金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 東北抗日連軍の戦友とともに


 国際連合軍の時期に、わたしは、周保中、張寿籛、柴世栄、馮仲雲など東北抗日連軍の多くの戦友と同じ隊伍で、深いつながりをもって生活しました。長い歳月が流れましたが、あのころの事柄が忘れられません。

 東北抗日連軍の指揮官のうちで、わたしといちばん深いつながりのあったのは周保中です。彼との親交がはじまったのは、1930年代の前半期に間島で救国軍との統一戦線活動を進めていたときからです。周保中とは、反日兵士委員会にもともに参加し、羅子溝戦闘もともに戦いました。汪清にいたとき、2回にわたって北満州遠征を断行しましたが、2回とも周保中らと連合作戦を展開しました。しかし、1930年代の後半期に活動舞台を白頭山地区と西間島に移してからは1度も彼に会えませんでした。

 「道は幾筋にも分かれていても、大門は一つ」 これは、周保中がわたしと別れるたびに格言めかして言った言葉です。活動舞台が異なり、闘争路程も違っているが、共同抗日闘争を展開するかぎり、必ずいつかは再会できるという意味でした。

 ハバロフスク会議直前に会ったときにも周保中は、「それみなさい。金司令、わたしが言ったではありませんか。道は幾筋にも分かれていても大門は一つだと」と言って呵々と笑うのでした。数年ぶりの巡り合いだったので、胸がじいんと熱くなりました。

 「楊司令が戦死したという消息を聞いて以来、南満州の同志たちのことが心配でなりませんでした。日本軍が金司令に莫大な懸賞金をかけているといううわさも聞きましたが、苦しい局面をよくも切り抜けてくれました。東満州と南満州が、どんなに危険な戦場かはわたしがよく知っていることです。こんなに元気な姿でハバロフスクに来た金司令に会えてうれしいかぎりです。金司令が来るのを、いまかいまかと待っていました」

 周保中は、心からこう言うのでした。彼は、前よりだいぶ老けて見えました。顔には、樹海と雪原で辛苦をなめてきた跡がありありと刻まれていました。その間、さぞかし苦労が多かっただろうとわたしがねぎらうと、彼はかえって、自分らの苦労はなんでもない、南満州の同志たちの苦労とは比べるべくもない、そういう苦労をしながらも屈せず連戦連勝したのだから、我々としてはただ驚嘆するのみだ、コミンテルンの幹部やソ連軍指揮官の賛辞もひと通りのものではないと言うのでした。

 わたしがハバロフスクで周保中に会ったのは、コミンテルンが東北の遊撃隊指揮官とソ連極東軍代表の会議の開催を急いでいたときです。それだけに、周保中との語り合いも多くはこの会議と関連した問題に向けられました。

 周保中の悩みは、革命の民族的任務と国際的任務、革命闘争における独自性と国際的連帯の問題をいかに結合するかということでした。彼は中国共産党中央との連携を待望していたのですが、それが実現せず焦燥ぎみでした。中国共産党員の周保中が、党中央の指導のもとに東北革命を発展させようと数年来苦慮してきたのは当然なことといえました。周保中は、つねに党中央とのつながりを優先させながら、ソ連との連帯をはかろうと努力しました。それは、東北地方で戦っていた中国の戦友たちの一般的な態度でもありました。ひところ、コミンテルンとソ連軍事当局が、東北抗日連軍をソ連の指揮圏内に引き込もうとしたこともあるのですから、周保中がそういうことがまた起こりはしないかと憂慮したのはよく理解できます。

 その日、わたしと周保中は、新たな情勢の要請からしてソ連との軍事的・政治的協同と協力は切実に必要である、しかし、その具体的な形式と方法は個々の国の民族革命の利益と国際革命の利益を正しく結びつける方向で解決されなければならない、すなわち、東北抗日連軍や朝鮮人民革命軍の独自性を維持する方向でなされるべきだという見解の一致を見ました。

 周保中は話し合いの最後に、「今回の協商では、南満州の代表の発言がきわめて重要だと思います。わたしは、金日成同志を全的に信頼します。反日兵士委員会のころも金司令の発言はいつもわたしたちの論題を主導したではありませんか。これまでと同じく今後も、新たな状況に即して手を取り合って活動しましょう」と熱を込めて言うのでした。わたしにたいする彼の信頼は真実そのものでした。

 周保中は、ソ連を擁護し、ソ連に樹立された社会主義制度をつねに支持しながらも、その国の人たちの言動や処置に大国主義的な要素が多少なりともあらわれると快く思いませんでした。

 わたしは周保中に、原則的な立場を堅持しながら、大きな度量をもって同志的協力精神を示すならば、相手の誤った態度を十分正し、しこりもやがては取れるだろうと言いました。彼はうなずきながら「ともあれ金司令は老練です」と言うのでした。それで、わたしが老練だからなのではなく、周司令が経験していないことを経験しているからだ、我々は他人の家に同居しているのだからと言いました。それでやっと彼は、そうだ、朝鮮の同志たちは、東満州で「民生団」問題のため大変な苦しみを味わっていますねと言うのでした。

