金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 魏拯民についての回想


 <金日成同志は生前、東北抗日連軍の主要政治・軍事指揮官の1人であった魏拯民についてたびたび回想している。その回想談を通じて、金日成同志と魏拯民との並々ならぬ友情、革命家としての魏拯民の人間像と悲壮な最期、彼の末期の苦悩と願望が何であったのかを知ることができる>


 わたしが魏拯民にはじめて会ったのは、彼が満州省党派遣員の資格で間島に来て、大荒崴会議に参加したときでした。それ以来、わたしと魏拯民はいつも抗日の道で厚い友情を分かちあいました。

 魏拯民は、若いころからひたすら抗日愛国の道を歩んできた職業革命家です。彼は安陽の軍事学校で学び、北京で学を修めた時期には抗日デモにも参加しました。革命家としての彼の活動は、9.18事変後、闘争舞台を満州に移して以来、新たな時期に入ったといえます。彼が満州に来て最初に落ち着いたところは、ハルビン道外で、そこで党書記として活動しました。

 風貌からすれば、魏拯民は大学教授を思わせる人でした。武官タイプではなく、文官タイプだったのです。革命の時代でなかったら、科学の探究か著述活動に一生をささげたかもしれない思索家タイプの人物でした。人間としては、素朴でありながら人付き合いがよく、生まじめで穏やかで、謙虚で素直なのが特徴でした。


 <コミンテルンの文書庫に保管されていた「満州の遊撃部隊指揮メンバーについての評定書」には、魏拯民についてつぎのように記されている。
 「魏拯民
 南部グループの副指揮官、中国共産党員、南満党委員会書記……
 政治的能力をそなえた指揮官である。遊撃隊員の評によれば権威のある人物と認められる。経歴にかんする資料はない。偵察局と内務省に彼についての否定的資料はない」>


 魏拯民は中国の革命家でしたが、朝鮮の革命家を支持し、朝鮮革命のために助力を惜しみませんでした。大荒崴会議は深刻をきわめた会議でした。あのとき党派遣員の資格で会議に参加した彼が公正な立場に立たなかったならば、我々はきわめて不利な立場に追い込まれたことでしょう。彼はわたしの主張に耳を傾け、肯定すべきことは肯定し、参酌すべきことは参酌してくれました。腰営口会議を終えた後は、我々が訴えた問題についての結論を得るため、モスクワのコミンテルン本部にまで足を運びました。

 彼がコミンテルンに行ってきたのは、朝鮮革命に利することでした。死線をくぐり抜けて南湖頭に来た彼と抱き合ってほおずりしたあの日のことが、いまも思い出されます。

 朝鮮の革命家は朝鮮革命の旗をかかげてたたかうべきだというわたしの主張は国際主義と矛盾するものでなく、反「民生団」闘争が極左に走ったというわたしの意見も正しいというコミンテルンの見解、それに朝鮮の共産主義者は朝鮮の民族軍隊をもって国内と鴨緑江沿岸で戦うべきだというコミンテルンの結論を伝達しながら、魏拯民がわたしの肩を抱き寄せたとき、わたしは朝鮮革命に尽力した彼の功労を忘れまいと肝に銘じたものです。

 南湖頭会議を契機にして、わたしと魏拯民との友情はいっそう深まりました。そこで、彼と半月ほど起居をともにしたのですが、意思がよく通じて、彼にたいする理解を深めることができました。

 迷魂陣会議では部隊の再編にかんする我々の意思を支持し、その後、祖国光復会の創立も熱烈に歓迎しました。

 そのころから彼は、朝鮮の同志たちとの共同闘争のためには意思の疎通をはからなければならないと言って、朝鮮語を習いはじめたそうです。彼は、朝鮮人の隊員をたいへん大事にしてくれました。これは、朝鮮革命にたいする国際主義的支持と声援のあらわれでした。

 我々も魏拯民のために最善をつくしました。情には情で報いるという言葉があるではありませんか。迷魂陣会議の直後、彼は我々とともに白頭山方面へ向かう途中、富爾河付近で負傷しました。そのとき、我々には、敵を討ってろ獲した数頭の軍馬がありました。わたしは、その軍馬のうちからいちばんりっぱなものを選んで彼に提供しました。彼はその馬に乗って馬鞍山まで我々と同行しました。わたしは朴永純に命じて大碱廠に病院を設営させ、そこで彼を治療するようはからいました。

