金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 信念と背信


 最近、各新聞に抗日パルチザン参加者の回想記がまた掲載されていますが、それはたいへん結構なことです。

 抗日パルチザン参加者の回想記は、その一つ一つがりっぱな教育的価値をもつわが党の貴い財宝です。「必勝の信念」も何とりっぱな内容ではありませんか。朝鮮人民は1960年代にこの回想記をさかんに読みました。戦後、経済の復興と国の工業化を実現するうえで、抗日パルチザン参加者の回想記は大きな役割を果たしました。情勢がきびしく闘争が困難であるほど、「必勝の信念」のような回想記を多く読む必要があります。それは、情勢がきびしく闘争が困難になると動揺分子があらわれるからです。

 革命の途上、「苦難の行軍」のようなきびしい試練の時期が到来すると、革命的信念の薄弱な人たちのあいだには、落伍者と逃亡者、投降分子があらわれはじめました。

 ソ連と日本の間に中立条約が締結されたときにも、我々の隊伍からは,動揺分子、逃亡者があらわれました。回想記「必勝の信念」に出てくる池甲竜も、そのような逃亡者の1人です。

 日ソ中立条約は1941年4月に締結されました。わたしが、小部隊を率いて活動していた時期です。日本の外相松岡(洋右)がドイツ訪問の帰途、モスクワに立ち寄って中立条約を締結したのですが、その余波が人民革命軍にまで及びました。

 締約双方が平和関係を維持すること、相互に領土の保全と不可侵を尊重すること、ある一方が第3国との紛争状態に入った場合、中立を守るというのがこの条約の骨子でした。このように、条約には、朝鮮問題にかんする条項は一つもありません。朝鮮問題が上程されていないので、とくに朝鮮人の神経にさわることもありませんでした。しかし、少なからぬ朝鮮の革命家は、日ソ中立条約締結のニュースを聞いて失望しました。ソ連をもっとも信頼すべき同盟者とみなしていたのに、その同盟者が日本のような敵国と手を結ぶようになると、万事休すと考えるようになったのです。相互に領土を尊重し、平和関係を維持するというのはとりもなおさず、ソ連が日本と戦争をしないという意味ではないかと解釈して失望したのです。

 このような判断は結局、隊伍の片隅に悲観主義と敗北主義、投降主義を生むことになりました。

 日本は日ソ中立条約の締結後、それを大々的に宣伝しました。彼らはスターリンと松岡が会見する写真を新聞に載せましたが、それが動揺分子の心理に大きな刺激を与えたのです。

 しかし、隣国で何かの条約が締結されたからといって、朝鮮革命にたいする朝鮮共産主義者の根本的立場が変わるわけではないのです。我々が革命をはじめるとき、ある特定の大きい国を頼んではじめたでしょうか。我々は、自己の信念にもとづいて革命をはじめたのであって、誰かの力を頼んで革命をはじめたのではありません。武装闘争をはじめてからも、隣国から手榴弾の1発さえ支援を受けたことなどありません。我々は、自国の人民の力を信じ、すべてを自力で解決しながら武装闘争をくりひろげ、党建設や統一戦線運動をおこなったのです。

 その過程で中国人との共同闘争もおこない、ソビエト人との連合戦線も結成しました。同盟者があればよく、なくてもかまわないというのが、我々の一貫した立場でした。それで武装闘争を開始した当初から、軍隊と人民を自主意識で教育し、自力更生の革命精神で武装させたのです。自主に徹すれば生き、外部勢力に依存すれば奴隷になり、自力更生をすれば栄え、そうでなければ祖国を解放することも、新しい国を建設することもできないとくりかえし強調してきました。

 ところが、一部の指揮官は、自力解放や自力更生を鼓吹する教育には力を入れず、日ソ間の矛盾やソ連の強大さについてのみ強調したので、ソ連と日本が戦争をしてこそ朝鮮解放の決定的な契機が到来し、ソ連のような大国の支援を受けてこそ日本を打ち破ることもできるという事大主義的な病菌が池甲竜のような人の頭を冒すようになったのです。

 日本の外相がモスクワに行ってソ連と中立条約を締結したのは、一つの欺瞞策にすぎませんでした。当時、日本は虎視眈々と北進の機会をうかがっていました。北進とは、ソ連を侵攻するということです。日本とドイツは、ソ連を侵攻するとき相互協力することを密約し、ウラルを境にしてソ連の広大な領土を東部と西部に二分して、それぞれ占拠するという分割案まで作成していたのです。しかし、国力が劣る日本としては、まだソ連を侵攻するのは時期尚早でした。それで、南進論が優勢になったのです。東南アジアを席巻して戦略物資の予備を十分に蓄え、ヒトラー・ドイツがソ連に致命傷を負わせた後に極東に攻め入ってウラル界線まで一挙に占領しようというのが日本の魂胆でした。いわば、柿の熟するのを待って取りこもうとする策略でした。ソ連との中立条約は、この日程表にともなう一つの欺瞞策にすぎなかったのです。

 中立条約が締結されてから2か月が過ぎてドイツ軍のソ連侵攻が開始されると、日本は遅滞なく「関東軍特別演習」を発令しましたが、これはソ連にたいする宣戦予告にひとしいものでした。この演習のとき、ソ満国境の関東軍兵力が2倍に増強されたというのですから、日本人の魂胆が十分うかがえるはずです。中立条約締結の立役者だった松岡自身が先頭に立って、ソ連との即時開戦を主張したという事実によっても、我々は日本の支配層がいかに狡猾で、破廉恥な連中であったかをうかがい知ることができます。