 周保中は吉東で活動していたときすでに、反「民生団」闘争が極左的に進められたことを暴き、それは東満党特委の活動上の誤りによってもたらされたものだと批判した人です。彼は、間島時代から朝鮮の革命家の闘争に比較的公明正大な立場を取っていました。

 前にも話したことがありますが、我々が祖国光復会を結成したとき、周保中は、自分の指揮下にあった東北抗日連軍の部隊内につくられた支部の活動を積極的に後援してくれました。それは1936年12月にあったことで、これは朝鮮革命にたいする国際主義的な支持と連帯の表示でした。

 周保中が朝鮮革命にたいしてこのように好意的な立場をとったのは、我々が遊撃闘争の草創期から彼を心から支援し、数回にわたる連合作戦を通じて彼に良い影響を与えたこととも関連しているといえます。

 第1次北満州遠征のときには、遠征隊の過半数の隊員を周保中に引き渡すことによって彼を援助しました。そのとき、北満州の戦友たちとともに連合作戦も多く展開しました。第2次北満州遠征のときは、第2軍と第5軍の合同総指揮部も設け、大がかりな連合作戦を展開しました。指揮は周保中、政治委員はわたし、副指揮は平南洋(李荊璞)が、それぞれ担当しました。総指揮部傘下の6つの部隊が活動地域を分担したのですが、西部の安図部隊は周保中が、葦河部隊はわたしが受け持ちました。我々は、西線指揮部、中線指揮部というように地域別の指揮部を設け、その管下に幾つかの部隊を分けて配属させ、撫松から穆棱一帯を行き来しながら連合作戦を展開したものです。

 わたしと周保中との縁は、このように深いものでした。そのためもあってか、周保中は国際連合軍の時期にも大小さまざまな問題をわたしと相談したものです。ソビエト人と協議する問題が提起されても、彼はまずわたしの見解から求めました。なぜそうするのかと問うと、間島時代から金司令に助言を受けるのが習慣になっているからだと答えるのでした。

 国際連合軍時代の周保中は、形式上の等級にこだわることなく、わたしをつねに朝鮮人民革命軍の司令官、朝鮮革命の指導者、連合軍内の朝鮮側代表と認めて敬いました。わたしたちはよくある団体の共同委員長のように、相互に支持し協力しながら共同で活動しました。それは双方が互いに相手を尊重したからです。わたしと周保中の関係は、深い尊敬と信頼にもとづく同志的、兄弟的な関係でした。

 わたしが周保中についてよい印象をもっている主な理由の一つは、彼が東北革命の開拓と発展において先駆者の役割を果たした朝鮮共産主義者と朝鮮人民の業績を誰よりも高く評価していたからです。いつだったか、彼は、自分は二つの忘れがたいことを記憶しているが、その一つは抗日遊撃闘争で朝鮮人が前衛的役割を果たしたことだと言いました。

 朝鮮革命にたいする周保中の立場は明白でした。彼は、朝鮮人が朝鮮革命のために戦うのを当然なことだと評価し、東北革命は朝鮮人を抜きにしては考えることができないということを一貫して主張しました。また、東北抗日連軍第2軍は、すなわち朝鮮人民革命軍であったとし、共同闘争の過程で歴史的に存在していた朝中抗日武力の連合をいつもほめたたえていました。

 周保中は、東北革命において朝鮮の共産主義者が果たした前衛的役割について指摘し、1932年度に結成された強力な東満遊撃隊と1933年に結成された磐石遊撃隊、珠河遊撃隊、密山遊撃隊、湯原遊撃隊、饒河遊撃隊はすべて、朝鮮の同志たちと革命的な朝鮮の大衆によって創建された、それがのちに抗日連軍第1、2、3、4、6、7軍に発展した、第5軍にも少なからぬすぐれた朝鮮の同志たちがいた、抗日連軍各軍内の軍長、政治部主任から小隊長、指導員など、各級軍事・政治指導幹部はいずれも、朝鮮の同志たちであったと話していました。


 <周保中が王新林に送ったつぎの書簡内容は、彼が金日成同志をいかに尊敬し高く評価していたかをよく示している。
 「金日成はもっともりっぱな軍事幹部であり、…朝鮮の同志たちのうちでもっともすぐれた活動家である。彼は満州南部と鴨緑江東部、朝鮮北部地帯できわめて重要な活動をすることができる」(1941年7月1日 王新林宛の周保中の書簡)
 「金日成は南満第1路軍で現在、唯一の重要な幹部である。楊靖宇、魏拯民両同志が倒れた後、ひとり金日成が南満遊撃闘争の指導と、南満州全体と関連した問題にひきつづき責任をもっている」(1941年9月15日 王新林宛の周保中の書簡)>