 その後、魏拯民は、熱河遠征にかんするコミンテルンの指示を伝達するため楊靖宇を訪ねて行き、我々が西間島に進出して白頭山密営の設営を終えようとしているとき、わたしを訪ねてきました。南満州へ行ってきた彼を見ると、その衰弱ぶりは目もあてられないほどでした。彼の持病は、心臓病と胃腸病でした。もともと虚弱な体質のうえに、何事においても身を惜しまないたちなので、病気が悪化するほかありませんでした。いつか彼は、隊員の先頭に立って山をよじ登り峰を越えるとき、心臓の発作を起こして昏睡状態に陥ったこともあります。そんな体でありながら、治療を受けるべきだと勧めると、肉体が冒されるのは怖くないが、思想が冒されるのは怖いものだと笑いに紛らせてしまうのでした。

 わたしは朴永純と姜渭竜に命じて、魏拯民のために横山方面に療養所らしきものを建てさせました。黒瞎子溝密営は前方に位置していたので、彼のような虚弱者を療養させるには不適当でした。

 魏拯民は横山密営でしばらくの間、療養生活をしました。わたしは姜渭竜と金雲信を長白へ送り、人造のスッポンの血をはじめ、彼の養生に必要な薬品や栄養剤を買い入れさせました。彼らは、200元余りの義援金で、人造のスッポンの血はもちろん、白米、小麦粉、缶詰、牛乳、せんべいまで買ってきて魏拯民に供しました。彼は、粉食が大好物だったのです。

 その年の旧正月は、横山密営で魏拯民と一緒に過ごしました。朴永純が空き缶に穴をあけて製麺器をつくったので、魏拯民と一緒にジャガイモの澱粉でつくった麺を味わい、酒も何杯か傾けました。その日は第8連隊長の錢永林も一緒でしたが、彼の料理の腕前は見事なものでした。肉用と野菜用の包丁まで持参して、いろいろな肴をつくったのですが、肉をせん切りにしては何枚もの皿に盛りつけ、素早く薬味をふりかける手さばきは普通ではありませんでした。

 わたしは、魏拯民が人を譲ってほしいと要望すれば、それも聞き入れてやりました。黄正海と白鶴林はわたしが目をかけていた隊員でしたが、指名してきたので送ることにしました。

 黄正海は、中隊長や連隊長の職務でも遂行できる聡明な隊員で、何事においても他にひけをとりませんでした。そのうえ、中国語に堪能であり、大衆工作においても適任者といえました。

 白鶴林もわたしのもとで数年間伝令を務めた隊員です。彼は、誠実かつ純朴であり、身を惜しまない性分だったので、わたしはいつも彼を連れて歩いたものです。普天堡を襲撃するときにも連れていきました。わたしが佳林川のほとりのドロノキの下で戦闘を指揮するとき、彼は四方に飛び回ってわたしの命令を伝達したものです。間三峰で崔賢指揮下の第4師が包囲されたとき、彼らを救出するため第7連隊と警護中隊に突撃命令をくだしたのですが、その命令を伝達したのも白鶴林です。彼がしばらくの間戦闘部隊で戦いたいというので、ある連隊に送ったことがあります。ある日、彼に会ったとき、戦闘部隊での生活はどうかと聞くと、気は弾むけれど将軍のもとを離れては生きていけそうにない、伝令としてまた呼びもどしてほしいと言うのでした。それで、彼を司令部に連れもどしました。彼はわたしと一緒に「苦難の行軍」にも参加しました。あのとき、わたしと一緒に1合のはったい粉を分け合った隊員のうちの1人がこの白鶴林なのです。

 上下間の関係がこのように密接になれば、上下いずれも相手を親兄弟以上に大事にするようになるものです。そういう隊員をいざ他に譲るとなると、わたしも正直なところ心さびしい思いをしました。けれども、重患の魏拯民のたっての頼みだったので、思いきって送ることにしたのです。

 楊靖宇が戦死したという報に接していちばん悲しんだのは、魏拯民でした。悲しみのあまり食事もとらなかったといいます。楊靖宇が戦死した後、第1路軍の指揮にあたった魏拯民は、戦闘でも勇名を馳せました。その年の秋、彼は戦闘で2度目の銃傷を負いました。そのうえ肺結核まで患ったので、それ以上部隊を率いることができなくなりました。

