金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 革命家 金策


 <金正日同志は、金日成同志が逝去して数か月すぎたある日、幹部たちにつぎのように述べている。
「錦繍山議事堂には、金日成同志が大事にしていた金庫がありました。その中に何が保管されていたかは、副官をはじめ誰も知りませんでした。
 金日成同志が逝去した後、その金庫をあけようとしましたが、鍵が見つからなくてそれができませんでした。数日前、鍵が見つかったので金庫をあけてみると、その中には金日成同志が…金策同志と一緒に撮った写真が入っていました。…
 元来、金日成同志は、写真を全部党歴史研究所に保管していました。ところが、金策同志と一緒に撮った写真だけは、直接金庫の中に保管していました。これは、金日成同志が戦友の金策同志をいかに偲んでいたかをよく物語っています。…」
 領袖の追憶のなかでの永生、それは人間が一生を通じて浴する光栄のうちでももっとも大きな光栄であり、革命家が生涯をつくして到達できる幸福のうちでももっとも大きな幸福である。金策同志は、その光栄と幸福の絶頂にある忠臣のなかの忠臣である。なにゆえに、彼は領袖の追憶のなかに生きつづける人間となったのであろうか>


 わたしが金策とはじめて会ったのは、ハバロフスクでコミンテルンが招集した会議に参加したときです。そこで崔庸健とも対面しました。それで、わたしはハバロフスクが忘れられないのです。そのとき金策は、北満省党委と東北抗日連軍第3路軍の代表として会議に参加しました。

 1、2日でなく、数か月間ハバロフスクに滞在したので、わたしと金策は、互いにたびたび行き来しました。わたしと同じ宿所には、安吉と徐哲もいましたが、金策はそこに来ては1、2時間話を交わして帰ったものです。

 はじめて金策に会ったときに受けた印象がたいへん強かったので、いまもその対面のときのことが、まざまざと思い出されます。まだ40にもならない年で前頭部がはげかかった彼の落ち着いた姿に、ひと目で心を引かれました。ところが妙なことに、初対面の金策がなぜかしきりに旧知のように思われるのでした。噂を多く耳にし、また心に思い描いていた人だったからでしょう。挨拶を交わした後、初対面なのに旧知のように思われると言うと、彼もやはり、金日成とは初対面だという気が少しもしないと言うのでした。わたしと金策がそのように理解し合っていたということは、互いに相手をそれだけ恋しがっていたことを意味します。

 わたしは金策や崔庸健に会いたいあまり、部隊を率いて北満州にまで行ったことがあります。金策もまたわたしに会おうと、早くも1930年に吉林にまで訪ねてきたことがあるのです。そして、崔庸健もわたしとの共同闘争を熱望し、間島に4回も連絡員を派遣していたのです。闘争舞台は北満州であれ東満州であれ、当時、我々はみな朝鮮革命を考え、自分は朝鮮人で朝鮮の革命家なのだ、団体の所属や地域にかかわりなく、朝鮮の独立のために身をささげるべき朝鮮の息子なのだということを片時も忘れていなかったのです。この共通点が、東満州と北満州の朝鮮革命家をして、久しい前から互いに会いたいと思わせ、思い焦がれるようにしたのだといえるでしょう。

 金策や崔庸健がなおかつ東満州に思いを馳せたのは、朝鮮人が恋しかったからです。東満州の第2軍が朝鮮人部隊であるなら、彼らの所属していた第3軍や第7軍はいずれも中国人が多数を占める部隊でした。言語と風習の異なる中国人のなかにいたので、数十万の朝鮮人が集結していた東満州をうらやみ、朝鮮人が大多数の我々の部隊を憧憬せざるをえなかったのです。

 「金司令に会うのにこんなに遠回りさせられるとは…」

 初対面の挨拶がすむと、金策が独り言のように言うのでした。それが、妙にわたしの胸にこだましました。

 挨拶を交わしてからもなお、金策はわたしの手を離そうとしませんでした。顔を見ると、目がうるんでいました。間島の朝鮮人と朝鮮人部隊がどんなに恋しくて、あの寡黙な人が涙まで見せたのでしょうか。わたしも思わず涙をこぼしてしまいました。

 金策の父親は、国が滅びると間もなく、家族を連れて間島に入りました。間島は、土地が広く、住みよいという噂を聞いたようです。土地からすれば、鶴城も沃土といえるところです。しかし、故郷では、いくら農業に励んでも貧しさから逃れることはできなかったのです。故郷のよさは誰でも知っていることです。糊口をしのぐため、やむなく北国への道を選んだのです。金策の両親は、間島に行きさえすれば暮らし向きがよくなるものと考えました。息子が3人もいたので、人手の心配は要りませんでした。ところが、大きな期待をかけていた3人の息子は家事を放り出し、革命だ革命だと走りまわりました。金策一家に革命の風を吹き込んだのは、兄の金洪善でした。彼は、3.1人民蜂起のとき街頭に出て独立万歳を叫び、独立軍部隊に加わって青山里戦闘にも参加し、共産主義運動にも身を投じました。彼が教鞭をとっていた竜井の東興中学校には、ロシアから来た学生が少なくありませんでしたが、彼らと接触するうちに社会主義思想と出会ったようです。金洪善は、寧安県一帯で共産党の区委を務め、謀略にかかって無念の死を遂げたとのことです。金策の弟も筋金入りの革命家でした。金策は、たまたま新聞紙上で弟が西大門刑務所に服役している記事を読んだことはあるが、その後のことはわからないと言っていました。

 金策は野良仕事をするかたわら、熱心に夜学に通い、そのころから革命運動に参じました。最初に関係した組織は、東満青総でした。その後、共産党にも入党しました。彼が所属した細胞は、火曜派の影響下にあった組織です。彼は、1925年に創立された朝鮮共産党が派閥争いのため、解散させられた党であることを知りながらも、自分が一時、この党傘下のある細胞で生活したことを隠しませんでした。

 当時、満州には、満州総局と呼ばれるものが2つありました。1つは火曜派が掌握していた朝鮮共産党満州総局であり、いま1つは、それに対抗してM・L派がつくりだした満州総局でした。

