金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 1940年の秋


 最近、 抗日革命史を叙述した文を読む過程で、 歴史家たちの研究活動では成果も多かったが、 さらに開拓し深化させるべき部分も少なくないことに気づきました。 とくに、 小哈爾巴嶺会議前後の史料が欠けています。

 1940年の秋は、普通の秋ではありませんでした。 あの秋に我々が体験した幾多の曲折について語ろうとすれば、 おそらく数編の長編小説にしても書き足りないでしょう。 大部隊活動から小部隊活動に移行した時期だったので、 撫松県城戦闘や間三峰戦闘のような大規模な戦闘はありませんでした。

 抗日革命史上、 「苦難の行軍」 ほど苦しい行軍はなかったし、 「苦難の行軍」 のときほど苦しい時期もなかったとはよく言われることで、それは確かです。 しかし、 1940年の秋に我々が経た試練は、それに劣らぬものであったといえます。 「苦難の行軍」 が、肉体的苦痛の限界を超えた試練であったとしたなら、1940年の秋に我々が置かれた逆境は、精神的苦痛が非常に大きかったいま一つの試練でした。

 肉体的苦痛であれ精神的苦痛であれ、それを耐えぬくには強い意志がなくてはならず、それは自分自身との不断の闘争をともないます。 我々が、1940年の秋に経た体験はまさにそういうものでした。

 小哈爾巴嶺会議以後、大部隊活動から小部隊活動に移った後、我々は新たな闘争戦略に即して部隊を再編し、方面軍の管下にいくつもの小部隊を組織しました。

 その小部隊の活動地域と任務を分担した後、わたしは小部隊を率いて延吉方面に進出しました。そのとき金一の率いる小部隊には、 汪清、 東寧一帯で活動する任務を与え、 呉白竜の率いる小部隊には、延吉、 安図一帯で越冬用の食糧を調達する任務を与えました。

 我々は、延吉県発財屯の奥地で呉白竜の小部隊を待っていました。 ところが、何日経っても連絡がありませんでした。 トウモロコシ1本のためにも血を流さなければならない時期だったので、 ありうることでした。 米の1升でも得ようとすれば集団部落に潜り込まなければならないのですが、それは命をかける覚悟がなくてはできないことでした。

 我々はその年の夏中、ほとんどヤナギヒゴタイだけで食いつなぎました。ヤナギヒゴタイは山にいくらでもありましたが、空腹をそれだけでいやすとなると、いくら食べてももの足りなくて耐えられませんでした。

 そんなときに、食糧のありそうな所へ偵察に行った隊員が、谷の下手に仮小屋を発見したと報告してきました。朝鮮の農夫3人が寝泊りしている仮小屋で、そのまわりには犂(スキ)で畝までつくったかなり広い畑もあり、その農夫たちに話せば食糧をいくらか手に入れることができるのではなかろうかと言うのでした。

 それで、姜渭竜を仮小屋へ差し向けることにしました。 彼には、仮小屋の主人に、我々が遊撃隊であることを隠さず話すよう言い含めました。 姜渭竜が頼み込むと、 農夫たちは難色を示したそうです。 そして、 食糧を求めるには明月溝まで行かなければならないが、 警戒がきびしくてむずかしい、けれども遊撃隊の頼みだから断るわけにはいかないと言って明月溝へ向かったとのことでした。 姜渭竜からこういう報告を受けたわたしは、 隊員たちに警戒心を高め、 警備を強化するよう指示しました。

 その日、 炊事場では、ツルニンジンの粥を炊きました。 ツルニンジンをたたいてじっくり煮込むとお粥のようになるのですが、 これに穀粒を少々足せば結構食べられました。 山菜の料理としては上等といえました。 粥がさかんに煮え立っているとき、立哨中の孫長春が駆けつけ、 敵の大軍が押し寄せてくると騒ぎ立てました。 監視所に出てみた隊員たちは、敵がどこから来襲しているのか全然見えないと言うのでした。 それでも、孫長春は山のふもとを指差しながら、 あそこに敵がいると言い張りました。彼の指差す方には、木の株しかありませんでした。 熱病を患ったばかりの人は、 彼のように木の株を見ても人間と錯覚するものです。 彼は熱病が治って間もなかったのです。 わたしが孫長春を立哨勤務につかせた指揮官を問責している間に、 炊事場にいた隊員たちは敵来襲の声を聞いて、 せっかくの粥を全部こぼしてしまいました。

