金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 他郷で春を迎え


 

 <朝鮮革命博物館を訪れる人は、1枚の写真の前に足を止めてなかなか離れようとしない。「他郷で春を迎え」という金日成同志の暢達な親筆入りの写真である。

 

 かつて、革命博物館を訪れた金日成同志は、その写真の前で、これは自分がいちばん大切にしていた写真だと述べた。
 金日成同志は、抗日革命の時期を回顧するたびに、金正淑同志をしばしば追想した。金正淑同志はいつも、金日成同志の心の奥にもっとも大切で近しい同志として、忘れがたい革命戦友として生きつづけていた>


 この写真は、南キャンプにいたころ撮ったものです。南キャンプは、朝鮮人民革命軍部隊と抗日連軍第1路軍傘下の部隊が、初期に利用したボロシーロフ(ウスリースク)付近の臨時基地です。ここをBキャンプとも呼んでいました。そこで一冬を過ごしてから、わたしは、再び満州と国内に進出して小部隊活動をくりひろげました。1942年の夏季からは、独ソ戦争と太平洋戦争勃発という急変した情勢の要請にそって、東北抗日連軍およびソ連軍部隊とともに国際連合軍を編成し、北キャンプに定着しました。抗日闘士たちが、Aキャンプと呼ぶハバロフスク付近の基地が北キャンプです。

 わたしは、ハバロフスク会議が終わってから南キャンプに行きました。一足先に来ていた崔賢が、遠くまで出てきて、わたしと同行の戦友たちを迎えてくれました。毛皮のオーバーに毛皮の帽子のわたしをきょとんと見つめていた彼が、どこのジェントルマンかと思ったら金将軍ではないかと大笑いしたことが思い出されます。彼があまり強く抱き締めたので、息がつまる思いをしました。彼は、ハバロフスクで会議をしているという話は聞いていたが、何の会議でそんなに長引いたのかと不平まじりの冗談まで言うのでした。

 南キャンプから東へ少し行くと、ハバロフスクからウラジオストクに通じる鉄道があり、小さい駅があります。

 南キャンプに集結した人民革命軍の隊員は、自力で兵舎を増設し、住宅や倉庫、食堂、洗面場なども建てました。兵舎は半壕舎式のものでしたが、現在の人民軍の兵舎のようにベッドは2段になっていました。あのとき、隊員たちは建設工事でだいぶ苦労しました。兵舎の前には、広びろとした運動場もありました。

 南キャンプにいたころは、国内と満州での小部隊活動を準備しながら、政治学習に力を入れました。そのとき、映画を観るのは、はじめてだという隊員が大半でした。

 そこへ行ってからは、食糧の心配をする必要がなくなりました。毎食200グラム程度の薄切りの食パンがあてがわれたのですが、はじめのうちは口にあいませんでした。食べつけない洋食のうえに菜もよくないので、みな食欲がわきませんでした。

 そこには、給養物資を運ぶトラックもありました。それが、付近の副業農場を行き来して必要な物資を運搬しました。運転手はソビエト人でしたが、李五松が運転を習おうとしていつも彼についてまわりました。副業農場にまでついて行くこともありました。彼は、運転手について歩くうちに車の運転だけでなく、酒も覚えてしまいました。その運転手が無類の酒好きだったようです。

 李五松は、そのときに習った技術を生かして解放後もしばらくは車を運転しました。車といえば、目がない彼でした。一度はわたしの車を運転して塀に突きあたったことがありますが、それ以来、同志たちは彼に運転をまかせませんでした。解放後、南キャンプにいたソ連の戦友たちが訪朝したことがありますが、例の運転手も平壌で旧友の李五松と再会しました。

 極東地方で冬を送り、春を迎えたその年のことが忘れられません。

 1941年は朝鮮革命においても大きな変化があった年ですが、世界的版図からみても大事件が多かった年です。6月にはドイツ軍がソ連を侵攻し、12月には日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発しました。実に1941年は、人類にはかり知れない苦痛と災難をもたらした不幸な年でした。人類が数千年にわたって築きあげてきた文明が、戦車や大砲によって跡形もなく破壊された受難の年、戦禍の年でした。

 しかし、独ソ戦争も太平洋戦争も、まだ将来のことでした。我々は明日への楽観と確信にみちて、1941年を意義深く迎えました。朝鮮の革命家が、時代と歴史、祖国と人民にたいして担った聖なる任務を果たすべき時はいままさに目前に迫りつつあったのです。

 新春を迎え、わたしは、小部隊活動と今後の共同作戦についていろいろと構想しました。いったん構想を練った問題については、戦友とも意見を交わしました。そのころ金策と周保中がしばらく南キャンプに来ていましたが、彼らともたびたび協議しました。