 ヘゲモニー争奪に終始する派閥争いの内幕を知った金策は、権力争いをこととする共産党の上層人物に幻滅を覚えました。そのうち、獄につながれるようになりました。彼が派閥争いのなかで凋落していく共産主義運動の実態を前にして苦悩しているとき、今度はコミンテルンが朝鮮共産党を解散させたという驚くべきニュースが監房にまで舞い込んできました。派閥争いで満身創痍になった党ではありましたが、それすら解散させられたというのですから胸が痛むばかりでした。

 それでは、朝鮮の共産主義者は今後、どの道を歩むべきか、そして自分がなすべきことは何か、金策は獄中でも、出獄してからもこの一つの考えに没頭したとのことです。既成の世代に頼っては何もできそうになく、だからといって既成の世代を否定するとしても、それに代わる勢力はなさそうだし、いくら考えても活路が見いだせませんでした。そのうえ、出獄はしたものの、ふところに1銭の金もないのだからこの身をどこに置けばよいのだろうか、と思い悩んだ末に、恩人に一言挨拶して行くのが道理だと思い立って訪ねていったのが許憲先生の家でした。

 金策が裁判にかけられたとき、弁護にあたってくれたのがこの許憲先生なのです。金策はもともと、弁護人を求めませんでした。弁護人をつけてもらう金もなければ、弁護を受ける気もなかったからです。ところが、許憲先生は、みずから進んで無料で金策の弁護を受け持ってくれました。彼は、法廷で多くの革命家と独立運動家の弁護を担当し、量刑を減らしたり無罪にしたりしました。

 金策は、許憲先生の家で数日間保養させてもらいました。彼がソウルを発つとき、許憲先生はトゥルマギ(男子用外衣)を着せ、旅費もくれました。当時の金で3円か4円だったそうですが、金策は、その金で汽車の切符を買い、途中の食事代にもあてたそうです。

 金策と許憲先生との縁はこうして結ばれたのです。許憲先生が、金策の弁護を受け持ってくれたのは純粋な愛国心のあらわれでした。朝鮮の愛国者が朝鮮人として当然なすべきことをして刑罰を受けるのが、痛ましく口惜しくて、無料で弁護を受け持ってくれたのです。同情心、連帯感、愛国先輩としての道義といったものが作用したのだというべきでしょう。このように、許憲先生は、実にりっぱな人でした。

 解放後、金策が内閣副首相兼産業相を務めたとき、許憲先生は最高人民会議の初代議長を務めました。かつて、被告席で裁判を受けた人とその弁護を受け持った人がともに国家の高位幹部になったのですから、これこそ奇縁というべきでしょう。

 金策は副首相に任命された日、許憲先生にこういうことを言いました。

 「先生、昔は先生がわたしを弁護してくださいましたが、これからは批判をしてください。わたしが副首相として、人間として間違ったことをしたら容赦なく打ちすえてください」

 許憲先生は、気だてはやさしいが剛直な人でした。もし、金策が過失を犯すなら、ほんとうに打ちすえるような人でした。けれども、許憲先生は一度もそういう機会を得ませんでした。金策は、副首相としても人間としても、批判されるようなことを一度もしなかったからです。その代わり、朴憲永は副首相を務めていたとき、いつも許憲先生に嫌われました。許憲先生は何か思い当たるふしがあったのか、いつもわたしに、朴憲永には気をつけるようにと言ったものです。

 金策の訃報に接して号泣した許憲先生の姿がいまも思い出されます。金日成首相にとってかけがえのない右腕だったのに、あまりにも早くいってしまったと哀惜してやみませんでした。

 金策は、許憲先生の家に厄介になったとき、恥ずかしい思いがして、食事ごとに出される温かいご飯も養分にならなかったと言うのでした。民族のためにこれといってなし遂げたこともなく、分派分子に翻弄されただけで獄中生活をした自分をひとかどの革命家のように気遣ってくれるので、針のむしろに座らされたような気持ちだったと言うのです。百回死んでまた生き返るとしても人民の期待にこたえよう! これは、金策が許憲先生の家を去って間島に向かうときに立てた誓いだったといいます。

 間島の地を踏んだ金策には、その間、父と妻が病死したという悲報が待ち受けていました。家には物心もついていない2人の息子が残っていました。しかし、私事にかかずらっている余裕はありませんでした。日本の特務が、彼を逮捕するために出動したことを知ったからです。日本帝国主義者は、狡猾きわまりない連中でした。革命家を逮捕してさんざん痛めつけては、慈悲でもほどこすかのように正門から釈放し、また裏門から投獄したりするのでした。彼らの狡猾さたるや言いようのないものでした。

 金策は、2人の息子を義兄の家にあずけて村を発ちました。古びた笠をかぶって農夫に変装し、義兄の牛を追って村はずれの峠にさしかかると、その牛が小屋に残してきた子牛を呼んでしきりに鳴くのでした。小屋の子牛も親牛を求めて悲しく鳴きつづけました。偽装も必要でしたが、その親牛をそれ以上引いていくに堪えませんでした。親牛と子牛が互いに呼び合って鳴く声を聞いているうちに、義兄の家に残してきた子どもが思い出されてわれ知らず涙があふれ、子牛も子どもも哀れになり、親牛を放してやったそうです。それ以来、金策は16年間も子どもたちと会えませんでした。金策のような革命家でなくてはありえない話です。

 子どもたちのその後の消息はないのかと金策に聞くと、ないとのことでした。義兄が生きていればなんとか飢えはしのいでいるはずだが、義兄にもしものことがあったら、乞食になっているに違いない、たとえ物もらいをして歩いても、生きていてくれれば幸いだ、生きてさえいればいつかは解放の日を迎え、甲斐性のないこの父とも会えるではないかと言うのでした。

 金策が、わたしの噂を聞いたのは寧安県に行ったときでした、彼が息子らと別れてまっすぐ行ったところは寧安県でした。そこにいた東満青総時代の同僚と満州総局時代の知己から、吉林方面に既成の世代とはまったく異なる新しい勢力が登場している、その指導者は金成柱だ、年はまだ若いが人望があり、包容力に富んだ人だ、軍閥の監獄につながれて苦労し、釈放されたという話があるが、いまはどこで何をしているかはよくわからないという話を聞いたそうです。