 日本帝国主義者は楊靖宇を殺害したのち、その生首を街にさらし、南満州の抗日連軍部隊を全滅させたかのように宣伝しました。そして、東北地方の抗日武装闘争は早晩終末を告げるだろうと広言しました。

 事実、この時期、東北抗日連軍は、内外で重大な試練に直面していました。日本軍の「討伐」は、日を追って狂暴さを増し、隊内からは背信者と動揺分子が続出しました。いっとき旅団長だった方振声も楊靖宇の死と前後して敵に捕らわれ、変節してしまいました。そのうえ、南満州の第1路軍の大衆的基盤もはなはだしく弱まっていました。

 このような事態は、第1路軍政治委員であり、南満省党委書記である魏拯民に大きな衝撃を与えざるをえませんでした。彼は、自分の活動に手落ちがあり、見過ごすことのできない深刻な欠陥があると考えたのです。

 魏拯民は、自分自身にたいする要求がきびしく、他人の経験や長所を謙虚に学び取る軍事・政治幹部でした。彼はわたしに、朝鮮の同志たちは、遊撃区の解散後も、東満州と国内、西間島の広い地域で党組織の建設と大衆団体の建設に力をそそいだが、その経験を聞かせてほしいと言うのでした。

 遊撃区当時は、間島一帯の県がすべて革命組織の天下でした。6、7歳の子どもまで棍棒を腰にさげ、児童団だの何だのと気勢を上げたものです。女性も封建の殻を打ち破って婦女会に結集しました。組織が大衆に働きかけ、大衆が決起して軍隊と一体となって勇ましく戦い、農作も営み、人民革命政府も建設したのです。

 ところが、南満州の部隊は、遊撃区を離れたあと、軍事活動一面に偏り、大衆工作をおろそかにしました。遊撃区に雲集していた人民を敵の統治区域に行かせた後は、彼らに別段関心を払いもせず、新たな大衆的基盤を築こうともしませんでした。そのため、人民との連係が自然に断たれてしまいました。

 それらの部隊で軍事第一主義の傾向がもっともはなはだしくあらわれたのは、熱河遠征の時期でした。軍事第一主義とは、軍事活動と軍事的対決によってのみ問題を解決しようとする傾向のことです。武装闘争だからといって、軍事一辺倒に走ってはなりません。軍隊を支持し援護し、その人的予備を補ってくれる大衆がなく、大衆的基盤がなくては遊撃闘争はできません。

 我々が抗日遊撃隊を組織した初期は、銃も数挺しかなく、人員もわずかなものでした。それでも我々は、ちゅうちょすることなく抗日大戦を宣しました。我々は勝てるという自信と胆力をもって抗日戦争を開始しました。強力な経済力をよりどころにしていた日本の軍事力と我々遊撃隊の軍事力とでは、事実上対比すべくもありませんでした。では、我々は何を頼んで抗日大戦を開始したのでしょうか。革命的民衆観をよりどころにした政治的思想的・道徳的・戦術的威力をもって日本帝国主義を打ち倒そうとしたのです。

 熱河遠征の無謀さは、人民との連係についての考慮や戦術的な見積もりを欠き、主観的な願望にとらわれて場数を踏んだ戦場を離れ、日本軍と真っ向から対決しようとしたところにあります。

 我々が遊撃区を解散したのち、南湖頭会議と東崗会議で、党建設の推進、統一戦線組織体の結成、共青の反日青年同盟への改編、鴨緑江沿岸と国内への武装闘争の拡大などを決定し、白頭山地区に陣取って祖国光復会の組織を結成し、それを国内の広い地域に急速に拡大していったのは、軍事活動を裏打ちする民衆工作を重視したからです。

 朝鮮人民革命軍は、そうした組織の力にあずかるところが大でした。敵が集団部落をつくり、土城を築いて遊撃隊と人民を分離し、1升の米、1本の糸も土城の外に持ち出せないようにしていたとき、そういう組織がなかったなら、我々にたとえ天に昇り地に潜る才能があったとしても役に立たなかったでしょう。軍と民は、針と糸のような関係であって、いかなる環境にあっても一心同体とならなければならないのです。

 魏拯民が南満省党委の招集した会議で、有能な遊撃隊の幹部を満州各地へ派遣することにしたのは、それまでの欠陥を改めるための措置でした。彼が遅ればせながら失策を悟り、軍事一辺倒の偏向を正そうとしたのは幸いなことでした。