 我々はハバロフスク会議後、小部隊を編成して国内と満州に派遣することにしました。わたしも小部隊を率いて出発する準備をととのえました。

 出発の日が近づくと、金正淑は、わたしと隊員たちの旅支度を手伝ってくれました。わたしと金正淑は、すでに結婚した仲でした。わたしたちは、革命の道を歩む過程で出会い、白頭山を越え苦楽をともにするうちに戦友となり同志となり、一生をともにすることになったのです。

 わたしが彼女をはじめて知ったのは、大荒崴会議があったころです。会議の後か途中だったか、三道湾に行ったことがあります。三道湾は、延吉県に属していました。そこの能芝営というところに党書記処があったのですが、彼女はそこで働いていました。能芝営で開かれた書記処の会議の場で彼女に会ったのです。

 その後、馬鞍山で我々の部隊に編入された金正淑と再会することになったのですが、金明花と一緒に漫江でわたしを迎えてくれた彼女の姿が印象的でした。その日、彼女と多くのことを語り合いました。話を聞いてみると、彼女は寄る辺ない身の上でした。彼女が頼るところは、革命戦友のふところしかなかったのです。金正淑はその後、ずっとわたしとともに戦いました。

 金正淑がわたしの部隊にきた後、撫松県城戦闘があったのですが、この戦闘で彼女は女性闘士としての胆力と知略を十分に示しました。わたしがその戦闘で無事であったのも、彼女のおかげだといえます。戦闘は熾烈をきわめました。金正淑は、戦場からやや離れた山ひだで、7、8人の女子隊員と一緒に朝食の支度をしていました。そこには、炊飯のできる家屋が一軒あったのですが、煙がたってもよそからはよく見えませんでした。ところが、女子隊員しかいないその山ひだに突如敵が襲いかかってきたのです。そこを奪われれば、部隊は前後から挟撃されかねませんでした。状況が急迫していることを知った金正淑はモーゼル拳銃をかざし、女子隊員とともに猛烈な銃撃戦を展開しました。女子隊員たちの手強い反撃に遭遇した敵は、多くの死体を残して退却しました。この戦闘があって以来、彼女はますます戦友の寵愛の的になったのです。

 その年、我々は長白で活動し、翌年の3月に撫松遠征の途につきました。その遠征のきびしさについては再三話していることです。正直な話、わたしも疲労困憊していました。夜になると、ほとんどの隊員がへとへとになって眠りこけるのでした。

 しかし、金正淑だけは、焚き火のそばで夜通し隊員たちの裂けた軍服を繕っていました。行軍路がひどく険しかったので、軍服がすぐ破れてしまうのです。新入隊員の馬東熙もその遠征のとき焚き火で帽子を焦がしたのを、彼女がきれいに繕ってやりました。その後にも見たことですが、彼女は、何事であれ、いったん手にすると、根をつめてきれいに仕上げずにはおきませんでした。その夜、わたしは、彼女を見て感服しました。何に感服したのか。人を助けずには安心して眠れない人並外れた品性と人情味に感服したのです。

 この生活ぶりを通して、わたしは女性としての金正淑を深く理解するようになったのです。こういう経緯があったので、指揮官たちが彼女を桃泉里の地下工作班に網羅しようと提起したとき、わたしはためらうことなくそれに同意したのです。

 金正淑は、桃泉里と新坡一帯でりっぱに活動しました。わたしが彼女に革命家としての並々ならぬ手腕と能力を見いだしたのはこのときでした。彼女は、大衆を感化し、目覚めさせ、奮い立たせるすぐれた腕をもっていました。彼女が靖安軍に逮捕されたとき、桃泉里とその周辺の住民が警察署に提出したという数百名の署名入りの「良民保証書」は、金正淑についての大衆の評定書ともいえるものでした。

 彼女は、いかにして人民からそのように信頼されるようになったのでしょうか。それは、彼女が身命を賭して事にあたったからです。彼女は何事であれ、死を決する心構えで献身的に働いたのです。そのため、危険な局面にさらされても助かることができたのです。

 金正淑は、燃えるような人間愛の持ち主でした。彼女は、人のためなら、いかなる犠牲をもいといませんでした。同志のためなら水火をも辞さないのが彼女の性分だったのです。

 1938年4月、六道溝の敵を討っての帰途、双山子という地点で戦闘があったときのことです。戦闘があまりにも熾烈だったので、わたしまで機関銃を手にして一線で戦わなければならないくらいでした。四方八方から敵が攻め寄せてくるので、抜け出るすきも、一息入れて食事をとるひまもありませんでした。ところが、急に脇腹にぬくもりを感じました。ポケットを探ってみると、なんとマントーが入っているではありませんか。あたりを見回すと、金正淑が戦場をぬって戦友たちにマントーを配っていました。我々は、それを一つずつ取り出して口に入れながら戦闘をつづけました。炊事場は、崖の下の泉のそばにありました。彼女がマントーを盛った容器を持って、その急傾斜をどのように登ってきたのか解せませんでした。