 では、ソ連は日本のこのような欺瞞策を看破できなかったのでしょうか。ソ連は、日本の策略をあまりにもよく見透かしていました。しかし、日本が進んで訪ねてきて平和関係の維持だの、領土の尊重だのと言うのですから、日本とドイツの合作による東西挟撃をかなり警戒していたソ連としては、これ幸いと思わざるをえなかったのです。当時、ソ連には、ヒトラー・ドイツの侵攻という未曾有の重大な国難が目前に迫っていました。西部国境一帯に集結しているドイツの大兵力がいつ攻めてくるかわからない状況下で、シベリアを虎視眈々と狙っていた日本が中立を標榜したことは、ソ連に東西の両面戦争を遅延させる可能性を与えました。

 日本の外相松岡がモスクワを発つとき、スターリンが駅頭にまで出て見送ったという事実によっても、我々は独ソ戦争を前にしたソ連指導部の心理状態をうかがうことができました。それゆえ、中立条約の締結を契機にソ連が日本の友邦になったとするのは、愚にもつかない見解だといえました。

 情勢が緊張をきわめるほど、それにたいして正確な評価と判断をくださなければなりません。表面の現象だけ見て、その本質を見きわめられなければ、往々にして取りかえしのつかない失策を犯すものです。池甲竜の実例がそれを示しています。

 池甲竜が逃亡した事件を、王人脖子事件とも呼びます。この事件が起きたのは1941年の春で、わたしが小部隊を率いて安図地方で活動していたときでした。当時わたしは、寒葱溝に基地を定め、各地方に派遣された小部隊と班の活動を指導していました。小部隊活動の過程でもっとも障害となったのは、住民がみな集団部落に閉じこめられていることでした。彼らとの連係をつけようにも、思うようにいきませんでした。唯一の方法は、山中を出歩く狩人や炭焼き、薬草の採集者たちを通じて連係をつけることでした。

 当時、狩人は、早春から秋にかけて鹿柴を仕掛ける方法で鹿をとっていました。鹿柴とは鹿を捕る落とし穴のことです。穴を深く掘って、その中に先のとがった鉄製の槍をたくさん突き立て、その上に鹿が通るとすぐ折れる細い木の枝を渡し、その上にカヤを敷いて塩をまいておきます。鹿が塩を食べようとカヤを踏めば、穴に落ちて槍に刺される仕掛けになっています。鹿柴を仕掛ける人たちとうまくかけあうならば、地下組織との連係をつけ、敵情を探知することもできるはずでした。

 わたしは、小部隊をいくつかの班に分け、任務を与えて各地に派遣しました。池甲竜と金鳳禄は、安図県王人脖子に派遣されました。彼らには、地方工作を進めながら食糧を調達する任務が与えられました。

 各地方に派遣された班の責任者は、司令部の命令どおり5日に1回ずつ必ず活動報告を寄こしました。しかし、どうしたわけか池甲竜の班からは、何の報告もありませんでした。それは非常事態でした。王人脖子に確実な人を送って実態を確かめるべきでしたが、司令部に人員がいなくてそれができずにいるところへ、柳京守の班が司令部に帰ってきました。その班には、金益顕と中国人の徐宝仁という隊員が属していました。3人ともオノオレカンバのようにがっちりした体軀の持ち主でしたが、そのさまは、まったく見るに堪えないものでした。

 食糧が切れて苦労し、富爾河が氾濫して2倍も遠回りして苦労し、また胃痙攣を起こして苦労したうえに、大蒲柴河かどこかを通過するときには、農夫を装った琉球人移住民の武装集団に遭遇して、その追撃を振り切るのに並々ならぬ苦労をしたとのことでした。

 わたしは、その琉球人移住民の武装集団の話を聞いて、日本帝国主義者がいかに陰険で狡猾な連中であるかをあらためて思い知らされました。

 柳京守と金益顕の話によれば、その武装集団は100人ぐらいだったとのことです。農民姿の人たちが畑で春作の種播きをしていたので、彼らに食糧を頼んでみようとしたのが禍の元になったのです。道端に隠れて機会をうかがっていた3人は、畑のへりに出てきた1人に声をかけました。わたしたちは抗日パルチザンだ、金は払うから食糧を少し買ってきてもらえないだろうかと頼みました。ところが、その農民は何も聞き取れませんでした。朝鮮語も中国語も通じないので、言語障害者かと思って手まねで意思表示をすると、やっと通じたそうです。隊員たちに頼まれて畑の方へのろのろときびすを返したその農民は、突然叫び声をあげるのでした。すると、野良仕事をしていた連中が四方に散ったかと思うと、石塚や草むらの中から銃を取り出し、柳京守らに向けて射撃をはじめました。大勢の人が何か大声をあげながら襲いかかってきました。それと同時に機関銃も火を噴きはじめました。彼らは、機関銃を2挺も持っていたそうです。それこそ大きな罠でした。

