金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 国際連合軍を編成して


 <金日成同志は晩年に、朝鮮革命史でそれほど多く論議されなかった1940年代前半期のソ連領内での活動を感慨深く述懐している。この回顧は、国際連合軍の編成とその活動の全貌を明らかにするもので、その歴史的意義は非常に大きいものである>


 1940年代にいたり抗日革命闘争は、祖国解放偉業の遂行において決定的な局面を開く新たな発展段階に入りました。この時期の闘争における重要な内容の一つは、我々が1942年の夏からソ連領内で中国、ソ連の戦友たちとともに国際連合軍を編成し、日本帝国主義を最終的に撃滅する政治的・軍事的準備を全面的に強化したことです。

 朝鮮人民革命軍が、ソ連、中国の武装力とともに国際連合軍を編成して共同闘争を展開したことは、朝鮮革命発展の新たな段階を意味するものと評価することができます。内容からすれば、朝鮮革命は、日本帝国主義を駆逐して祖国を解放するのを当面課題としました。国際連合軍の編成により、我々は、祖国解放の偉業とともに、日本軍国主義そのものを最終的に壊滅させる世界史的課題をもあわせて遂行することになったのです。

 国際連合軍の編成によって、我々の武装闘争には大きな変化が生じました。国際連合軍の編成を機に、我々は中国人民との共同闘争の段階から、朝・中・ソ3国武装力の連合を内容とする幅広い共同闘争の段階に、また、世界の反帝・反ファシズム闘争の奔流に合流する新たな共同戦線の段階に移行したといえます。

 1940年代の前半期は、朝鮮人民革命軍が決定的な最後の攻撃作戦のために有利な地帯で隊伍を整備し、中核を保持、育成して、祖国解放の大事を主動的に迎える最終的準備をととのえていた時期といえます。

 1942年7月に我々は、ソ連、中国の戦友たちとともに国際連合軍を編成し、朝鮮革命の主体的力量を全面的に強化する一方、国際反帝勢力との共同闘争を通じて日本帝国主義の撃滅と第2次世界大戦の勝利に寄与しました。ソ連の外交・軍事関係文書に、我々が1942年の夏からソ連入りし、日本帝国主義を撃滅する共同軍事作戦を準備したと記述されているのは、そのためです。


 <金日成同志は、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍、ソ連極東軍の一部の部隊からなる国際連合軍編成の歴史的必然性とその発展過程についてつぎのように回顧している>


 我々が極東に臨時基地を定め、東北地方と国内で積極的な小部隊活動を展開したのは、国際情勢に大きな変化が起きていた時期です。

 1941年4月、ソ連と日本の間には中立条約が締結されました。日ソ間には、日露戦争当時から歴史的に引きつがれてきた根深い矛盾が存在しました。それが、日ソ間の新たな戦争を誘発する可能性は十分にありました。しかし、両国は、即座の衝突を避ける方向で政治・軍事外交を推進していました。

 ドイツと日本は、ソ連が神経をとがらせて警戒した、世界第一の好戦国でした。ソ連は、反共突撃隊として登場したヒトラー・ドイツの侵攻を未然に防ごうと各面から努力する一方、ドイツとの戦争を避けるか、あるいは最小限度でも遅延させる目的でドイツと不可侵条約を締結しました。そうしてから、日本との和平を追求し、彼らの侵攻を防止しようとしました。日ソ中立条約の締結は、こうした脈絡のなかでもたらされた一時的な産物でした。

 この条約の目的は、日ソ双方が互いに相手を牽制しようとするところにありました。条約が締結されたからといって、日ソ間に戦争が起こらないという保証はありませんでした。

 1941年6月には、独ソ戦争が勃発しました。わたしは小部隊のメンバー全員を集めて、こう強調しました。

 ―― 不可侵を約束したドイツが、ソ連を侵攻したからといって驚くことはない。ヒトラーらしいやり方だ。前を向いては手を握り、向き直っては不意討ちを食らわすのがほかならぬ帝国主義者の本性なのだ。しかし、ヒトラーは見込み違いをしている。ドイツのソ連侵攻は、ヒトラーの墓穴を掘ることになるだろう。大勢がどう変わろうと、我々は脇目をふらず、既定の方針に従って最後の決戦の準備を着実に進めるべきだ。