 このように、戦友にはいつも食を欠かせまいとして戦場にまで駆けつけて食べ物を配りながらも、彼女自身はいつも空腹をこらえていたのです。

 いつだったか、部隊に食糧が切れてジャガイモだけで食いつないでいたときがありました。ジャガイモも何食か食べつづけると、飽き飽きして食べられなくなるものです。金正淑は、戦友たちに幾日もジャガイモだけの食事をさせるのが心苦しくてなりませんでした。それで、彼らの食欲をそそる方法はないものかと、あれこれと考えました、そして、ジャガイモをつぶしてチジム(お好み焼き)をつくったり、いためた山菜のあんを入れて餅をつくったりして出したのですが、それ以来、隊員たちはジャガイモ料理を嫌わずに食べるようになりました。

 金正淑は、自分のためではなく、同志のために一生をささげました。彼女の生涯は、同志愛からはじまり、同志愛にもとづいて発展し、その過程で共産主義的道徳・信義を最大限に発揚する非凡な革命家になったのです。彼女が一生の間になしたことはすべて、同志と人民、革命のためのものであって、自分のためのものは一つとしてありませんでした。金正淑には、自分という観念がまったくなかったのです。わたしは飢えても凍えても病気にかかってもかまわない、ただ同志たちがひもじい思いをせず、寒がらず、元気であれば、それで満足する、わたしが死んで同志を生かすことができるなら、何も思い残すことなくよろこんで死を選ぶというのが金正淑の人生観だったのです。

 彼女の同志愛がいかに真実で熱烈なものであったかは、1枚の毛布にまつわる話だけでも十分わかると思います。

 先ごろ、金正淑の戦友である延吉県在住の徐順玉が、わたしに会いに平壌を訪れました。彼女はそのとき、1枚の毛布と双眼鏡を持ってきました。徐順玉は、朝鮮人民革命軍主力部隊の司令部付き炊事隊員でした。夫の金明柱もいっとき、主力部隊で軍事指揮官を務めました。彼は「延吉監獄」というあだ名で知られた人です。我々が撫松地方で活動していたとき、彼は第7連隊に属していました。

 徐順玉は、崔希淑が腰房子での地下工作任務を終えて帰隊するときに連れてきて入隊させたのです。入隊当時の彼女の年齢は15、6歳でした。崔希淑はそのとき、徐順玉の甥も連れてきました。厳光浩が、青峰密営で敵のスパイだと決めつけた若年の隊員がこの徐順玉の甥でした。

 金正淑は、徐順玉を非常にかわいがりました。宿営地では、金正淑がいつも自分よりいくつか年下の徐順玉を抱いて寝たものです。そのたびに1枚の毛布を一緒に使ったのです。当時、司令部の近くにいた女子隊員は、金正淑と徐順玉だけでした。

 徐順玉が持ってきた毛布は、金正淑が愛用していたものです。金正淑の背のうには、いつもその毛布がついていました。体より背のうが大きくて誰なのかよく見分けがつかないときにも、わたしはその毛布を見て彼女だとわかったものです。

 徐順玉が小部隊の基地へ向かうとき、金正淑はその毛布を贈りました。その基地に金明柱や玄哲もいたのですが、おそらく金明柱と徐順玉はそこで結婚したのだと思います。

 出発の日、徐順玉は、金正淑に抱きついてしきりに泣きました。1枚の毛布をかけ合った仲だったので、涙をこらえられなかったのでしょう。

 金正淑は、徐順玉にやる記念品がないことを苦にしていました。それで、徐順玉の背のうに毛布を入れてやりながら、これを記念に持って行きなさい、新品ではないけれど、あなたを実の妹のようにかわいがったわたしの体温がしみていることを忘れないでほしいと話すのでした。その毛布が、半世紀後にわたしのところにもどってきたのです。半世紀以上もの歳月が流れていましたが、それが金正淑の愛用していた毛布であることはひと目でわかりました。徐順玉が持ってきた双眼鏡も、わたしが金明柱にやったものです。あのとき、毛布よりも大切なものがあったら、金正淑はためらいなく徐順玉に贈っていたことでしょう。彼女はいつも、もらうことよりあげることの方がもっと楽しいと言っていました。人から人情をほどこされるより人に人情をほどこすのがはるかに楽しいというのが、金正淑の人生哲学だったのです。