 わたしが周保中の人間像で好ましく思ういま一つのことは、彼が革命闘争にたいする原則的立場と自国革命にたいする熱烈な擁護精神をつねにもっていたということです。周保中は、中国革命をソ連革命に服従させたり、ソ連革命の付属物にしようとする傾向にたいしては容認しませんでした。彼は、プロレタリア国際主義にもとづくソ連革命との連帯、ソ連擁護を主張しながらも、つねに中国革命の独自性と独自の発展を堅持しました。

 革命にたいする周保中のこのような原則的立場は、我々の主張と一致するものでした。革命家の価値は、革命にたいする自主的立場の強さに正比例するというのがわたしの主張です。自主的立場が確固としたものであればあるほど革命家の権威は高まり、自主性が透徹したものであればあるほど革命は百戦百勝するものです。

 国際連合軍の時期にも、周保中は変わることなくわたしを金司令と呼びました。しかし、解放後平壌に来ては、一度も金司令と呼びませんでした。彼は自分を以前のように心安く周司令と呼んでほしいと言いながらも、わたしにたいしては必ず首相同志と呼びました。それがどことなく耳慣れず、また、わたしたちの間に不要な隔たりをおくような気がして、以前のように金司令と呼んでほしいと言いましたが、彼は真顔になって、それはいけませんと言うのでした。

 わたしと周保中は、ときたま論争も交わしました。彼が一度主張すると、頑として動じないので譲歩を得るのは容易ではありませんでした。わたしもなかなか譲歩しませんでした。しかし、しまいには、両者の主張が調整、補足され、見解の一致に到達したものです。こうした過程を通じて、わたしたちの友情はさらに厚くなり、理解もいっそう深まりました。

 わたしと周保中は、ときたま私生活の話も交わしました。彼の主な話題は、家族と同志についてでした。彼には、周偉という幼い娘がいました。40歳になる年でもうけた子だっので、その可愛がりようは普通ではありませんでした。その子が何か一つでも可愛いしぐさをして見せると、周保中はわたしにそれをよく自慢しました。そんなときには、彼の顔に幸せな父親の笑みがこぼれたものです。

 周保中とその夫人、王一知は長い間、同じ部隊で生活し、北満州の密林のなかで結婚したのです。周保中が妻と娘の話をするときには、目がきらきらと輝いていました。彼は話が好きな人でした。あるときは、部隊の周辺に住むナーナイ族の独特な生活様式についての見解を話したり、ハバロフスク市内の下宿のロシア人夫婦について話したりしましたが、その観察力と描写力はなかなかのものでした。

 いつだったか、周保中は、雲南省の自分の故郷で盛んに催されるという闘鶏祭りについて話したこともあります。その地方の人たちは、陰暦2月8日ともなれば、晴れ着をまとい、自分の家の雄鶏の首に赤いリボンを結んでよその雄鶏と戦わせるそうです。鶏は、その地方の崇拝の対象となっていました。伝説によると、地元の祖先は、養鶏をして栄えたとのことです。鶏を頼りにして家計をもりたてるという話まで伝えられているとのことでした。周保中は、国難の打開にあたっては鶏など頼りにすることはできないが、敵の撃退では雄鶏のように勇敢でありたいと言うのでした。

 彼は寡黙でむっつりした印象を与えますが、人情味があり、義理がたい人でした。徳には徳で報い、情には情でこたえる人でした。それは、彼の後半生がよく物語っています。

 周保中は数年間、国際連合軍でかいがいしく立ち働きました。彼は、中国革命の発展のために献身しながらも、つねに国際主義的義務に忠実でした。周保中が自国のことのみを考え、国際革命の任務を無視したり、世界革命万歳を唱えるだけで自国の革命を傍観していたなら、時間をさいてまで回顧するだけの存在にはならなかったでしょう。

 わたしは、周保中が東北地方に小部隊をたえず派遣して、遊撃闘争の命脈をしっかりつないでいくようにするたびに、彼が中国人民の真の息子であることを感じ、連合軍内の各民族部隊の友好・団結とソ連擁護のために努力する姿を目のあたりにするたびに、彼が真の国際主義戦士であることを感じました。

 周保中は、国際連合軍の隊伍管理や給養活動も遜色なくおこないました。異民族部隊の集合体である国際連合軍の生活には、複雑な問題が少なくありませんでした。訓練綱領の作成と訓練指導、人事問題から会館の建設など生活上の問題にいたるまで、彼の関与しないことはまずありませんでした。ある日は逃亡者が出て彼を悩ませたことがあり、ある日は自動車事故のために汗を流して走り回ったこともあります。

 国際連合軍が組織された当初は、一部のソ連軍将校と息が合わなくて周保中も少々手を焼きました。しかし、ソ連軍事当局のきびしい要求によって、ソ連軍将校の生活気風は一変しました。