 ファシズム・ドイツの先制攻撃によって、ソ連の軍事力は戦争初期に大きな損失をこうむり、赤軍は不利な戦況を逆転させるいとまもなく、一時的な後退を余儀なくされました。ドイツ軍は、キエフ、ハリコフ、ミンスクをつぎつぎと陥落させ、モスクワとレニングラードに迫りました。

 その後、わたしは、独ソ戦争の勃発による新たな情勢に対処する我々の活動方針を検討したのち、ハバロフスクに行って、ソ連、中国の軍事幹部とともに、以後3国の武装力の協力をさらに強化する問題を協議しました。

 1941年12月、日本軍は、ハワイ真珠湾の米軍基地を不意に攻撃して太平洋戦争を引き起こしました。日米間の開戦は、我々をすごく興奮させました。開戦一方の日本が、わが国を占拠している敵国であったからです。

 日本が日中戦争を終結していない状態でいま一つの戦争を引き起こしたのは、無謀な賭でした。外国から、石油、ゴム、鉄といった戦略物資を取り寄せなければ生きていけない島国の日本が、何を見込んでそんな冒険に乗り出したのか理解できないことでした。
日本がアメリカとの戦争で国力を蕩尽することは、火を見るよりも明らかでした。

 ともあれ、日本が太平洋戦争という大きな落とし穴にみずから飛び込んだことは、我々朝鮮の革命家に最後の決戦の時期を早める好機をもたらしたことになります。

 我々は、やがて日ソ間の戦争が起きることも予測しました。それが現実となれば、日本は、中国、アメリカ、ソ連を相手にする3つの方面での大きな戦争を同時にすることになります。そういう場合、我々は満州にある関東軍や朝鮮駐屯軍を相手に、より有利な状況で祖国解放のための最後の作戦をくりひろげることができるのでした。

 どうすれば一日でも早く日本帝国主義を打倒し、祖国の解放を早めることができるか、我々の関心はこの一点にしぼられました。もちろん、最後の決着をつけるには、我々自身の主体的力量を強化しなければなりませんでした。腕をこまぬいて、他の国が独立をもたらしてくれるのを待つわけにはいかないではありませんか。友邦の支援も自分自身の力が強くてこそ、効を奏するのであって、そうでなければ用をなしません。

 我々は、国際反帝・反ファシズム勢力との連帯をはかるためにも相応の努力を傾けました。当時、ソ連の極東は、朝・ソ・中3国の抗日勢力の重要な集結地となっていました。ソ中両国武装力との関係をどのような形でいかにもつかということは、朝鮮人民革命軍の基本集団が、東北抗日連軍の戦友たちとともに極東の臨時基地から出陣して戦っている状況のもとで重要な問題とならざるをえませんでした。ソ中両国武装力との協同を円滑にすることは、朝鮮革命の主体を強化し、それを拡大するための国際的環境をつくるうえでも必ず重視すべき戦略的な問題でした。

 ところが、我々とソ中両国の武装力との協同をどのような形で実現するかは、それぞれの国の民族的利益と3国革命の共通の利益に即して我々自身が決定しなければなりませんでした。

 我々はすでに、朝鮮人民革命軍の独自性は独自性で維持しながら、中国の武装部隊とともに東北抗日連軍を組織し、共同闘争を展開してきた経験をもっていました。朝中人民の共通の敵である日本帝国主義に抗して展開した朝中武装力の共同闘争は、両国革命の利益はいうまでもなく、抗日革命の客観的要求にも完全に合致するものでした。朝中両国の共産主義者の共同闘争は、双務的な軍事関係における一つの模範でした。

 朝中両国の武装力が極東にいま一つの基地をもっており、また、ソ連極東軍が我々の側面に存在する状況のもとで、我々は共同抗日の幅と深さをさらに増幅し、それを高い段階に発展させる必要がありました。これは、朝鮮革命のために必要であるばかりでなく、中国やソ連の対日戦略にも合致するものでした。

 わたしは、朝・中・ソ3国武装力の理想的な連合形態を国際連合軍とみなしました。国際連合軍の編成にかんするわたしの構想については、金策、崔庸健、安吉、姜健などの戦友たちも支持しました。彼らはこぞって、その構想の実現が早ければ早いほど有益だとし、ソ連、中国の戦友たちとの協議をわたしに委任しました。

