金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 小部隊活動の日々


 ひところ日本の御用出版物は、抗日連軍部隊の指揮官が戦死すると、その部隊が全滅したかのように宣伝しました。関東軍司令部をはじめ日満軍警も、抗日連軍の多くの部隊が抗戦をつづけていることを知りながら、1940年代に入ってからは遊撃隊が壊滅したと言い触らしました。

 抗日武装部隊が全滅し、我々の抗戦が終焉を告げたのが事実なら、野副が吉林にあった司令部を朝鮮人民革命軍の活動地域である延吉に移したのは何のためであり、楊靖宇を討つのに振り向けていた兵力までことごとく白頭山の東北部につぎ込んだのは何のためでしょうか。また、パルチザンの「討伐」に、関東軍、満州国軍、警察武力とともに、鉄道警護隊と協和会の連中まで残らず駆り出したのは何のためでしょうか。

 我々は、小部隊活動の時期にも戦いをつづけました。無意味な衝突は避けながらも、必要な場合は敵に痛撃を加えたのです。言うまでもなく、兵力を保持するために大規模な戦闘は避けました。そのかわり、大衆政治工作と偵察に多くの力をそそぎました。国内に多くの小部隊と工作班、政治工作員を派遣し、全民抗争の準備も進めたのです。小部隊と班の人員は場合によって異なりましたが、普通、小部隊は10名内外から数十名、班は数名で編成しました。武装は、その使命と任務にふさわしく簡便なものにしました。小部隊と班を編成したあとは、それぞれの任務と活動区域を分担しました。小部隊と班は、任務分担によって政治活動を基本とするものもあれば、戦闘を基本とするものもあり、偵察を基本とするものもありました。ただし、任務分担は固定したものではありませんでした。状況に応じて偵察班が政治活動をおこない、戦闘を基本とする班が偵察と政治活動を同時に受け持つといったように、他の任務を兼ねて遂行することもありました。

 部隊の編成を終えたあとは、小部隊や班の臨時秘密根拠地を築くことに力を傾けました。小哈爾巴嶺会議以後に設けられた代表的な臨時秘密根拠地としては、延吉県の倒木溝付近基地、和竜県の孟山村付近基地、安図県の黄溝嶺基地、汪清県の夾皮溝基地などがありました。国内にも恩徳、先鋒、茂山、羅津から深部にまで南下して多くの臨時秘密根拠地を設営しました。臨時秘密根拠地には、小部隊用の密営と通信連絡所、秘密会合所、補給物資保管所などを設けました。


 <小哈爾巴嶺会議後、金日成同志は、みずから警護中隊の一部の隊員を率いて安図県の黄花甸子付近の湿地での戦闘で勝利をおさめ、小部隊活動の手本を示した。金日成同志は、この戦闘についてつぎのように回想している>


 黄花甸子付近での戦闘は、小哈爾巴嶺会議後我々が小部隊活動に移ってくりひろげた最初の戦闘です。小哈爾巴嶺会議が終わったあと、わたしは1個分隊ほどの警護隊員を率いて寒葱溝へ行ったのですが、帰路、黄花甸子で敵に遭遇しました。そのときの戦闘場面の一こま一こまがいまでも生々しく思い浮かびます。

 馬塘溝や南牌子と同様、黄花甸子という地名にも由来があります。その地方の人たちに黄花甸子とはどういう意味かと聞くと、人によって答えが違っていました。ある人は野菊がよく咲く湿地という意味だと言い、ある人は忘れ草が多く咲く湿地という意味だと言い、またある人は青年男女の恋に由来する地名だと言うのですが、どれが合っているのかは定かでありません。その土地は何回か通過したことがありますが、野菊はさほど多くなく、忘れ草も目につきませんでした。しかし、湿地はありました。戦闘は、その湿地で展開されたのです。

 我々一行には、黄順姫も加わっていました。小哈爾巴嶺会議で討議、決定された方針を崔賢に伝達する任務を与えようと、わたしが彼女を呼び寄せたのです。黄順姫は小柄でしたが、敏捷で責任感が強く、また崔賢部隊の位置もよく知っていました。

 夕暮れどきに、我々は黄花甸子の裏山でしばし小休止しました。わたしは隊員を休ませ、あの湿地をいかに突破すべきかについて考えをめぐらしました。湿地の中間には流れがあり、その上に一本橋がかけられていました。橋の下には、悪臭のする水が流れていました。その一本橋を渡って山を1つか2つ越えれば、我々が臨時秘密根拠地として内定していた延吉県倒木溝まで直行することができるのでした。しかし、橋の向こう側に敵が待ち伏せしていないともかぎりませんでした。それで、橋のたもとに目を据えていたところ、案の定、何かピカリと光るものがありました。もしやホタルの光ではとも思ったのですが、それは確かに敵の懐中電灯の光でした。橋を渡らなければ倒木溝に行き着くことができないというのに、敵が暗闇に潜んでいるのですから困り果てました。文字どおり一本橋で仇敵に出くわしたのです。武装闘争の日々、敵に包囲されたり、死地に追い込まれたりしたことは何度もありましたが、あのときほど事態が急迫し、名案が浮かばなかったことはなかったと思います。

 橋を渡らなければ10キロ以上も迂回しなければならず、それもまた容易なことではありませんでした。結局、何がなんでもいま来た道をまっすぐに進むしかなかったのです。わたしが辺りをうかがい、押し黙ったまま方途を模索していたので、隊員たちは、息を殺し、緊張した面持ちでした。