 周保中は、つねに口より実践的模範をもって隊員を導こうと努力しました。北キャンプでの落下傘訓練のときのことでした。彼は、訓練の初日から隊員たちとともに降下訓練に参加しました。その過程で、命を落としそうになったこともあります。飛行機から飛び降りたのに、落下傘が開かず、補助傘を開いてかろうじて死を免れたのです。そのとき、彼は肩を負傷しました。中国の戦友たちはわたしに、周保中が二度と降下訓練をしないように説得してほしいと頼んだことがありました。しかし、わたしは周保中にそういうことは言いませんでした。言ったところでとても歯が立たないことをよく知っていたからです。

 1951年の春、雲南省婦女連合会の主任を務めていた王一知が慰問団として平壌に来たとき、最高司令部にわたしを訪ねてきたことがあります。彼女は、わたしがきびしい戦争の重荷を担っていながらも元気でなによりだと言って涙ぐむのでした。そのとき、彼女は、「保中から頼まれたことづてです。絶対に危険な前線の道を歩まず、身辺の安全に最大の注意を払ってほしいということです」と言うのでした。わたしは周保中のそのことづてをありがたく思いました。それで、「帰国したら周司令にわたしの挨拶を伝えてください」と言いました。王一知は「これは保中の頼みであると同時に、わたしの頼みでもあるのです。わたしたち中国人はいま、首相同志の身辺をたいへん案じています」と言うのでした。彼女の話によれば、周保中は国際連合軍の時期にも、わたしが小部隊活動に出て予定の日に帰隊しないと、夜通し寝ないで部屋を出たり入ったりしながら心配したとのことです。それは国境と国籍を超越した友情でした。


 <金日成同志は抗日革命が勝利し、日本帝国主義の植民地支配が清算された新たな歴史的転換期に周保中と別れた。しかし、金日成同志と周保中の間には、その後も戦闘的友誼にみちた付き合いと往来がつづいた。金日成同志は、解放後、周保中との親交がいかにつづいたかについてつぎのように回顧している>


 解放後、わたしは数回、周保中に会いました。2回はわが国で、最後は北京で会いました。

 周保中がわが国にはじめて来たのは1946年の初春で、そのときは南陽で会いました。当時、彼は東北民主連軍副総司令員兼吉遼軍区司令員を務め、国民党反動派と戦っていました。

 蒋介石が反共に走り、国民党軍を総動員して解放地区を攻撃することにより、中国大陸は再び国内戦争の渦中に巻き込まれました。周保中は、東北地方の形勢がきわめて険悪であると言って、彼我の力関係と軍事・政治情勢を説明してくれました。

 日本帝国主義者の敗退後、満州はしばらくの間、政治的空白地帯となっていました。この地域を掌握するため、蒋介石国民党と中国共産党ははげしく争いました。国民党も共産党も、満州を中国全土掌握の主要な対決場とみなしたのです。

 国民党が、アメリカの積極的な支援のもとに艦船と航空機、それに陸上から数十万の軍隊を投入したため、組織されたばかりの東北地区の民主連軍は優勢な敵を相手に力に余る戦いをしなければなりませんでした。

 周保中がわたしに会おうとしたのは、こうした情勢に対処するための緊急支援を求めるためでした。中国共産党中央委員会で一時、組織部長を務め、党中央東北局の副書記に任命された陳雲を、毛沢東が平壌に派遣して、我々の支援を求めたのもそのころでした。

 わたしは、周保中に、中国の戦友たちが以後、東北で進める作戦と関連して提起される問題をすべて解決し、最大限の支援を与えることを約束しました。正直な話、当時わが国の状態は、他国に援助を与えるほどのゆとりはありませんでした。しかし、我々はそんなことなどまったく念頭に置きませんでした。朝鮮革命の見地からしても、東北が蒋介石の天下になるのは許しがたいことでした。

 当時、東北では、抗日遊撃隊出身のすぐれた軍事・政治幹部である姜健、朴洛権、崔光をはじめ、約25万人に達する朝鮮青年が東北解放戦闘に直接参加していました。

 王一知も東北解放作戦と関連した周保中の頼みをもって数回わが国を訪問しました。彼女が、最初に来たのは1946年の夏か秋だったと思います。当時、蕭華の率いる遼東軍区の兵力が、鞍山、海城にたいする攻撃をおこなっていました。それと時を同じくして鞍山、海城地区に駐屯していた国民党軍の一部隊が反乱を起こしました。

 この反乱の知らせを受けて驚愕した蒋介石は、反乱を中止しなければ掃滅すると脅しながら猛烈な攻撃を加えました。反乱部隊は、その攻撃に押されて朝中国境沿岸に後退しました。ところが、鴨緑江まで来てはもう後退の余地がなくなりました。

 周保中は反乱部隊を救う方策を協議するため、続けざまに代表をわが国に送りました。王一知もその代表の1人として羅南に来ました。その後、我々はその反乱部隊がわが国の領土を経て東部満州に入るルートを提供しました。