 柳京守らは2キロ以上も走りつづけてやっと彼らの追撃をかわしたのですが、そのときは、もう眼をあける気力さえなくなってしまいました。幸いにも一行は、主のないジャガイモ畑で種芋を1たらい掘り出し、それを煮て食べました。その代金として50元を油紙に包んで棒の先につるし、主人の目につきやすい畑のへりに立てておきました。役牛1頭の値段が50元ぐらいだったのに、1たらい分の種芋の代金として50元も払ってきたわけです。

 機関銃まで持った琉球人移住民の武装集団に遭遇した事実は、この時期の小部隊活動がいかに困難な状況下でくりひろげられたかをよく物語っています。敵は、革命隊伍を切り崩そうとありとあらゆる手段と方法をつくしたのです。

 金益顕はひどく疲れていましたが、池甲竜の班の実態を調べる課題が提起されたことを知り、自分が行ってくると申し出ました。翌日、わたしは金益顕を王人脖子に派遣しました。金益顕は、班の活動状況を調べる過程で、班責任者の池甲竜が敗北主義に陥って司令部から与えられた任務を一つも遂行していないことを知りました。池甲竜は、日がな一日、大半の時間を山頂から村を見下ろすだけで過ごしていました。金鳳禄は、食糧を切らして4日間、何も口にしていない状態だと言って草小屋に横たわっていました。工作任務を遂行できなかったうえに、気力も尽きて、司令部へ報告しにいくことは、とうていおぼつかないとのことでした。

 金益顕は、草小屋にもどってきた池甲竜にこう諭しました。「工作任務を受けてからもう10日近くなるのに、司令部に報告もせず、腕をこまぬいていてよいものか。今夜でも狩人に会って工作をはじめよう」

 しかし池甲竜は、いまは敵情がきびしくて動くのは危険だから、待つしかないと言うのでした。金益顕がいくら説得しても聞き入れませんでした。

 翌朝、池甲竜は、金益顕と金鳳禄が洗面に行ったすきに彼らの銃を奪い取り、こう言いました。

 ―― わたしは、これまで10年近く武装部隊と一緒に行動した。その過程で苦労という苦労をなめつくしながらも、苦労の末には朝鮮が独立するものと考えて耐えぬいてきた。しかし、いまはその夢が破れてしまった。君たちも知っているとおり、日ソ間には中立条約が締結された。わたしは、ソ連と日本の間には根深い敵対的矛盾があり、やがて戦争が勃発するものと信じてきた。戦争が起これば、ソ連軍と協同して日本軍を撃滅し、祖国を解放できるものと考えていたが、もはや、それも望めなくなった。だから、こんな空しいことはまっぴらだ。そのうえ、持病までこじれてどうしようもない。わたしは家に帰るつもりだ。

 金益顕はそれを聞いて、本気で言っているのかと問い質しました。池甲竜は「本当だ。いく日も考えつづけて決心したことだ。君たちも行く気があるなら、一緒に行こう」と言うのでした。

 金鳳禄は唖然とし、涙ながらにやり返しました。「逃げたければ君1人で行け。わたしは、死んでも司令官同志のもとへ帰って死ぬつもりだ。革命の前途が暗くなったからと、司令官同志を裏切って逃げる法がどこにあるのか」

 池甲竜は「部隊を離れても林水山のような犬にはならないから信じてくれ。どこへ行っても人間らしく生きるつもりだ」と言いました。

 すると金益顕が面詰しました。

 「革命はお先真っ暗だとしても、わたしたちは司令官同志を裏切って君についていくことはできない。時局がよいときには従い、きびしいからと退くなら、それが人間の踏む道といえるのか。君はどこへ行っても人間らしく生きると言ったが、山をおりてみろ。いくら人間らしく生きたくてもそれはできない。銃を手離す瞬間から君の価値は、道端の石ころにも劣るものになる。林水山がどんなざまになり、崔容彬や金白山がどんなざまになったかは承知しているはずだ。だから、敵の側には絶対につくな。そして銃は返してくれ」

 池甲竜は「わたしはもう決心したことだ。山を無事におりるまで銃は返せない。銃は、この草小屋から遠くない橋のたもとにかけておく」と言いました。池甲竜が草小屋を去って山を下りた後、金鳳禄は橋のたもとに行って2挺の銃を取りもどしてきました。

 池甲竜の逃亡後、金益顕と金鳳禄は、約束の連絡地点へ向かいました。数日間、何も口にしていないうえに、途中で敵に遭遇したりしたので、予定の時刻よりかなり遅れて連絡地点に到着しました。そのため、わたしが派遣した連絡員に会えなくなりました。遊撃隊では、小部隊が地方工作に出かけると指揮部を移し、その代わり、そこに連絡員を派遣するのを原則としていました。

 2人は連絡員には会えませんでしたが、連絡地点を離れず、草の煮炊きで食いつなぎながら司令部との連係がつく日を待ちました。たらいに草を入れ、塩をふって煮ると草色の水がにじみでますが、それを少しずつすすって飢えをしのぎました。ある日は、数か月前に食べすてた牛の骨を煮てみると、汁のうえに白い米粒のようなものが浮きました。それは、米でなく、骨の中にあったウジでした。その汁に酔った2人は前後不覚に陥ってしまいました。