 しばらくして、わたしは、敵に感づかれる前にすばやく橋を渡ることを決断し、出発命令をくだしました。全員が無事に橋を渡り、後尾についていたわたしが最後に渡って草むらに足を踏み入れたとき、不意に敵の機関銃が火を噴きはじめました。わたしは、すぐさま機関銃射手に敵の射手を制圧するよう命令し、隊伍を大道の方に移動させたのですが、そのとき全文燮と黄順姫が決死の覚悟でわたしを守ってくれました。まさに危機一髪の瞬間でした。一歩踏み誤れば底無しの泥沼にはまり込みかねず、そのうえ敵の銃弾が雨あられと降りそそぎましたが、我々は1人の犠牲者も出さずに無事危機を切り抜けました。天の恵みというべきです。もし、あのときわたしが火急の事態に狼狽したり、すぐさま決断をくださなかったら、敵のわなにはまって大きな損失をこうむったことでしょう。

 ところが、大道の方に移動している最中に、今度は前方に敵があらわれたという斥候の連絡が入りました。橋のたもとの銃声を聞きつけて、待機していた主力部隊が押し寄せてきたに違いありませんでした。それで隊員たちに、急遽、橋の方にもどるよう命令しました。橋のたもとにいる敵と追跡してくる敵に銃弾を浴びせ、横に抜けて山に登らせました。それから休止命令をくだしました。隊員たちは山の中腹に座って、やっと息をつきました。そのとき、橋のたもとにいた敵と大道の方から押し寄せてきた敵がすさまじい銃撃戦をはじめました。後日、安図地方の人たちから聞いた話によれば、敵は同士討ちをして死人の山を築いたそうです。誰が先に発砲したのかという責任が問われ、一本橋を渡ってきたのは化け物なのかパルチザンなのかといった悲鳴が上がり、敵の内部は大混乱に陥ったとのことです。

 その後、我々は、延吉県発財屯と安図県五道揚岔付近でも多くの敵を掃滅しました。延吉県発財屯一帯では、黄花甸子での戦闘と違って、3組の襲撃班による襲撃戦法と遠見戦術(同士討ちをさせる戦術)を組み合わせました。このときも、敵は同士討ちの銃撃戦によって多くの死者を出しました。こういった戦闘は、毎日のようにつづけられました。あるときは、いくつかの小部隊が合流して大敵を痛撃したりしました。このように、我々は小部隊戦を基本としながら時折大規模な戦闘を組み合わせたので、敵は人民革命軍が大部隊戦から小部隊戦に戦術を変えたことにも気づかなかったのです。

 黄順姫から小哈爾巴嶺会議の方針を伝え聞いた崔賢の部隊も小部隊活動を積極的に進めました。崔賢の部隊は、汪清県においてまず大部隊で広盛屯と小城子の敵を討ち、つづいて小部隊に分散して縦横無尽に駆けまわって敵を掃討しました。延吉、和竜、安図の各県では呉白竜の小部隊、琿春県と東寧県一帯では、金一、孫長祥の小部隊、東寧県と寧安県、穆棱県、五常県一帯では韓仁和とともに朴成哲、尹泰洪の小部隊がそれぞれ戦闘を展開しました。東北全域と朝鮮の北部国境地帯は、小部隊と班の活動によって沸き返りました。


 <金日成同志はハバロフスク会議後、みずから指揮をとった小部隊活動の状況についてつぎのように回想している>


 以前は、小部隊と班は、主に朝鮮の北部国境地帯と中国の東北地方で活動しましたが、この時期からは、国内に深く入り、朝鮮南端の軍事要衝と遠くは日本本土にまで活動地域を拡大していきました。

 小部隊と班の活動内容も多種多様でした。国内と東北一帯で、破壊された党組織と地下革命組織を立て直し、新たに設け、残っている武装部隊を収拾し再編する活動、全民抗争組織にたいする系統的かつ統一的な指導を確立する活動などをおこないました。これとともに、国内各地の秘密根拠地を補強し、情勢の要請に応じて新たな臨時秘密根拠地を築く活動、国内と東北一帯で愛国的青壮年を遊撃隊に受け入れて、朝鮮人民革命軍の隊伍を拡大し、軍事幹部を育成する活動を進めました。同時に、積極的な襲撃戦と伏兵戦、破壊戦を展開して敵の後方を撹乱し、戦力を低下させる闘争、敵の軍事施設と基地、要衝にたいする軍事偵察活動および敵の支配体系と敵軍の内部を混乱させる闘争などを幅広く展開しました。

 この時期の小部隊活動には、東北抗日連軍の各部隊も参加しました。それにかんして部隊別に小部隊の活動地域を分担しました。こうして、朝鮮人民革命軍と第1路軍管下の部隊、それに第2路軍部隊の一部は朝鮮国内と東満州および南満州地域を、第2路軍の基本部隊は興凱湖以北から東崗にいたる地域をそれぞれ担当し、第3路軍部隊は慶城、鉄驪、海倫をはじめ、各県で小部隊作戦を展開することにしたのです。

 わたしは、白頭山と極東の臨時基地を行き来し、国内と東満州、南満州での小部隊活動を指導する一方、軍事・政治学習も同時に進めました。誰であれ小部隊活動を終えて基地に帰ってくれば、政治学習と現代戦の訓練に参加することを義務づけていました。南キャンプからは、比較的人員の多い小部隊を率いて、わたしが真っ先に白頭山の東北部と国内に進出することにしました。そのあとに崔賢の小部隊と安吉の小部隊も状況をうかがいながら国内と満州に進出することにし、活動区域と任務を定めました。