 金正淑の同志愛は、わたしにつくそうとする努力、わたしのためにすべてをささげる献身性にもっとも顕著にあらわれました。自分の司令官への忠実性も、その本質は同志愛だといえます。

 いつだったか、我々が食糧を切らし、何食も抜いた状態で戦闘をつづけていたときのことです。戦闘指揮の最中に、誰かがわたしのポケットに何かを入れてくれるのでした。振り返ってみると金正淑でした。戦闘が終わってからそれを取り出してみると、松の実を一粒一粒割って紙につつんだものでした。わたしは彼女に、どこで手に入れたのかと尋ねました。しかし、彼女はただ微笑をたたえるだけでした。後日、他の女子隊員が言うには、彼女が自分で木に登って取ったものだったとのことです。

 
 わが身を盾にして金日成将軍の安全を守る金正淑女史

 金正淑は、何回もわたしを危機から救ってくれました。彼女は、わたしの身辺の安全のためなら、いつでも肉弾となる準備ができていたのです。大沙河付近の戦闘のとき、わたしの周辺には危険な状況が生じました。一群の敵兵がわたしの方にひそかに接近していたのです。しかし、わたしは戦闘指揮に没頭していたので、そういう状況に気づきませんでした。そのとき、金正淑がいなかったら大事に至るところでした。彼女は身をさらしてわたしをかばい、襲いかかる敵兵をみな射ち殺しました。それで、わたしは奇跡的に助かったのです。こんなことは一度や二度ではありませんでした。

 わたしが山で何年間も着用していた綿入れの外套も、実は彼女がつくってくれたものです。どこで聞いたのか、真綿が銃弾を通さないということを知って、機会あるたびに真綿を集め、わたしに外套をつくってくれたのです。幾晩も眠らずにひと針ふた針と真心をこめてつくった外套が、わたしの体にぴったり合うのを見て、彼女はうれしさを隠しきれませんでした。

 わたしは宿営地で夜を明かしたり寝るときには、携帯して歩いたノロの毛皮を敷いて、その外套をかけたものですが、そうすれば体があたたまるのです。

 ちかごろは、女性が編み物をよくしないそうです。機械でニット製品をつくる時代なのですから、そんな手間をかけようとはしないのでしょう。わたしは、ニット・ウエアを見るたびに金正淑を思い出します。彼女は、わたしのためにずいぶんと編み物をしたものです。炊事だけでも手いっぱいで暇がないはずなのに、どのように時間を割き、どこから毛糸を手に入れてくるのか、見当がつきませんでした。とにかく、暇さえあれば読書か編み物のどちらかをしたものです。

 山中で毛糸を手に入れるというのは、容易なことではありませんでした。当時は、一包の針を手に入れるにも戦闘をしなければなりませんでした。にもかかわらず、金正淑は、敵と戦うため一年中外で寝食をしながら行軍するわたしを気づかって、綿入れの外套も腹巻きもつくってくれ、祖国が解放されるまで、毎年欠かさず毛糸の靴下を編んでくれたのです。

 彼女に苦労をかけるのがすまなくて、いつか、毛糸は、どこからどう手に入れるのかと尋ねたことがあります。彼女はただ笑うだけで、何とも答えませんでした。正淑には毛糸の靴下があるのかと聞くと、それにもやはり答えませんでした。わたしがなおも退かずに問いかけると、しぶしぶ「将軍は、大事をあずかっておられるのですから、そんなことを気にすることはありません」と答えるのでした。

 金正淑は、解放後にもわたしのために編み物をしました。わたしの靴下がすり切れると、繕わずにそれをほぐして糸巻きに巻きとり、それでまた靴下を編むのです。夜通し編んでは、朝になるとそれをわたしの寝床の横に置いてくれるのです。商店や市場に行けばそれよりましな靴下を買えるはずですが、そうしませんでした。一度買えば、糸がすり切れるまでほぐしては編み、またほぐしては編み、自分の手で編んだ靴下をわたしに履かせたのです。彼女は、一足の靴下でも自分の手で編んでわたしに履かせたがりました。女性の真心とはこういうものです。