 わたしが平壌で王一知に会ったのは1947年初です。彼女は、周保中に代わって、東北解放作戦をいろいろと援助してくれて感謝するという挨拶からしました。つづいて彼女は、今度2万余名の負傷兵と家族、後方人員、2万余トンの戦略物資を安全地帯に疎開させるには、どうしてもまた朝鮮の領土を通過しなければならない実状なので、金将軍の助力を請うと言うのでした。

 わたしはその場で彼女の要望を受け入れ、直ちに必要な対策を立てるようはからいました。王一知は、全東北民衆が金将軍の恩を忘れないだろうと言って、重ねて謝意を表しました。

 その日、わたしは彼女に、我々が極東で別れるとき、林春秋が記念品として贈った腕時計はいまも持っているのかと聞きました。彼女は笑いながら、ソビエト人にやったと答えるのでした。朝中友好のシンボルとして、年取って腰が曲がるときまで手放さないと言っていたその時計をなぜソビエト人にやったのか理解できませんでした。その時計は、林春秋が愛用していたものでした。我々が訓練基地を去る日、周保中と王一知は、別れを惜しんで我々をなかなか放してくれませんでした。そのとき、林春秋が、自分の腕時計をはずして王一知に贈りました。最初、彼女はそれを受け取ろうとはしませんでした。当時としてはなかなかの貴重品であったからです。わたしが、取っておくのがいい、その時計が役立つときがあるだろうと言って、やっと彼女が受け取ったのです。長春が解放された後、彼女は放送局を掌握し放送を担当する一方、たびたび武器運搬にも参加しましたが、その腕時計が大いに役立ったそうです。王一知の話によれば、武器を運搬するときソ連軍のある自動車運送隊の援助を多く受けたとのことで、時計はそのソ連軍運送隊長に記念品としてやったそうです。彼女は、その時計は結局、中・朝・ソ3国人民の戦闘的友誼のシンボルとなったと言うのでした。

 そのとき、わたしは、王一知をすぐ東北に帰らせず、保養するようはからいました。彼女が健康を害していたからです。彼女は朝鮮にとどまっている間、牡丹峰をはじめ、平壌市内の各所を参観しました。

 王一知はその後も、戦略物資の運搬問題を解決するため平壌に来ました。王效明と彭施魯もそのころ平壌に来ていました。3人はそのとき、国際連合軍時代の戦友たちと感激的な対面をしました。

 周保中がその後、王一知をわたしのところに寄こしたのは、多分1947年の夏だったと思います。東北民主連軍は50日間の戦闘で8万余の敵兵を殺傷し、42の省、鎮を解放する戦果を上げましたが、前線の状態は依然として緊張していたときです。民主連軍側の将兵たちは、靴が不足して難儀していました。多くの将兵が、裸足で険しい道を行軍しているとのことでした。王一知がわたしを訪ねてきたのは、靴を解決するためでした。わたしは、すべての製靴工場が他の靴の生産を中止し、中国の戦友たちに送る靴を生産するよう緊急指令をくだしました。


 <東北解放作戦に関連した中国の文献資料によれば、チュチェ36(1947)年の最初の7か月間にわが国が東北民主連軍側のため21万トンの物資を輸送し、その翌年の1年間には30万900トンの物資を輸送したとされている。朝鮮を通過した人員は、チュチェ35(1946)年の後半期には18個部隊にのぼり、チュチェ36(1947)年の9か月間に朝鮮を経由して東北根拠地に入った人員は1万名以上にもなる。チュチェ37(1948)年に南陽橋頭を通過しておおよそ9000名が豆満江を渡り、新政治協商会議に参加するため中国の少なからぬ民主党派、無党派と華僑の代表が朝鮮を経由してハルビンに行った。公務で朝鮮を通過した中国共産党幹部の数は数えきれないほどだという>


 東北解放作戦が勝利のうちに終結した直後の1948年の秋、周保中は王一知と娘の周偉を連れて吉林省政府主席兼東北軍区副司令員の資格で再びわが国を訪問しました。そのときの訪問は、東北解放作戦を物心両面から援助した我々に謝意を表するためでした。周保中が貨車に積んできた多量のメリケン粉はほかならぬその感謝のしるしでした。

 わたしはそのとき、周保中夫妻を金剛山に送ることにし、金策を案内役として同行させました。金剛山の温泉休養所でしばらく保養して帰ってきた彼らは、紅葉の燃える金剛山の景色に感嘆したと言い、とても喜んでいました。平壌に帰ってきた周保中夫妻は、金策とともに万景台を訪問し、わたしの父母の墓にももうでました。その後は、わたしが金正淑と一緒に周保中夫妻を連れて安吉の墓参りをし、記念写真も撮りました。

 わたしは、いまでも周保中を回顧するときには、祖国解放戦争(朝鮮戦争)第2段階のときにあったことをよく思い起こします。我々が一時的後退をはじめたときのことです。

 ある日、見知らぬ2人の青年がわたしを訪ねてきて、周保中の手紙を差し出しました。彼らは、周保中が東北解放作戦を指揮するときから彼の副官と運転手を務めていた朝鮮青年の玄周栄と金吉竜でした。周保中が雲南省副省長に転任するときにも連れて行った人たちでしたが、人民軍が後退するという知らせを聞いては、早く朝鮮に行くようにと、背中を押して送り出したとのことでした。周保中は、手紙で、身はたとえ遠く離れているが、心はいつも朝鮮の塹壕の中にあるとし、しっかりした責任感の強い2人の青年をわたしに任せると書いていました。