 東満青総には吉林とのつながりがあったので、彼らがわたしの活動の概要を知っていたのです。寧安県一帯には吉林で勉学した学生が少なくありませんでした。

 金策はその話を聞くが早いか、わたしを訪ねて出立したそうです。しかし、そのときは、すでにわたしが吉林を去った後でした。ところが、偶然、旅館でわたしの同志たちと出会ったのです。金策は、彼らに後をつけられていたようです。金策の身元を確認し、吉林に来たいきさつまで聞いた彼らは、金成柱はいま吉林にいない、吉林は初めてのようだが、ここでぐずぐずしていないで早く身を隠す方がいい、いま「赤色5月」のあおりで軍閥が革命家を逮捕しようと血眼になっている、金成柱とは後でも会えるから、警察がにおいをかぎつける前に吉林省内から抜け出るのがいいと忠告しました。そして、旅費までくれて見送ってくれたそうです。

 金策はその足で北満州方面に行ったのですが、また国民党軍に逮捕されました。彼が獄中にいるとき9.18事変が起きました。その後、出獄するとすぐ、再び軍閥警察に逮捕され、未決囚として拘禁されました。即決裁判では、死刑を言い渡されました。名目は共産主義者でも、まだこれといった運動もしておらず、軍閥の指一本触れたこともない人に死刑とは、途方もない刑罰でした。当時の満州は、文字どおりの無法地帯でした。金策は刑場にまで引き立てられましたが、九死に一生を得て助かりました。ある将校があらわれて銃殺を中止させたそうです。その将校は多分、反日感情の強い進歩的な人だったようです。金策は、刑場を後にしながら、この世は決して鬼ばかりではないと考えたそうです。

 ところで、このような曲折を経る過程で、彼が得た教訓は何かということです。金策いわく、若いころから革命に参加しようとしたものの、大半は監獄や路上で過ごし、これといったこともできずに追い回されるばかりだったが、武器を手に取ってからはじめて能動的に敵を撃てるようになったと言うのでした。

 「敵は、素手で立ち向かう革命家をかかしのように思っているのです」

 金策は笑いながらこう言いました。そして、武器を取らなければ、武装した強盗の前でかかしのような無力な存在となり、自分自身をも守ることができない、これは人生の教訓だと言うのでした。

 わたしは金策の話を聞いて、正しい教訓をくみ取ったと考えました。それは、金策が半生をかけて得た教訓でもありますが、革命闘争の一般的な合法則性ともいえるものでした。

 革命は銃をもって進めるべきであり、民族の独立や社会的解放をめざすすべての闘争の結末は、おおよそ武装闘争によって決まります。我々が抗日革命で勝利することができた基本的要因も、独自の革命武力をもっていたことにあります。

 わが国の民族解放闘争舞台には、金九、李承晩、呂運亨などの各勢力をはじめ、さまざまの勢力がありましたが、日本帝国主義者がもっとも手ごわい相手とみなしたのは、我々の朝鮮人民革命軍でした。その理由はなんでしょうか。それは、我々が請願やスト、筆や口先ではなく、民族解放運動の最高形態である武装闘争の方法で日本帝国主義者と頑強に戦ったからです。

 抗日革命の勝利は、革命は銃をもって進めるべしとする真理の正当性を実証し、解放後、新しい祖国の建設と社会主義偉業の遂行をめざす闘争の全過程で、我々に革命的建軍路線を堅持し、強力な革命武力を建設することに全力を傾注させたのです。

 国力も銃から生まれ、民族的自負も銃から生まれます。軍隊が強ければこそ民族が興隆し、国も繁栄するのです。銃を抜きにした自主性はありえません。銃が錆つけば人民が奴隷になります。

 こんにち、金正日同志が革命武力の首位に立って人民軍を無敵必勝の軍隊に育て、軍建設で驚異的な成果をおさめていることは、白頭山で切り開かれたチュチェの革命偉業を継承し完成するうえでのもっとも輝かしい歴史的功績です。

 金策は、分派の弊害についても多くのことを語りました。彼は、自分がこれといった活動もできずに投獄されたのは、分派のためだと言うのでした。そして、自分は獄中生活を経験してはじめて、共産主義運動を在来の方法でおこなってはならず、分派を清算しなくては民族解放や階級解放はおろか、なにごともなし遂げられないということを痛感したと言うのでした。また、わたしに会おうとしたのは、吉林に出現した新しい勢力が朝鮮共産党の傘下でもなく、分派とは無縁の清新な新しい世代の集団だと聞いて、そのような勢力とならためらうことなく手を握りたいと思ったからだと話しました。

 彼は、自分の行跡で人生といえるものがあるとすれば、珠河で遊撃隊を組織し、武装闘争をはじめたときからであり、それ以前の生活は彷徨と模索の過程だったと言うのでした。それは事実です。彼は珠河で遊撃隊を組織して以来、北満省党委と東北抗日連軍第3路軍の要職にあって朝鮮革命と中国革命のためにめざましい活躍をしました。北満州の朝中革命家と人民は一致して、金策を老練で洗練された革命家として尊敬し愛しました。

 「わたしは、早くから金司令を注視してきました。我々北満州の朝鮮革命家がどれほど金司令に会いたがっていたかわからないでしょう。我々は、いつも金司令部隊のいる白頭山に思いを馳せながら戦いました。あのとき吉林で金司令に会っていたなら、その間、そんなに気苦労はしなかったはずなのに…」

 金策はつづけて、朝鮮人民革命軍が祖国への進軍を断行して普天堡を襲撃したというニュースに接したときも、最大の願いは金司令の手をとってみることであり、北満州の朝鮮革命家を代表して謝意を表したいことだったと言いました。厳格な人として知られていた金策が、意外にも多感な人としてわたしの前にあらわれたのです。

 彼は、わたしが北満州に派遣した人たちから東満州や西間島のニュースも多く聞いたが、朝鮮人民革命軍主力部隊の活動で第一に模範とすべきだと思ったのは、将兵一致、上下一致、軍民一致の気風であり、思想と精神のうえで見習うべきことは、他国の地で同居生活をしながらも祖国の解放を主要闘争綱領としてかかげ、朝鮮人は朝鮮の解放のためにたたかうべきだと正々堂々と主張してきた自主精神であると言いました。