 密営で闘病生活をしていた魏拯民が日夜腐心したのは、莫大な人的・物的損失をこうむった第1路軍の兵力を収拾、再編する方途は何か、失敗と挫折の苦汁をなめさせられた南満州革命を再び高揚に導く方途は何かということでした。彼は迫りくる大事を前にして、伸縮性のある戦略を立て、その戦略に即して戦術を変えるべきだと考えながらも、新たな状況に見合った決断をくだせないのがもどかしくてならなかったのです。

 彼は解決方途の一つとして、関内の第8路軍との軍事的連合についても考えながら、その年の4月にコミンテルンに送った書簡にたいする回答を待ち望んでいました。


 <魏拯民がコミンテルンに宛てた書簡には、当時の彼の苦衷をうかがわせるつぎのようなくだりがある。
 「…1935年の秋…以後…中央との連係が一切断たれ、中央の具体的な指示が受けられず、また中央の文書、通信も受けられない状況で、狡猾な敵の四面攻撃を受けている。
 …我々は実に、茫々たる大海原で船頭を失った小舟にもひとしく、また両眼をなくしてあてもなくさ迷う子どもにもひとしい境遇にある。偉大な革命の波が激しく打ち寄せているのに、我々は他人の家に閉じこもっているありさまであり、空気がまったく通じない大太鼓の中に閉じこめられているさまで…上級機関とのつながりが切れて以来、活動上予測しなかった重大な損失をこうむっている」>


 彼が書簡を送ったのは、コミンテルンと中国共産党中央に第1路軍の窮状をつぶさに知らせるためであり、第1路軍の衰勢を挽回するうえでコミンテルンと党中央の積極的な支援を受けるためでした。

 コミンテルンや党中央への彼のこのような期待は、きわめて現実性にとぼしいものでした。当時コミンテルンやソ連は、自己の安全をはかる見地から満州で日本を刺激しない宥和政策をとっており、党中央は数千里離れた遠方で日本帝国主義者と戦っていたので、東北革命を支援できる状態ではなかったのです。

 そういう時期に魏拯民がコミンテルンや党中央の支援に期待をかけたのは、しばらくの間軍事・政治活動から遊離し、情勢を正確に評価できる客観的な資料が入手できなかったうえに、病気のため心身ともに弱りきっていた事情とも関連しています。

 彼がコミンテルンの回答をあれほど待ち望んでいたのは、第1路軍の欠乏する幹部と軍需物資の補充を書簡で強く要望していたからです。彼は、コミンテルンの支援が第1路軍の衰勢挽回の唯一の方途だと考えていたのです。ところが問題は、連絡員1名を派遣するのもむずかしい状態のコミンテルンが、幹部はどこからどう補充し、軍需物資はどのルートからどう送るのかということでした。実現不可能なコミンテルンの支援に期待をかけるより、破壊された地下組織を立て直し、大衆的基盤を強めたあと、彼らから人的・物的支援を受けるのが適切な方途ではなかろうかというのがわたしの見解でした。

 小哈爾巴嶺会議を終えたのち、わたしは寒葱溝密営で病気を治療していた魏拯民を訪ねました。病苦にさいなまれて青ざめた彼の顔を見ると心がうずきました。介護にあたっていた隊員たちは、彼の銃創の跡はほぼ治りつつあるが、持病がこじれて病状が好転しないと心配していました。密営の悪条件では、現状維持もむずかしいのではと思いました。魏拯民は、胸から何かかたまりのようなものがしきりに突き上げてくると訴えるのでした。それを聞いて、わたしはぎくりとしました。わたしの母が胃腸病に悩まされているとき、よくそういうことを訴えていたからです。

 それでも彼は、しきりに遊撃闘争の当面の課題と戦略戦術上の問題に話題を向けるのでした。我々が新たな情勢の要請に即して、革命力量を保持、蓄積し、大部隊活動から小部隊活動に移行する方針を採択し、それにともなう実践的措置をとりはじめたことを通報すると、彼は朝鮮の同志は情勢を正しく判断し戦略も正しく立てていると言って、我々の方針を支持してくれました。