 祖国が試練にさらされているとき、周保中のその手紙がどんなにわたしを力づけたかしれません。革命同志間の友誼とは、まさにこういうものです。歳月は流れても、間島と北満州、そして極東の訓練基地で、我々が白雪のように純潔な気持ちで分かち合った戦闘的友誼と友情は変わるはずがなかったのです。

 戦友愛とは、生命力の強い愛です。戦友愛が生命力の強い愛となるのは、それが硝煙のなかで磨かれた愛であり、同志に代わって炎のなかにも飛び込み、死ぬこともできる愛であるからです。

 人間が信義に忠実であるのは、なんと美しいことではありませんか。信義ゆえに人間は気高い存在となり、信義ゆえに人間生活は百花咲き乱れる花園のように美しくなるのです。

 わたしが周保中に最後に会ったのは、1954年12月に中国を訪問したときです。そのとき彼は、持病の心臓病をこじらせて頤和園の介寿堂で療養していました。周恩来総理が、彼を北京で治療するようはからったとのことです。

 周保中は、わたしに会うとあつく抱擁して目をうるませるのでした。鋼鉄のような男が、その日はしきりに涙を流すのでした。病床に臥した身であったためか、気力までひどく弱くなったようでした。それでも彼は、わたしの安否から問い、戦争3年の間にさぞかし苦労が多かっただろうとねぎらうのでした。

 周保中は、病床にあっても休まず著述活動をおこない、『東北抗日遊撃戦争と抗日連軍』という分厚い著書も残しました。頤和園での対面があってから10年後の1964年2月、周保中は長い病苦のすえに帰らぬ人となりました。彼の霊前に弔電を送った日は仕事が手につきませんでした。わたしは何もできず、執務室の中を行きつもどりつしながら周保中をしのびました。

 国際連合軍の時期にわたしは柴世栄とも再会しました。彼がわたしを抱きしめて、「老金」「老金」と呼び、かさかさする頬をわたしの頬にすりよせた姿がいまもありありと目に浮かびます。わたしより20歳ほど年上の柴世栄が目上の人を呼ぶときのように「老」までつけて呼ぶので、わたしは、この金日成を中老にしてしまうつもりかと言って笑いました。すると彼いわく、金司令はわたしを共産主義者に導いてくれた先輩なのに、年齢に何の関係があるのかと言うのでした。

 柴司令の本名は柴兆昇です。日本軍が満州を占領する前は、和竜県の某地で警察署長を務めたといいます。9.18事変が起きると、彼は警官からなる小規模の武装隊を組織して反満抗日の闘争に立ち上がりました。

 わたしが柴世栄と知り合ったのは、彼が汪清地方で救国軍の一部隊を指揮していた1933年でした。呉義成部隊との合作を実現してから柴世栄を訪ねていったのですが、会談は成功しませんでした。しかしその後、柴世栄は連共の道に立ち、のちには共産主義者となって、わたしとよしみを結びました。柴世栄とは、東寧県城戦闘も羅子溝戦闘もともに戦いました。

 その後、北満州に活動舞台を移した柴世栄は、東北抗日連軍第5軍軍長にまでなりました。第2次北満州遠征のとき、我々は彼の部隊との連合作戦をたびたび展開しました。そのとき彼は、中線指揮部の指揮を取りました。我々は額穆と寧安一帯で連合作戦を展開したのです。

 柴世栄は、わたしを革命の先輩として敬い、わたしの前ではいつも腰を低くしていました。そのたびに、わたしは彼の気高いひととなりを感じました。国際連合軍が編制されてから、わたしと柴世栄は第1支隊と第4支隊をそれぞれ指揮しました。

 いまは、柴世栄も故人となりました。彼が物故したのがどの年だったか覚えていません。極東の訓練基地で彼と一緒に撮った写真を見るたびに感慨無量になります。それは、共産主義思想が、1人の人間をいかに改造したかを示す生き生きとした絵巻です。

 柴世栄の未亡人、胡振一が息子とともに平壌を訪問したことがあります。彼女は、東北抗日連軍第5軍で戦い、訓練基地に来ていました。白髪まじりの彼女が、息子とともに錦繍山議事堂のホールに入ってきたとき、わたしはその白髪越しに柴世栄の面影を思い描いたものです。

 国際連合軍当時の中国の戦友のなかには、東北抗日連軍第3路軍の政治委員であった馮仲雲もいます。彼は、青華大学党支部の書記を務め、一時はハルビンで教鞭をとったこともあります。革命の道に身を投じてからは、北満省党委と傘下の各県で党活動に従事しました。彼は、獄中生活も2度経験しています。党活動の過程で過ちを犯して処罰を受けたこともあり、銃傷を負ったことも2度あります。