 わたしが小部隊を率いて基地を発ったのは1941年4月でした。小部隊の主な任務は、東満州と南満州一帯に残って戦いをつづけている小部隊と各班との連係を結び、彼らにたいする統一的な指揮を保障することでした。これとともに、破壊された革命組織を立て直し、新たな組織を結成し、地下組織網から選抜された青年で武装隊伍を拡大する一方、彼らを祖国解放の最終作戦と新しい祖国の建設に必要な幹部に育成することも重要な活動目的の一つでした。我々はまた、魏拯民の行方も探すことにしました。

 当時、国内と満州の情勢は、険悪をきわめていました。日本帝国主義者は、1941年の初春から新たな「討伐」作戦に着手しました。「野副討伐司令部」は解体され、その権能は関東軍司令部に委譲されました。そして、関東軍の基本部隊と各地区別の満州国軍軍管区司令部、関東憲兵隊司令部管下のすべての「討伐隊」が、人民革命軍にたいする「討伐」に狂奔していました。それで、わたしが小部隊を率いて敵地に進出するのが心配で、一部の指揮官は情勢をうかがいながら行動するよう提言しました。金策もはじめは、わたしの身辺を気づかって、そんな心配をしたものです。

 わたしは、小部隊工作に発つにあたって中隊長として、柳京守を選抜し、政治指導員には金一を任命しました。伝令には全文燮が任命されました。彼を伝令に任命したとき、金策は彼に、司令官のそばを寸時たりとも離れてはならないと強調しました。

 小部隊の無線通信士には、安英が選ばれました。彼は、東満州と北満州で活動したことがあります。数年間教壇に立ち、青少年の愛国主義教育に努めました。東満州で活動したころは、巡回劇団を組織して大衆啓蒙活動もおこないました。安英は、見識が高く、生活体験も豊富でした。北満州で大衆工作にあたったときは、飯炊きをしたり、ケシ畑で賃仕事をしたりしたといいます。わたしが満州に向かうとき安英を無線通信士に選んだのは、彼が北満州部隊にいたときソ連で6か月間無線通信の講習を受けた経歴をもっていたからです。彼の口ひげがとても印象的でした。それで安英のことを「口ひげ」と呼ぶ人が少なくありませんでした。

 小部隊の人員は、30名ほどだったと思います。全員が日本の軍服を身につけたのですが、変装はなかなかのものでした。我々一行は4月上旬のある日、深夜に国境を越え、以前の根拠地を通過して白頭山の東北部方面へと行軍をつづけました。

 我々が白頭山の東北部でなすべき仕事は山ほどありました。我々が東満州の遊撃区を解散し西間島方面へ進出すると、敵は東満州と白頭山東北部一帯で全面的な破壊作戦を強行したのです。それによってまねかれた事態を収拾するため、我々は茂山地区戦闘後、再び白頭山の東北部に進出し、この一帯の革命化を積極的に推進しました。我々がしばらくソ連に入っていたすきに、敵は再びここに正規軍を投入し、大々的な破壊旋風を巻き起こしました。そうして、「東満州の治安は確立された」と大言を吐いたのです。白頭山の東北部で革命を再び高揚させるには、小部隊と班の勇猛果敢な活動によって朝鮮人民革命軍の健在ぶりを見せる必要がありました。そうすれば、大衆を再び立ち上がらせることは十分可能でした。安図、汪清、延吉、琿春、敦化一帯を混乱に陥れたあとは、白頭山に進出して西間島一帯と国内により多くの革命組織をつくる一方、全民抗争力量を強化し、愛国的な青年を数100名選抜して、白頭山根拠地と極東の基地で軍事・政治幹部に育成する考えでした。

 国境を越えた小部隊が数日間強行軍をして到着したところは、大黒瞎子溝密営からそう遠くない谷あいでした。いつか、延辺に住む朝鮮人が、汪清、東寧、琿春3県の県境で遊撃隊の宿営地の跡を見つけたといって、踏査の過程で撮影した録画テープを持ってきたことがありますが、それを見ると、その地帯は、確かに我々の小部隊のメンバーが臨時秘密根拠地に定めたところのようでした。

 この谷あいに着いたとき、携行していた食糧が底を突いてしまいました。それで、わたしは、金一たちを金廠へ派遣しました。汪清県金廠付近の金鉱を襲撃して食糧を調達し、大衆工作もおこなうよう指示したのです。

 大黒瞎子溝基地の近辺で全文燮が熊をしとめたのですが、非常に大きいので、数人がかりのもっこでやっと基地まで運んできました。その熊から搾り出した油は、ブリキ缶一杯ほどにもなりました。

 数日後、金一たちが、食糧を調達して帰ってきました。金一は沈痛な面持ちで、工作の途中で張興竜が戦死したことを告げるのでした。張興竜が戦死したのは、池甲竜のためだったとのことです。金鉱を襲撃して帰隊する途中、池甲竜が腹ごしらえをしていこうと一言い張ったため1時間ほど費やしたのだが、その間に敵に追いつかれ、襲撃を受けたというのです。

 金一は、池甲竜の意見を容れたことを悔やみ、司令官同志に会わせる顔がないと言いました。張興竜の戦死という悲報に接し、わたしは胸をかきむしられる思いがしました。「牛事件」で処罰を受けた彼が、過ちを償うために血のにじむ努力を重ねていたことを思うと、なお胸が痛みました。