 金策は、我々の闘争行跡を詳しく知っていました。驚いたことには、わたしが一隊員の銃床を修繕してやったことまで知っていました。彼いわく、革命闘争においても日常生活においても、自分はつねに金司令の部隊をかがみにしてきたと言うのでした。このように、金策は謙虚な人でした。

 金策は我々をかがみにしていたと言いましたが、彼こそ革命家のモデルといえました。彼は猛虎のような人だという評判もありましたが、実際は誰よりも隊員を大事にする政治幹部でした。彼は、銃床にまつわる話を聞いて深く感動させられたと言いましたが、上下関係でのそれと似たエピソードは彼にもいくらでもあります。

 革命軍の戦闘力は何か、それは、同志愛だ、同志を大事にし愛せよ、愛するにしても自分の心臓のように愛せよ、同志より貴い存在はこの世にない、――これが隊員に強調した彼の思想です。

 ある日、他の支隊の隊員が文書をもって金策のところに来たことがあります。彼は、その隊員を兵舎で休ませ、文書に眼を通しました。そのうち夜が更けると、針と糸を持ってその隊員が寝ている兵舎に行き、軍服と下着のほころびを繕ってやりました。昼間、文書を受け取るとき、すでにその連絡員の衣服が破れているのを見て、繕ってやろうと考えていたのです。自分の部隊の隊員でもなく、他の部隊の隊員でしたが、実の兄や父のように気を配ったのです。

 金策は戦闘が終わるたびに、隊員に会って戦果を祝ってやりました。それも、隊員を1か所に集めてではなく、1人1人訪ねまわり、城門を突破するときや満州国軍の兵営を襲撃するときの君の手柄は何であり、呼号工作のときの長所と欠点は何であったといったように戦闘の成果を具体的に評価してやりました。北満州部隊で戦った戦友たちの話によれば、隊員たちはそのような総括があった後はよりりっぱに戦ったとのことです。

 金策は、批判された隊員や処罰を受けた隊員との活動においてもきわめて老練でした。ある隊員が指揮官から忠告を受けると、必ずその隊員に会って過ちを悟ったのかどうかを確かめ、悟っていなければ理解するまでこんこんと諭しました。

 金大洪が、小隊長を務めていたときのことだそうです。ある日彼は、入隊して間もない機関銃副射手を激しくしかりつけたことがありました。戦闘経験のないその隊員は、敵弾がふりそそいでくると、銃を空に向けて発射しました。それを見かねた金大洪は、「この卑怯ものめ、命がそんなに惜しいなら、銃を捨ててさっさと親もとへ帰れ!」とののしりました。戦闘が終わってから金大洪を呼んだ金策は、「隊員にそんなにつらくあたってはいけない。彼は新入隊員ではないか。はじめて戦闘に参加する隊員にあんな悪態をつくとは。隊員をしかる前に、君から率先して模範を示すべきだ」と忠告しました。それ以来、金大洪は絶対に隊員たちに悪態をつかなかったといいます。

 だからといって、金策が部下を甘やかす人だとばかり思ってはいけません。彼は場合によって、説得すべきことは説得し、問責すべきことは問責し、処罰すべきことは処罰する原則性の強い指揮官でした。重い過ちを犯したときには、きびしく追及しました。

 金策の死後、張相竜が彼を回顧して話したことですが、こんなこともあったそうです。1942年の冬のことだといいますから、金策がハバロフスク会議に参加し、再び満州にもどって小部隊活動をしていたときのことです。そのころ、彼らの小部隊は、食糧不足に悩まされていました。ある日、張相竜は終日山を渡り歩いて熊と猪を1頭ずつ仕留めましたが、宿営地へ帰ろうとしているうちに日が暮れてしまいました。獲物を隠して道を急ぎましたが、疲れはてたうえに道も険しくて、宿営地までもどることができませんでした。それで、密営から遠くない狩人の小屋に入って1晩を過ごし、翌朝、宿営地にもどってきました。その小屋は、特務に利用されている疑いがあるとして、金策が使用を禁止していた小屋でした。張相竜が使用禁止になっていた小屋で1晩過ごしてきたことを知った金策は、全昌哲を呼び、「張相竜は、我々の隊伍にいる資格がない。厳重に処分すべきだ」と指示しました。全昌哲は、これまで革命のために忠実にたたかってきた隊員だから、一度だけ許してやってはと懇願しました。しかし金策は、「許せない。まずは屋外に3時間立たせておけ」と命じました。全昌哲は、命令どおり張相竜を外に連れていきました、2時間もたたぬうちに張相竜の体はすっかり凍りついてしまいました。それを見かねた全昌哲は、これならもう張相竜も自分の過ちを十分に反省したはずだから、解除してはどうかと金策に提起しました。すると金策は、過ちを犯した者の処罰を軽減しようとするのも同じ規律違反だといって、伝令に、全昌哲も外に出して立たせるよう命じました。金策はまる3時間が過ぎてはじめて、張相竜を幕舎に呼び入れました。そして、腹を空かしているはずだからまず食事をとるようにと言いました。

 張相竜は食膳に向かったが、さじを取ることができませんでした。自分の過ちを深く反省したからです。それを見てやっと金策は、彼をそばに座らせ、君は自分の過ちが大したものでないと考えるかもしれないが、それではいけない、わたしがなぜそれを重大視するのか、君1人の過ちによって小部隊の位置が露呈し、結果的には我々全員の生命はもちろん、革命任務まですべて台無しにするおそれがあるからだ、それで、わたしがあの小屋の利用を禁止したのだ、しかし、君は上級のそういう指示があったことを承知のうえで、それを無視して一晩冒険をした、そこに特務がいたらどんなことになったろうかとやさしく諭しました。張相竜は、そのときの金策の言葉を一言ひとこと胸に刻みつけたとのことです。