 馮仲雲は、東北抗日遊撃闘争とソ連との軍事的・政治的連帯の問題を解決するため、1939年の秋から1940年2月にかけてソ連で活動しました。1940年代初に開かれた北満省党委と吉東省党委の合同会議、その後のソ連当局との会議の開催においても、彼の努力が大いに貢献しました。国際連合軍の時期には、政治部情報課長を務めるかたわら、指揮官養成のための政治課目教員も務めました。

 馮仲雲は極東の訓練基地にいたとき、久しい前に別れた妻子の消息が知れず、たいへん気をもんでいました。彼が妻子のことで寝つかれなかったり、ふさぎこんだりすると、戦友たちは彼に、便りがないのをみると十中八九この世の人とは思えないから、いまからでも新所帯を築いて落ち着いたほうがいいと勧めました。しかし彼は、そう言われるたびに、一生を男やもめで通すことがあっても他の女はもらわないときっぱり断るのでした。再会できる望みはほとんどありませんでしたが、ひとたび、めとった妻を変わることなく愛し、待ちつづけるところにも、革命家、人間としての彼の高潔で剛直な風格がうかがわれました。

 夜のひまな時間に散策しながら、恋人を慕う中国の歌を口ずさんでいた馮仲雲の姿がいまも思い出されます。解放後、彼はあれほど恋しがっていた妻に会い、仲睦まじく暮らしたとのことです。彼は周保中のように、深い尊敬と感謝の念を抱いて朝鮮人民と朝鮮人民革命軍の英雄的闘争をつねに称賛しました。


 <馮仲雲は、松江省人民政府主席を務めていたとき『東北抗日連軍14年の苦闘簡史』という本を著した。その内容の一部を引用する。
 「抗連第2軍の前身は、東満遊撃隊である。…東満抗日遊撃隊は、もと延吉、汪清、和竜、琿春の4つの反日遊撃大隊に分かれていた。間島地区の住民は、朝鮮人が大多数を占めていた。そのため、東満遊撃隊では、朝鮮人が主要根幹となっていた。
 …著名な朝鮮の民族的英雄、金日成将軍の統率のもとに安図、臨江、長白、鴨緑江に進出して…兄弟軍の抗連第1軍の楊靖宇司令と会合した。
 …また、金日成将軍の統率のもとに朝鮮祖国光復軍を組織した。数回、鴨緑江を渡河して朝鮮本土の北部地域に深く進出し、活動を開始した。ここで、日本帝国主義侵略者と数回にわたって血戦を交え、また秘密裏に朝鮮人民の祖国光復会の地下組織を結成した。
 …解放後、朝鮮国内の老若男女がこぞって金日成将軍を歓迎し、民族的英雄金日成将軍万歳を熱烈に唱えた」>


 松江省人民政府の主席であった馮仲雲はその後、北京図書館館長、水利・電力部副部長を歴任しました。彼は水利・電力部副部長を務めているとき、朝中両国間の発電所共同利用の問題でわが国をたびたび訪問しました。

 1958年9月に馮仲雲が、中国水利・電力部代表団の団長としてわが国を訪問したとき、わたしは水豊発電所で彼に会いました。彼と一緒に発電所の設備を見て回り、ダムの上から水豊湖の美しい景色を眺めながら、鴨緑江に新しい発電所を共同で建設し、水力発電分野で両国間の協力をいっそう強化する問題について話し合ったことが思い出されます。彼はその後、文化大革命のとき、右派のレッテルを貼られて苦労したあげく、1968年の春に獄死したといいます。

 わたしの誕生80周年のとき、馮仲雲の夫人薛文が、息子と娘を連れてわが国を訪問しました。極東の訓練基地にいたとき、馮仲雲があれほど恋しがっていた夫人でした。抗日戦争当時、満州省党委の活動家であった彼女は、小柄で知的な容姿の女性でした。

 薛文の話によれば、馮仲雲は獄死してからほぼ10年後の1977年の末に名誉回復になり、北京郊外の八宝山烈士陵に安置されたとのことです。馮仲雲の遺族一行が涙を流しながらわたしの懐に抱かれるとき、わたしも過ぎ去った昔日を思い起こし、目頭が熱くなりました。

 馮仲雲の遺族は、その後も数回にわたってわが国を訪問しました。いつだったか、馮仲雲の長女、馮憶羅が平壌に滞在中、還暦を迎えました。そのとき、金正日同志が彼女に還暦祝いの膳を贈りました。わたしと馮仲雲の間に結ばれた戦闘的友情と親交はわたしたちの次代によって脈々とつづいているのです。

 国際連合軍の時期に政治幹部として活動した張寿籛もわたしが親しく付き合った中国の戦友の1人です。彼は北満州にいるとき、第3路軍の軍長として活動しました。彼を李兆麟とも呼びました。彼は、馮仲雲とも莫逆の間柄でしたが、金策とも気が置けない間柄でした。