 ひところ、少なからぬ中国の同志は、満州の抗日武装部隊とソ連極東軍の一部の力量で新たな軍体制を創設して共同活動を展開するというコミンテルンとソ連軍事当局の発起を時期尚早だとして否定的な態度をとったことがあります。それは、ソ連側の一部の当局者が一方的な要求を提起したからでした。しかしその後、わたしが国際連合軍の編成にかんする構想を練り、それを討論にかけたとき、彼らは従来の立場から脱皮して、3国武装力の連合が機の熟した問題であることを一致して認めました。ソ連軍事当局もその構想を支持したのです。

 わたしが国際連合軍の編成問題についてより具体的に協議したのは、1942年の春、南キャンプでソ連の高位軍事関係者に会ったときです。

 その日、コミンテルンとソ連軍事当局を代表して我々と連係を保っていたソ連軍将官のソルキンは、モスクワ防衛戦の英雄について、またモスクワ防衛と反撃戦でぬきんでた実力を示したシベリア師団の戦功について生々しく紹介しました。彼は、ソ連極東軍の来歴についても誇らしげに語りました。極東軍とモスクワ防衛戦に参加したシベリア師団にたいする彼の自負は大変なものでした。

 わたしが国際連合軍編成にかんする構想を話すと、ソルキンは、非常にりっぱな考えだ、現情勢からして国際連合軍を編成するのはもっとも適切な対案だといって、わたしの構想に同感しました。彼いわく、率直な話、自分もいずれはそんな対策が求められるのではないかと考えた、しかし、それが果たして朝鮮や中国の同志たちに理解され支持されるだろうか、それとは逆に大国主義的要求だと誤解されはしまいかと憂慮し、ためらっていた、と言うのでした。

 わたしは、彼の言葉にどことなくこだわりがあるのを感じました。それで彼に、自力独立は我々が一貫して堅持している原則である、しかし、それは国際的協力や国際革命勢力との連合を排除するものではない、自国の革命にも、世界革命にも有益な真の意味での国際主義に反対する理由はない、日本帝国主義のような強敵を撃ち破るには力を合わせなければならない、ソ連のような大国も外国の援助が必要であれば受けるべきだ、国際的に外国の援助を受けたり、他国の革命勢力と連合して戦うのは事大主義ではない、自分自身の力を信じようとせず、他国に頼ろうとばかりしたり、自国の革命は投げだして、他国の革命を援助するのが真の国際主義だと考える思想的傾向が事大主義なのだと思うと話しました。

 ソルキンは、わたしとの対談の内容をソ連軍事当局とコミンテルンに伝達し、国際連合軍の編成にかんする問題を急を要する懸案として浮上させました。

 独ソ戦争が終結するまで日米間の戦争が終わらなければどのような形勢が生じるのか。我々の共通の観測は、ソ連が対日戦争に参加するだろうということでした。ソ連は日本と中立条約を締結していましたが、万が一の場合を考えて対日参戦準備に万全を期さなければなりませんでした。国際抗日勢力との連合の実現は、対日戦争の準備においてソ連が追求していた重要な項目の一つでした。

 コミンテルンやソ連自体の政治的・軍事的要求と我々の戦略的構想が一致することによって、国際連合軍編成の問題は比較的順調に進捗しました。1942年7月中旬、我々は、ソ連、中国の軍事幹部とともに朝・中・ソ武装力の連合問題を最終的に討議し、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の独自性を維持するという前提のもとに、国際連合軍を創設することを決定しました。

 1942年7月22日、わたしは、周保中、張寿籛とともにソ連極東軍司令官アパナセンコ大将に会いました。丸顔で目つきが鋭く、がっちりした体軀の彼は、50代の老練な将官でした。彼はわたしの手を取り、朝鮮の若いパルチザン隊長に会えてうれしいと言いました。わたしたちは司令官の執務室で、参謀長のニチェフ中将とも挨拶を交わしました。

 アパナセンコは、ソ連、中国、朝鮮の革命武力が連合して国際連合軍を編成することは、朝鮮と中国の革命闘争のためだけでなく、ソ連の安全と対日作戦のためにもきわめて重要な意義をもつと言って、国際連合軍がその歴史的使命をりっぱに遂行するであろうとの確信を表明しました。

 彼は、国際連合軍が編成されれば、朝鮮と中国の民族革命戦争に必要な軍事幹部を大々的に養成するうえで重要な役割を果たし、連合軍の朝中部隊は、朝鮮と満州を解放するうえで決定的な勢力になるだろうと述べました。その日、アパナセンコは、訓練の強度と質を高めて、いつでも戦争に対処できる万全の準備をととのえるべきだと重ねて強調しました。

