金日成主席『回顧録 世紀とともに』

8 北満州から来た闘士たち


 ハバロフスクに到着して1日か2日過ぎたときでした。安吉が言うには、近い所に崔庸健が来ているが、わたしにとても会いたがっている、わたしが到着したことを知ったらいまにも駆けつけてくるだろうとのことでした。わたしもやはり彼にとても会いたく思っていたところでした。彼は金策、姜健、許亨植、朴吉松と同じく、以前から会いたいと思っていた戦友の一人でした。

 間島地方で活動していたころ、わたしが断行した第2次北満州遠征の主な目的の一つはほかでもなく、金策、崔庸健をはじめ、北満州一帯の朝鮮人戦友に会い、彼らの闘争を支援することでした。避けがたい事情があって、その目的は惜しくも果たせなかったのです。

 崔庸健もわたしの所へ4度も連絡員を派遣したとのことです。連絡員の一人は、敦化まで来て引き返したそうです。

 東満州と南満州、北満州の各地に分散して活動している朝鮮の共産主義者が交流し合い、合作、協同、連帯をはかろうというのは、我々の一致した願望であり志向でした。

 崔庸健は、北満州の抗日連軍建設で主動的役割を果たした功労者の一人です。抗日連軍の第4軍と第7軍は、彼が主役となって建設した部隊です。彼は、極東に入る前は軍参謀長として活躍しました。

 わたしに最初、彼の話をしてくれたのは、黄埔軍官学校出身の朴勲でした。安図で反日人民遊撃隊を創建し、訓練に励んでいたときのことです。当時、我々にとって最大の難問は、軍事教官の不足でした。遊撃隊は組織したものの、我々には部隊を訓練するだけの軍事専門家が1人しかいなかったのです。わたしと車光秀、朴勲は、膝を交えるたびに、どこからか軍事専門家を連れてこれないものかと相談したものです。それで、おのずと崔庸健も話題にのぼるようになったのです。

 朴勲はわたしに、孫文の死後、国共合作が破綻すると、黄埔軍官学校内の朝鮮の青年はみなちりぢりになったが、そのなかで注目するに値するのは崔秋海だ、彼は黄埔軍官学校にいたとき訓練教官を務めた、そんな人が一人か二人だけでもいれば大いに助かるのだが、いまはどこで何をしているのかわからないと言うのでした。後で知ったことですが、崔秋海とは、崔庸健の別名でした。彼は、崔秋海のほかにも金志剛、崔石泉の別名をもっていました。

 崔庸健がハバロフスクに来ているということを聞いたわたしは、それなら待つことなくこっちから訪ねて行こうと言いました。わたしが安吉を先に立たせて宿所に到着すると、崔庸健はパッと立ち上がってしばらくわたしをじっと見つめるのでした。彼は、肩幅の広い武官型の男でした。

 「満州で会えなかった金司令とオロシャに来てやっと会えたわけですね!」

 彼は、わたしの手を取って挨拶がわりにこう言って涙ぐむのでした。彼は、金司令が近いうちにハバロフスクに来るだろうという話は聞いていたが、すでに到着しているとは知らなかった、先に訪ねていけず、宿所まで足を運ばせて申し訳ないと何回も言うのでした。

 「金司令と一緒に戦うのが一生の願いでしたが、こうして会えて本当にうれしい。これからは、別れないことにしましょう」

 崔庸健は、革命の道を踏み出した後、曲折の多い道を歩んだ人です。彼もわたしと同じように学生運動から革命活動をはじめたとのことです。崔庸健が中学生のとき、その学校でアメリカ人校長を排撃する同盟休校が起こったのですが、彼はその主謀者の一人でした。アメリカ人校長は恐れをなして逃げ出しましたが、日本官憲の干渉で崔庸健をはじめ、闘争を指導した生徒は全員退学処分を受けました。

 その後、崔庸健は、3.1人民蜂起に参加し、反日出版物の発行にも関与して、刑務所に収監されたこともあります。その後しばらくソウルにいたのですが、そこで偶然、上海臨時政府の工作員と親しくなって行動をともにすることになり、はては彼に誘われるまま上海臨時政府を訪ねて祖国を後にしたのです。彼は、どうにか上海に行き着きはしたものの、臨時政府の実態を目の当たりにしてがっかりしたそうです。その後、共産主義運動に足を踏み入れた彼は、闘争の過程で一定の軍事的経験をつむことができましたが、祖国を後にするときにいだいていた国権回復の初志とは違ってだんだん中国革命に深入りするようになりました。当時、中国の関内で活動していた朝鮮の青年は、少なからず中国革命に期待をかけていたのです。

