題なくやりこなす万能の幹部に育てあげることでした。わたしは、国際連合軍での軍事・政治学習と訓練を通して、このすべてを解決することにしました。ところが、初期の訓練綱領をみると、軍事訓練に比べて政治学習の比率は低いものでした。

 わたしは、政治理論学習の比率を軍事訓練より低くしてはならないと考えました。それで、アパナセンコ大将に会ったときに、そう話しました。アパナセンコは、国際連合軍の第一の任務は朝鮮と中国東北地方の民族革命軍事幹部の養成にあるとし、朝鮮と満州が新しい局面を迎えたとき、赤軍と連合して戦えるよう訓練に励み、現代戦の戦略戦術と技術機材、武器に精通すべきであると言うのでした。わたしは、訓練と軍事幹部の養成に偏るべきではない、朝鮮の解放後、新しい国づくりをするには自主独立国家建設の柱となる各分野の幹部を養成する必要がある、そのためには訓練綱領で政治学習の比率を高めなければならない、だからといって、軍事訓練の時間を割いて政治学習をしようというのではない、訓練はそのままこなしながら、政治学習をもっとやろうというのだと強調しました。アパナセンコは正しい意見だとして、わたしの主張に同意しました。こうして、国際連合軍の軍事・政治訓練綱領における政治学習の比率は著しく高まったのです。

 我々は軍事・政治訓練を開始するにあたって、隊員たちにたいする思想動員と教育活動を積極的におこないました。党グループや共青組織では、会議もおこない、新聞や壁新聞を通して決意の披瀝もさせ、構内放送も流しました。

 各支隊では、有能な軍事・政治幹部で政治学習担当の講師と教員を構成しました。

 国際連合軍の編成後、極東軍司令部は、政治学習担当教員のための短期講習を催しました。ところが、聴講生たちの反響はかんばしくありませんでした。中国語をやっと話せる人が講義をするので、講師の話が理解できないというのです。それで、聴講生の苦情を斟酌して、ソビエト人講師に中国語の通訳をつけました。しかし、聴講生たちには、そんなやり方も不都合でした。通訳に時間の半ばをとられるので、講義の効率も高いとはいえませんでした。そこで我々は、ロシア語のテキストを朝鮮語に訳したあと、我々の実情に合わせて講義案をつくり直し、政治学習担当の教員たちに配りました。

 初期の政治学習用テキストには、哲学や経済学のような一般理論科目のほかに、ソ連邦共産党史、ソ中両国の歴史、地理と関連したものが扱われていました。『共産党宣言』や『レーニン主義の諸問題』などを解説したテキストもありました。もちろん、それらのテキストは、隊員たちの政治的見識を高めるのに役立つものでした。しかし、朝鮮人民革命軍隊員にソ連と中国の歴史を教えながら朝鮮の歴史を教えず、祖国光復会10大綱領の学習をさせないというのは話になりませんでした。それで、我々は実情に合わせて、祖国光復会10大綱領と創立宣言、『朝鮮共産主義者の任務』をはじめ、以前から必読文献としてきた幾冊かの著作をテキストに含め、朝鮮の歴史と地理も教えることにしました。

 あのころ、政治学習指導教員たちは、講義案を作成するのにたいへん苦労しました。訓練に欠かさず参加しながらテキストをつくり、講義もするのですから、いつも他の隊員より多忙な日々を送ったものです。

 我々の教員の講義術は、なかなかのものでした。豊かな闘争経験をもつ闘士たちの講義だったので、人を引きつけるものがあったのでしょう。安吉の講義を何度か参観しましたが、なかなかのものでした。長年の政治幹部であった彼は、政治科目の講義も独特のやり方で進めました。それはユーモアと比喩に富んでいて、受講者は笑いのなかで革命の真理を会得したものです。安吉は講義中、必要と思われるところでは詩も吟じ、歌もうたいました。ある講義では、丸1ページものレーニンの命題をそらんじてみせさえしました。行軍中、隊員たちが、へとへとになり足を引きずって歩くのを見ると直ちに休止命令をくだし、太鼓を叩いたりハーモニカを吹いたりして、隊員たちを踊りや歌に引き込むのが安吉独特のやり方です。そんなやり方が、講義でもそのまま表われたのです。