 そのほかにも、新たな情勢と以後の活動についていろいろと話し合いました。その日、負傷兵と病弱者をソ連に後送する問題や、小部隊活動に必要な冬期の食糧を確保する問題についても協議しました。そして彼に、ソ連へ行って病気の治療をするようにと勧めました。しかし、第1路軍の実態について深く思い煩っていた彼は、まだ正すべきことも多いのでそうすることはできないと言うのでした。かえってわたしに、ソ連へ行ったら第1路軍の実態をコミンテルンに詳しく報告し、コミンテルンにあてた書簡が間違いなく届いたかを確かめてほしいと頼むのでした。

 自分の病気よりも第1路軍の運命を心配する彼を見て、わたしもやるせない思いをしました。楊靖宇が戦死して以来、第1路軍は試練に見舞われていたのです。しかし、その時点では、わたしとしてもまだ、すぐにはソ連に行ける状態でなく、また行く考えもありませんでした。それで我々は、連絡員を通して今後も必要な連絡をとり合うことにしました。

 「金司令、お願いします!」これが、密営を去ろうとするわたしに言った彼の最後の言葉でした。その後、彼に二度と会うことができなかったわたしにとっては、遺言ともいえる言葉だったのです。額面どおり受け取れば、しごく単純で平凡な言葉です。しかし、その日、彼がわたしを見送りながら言った「お願いします」という言葉を、わたしは非常に重く、意味深長に受け取りました。もちろんそれは、彼が一生涯にわたってはぐくみ愛してきた革命を最後まで成功させてもらいたいという意味であったろうと思います。あるいは、第1路軍のことを頼むという意味であったのかもしれません。彼がそう言ってわたしを見つめた眼差しが忘れられません。物悲しい眼差しでした。

 密営を去るとき、魏拯民のために食糧や給養物資を残しておきはしたものの、心は晴れませんでした。米や冬服などを置いていくからといって、彼が元気づくわけではないのです。彼に必要なのは、革命活動がつづけられる健康な体だったのです。

 わたしは黄正海と郭池山に、何がなんでも彼の健康を回復させるようにと頼みました。彼ら2人は、面倒をよくみるから心配せずに帰るようにと言いながらも、しきりにわたしについてくるのでした。名も知れぬ山奥に彼らを置いていくとなると、後ろ髪を引かれる思いがしてなりませんでした。それで、一度頼んだことを何回となく繰り返すうちにかなりの時間を費やしてしまいました。

 後日、ハバロフスクへ行ったわたしは、魏拯民に頼まれたことを全部果たしました。コミンテルンでは、彼の書簡を間違いなく受け取ったと言いました。


 <魏拯民がコミンテルンに送った秘密書簡がはじめて公開されたのは1940年12月、日本官憲の資料集『思想彙報』第25号に全文が掲載された後のことである。
 この書簡が日本帝国主義者の手に渡ったのは、第3方面軍の李竜雲連隊長がその年の秋、汪清で戦死し、敵が彼の所持品を回収した際、その中にそれがあったからだという。そのため、魏拯民の書簡はコミンテルンに届かず、途中で敵の手に渡ったものと解されていた。
 では、コミンテルンが間違いなく受け取ったという魏拯民の書簡は、誰によって伝達されたのであろうか。コミンテルンの文書庫に残っていたつぎの資料はこれにたいする明白な解答になるであろう。
  「極秘 コミンテルン執行委員会御中
 抗日連軍第1路軍副司令、中国共産党南満省委書記魏同志の1940年4月10日付報告と2通の書簡翻訳文を送付する。

シェリガノフ 1940年8月10日」
 この文書には、1941年1月23日の日付とディミトロフの署名がある。
 書簡の冒頭につぎのような文面がある。
 「我々の通報は4つの部分からなっている。ここに述べきれなかった事柄や欠落した事柄も多い。それゆえ、今回そちらに行く王潤成との話し合いによって同志たちの関心事となる諸問題を解明されんことを望む。文面に記せない秘密事項についても彼が話すはずである。同志たちに派遣する人物についてはわたしが特別に保証する」
 この引用文からして、魏拯民は、李竜雲だけでなく王潤成にもコミンテルンあての書簡を託したものと推察される。一部の個所に若干の違いがみられるが、2通の書簡の基本的内容は合致している。ただ李竜雲の所持品から出てきた書簡の内容には、王潤成についての言及がないだけである。
 王潤成は、早くから東満州で金日成同志と密接な連係を保って活動していた「王大脳袋」という別名の持ち主である。彼は、東北人民革命軍第2軍第2師第4連隊の政治委員を務め、後に東北抗日連軍第2軍第2師の政治委員を務めた。
 チュチェ30(1941)年の春、小部隊を率いて死線をくぐり抜け満州に進出した金日成同志は、魏拯民との最後の対面の場となった寒葱溝を訪ねた。しかし、魏拯民一行はそこにいなかった。金日成同志が魏拯民とその護衛兵たちの詳報に接したのは、それから数か月後の年末であった>