 彼は当時のことを回想するたびに、たとえ他国の革命であっても張り合いは感じたが、なぜか、ふちに押しやられたようなやるせない思いがしてならなかった、ときには中国革命イコール朝鮮革命、朝鮮革命イコール中国革命といった等式まで立てて自分を合理化しようとしたが、故国の現実に背を向けて遠くに逃げのびてしまうような気がして、いつも罪の意識を拭い去ることができなかったと話すのでした。

 孫文が、連ソ・連共・扶助工農を提唱し、国共合作に依拠して北京政府を転覆し国民革命政府を樹立しようとしたとき、崔庸健はその闘争に積極的に参加しました。北伐が成功して国民革命勢力が中国の東北地方まで掌握するようになれば、朝鮮の独立に有利な環境がつくりだされるだろうと判断したというのです。

 しかし、大勢は、彼の望むとおりに進展しませんでした。孫文の死後、蒋介石は、国共合作を破壊し、共産主義者にたいする大虐殺の挙に出ました。彼は、共産主義者を弾圧するうえでは国籍を選びませんでした。この大虐殺の時期、関内で蒋介石の手にかかった朝鮮人は少なくありませんでした。

 崔庸健も死線を幾度もくぐり抜けなければなりませんでした。彼は血なまぐさい大虐殺の旋風を避けて、関内から脱出しました。彼が訪ねて行った所が、ほかならぬ北満州であったとのことです。彼は、そのとき間島へ向かわずに北満州へ直行したのは、航路喪失のような失策であったと後悔するのでした。

 「あのとき間島へ行っていたなら、金司令にもっと早く会えて朝鮮革命にも役立ったはずなのに、まったく惜しいことをした。一世一代の悔恨です」

 わたしも彼に、早くから崔庸健のような軍事専門家と手を握れなかったのが残念でならない、金策、崔庸健のような人が東満州にいたなら、我々は朝鮮革命のためにもっと多くのことができたはずだ、過ぎたことは仕方ないとして、あなたのような中核が北満州に行って抗日ののろしを上げたため、その地方の朝鮮人を革命化し、抗日連軍運動も発展させることができたのではないか、大衆を革命化すれば、それは朝鮮革命のための準備となり底力となる、また中国革命にも有益なこととなる、朝鮮革命と中国革命を分離して考えてはならない、中国の地で革命活動をする以上、中国の共産主義者との共同闘争、中国の抗日勢力との共同戦線を重視しなければならない、あなたたちのこれまでの北満州での活動は、中国の解放のための活動であると同時に、朝鮮の解放のための活動でもあったと話しました。

 崔庸健は、それまでの生活で自分をいちばん苦しめたのは孤独感であったと言うのでした。なぜ孤独だったのかと尋ねると、敵は強大で革命の前途があまりにも遼遠であるように思われたうえに、中国人のなかでの生活なので自然に孤独になった、そして孤独感がつのると、白頭山で戦っている朝鮮の共産主義者のことを考えたものだと言うのでした。

 それを聞いて、わたしに連絡員を4度も派遣した彼の気持ちが理解できました。

 崔庸健は祖国光復会10大綱領を手にしたとき、大きな衝撃を受けたとのことです。彼はそれを読んでからは、朝鮮革命にさらに貢献するには、白頭山に行って金司令と一緒に戦わなければならない、それができなければ金司令の部隊との連係でも強めなければならないと考えたと言うのでした。

 それでわたしも、北満州の朝鮮人戦友に会うため、1935年に第2次北満州遠征を断行したことを話しました。

 その日、わたしと崔庸健は、東満州と北満州で武装隊伍を組織するため東奔西走した1930年代初の事柄についても話題に乗せました。

 崔庸健は、北満州の農村に訓練所を設けて武装隊伍は組織したものの、勢力拡大が思うようにいかず気に病んだと言うのでした。彼は、金司令が全民抗争を主張していることは以前から聞いているが、全人民をどういう方法で抗争に立ち上がらせるのか、その構想を聞かせてほしいと言うのでした。

 わたしは彼に、こう説明しました。

 ―― 朝鮮民族の大多数が極限状態にあって民族の再生を渇望しているのが祖国の現実である。彼らを武装させれば数十万の大軍が生まれることになる。では、どのように武装させるのか。働きながら武装活動を展開する半軍事組織を各地につくろうというのだ。工場地区には労働者部隊を、農村には農民部隊を、都市には学生部隊を組織するのである。すでに、1930年代後半期から北部朝鮮一帯には、生産遊撃隊や労働者突撃隊がつくられて活動している。これからは、そういう組織を全国各地につくる考えだ。それは、誰がつくるのか。抗日武装闘争で鍛えられた中核が各地方に派遣されるはずだ。これは、決して遠い先のことではない。世界の大勢は、日本帝国主義が滅亡する方向に進展している。いま日本は中国とだけ戦争をしているが、やがてもっと大きな戦争を引き起こすであろう。日中戦線の戦況も暗たんとしているのに、また別の戦争を引き起こすなら、それは日本を敗北させる結果をまねくだろう。数年内に最後の決戦の時は必ず到来する。そのときには、朝鮮革命の主力である朝鮮人民革命軍の総攻撃作戦と相まって全国の抗争組織をいっせいに立ち上がらせる全民抗争の方法で最後の決戦にのぞまなければならない。これが、祖国解放作戦にかんするわたしの構想であり、自力独立路線である。