 林春秋は講義も上手でしたが、学習の個別指導はいっそうすぐれたものでした。彼は、討論や論戦を通じて聴講生一人ひとりのレベルと学んだ内容の消化の程度を知り、課外時間に必要な個別授業をおこないました。それでも、講義の内容を十分に理解できない隊員がいれば、就寝時にその隣に寝床を移して個別指導をしたものです。

 金京錫も人気のある講師でした。口下手でしたが、講義の準備をきちんとして聴講生に好感を与えました。彼は、講義案をつくるときはいつも徹夜をしたものです。講義案ができあがると、必ずわたしの意見を聞きました。非常にまじめで、ひたむきな性格でした。講義案の作成にあたっては、冒頭から結びの言葉にいたるまですっかり成文化したものです。当時の習慣が身についた金京錫は、解放後も、どんな演説文であれ必ず自筆の原稿を持って大衆の前に立ったものです。報告文もすべて自分の手で書きました。

 教員たちがこのように熱心だったので、隊員の実力が向上しないわけがありません。安英、全昌哲、李鳳洙の講義も好評を得ました。フルーンゼ軍事大学を出た劉亜楼も講義が上手でした。彼が、ソ連の新兵器カチューシャ砲の講義をしたことが思い出されます。

 わたしも、しばしば政治講義をしました。

 軍事・政治学習の総括では、朝鮮支隊の隊員の成績が部隊で一番よいという評価を受けたものです。部隊政治部にいた馮仲雲も朝鮮支隊の隊員の成績に感嘆しました。彼はわたしに、朝鮮の同志たちがよい成績をあげる秘訣は何かと聞きさえました。わたしが、秘訣などあるわけがない、ねじり鉢巻きで、顔に冷湿布をしてひたすら勉強にうちこんだためだと冗談まじりに答えると、彼は「粘り強さにかけては、朝鮮人にかなう者はいない」と首を振るのでした。あのとき、朝鮮支隊の隊員たちが粘り強かったのは事実です。彼らが軍事・政治訓練と学習でつねに部隊の手本になったのは、革命への責任感が強かったからです。

 支隊の隊員のなかには、馬塘溝密営での朴昌順のように学習嫌いの人もいました。代表的な例として朴洛権をあげることができます。朴洛権は、東満州で青年義勇軍に所属していましたが、北満州の戦友たちの要請により、わたしが優秀な隊員と指揮官を派遣したさい、第5軍に配されて周保中の警護隊長を務めた人です。

 朴洛権は、水火をも辞さない勇敢無比のつわものでした。彼は軍事指揮官としての奇知に富み、そのうえ敏捷でした。彼は汪清遊撃隊にいたとき、日本軍「討伐隊」との銃撃戦で腹部に重傷を負ったことがあります。そのとき、彼は外にはみ出たはらわたを手で中へ押し込み、這って遊撃区へ帰ったものです。北満州部隊で警護隊長を務めたときには、護衛任務をりっぱに果たして周保中の寵愛を受けました。周保中自身も朴洛権のおかげでたびたび危地を脱することができたそうです。

 朴洛権の特技は、武器を扱う手並みが神業に近いことでした。彼はどんな武器でも1、2度扱ったら、目をつぶってその分解と組合せをやってのけたものです。実際、それは神業というほかありません。ところが、軍事理論の学習となると、はじめから嫌がるのでした。彼は理論の学習をするようにと言われると、苦虫を嚙みつぶしたような顔をしたものです。理論学習の時間には教室の隅に座って、講師と視線が合うことすらおそれました。

 わたしは、いま君は小隊を指揮しているが、やがて大規模の現代戦をすることになれば連隊や師団の指揮もとることになるだろう、なのに、いまのように現代的な軍事知識を熱心に学ばないのでは、どうやって連隊や師団の指揮をするというのか、経験だけに頼って部隊を指揮しては、多くの隊員が命を落とすことになりかねない、そんなことになってはどうするのかと彼をたしなめました。

 それ以来、朴洛権は、かたく決心して理論の学習に取り組みました。歩兵戦術理論の勉強をするため終日アムール川のほとりに出ていた彼を見かけたことがありますが、熱病に浮かされた人のように全身が汗みどろでした。

 解放後、わたしは彼を東北地方へ派遣しました。彼は、連隊を率いて長春解放戦闘に参加しました。彼が長春解放戦闘のような大市街戦で連隊をりっぱに指揮して勝利をおさめたのは、極東基地で歯をくいしばって戦術学習に励んだおかげだといえるでしょう。先頭に立って敵陣に突撃し、迫撃砲弾の破片をいくつも体に受けて戦死したそうですが、彼らしい最期でした。彼は、朝中人民にともに記憶される英雄として歴史に名をとどめています。