 金策は口数の少ない人でしたが、その代わり彼の言葉の一言ひとことは、法律の条項のようにたがえることのできない重みをもっていました。

 敵はいっとき、北満州の抗日遊撃隊員の士気をそごうと、金策が逮捕された、朴吉松が投降した、ある支隊が帰順した、許亨植がどうなったというとんでもないデマを流したことがあります。それがまったくのつくりごとであることをよく知っている遊撃隊の指揮官と兵士は憤激しました。そのようなデマにうんざりした第2支隊長は、よし、敵にひと泡吹かせてやろうと言って、計略をめぐらしました。彼は部隊の周辺をうろついていた密偵を1人誘い込み、パルチザンが投降するつもりだから、君がもどって憲兵隊と交渉してくれと頼みました。

 憲兵隊は、その密偵を通じて接触の場所と時間を通告し、支隊長には相当な表彰をするという約束まで伝えてきました。そして、帰順者の一隊を引き取るため、約束の時間に密偵を先立てて定めた場所にあらわれました。敵は、林のなかに整列している第2支隊の隊伍を見てにやにやしながら手まで振ってみせました。このとき、第2支隊の隊員たちは、いっせいに銃をかざして「動くな!」と叫びました。支隊長は、敵に「この愚か者め! 我々は投降しに来たんじゃない。お前らをつかまえに来たのだ。手をあげろ!」とどなりつけました。すると、敵の頭目は「共産軍は、嘘をつかないと聞いている。こんな約束の破り方がどこにあるのか。軍隊というものは、信義を重んじるべきだ」と抗議しました。それを聞いた支隊長は「この恥知らずめ! お前らはことさえあればデマを飛ばし、嘘八百を並べながら信義などとよく言えたものだ。お前らがあんまり大ボラを吹くから、我々も一度ホラを吹いてみただけだ」と答えました。

 第2支隊は、敵を全部生け捕りにして帰ってきました。部隊では、支隊長が大手柄を立てたとほめそやし、なかには成功した作戦だとおだてる人もいました。朴得範が食糧調達にかこつけ擬装「投降」をして、きびしく批判されたのと同じような事件でした。

 金策は、第2支隊の指揮官を集め、敵がホラを吹くから遊撃隊も嘘がつけるというのは、いったいなんたる考え方だ、いくら擬装帰順だとはいえ、遊撃隊と投降という言葉を結びつけることはできない、革命軍の指揮官の資格がないときびしく問い詰めました。そして、その場で支隊長を解任し、他の指揮官もみな降任しました。

 こういう話をすると、金策を処罰しか知らない人だと考える人がいるかもしれませんが、彼はやたらに人を処罰する粗暴な指揮官ではありませんでした。

 もう一つ実例を上げましょう。

 戦闘に参加したある隊員があわてたあまり、擲弾筒の弾丸が入っている背のうを戦場に残し擲弾筒だけかついで退却したことがあります。部隊では会議を開き、その隊員に批判を加えました。武器を失くした隊員を批判したり処罰したりするのは、革命軍部隊でも、まれにはあることでした。批判を受けた隊員は、戦友の忠告を当然なこととして受けとめ、二度とそのような過ちは犯さないと決意しました。ところが、ある初級政治幹部が過ちを犯した隊員に厳罰を加えることを提起したので、会議の雰囲気がにわかに緊張しました。

 金策は、過ちを犯した隊員の入隊年度を調べて新入隊員であることを知ると、責任は彼をよく教育しなかった指揮官にあるから、処罰ではなく援助をすべきだと結論をくだし、初級政治幹部の提議を棄却しました。問題がここで終われば何事もなかったはずですが、厳罰を主張した初級政治幹部がなおも自分の主張を通そうとするので、事件はおのずと拡大せざるをえませんでした。自分の運命を憂えて終日、不安にかられて青くなっていた新入隊員は、とうとうその夜逃亡してしまいました。順調に解決されるはずだった問題が、まったく予期しなかった方向に進展しました。処罰を主張した初級政治幹部は、憎悪の的になりました。隊員たちはみな非情な彼を非難しました。なかには反革命分子と糾弾する人もいれば、処罰してしかるべき人間だと息まく人もいました。

 こうした事態について報告を受けた金策は、責任はほかでもなくわたしにある、隊員の政治生命を大切にしない政治幹部がいるのは、政治主任のわたしが責務に忠実でなかったからだと自己批判しました。そして、その日からその初級政治幹部を自分の警護班に編入させ、身近において個別的に教育しました。

 金策は機会あるたびに指揮官と隊員たちに、軍民関係と上下関係を正しく保つよう強調しました。金策は、わたしが他国の地で同居生活をしながらも朝鮮革命の旗をかかげていることを自主性と結びつけて高く評価しましたが、実際は、彼自身も朝鮮人隊員に、我々は中国人部隊で戦っているが、つねに朝鮮革命を忘れてはならない、朝鮮革命は他人がしてくれるものではなく、朝鮮人自身が遂行しなければならない、我々はつねに祖国を忘れてはならないと強調してきました。

 革命にたいする見解、人民にたいする観点、自主性にたいする立場からはじまり、党建設と国家建設、軍建設はもちろん、活動方法と活動作風の問題にいたるまで、多くの面でわたしと金策の間には共通点がありました。

 金策が、自分の生活の細部にいたるまでわたしがよく知っているのには驚いたと言うので、わたしも最初から金策を注視してきたのだと言いました。

 すると、金策は微笑しながらこう言うのでした。

 「顔も知らず、会ったこともない人同士が互いに注視し恋しがったのですから、これも何かの因縁ですね」

 わたしもそれに同感だと言いました。

 金策がわたしに会おうと吉林に訪ねてきたのが1930年の夏ですから、我々の友情はすでにそのときからはじまっていたといえるでしょう。

 北満州部隊の高位職にあった金策は、年齢からしても革命闘争の経歴からしても、満州パルチザンの朝鮮人軍事・政治幹部のなかで長老格にあたる人物でした。また、わたしにしても、当時は、まだ国家元首でも、党総書記でもなかったのです。

 しかし金策は、ソビエト人や中国人の前で、わたしを朝鮮革命の代表者、指導者として引き立てました。どうして彼は自分より9歳も年下のわたしをあれほど絶対的に信頼し引き立てたのでしょうか。もちろん、その理由については、いろいろな側面から説明することができるでしょう。金策は、革命を遂行するには、指導の中心が必要であり、その指導の中心のまわりにみんなが一つに団結しなければならないという思想に徹していました。指導中心への渇望と憧憬が、けっきょくは、わたしにたいする格別の関心と愛情として表現されたのだとみることができます。