 わたしの話を聞いた崔庸健は、自分の民衆観に問題があるようだと言うのでした。彼は、これまで祖国の人民を救援の対象とみなすのみで、解放作戦の担い手とはみなさなかった、革命は先覚者がすることであって、誰にでもできることではない、労働者、農民が革命の原動力であるのは事実だが、彼らがみな革命に参加できるわけではない、先覚者が血を流して人民に解放された祖国をもたらすべきだというのが自分の民衆観だった、それで大衆を革命化する政治活動より軍事一面にかたよったのだと話すのでした。

 話を交わすうちに、はじめは朴訥に見えた彼が時々笑みをたたえるようになりました。

 崔庸健は、ハバロフスクに来る道々でも、ソ連との軍事的協力に関心をもつだけで、朝鮮国内での全民武装や祖国解放作戦のような問題については考えていなかった、いまは金司令に会えて前途が明るく見通せるようになったと言うのでした。

 「金司令、正直な話、わたしは白頭山へ行って戦いたかったのです。白頭山へ行けばわたしも朝鮮人としての本分を果たせると思います。平隊員でも何でもよいから、白頭山へ行って金司令の部下として戦い、白頭山に骨を埋めたいというのがわたしの願いです!」

 崔庸健は、涙を浮かべてこう言うのでした。

 「南満州、東満州、北満州とちりぢりになって戦っていた朝鮮の革命家が一堂に会したのだから、これからは別れ別れにならず、手をしっかり取り合って、朝鮮のために戦いましょう」

 わたしは、崔庸健の宿所を去るときこう言いました。

 わたしは、崔庸健との対面で強烈な印象を受けました。彼が涙ながらにわたしに言った言葉には、かねてからの願望がこめられていました。それは、身は異国にあっても自国の革命にじかに寄与しようという強烈な願望であり、一つの中心を立ててそのまわりに結集し、主体的に革命を遂行しようという確固たる志向でした。これは、崔庸健一人に限られた願望や志向ではありませんでした。朝鮮の共産主義者は、南満州と東満州、北満州のどこにいようと、みなそのような願望と志向をいだいていたのです。崔庸健が、白頭山へ行って戦いたいとあれほど切望したのは、わたしへの信頼と期待のあらわれであり、同時に、革命をするとしても朝鮮革命をし、死ぬとしても朝鮮のために死にたいという、愛国心の発露でした。

 崔庸健の願いの多くはその後、国際連合軍が組織されることによってかなえられました。ハバロフスクでの初対面後、彼はわたしと行動をともにすることになりました。結局、白頭山へ行ってともに戦いたいという彼の願いは、こうしてかなえられたのです。

 極東で会った北満州の戦友のなかには、姜健もいます。国際連合軍が編成される前、わたしは北キャンプに行って姜健と会ったことがあります。わたしと会ったときの彼の喜びようが普通でなかったので、そこに居合わせた第2路軍と第3路軍の軍事・政治幹部がみな驚いたくらいです。北満州の軍事・政治幹部のうち、わたしと姜健との縁故関係を知っているのは、周保中をはじめ第5軍出身の数名の指揮官だけでした。わたしと姜健は、旧知の間柄でした。わたしは、満州で彼に何回か会ったことがあります。一度は第1次北満州遠征のときで、もう一度は第2次北満州遠征のときでした。

 姜健は、1938年から第5軍第3師第9連隊の政治委員として活躍しました。入隊後、間もなく連隊クラスの政治幹部になったことからして、彼にたいする信望がどれほど大きいものであったかをうかがうことができます。我々が、小哈爾巴嶺会議で小部隊活動の方針を採択したあと、第5軍でも部隊の改編がありました。姜健はそのとき、第2路軍総指揮部直属警護隊の政治委員に任命されました。警護隊の隊長は朴洛権でした。