 彼の風格で特徴的なのは、謙虚さと献身性でした。そのためか、彼とは初対面でもう親友のようになってしまいました。喜ばしいことがあれば同志を引き立て、骨のおれる仕事が提起されればわが身を投げ出す彼に、わたしはすっかりほれ込んでしまいました。

 コミンテルンが保管していた遊撃部隊の指揮メンバーにたいする評定書では、張寿籛をすぐれた組織者、勇敢で精力的で、創意に富んだ遊撃隊の指導者と評価しています。抗日戦争当時に彼がつくった『露営の歌』は、北満遊撃隊員のあいだで盛んにうたわれたそうです。

 抗日戦争の勝利後、張寿籛は、中国共産党松江地区委員会書記、松江省副省長などを歴任して精力的に活動中、ハルビンで国民党特務に暗殺されました。

 いまは、周保中も、張寿籛も、馮仲雲もみな不帰の客となりました。

 1992年4月、国際連合軍時代の戦友たちが訪ねてきてわたしの誕生80周年を祝ってくれました。陳雷とその夫人李敏、そして、李在徳… 彼らはいずれも賓客でした。

 陳雷はもともと、東北抗日連軍第6軍の軍部宣伝課長、第3連隊の政治主任を務めた人です。国際連合軍の時期には小隊長、解放後は中国共産党黒竜江省委書記、黒竜江省省長などを務めました。彼が黒竜江省友好代表団を率いてわが国を訪問したのは、黒竜江省党顧問委員会の主任を務めていたときです。

 陳雷は80周年の誕生日を迎えるわたしに、「千秋歳祝金日成同志 八秋大寿」と書いた掛け軸を贈ってくれました。その文で彼は、わたしが日本帝国主義およびアメリカ帝国主義との苦難にみちた闘争を勝利に導き、朝鮮に人民の楽園を建設したとし、高麗国とともに千万年長寿することを祈ると書きました。彼は書道に造詣の深い人でした。

 李敏は、抗日戦争の時期にうたわれた歌謡百曲を収録した革命歌謡集を贈ってくれました。国際連合軍の時期、彼女はアナウンサーでした。

 豆満江と鴨緑江を一つ隔てた近しい隣邦として暮らしてきた朝中両国の人民と革命家は、抗日大戦のその日から延々半世紀以上も同じ塹壕のなかで血と肉と骨を分かち合い、ともに戦ってきました。

 この貴い闘争伝統と兄弟の友誼は、世代と世代をついで今後もひきつづき美しい花園として咲き誇ることでしょう。


 <チュチェ83(1994)年7月、金日成同志急逝の報道が電波に乗って全世界に伝えられた。この晴天霹靂の訃報に接し、人びとは天が崩れ落ちるような大きな衝撃を受けた。全世界が涙にぬれ、その逝去を悲しんだ。
 陳雷と李敏は、金日成同志と永訣するため車でハルビンを出発した。瀋陽駐在の総領事館から陳雷夫妻が陸路を通じてわが国に向かっているという報告を受けた金正日同志は、鴨緑江橋頭で彼らを迎え平壌に案内する対策を講じた。平安北道党委員会が準備した車が鴨緑江を渡ってきた陳雷夫妻を乗せて新安州まで来たとき、そこには金正日同志が差し向けた車が待機していた。
 ハルビンを発って1000キロの道のりを昼夜2日間も走りながら陳雷夫妻を眠れなくしたのは、抗日戦争のその日から彼らの脳裏に焼き付けられた金日成同志の慈愛深い面影であった。彼らが金日成同志の遺体の前に到着したとき、時計の針は零時を指していた。長い旅路でしわになった服装を整えるひまもなく、金日成同志のそばに駆け寄った彼らは、敬愛する主席同志、あなたの戦友陳雷と李敏が来ましたと言って熱い涙をこぼした。
 金正日同志は、追悼会の幹部壇で陳雷夫妻に会った。
 周保中の娘、周偉は、金日成同志に再び会えなかったことを一生の心残りとし残念がっていた。チュチェ84(1995)年10月に、彼女は金正日同志に手紙とともに自分の手で編集した写真帳を贈った。その写真帳には、周保中の生涯を示す多くの写真資料とともに、金日成同志と抗日女性英雄金正淑同志の写真も数枚あった。周偉が朝鮮訪問の願望をかなえたのは、チュチェ85(1996)年の夏であった。幼年時代、極東の訓練基地のころから胸にとどめてきた金日成同志への追憶を抱いて平壌に駆けつけてきた周偉は、旅装を解くやいなや錦繍山記念宮殿を訪ねた。
 「金日成主席! …周偉が参りました。いま1度目を開けてこの周偉を見て下さい。主席…」
 彼女は、こうつぶやいてはとめどなく涙を流した。周偉の心には、父母の後をついで朝中親善を輝かす1輪の花と咲くべく誓いが燃えていた>



 


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