 一度は彼女の並々ならぬ誠意に、不本意ながら腹を立てたことがあります。ある年の冬、彼女がわたしの洗濯物を自分の体のぬくもりで乾かして持ってきたことかあります。誰にも知られないようにしたことでしたが、それに感嘆した女子隊員が金正淑をほめているという噂がわたしの耳に入ったのです。洗濯物を体におびて乾かしたという話を生まれてはじめて聞いたわたしは、唖然として彼女を司令部に呼び出しました。ひどく凍えて真っ青になった彼女の顔を見て、わたしは涙が出そうになりました。生前の母にもできなかったことを彼女がしたのだと思うと、何をどう言ったらよいのかわかりませんでした。母でさえできなかったことを自分からすすんでなした金正淑の犠牲的な同志愛、それはいま思えば、自分の司令官にたいする革命的同志愛であると同時に、人間、金日成にたいする熱い愛情でもありました。

 わたしは彼女にこう言いました。

 ―― 正淑、わたしを思っての君の誠意には頭がさがる。それだけは、いつもありがたく思っている。しかし、どんなつもりでそんなことをしたのだ。そんなことをして傷寒にでもかかったらどうするのだ。君を犠牲にしていい目を見ても、わたしの心が安らぐはずはない。二度とそんなことをしてはいけない。

 すると彼女は、微笑をたたえてこう言うのでした。

 「わたしの苦労などなんでもありません。将軍さえ健康でおられるなら…」

 正淑の前では怒ったものの、わたしは彼女を帰してから涙をこぼしました。なぜか、その瞬間に母が思い出されたのです。わたしに傾ける彼女の真心に、早世した母の愛情も合わさっているような気がしたのです。体の熱を濡れた衣服に吸いとられて悪寒をもよおしながらも、歯をくいしばって顔にあらわすまいとしていた彼女の姿を一生忘れることができません。

 その後も彼女は、わたしの濡れた衣服や下着などを体におびて乾かしてくれたのです。そうしてみると、金正淑は、身をもって敵弾から、そして雨や雪、傷寒からわたしを守ってくれたことになります。

 わが国の歴史家は、我々の歩んできた抗日革命の道を前人未踏の道と表現していますが、それは確かです。抗日革命闘士は、革命のみならず、愛においても前人未踏の境地を開いたのです。生活は想像を絶するきびしいものでしたが、白頭山の火山礫にも愛は花咲きました。

 親子間の愛、夫婦間の愛、恋人同士の愛、師弟間の愛、同志間の愛をはじめ、人間生活に存在する愛において大切なのは、献身性であると思います。自分は飢え、寒さにふるえ、病気にかかっても愛する人にはそうさせまいと、必要であれば火中に身を投げ、刑具の前に進み出、氷の穴にも飛び込む、自己犠牲的な献身性のみが、もっとも美しく気高い真実の愛を創造することができるのです。

 解放された祖国にもどって万景台に行ったとき、家族や親戚は、山中で戦いながらも、よい妻をめとったとのことだが、婚礼はどこで挙げ、介ぞえ役は誰にしてもらい、祝膳は誰がととのえてくれたのかとしきりに尋ねるのでした。わたしは何とも答えることができませんでした。そんな問いに答えようとすると急にのどがつまり、言葉が出ませんでした。本当のことを話せば祖父や祖母が心を痛め、親戚たちにも気を煩わせることになりそうなので、答えることができなかったのです。

 我々が山中で戦うときは、祝儀の膳というものは考えられませんでした。生活が困難で苦しいという事情もありましたが、国を取りもどしもせず、亡国の民の恥辱をそそぐこともできない状態で、婚礼や誕生祝いなどとうてい考えられないことでした。我々の隊伍には、そういうぜいたくを望む人は一人もいませんでした。

 遊撃隊式の祝儀というのは、きわめて簡単なものでした。隊員たちに、きょう、誰と誰とが結婚すると告げればそれですむのです。昨今の若者のように礼服を身に装って祝膳を受けるといった礼式など考えることすらできませんでした。少しましな場合でも、飯一杯がせいぜいでした。飯がなければ粥、それもなければジャガイモかトウモロコシを分け合ったものですが、だからといって不平じみたことを言う人もいませんでした。むしろ、それが当たり前で自然なことと考えたのです。

 我々は夫婦となった後も、所属の中隊や小隊で従前どおりの生活をしました。指揮官であっても例外にはなりませんでした。結婚してすぐ戦場に出て倒れた夫婦もあり、別々の任務を受けて別れ別れになって生活する隊員もいました。

 わたしと金正淑が結婚した日、戦友たちは何かしてくれようと気をつかいましたが、何も手に入れることができませんでした。部隊全体が食糧難で苦しんでいたおりに、どこから何が手に入るというのでしようか。