 学習も戦闘だという言葉は、我々が実際の生活のなかで見いだした真理です。革命家は、生の最期の瞬間まで学習を中断してはなりません。学習をしないと思想に錆がつき、先を見通すことができません。金正日同志が学習を人びとを革命家に育てる第一の工程とみなし、つねに学習を強化するよう強調しているのはそのためです。

 我々は、部隊に設けられた課外教育施設や宣伝・扇動手段を通じても、隊員を教育し、彼らの政治的視野を広げるようにしました。訓練基地には、映写室と図書室、放送室を備えた会館がありました。部隊の将兵は、この会館で集会を催したり、映画を観覧したりしました。部隊の放送時間には、学習と軍事・政治訓練、日常生活で手本とすべき軍人や小隊、中隊、大隊を広く紹介しました。国際情勢にかんする報道も多く流され、独ソ戦争のニュースは毎日のように伝えられました。

 国際連合軍では、新聞も発行されました。支隊と中隊には壁新聞が、小隊には戦闘速報がありました。新聞と壁新聞、戦闘速報には、軍人の思想・道徳教育や軍事・政治訓練の準備と総括にかんする内容が多く掲載されました。

 我々は、赤軍創建記念日や10月革命記念日、メーデーなどの祝日の行事を通しても、隊員にたいする革命教育、階級的教育をおこないました。当時、部隊では、独ソ戦争で勇敢に戦ったソ連の英雄を多く紹介しましたが、これは軍人によい影響を与えました。犠牲になった革命戦友をしのぶ追悼式も意義深くおこない、軍人を革命的に教育しました。

 柳栄燦が死んだときも、訓練基地で追悼式をおこないました。柳栄燦は、金正淑が桃泉里で地下工作をしていたときに革命組織に引き入れて鍛え、遊撃隊に連れてきた人ですが、戦闘でも勲功を立てました。彼は、兵営建設用の砂を運んでくる途中、アムール川で船が転覆して溺死しました。

 我々はそのころ、各戦線司令官であったアパナセンコ、ワトチン、チェルニャフスキーの追悼式もしました。追悼式では、楽隊が葬送曲を演奏しました。部隊には、楽隊もあったのです。

 連合軍では、講演会も開き、独ソ戦争参加者との交歓会もしばしば催しました。

 我々は、極東基地で軍事理論学習と軍事実動訓練も猛烈におこないました。戦術訓練、射撃訓練、水泳訓練、スキー訓練、落下傘訓練、無線通信訓練など現代戦に備えた各種訓練をもれなくおこなったのです。現代戦の訓練では、戦術訓練を基本とし、攻撃と防御の訓練に力を入れました。同時に、兵器学、地形学、衛生学、工兵学の勉強もし、対化学戦の知識も与えました。遊撃戦の訓練は、襲撃戦と伏兵戦に重点を置いておこなわれました。全員が実戦の経験者だっただけに、この訓練となると張り切って参加したものです。

 軍事訓練のときは、果てしなく広がる広野にテントを張って生活しました。あの広野の印象は、いまも忘れられません。

 わたしが訓練の方向を示すと、中隊長や小隊長がテキストをつくって実行しました。我々は、抗日戦争と独ソ戦争の経験にもとづいて、わが国の地形条件と朝鮮人の体質に合った我々の方式の訓練をすることを原則にしていました。

 戦術訓練は、教育綱領の一つの題目の学習が終わると、実動訓練によってその消化程度を評価するというやり方でおこなわれました。指揮官の戦術訓練は、わたしが担当しました。戦術訓練の目的は、各軍人が原級以上の職務を遂行できるようにすることにありました。中隊長は大隊ないし連隊を指揮し、小隊長は中隊または大隊を指揮し、兵士は小隊や中隊をりっぱに指揮する能力を培おうというのでした。戦術訓練は、小隊ないし中隊を単位にしておこなわれました。指揮官に任命された隊員に状況を設定して任務を与えると、彼は状況を判断し決心をしてから戦闘を組織し、命令をくだしたものです。

 戦術訓練をはじめたばかりのときでした。ある日、わたしは、ある中隊へ行って戦術訓練の状況を点検しました。その日は孫宗俊が、小隊長の任務を担当しました。彼は、自信満々と小隊を指揮しました。わたしは彼に、前方には各種の遮断物が設けられており、高地は増強された敵の中隊が占めているという状況を新たに設定してやりました。すると、孫宗俊は一線形前面突撃を試みました。わたしは彼にヒントを与えて、迂回突破戦術をとらせました。そして再度攻撃をかけさせました。