 張興竜の戦死と時を同じくして、1人の中国人隊員が敵に捕らわれたため、部隊の足どりが知れてしまいました。敵は、金日成があらわれたと色めき立ち、やっきになって我々を追跡してきました。そのときわたしは、我々の足どりが知れたほうがかえってよかったと考えました。敵が金日成部隊が現れたと騒ぎ立てれば、人民もそれを知ることになり、結局は朝鮮人民革命軍が健在で戦いをつづけているということを宣伝することになるではありませんか。小部隊の進路に困難が立ちはだかったことはいなめない事実ですが、敵が進んで我々のことを宣伝してくれることになるのですから願ったりかなったりでした。

 その後、我々は行方をくらますため峰を越え、進路を太平溝方面に取りました。そして、5月上旬には汪清県夾皮溝に行き着いたのです。ここで、わたしは金一と別れました。金一には、1小部隊を率いて夾皮溝を臨時秘密根拠地にして活動させることにしました。彼の小部隊の活動区域となる羅子溝と図佳線一帯には、遊撃区時代にわたしが手塩にかけて育てた組織メンバーが少なからずいたのです。わたしは金一に、この付近に崔春国の家族が住んでいるかもしれないから連絡をとってみるようにと指示しました。無線通信士の安英も2名の助手と一緒に夾皮溝基地に残すことにしました。夾皮溝基地は、中間連絡所の役割も果たしていたのです。

 わたしは20名ほどの隊員を率いて、白頭山東北部の豆満江沿岸の広大な地域に進出するため夾皮溝を発ちました。敦化県、安図県、撫松県、和竜県、延吉県など東満州の各県を股にかけて活動する考えでした。

 わたしの小部隊は、敦化県を経て、安図県寒葱溝に基地を設営し、連絡地点を設けました。寒葱溝は、わたしが魏拯民に最後に会ったところです。寒葱溝に着いたころには、季節が変わり、林はうっそうと生い茂り、日中は暑さを感じるほどでした。

 寒葱溝からは、長白、敦化、車廠子、国内と白頭山の各地に政治工作班を派遣しました。長白一帯に派遣されたのは韓昌鳳と韓泰竜でした。彼らの任務は、長白地方の地下組織の活動を指導し、遊撃隊員の家族と親戚を捜し出し、組織とのつながりをつけて国内に移住させることでした。我々の部隊には、長白出身の隊員がたくさんいました。彼らの一家親族をみな組織に引き入れて国内に送るなら、全民抗争組織を結成するうえで重要な役割を果たすに違いありませんでした。また、堅実な青年を選抜して極東基地に送る任務も与えました。わたしは2人に、長白県桃泉里には誰がおり、またどこには誰それがいるということを具体的に教えました。そして、そこで地下組織を結成したあとは国内に進出し、労働者階級のなかに入るよう指示しました。

 全文燮と金洪洙は、車廠子の奥地へ行き、我々が前に埋めておいた武器と地図を掘り出してきました。そのとき、敦化方面へ工作に出た隊員たちが、大荒溝付近の密林の中で狩りをして生計を維持していた朴という姓の老人を連れてきました。彼は、もと樺甸県で反日会に関与していた地下組織のメンバーだったのです。わたしは、彼と長時間話を交わしました。彼の話によると、山という山は、日本の「討伐隊」で埋めつくされ、手先がうようよしているとのことでした。また、小部隊が拠点として利用していた炭焼き小屋やケシ栽培用の小屋、葬具小屋、洞窟などにも密偵がとぐろを巻いているので注意しなければならないとつけ加えました。そして、住民をすっかり集団部落に押し込み、行き来するのも統制するうえに、互いに監視までさせるので地下工作をするのが本当にむずかしい、しかし、遊撃隊のためならなんでも精いっぱい援助すると言うのでした。

 彼は、敦化県都と集団部落に出入りして組織関係者のリストを持ってきたり、我々に食糧や必要な物資を調達してくれたものです。我々は、彼がもたらしてくれた資料にもとづいて、この一帯の組織をすみやかに立て直しました。その後、彼は敵に捕らわれて処刑されたとのことです。

 このように、我々は小部隊活動の時期、人民の積極的な支持と援助を受けました。敵地でこの困難な戦いを進めるうえで、人民の支持は我々にとって大きな励ましとなりました。我々の闘争にたいする人民のこうした支持は、事実上、彼らがすでに全民抗争に立ち上がっていたことを示す明白な証左といえます。

 我々は地下組織網を拡大する一方、第1路軍の残存部隊と魏拯民の行方を捜すことにしました。そして、まず3つの班を編成し、敦化県と樺甸県、それに、安図地方と和竜県北部、撫松県一帯に派遣しました。

 そのとき柳京守がめざましい活動をしましたが、苦労もまた並大抵のものではありませんでした。樺甸県夾皮溝へ行くには富爾河を渡らなければならないというのに、川の水かさが増していたのでそれは不可能でした。適当な渡河地点を見つけようと川岸を上り下りしているうちに食糧も切れ、帰隊の期日になってしまいました。何日間も飢えたうえに、任務を遂行できなかったことを苦にした柳京守は、病床についてしまいました。しかし、夾皮溝には、誰かが行かなければならなかったのです。それで、わたしが小部隊を率いて、柳京守を派遣しようとしていたところに赴くことにしました。ところが、そのとき天幕で病の床に臥していた柳京守がそれを聞きつけて起き上がり、おぼつかない足どりでわたしの前に出てきました。そして、「将軍は行ってはなりません。わたしがもう一度行ってきます」と言うのでした。それはだめだと、わたしがいくら言っても聞き入れようとしませんでした。彼は、いったん強情を張ると説得などまったく無意味でした。結局は、不本意ながら彼の意見に同意せざるをえませんでした。