 礼服も、祝膳も、媒酌人も、介ぞえ役もいませんでしたが、その婚礼は一生忘れることができません。金正淑も生前、その日をいつも追想していたものです。

 新しい世代がこんな話を聞けば、そんなことがあるものかと首をかしげるかもしれませんが、当時の状況では他に方法がありませんでした。みんな、そういうふうに式を挙げたのです。かえって、それを粋なものと思ったものです。明日の幸せのために今日の苦難を甘受し耐えしのぶことに生きがいを感じるのが、ほかならぬ抗日遊撃隊員の徳というものでした。彼らは、次代のために、今日の祖国のためにそのように生きたのです。

 わたしは白頭山密営や極東の訓練基地にいたとき、祖国が解放されれば、戦友たちの婚礼をりっぱに挙げてやろうと考えたものです。ところが、いざ国を取りもどしてみると、それも思うようにいきませんでした。解放はされたものの、人民の生活にゆとりがなく、食糧事情も逼迫していたため、そうすることができませんでした。

 解放直後、張時雨がわたしを訪ねて来て、パルチザン出身者だという人が平安南道党委員会の資金を引き出して個人の婚礼に使おうとしているが、そんなことが許されるものかと抗議したことがあります。誰がそんなことをしたのかと問うと、金成国だとのことでした。わたしは金成国を部屋に呼びつけ、彼の武装を解除するよう李乙雪に命じました。そして、何の権限があって道党委員会の資金を勝手にもちだしたのかと問い質しました。彼は涙まじりに、「孫宗俊の結婚式用に、礼服やふとんを用意し、祝膳もととのえてやろうとしたのです。親兄弟も親戚もいない独り身の彼をわたしらが面倒みてやらなければどうするというのですか」と言うのでした。それでも、わたしは彼をこっぴどく批判しました。孫宗俊にそうしてやればいいというのは、わたしにもわかる、しかし、現状はそれを許さない、飯の一杯も出せずに式を挙げた過去のことを少しでも考えたなら、党の資金に手をつけるようなことはしなかったはずだ、国状がきびしいいま、パルチザン出身者らしく周囲に目を配って分別のあるふるまいをすることだといましめました。こうして、彼を帰したものの、心が痛みました。実際のところ、生死、苦楽をともにした戦友の結婚式をりっぱに挙げてやろうとした金成国の心遣いは、なんとけなげなものではありませんか。

 多くの抗日闘士が解放された祖国にもどって結婚しましたが、式は簡素なものでした。わたしは、それがいつも胸につかえてなりませんでした。それで、金正日同志は、彼らが還暦や古希を迎えるときには、祝膳をととのえ、贈物をするのです。

 ところが、金正淑だけは、そんな幸福を味わうこともできず、30を越したばかりの年で、このように写真だけ残して世を去ったのです。わたしが正淑とこの写真を撮ったのも偶然でした。もし、革命の戦友たちが関心を払ってくれなかったなら、この写真も残らなかったでしょう。

 わたしが小部隊を率いて出発する準備をしていたある日、戦友たちがやってきて写真を撮ろうと言うのでした。小部隊の工作に出かければいつまた会えるかわからないから、写真を撮って記念に残そう、カメラは手に入れてきたから、金将軍は顔だけ貸してくれればいいと言うのです。軍服を着て外に出ると、崔賢がわたしを待っていました。まだ肌寒くはありましたが、あたりに春の気配がはっきりと感じられるころでした。わたしは、春の水気を含みはじめた樹木にもたれて、戦友と写真を撮りました。久しぶりに南キャンプで再会した記念、会ってはまた別れる小部隊工作の記念でもありました。他の戦友も2人、3人と組になって写真を撮りました。そこへ、誰に聞いたのか、数名の女子隊員が駆けつけ、自分たちも撮ってほしいと言うのでした。それで、女子隊員たちとも何枚か撮ったのですが、彼女らは、わたしと金正淑に、2人で撮るようにと勧めるのでした。それを聞いて金正淑ははにかみ、女子隊員たちの後ろに隠れてしまいました。女子隊員たちは、無理やりに彼女を前に押し出しました。正淑は、照れてどうしてよいかわからないありさまでした。戦友たちにしきりに押された正淑は、仕方なく笑みをたたえてわたしのそばに立ちました。その瞬間を逃さず、シャッターが切られました。わたしの一生で、女性の戦友と個別写真を撮ったのは、これがはじめてだと思います。わたしと金正淑にとって、これは結婚記念写真ともいえるものでした。

 当時は、我々も血気盛んな青春でした。夢も多く、笑いも多いころでした。他郷で迎えた春でしたが、みな確信にあふれ、意気込みも盛んでした。わたしと正淑にとっては、結婚後はじめて迎える忘れがたい春でした。わたしは、その春を永久に記念しようと、写真の裏に、「他郷で春を迎え、1941・3・1B野営区にて」と記しました。