 孫宗俊が、状況に合いもしない一線形攻撃を試みたのは無理もないことでした。それは、機甲部隊を先頭に、部隊を一線形に散開させて攻撃するという当時の戦闘規定に従って、訓練を機械的におこなったことに起因していました。そのような攻撃方法は、山や谷の多いわが国の実情には合いません。

 わたしは、戦術訓練要綱を全般的に検討し、我々が積んだ遊撃闘争の経験を踏まえてそれを発展させる原則で、わが国の実情に見合った要綱を新たに作成して訓練をおこなうようにしました。わたしは、呉振宇に歩兵小隊の攻撃戦術を扱った模範訓練要綱をつくらせました。呉振宇は当時下士官でしたが、わたしの援助を受けながらりっぱな模範訓練要綱を作成しました。その要綱をもって、全支隊を集めて包括的な模範訓練をしたのですが、非常な好評を博しました。呉振宇は、全支隊が参加しておこなう機動訓練計画も作成しました。

 射撃訓練は、それぞれ距離の違う不動標的と移動標的、出現標的の射撃を基本にしておこないました。射撃訓練場は、部隊から10キロほど離れた所にありました。朝鮮支隊は、射撃でも連合軍内で最高の成績をあげました。射撃は李斗益がすぐれていました。

 我々は名射手を選抜して狙撃兵訓練もしましたが、それは、地形学訓練を兼ねておこなわれました。最初は、指定の目標物を命中させる訓練をしました。あまりにも多く射撃したため、狙撃兵たちは兵舎に戻ってからも耳鳴りがすると言ったものです。こうした訓練を積んだあと、各狙撃兵に行軍コースが示された地図と磁石盤を与えて、どこそこの地点で鳥を何羽捕らえ、何時何分までに帰隊せよと指示しました。どこそこで何度方向を変え、どこそこへ帰れという指示を実行するだけでも丸1日かかるというのに、鳥までしとめなければならないのですから、容易なことではありませんでした。基本は、射撃術を高めながら、同時に読図法を熟達させることにあったのです。

 我々は極東の訓練基地にいたとき、スキーと水泳の訓練にも力を入れました。祖国解放の大事が到来したとき、狼林山脈や咸鏡山脈などで遊撃戦をおこなうにしても、また鴨緑江や豆満江を渡って祖国解放作戦を展開するにしても、スキーや水泳を習っておく必要があったのです。

 水泳の訓練は、夏期にアムール川でおこないました。わが国が海洋国であるということを考慮して、わたしはこの訓練を重視しました。我々の支隊の隊員は、ほとんどが海を知らずに育った人たちでした。泳げる者は、何人もいなかったのです。それで、大部分の者が川を怖がりました。当時は、水泳の訓練は降下訓練につぐ困難な訓練だといわれたものです。

 最初、地上で手足を動かす練習をしたあと、川辺へ行き、水泳の達者な何人かの隊員が泳ぐ動作をして見せながら教えました。水にいくらか慣れると、対岸まで綱を渡し、それを頼りに泳いでいくようにしました。

 ところが、馮仲雲をはじめ何人かの隊員は、いくら練習をさせてもその甲斐がありませんでした。川に入るが早いか石のように沈んでしまうのです。馮仲雲は、めがねまで失ってしまいました。金京錫も独りで練習をしていて、危うく溺れそうになりました。彼は水中に沈むと、川底を這ってやっと岸にたどり着いたということです。

 水泳がいちばん上手な隊員は、全順姫でした。彼女が水泳に長じていたのは、川の近くで暮らしたおかげだといえます。泳げなかったころは大人に負ぶってもらって川を渡ったのですが、物心がついてからはそれが恥ずかしくて水泳を習ったとのことです。彼女は第7軍で看護兵をした経歴があるということで、訓練基地でも部隊軍医所の看護兵を務めました。彼女に水泳の手ほどきを受けた隊員は少なくありません。