 人間が生活する過程には、彼がどのような人間であるかを点検する特別な機会があるものです。生死を分かつ我々の遊撃闘争は、毎分、毎秒がそういう点検の機会であったといえます。一命をなげうつことを求められるような状況が日に何十回も生じたのです。柳京守は、危難に直面するたびに、みずから肉弾となって突進する人でした。それで、わたしはいつも、もっとも困難なところに彼を派遣したのです。楽な任務は戦友にまかせ、困難な任務は自分が引き受け、栄光は譲って戦友に花を持たせ、責任が追及された場合はすべての過ちを自分が背負い、どんな処罰や叱責でも甘受するところに、まさに柳京守の人間的魅力があり、彼が誰からも愛される主な理由があったのです。

 柳京守が樺甸県夾皮溝に向かうとき、わたしは我々が携帯している食糧を残らず与えるよう指示しました。ところが、彼は全文燮に、将軍の分はとっておいたのかとそっと聞くのでした。全文燮が何とも言えずもじもじしていると、彼は、伝令ともあろう者がなんたることだとしかりつけ、背のうの米をもどしたそうです。

 数日後、柳京守は、任務を遂行して帰ってきました。彼は疲労困憊のあまり、わたしを見るやいなや気を失ってしまいました。ぼろぼろになった靴を脱がせてみると、腐った足から血の混じった膿が流れていました。それでも、重湯を口に流し込んでやるとかすかに目を開き、活動報告をするのでした。それによると、彼らは、夾皮溝一帯で遊撃隊と連係のある農民に会ったのですが、彼が心を許さないので郭池山たちに会うことができず、あちこちさまよっているうちに魏拯民が死亡したらしいという噂を耳にしたということでした。

 柳京守はできる限りのことをしたにもかかわらず、任務を果たせなかったことをしきりに悔やむのでした。ところが時を同じくして、別の班の責任者として王人脖子に工作に行っていた池甲竜は変節したのです。

 まさに1941年の試練は、誰が真の革命家で、誰がえせ革命家であるかをいま一度見きわめる試金石といえました。こういった試練と点検は、祖国が解放されるまで間断なくつづいたのです。解放された祖国に凱旋した抗日闘士はみな、数限りない試練のなかで点検しつくされたかけがえのない人たちです。

 池甲竜の変節後、我々の居場所を知った敵は、血に飢えた狼のように押し寄せてきました。わたしは隊伍を率いて敵の包囲を巧みに切り抜け、大沙河、小沙河を経て安図方面に進出しました。

 安図と撫松の広大な地域で活動しながら、我々は以前結成した組織を拡大することに主力をそそぎました。

 組織のメンバーを通じて、魏拯民が病死し、彼の写真入りの広告が明月溝の市街地に張り出されたという風聞が立っていることを知ったのもそのころのことです。また、30余名の遊撃隊員が、南蛤蟆塘・北蛤蟆塘一帯と明月溝、延吉付近で活動しているという情報も入手しました。それで、この地にもうしばらくとどまることにし、一つの班を沙河掌、南湖頭、大荒崴、北蛤蟆塘一帯に派遣しました。そして、わたし自身は残りの隊員を率いて白頭山方面へ向かったのです。

 わたしは間白山密営に行ったとき、小部隊と政治工作班、革命組織の責任者たちを呼び集め、新たな情勢の要請に即して主体的立場を堅持し、我々の力で朝鮮革命を完遂するための思想教育活動を強力に展開する任務を与えました。また、国内と西間島一帯ですぐれた青年を選抜し、極東の基地で訓練する準備と、その他の多くの力量を白頭山密営と間白山一帯でしっかり育て、全民抗争に対処する準備を進めるようにしました。その後わたしは、穏城郡でもこのような方向で国内組織の活動を指導したものです。

 白頭山一帯での活動を終えて帰ってくるときの道のりも容易ならぬものでした。各小部隊の襲撃にあわてふためいた敵が、我々の行方を捜そうと血眼になっていたからです。そのころは、どこでも「討伐隊」がいないところはありませんでした。大道にもおり、山の頂にもおり、谷間にもいるというありさまでした。

 延吉県老頭溝は、敵の軍事上の要衝の一つであり、関東軍の憲兵隊や特殊部隊、満州国軍、警察などが根城にしているところなので、通過するのが困難でした。しかし、ここを通過しなくては、四方が広大な樹海に通ずる山地へ抜けることも、小部隊の集結地点に行き着くこともできなかったのです。

 我々は、日本の軍服に着替え、夜間行軍によって老頭溝を通過することにしました。ところが、あいにくなことに老頭溝鉄道を横切る前に夜が明けてしまったのです。日中は、行軍を中止し、安全なところに隠れていなければなりませんでした。山から見下ろすと、大道のそばに数戸の家があり、さほど遠くないところに停車場がありました。それで、日が暮れるまでその農家に潜んでいることにしたのです。隊員たちを各農家に配置し、わたしは沿道の家に入りました。そして、中国の農民に変装した隊員が手ぐわで畑の草取りをするふりをしながらあたりを見張り、ほかの隊員はみな休息をとりました。