 わたしは、この写真が歴史に残って、このように大きな博物館に展示されるとは夢にも思いませんでした。20年もの間抗日革命をおこなって、写真をたくさん残せなかったのが残念でなりません。そうしてみると、写真を撮ろうと言い出した戦友は本当にありがたい人たちでした。

 金正淑の髪形は、他の女子隊員と同じく断髪でした。ところが、この写真では髪の形がわかりません。髪の毛をかきあげて全部帽子の中に入れたのでわからなくなっているのですが、それには、わけがあるのです。

 その年の春、わたしが小部隊を率いて満州と国内に向かうときでした。ソ連の国境を越えて琿春地方を通過していたとき、不思議と足がぬくもってくるのを感じました。はじめのうちは長いこと行軍をしたせいだろうと思ったのですが、足を運ぶたびに足裏に何かあたたかくやわらかいものに触れる感じがするのでした。それで、靴を脱いで見ると、髪の毛でつくった敷きがわがあるではありませんか。それでやっと、金正淑が部屋の中でも妙に帽子を脱がなかったことを思い出し、わたしのために透かして切った髪の毛で靴の敷きがわをつくったことに気がつきました。彼女が帽子を脱がなかったのは、薄くなった髪を人に見られたくなかったからだと思います。

 その日、わたしと一緒に写真を撮った人は、いまは一人もいません。安吉も、崔賢も、正淑も世を去り、大勢いた戦友たちがみな他界し、わたし1人残りました。わたしと安吉、崔賢が寄りかかって写真を撮った樹木も、いまごろは大木になっていることでしょう。南キャンプはどう変わっているのか、一度時間を割いて行ってみたい気持ちにもなります。

 金正淑は解放後も、真心をこめてわたしにつくしてくれました。

 彼女がどれほどわたしのために心を砕いたかは、数日おきに取り替える襟布も、糊づけをしてはきぬた打ちまでするのをみてもわかります。きぬた打ちをすれば襟布がやわらかくなって首に触れてもかさかさしないからです。糊づけをした襟布に焼きごてやアイロンをかけると、こわばって肌がすれたり、首が動かしにくくなるのです。彼女は、きぬた打ちもわたしが留守のときにだけしました。わたしが家にいるときは、思索の妨げになるからと、きぬた打ちをしませんでした。

 彼女の忠誠心をうかがわせる逸話をもう一つしましょう。

 祖国解放の前夜、対日作戦会議に参加するためモスクワへ行ったときのことです。ある日の夜、迎賓館の寝床で夢を見たのです。金正淑が大きな部屋に本をどっさり持ち込んで、この本を思いどおり選んで読んでください、これくらいの本があれば、司令官同志が一生読みつづけても読みきれないでしょうと言うのでした。目が覚めて同志たちに夢の話をしたところ、彼らは大統領になる夢だと言うのです。彼らは、冗談まじりのおおげさな夢合わせをしたあとで、それは将来運が大きく開ける夢だと言って祝ってくれました。その後、モスクワから帰ってきて金正淑に夢の話をすると、彼女も笑いながら吉夢だと言うのでした。それからひと月ふた月と過ぎるうちに、夢のこともうすらいでいきました。しかし、金正淑だけは、その夢の話を覚えていたのです。解放後、わたしたちが解放山のふもとに住んでいたとき、彼女は書斎にぎっしり書物をそろえて、国も解放されたのだし、これからは思う存分読書をしてくださいと言うのでした。そして、記念に写真を撮ろうと言うのでした。そのときの写真がいまも残っています。

 金正淑の一生は、わたしにつくした一生であったともいえます。彼女は、わたしと結婚してからも終始一貫、わたしを司令官、指導者、領袖としておし立て慕いました。わたしと金正淑との関係は、領袖と戦士、同志と同志の関係でした。彼女は、いつも自分を領袖の戦士と称していました。世を去るその日まで、普通家庭で用いる呼び方でわたしを呼ぶことが一度もありませんでした。わたしを、「将軍」、または「首相」と呼ぶだけでした。

 解放後、女流ジャーナリストたちが、金正淑を紹介したいといって訪ねてきたことがあります。そのとき金正淑は彼女らに、「戦士の一生は、領袖の歴史のなかにあるのです。金日成将軍についてもっと多く紹介してください」と話しました。わたしはその言葉のなかに、金正淑の人並外れた品格をうかがわせるものがあると思います。