 水泳訓練を終えると、ひきつづき渡河訓練をおこないました。渡河訓練は、一種の総合訓練だといえます。完全武装して25キロほど強行軍をしたあと、装具類を携帯したまま小隊別に筏を組んで川を渡るのです。この訓練では、落伍者が1人出ても減点されました。崔光の小隊は渡河訓練に長けていることで知られていましたが、孔正洙のためにいつも他の小隊に1位を奪われたものです。孔正洙は、遊撃隊に入る前は下男ぐらしをしたそうです。人間としては申し分のない品性の持ち主でしたが、元来鈍重で、軍人らしいところがありませんでした。ひと冬の間に帽子をいくつも焦がしてしまったこともあります。焚き火でズボンが焦げてもあわてない、のろのろとした性格だったのです。孔正洙は、第5軍に所属していたときも崔光の小隊にいたそうです。ある日、彼のことでやきもきしていた崔光が腹立ちまぎれに、どこでも好きな所へ行けと言って彼を追い出したことがあります。それでも、彼は足を引きずりながら部隊のあとについてきました。崔光は、それを見て感動したそうです。彼は、絶対に心変わりするような男ではないと思ったというのです。

 わたしは崔光に、追い出されてもどこへも行かずに、革命をつづけると言ってついてきたのをみると人間は申し分ないではないか、骨を惜しまずに助けてやろうと言いました。崔光は、わたしの言葉を心に銘記して、彼を個別的に訓練しました。7メートルもの高さの飛び込み台から水中に身を投ずる訓練をするときも、孔正洙だけは別に指導しました。わたしも遠くからその様子を見守りました。孔正洙は、頭から飛びこむことができず、腹を水面に打ちつけては、腹が破裂しそうだと悲鳴をあげました。しかし、それにめげず訓練をくりかえしたものです。とにかく一風変わった人でした。解放後、彼はわたしの副官や崔庸健の護衛軍官を務め、大隊の指揮もとりました。

 我々は、アムール川でボートにも乗りました。1人乗りのボートで、「アムロチカ」と呼ばれていたものです。ナーナイ人たちは、そのボートをうまく乗りこなしました。隊員たちは、それでハバロフスクまで往復する競争をしたものです。かいは1本だけ使いました。アムール川が忘れられません。

 我々は、水泳や渡河の訓練とともに上陸戦の訓練もしました。わが国は、3面が海に囲まれ、河川も多いので、渡河と海岸上陸戦は、間近に迫った対日作戦にとって必須の訓練だったのです。あるときは、羅津港を想定した上陸戦の訓練もしました。

 水泳の訓練以上に難しいのは落下傘訓練でした。この訓練では、男子隊員よりも女子隊員のほうがむしろ大胆でした。男子隊員のなかには落下傘訓練を怖がる人もいましたが、女子隊員のなかにはそんな臆病者は1人もいませんでした。

 落下傘訓練の第1段階は、模擬訓練でした。跳躍台からおが屑を敷いた地面に飛びおりる訓練です。そのつぎは回転器でぐるぐる回る訓練をしました。この訓練では多くの女子隊員が目まいをして苦しみましたが、誰一人として音を上げる者はいませんでした。

 落下傘訓練はボロシーロフ付近の草原でおこなわれたのですが、そこには軍用飛行場がありました。

 まず、落下傘のたたみ方を習いました。これが終わると、50メートルほどの高さの落下塔の上から、あらかじめ開かれた落下傘で降下する練習です。50メートルの高さから降下しながら、風向きによって体の向きを変えるのですが、これに習熟すると、飛行機に乗って降下する資格が与えられるのです。ひと組は10〜20名ほどでした。はじめは1000メートルの高さから降下し、ついで600メートルの高さに引き下げられましたが、普通は800メートルの上空で降下命令がくだされました。

 飛行場の周辺は、見渡す限り砂糖大根畑でした。我々が降下すると、野良仕事をしていた女性コルホーズ員たちが駆けつけて、落下傘を引き寄せたり、砂糖大根の皮をむいてくれたりしたものです。

 降下回数の多い隊員には青色の記念バッジが与えられましたが、我々の支隊では崔勇進が最多記録をあげてそれを授かりました。

 わたしもたびたび落下傘訓練に参加しました。訓練では、帽子を紛失する者、長靴を失う者、足をくじく者、落下傘が木の枝に引っかかって宙ぶらりんになる者など、いろいろな出来事が起こったものです。