 昼時に黄みがかった洋服を着た男たちがやってきたかと思うと、わたしがいる家の戸を乱暴に開け放ちました。部屋の中に兵隊がいっぱいいるのを見た瞬間、彼らはびくりとしました。一番前の男があわててきびすを返そうとしたときに、隊員の一人が彼の背に銃を突き付けました。わたしはその男に、部屋に入ってくるようにと言いました。それまで彼らは、我々が日本軍だと思っていたようです。わたしが、あなたは誰かと聞くと、自分は協和会の会長だが、金日成部隊が出没しているという情報が入ったので村にやってきたと答えるのでした。それでわたしが、我々がその朝鮮人民革命軍だと言うと、彼はわなわなと震えだしました。

 我々は、彼から多くの重要な資料を得ました。その日、わたしは、彼が持っていた新聞を読んで、独ソ戦争がはじまったことを知ったのです。彼の話によると、日本は、急遽ソ満国境一帯に兵力を集結しており、遠からずして日ソ戦争がはじまるという噂も飛んでいるということでした。わたしは彼に、我々が村を発ったあとに、金日成部隊が白昼に老頭溝の市街地を通過したということをありのままに警察に通報するようにと言いました。その後、通報を受けた敵は、金日成部隊が我々の目と鼻の先で飯を炊き、余裕しゃくしゃくと昼寝までしていったとは不可解きわまりないことだと上を下への大騒ぎをしたとのことです。

 我々は、1人の犠牲者も出さずに、集結地点である汪清県夾皮溝に無事到着しました。そしてそこで、工作任務を終えて帰ってきた金一の小部隊と合流しました。

 わたしは6月についで7月の末ごろ、夾皮溝で再び小部隊責任者会議を開きました。夾皮溝会議を招集した目的は、日ソ中立条約の締結と独ソ戦争の勃発によって激変した国際情勢と関連して、朝鮮人民革命軍の全将兵と小部隊の隊員にたいする思想動員をすることにありました。

 そのころ、独ソ戦争の勃発をめぐって小部隊の隊員たちのあいだで議論が紛糾していたのです。独ソ間の戦争が朝鮮革命に有利な展望を開くと評価する者がいるかと思うと、ソ連が東西から2大強国に挟撃されたら朝鮮革命に不利な影響を及ぼすと判断する者もおり、世界情勢が朝鮮革命に及ぼす影響は日本のソ連侵攻が現実になったときに考えるべき問題だと主張する者もいました。そこでわたしは、これらの議論を早急に1つの見解に統一し、全隊員に革命勝利の確信を抱かせ、祖国解放の大事を主動的に迎える準備をととのえるよう彼らをさらに力強く立ち上がらせるために、夾皮溝で会議を招集したのです。

 夾皮溝会議では、各地に派遣されていた小部隊と班の活動状況も総括し、以後の活動方向について討議しました。

 この会議でわたしが終始一貫主張したのは何だったでしょうか。それは、大勢がどう変わろうと動揺するな、ドイツがソ連に侵攻したのはみずから墓穴を掘ることにほかならない、日本もソ連を攻撃すればドイツと同じ運命を免れない、しかし、日本にはソ連を攻撃するだけの力がない、列強の力関係を見よ、地球の形がどう変わろうとファシズムは滅び、民主勢力は勝利する、朝鮮革命にも必ず明るい展望が開かれる、だから、一時的な難関を前にして動揺したり躊躇することなく、革命の旗をあくまで守りとおすべきだ、自分の力で祖国を解放し、朝鮮革命を完遂するという信念と覚悟をもつべきであるということでした。

 この会議で、わたしは、今後の小部隊活動の方向も示しました。もとより、我々の兵力を保持するために無謀な正面衝突や数量上優勢な敵との交戦は避けるべきではあるが、敵背攪乱作戦を果敢に展開しよう、軍需物資の輸送路と補給基地も奇襲しよう、祖国解放作戦のための偵察活動と大衆政治工作をさらに強化しようと訴えたのです。

 8月の初めに、我々は、汪清――羅子溝間の道路工事現場を襲撃しました。当時、日本軍は、ソ満国境一帯へ通じるこの地域におびただしい兵力を集結していました。日本軍が群がっているこの地域で銃声を上げれば、それは効果てきめんだと思われました。戦闘をするからには敵地のど真ん中でやろうというのが、わたしの腹積もりでした。

 2つの方向に遮断班を一つずつ派遣したあと、日本軍に変装した我々は威風堂々と工事現場に向かって突き進みました。そして、瞬時にして道路警備兵の武装を解除し、兵舎の中にいた敵を制圧したのです。あまりにも素早い我々の戦闘行動に、工事現場の労働者たちは呆然としていました。「我々は金日成遊撃隊です!」という柳京守の声を聞いて、ようやく彼らは四方から駆け寄ってきてわたしたちを抱きしめました。

 労働者のあいだで政治工作をしたあと、我々は汪清県北部地帯を迂回し、下方に太平溝村を望む山頂に至りました。この戦闘があって以来、汪清地方では我々の噂が広く伝わったとのことです。

 山頂から双眼鏡で太平溝村を見下ろすと李光の家が見え、呉仲洽や朴吉松の家も見えました。家の庭を行き来する呉仲洽の父親の姿も目に入りました。わたしは金一に、この一帯で彼らと手を組んで地下組織をつくる任務を与えました。その後、金一は、呉仲洽の父親呉昌煕と朴吉松の父親朴徳深と連携して地下組織をつくりました。彼は、汪清県南北大洞一帯の農民と小汪清駅の労働者のなかにも地下組織をつくりました。そのとき、呉仲洽の父親は、金日成部隊がまた白頭山にあらわれたという噂が広まって人民は大喜びしており、革命勝利の確信にみちていると語ったそうです。