 数日後、餓死寸前の状態になった彼らは、皮のはげた木に焚き火の跡から拾った炭で、池甲竜は逃亡し、金益顕と金鳳禄は飢え死にしたと書き込みました。そして、草むらの中に並んで横たわり、死が訪れるのを待ちました。もし、あのときわたしが全文燮を連絡地点に派遣しなかったならば、金益顕と金鳳禄は名も知れぬ草むらの中で一握りの土くれとなってしまったことでしょう。

 木の文字を発見した全文燮が、山中を歩きまわって彼らの名前を呼びつづけましたが、金益顕と金鳳禄は気力が尽きて答えることすらできませんでした。全文燮は、蚊の鳴くような呻き声を聞きつけて、やっと彼らを見つけ出しました。全文燮は、2人を司令部まで連れてくるのに並々ならぬ苦労をしました。のちには、彼自身も力が抜けて、足もとがおぼつかないありさまでした。しかし、全文燮は渾身の力をふりしぼって、2人を司令部にまで連れてきました。金益顕と金鳳禄は、重湯を少し吸わせると、ようやく失神状態から覚めました。

 これが、ほかならぬ王人脖子事件なのです。わたしは、この事件を通じて大きな教訓をくみ取りました。

 もっとも深刻な教訓はなんでしょう。それは、事大主義を克服して自分の力を信じるように教育する必要があるということでした。

 池甲竜の逃亡は、革命勝利の信念を失ったために生じた事件であると同時に、事大主義のために起きた事件でもありました。その事大主義とは、ソ連にたいする事大主義でした。一部の指揮官は、隊員にソ連にたいする幻想をいだかせ、日ソ間の矛盾によって戦争はいつか必ず勃発する、そうなれば日本帝国主義は滅亡するというような認識を与えたので、このようないまわしい事態が生じたのです。一部の隊員のあいだにソ連にたいする事大主義があったのは事実です。強国の周辺には、つねに追従したり、偶像化したりする人たちが生まれるものです。そのため、スターリンと松岡の会見写真を見ただけで、朝鮮革命の前途が真っ暗だと考え、ひいては逃亡することまで考えるようになったのです。

 我々は池甲竜の逃亡のような事件が二度と起こらないように、「我々の力で朝鮮革命を完遂しよう!」というスローガンをかかげ、事大主義を一掃する闘争を強力に展開しました。

 わたしが王人脖子事件を通じて得たいま一つの重要な教訓は、革命家の生命は信念にあり、信念が崩れれば革命家の生命も尽きてしまうということです。

 池甲竜が逃亡したのは、革命勝利の信念を失ったからであり、金益顕や金鳳禄が逃亡せず、司令部に帰ってきたのは、草の煮炊きで飢えをしのぎながらも信念を守り通し、草むらの中に横たわって死を待つ瞬間にも、自分たちは死んでも革命は勝利するという信念をいだいていたからです。

 信念は、革命家の生命です。革命勝利の信念はどこから生まれるのでしょうか。それは、自己の力を信じることから生まれるのです。自分の指導者への信頼、自分自身の力、自分の属する集団の力、自国人民の力、自分の党の力を確信するときにのみ革命家の信念が守られるのです。

 人間は、誰でも一定の信念をもって革命の道を踏み出すものです。要は、その信念をどれほど長く守るかということですが、それは、練磨の度合によって決まります。練磨の過程を十分に経ていない信念は、やがて腐敗し変質してしまいます。信念を練磨する手段となるのは、ほかならぬ組織・思想生活と革命的実践を通じての政治的・思想的鍛練です。

 一部の人は、あたかも革命参加の年期が長ければ、自然に信念も強くなるかのように考えていますが、信念は年期によって決まるものではありません。年期は長くても自己修養を怠れば信念のうえでは弱者となり、年期はわずかでも自己修養を着実につめば信念の強者となるものです。

 池甲竜にしても、年期からすれば金益顕や金鳳禄よりはるかに先輩といえます。彼は10年近く遊撃隊生活をした人です。金益顕が、それまで人民革命軍に服務した年数は4年でした。金鳳禄の場合は、2年にしかならないので新入隊員ともいえるくらいでした。ところが、変節したのは誰だったのでしょうか。遊撃隊経歴の長い池甲竜は逃亡しましたが、後輩の金益顕と金鳳禄は節操を守りとおしました。これは、年期が長く闘争功労の大きい人であっても、信念を失えば変質してしまうことを示しています。

 池甲竜は、建軍草創期から遊撃隊生活をしてきた人で、手柄も立てて中隊長にまで抜擢されました。ところが、きびしい時期が到来すると動揺しはじめました。最初は、胃腸病を口実に革命任務の遂行に身を入れませんでした。それで、女子隊員たちが腹巻きをつくってやったものです。持病で苦労する人だと同情し、特別に関心も払いましたが、しまいには困難に屈して逃亡してしまったのです。信念をもっていたときには、それでもよく戦ったのに、信念を失うと落伍者となり、信義も投げすててしまったのです。

 林水山の場合も、革命参加の年期が短くて変節したのではありません。革命参加の年期からすれば、長老格といえました。八道溝鉱山で労働をしていた朴成哲が、遊撃隊に入隊しようと蔵財村を訪ねたのは1933年でしたが、そのころ林水山はすでに、そこで延吉遊撃隊第2中隊の政治指導員を務めていました。彼は朴成哲に、組織のルートを踏まずに来たからとして、直ちに帰れとどなりつけました。