 アパナセンコは、わたしたちを大きな作戦図がかかっている部屋に案内しました。彼はわたしたちに、これまでの朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の遊撃闘争の実態と今後の作戦構想について知りたいと言って、満州と朝鮮の軍事・政治情勢についての説明を求めました。

 周保中が、作戦図の前に出て、東北抗日連軍第2路軍の活動状況を概括し、以後の東北解放作戦に関連する見解を述べました。

 わたしは、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍第1路軍の活動状況と現状、そして、日本帝国主義を撃滅し、朝鮮を解放するうえで必ず参考にすべき軍事的・政治的諸問題に重点をおいて説明しました。

 アパナセンコは、朝鮮における日本軍の兵力配置、朝鮮自体の反日勢力の実態とその発展展望、ソ連との連合作戦の実際的な可能性などについて詳細な説明を求めました。わたしは、彼が説明を求めた問題について具体的に通報しました。第3路軍の実態については張寿籛が説明しました。アパナセンコは、北満州一帯の軍事情勢については比較的よく知っていました。

 アパナセンコとの協議によって、国際連合軍にたいする各種兵器と軍事装備、被服と食糧など給養物資の供給はソ連側が祖当することになりました。そして、国際連合軍を形式上、ソ連極東軍独立88旅団と称し、部隊の対外番号は8461歩兵特別旅団とすることにしました。国際連合軍は、その存在と活動の秘密を保障し、擬装を完璧にするため縮小して編成する原則で旅団規模にすることになりました。

 わたしは、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍第1路軍の力量で編成された第1支隊の指揮を受け持ちました。第1支隊は、その内容からして国際連合軍の朝鮮支隊でした。当時、敵の諜報・破壊活動から朝鮮人民革命軍軍事・政治幹部の身辺の保護をはかって、軍事階級も実際より低めて象徴的なものにしました。国際連合軍の編成と時を同じくして、我々はすべて北キャンプに集結しました。

 国際連合軍の編成によって、極東の軍事・政治情勢は、国際革命の側に有利に変わりました。まず、ソ連が少なからず利を得るようになりました。ソ連は、日本の侵略策動に主動的に対応できる軍事的・政治的力量を確保し、中国の東北地方と朝鮮における軍事作戦の遂行にもっぱら従事する新たな特殊部隊をもつことになりました。

 国際連合軍の存在は、朝鮮革命と中国革命にも有利な条件と環境をもたらしました。朝鮮人民革命軍は、ソ連極東軍と活動をともにすることによって、正規武力の枠内で祖国解放作戦に必要なもっとも現代的な作戦遂行能力と装備をそなえるようになりました。また、我々はソ連領内で、大事が到来するときまで祖国解放の任務を自力で遂行できる十分な軍事的・政治的準備と実力をそなえることができるようになりました。

 国際連合軍が編成された後、わたしは連合軍本部で再びアパナセンコに会いました。彼はそのとき、軍事委員をはじめ、参謀部と政治部、兵站部のメンバーを連れて北キャンプに来ました。

 国際連合軍はその日、分列行進をしました。分列行進隊伍の最先頭には朝鮮支隊が立ちました。朝鮮支隊の行進は、堂々たるものでした。その日の行事は、国際連合軍の誕生を祝う一種の記念儀式ともいえました。

 わたしは、アパナセンコとともに昼食会にも参加しました。そのときアパナセンコは、自分の経歴を紹介しました。彼は、10月革命直後にソビエト政権を守るため白衛軍と戦い、ドイツ占領軍とも戦った老闘士でした。国内戦争の時期には、騎兵師団を指揮し、中央アジア軍管区司令官を務め、極東軍司令官に転任してきたとのことでした。

 ソ連当局は、早くから極東軍を非常に重視してきました。歴代の極東軍司令官は、いずれも名立たる実力者でした。ソ連の歴代国防相と高位軍事幹部のなかには極東軍出身が多くいました。

 アパナセンコは、1943年初に独ソ戦争のもっとも重要な戦線の一つであったボロネジ戦線副司令官に転任し、その年の夏、致命傷を負って戦死しました。この消息を聞き、国際連合軍の全将兵は一堂に会し、朝中共産主義者を支持し援助してくれた彼を追悼しました。