 朝鮮人民革命軍の小部隊は、敵の集中輸送と移動が本格的に進められているソ満国境一帯で、敵の作戦を破綻させるべく軍事・政治活動も少なからず展開しました。図們駅の構内で軍用列車を衝突させたのも、和竜県頭道溝と汪清県で移動する敵を奇襲したのもそのころです。

 国内と東北地方での小部隊活動を成功裏に終えた我々は、8月に極東の臨時基地にもどりました。

 1941年9月中旬に、わたしは前回の小部隊活動の成果をかためるため、再び小部隊を率いて満州と国内へ進出しました。そのときの主な任務は、安吉、金一、崔賢らの小部隊と連係を結び、彼らが収集した偵察資料を総合し、豆満江沿岸と国内各地で活動する小部隊、班の活動を現地で指導し、彼らに必勝の信念を植えつけることでした。これは、激変する情勢の要請に即して小部隊と班の活動地域を国内深くにまで拡大することによって、祖国解放の大事を首尾よく迎え、ソ満国境一帯における日本のソ連侵攻企図の有無を見きわめるうえでも重要な意義があったのです。

 出発に先立ち、わたしは安英を夫人に会わせました。そのころ、安英の夫人李英淑は、北キャンプに来ていたのです。両親の仲立ちで村の夜学の先生をしていた安英と結婚した彼女は、夫と一緒に崔庸健の部隊で戦いました。その後、無線通信の技術を学ぶために安英がソ連に入って以来、音信が絶えていたのです。ところが、妻が北キャンプに来ていることを知ったのですから、会いたがらないはずがありません。それで、彼らを対面させました。困難な戦闘任務をおびて発つ人の心には、なんのわだかまりもあってはならないのです。妻に会ってきた安英は、新たな力を得たようで、笑顔をつくっていました。

 汪清方面に出た我々が宿営地に定めたところには、川がありました。降りつづいた雨のため、水かさが増していました。李斗益と全文燮がその川で釣りをしたのですが、なかなかの腕前でした。そのとき彼らは、朽ちた木の切り株に群がる赤蟻を食っていた熊までしとめたものです。我々は、熊を切り取り、一部は川瀬に浸けておきました。谷川の水は歯がしびれるほど冷たいので、肉を浸けておいても腐りません。メリケン粉も深い池などに保管しておけば、変質する心配がありません。メリケン粉を袋ごと水に浸けると全部濡れてしまいそうですが、そうではありません。実際は外側の1センチほどが濡れるだけで、中身は大丈夫です。山の生活が不便なのは事実ですが、それなりの妙策があり、生きる方法があるものです。

 ある日、わたしは小部隊の指揮官たちを集めてその間に入手した偵察資料を総合し、情勢について討議しました。そのとき、彼らは、多くの興味深い資料を提供しました。そして異口同音に、日本がソ連に侵攻するか否かは、もうしばらく様子を見なければわからないが、目下の状況からしてただちに侵攻するとは考えられないと言うのでした。安吉は、傍証として、鉄道を通過する貨車にかんする偵察資料をあげました。彼の話によると、日本の警官たちは住民を集めて、遠からずソ連と戦争することになる、だから防空壕も掘り、道路工事も早急に完了しなければならないとせき立てているが、運行する貨車を調べてみると、無蓋貨車には大砲や戦車が積まれているが、有蓋貨車はそのほとんどが空っぽだったということでした。

 牡丹江地区で活動していた崔光の班が収集した偵察資料も興味を引くものでした。彼らは、駅の近くの山から、連日双眼鏡で国境地帯への敵の移動を偵察したとのことです。列車が入ってくるたびに、崔光は昇降口を見すえ、車両から下車する人数を数えました。ある日、タバコをくわえた将校がホームに降り立ちました。立ち居振る舞いがとりわけ傲慢に見えたせいか、それともタバコをくわえて偉そうにしているのが目立ったのか、とにかく崔光は、その顔をはっきり覚えておいたそうです。ところが、翌日も崔光は、昇降口から降り立つその将校を見かけたのです。きのう下車した彼がきょうまた下車するはずはないと、最初は自分の目を疑いましたが、間違いなくその将校だったそうです。その日も、彼はタバコをくわえていたとのことです。それで崔光は、敵は連日有蓋貨車で兵隊を輸送しているが、それは見せかけだと見破ったのです。それは、きわめて重要な情報でした。

 崔光が帰隊したあと戦友たちは、彼は愛煙家だからそんな情報をつかめたのであって、さもなければ気がつかなかっただろうとひやかしたものです。日本の将校がくわえていたタバコに崔光が目をつけたので、おのずとその男を注視するようになり、それで前日見かけた将校であることが、すぐわかったのだというのでした。

 このように、崔光はタバコのおかげで重要な情報を得たわけですが、タバコが禍して処罰を受けたこともあります。崔光は、16歳のときに青年義勇軍の小隊長になりました。若少にして小隊長になったので、隊員たちはみな彼を青二才扱いにしました。それで崔光は、自分が青二才ではなく1人前であることを示すため、タバコを吸いはじめたのです。そうして覚えたタバコでしたが、いつしかやみつきになり、しまいにはタバコが切れると我慢しきれないほどになりました。いつか戦闘に参加した彼が、戦利品として一袋のメリケン粉とタバコ入りの段ボールを背負って帰隊したことがあります。部隊では、党会議を開いて彼を処罰しました。食糧事情が逼迫しているときに、どうせならメリケン粉を一袋でも余計に背負ってくるべきであって、食いもできないタバコを背負ってくるとはなにごとだ、処罰を受けるのは当然だということになったそうです。