 我々が満州と国内での再度の小部隊活動を終えて帰ってくると、ソ連の同志たちが至急わたしに会いたいと言ってきました。ウラジオストクから来たという私服姿のソ連軍の大佐がわたしの前にあらわれました。彼の話によると、抗日連軍の小部隊の一つとおぼしき人たちがソ満国境を越えてウラジオストクに来ているのだが、彼らは自分らの身分を確認できるのは金日成同志しかいないから、ぜひとも会わせてほしいと強く要求しているとのことでした。

 その大佐の車に同乗してウラジオストクヘ向かう道すがら、わたしはさまざまなことを思い巡らしました。もしや、その一行の中に魏拯民がいるのではなかろうか、彼が病死したというのはたんなる噂にすぎないのではなかろうか、という期待をいだいてみたりしました。車がのろすぎるような気がして、やきもきさせられました。

 ウラジオストクに到着して、大佐がわたしの前に連れてきたのは郭池山でした。わずか1年の間に60の老人のように変わり果てた彼の姿を見て、わたしは驚かざるをえませんでした。その姿が、魏拯民一行のなめた辛苦のほどを物語っているように思われました。

 郭池山は、もと延吉地方で教鞭をとっていましたが、遊撃隊に入隊して政治幹部になった人です。最初は、延吉遊撃隊で中隊の指揮官として活動しました。彼は、辛酸をなめつくした洗練された革命家でした。彼から読み書きを習った人がたくさんいます。彼は見識が高く品行方正だったので、どこへ行っても尊敬されました。彼が人びとから慕われ尊敬されたのは、同志のためなら水火をもいとわない人だったからです。それに、人柄もおおらかでした。彼を指して「12幅のチマ」という人もいました。どんな人間であれ、より好みせず、すべて包容するおおらかな人柄ということでしょう。大所帯の雑事をすべて引き受けて気をつかう母親のようだという意味をこめて「12幅のチマ」と呼ぶ人もいました。第1路軍に警護連隊が組織されるとき、わたしは彼を魏拯民の給養担当副官に推薦しました。そのときから。隊員たちは、彼を「郭副官」「郭副官」といって慕いました。彼は、魏拯民のために誠意をつくしました。何回となく死線をくぐり抜けて敵地に行き、食糧や医薬品を手に入れてきました。魏拯民はいつも、自分が生き延びているのは郭副官のおかげだと言っていましたが、それは、いわれのないことではありません。

 しばらくして気を少ししずめた郭池山は、大佐に預けたモーゼル拳銃を持ってきてくれるようにと頼みました。大佐が拳銃を持ってくると、彼はうるんだ声で「魏拯民同志のモーゼル拳銃です」と言うのでした。彼から拳銃を受け取ったものの、「彼はどうなったのだ」という問いの言葉が出ませんでした。魏拯民の姿は見えず、拳銃だけがきたのですから、彼が死去したのは明らかでした。

 その日、わたしははじめて、魏拯民の死にいたるまでの話を郭池山から詳しく聞くことができました。

 わたしが寒葱溝で魏拯民と別れた後、彼らは樺甸県の夾皮溝密営に居所を移したそうです。夾皮溝という地名は汪清県にもあり、東寧県にもあります。満州には夾皮溝という同名の土地があちこちにあるのです。