 わたしは北満州に行き来する連絡員に会うたびに、姜健のことをよく尋ねたものですが、そのたびにりっぱに戦っているという話を聞きました。彼は第5軍で、成長が速く前途が嘱望される軍事的才能に長けた指揮官として広く知られていました。入隊後、2、3年のうちにそうそうたる人物になれたのは、戦上手であったこともありますが、それに劣らず人民を深く愛する品性にも起因していました。人民は、姜健を実直で素朴な人であるとして、たいへん慕ったそうです。彼が部隊を率いて住民部落に入ると、人民は姜政治委員が来たといって、熱烈に歓迎し、先を争って自分の子を入隊させてくれと願い出ました。それほど姜健の部隊は、人気があったのです。姜健が部隊の綱紀をうち立てたため、部下の組織性と規律性も強かったといいます。

 姜健は、戦いでも猛者と言われました。彼は、軍事指揮官としての才能と手腕を遺憾なく発揮したのです。彼の軍事的才能は、小部隊活動の時期にいっそう顕著にあらわれました。とくに、伏兵戦と列車転覆作戦を得意としました。日本軍の将校を乗せた専用列車を爆破したこともあります。彼は小部隊活動の時期、数多くの列車転覆作戦や鉄橋、道路、軍需倉庫の破壊作戦を巧みに指揮し、敵に甚大な打撃を与えました。

 姜健と再会したその日は、アムール川のほとりで長時間、旧懐の情をあたためたものです。

 国際連合軍が編成されたときから、彼はわたしと一緒に生活しました。わたしたちが生活していた家を、当時は丸家(トリジプ)と呼んでいました。この家で国際連合軍の主要指揮官が生活したのです。丸家とは、当時シベリア地方によく見られた円筒形の住宅です。廊下を中心に部屋がぐるりと配列されている家です。

 わたしはその後も、幾度も姜健と語り合いましたが、思考と実践において手落ちがなく、話も上手でした。彼を無味乾燥でこちこちの軍事指揮官だと評する人もいましたが、それは姜健という人間をよく知らないからです。彼は冷徹で生真面目でありながらも、多感で人情味の豊かな人でした。彼は、自分の主張や見解を粉飾しない人でした。普段考えていたことを飾らずにそのまま吐露するのです。

 姜健は、故郷の話をよくしたものです。彼のふるさとは慶尚北道の尚州です。彼が、尚州を後にしたのは10歳のときです。幼いころに離郷したのですが、故郷にたいするイメージが鮮明で、なつかしさも切々たるものがありました。尚州が酒と絹の名産地であり、柿もよくできると聞かされました。彼が、尚州の名酒や柿、絹について、洛東江や俗離山について話すときは、いつも目をうるませていたものです。外見は味気なく冷淡に見えても、ふるさとについて話しはじめると詩人のように感情を抑えきれず、普段とは違って饒舌になるのでした。彼は、他家の養女になった故郷の姉のことも胸痛く回想しました。

 姜健のように生まれ育った故郷を熱愛する人は、革命に参じても熱烈に行動するものです。郷土愛に燃える人は祖国愛も強く、祖国愛の強い人は革命にたいする熱意も高いものです。

 わたしと姜健との交友関係は、国際連合軍の時期に熱烈な同志愛に昇華しました。

 わたしが姜健の人間像にとくに感嘆させられたのは、彼の並はずれた軍事的眼識と強い責任感です。彼は該博な軍事知識の持ち主でした。軍事作戦について論議するときなどは、自分の見解の発表に熱を上げたものですが、その主張が独特で深みもありました。

 姜健は、中国語に堪能で、ロシア語も上手でした。彼が、ロシア語の勉強をはじめたのは北キャンプに来てからです。勉強をはじめてそれほど経たないうちに、ソ連軍将校と簡単な会話も交わせるようになり、ロシア語のソ連軍事規範も自力で読解できるようになりました。彼の頭脳の明晰さについては、ソビエト人も中国人もひとしく感嘆したものです。漢文の略字も自分なりにつくって使いました。

 姜健の成長をいちばん喜んだのは金策でした。金策と姜健は、師弟の間柄です。金策が寧安で活動しているとき、しばらく私立学校で教鞭を取ったことがありますが、そのとき姜健は彼に教わったそうです。

 「信泰(シンテ)は、私立学校の時代にも秀才として知られたものです。そのころもう『三国志演義』を丸暗記したくらいです」

 金策は、いつも自慢げにこう話したものです。信泰というのは、姜健の本名です。金策と姜健は師弟の間柄ではあっても、品性からすれば双子の兄弟のようでした。金策は生前、剛直で生真面目なことで知られたものですが、姜健も彼に劣らず剛直で生真面目でした。原則性や展開力の面でも、2人は瓜二つでした。解放後、姜健が総参謀長を務めていたとき、部下には年上の者も少なくなかったし、革命活動の年期の長い人も1人や2人ではありませんでした。しかし、彼らの誰もが、姜健の前では遠慮がちだったものです。それは、彼が革命的原則に徹した人であることをよく知っていたからです。姜健は原則上のことにかけては、相手が誰であろうといささかの譲歩もしませんでした。たとえ、相手が近い血縁の者であっても、原則に反する事柄にたいしては容赦しませんでした。