 体重が80キロを越すか40キロに満たない隊員は、安全上の理由から落下傘訓練への参加が許されませんでした。体重が重すぎると降下速度が速くて負傷するおそれがあり、軽すぎるとかえって上空に舞いあげられ、どこに流されるかわからないからです。全順姫は、体重が軽いので飛行機よりも高く吹きあげられ、やっとのことで降下したものです。金曽東も違う方へ吹き流されました。彼はたいへん小柄な人だったのです。方向違いの方に流されて木の枝に吊りさがった彼をわたしが助けおろしたのですが、子どものような軽さでした。金曽東は祖国解放戦争のとき、ソウルおよび大田解放戦闘で偉勲を立てて共和国英雄称号を授与されました。

 我々は、落下傘訓練を空挺隊訓練と組み合わせておこないました。この訓練は、1944年以降に多くおこなわれました。空挺隊訓練では、抵抗する敵兵を降下しながら掃滅する動作、降下後に迅速に散開する動作、敵背を打撃する動作などを練磨しました。

 落下傘訓練をすると体重が減り、激しい空腹感を覚えたものです。訓練がきついうえに、独ソ戦争勃発後、前線支援のため部隊の食糧供給量が減少していたのです。

 それで、我々は更地を利用して畑をつくりました。ジャガイモや大豆、野菜などを栽培して自給自足することにしたのです。我々は、そのおかげをずいぶんとこうむりました。我々の支隊では、山菜を摘んで食糧の足しにしました。訓練基地の周辺には、ワラビ、オケラ、タラなどの山菜が多かったのです。我々が山菜汁をつくって食べていると、部隊軍医所のソ連の医者たちが、得体の知れない草を食べてはいけないと言って、食事を中断させようとしました。しかし、汁をすすってみると、なかなかいけると言うのでした。山菜は薬になると教えると、それからは山菜に目がないありさまでした。

 ある日、我々の隊員と部隊の兵站部長を務めるユダヤ系のソ連軍少佐が、畑でジャガイモの植え方のことで口論したことがあります。少佐は、隊員たちがジャガイモの目をくり抜いて植えるのを見て、そんなやり方をしては駄目だと騒ぎたてました。隊員たちは、駄目かどうかは取り入れのときになればわかると言い返しました。その年、ジャガイモはたいへんよくできました。ジャガイモを丸ごと植えつけた所では小石ほどのものしかできませんでしたが、目をくり抜いて植えた所ではこぶし大のイモがとれたのです。それを見て、少佐は我々の農法を認めました。その年の春、我々の支隊では、目をくり抜いたあとのジャガイモをゆでて食べながらも、収穫を2倍に増やしたのです。

 我々は狩猟隊を組んで猟もし、休日にはアムール川で魚も捕ったものです。川には、どう猛な魚が多く棲んでいました。なかには、数十キロの大魚もありました。産卵期になると、アムール川にはサケが群れをなしてあがってきました。それを網で捕っては塩漬けにし、卵は筋子にして食膳に乗せたものです。捕った獣や魚を西部戦線に送ったこともあります。

 訓練基地では、無線通信訓練もしました。

 北満州部隊には、1930年代後半期にソ連に出入りしながら無線通信技術を学んだ人がいましたが、我々の支隊では、朴永純と李乙雪が臨時基地に来てはじめてそれを学びました。彼らは、ボロシーロフで3か月間無線通信の講習を受けてきて、他の隊員たちに教えました。無線通信の訓練には、男子隊員の李宗山、李五松と金正淑、朴京淑、朴景玉、金玉順、李英淑、王玉環、李在徳、李敏など女子隊員のほとんどが参加しました。

 以前東満州と南満州で活動した部隊では、無線通信がほとんど利用されませんでした。無線通信士を養成するには、コミンテルンかソ連の援助を受けなければならないのですが、それは容易でなかったのです。無線通信士がいないので、無線通信機を何度かろ獲したものの宝の持ち腐れでした。

 我々は司令部と各部隊に連絡員をおいて、徒歩で通信連絡をしたものです。連絡員たちは休むいとまもなく歩きつづけたのですが、その一歩一歩の道が死線といえました。連絡の途上で犠牲になった戦友は1人や2人ではありません。李治浩は入隊後数年間、司令部の連絡員として活動しました。彼は、司令部の通信を届ける途上で飢えに苦しみ、敵に捕らえられ、血まみれになるまで打たれたこともあります。苦労を重ねましたが、功労も少なくありませんでした。

 このように徒歩で連絡をとるありさまなので、苦労をしながらも連絡の機動性をはかることができませんでした。そうした教訓を踏まえて、我々は無線通信の訓練に格別の意義を認めたのです。