 数日後、 食糧を求めにいった仮小屋の主があらわれたという報告がありました。 明月溝へ行ったのは2人のはずでしたが、 洋服姿の紳士が1人ついてきてわたしとの面談を求めているとのことでした。 その紳士というのは、 以前、 汪清遊撃隊で中隊長を務めたことのある崔容彬でした。

 崔容彬は、ひとかどの勇士で、 もともと大の力持ちでした。 ある日わたしを訪ねてきた彼は、 体が衰弱したから当分の間、 職務を解いて休息させてほしいと言うのでした。 それで、しばらく休みをとらせることにし、 小汪清の奥地へ行って狩猟でもして、 保養かたがた地元の党組織の活動も援助してやるようにと話しました。 ところが、 しばらくして 「民生団」 の汚名を着せられた彼は、 妻に置き手紙をして敵の統治区域に行ってしまいました。手紙の内容なるものは、 子どもをよろしく頼む、 おれは革命に参加して「民生団」 にされた、 犬死したくないのでここを去るのだから、 そう思ってくれ、 だがどこへ行っても革命活動はつづける というものでした。 出産して間もない彼の妻が、 その手紙を持って泣き泣きわたしを訪ねてきたのです。 産後の肥立ちがよくないためか、 顔がむくんでおり、 赤児はいまにも息が絶えそうなありさまでした。 半死半生の妻子をすてて自分一人生きのびようと敵地へ逃亡してしまった崔容彬、 お前はいったい何たる人間なのか! わたしの胸には、むらむらと怒りがこみあげてきました。 わたしは心の中で崔容彬を薄情な人間だとなじりながらも、 手紙に書かれているとおり変節せず、 革命活動をつづけてくれればと願いました。 それからというもの、 崔容彬に代わって我々が彼の妻子の面倒をみてやったのです。 後には、 この親子を負傷兵と一緒にソ連に送りました。

 ところが、 あのようにふいと姿を消してしまった崔容彬が、 5年を経てわたしを訪ねてきたのです。それも、 「民生団」 の狂風が吹きまくっていた当時よりさらにきびしい時節にです。

 崔容彬は、鍋をぶら下げた背のうを背負った姿で、 軽々と山を登ってきました。 これといった苦労もしていないらしく、 容貌もすっきりしていました。 彼は、司令部のテントに入るやいなや 「本当に久しぶりです!」 とわたしに走り寄りました。 わたしもうれしく彼を迎えました。 過去はどうであれ、汪清時代わたしの配下にあった指揮官ではありませんか。

 崔容彬は、わたしと対座するが早いか、 遊撃隊に舞いもどろうと山中をさ迷い歩いたことを長々と話しました。 食事はすませたのかと聞くと、 山のふもとで飯を炊いて食べてきたところだと答えました。そして、 背のうから米袋やカレイの干物、 酒などを取り出すのでした。 背のうにぶら下がっている鍋を見ると、 煤が全然ついていないではありませんか。遊撃隊を探して山中をあちこちさ迷ったという人、 それもいましがた飯を炊いて食べたという人の鍋に、 煤がまったくついていないというのはおかしな話でした。

 わたしは、 彼が李鍾洛と同類の汚らわしい人間になったことを確信しました。 ひところ、部隊では、彼が帰順したといううわさが立っていたのです。 彼はわたしからどう見られているのかも知らず、 コップに酒をなみなみとつぎ、 再会を祝って乾杯しようと言うのでした。 わたしがそれを拒むと、 コップを上げた彼の手が急に震えだしました。 わたしの声が怒りをおびていたので、 自分の正体が露見したものと思ったようです。

 わたしは、 「崔容彬、 隠さずに言え。 仮小屋の主とはどういう因縁で会い、 ここに来た本当の目的は何か」 と問い詰めました。 彼は、 もはやすべてを観念したようでした。 それで、 仮小屋にいた3人は密偵であり、 自分は彼らの報告を受け、 3個の 「討伐隊」 を導いてこの谷あいを包囲させてから登ってきたと白状しました。 彼が合図さえすれば、 「討伐隊」 がいまにも攻め寄せてくる形勢でした。

 わたしは、 抜け出しがたい包囲に陥ったことを察知しました。 しかし、 そのときわたしの心をさらに苦しめたのは、 死ぬか生きるかの危難にさらされたということよりも、 崔容彬が、日本の犬になって臆面もなくわたしの前にあらわれたということです。

 それにもまして唖然とさせられたのは、 彼がわたしを 「帰順」 させようとあらゆる詭弁を弄して御託を並べることでした。 彼はわたしの顔色をうかがいながら、 金将軍がどんな苦境に陥っているかをよく知っている、 満州全土は日本軍で埋めつくされている、 もはやなす術がないではないか、金将軍は民族のためになしうることはすべてなした、 この際「帰順」 したからといって非難する人はいない、「帰順」 した人はみないい目を見ている、 将軍も山をおりれば吉林省の省長のポストにつけるといっている と並べ立てました。