 当時、我々が収集した偵察資料を総合してみると、日本は、ソ連に侵攻する実際的な準備ができておらず、日本軍がソ満国境地帯に兵力を集結しているように見せかけているのは、南方進出の企図を隠すための欺瞞策であると結論づけることができました。これは、日本が北攻ではなく南攻を準備していることを推測させるものでした。これは、ソ連の対日軍事戦略の策定に大きく寄与しました。

 我々は11月の中旬に基地に帰ってきたのですが、そのときセッピョル郡煙峰にも立ち寄りました。

 わたしが小部隊を率いて活動してきたあと、各小部隊が国内と満州に進出しました。姜健の小部隊は、1941年の末に牡佳線の新家店付近で敵の軍用列車を的にした大規模な伏兵戦を断行し、日本軍将校を乗せた客車とともに、装甲車とガソリンを満載した車両を一瞬のうちに炎上させました。朴成哲の小部隊は、1942年の早春に東寧県と寧安県、蚊河県一帯で活動しました。彼らは、寧安県老松嶺と蚊河県青溝子、五常県一帯にとどまって活動していた戦友たちを捜し出して隊伍を拡大し、敵とたび重なる遭遇戦を展開しながら、その年の9月まで小部隊活動をつづけて基地に帰ってきました。東北抗日連軍の柴世栄の小部隊は、寧安県、穆棱県、牡丹江周辺で活動したのですが、めざましい実績をあげて基地に帰ってきました。

 わたしは第1段階における小部隊活動の成果を総括しながら、極東の臨時基地から再び国内と東満州一帯に進出したのは正しかったと考えました。なによりも、新たな状況下で大部隊活動から小部隊活動に移行したのはきわめて時宜にかなった措置であり、小部隊活動が大部隊活動に劣らず敵に甚大な政治的・軍事的打撃を与え、人民を反日抗戦へと大いに鼓舞するということをじかに体験しました。

 小部隊活動の過程で達成した成果は、すべての指揮官と隊員に最後の勝利の確信を抱かせました。我々の小部隊活動は、内外の人民に、革命軍は依然として健在であり、敵に痛撃を加えて勝利に勝利を重ねており、革命軍のまわりに全人民が結集して民族あげての抗争をくりひろげるならば、十分、日本帝国主義を打倒し、祖国解放の日を迎えることができるということをはっきりと示しました。

 「東南部治安粛正特別工作」と大規模な「討伐」作戦によって遊撃隊を掃滅したかのように空威張りしていた日満軍警は、我々の巧みな小部隊作戦のために窮地に追い込まれ、あわてふためいたものです。

 朝鮮人民革命軍の小部隊活動は、国際連合軍の編成と前後していっそう活発に展開されました。我々はそのころ、目前に迫った最後の対日作戦を見通し、その遂行に資する軍事偵察活動と全民抗争の準備に主眼を置いて、小部隊活動の幅と深度を増幅していったのです。

 その時期の小部隊作戦は、朝鮮人民革命軍主力部隊のメンバーで組織された小部隊の活動を基本とし、国際連合軍の別働隊に所属して活動していた朝鮮人民革命軍隊員の軍事偵察工作を結合する方法で進められました。当時の活動条件と軍事・政治情勢の要求からして、おのおのが独自に活動しながらも、必要な場合は互いに補足し協力するといった活動方式は、小部隊活動の政治的・軍事的成果をかため、さらに拡大していくことを可能にしました。

 国際連合軍が組織されたあとの小部隊活動の特徴は、班活動を基本としながらも、これに比較的大がかりな小部隊活動を組み合わせる原則を堅持したことです。この原則にもとづき、軍事作戦においても班による活動に主力を置き、これに小部隊による襲撃戦と伏兵戦を適切に組み合わせたのです。


 <国内と満州で朝鮮人民革命軍の小部隊と班の活動が日増しに強化されていたことを示す資料を紹介する。
 「…新ニ入満シタル金日成、崔賢、柴世栄ナドハ…武力抗争ノ不利ヲ覚リ、主トシテ軍事、産業、経済方面ノ重要施設ノ破壊、民衆ノ赤化工作或ハ暴動誘発、士兵工作等ノ謀略的挙ニ出ラントスル傾向極メテ濃厚ニシテ」〔牡丹江領事代理古屋報告 昭和16年(1941 年)6月23日〕
 「1942年初、北部朝鮮で朝鮮のパルチザンは一連の戦闘作戦によって、日本の飛行機22機と格納庫二つを破壊し、油槽船2隻と漁船92隻を沈没させた」〔べ・ヤロボイ『朝鮮』44ぺージ 1945年9月 ソ連海軍出版社〕>


 国内と満州に派遣された小部隊は、敵軍切り崩し工作も展開しました。小部隊の積極的な活動により日本軍の内部では厭戦思想がさらに蔓延し、軍隊に強制徴集された朝鮮の青年たちが武器を携行して脱走し、朝鮮人民革命軍の班員を訪ねてくるといった事件が続出しました。敵の航空隊のパイロットも暴動を起こして人民革命軍を訪ねてきたものです。

 小部隊活動で得たもっとも大きな成果は、我々を壊滅させようとした敵の企図を破綻させ、我々の力量を保持、蓄積しながら、祖国解放の大事を迎える準備を着実に進めたことです。小部隊活動によって朝鮮人民革命軍がおさめた政治的・軍事的成果は、祖国解放の日を早めるりっぱな促成剤となりました。



 


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