 金策は、わたしに会って以来、もっとも近しい同志となり、終始一貫、変わることなくわたしを慕い、補佐してくれました。彼は、時局がどう変わろうと関係なく、わたしにすべてを託して誠実に活動してきました。

 解放後、祖国に帰ってきてからも、金策は、党建設と軍建設、国家建設と産業建設のために全国各地を奔走し、一日として安らかに過ごしたことがありませんでした。

 祖国解放戦争(朝鮮戦争)のときも同じでした。当時、金策が、足を運ばなかったところはないくらいです。前線司令官を務めたときには、忠清道にまで出陣しました。自分は最前線に出ていながらも、わたしが前線視察に出ると、「ここがどこだと思って最高司令官同志を連れてくるのだ。気は確かなのか」とわたしの随行員たちをどなりつけたものです。あのとき、わたしに随行して水安堡に行ってきた人たちは、金策からひどくしかられました。

 吉林時代には、新しい世代の青年共産主義者がわたしを指導の中心として引き立てましたが、1930年代と1940年代の前半期には、金策をはじめ、抗日革命闘士がわたしを統一団結の中心として引き立て、朝鮮革命の主体的路線を貫くためにたたかいました。

 わたしを統一団結の中心として引き立てる過程を通じて、朝鮮革命には指導中心が形成されました。この指導中心をきずくうえで、金策は特別の貢献をしました。わが国の共産主義運動史と民族解放闘争史において金策が果たした役割は、まさにここにあるのです。

 当時、極東の基地には、北満州で戦った人たちもいれば、南満州からきた人たちもいました。それに、そこで生まれ育った朝鮮人もいました。もしあのとき、おのおの自分の部隊をおし立て、自分の主張ばかりに固執していたとしたら、革命隊伍の団結は実現せず、中心も形成されなかったでしょう。

 しかし、極東の基地に集まった朝鮮の共産主義者のあいだには、地方主義やヘゲモニー争いのようなことが一度も起こりませんでした。みな純潔な人たちばかりで、そのようなことが起こるはずもありませんでした。そのうえ、金策、崔庸健のような老将が最初からわたしを引き立てたので、指導中心が確固としていました。

 金策が、わたしをどれほど慕い信頼したかという実例を一つ話しましょう。

 金策は、ハバロフスク会議に参加した後、1942年と43年の大半を満州で過ごしました。彼が満州に行ったのは、北満州で活動する各小部隊を指導するためでした。ところが、小部隊の指導が終わってからも、彼は基地にもどってきませんでした。そのときは、北満州部隊の指揮官である許亨植と朴吉松が戦死した後でした。

 金策は、戦友の血潮がにじんでいる土地を離れたくなかったのです。国際連合軍を編成するとき、指揮部では何回も無電を打って彼の帰還を求めましたが、そのつど仕事を全部終えてから帰るという返電を寄こすのでした。そのころ、金策の小部隊は、無線電信機を持っていました。国際連合軍の指揮官たちは返電がくるたびに、彼の対応ぶりにかなり不満をいだいていました。

 わたしは、金策が、新たな情勢の要請から我々が国際連合軍を編成し、抗日革命の最終的勝利を早めていることを知らないのだと思い、わたしの名で無電を打ちました。金策は、わたしの無電を受けてはじめて基地に帰ってきました。国際連合軍の指揮部が帰還を求めても聞き入れなかった彼が、どうしてわたしの連絡を受けるとすぐ帰ってきたのでしょう。それは、彼がそれほどわたしを慕い信頼していたからです。金日成同志がわたしの帰還を望んでいるなら、早く帰るのが当然だ、だから、理由のいかんをとわず、無条件帰らなければならないというようにわたしの言葉や要求を絶対視したからです。

 金策は、極東の基地にいたときから、心からわたしを引き立て守ってくれました。1941年の春、わたしが小部隊を率いて出陣するときにも、わたしと同行する警護隊員の1人1人について気をつかいました。我々が日本軍にたいする最後の攻撃作戦を準備していた時期には、金策はわたしに知られないように国際連合軍の朝鮮人指揮官を集めて会議を開きました。わたしの身辺警護と関連した会議でした。金策は会議で、全員警戒心を高めて金日成同志の身辺警護に万全を期さなければならない、金日成同志は朝鮮人民と朝鮮の革命家を代表する指導者だから、生命を賭して守らなければならないと強調しました。

 朝鮮人民革命軍の隊員たちが祖国に凱旋すると、金策はまたわたしの警護と関連する会議を開きました。彼は会議で、祖国に来てみると、情勢は聞いていたよりもっと複雑だ、テロ分子の蠢動がはなはだしい、気を引き締めないと、どんなことが起こるかわからない、平安南道党責任書記の玄俊赫もテロの犠牲になった、金日成将軍が凱旋したことを絶対に口外してはならない、公表するときがあるから、むやみに漏らしてはならない、みな警護隊員になった心構えで、金日成将軍の警護に格別の関心を払わなければならないと強調したのです。後には、彼が主動になって警護隊も組織しました。

 金策がどれほどわたしに忠実であったかを話そうとすれば、1日かかっても足りないでしょう。

 いまもそうですが、解放直後にもわたしは対人活動に大きな力を入れました。人民との活動、南朝鮮革命家との活動、外国人との活動のため、息つく暇もありませんでした。解放直後、野坂参三もわが国を経由して日本へ帰りました。

 解放直後は、大事な客が訪ねてきても接待するサービス施設がありませんでした。彼らを宿泊させる迎賓館すらなかったのです。それで、大半のお客はわたしの家に連れていってもてなしました。わたしの家といったところで一膳飯に汁一碗がせいぜいでした。