 わたしは崔容彬の話を聞くに堪えず、 「容彬、 お前はどうしてこんなざまになったのか。以前は汪清で中隊長まで務めたというのに恥ずかしくないのか。 それでもわたしは、 お前が妻子をすてて逃亡したとき、 惜しい指揮官を失ったと残念がったものだ。 お前がこんな姿であえてわたしの前にあらわれるとは。 妻子もすてて敵のふところに転げ込んだお前に人間の良心があるといえるのか。 汚らわしい人間になり果てたものだ」 と非難しました。

 自分のことだけを考える人間は結局はこうなるものです。 崔容彬の変節は、 体の衰弱を口実に中隊から離脱し、 小汪清の奥地へ行って生活したときからはじまったのだと思います。 あのとき、 彼は革命のことよりも自分一個人の保身を先に考えたのです。 「民生団」にされ、 無駄死にするのがいやで敵地に行ったとはいうものの、 それは革命への信念が弱くなった結果といえます。

 崔容彬の実例が示しているとおり、 革命の道から一歩退けば、 行き着くところは変節です。 それで、わたしはいつも隊員たちに、 革命家の進む道は生きようと死のうと革命の道一つしかない、 この道から外れれば、反動になり、 裏切り者になり、 人間のくずになる、雨風や敵弾、 食糧難、 山岳行軍、 監獄、絞首台などが怖くて革命を中途で投げだす人間は、刑具の前に何度か引き出し、 トウガラシの水を飲ませるだけで、 すぐさま旗色を変えてしまうものだ と話したものです。

 背信というのは、良心をすてることからはじまるものだといえます。 これは、崔容彬の事件が我々に残した教訓です。 間島で 「民生団」 問題で多くの人が処刑されたころには、 崔容彬のように遊撃区を離れて敵地に行った人が少なくありませんでした。 しかし、 革命家の大部分は、「民生団」の濡れ衣を着せられ、 いわれのない迫害を受けながらも遊撃区を離れず、 革命隊伍に留まりました。 なぜでしょうか。 たとえ、死んでも良心を売ることはできないし、 革命に背を向ければ反革命の道しかないことをあまりにもよく知っていたからです。 このように、 革命家は、良心をすてて革命の旗の前から去ることを恥とし、 死にひとしいと考えたのです。 言わば、人の道にはずれた行為と考えたのです。

 神仙洞遊撃区であった話です。朴成哲の中隊に仁淑という女子隊員がいました。 ある日、立哨中だった朴成哲のところに仁淑が来て一通の手紙を見せました。それは、他の中隊の中隊長を務めている彼女の夫が妻に宛てた手紙でした。手紙の内容は 「赤の捕り縄にかかった」 というものでした。 これは、「民生団」 の濡れ衣を着せられたという隠語でした。

 当時、 朴成哲は、中隊の青年幹事を務めていました。 仁淑が幹事にそういう手紙を見せて自分の運命にかかわる問題を相談しようとしたのは、 組織観念の見地からしてよいことでした。 仁淑は朴成哲に、夫が 「民生団」 の烙印を押されたのだから自分も無事ではいられそうもない、 いわれのない死を強いられるくらいなら敵地に行った方がよいと思うが、 どうだろうかと言うのでした。

 朴成哲は、 なんということを言うのだ、 敵地に行くというのは革命闘争を放棄することを意味する、それは投降するにひとしいことだ、 そんなことをしてはいけない とたしなめました。仁淑は、 いや違う、「民生団」の縄を避けようというのであって、 革命闘争を放棄しようというのではないと言いました。 すると朴成哲は、革命の隊伍から去れば反革命の道しかないではないかとじゅんじゅんと諭しました。

 仁淑は、彼の話を聞いて、 自分が革命家としての道を踏み外すところだったと悔いたそうです。 そのとき、朴成哲が彼女を諭したからよかったものの、 それとは反対に、 死にたくなかったら行けとでもあおったとしたらどういうことになったでしょうか。

 仁淑は、遊撃区を離れず、 革命の隊伍で戦いつづけ、 壮烈な戦死を遂げたとのことです。彼女が革命か逃亡かという二者択一の道で、 逃亡の道ではなく革命の道を選ぶことができたのは、 一身上の問題を自分一人の主観によって処理せず、 青年幹事に打ち明けて組織の助言を求めたからであり、 いったん組織の助言を受けた後は心を入れかえて理性を取りもどし、 革命家らしく動揺を克服したからです。