 林水山は、入隊前に中学校にも通い、教員を務めたこともあります。背丈は六尺もあって、金一よりも高いくらいでした。ハンサムで見識もあり、口達者だったので、初期には戦友から好感ももたれました。ところが、しだいに彼の下地があらわれはじめました。隊員のあいだでは、彼を非難するうわさが広まりました。林水山という人間は口先ではもっともらしいことをよく言うが、実際は臆病者だというのです。

 1938年の春、我々は1か月の間に2回も六道溝戦闘をおこないましたが、それにはわけがあったのです。最初の戦闘は林水山が指揮したのですが、九分通り勝利した戦闘を台無しにしてしまいました。六道溝は、1000戸あまりの人家が密集している大きな城市でした。城市内に敵兵がいくらもいないという報告を受けた林水山は、直ちに連隊を率いて六道溝の市内に攻め入りました。ところが、戦闘がはじまると間もなく、予期しなかった敵の部隊に遭遇しました。偵察兵が敵情をさぐった後に六道溝に新たにあらわれた部隊でした。連隊が城市に攻め入ったときは、敵が酒宴に興じている最中でした。ですから、十分掃滅できる状況でした。しかし林水山は、敵の兵力が数量上優勢であることを知ると、恐れをなして退却命令をくだしました。この命令は、遊撃隊を攻勢から守勢に立たせました。隊員たちはあっけにとられて戦闘を中止し、敵はそのすきに乗じて機関銃を乱射しながら反撃に転じてきました。結局、部隊は何の戦果もなしに六道溝の市街地から退却しました。

 この戦闘があった後、敵は遊撃隊の攻撃を撃退したと大々的に宣伝しました。それを聞いた人民は、誰もが失望してしまいました。林水山の失策によって、最初の六道溝戦闘は、このように人民革命軍の権威に汚点を残したのです。

 それでわたしは、六道溝戦闘をやり直すことにしました。わたしは、部隊を率いて城市を攻撃し、一挙に六道溝を陥落させました。それ以来、敵は遊撃隊の攻撃を撃退したという宣伝を中止せざるをえませんでした。

 我々は指揮官会議を開き、林水山の過ちを批判しました。思想的に分析すれば、その過ちの主たる要因は卑怯さにありました。ところが、林水山は、批判を受けた後も過ちを是正しませんでした。「苦難の行軍」のときにも司令部から与えられた任務を遂行せず、後方密営に閉じこもって安逸をむさぼりました。北大頂子会議でまた、過ちを是正していない彼を批判しました。なかには、林水山の参謀長の職責を解任しようと提起する人もいました。しかし、わたしは、彼にもう一度過ちを是正する機会を与えました。

 林水山は、我々のこの信頼に変節をもってこたえました。武装闘争の長期化に倦怠感を覚えた彼は、「野副討伐隊」の出現とその類例のない規模を見て戦々恐々としていた折、東牌子密営で単独任務を遂行することになったのを奇貨に敵側に寝返ってしまいました。それも1人で逃亡したのでなく、敵と内通して密営の周辺にあらかじめ「討伐隊」を待機させ、数多くの戦友を敵にとらえさせたのです。少なからぬ隊員が敵に逮捕されたのは、林水山のためでした。

 その林水山が、しまいにはわたしをとらえようと、司令部にまで「討伐隊」を引き込んできたことがあります。

 いまになって思い返してみると、林水山が戦場で銃を射つのを見た覚えがありません。彼は、政治活動を口実に敵の銃弾がとどかない所ばかりうろつき回っていました。

 林水山が投降したとき、敵は虎でも生け捕りにしたかのように得意になり、金日成パルチザンの5指に入る大物が多数の部下を連れて大日本帝国に帰順したと鳴物入りで宣伝したものです。

 正直な話、林水山の投降は、我々の隊伍に少なからぬ衝撃を与えました。みな深刻な顔になり、数日間、口もよくききませんでした。林水山の変節によって、我々の部隊は事実、かなりの被害をこうむりました。

 しかし、わたしは、おじけもせず、気を落としもしませんでした。林水山は、堕落分子でした。堕落分子とは、思想的に腐敗し変質した者をいいます。そのような者が隊伍内にいては、害毒を及ぼすだけです。

 革命の過程で背信者があらわれるのは、どの時代にもみられる一般的な現象です。国際共産主義運動史には、スターリンや周恩来、テールマン、チェ・ゲバラのような人物ばかりがいたのではありません。自分の領袖とその偉業に背いた人も少なくありませんでした。ベルンシュタインやカウツキーも、マルクス、エンゲルスを崇めた人たちでしたが、歴史には背信者として記録されています。彼らは、マルクス主義にも背き、自分たちの教師であり革命先輩であるマルクス、エンゲルスをも裏切りました。一時、ソ連共産党の要職にあったトロツキーもソビエト国家の敵となりました。張国Zは、毛沢東と中国共産党に背いて蒋介石のふところに逃げ込みました。背信者の末路は、いずれも惨めなものでした。そういう連中が革命を裏切ったからといって、革命が挫折したり後退したでしょうか。かえって、背信者が除去されるたびに、革命は新たな活力を得て高揚したものです。トロツキーが清算されたのち、ソ連の社会主義建設は目覚ましいテンポで進んだではありませんか。トロツキーは、自分がいなければスターリンの施策はすべて無意味なものとなり、ソ連という国が滅びるかのように考えましたが、ソ連人民は自国を世界一の社会主義強国に変えました。張国Zが共産党に背を向けて国民党の食客になった後、中国革命は衰退したのではなく、かえって、上昇の一路をたどって全国的な勝利を達成しました。