 金正日同志が、姜健の党と領袖への忠実性と革命的原則性に見習うよう幹部に強調しているのは正しいことだと思います。姜健は、新しい世代が見習うにたる有能な幹部であり、魅力に富む軍事指揮官でした。あまりにも若い年で戦死しましたが、もし生きていたなら武力建設により大きく貢献したことでしょう。

 姜健は、最後の血の一滴まで革命にささげた人です。彼は、一生休むことなく活動しました。日本が敗亡した後は、中国革命を支援するため祖国にも帰れず、吉東分区司令官として東北解放作戦に参加しました。そのとき、彼は多くの朝鮮人部隊を組織しました。東北解放作戦に参加した朝鮮人の数は実に25万人に及んだといいます。彼は、激務の連続で胃腸病にかかりました。帰国後、保安幹部訓練所第2所の所長を務めていたときも、胃潰瘍で苦労しました。そのころは、食事の時間を守ったことが一度もありませんでした。彼の胃潰瘍がひどかったので、宴会のときにも彼には酒はもちろん、サイダーも飲ませませんでした。

 人民武力建設分野における姜健の功績は大なるものがあります。ソウル解放戦闘と大田解放戦闘の勝利をはじめ、戦争第1段階に人民軍がおさめた戦果には、姜健の偉勲に負うところが大です。

 人民軍が洛東江の線に進出したとき、彼はわたしに戦況を報告してから、数日後には故郷の尚州で姉にも会えそうだと言うのでした。しかし、それは彼の遺言になってしまったのです。1950年9月、彼は故郷を間近にした地点で惜しくも戦死しました。

 姜健は、有能な幹部でした。彼は、政治にも、軍事にも通じていました。享年32歳でした。我々に若い総参謀長がいるのをソビエト人もうらやんでいました。姜健があんなに若い年で帰らぬ人となったのは、実に哀惜にたえないことです。彼には、共和国英雄称号を授与し、その功績を末永く伝えるため、第1中央軍官学校を姜健軍官学校と命名しました。共和国創建20周年のときには、沙里院市に彼の銅像を建立しました。姜健を失ったことが残念でなりません。わたしは、いまもしばしば彼を思い出します。

 東満州出身の抗日闘士たちが極東の訓練基地に入るときひとしく願ったのは、北満州の朝鮮人の戦友に会うことでした。北満州の戦友たちも極東に来るときは同じ気持ちだったそうです。わたしが北キャンプにはじめて行ったとき、北満州から来た朝鮮人隊員たちはいっせいに兵舎から飛び出してきて歓迎してくれました。ほとんどが、はじめて会う人たちでした。北キャンプを去るとき、わたしをなかなか帰らせようとしなかったことが、昨日のことのように思い出されます。

 北満州出身の朝鮮人闘士たちは、東満州の闘士たちを故国から来た人のように接してくれました。北満州も東満州も満州という点では変わるところがないのですが、東満州のほうが北満州よりずっと朝鮮に近いからでしょう。朝鮮人が開拓した東満州の地であり、朝鮮人が切り開いた東満州の革命であってみれば、そこを故国の一部分のように考えるのも無理からぬことでした。東満州出身の抗日の闘士たちは、わたしと一緒に祖国にも何回か進出しました。ですから、北満州の戦友たちが、わたしたちを故国の同胞のように接するのはごく自然なことだったのです。

 北キャンプにはじめて行ったときひときわ目立って見えたのは、口ひげを生やした金竜化でした。彼の口ひげがとても印象的でした。

 そのつぎは冗談好きの崔勇進で、彼も口ひげを生やしていました。彼が一歩前に出て同僚を一人ひとり紹介するのでしたが、格式張らずユーモアたっぷりなので、初対面という気が全然しませんでした。彼は人を紹介するとき、姜尚昊は記憶力がぬきんでている、金竜化と金大洪は名射手だ、張相竜、金智明、全奉瑞は尻が軽くて荷車のようによく働く、金曽東はのみこみが早い、柳応三は篤農だといったふうに個々の特徴を一言で説明しました。日を経てみると、そのときの彼の人物評は全部正確でした。

 姜尚昊は頭脳明晰で、金竜化と金大洪はすぐれた射手であり、張相竜や金智明、全奉瑞、朴宇燮、金陽春などは、どんな任務が与えられてもそのつどせっせとなし遂げる勤勉で誠実な努力家でした。張相竜は極東の訓練基地にいたころ、わたしと金策の間の使い走りをよくしてくれました。柳応三は農業に明るい人でした。北満州にいたときも遊撃区の営農を主管しましたが、北キャンプに来てからも副業農場の仕事となるとあれこれと関与したものです。いっとき、彼は人民武力部で副業部長を務めたこともあります。