 金正淑は一生苦労しつづけて世を去りました。それが、あまりにも痛ましくて、永別するとき彼女の腕に時計をはめてやりました。そうするからといって、彼女が一生わたしにつくした真心を償うことができるわけではありません。また、そうするからといって、彼女を失った心の痛みを癒せるわけでもありません。それでも、わたしは、彼女の腕に時計をはめてやりました。何のいわれもない普通の時計であったなら、そういうことは考えなかったでしょう。その時計には深いいわれがあったのです。

 何年度であったか、祖母が、ぜひ必要だから値は少々はっても婦人用の高級時計を求めてほしいと言うのでした。生涯、柱時計もなしに暮らしてきた祖母が、急に婦人用の腕時計を、それも高級なものをほしいと頼むので、わたしは不思議に思いました。しばらくして、婦人用の腕時計を買って祖母を訪ねました。そして祖母に、この時計をどこに使うつもりなのですかと聞きました。すると祖母は、お前たちが山で何の準備もなしに結婚したと聞いて、それが胸につかえてならなかった、山からおりてきてからもずいぶん経ったのに、まだ祝膳もととのえてやれなかったし、洋服の一着もつくってやれなかった、それで時計でもはめてやろうと思ったのだ、正淑が時計をはめて歩くのが見られたら言うことはないと言うのでした。

 金正淑が冥土の旅に立つときはめていった腕時計には、こういういわれがあったのです。孫嫁にそそぐ祖母の愛情は実に深いものでした。その愛情は、久しい前に世を去った父母の愛情にも代わるものでした。

 ところが、わたしは、彼女に何もしてやれませんでした。彼女は、毎年忘れずに、質素ながらもわたしの誕生祝いをしてくれましたが、わたしは結婚して10年近く暮らしながらも、彼女の誕生日を一度も祝ってやれませんでした。彼女は、自分の誕生日のことは口にさえ出せなくしたのです。

 金正淑に何もしてやれなかったのが気にかかっていたので、共和国が創建された日、昼食時に家にもどり、彼女に酒をついでやりました。その間、わたしのためにいろいろと苦労をかけた、何もしてやれずに苦労ばかりさせたが、きょうはわたしが一杯つぐからほしなさいと杯をすすめました。すると彼女は、なぜ何もしてくれなかったと言うのですか、党を創立し、軍隊を創建し、共和国を創建したのに、それにまさる贈物などないはずです、一生の願いをかなえてくれたのですから、それ以上の望みはありませんと言うのでした。

 金正淑が世を去った翌年、女性抗日闘士たちが金を出し合い党に持ってきて、彼女の墓をりっぱに修築してほしいと願い出るのでした。それで、工事がはじまったのです。牡丹峰にあった金正淑の墓地に行ってみると、鉄柵をめぐらし、囲い石も積み、みかげ石で階段までつくっているところでした。わたしは、そこで工事に参加している女性闘士たちに、みなさんの気持ちがわからないわけではない、だがあれを見なさい、人民はまだ、あんなに小さな家に住んでいる、過去、血涙をしぼって苦労してきた人民なのに、暮らしはまだ楽でない、我々はまだ祖国も統一していない、こんなときにみなさんの手でみかげ石の墓がつくられていることを正淑が知ったらどんなに人民にすまなく思うだろうか、みなさんがどうしてもというなら、墓のまわりに花や木を植えてください、そして、彼女がなつかしくなったときは、子どもらを連れてきてすごしたり、墓の手入れもしてくれればよい、これが正淑のためを思うことだ、だからいますぐ工事を中止し、みかげ石は建設場へ送ろうと言い聞かせました。

 一生涯、同志と人民のためにすべてをささげた金正淑でしたが、子女には、一銭の金も、一つの財産も残しませんでした。彼女が使った金はわたしの月々の給料であり、彼女が使用した家や家具は、すべて国のものでした。

 金正淑が我々に残した遺産といえば、金正日を未来の指導者に育て、党と祖国の前に立たせたことです。みなさんは、わたしが金正日を後継者に育てたと言いますが、その基礎を築いたのは金正淑なのです。彼女が革命の前に残したもっとも大きな功績は、まさにこれです。

 金正淑は世を去る当日にも、枕元に金正日を呼び寄せ、父にりっぱにつかえるよう、そして、父の偉業を継承、完成するよう頼んだのです。それは、金正日への遺言でした。金正淑は、その遺言を残して3時間後に目を閉じました。

 わたしはいまも、よく金正淑を思い出します。彼女は数年間チマ・チョゴリで通すこともありましたが、なぜか私服姿より軍服姿の彼女がよく思い浮かぶのです。いつもよく思い浮かぶのは、体で乾かした衣服を差し出しながら、悪寒を堪えていた姿です。その姿を思い出すと、いまも胸がふさがる思いがします。



 


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