 林水山が、敵に投降して司令部の秘密を全部売り渡し、「討伐隊」を連れて歩きまわり、我々に被害をこうむらせもしましたが、朝鮮人民革命軍は弱体化したり崩壊したりはしませんでした。彼の変節以後、我々の隊伍は、いっそう鉄のように団結し、朝鮮革命はみずからの純潔をしっかり保ち、最後の勝利をめざして力強く前進しました。

 革命の背信者は戦後、わが国で社会主義建設が進められた時期にもあらわれました。崔昌益、尹公欽、李弼奎をはじめ、朝鮮人民の前進運動に障害をつくりだした連中は、彼らの分派的企みが実現できなくなると、党に背き、祖国を裏切る道に走りました。ところが、彼らが排除されると、朝鮮革命には新たな高揚が起こり、チョンリマ(千里馬)時代が開かれました。そのときから、世界は、わが国をチョンリマ朝鮮と呼ぶようになったのです。

 背信者は、民族主義運動の隊伍にもあらわれました。崔南善のような人を例にあげることができます。3.1人民蜂起のとき、彼が独立宣言書の起草に関与したことは周知の事実です。いつか、彼の白頭山紀行を読んだことがありますが、一字一句ごとに愛国心が脈打っていました。愛国の士として知られたその彼が突然、良心と信念をすてて背信と反逆の道に走ったのです。抗日武装闘争がもっともきびしい試練に直面していた1940年代の初期、崔南善は、わたしの名前を大きくあげて投降を促す勧告文まで書いて飛行機で散布しました。


 <ここに崔南善が幾人かの親日分子と連名で書いた勧告文の一部を引用する。
 「荒涼たる山野を当てもなく徘徊しながら雨露にうたれて野宿をする諸君! 密林の原始境で近代文化の光明を見ず、不幸な妄信のため貴い生命を鴻毛のごとく賭している哀れな諸君! 諸君の呪わしい運命をいさぎよく清算すべき最後の日は来た。生きるか死ぬか…
 おお、密林を彷徨する諸君!
 この勧告文を見て直ちに最後の断案をくだし、更生の道に進み出よ。恥を恥と知り、懺悔すべきことは懺悔し、これまでの君等の世界に類なき不安定な生活から即刻脱離して、同胞愛の温情のもとにもどれ。そして、君等の武勇と意気を新東亜建設の聖業に転換奉仕せよ! 時はまだ遅くない!…

東南地区特別工作後援会本部
                            顧問 崔南善…
                             総務 朴錫胤…」
〔雑誌『三千里』 昭和16年(1941年)1月号 206〜209ページ〕>


 朝鮮人民革命軍部隊に「忠清道の医者」というあだ名で呼ばれる50代の医者がいました。それが劉漢鐘です。彼は我々の部隊で数か月間、我々とともに各地を歩いて戦傷者の治療にあたりました。知ってみると、非常に実直な人でした。

 劉漢鐘は、数本の金製の鍼(はり)とメス1刀を持って外傷という外傷は全部治しました。医術がすぐれているうえに誠意も一通りのものではなかったので、隊員たちはみな彼を尊敬しました。わたしも彼を尊敬し大事にしました。野宿の多い日々だったので、いつだったか彼に熊の皮を贈ったこともあります。城市攻略戦闘をして戦利品をろ獲するたびに、わたしはまず医薬品や医療器具から探し出して彼に与えるよう隊員たちに指示したものです。

 劉漢鐘の健康がたいへん悪化したので、1940年1月初に彼を家に帰しました。その年齢で山中で遊撃隊の生活をするのは、並みの意志や覚悟をもってはできないことでした。しかし、彼は3か月後に再び我々を訪ねてきました。

 「数か月間、妻がつくってくれるご飯を食べながらぜいたくをしましたが、それも養分にはならず、飯粒がのどにひっかかる思いがしてなりませんでした。わが家に閉じこもってしがない命をつなぐだけなら、それが何の人生といえるでしょうか」

 劉漢鐘は、こう言って目をうるませるのでした。清らかな良心の持ち主でなくてはとうてい到達しえない高い次元の考え方でした。しかし、彼の健康状態では部隊生活をつづけるのは不可能でした。彼を説得するのに手を焼いたことがいまも思い出されます。劉漢鐘は、たいへん残念がりながら家に帰りました。

 解放直後、彼は、娘を連れてわたしを訪ねてきました。彼とうれしく再会したときのことが、いまもまざまざと思い出されます。彼はわたしの手を握りしめ、「元気な将軍にお目にかかれてもう思い残すことはありません」と言って感激の涙を流すのでした。わたしは、日本帝国主義者を追い出したのだから、一緒に建国事業に邁進しましょうと励ましました。

 その後、劉漢鐘は、平壌に腰を据えて革命家後援会の活動にたずさわり、平壌学院の軍医も務めました。彼の娘は、北朝鮮臨時人民委員会秘書室のタイピストを務め、2人の息子は人民軍に入隊し、その後戦死しました。