 わたしはそのころ、崔敏哲と李宗山にも会いました。李宗山は、北満州出身のうちでもいちばん年若い隊員でした。彼が非常呼集の銃声を聞いて、ベッドから転げおちた話を崔勇進から聞かされて、一同腹をかかえて笑ったものです。

 北満州から来た女子隊員たちは、だいたい性格が開放的でした。北満州には広漠とした平原が広がっています。広い土地で暮らせば、人の性格も豪放になるのでしょう。彼女らは、馬も上手に乗りこなしました。朴京淑と朴景玉は無電の名手で、王玉環は馬術に長けていました。李淑貞も馬を上手に乗りこなすとのことでした。許昌淑、全順姫、張喜淑は敏腕の裁縫隊出身で、李桂香は名射手でした。

 崔勇進は同僚を紹介するとき、いつも茶目っ気な冗談口をたたきましたが、そのつどこっけいな表情をつくって人びとを笑わせたりしました。崔勇進が面白い人だということは西間島にいたときにも聞いたことがありますが、実際に会ってみると噂にまさる人でした。

 崔勇進が名だたる猛者で、したたか者だということは、主力部隊のあいだにも広く知れわたっていました。彼が猛者として知られるようになったのは、モーターボートで視察中の日本軍「討伐隊」の高位将校とその随員を全員水葬にする戦闘で勇猛をふるったときからでした。

 崔勇進は、革命的原則性の強い人です。北満州で連隊長か中隊長を務めていたとき、部隊の食糧を調達しようと、自衛団員の父親を訪ねて行ったことがあります。崔勇進の父親は、もともと武器を手にして独立軍で戦った反日独立運動家です。独立軍運動が立ち消えになった後、銃を捨てて家にもどってくると、敵は彼を朝鮮人の分裂・離間策動に利用しようと自衛団に強制入隊させました。

 崔勇進が父親に、いま部隊が食糧不足で苦労している、だから食糧を少し分けてもらいたいと言うと、父親はお前にやる米はないとかぶりを振るのでした。崔勇進の家には、いくらかの土地もあり、食糧の余裕も十分にありました。大金持ちとはいえないまでも、粥などは、すすらずに十分暮らしていけました。彼の父親がかぶりを振ったのは、遊撃隊と内通していないということをほかの自衛団員に見せるためだったのか、それはよくわかりません。短気な崔勇進は、父親に断わられて憤慨しました。彼は、独立軍にいたお父さんがそんな態度をとってどうするのか、お父さんこそ誰よりも遊撃隊をよく援助すべきではないか、抗日遊撃隊員は強盗日本帝国主義を打ち倒して奪われた国を取りもどそうと、満足に食べることも、着ることも、寝ることもできず、雨露にうたれて野宿しながら戦っている、祖国の解放のために血を流して戦っている遊撃隊を援助しないのは、国も民族も眼中にない反逆者だ、食糧をくれなければただではおかないとまくしたてました。

 息子の話に心を動かされたのか、とにかく彼の父親は、荷車15台分もの食糧をもたせました。その後も多くの食糧と武器を手に入れて遊撃隊に送りました。彼は自衛団の看板をもっていながらも、銃を手にして独立軍に従軍した往年の愛国心と節操をまげず、援軍運動に熱心に参加したのです。その後、彼は日本人に虐殺されました。

 国際連合軍の時期に、崔勇進はわたしの支隊の中隊長を務めました。崔勇進中隊といえば、ソビエト人も感嘆したくらいです。彼の指揮する第1中隊があらゆる面で先頭に立ったからです。彼は、厳格で勝ち気で、仕事熱心な指揮官として知られていました。

 崔勇進は解放後、平壌防衛の責任ある地位にあって、スパイ・謀略分子との闘争をりっぱに展開し、平壌学院や中央保安幹部学校での正規武力の中核育成にも尽力しました。彼が水産相を務めていたときは、漁獲高も上がったものです。彼はいっとき、副首相も務めました。

 わたしは訓練基地で、かつてわたしが北満州に派遣した闘士たちとも感激的に再会しました。崔光、金京錫、全昌哲、朴洛権、金玉順、安正淑などは、わたしが東満州で活動していたときに派遣した同志たちです。

 崔光はわたしに会うや、これは何年ぶりですかと言って泣き出しました。泣きやんでからは「将軍、わたしは北満州に行っても、いつも将軍のおられる白頭山のほうばかりあおいでいました。もう、いくら命令されても他の部隊には絶対行きません」と言うのでした。国際連合軍の編成後、彼は小隊長を務めました。