 樺甸県の夾皮溝に居所を移した魏拯民一行は、密営を2か所に設けました。一つは夾皮溝の北方数里の地点であり、いま一つは西南方のもう少し遠い地点でした。魏拯民は一番目の密営にいました。その密営には黄正海や金鳳男、それに医者の金熙善もいました。7、8名の機関銃班のメンバーも一緒でした。郭池山と金戊M、朱道逸、李学善、全文旭、金得洙らは2番目の密営にいました。両方の密営の位置を知っているのは郭池山だけでした。彼が両方の密営を行き来する労をとって必要な連絡をとったり、食糧の運搬をしたりしました。彼は、家家礼(チャジャリ=中国の義兄弟の契り)を結んでいた満州国軍将校らの助けを受けて食糧を調達していたのです。その将校たちは、郭池山の頼みであればなんでも聞き入れてくれました。憲兵隊の特務隊長も彼の影響下にありました。家家礼に属していた満州国軍の将校や特務隊長は、いずれも二股をかけた人たちでした。彼らは食糧や塩を山にかついできて遊撃隊に渡しては、遊撃隊の古着や破れた靴、穴のあいた鉢などを持ち帰り、パルチザンを何人殺傷したという偽りの報告をして賞金までもらっていたのです。

 魏拯民は、死のまぎわまで筆をおかなかったそうです。報告書を書いたり、遊撃闘争を総括する文章も書いたりしたのです。路軍の活動にかんする文書を起案することもありました。死の瞬間まで仕事をつづけるというのが、革命家としての彼の執念であったのだろうと思います。

 臨終が迫ると、彼は、戦友たちにモーゼル拳銃と文書の包みを渡してこう言ったそうです。

 ──君たちは血気さかんな青年なのだから、あくまで戦うべきだ。革命は君たちに任されている。革命は困難なもので血も流し、犠牲もともなうものだ。しかし苦労することを恐れるな。我々が流した血は無駄にはならないだろう。君たちは必ず金日成同志を訪ねていけ。

 魏拯民が死亡したのは1941年3月でした。享年32歳でした。あまりにも早い死でした。弔銃の音もなく、追悼式もない寂しい永別でした。しかし、戦友たちは、誠意のかぎりをつくして、なきがらを手厚く葬りました。

 しかしその後、山からおりた中国人の隊員が敵の手引きとなってあらわれたため、墓のありかが露呈してしまいました。平素、魏拯民から目をかけられていた隊員だったというのに、なぜそんなことをしたのか理解できません。

 魏拯民を戦闘の場で射殺したという敵側の資料は事実無根です。射殺されたのではなく病死したのです。日本人はそういうデマをよく飛ばしたものです。敵は懸賞金にありつこうとして彼の墓をあばきました。蛮人ならではの行為というべきです。

 魏拯民のモーゼル拳銃がわたしの手に届くまでのいきさつを聞いてみると、彼の護衛にあたったメンバーのその後の道のりにもさまざまな曲折がありました。

 魏拯民は最初、その拳銃を黄正海に渡しました。黄正海を非常に愛し、信頼していたからです。黄正海は最初、連絡員の任務を受け持っていました。ときには、魏拯民の通訳も務めました。その後、警護小隊長となり、もっぱら魏拯民を護衛し、彼の活動を補佐することになりました。魏拯民の要望により、文書や資料の翻訳もし、彼が病床に伏して起き上がれないときには執筆も代行しました。

 黄正海は、郭池山とともに魏拯民の身辺を最後まで護衛しました。彼は、魏拯民を誠実に護衛しました。ある日、密営で魏拯民の白馬が行方不明になりました。黄正海は、機関銃射手に魏拯民を頼み、白馬を探しに出かけました。白馬を探すには、足跡を頼りにしなければなりませんでした。彼は足跡を追っていくらか行くうちに、密営にしのび寄る敵を発見しました。敵も足跡を頼りに密営の方に接近していたのです。事態は、危急を告げていました。警護小隊は食糧工作に出ていたので、魏拯民のもとには黄正海と機関銃射手しかいませんでした。黄正海は直ちに引き返して秘密文書を隠したあと、魏拯民を背に負って密林の中へ駆けだしました。間髪を入れず敵弾が激しくふりかかってきました。すると、彼は魏拯民を抱いて走りました。自分は犠牲になっても魏拯民だけは助けようという気持ちだったのです。ところが、黄正海は肩に銃傷を負ってしまいました。こうなっては、もう魏拯民を抱いて走ることができませんでした。彼は、魏拯民を機関銃射手にゆだね、機関銃をつかんで掩護射撃をしながら敵を牽制しました。

 こういう黄正海を魏拯民が愛さずにいられるでしょうか。魏拯民が、彼にモーゼル拳銃を託したのは理由のないことではありません。

 その後、黄正海は、小部隊を率いて郭池山がいた密営に移ってきました。彼らは猪や熊などの獣を捕って食べたり、携帯用の食料として貯蔵したりしました。そうしているうちに、黄正海は熊狩りをして命を落としました。1発食らって逃げ出した熊を追っていったのですが、その熊が突然襲いかかってきたため、まったく思いもよらぬ不祥事となったのです。思いがけなく惜しい人を失ってしまいました。