 このように、劉漢鐘は、崔南善や林水山、池甲竜とは、まったく対照的な人間でした。信念を失った林水山が逃亡を企てているとき、劉漢鐘は遊撃隊に入隊したのです。崔南善は我々に投降を促す勧告文なるものを書いて満州の山野と白頭山に散布しましたが、劉漢鐘は、崔南善が「密林の原始境」「不安定な生活」と描写した遊撃隊の生活がなつかしくて、数か月前に離れた我々の隊伍を再び訪ねてきて部隊への復帰を願い出たのです。劉漢鐘は平凡な医者でしたが、崔南善や林水山、池甲竜とは、まったく段違いの人間ではありませんか。彼は、水晶のように清らかな良心をもった真実の人間でした。彼がひきたって見えるのは、高潔な良心の持ち主だったからです。

 わたしの体験によれば、革命を簡単に裏切るのは、信念をもたず大勢に追従する人たちや不平分子、偶然分子、出世主義者、意志薄弱者、えせ運動家でした。

 仕事を怠る人、任務の遂行に無責任な人、困難な仕事を任せると顔をしかめてあれこれと泣きごとを言う人、表面では革命だの何だのともっともらしいごとを言いながらも、裏では私腹を肥やすのに余念のない人、他人の功労をためらいもなく自分のものにしてしまう人、臆面もなく嘘を言う人、こういうタイプの人間も、機会さえあればいつかは赤旗を投げだして敵陣に逃げ込むようになります。

 ところで、こういうタイプの人間にみられる一つの共通点は、みながみな良心をすて去った連中であるということです。革命家にとって良心を抜きにすれば何が残るでしょうか。残るものは何もありません。理念も思想も道徳・信義もすべて崩れ去ってしまいます。良心をすてれば人格もいびつになります。

 革命家になる前に人間になれというのはすなわち、良心をもった存在、道徳・信義に忠実な存在になれということです。人間は、良心をもってこそ道徳もわきまえ、信義も守るようになります。良心をすてた人間には、道徳も信義も犠牲的精神も正義感も誠実さもありえません。領袖への忠実性を、信念化、良心化、道徳化、生活化すべきだとする金正日同志の言葉は名言です。

 良心をもつ人間であってこそ革命家になり、良心に錆がつくと信念にも錆がつき、良心にひびが入ると信念にもひびが入り、闘志が麻痺します。だから、革命家が良心をすてれば、その瞬間から革命家の資格を失い、つまらない人間になりさがるものです。

 良心をすてた連中とは、同じ道を歩むことも、同じ釜の飯を食べることもできません。そういう人間は、良心をすてた瞬間から同床異夢と面従腹背をこととするものです。そういう連中とは、訣別すベきであり、そうしなければ大きな禍をこうむるようになります。

 池甲竜も良心が錆つきはじめたときから革命家の面目を失いました。

 わたしが池甲竜の行動から良心に欠けた要素を発見したのは、六棵松戦闘のときでした。六棵松戦闘での主要攻撃対象は、敵の兵営で、それは第7連隊と黄正海の区分隊が担当しました。戦闘が開始され、けたたましく響いていた銃声が、何分と経たぬうちに鳴り止みました。それは、敵の兵舎を占領したことを意味しました。ところが、しばらくして兵舎から再びけたたましい機関銃の音が聞こえてきました。不審に思ったわたしは、直ちに状況を調べに池甲竜を送りました。ところが、彼は途中から駆けもどってきて、負傷したと泣きごとを言いながら座り込んでしまいました。見ると、木製の拳銃ケースが銃弾に射抜かれただけで、負傷はしていませんでした。拳銃ケースに弾丸が当たったときの衝撃で倒れ、軽い打撲傷を負ったようでした。

 わたしは彼がおじけづいたことを見てとり、池鳳孫と金学松に再び任務を与えました。2人は激しく降りそそぐ弾雨をついて戦場に駆けつけ、敗残兵が兵舎の秘密地下道にもぐりこんで抵抗していることを調べて帰ってきました。わたしは、直ちに隊員たちを兵舎から撤収させ、火攻め戦術で地下道を制圧するよう命令しました。しかし、この命令が届く前に呉仲洽が犠牲になったのです。彼はみずからの判断で火攻め戦術を使いましたが、隊員たちを撤収させず性急に捜索作戦をはじめて、取り返しのつかない大事に至ったのです。もし池甲竜が途中で引き返さず、適時に兵舎に駆け寄って状況を調べてきていたなら、わたしの命令はとどこおりなく呉仲洽に伝達されたはずであり、そういう不祥事をまねかずにすんだかもしれません。戦闘での状況処理は、寸刻を争います。池甲竜が遂行できなかった任務を金学松と池鳳孫が代わって遂行するのに手間どっている間に、呉仲洽は地下道に隠れていた敗残兵の凶弾に倒れたのです。あのとき池甲竜は、すでに戦闘員の良心をもっていなかったのです。他の隊員なら、重傷を負っても引き返すようなことはしなかったはずです。結局、良心が錆ついた者の無責任で卑怯な行動のため、甚大な被害をこうむったわけです。

 良心をすて、革命を裏切った者の末路は、どの場合にも惨めなものでした。歴史は、そのような連中にきびしい審判をくだしました。罪が軽くて許された人たちも、死の瞬間まで人びとに顔向けができませんでした。