 わたしが崔光にはじめて会ったのは、彼が児童局長を務めているときでした。そのとき、彼は、児童団演芸隊を率いてわたしの所に来て公演をしました。わたしが第1次北満州遠征に発つころには、児童局長をやめて青年義勇軍に入隊していました。そのころまで崔光は、銃を発射すれば薬きょうのまま弾が飛んでいくものと思っていたそうです。彼は入隊して間もなく小隊長になりました。

 吊廟台戦闘のときは、わたしを護衛するため小隊を引率して腰営口の西側の山に来て夜を明かしたことが思い出されます。崔光はその後、老黒山戦闘にも参加しました。極東に来る前は、周保中の第5軍指揮部で警護隊の小隊長を務めました。周保中は、崔光に目をかけていたそうです。

 そういう縁で、周保中は、東北での対日作戦に必要な人員を選抜するとき、真っ先に姜健、崔光、朴洛権の派遣を要望したのです。姜健は東北で分区司令官を、崔光、朴洛権、南昌洙はそれぞれ連隊長を務めました。崔光の連隊の活動区域は、汪清県一帯でした。彼らは、満州国時代に日本人が備蓄しておいたコーリャンを食べながら部隊をかため、戦闘もおこないました。当時、一部の人は、崔光の組織する軍隊が多すぎると物言いをつけました。県には、200名の兵員しかおけないことになっているというのです。それで崔光は、県都から外れた農村地帯に行って兵員の徴募をつづけました。そのとき組織された武装隊伍は、のちの東北解放作戦はもちろん、わが国の建軍事業にも大いに貢献しました。

 崔光の部隊は、敦化方面でも大きな戦果をあげました。彼らは、戦闘は戦闘でつづけながら、一方では党組織や大衆組織の建設もしました。

 崔光を祖国に召還したのは、1946年の初秋でした。そのとき彼に、しっかりした隊員を選んで連れてくるよう指示しました。崔光は部隊の引き継ぎをし、約200人の選抜された人員を率いて帰国しました。平壌に到着した日、金策と武亭が駅頭で彼らを迎えました。金正淑は崔光が来ると聞いて、真心をこめて食事をととのえました。

 崔光は帰国後、保安幹部訓練所第1所の参謀長を務めました。のちには、朝鮮人民軍第1師の師団長として祖国解放戦争(朝鮮戦争)に参加しました。彼がわが国の建軍事業に残した功績は非常に大きいものがあります。

 崔光は、人間としても、軍事家としても誠実でした。プエブロ号事件が発生したときは、情勢が緊張しているからといって1年間も帰宅せず、執務室で寝食をしました。彼は一生涯、純潔な心で党と領袖につくした人です。革命活動の過程で曲折も経、気苦労もしましたが、心は絶対に変わりませんでした。崔光は、わたしがもっとも大事にし、愛した武官の一人です。

 金正日同志も彼を深く信頼し、愛し、引き立てています。金正日同志が崔光をいかに信頼しているかは、最高司令官に推戴されたのち、70歳を越した高齢の彼を朝鮮人民軍総参謀長に任命したことをみてもよくわかります。

 わたしは極東の訓練基地に行くとき、朴吉松、許亨植とも会えるだろうと考えていました。しかし、残念なことに、彼らに会うことはできませんでした。2人とも北満州で戦死していたのです。

 許亨植は、珠河遊撃隊の創建者の1人です。彼のことは、金策が多く話したものです。北満州出身の闘士で、許亨植のことを話さない人はいませんでした。

 金策から聞いた話のうちでいまでも覚えているのは、許亨植が江南への冬季行軍中に、みずから処罰の歩哨勤務に立った話です。そのときの行軍はまったくきびしいものだったそうです。許亨植は、隊員の疲労を軽減してやろうと、指揮官も歩哨勤務に立たせ、彼自身も歩哨に立ちました。時計がなかったので、線香に火をともして時間をはかりました。線香が一本燃えれば交替時間とみなしたのです。ある日の夜、許亨植は門前の歩哨に立ったのですが、うっかりして交替時間をたがえました。翌朝、彼は隊員たちの前で自己批判をし、晩になると進んで処罰歩哨に立ちました。参謀長が処罰歩哨に立つのを見たある隊員が見るにたえず、線香を半分ほど折ってしまいました。これを知った許亨植はその隊員に、指揮官を思う君の心はありがたい、しかし、君は重要なことを見逃している、革命隊伍内には2重規律は許されない、いったん定められた秩序は誰もが同じように守らなければならない、それでこそ隊伍の規律が確立されるものだ、君もわたしと一緒に今晩処罰歩哨に立って、おのおの自省してみようと言って、その晩もまた処罰歩哨に立ったとのことです。