 共産主義者の戦友愛は、国籍を選びません。その当時、我々は、ソ連人民の国難を自国の国難のように思いました。ソ連軍が前線で悪戦苦闘しているとき、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の多数の将兵が西部戦線への出動を志願していたことが思い出されます。コミンテルンとソ連当局は、連合軍将兵の参戦要望があるたびに、あなたたちには自分の祖国を解放すべき重要な歴史的課題があると言って、それを受け入れませんでした。

 我々は、社会主義の砦であり、唯一の堡塁であったソ連をそのように熱烈に擁護し、貴く思ったのです。ソ連が滅べば、社会主義も滅び、世界平和も守り通せないというのが、当時、共産主義者の共通観念でした。

 少なからぬ国の人名辞典には、わたしが朝鮮人からなる大部隊を率いてスターリングラード激戦に参加し、そこで軍功を立てて赤旗勲章を授与されたと記述されています。他にも、わたしがベルリン攻撃作戦の第1線部隊にも参加したと記している文章があります。わたしはソ連政府から赤旗勲章は授与されましたが、スターリングラード激戦やベルリン攻撃作戦に参加したことはありません。辞典の編者たちが、どこからそんな資料を入手したのかわかりませんが、いずれにしても、それらの文章が参戦熱にわき立っていた訓練基地の雰囲気の一端を反映していることだけは事実です。

 国際連合軍の存在は、朝・ソ・中3国武装力の連合を恐れていた日本帝国主義者を恐怖におののかせました。反面、朝鮮人民には確固たる信念を与えました。


 <金日成同志がソ連領内に訓練基地を定め、対日最終作戦を準備した事実と関連する敵側の資料は多い。つぎにその一部を引用する。
「金日成ノ動静ニ関スル件
 入蘇中ノ金日成ハ…昨夏蘇聯哈府ヨリ…延安ニ赴キ同地中共要人毛沢東、賀竜、康生等ト会見シ、日蘇開戦前後ニ於ケル中共党軍ト抗聯軍トノ合作行動、其他抗聯匪ノ今後ニ於ケル活動等ニ付種々協議連絡ヲ遂ゲ更ニ延安付近ニ於ケル鮮人共産党員共会見シ、種々意見交換ヲ為シタルガ、金日成ハ昨年末頃、同地ヨリ飛行機ニテ帰蘇シ、目下、蘇聯哈府付近ニ保リテ…対満鮮諜報及思想工作ニ努メツツアルガ、尚金日成ハ哈府付近野営学校ニ鮮満人共匪、其他、入蘇セル鮮満人不逞分子、被拉致者等約300名ヲ収容シ哈府赤軍…指導援助ノ下ニ日蘇開戦前後ニ於テ一斉ニ入満、日本軍ノ後方攪乱ノ任務ニ当ラシムベク訓練教育中ナリト」〔南陽警察署長が咸鏡北道警察部長に送った警察資料 昭和19年(1944年)2月21日〕
 「金日成ハ今延安ニアッテ熱河省ニ兵ヲ進メテヰルラシイ。又、ニコライエフスキイ(沿海州)ニハ純然タル朝鮮人ノミカラ編成サレテヰル4個師団ノ軍隊ガ居ルガ、日蘇開戦ノ暁ニハ4個師団ノ軍隊ハ決死隊トシテ北鮮地方ニ上陸スルカ或ヒハ落下傘ニ依ッテ朝鮮内ニ降下スルデアラウ」〔『城大出身ヲ中心トスル大東亜戦争後方攪乱並武装蜂起不穏策動事件綴(4)』高原警察署 昭和20年(1945年)〕
 「シベリヤを横断して帰った人が演説した中で、シベリヤの或る所に周囲1里もある陣地があって、其処に朝鮮の旗が立って居り、朝鮮人の兵隊が守備して居るのを見たと言った相だ」〔『特高月報』内務省警保局 昭和19年(1944年)2月分79 ぺージ〕>


 国際連合軍編成の消息は、中国の東北地方で戦っていた反日愛国勢力にも好ましい影響を与えました。満州の東北抗日連軍の隊員たちが三三五五、河を渡り、連合軍に合流してきたことがたびたびありました。満州国軍の兵士たちが寝返ってくることもありました。

 連合軍が組織される以前か以後だったか、饒河県東安鎮にいた満州国軍連隊の1個中隊の兵士たちが指揮官と日本軍将校を射殺し、数多くの小銃と機関銃、擲弾筒などを携帯し、木船でウスリー川を渡ってきたことがあります。そのとき、彼らを熱烈に歓迎し部隊に編入したものです。