 国が解放されたばかりだから仕方がないとみな思っていましたが、金策だけは、このことについてずいぶん気をつかっていました。

 彼は、わたしの家で用意する食卓に上等な酒を出せないことを人知れず気にしていたのです。彼は、国の事情が苦しいのも事実であり、我々の手に金がないのも事実だが、将軍の家にお客が来るたびに、いつも1升びんを持って市場に出入りするわけにはいかない、やがて共和国が創建されれば、将軍のところへ数多くのお客が訪ねてくるはずだから、醸造工場を一つ建てて、我々の手で接待用の酒をつくろう、将軍の身辺安全のためにも、酒は我々の手でつくらなければならないと言って、わたしにも黙って全国的に有名な酒と醸造技術者を捜しはじめました。

 解放直後、わが国でいちばんよい酒として評判が高かったのは、龍岡の酒です。ある醸造業者が娘と一緒につくっていたその酒は、解放前、日本の高官と金持ちが好んで飲んだそうです。金策は、彼らを訪ねて龍岡へ向かいました。彼の話に大いに感動したその醸造業者は、国に醸造技術者が必要なら自分の娘を連れていくようにと言いました。その娘が姜貞淑でした。そのときから姜貞淑は、金策の食事をととのえるかたわら、酒をつくりはじめました。彼女が醸造場をつくりはじめると、金策は助手を1人連れて市場に行き、米を買ってきました。間もなく金策の宿所は、醸造場になってしまいました。

 数日後、金策は、最初につくった酒をびんに詰めて、わたしを訪ねてきました。

 「将軍、これは、姜貞淑がつくった初の龍岡酒です」

 金策はこう言いながら、杯になみなみと酒を注ぎました。龍岡の酒がいちばんだという世間の評判は嘘ではありませんでした。わたしが、いい味だとほめると、金策は「それなら安心しました」と喜びを隠しきれませんでした。それ以来、姜貞淑がつくる龍岡酒は、国家宴会用の酒になりました。このことが縁結びとなって、金策と姜貞淑は夫婦になりました。

 金策が領袖の権威をどれほど絶対化したかは、わたしからの電話を受けるたびに、座席から立ち上がって襟を正し、ボタンをきちんとはめてから通話をはじめた事実によってもよくわかります。彼は病床にあるときにも、わたしからの電話だけは必ず起き上がって受けたものです。そばに人がいてもいなくても、そのような態度には変わりがありませんでした。領袖を心から尊敬しない人には、そういうことはできないものです。金策は、わたしがいなければ自分も存在しないと考える人だったのです。

 去る祖国解放戦争のとき、もっともきびしかったのは、後退の時期でした。一時的後退だ、戦略的後退だと公表しましたが、信念の弱い人は、共和国の運命ももはや尽きるのではないかと考えたくらいです。

 敵が沙里院を突破すると、前線司令官の金策は、中和、祥原、江東一帯に平壌防御線を構築した後、わたしに前線の状況を報告しながら、自分は後退してくる部隊で防御兵力を補強して最後までもちこたえるから、将軍は最高司令部のメンバーを率いて平壌を発ってほしいと懇願しました。

 数日後、金策はまた電話で、最高司令部の位置を移すよう建議してきました。わたしは、敵の攻撃をそれくらい遅延させたのだから、もう後退せよと指示しました。しかし、金策は後退せず、党員証だけ送ってよこしました。最後の決戦を覚悟したのです。わたしは電話口に金策を呼び出し、君が帰ってこなければわたしも平壌を発たないと言いました。それでやっと金策は、防御部隊を率いて平壌にもどってきました。彼は、人民軍の再進撃がはじまってから、預けた党員証を受け取っていきました。

 金策は厳格でこわい人だという人もいましたが、実際、彼がきびしくあたったのは、怠け者とおべっかつかい、不平分子、利己主義者、出世主義者と分派分子であって、下部の活動家や人民にたいしては限りなく慈愛深く謙虚な人でした。金策は、同床異夢する者を非常に憎悪したので、朴憲永も彼の前では言行をつつしんだものです。金枓奉も最高人民会議常任委員会委員長を務めましたが、金策と顔を合わせるのを避けていました。

 金策は、矯飾と偽善を知らない人でした。

 解放直後、満州の地をさ迷っていた息子が父親を訪ねてきたのですが、ボタンが2つの麻布の上衣にわらじ履きという姿でした。金策がわたしに挨拶させようとしましたが、息子はこんなわらじ履きの姿では将軍の前に出られないといって尻込みしました。こんな場合、普通の親なら子どもを商店に連れていき、服や靴を買って身なりをととのえてからわたしの部屋に連れてきたはずです。しかし、金策はそうしませんでした。彼は息子に、わらじ履きだからと恥ずかしがることはない、お前は金日成将軍がどんな方かよく知らないからだろうが、心配しないで入ろう、これまで裸足で過ごしてきたのに、いまさら金持ちの息子の真似をするわけにはいかないではないか、将軍は、お前がわらじを履き、こんな服を着てきたのをもっと喜んでくれるはずだ、もし、お前がりっぱな洋服に革靴という姿で来たなら喜んではくれないだろうと言って、息子を連れてわたしの部屋に入ってきたのです。

 16年ぶりに再会したわらじ履きの息子と連れだって金策が、わたしの部屋にあらわれたとき、わたしは涙をこらえることができませんでした。あの日は、金策よりもわたしの方がもっと泣きました。金策自身も心のうちではどんなに涙を流したことでしょう。

 彼は、長い間別れていた息子たちと涙ぐましい再会を果たしましたが、彼らとの生活は4年余りしかつづきませんでした。

 金策が死亡したのは、過労のためでした。彼の負担があまりにも大きかったのです。

 わたしが金策と最後に会ったのは、1951年1月30日でした。その年の1月末といえば、最高司令部が乾芝里に位置していたときです。その日の夕刻、金策が前ぶれもなくわたしを訪ねてきました。彼は、「先月の24日は金正淑同志の誕生日でしたが、首相同志が寂しがるだろうと思いながらも、仕事に追われてつい来られませんでした。今月もすでに暮れだというのに、どう考えても義理を欠いた思いがし、また黙っているわけにもいかないので訪ねてきました」と言いながら遅くなったことをわびるのでした。それで、わたしは「昨年の12月といえば共和国北半部に侵攻したアメリカ軍を追い出そうと目が回るほどだったのだから、互いに訪ねあう暇もなかったではないか。あまり気にしないほうがいい」と言いました。