 解放後の祖国で、正規武力の建設はもとより、国の神経というべき通信機関を設立し、文化・宣伝活動を進めるにしても、通信の根幹となる人材を養成しなければなりませんでした。

 当時、金正淑は、無線通信や落下傘訓練をはじめ、各種訓練に参加しながらも、国内の各地へ赴いて小部隊活動を積極的にくりひろげました。

 無線通信の訓練では、女子隊員たちが模範的でした。彼女らは無線通信の訓練でも熱意を示しましたが、スキー、水泳、落下傘降下、渡河などの訓練にも男子隊員と同じように参加しました。あのときの訓練は、非常に激しいものでした。ソ連の将校も、自分たちが軍官学校に通っていたときより何倍もハードだと言ったものです。それでも、女子隊員たちは、泣き言を言わず、全員が訓練に欠かさず参加しました。

 落下傘訓練をはじめるとき、我々は子持ちの女子隊員と体の弱い一部の女子隊員を除外することにしました。それを聞いて、女子隊員たちはみな残念がりました。安正淑はわたしのところにやってきて、泣きながら抗議するのでした。「訓練をしないのなら、わたしたち女子隊員は、なんのために子どもたちを残してロシアにまで来たというのですか」
安正淑は極東へ来るとき、他家のしおり戸の前に幼児をおいて来たのでした。李貞仁も他人の畑の番小屋に娘をおいて来たとのことでした。彼女らは、祖国解放の日を早めることが愛するわが子と再会する道だと言って、ぜひとも訓練に参加させてほしいと頼むのでした。

 朴京淑は、軍人食堂の食べ物が喉を通らないにもかかわらず、無線通信機から片時も離れませんでした。出産後も猛訓練をつづけたものです。彼女の熱心な学習と訓練ぶりを目のあたりにした無線小隊の教官は、朝鮮の女性は、実に勤勉で根気強いと称賛を惜しみませんでした。朴京淑は、無線通信機を背負って金策と一緒に敵地に潜入し、数か月間小部隊活動をしたこともあります。彼女の無電の腕前は大したものでした。

 金正淑も訓練に励みました。彼女は足首をくじいてひどくはれあがったときも、スキーの訓練をつづけたものです。わたしが案じると、彼女は紙に包んだ角砂糖を一つ差し出し、「これを口に含んで訓練すると息づかいが楽になります」と言って、かえってわたしのことを心配してくれるのでした。

 落下傘訓練のとき、わたしがいちばん気がかりだったのは、軽量の女子隊員たちが果たして無事に降下できるだろうかということでした。ところが、彼女らは落下傘を適時に開いて、指定の場所に正確に着地したものです。体重を補うため背のうにれんがを入れて降下訓練に参加する女子隊員もいました。

 まさに、これが抗日闘士たちの青春時代でした。解放された祖国の明日を思い描いてあらゆる苦難を笑って乗り越えるところに、我々の幸せがあり、喜びと生きがいがあったのです。訓練が激しいうえに睡眠時間や力も足りませんでしたが、我々は解放された祖国の明日を思い描いて、あらゆる苦難や試練を笑って克服したのです。それで、抗日闘士たちは、いまも当時を貴重なものとして心にとどめているのです。

 誰の生涯にも青春時代はあるものです。しかし、ずっとあとにも誇りをもって振り返ることのできるように青春時代を送るというのは、決して容易なことではありません。祖国と民族のための道にわが身を投じ、燃えるような情熱と闘志をもって万難を排して進むその一歩一歩にまさる、有意義で誇りある生活はまたとないでしょう。わたしは、現代の青年も抗日革命にわが身をささげた闘士たちのあの精神を受け継いで、立ちはだかる障害と難関を乗り越え、祖国と革命のために力強くたたかうものと信じてやみません。

 日本とドイツが落日の運命をたどっていたとき、祖国解放の大事を目前にひかえた我々は、朝鮮革命の主体的力量をいちだんとかためるため祖国についての学習に大きな力を入れました。朝鮮革命にかんする正しい理論と戦略戦術、祖国の歴史と地理、経済と文化、道徳と風習などの知識がなくては、自力独立も、新しい国づくりもおこなうことはできず、革命にたいする自主的な立場と独自の見解を確立することもできなかったからです。