 ところが、 偉丈夫の崔容彬は、 同志の助言を受けようともせず、 妻に置き手紙を一枚残し、 卑怯にも敵地に逃亡してしまったのです。 彼が人間の良心を少しでも尊ぶ人間であったなら、 出産したばかりの妻を置き去りにして、 あのように敵地に逃亡するという卑怯な真似はしなかったはずです。 彼には、克己心が欠けていたのです。 彼の運命は、ここにおいてすでに決まっていました。 克己心のない人は、想像もできない大罪を犯すようになります。 自分一個人のみを考える人間、 自分の感情のみを絶対視する人間は、 いつかは革命を裏切るものです。 裏切りというものは、 どんな場合でも「自分」というものからはじまります。「我々」というものからは裏切りが生じないし、 生じるわけもありません。ですから、革命家はつねに 「自分」を抑制し、「我々」というものに習慣づけられるよう、 たえず努力しなければならないのです。 これがまさに、 革命の道に投じた人間の汚れのない良心であり、 つね日ごろ、 自分を完成させていく修養の過程なのです。 自分一個人のみを考える人間は、決して革命家にはなれず、 革命の道を最後まで歩むこともできません。

 南牌子では李鍾洛が日本軍属の服装であらわれては「帰順」を説き、「苦難の行軍」のときには李虎林が逃亡し、 林水山も変節し、 今日はまた崔容彬がやってきてどうのこうのと言うのですから、 わたしの気持ちがどんなものであったか察しがつくと思います。

 ところで、 問題はどこにあるのか。 李鍾洛にせよ崔容彬にせよ、 わたしが大事にし信頼していた人間であったということです。 さほど大事にもせず、 信頼もせず、 愛しもしなかったなら、 あれほど心を痛めはしなかったでしょう。 朝鮮革命軍時代の隊長といえば相当なものでした。 抗日遊撃隊の中隊長というのも並のポストではありません。 変節しても家に閉じこもっていたというならまた話は別です。 革命を裏切ったことがいかに良心に外れた恥ずべきことかも知らず、 かつての上官の前に臆面もなくあらわれて、「帰順」を説くのですから、 余計心がうずいたのです。 彼らはなぜそれを恥ともせず、 わたしの前にあらわれることができたのでしょうか。 革命は失敗に終わったのだから、昔の司令官を訪ねて「帰順」 を説いてもかまわないと思うほど情勢にうとく、 人間そのものが堕落しきっていたからです。

 崔容彬は、李鍾洛と同じ運命をまぬがれませんでした。

 その日、 敵は我々がこもっていた山を二重三重に包囲しました。 四方八方焚き火の海でした。しかし、 いくら網を張っても山全体を覆うことはできないものです。 敵は大体、 山の尾根や谷間に歩哨を立てて包囲陣をしくのがつねでした。 我々は敵同士を衝突させ、 山腹をつたってそこから抜け出しました。 明月溝から安図に通じる道路を横切って森林に分け入り、 ひと息つきながら動静をうかがうと、 我々のいた発財屯の奥地に登りつめた 「討伐隊」は、同士討ちを演じていました。我々は密林の奥に姿をくらましました。

 こういう予想外の状況が生じたため、 呉白竜小部隊との接触がむずかしくなりました。 呉白竜の小部隊とは、発財屯の奥地で会うことになっていました。 呉白竜部隊の連絡員に会うには、 誰かがそこへ行かなければならないのですが、 それは死を覚悟しなければならないことでした。 それよりなお問題なのは、 発財屯の奥地が敵の手に渡ったことを呉白竜の連絡員が知らないことでした。

 わたしは、池鳳孫と金洪洙を連絡地点に派遣しました。金洪洙は長白で入隊したばかりのころ、「チビ新郎」というあだ名で呼ばれていた責任感の強い隊員でした。 この2人は翌日の夕刻、 約束の地点で連絡員に会い、 呉白竜の手紙を受け取って無事に帰ってきました。彼らが連絡員に会うため約束の地点まで潜入していったいきさつを聞いてみると、 本当にはらはらさせるものがありました。 立ち木を一本一本抱くように隠れながら進んで行ったそうです。 呉白竜らはその間、 集団部落を襲撃していくらかの食糧を手に入れました。 後に、彼らはその大部分を司令部に送ってよこしました。