 許亨植は、訓練基地に早く来るようにという金策の連絡を受けてからも、計画した作戦をしめくくろうと日を延ばしているうちに、惜しくも訓練基地に到着できず戦死しました。いかなる軍事作戦の成功も、許亨植のような大器の指揮官1人の損失を償えるものではありませんでした。彼の死は、祖国解放作戦を構想していた我々にとって、実に手痛い損失となりました。

 朴吉松は、汪清で活動し、のちに北満州へ行って支隊長まで務めた人です。呉仲和の影響を受け、若年にして秋収・春慌闘争にも参加しました。朴吉松の父親朴徳深は、小作農を営むかたわら船方もしました。この老人は、わたしがよく知っています。人民が我々の部隊に送ってよこす援軍物資を、この老人が何回も船で運んでくれたものです。

 朴吉松は児童局長を務めていたころ、わたしの部屋に足しげく出入りしたので、すぐ親しくなりました。彼は仕事熱心な青年で、児童局長の仕事だけでは満足しませんでした。いつも、参軍の機会を狙っていた彼は、我々が第2次北満州遠征に出発するとき、連れて行ってほしいとせがみました。わたしは、彼の入隊志願を否決し、工作員として羅子溝へ派遣しました。羅子溝には、汪清、琿春一帯の遊撃区から来た革命大衆が集結していました。彼らを保護する適任者が、朴吉松だったのです。彼は大衆工作に長けていました。

 その後、連絡員を通じて朴吉松の消息を何回か聞きました。朴吉松が北満州に入ったのは、羅子溝一帯で彼の正体が露呈したからです。彼は収監されて拷問を受けましたが、病気ということで保釈された後、我々の部隊を訪ねるつもりで羅子溝を脱出したのです。彼は、若い年で獄中でもりっぱにたたかいました。

 彼は老爺嶺を越えるときから、我々の行方を探そうとずいぶん苦労したとのことです。そのうち、寧安県笑来地盤付近で活動していた部隊に入隊し、20代で支隊長の重責を担いました。彼は、共青生活でも模範的でした。朴吉松が支隊長であったとき、その連絡兵を務めたのが李宗山です。

 朴吉松の支隊は、戦(いくさ)上手の部隊として知れわたっていました。彼の支隊には騎馬隊がありましたが、敵はその騎馬隊をたいへん恐れたそうです。朴吉松は、計画した仕事をきれいにしめくくって極東に入ろうとしていたやさき、敵に逮捕され、惜しくも犠牲になったのです。

 李宗山が、受信した知らせをもってわたしの所に飛んできました。それによると、朴吉松は、行軍の途中、敵との激戦で重傷を負って意識を失い、敵に捕らえられたそうです。わたしの連絡を受けてすぐ極東に入って来たなら、そんな大事にはいたらなかったはずなのに、本当に悔しくてなりません。

 羅子溝にいた朴吉松の父親を平壌に連れて来させたのですが、崔光と金玉順が朴徳深老を扶養するといってその手続きをはじめました。ところがこれを知った金一が、小部隊活動時代の縁故からしても朴徳深老は自分が面倒をみるべきだと言い張りました。両方とも譲ろうとしなかったので、その噂がわたしの耳にまで入りました。金一は、わたしに裁決を求めました。わたしは、革命の一世の気高い人間性を満足に思い、金一にこう言いました。

 ―― 朴吉松の父が、なぜ金一や崔光、金玉順の父でしかないのか。その老人は、わたしたちみんなの父であり、わたしたちは彼の子女である。だから、みんなが朴吉松となって老人を扶養しよう。

 こうしてわたしは、当時、相・副相たちが住んでいた普通江畔の高級住宅に朴徳深老を住まわせるようにはからいました。

 北満州の戦友の話をすればきりがありません。

 わたしは、極東の訓練基地で、国際連合軍の別働隊としてソ連軍との共同偵察に参加した北満州出身の闘士にも会いました。洪春洙にもそのときに会ったのです。彼は独立軍出身です。独立軍にいたとき、平壌、江西、安岳、沙里院などをめぐり歩いて義援金募集工作をしました。彼は、名射手で、偵察活動にも長けていました。祖国解放作戦のときは第一線で戦いました。

 国際連合軍に参加した朝鮮の共産主義者は、かつては、南満州や東満州、北満州でそれぞれ戦ってきた人たちですが、思想・意志のうえでかたく団結し、朝鮮革命の最後の勝利を推進していきました。老爺嶺は東満州と南満州、北満州の境界線となっていますが、その嶺も朝鮮の共産主義者の心にまで境界線を引くことはできませんでした。彼らはみな、白頭山へ行ってわたしと一緒に戦って死にたいと言っていたのです。

 白頭山へ行って戦いたいという一致した願望は、とりもなおさず、我々の隊伍の思想・意志の統一を保障する要因となり、朝鮮革命の主体的力量の強化に大きく寄与しました。



 


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