 ところが、隊員たちは、概して祖国についてよく知りませんでした。多くが満州生まれだったので、無理からぬことだといえるでしょう。朴成哲は慶尚北道の生まれとはいうものの、10歳ごろに故郷を後にしてからはずっと満州で暮らし、李乙雪も城津の生まれだとはいえ、幼少のころ豆満江を渡ってからは長白に住みつき、そこで遊撃隊に入隊したのでした。

 それでわたしは、隊員たちに朝鮮革命の主体的路線と祖国についての学習をしっかりさせなければと考えました。ところが、残念なことには、訓練基地に朝鮮関係の書籍が不足していました。朝鮮で出版された本は、小部隊工作で国内に向かう人たちに任務を与えたり、ソ連の同志たちに依頼して入手したものです。『朝鮮地理通鑑』という本も手に入れましたが、それは祖国の地理を勉強するうえで大いに役立ちました。

 ある日、林春秋に、大きな朝鮮地図をつくるようにと指示しました。そして、地図には、主な山や川、平野、湖、地下資源、各地方の特産物、名勝や文化遺跡などをもれなく書き入れるようにと言い含めました。林春秋は、手間をかけて地図をつくりました。それは、白紙数枚を張り合わせた大きなもので、見事な出来映えでした。

 わたしは政治学習の時間にこの地図をかかげて、朝鮮人民革命軍政治幹部および政治教員を前にして、『朝鮮の革命家は、朝鮮をよく知るべきである』と題する演説をしました。この日の演説でわたしは、朝鮮の革命家は朝鮮の歴史と地理をよく知るべきだと強調し、祖国解放の大事を主動的に迎えるためのいくつかの課題についても指摘しました。それ以来、国際連合軍内の朝鮮人隊員はみな、「朝鮮の革命家は、朝鮮をよく知るべきである」というスローガンをかかげて、祖国についての学習を深めたものです。

 あれは、中秋のころだったと思います。その夜、我々は密林の上に浮かんだ明るい月を眺めながら、夜が更けるまで祖国と故郷について語り合いました。祖国にたいする恋しさと愛情は、我々に無限の力と勇気を与える泉でした。こうして、我々は奮起一番、学習と訓練に励んだのです。

 あのとき抗日闘士たちは、戦闘と力に余る訓練に明け暮れる張り詰めた日々を送りながらも、正規の大学に匹敵するカリキュラムをりっぱに消化したものです。それは、決して生易しいことではありませんでした。

 あのとき流した汗と努力は、解放された祖国の地で大きな効果を発揮しました。

 解放後、わたしと一緒に活動した人たちのなかには、有名大学を出た人が少なくありませんでした。ソ連で東方勤労者共産大学を出た人たちもいましたが、彼らと話してみたところ、党建設や国家建設についての知識は知れたものでした。

 抗日闘士たちは、何を任せてもりっぱにやり遂げました。金策に産業部門を担当させたところ、破綻した国の産業経済を短時日で立て直しました。また、安吉に正規武力の建設に必要な軍事幹部を養成する学校を設けて運営するよう命じたところ、彼もその任務を難なくなし遂げました。大衆工作や政治活動では、遊撃隊出身者の右に出る者がいませんでした。

 我々は、抗日革命闘争の全期間、つねに革命勝利の確信をもって、明るい未来を思い描きながら、解放された祖国の明日を担って立つ準備を積極的におし進めたのです。

 祖国解放戦争(朝鮮戦争)のさなかに、わたしが平壌市復興建設の設計図を作成するよう指示したところ、一部の人は戦争がいつ終わるかわからないというのに、復興建設の設計とは何ごとだと目を丸くしたものです。しかし、それから2年後に戦争が終結したとき、我々はその設計にもとづいて直ちに平壌市の復興建設に着手することができたのです。

 革命家は、現在だけでなく、遠い将来を見通して事業を設計し、おし進めなければなりません。難関を前にして泣き言を並べるのでなく、困難をものともせずに立ち上がって明日のための設計図をつくり、生活を先取りして創造していくというのは、何とすばらしいことではありませんか。時間をくりあげ、未来をたぐりよせるのは、攻撃精神です。抗日革命の最後の勝利を見通していたあのころも、我々は変わることなく革命的楽観と確信にみちて軍事・政治訓練に励み、祖国解放の日を早めていったのです。

 今日の難関を笑って乗り越え、明日の祖国のために昼夜を分かたず働く人たち、思索と探究を重ねながら次代の未来を設計していく人たちだけが、真の共産主義者、熱烈な革命家になれるのです。



 


inserted by FC2 system