 その日の金策は、どうしたわけか彼らしくもなく感傷的でした。彼が散策しようというので、一緒に外を歩きました。金策は、戦争前にはこんなすばらしいところがあるのも知らずに過ごしたが、戦争が終わったらここに休養所をりっぱに建てましょうと言うのでした。それで、わたしもそうしようと言いました。事実、解放後、我々は新しい祖国の建設に多忙をきわめたので、どこに休息に適した谷間があり、どこに名所があるのか調べる暇もありませんでした。当時は休息といっても、長水院橋の下や麦田渡し場へ行って足を水につけて帰ってくるといった程度でした。

 その日、かかとのすり切れた靴下を見せまいと気をつかっていた金策の姿が思い出されます。

 わたしは金策に、あまり無理をしないで体に気をつけなさい、この寒い冬のさなかに肌がのぞく靴下では耐えられないだろう、わたしのためを思っても健康に留意しなさいと言って新しい靴下にはきかえさせました。

 その日、金策は、わたしと一緒に夕食をとりたがりました。ところが、許カイが突然わたしの前にあらわれ、党活動の状況を報告すると言うのでした。彼が社交的な言辞を弄してあれやこれやと並べ立てるので、だいぶ時間を費やしました。それで、金策は食事もできずに乾芝里を去りました。彼は最高司令部を発つとき、「将軍、アメリカとの戦いは我々がやりますから、将軍は無理をせずにお体に気をつけてください」と頼むのでした。それがわたしへの彼の最後の頼みだったのです。そう言われて、なぜか胸が熱くなりました。

 その日も、金策は、執務室で夜を明かしました。それで、心臓麻痺を起こして息をひきとったのです。

 軍医局長を兼任していた李炳南保健相から金策の死亡を知らされたとき、わたしはそれを全然信じようとしませんでした。数時間前までわたしと語り合って帰った彼がそんなに突然死亡したというのは、とうてい信じられないことでした。護衛員がひきとめるのも聞かず、白昼に車を飛ばして内閣が位置していたところへ行ってみてはじめて、李炳南の報告が事実であることを確認しました。

 わたしは前日の夜、金策をわたしのところに泊めなかったことを後悔しました。もし、わたしのそばで休んだなら、夜を明かすこともなく、心臓麻痺も起こさなかったはずだと思いました。

 わたしが後悔したことが、もう一つあります。金策がわたしを訪ねてきたその夜、食事も一緒にせずに帰したことです。食事を一食ともにしたからといって、わたしの悲しみがうすれるはずはありませんが、なぜか、そのことがいまもなお心残りとなっています。

 金策と永訣した日のことは、ほとんど覚えていません。ただ一つだけはっきり覚えているのは、出棺のとき、最後に金策の手をとってみたことです。10年前、ハバロフスクではじめて取りあってなかなか離しがたかった手です。10年前のそのぬくもりをいつまでも忘れていませんでしたが、永訣の日にとってみたのは氷のように冷たい手でした。地方の現地指導から帰ってくると、まっ先に駆け寄ってわたしの手をとった金策の手でした。

 金策は、一生をわたしの忠実な戦友として生き、生涯を閉じました。それでわたしは、彼をなおさら忘れられないのです。金策の死後、わたしは彼の息子たちの親代わりになって面倒をみました。外国に留学させ、結婚式もあげてやり、孫娘が生まれたときには祝ってやり、たびたび家に呼んで一緒に食事もしました。それでいながら金策のために何かまだしてやれなかったことがあるように思われて、いつも心が満たされませんでした。

 朝鮮革命が、試練に直面したり、さまざまな難関につきあたるときには、金策のことがしきりに思い出されます。

 以前にも話しましたが、わたしは車で金策の墓の前まで乗り付けたことがありません。彼の墓を訪ねるときには車に乗って行くのがすまなくて、いつも大城山のふもとで車を降りて歩いて登ったものです。金策があの世の人になったからといって、彼を愛し尊敬するわたしの心が変わるはずはないのです。

 わたしは革命の過程で多くのことを体験しましたが、そのなかでも、いちばん胸深く刻みつけたことの一つは同志についての体験です。人民の自由と解放のために決死の覚悟で革命の道に投じた人にとって、もっとも貴いのは同志であり、同志愛です。真の同志は、第二の「わたし」だといえます。「わたし」は、「わたし」を裏切らないものです。それほど忠実で信義に徹した同志が団結すれば、天にも勝てるものです。それで、わたしはつねに、同志を得れば天下を得、同志を失えば天下を失うと言っているのです。

 同志という言葉は志を同じくするという意味ですが、志はすなわち思想です。一時的な利害や打算によって結ばれた同志の関係は強固でありえず、ときによって簡単にこわれてしまいます。しかし、思想、意志のうえで結ばれた同志の関係は永遠であり、そのような同志の関係は、銃弾によっても、断頭台によっても断ち切ることができません。

 朝鮮革命は、指導者にたいする衷情によって崇高な模範を示した数多くの同志を生みました。そのような同志は、わたしのまわりに一つの銀河系をなしています。

 金策の死後、我々は彼を永遠に追憶するため、彼の故郷近くにある城津市と、彼が心血をそそいだ清津製鉄所、そして、平壌工業大学をそれぞれ金策市、金策製鉄所、金策工業大学と命名し、人民軍の軍官学校の一つも彼の名を冠して呼ぶことにしました。金策市には、彼の銅像も建立しました。

 わたしはこんにちも、金策の名で呼ばれる都市と工場、大学が、つねに社会主義建設の先頭に立って進むよう期待しています。

 金策は、人のしんがりについてまわるのをいちばん嫌いました。彼はいつも先頭に立って進みました。わが国の産業建設に残した金策の功績は、大なるものがあります。わたしは、経済管理がスムーズでない工場、企業所を見るたびに、心の中で、もし、金策がこれを知ったら、これを知ったらと考えたりします。彼が産業相を務めていた時期、わが国の経済は、歯車のようにかみ合って順調でした。

 現在、我々のもとには、金策と一緒に活動した幹部も少なくありませんが、みなさんは、彼がわが国の産業建設につくした苦労を無駄にしてはなりません。



 


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