 国際連合軍が編成された後、我々は戦闘・政治訓練を強化する一方、対日作戦準備に拍車をかけました。当時、我々に提起されたもっとも重要な課題は、朝鮮人民革命軍の隊伍を政治的、軍事的にいっそううちかためることでした。

 古代、中世、現代いずれの戦争においても、軍事作戦の根本原理は同じであるといえます。肝心なのは、戦争手段の発展にともない、それをいかに駆使し、異なる軍種、兵種間の協同と提携作戦をいかに展開するかということです。

 我々は、現代戦の戦法を把握するため真剣に努力してきました。この努力は、国際連合軍が編成された後、倍加されました。朝鮮人民革命軍隊員の現代戦戦法の駆使能力は、訓練基地での訓練と学習過程を通じて相当な水準に向上しました。朝鮮人民革命軍の隊員たちは、白頭の広野で練磨してきた遊撃戦法をさらに完成する一方、正規軍の要求に合う現代戦の戦法を修得することにより、朝鮮革命を担った主力部隊としての政治的・軍事的面貌をりっぱにそなえていきました。

 ソ連極東軍も国際連合軍の戦闘能力の迅速な向上に大きな努力を傾けました。1942年11月中旬、アパナセンコはソ連極東軍南部駐屯軍の旅団総合軍事演習を催し、そこに連合軍の主要指揮官を招きました。

 その日、我々は、ハバロフスクから装甲列車でその旅団に行きました。翌日、そこでは旅団の冬季総合演習がおこなわれました。その日の演習には4つの歩兵大隊と戦車、砲・迫撃砲、通信、対戦車砲大隊をはじめ、多くの兵員が参加しました。はじめて見る大規模の軍事演習だったので、我々も大きな好奇心をもって興味深く参観しました。旅団の戦闘任務は、高地の敵を攻撃、掃滅し、その高地を占領することでしたが、正午に開始された攻撃が午後4時に終わりました。

 我々はその後、ハバロフスク郊外のアムール川沿岸に駐屯していたいま一つの旅団の軍事演習も参観しました。その演習での旅団の任務は、ベリジョプカ村を中心に部隊を集結して戦闘準備を完了することでした。その演習も我々に深い印象を与えました。

 我々は、ハバロフスクで極東軍部隊の閲兵式も参観しました。軍事演習と閲兵式に動員された各種の現代的武装装備と戦闘技術機材がたいへんうらやましく思われました。いつになったら、我々もあのような現代化した軍隊をもつことができるだろうか、これが軍事演習と閲兵式を参観しながらわたしがいちばん考えた問題です。国を解放したら直ちに正規軍から建設すべきだという決心は、極東の訓練基地にいたとき、いっそう確固たるものとなりました。

 朝・ソ・中3国の軍事指揮官たちのひたむきな努力と相互協力によって、国際連合軍は、短期間に現代戦に相応した武装力にすみやかに発展することができました。

 ソ連は、前線の状態が切迫して、1個連隊、1個大隊の兵力なりとも補強が望まれるときにも連合軍には絶対に手を出さず、連合軍がもっぱら日本帝国主義者との最後の決戦の準備を着実に進めるよう援助してくれました。

 ソ連の軍事幹部は、スターリンが、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の将兵をどれほど大事にしているかをたびたび話しました。スターリンは、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍で戦った一人ひとりの戦士はみな、今後自分の祖国の解放と新しい祖国の建設で大役を果たす大事な人たちだから、1人の損失もないように大事にしなければならないと言ったそうです。

 ソ連極東地域での国際連合軍の創設と発展は、ヨーロッパに位置するチェコスロバキアとポーランドのレジスタンスの結束を促すうえでも手本となりました。

 1943年のソ連とチェコスロバキア間の友好・相互協力にかんする条約の締結と時を同じくして、ソ連領土では赤軍とともにヒトラー・ドイツに対する共同闘争に参加することを目的とするチェコスロバキア人の部隊が組織されました。チェコスロバキア旅団は、キエフ解放戦闘とベラヤツェルコビ解放戦闘など数々の軍事作戦に参加して赫々たる戦果をおさめました。

 ポーランドもソ連領土でファシズム・ドイツと戦う軍隊を創建しました。ポーランド集団軍は、ルブリン解放戦闘を皮きりにポーランドをドイツ占領軍の手から解放する数々の軍事作戦に参加しました。