 黄正海が保管していたモーゼル拳銃は、こうして白鶴林と同郷の李学善の手にゆだねられました。彼は、一日に1回は必ずこの拳銃を掃除しながら魏拯民をしのびました。その彼がまた、思いもよらぬことで命を落としたのです。李学善が死亡した後、魏拯民の拳銃は郭池山が保管することになったのです。

 郭池山は小部隊活動のかたわら、ケシを栽培しながらソ連へ行く準備を進めました。柳京守の工作班が夾皮溝付近で、郭池山らと連係のある老人に会ったのはこのころだったと思います。その老人が秘密を固く守って教えなかったため、柳京守らは郭池山に会えずに引き返したのです。郭池山らは、ケシを栽培して得た金で軍服を新調し、食糧と塩も買い入れました。そうした準備をととのえて出発したのですが、それでも途中でさまざまな苦労をしたということです。ソ満国境を越えるときは、ズボンを脱ぎ頭に載せて川を渡ったそうです。

 魏拯民の拳銃は、このように幾人もの手を経てわたしの手に届いたのです。

 郭池山はその後、金一の小部隊に加わって満州へ進出しました。そして、家家礼というテコを利用して、以前から連係のあった満州国軍の将校を包容して地下組織をつくり、人民のなかに入って政治工作もおこないました。

 郭池山をはじめ、魏拯民のもとにあってその護衛を務めた朝鮮の共産主義者は、生前に彼があれほど思い煩っていた軍事一辺倒の傾向をなくし、武装闘争の大衆的基盤の強化のためにあらゆる努力を傾けました。

 郭池山が、戦死したのは1943年だったと思います。新たな偵察任務をおびて満州へ行ったのですが、任務を遂行して帰隊する途中、敵弾を受けて倒れたのです。

 魏拯民は、朝鮮革命がもっともきびしい試練にさらされていたとき、我々を心から支持してくれた人です。それで、わたしは、いまも彼を思い出すのです。

 魏拯民は、実践のうえで決心しがたい問題につきあたると、決まってわたしの見解を求めました。彼がどれほどわたしに信頼を寄せていたかは、楊靖宇の戦死後、第1路軍と南満省党委の活動にかんする問題についてすべてわたしと協議したことによってもわかります。第1路軍の幹部が、魏拯民に何か結論を受けに来ると、彼はその幹部を毎回わたしのところに寄こしたものです。

 魏拯民が死去した後、コミンテルンは東北抗日連軍第1路軍の活動と南満省党委の活動にかんする諸問題については、わたしと協議しました。

 魏拯民は、人間としてもりっぱな人であり、革命家としてもりっぱな人でした。りっぱな人間であり、りっぱな革命家であったため、わたしも誠意のかぎりをつくして彼を援助したのです。

 魏拯民を介護するのに多くの人が骨をおりました。命をかけて彼を保護した国際主義者は1人や2人ではありません。

 魏拯民は、朝鮮革命にたいする関心とわたしにたいする友愛の情が格別であったといえます。魏拯民のもとで長らく活動したわたしの戦友たちの話によると、彼はつねに朝鮮革命の運命をわたしと結びつけ、二言目には金日成同志に忠実に従わねばならないと言っていたとのことです。

 魏拯民の生涯が美しいものとなりえたのは、始まりと終わりが変わりないものであったからです。人生の第一歩を祖国と人民のために、人類のために踏み出した人は、人生の終末も祖国と人民のために、人類のために結ばなければなりません。それでこそ、その一生が人びとの記憶に永久に残る高潔で美しいものとなるのです。

 抗日革命の時代は、人びとの精神世界が澄みきっていました。

 国際共産主義運動内に現代修正主義が台頭してからというものは、国際主義という言葉を口にする人もほとんどいません。口をひらけば国際主義を高唱した人たちも、いまは私腹を肥やそうと如才なく立ち回っています。衣食には不自由しても、革命の道を歩む人同士が国籍にかかわりなく、なんでも互いに譲り合った時代が恋しくなります。共産主義者はいついかなる環境にあっても、国際主義的義務と信義に背いてはならないのです。


 


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