 しかし、勝利の日まで革命的良心をもって信念を守りとおした闘士には、人民が花束をおくり、月桂冠をかぶらせました。

 八道溝鉱山から遊撃区を訪ねてきて入隊を願い出たとき、組織のルートを踏んでいないと林水山にはねつけられたことのある朴成哲は、その後、困難な闘争の道を最後まで歩んで祖国にもどり、いまは国家の要職で革命活動をつづけています。

 いつだったか、朴成哲は行軍の途中、指揮官の許可を得て家に立ち寄ったことがあります。入隊以来数年間、家族の消息がわからず気にしていた折、部隊が自分の村を通ることになったので、父母妻子に会いたい思いにかられたそうです。ところが、朴成哲は家に入るやいなや、思いもしなかった難事に出会いました。妻が子どもをおぶい、夫について遊撃隊に入ると言い出したのです。朴成哲は「気は確かなのか。子持ちの女がどこへ行くというのだ」と制止しましたが、妻は彼のバンドをつかんで離そうとしませんでした。口で言っては聞き入れそうもなく、だからといって押しのけて飛び出そうとしても、妻がいまにも泣き出しそうでそれもできませんでした。泣き声を出したら最後、村中にそれが知れ渡り、敵の耳にも入って、遊撃隊の家族だと皆殺しにされるに違いありませんでした。

 朴成哲が困惑しておろおろしていたとき、母親が嫁に言い聞かせました。「お前がいま、はしたない真似をすれば夫を殺すことになりかねない。成哲が約束した時刻までに部隊にもどらなければ逃亡者になる。それは逆賊になる道だ。お前の夫がそうなってもかまわないのか」

 妻は一言も言えず、ただ涙を流すばかりでした。それでも、夫のバンドをつかんだ手は離そうとしませんでした。その姿を見かねた母親は息子に向かって、「男がいったん大志をいだいて家を出たならそれまでだ。こんな夜中に家に飛び込んで騒がせるとはなんたるざまだ。二度と家には顔を出すな。独立がなる前にまた帰ってきたらただではおかない」としかりつけました。それでやっと、妻は夫のバンドを離したのです。母親の言葉に大きな衝撃を受けた朴成哲は、その足で家を飛び出してきたとのことです。

 知識水準からすれば、朴成哲の母親や妻は、林水山とは比較にもならない女性なのです。しかし、革命にたいする観点や立場からすれば、彼女らは林水山とは比べようもない先生でした。わが子をおぶってでも遊撃闘争に参加するという妻の志向もさることながら、国が独立する前に二度と家にあらわれたら、ただではおかないとしかりつけた母親の志は、なんと高潔で崇高なものでしょう。

 金益顕に朝鮮人民軍次帥の称号が授与された日、わたしは、若年の彼が地陽渓台地に訪ねてきて遊撃隊への入隊を志願したことや、池甲竜の懐柔をしりぞけて司令部を訪ねてくる途中、飢え死にしそうになると炭で木に文字を書き込み、草むらの中に横たわって死の瞬間を待ったことなどを思い出しました。金益顕は、死を覚悟し、それを恐れなかったので、生き残って次代にまでその名が知られるようになったのです。

 金益顕もりっぱな人ですが、彼と金鳳禄を介抱して司令部にまで連れてきた全文燮はまたなんと強靱で同志的信義に厚い人間でしょう。失神状態の2人の戦友を司令部にまで背負ってきた彼の目からは、とめどなく涙が流れていました。戦友の姿があまりにも痛ましくて、涙をこらえきれなかったのです。革命的信念が弱く、信義と良心に欠けた人なら、ひもじい思いをしないためにも同志をすてて逃げてしまったはずです。山から少しおりさえすればよいのですから、その気にさえなればどこなりと行くことができたのです。鉄条網があるわけでもなければ囲いも監視所もなく、何の妨げもありませんでした。銃をすてて山をおり、文書に拇印を押しさえすれば、飯も腹いっぱい食べられ、暖かいオンドル部屋でゆったりくつろぐこともできたのです。しかし、全文燮は、その道を選ばず、2人の戦友を代わる代わる背負って司令部に帰ってきました。そして、その後も変わることなくわたしに従い、忠実に革命の道を歩んできたのです。

 みなさんは、一生を輝かしく生きぬいた抗日の老闘士のような信念の強者を多く育てなければなりません。願望だけでは進めることのできないのが革命であり、社会主義偉業なのです。信念が強くてこそ、自分自身を守り、社会主義も固守することができるのです。

 100日飢えても生きていけるという信念をもった人、ただ1日の誇らしい生のために1000日の苦労もいとわない人、絶海の孤島に残り、名も知れぬ草むらの中に一点の塵となって消えることがあっても、組織が自分を探し、自分の名を記憶してくれるはずだと信じる人、自分を育ててくれた指導者と同志への信義を守るためには、自爆も辞せず、絞首台にもためらうことなく上る意志をもつ人であってこそ、つねに勝利者となりえるのです。

 革命勝利の信念をつちかう教育、社会主義偉業にたいする信念をつちかう教育は、国状が困難なときほど、より積極的におこなわなければなりません。わたしは、信念の強い人を尊敬し大事にします。


 


inserted by FC2 system