 我々がソ連領内で国際連合軍を編成して活動していた1943年5月、コミンテルン解散の消息が訓練基地にもたらされました。これにたいし訓練基地では諸説が飛び交いました。ファシズムとの対決において国際的な団結と協力がもっともさし迫った問題となっていた第2次大戦のさなかに、世界革命の指導機関として20余年間も存在してきたコミンテルンをなぜ解散したのかということでした。

 レーニンが、コミンテルンを組織したのは1919年です。コミンテルンの解散には、2つの理由があったと思います。その1つは、コミンテルンが世界革命を指導した間、各国の共産主義的政党と革命勢力が十分に成長し、コミンテルンの中央集権的な指導と関与がなくても、自国の革命を自分の路線と力に依拠して独自に推進していけるようになったことです。いま1つの理由は、コミンテルンが世界的な範囲でのより幅広い反ファシズム連合の実現を妨げる存在となっていた事情とも関係しています。第2次世界大戦当時の反ファシズム連合は、理念と体制の違いを超越した新たな様相の連合でした。この連合をなす諸国がファシズムとの対決で示した超理念、超体制の立場は、社会主義国家であるソ連とアメリカ、イギリス、フランスなど資本主義諸国との連合、共産主義者とブルジョア右翼政治家との合作も可能にしました。こうした事情は、反帝を理念とし、世界の共産主義化を目的としていたコミンテルンの存在を考慮せざるをえなくしたのです。

 我々は、コミンテルンの解散が国際共産主義運動と当時の情勢発展の要請に合致する時宜にかなった措置であると認めました。

 わたしは早くから、外国の力や路線に依拠せず、革命の各段階における戦略と戦術をみずから採択し、革命勢力も自分でととのえ、万事を自主的に開拓してきた我々自身の闘争路程に大きな自負を感じたものです。

 しかし、コミンテルンが解散したからといって、共産主義者の国際的な団結と協力が無意味なものになったのではありません。我々は、国際連合軍の枠内で活動の独自性を固守しながらも、依然として世界の友人たちとの団結と協力を強化していきました。


 <金日成同志がソ連領内を舞台に展開した軍事・政治活動は、国際的にも大きな関心事となっていた。朝鮮人民革命軍の動向と組織構造、その活動内容を探ろうとする日本の軍部と警察、特務機関の策動は執拗をきわめた。日本帝国主義は、コミンテルンの解散と関連して非常に神経を使い、以後、朝鮮における共産主義者の運動方針の帰趨、とくに金日成同志の活動について、様々な判断と憶測をたくましくした。
 日本の官憲が発表した「コミンテルンの解消と今後の見透」の一部をつぎに引用する。
 「…朝鮮は日本帝国主義の植民地とされ、従ってまた今次戦争に於ては日本帝国主義を敗戦に導き、それによって朝鮮の先づ民族解放、民族的独立を獲得することが当面の戦略的目標となるわけであり、…武装闘争の任務について言へば…在満共匪金日成一派ないし中国共産党の領導下に在る朝鮮義勇軍の活動の如きはこの方針の現れであるが…現在の朝鮮に於ける運動は日蘇関係の如何に依っても規定せられ、日蘇現状維持の場合と正面衝突の場合とに依って局面は急転し、後者の場合、運動が急速度にテロ化され、武装闘争化されて行くべきは盟邦独逸の占領下に在る諸国に於ける事例に徴するも瞭かな如くである」〔『思想彙報続刊』131ページ 昭和18年(1943年)10月 高等法院検事局思想部〕
 日本帝国主義者は、コミンテルンの存在と解散とにかかわりなく、朝鮮における共産主義運動と民族解放運動は、朝鮮人民自身の闘争として独自性をおび、金日成同志の指導する武装闘争が国際反帝勢力と連合する場合、それはきわめて大きな力となることを認めざるをえなかった>。


 国際連合軍の組織とその強化、発展のために傾けた朝鮮共産主義者のあくなき努力は、革命闘争において個々の国の自主性、独自性と、国際的な団結と協力の2つの原則を正しく結びつけた模範となります。

 国際連合軍を組織し強化、発展させる過程で得た成果と経験は、日本帝国主義を撃滅する最後の決戦の日々にはもちろん、戦後の複雑な政治情勢下で主体的立場に立って、社会主義諸国をはじめ、国際革命勢力との連合戦線を維持し拡大するうえでも貴重な資産となりました。



 


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