 発財屯を発った我々がつぎに居所を定めたのは、 安図県の黄溝嶺基地でした。 ここで1940年の冬を過ごしながら、 小部隊活動をくりひろげることにしました。 小部隊活動をくりひろげながら破壊された革命組織を立て直し、 大衆基盤をかためるには、越冬準備に万全を期さなければなりませんでした。それで呉白竜の小部隊のほかにも、各小部隊に食糧と塩、 布地など越冬準備に必要なさまざまな生活必需品を購入する任務を与えました。

 越冬準備でもっとも重要なのは、 政治的思想的準備でした。 いかに困難な状況下でも革命的信念を守りとおせるよう、隊員の思想教育に格別力をそそぐ必要がありました。 それに、 いつにもまして規律を強め、 不祥事が発生しないようにしなければなりませんでした。

 ところがその後、 姜渭竜の小部隊では気のたるんだ現象があらわれました。密営の設営に適した場所を探索していた彼らは、 渓流に群がる魚を見て見境なく銃を発射したのです。わたしはその話を聞いて肝を冷やしました。 その近くの山頂には、 敵兵が砲台の構築に動員されていたというのに、 そんな所で銃声をあげるとはなんと危険きわまる行為ではありませんか。 ひと冬密営に構えて多くの活動をしようという計画が、 数発の銃声のためご破算になるところでした。

 当時のことでいま一つ忘れられないのは、 牛をめぐっての事件です。 この事件の張本人は、張興竜でした。 彼は機関銃小部隊の分隊長でしたが、 食糧工作のため小部隊を率いて夾皮溝方面へ出かけたのです。 ある日、 彼は牛を1頭引いてきたのですが、 それは伐採場の牛でもなく、 角に王の字の印がある民会の牛でもない、 農民の牛でした。 もちろん、それなりの事情はありました。 彼らは部隊の食糧を調達する目的で村へ行く途中、 山の中でその牛を発見したそうです。 牛の主を捜そうとあちこち歩き回っても見つからないので、 張興竜は隊員たちにその牛を密営に引いて行かせ、 自分はその場に残りました。 牛の主があらわれれば、事情を話して代金を払うつもりだったのです。 ところが、 いくら待っても牛の主はあらわれませんでした。結局、 彼は代金を払えずに密営に帰ってきました。 後にわかったことですが、 その主が牛を連れに来たところ、 銃を手にした人間が行ったり来たりしているので、 恐れをなして逃げ出したということでした。

 張興竜の小部隊が代金も払わずに農民の牛を引いてきたという報告を受け、 わたしは憤慨に堪えませんでした。 革命軍の服務条例をよく心得ていない新入隊員ならいざ知らず、 古参の張興竜がそんな途方もない脱線行為をするとは、 とても信じられませんでした。

 張興竜は、1932年に自衛団との戦闘で指を一本撃ち落されて捕虜になり、 その後脱出して帰隊したことがありました。 最初、 同僚たちは、 彼が敵の回し者になってもどってきたのではなかろうかと疑いました。 彼は、戦友の信望を得ようと涙ぐましい努力を重ね、 車廠子遊撃区でのひどい飢餓にも耐え、「苦難の行軍」も耐えぬきました。 そういう人が、 主の承諾も得ずに牛を引いてくるという過ちを犯したのは理解しがたいことでした。

 軍民関係を損なわないようにするのは、 武装闘争当初からわたしが強調してきたことであり、 人民革命軍の服務条例にも明記されていることです。1940年当時は、 軍民関係が非常に高いレベルで維持されていた時期です。 それがどれぐらい潔癖なものであったかといえば、 人民が給養物資を送ってよこすと、それを送り返すくらいでした。

 1940年の春、 洋草溝で戦闘があったときのことです。 戦闘が終わると、 村人たちが我々にたくさんの鶏を送り届けてくれました。その返礼として、 我々もまた彼らに鶏代の数十倍に相当する金を渡そうとしました。 すると、 村人はとんでもないことだといって怒りだしました。 革命軍は、人民の息子、 娘で組織された軍隊だというのに、 自分の子から金をもらえというのか、誠意を無視するにもほどがあると言うのでした。そう言われてみると、返す言葉がありませんでした。 人民の誠意に遊撃隊が金の支払いでこたえようとしたのですから、 彼らにしてみればさぞ残念だったに違いありません。 それでも我々は、 金を受け取らなければ鶏はもらわないと言い張りました。 こうして、 金と鶏は何回となく行ったり来たりしました。 結局は、我々が鶏を受け取り、 村人が金を受け取るということでけりがついたのです。けれども、 部隊が洋草溝から撤収するときには、 そういう鶏すらそっと放してきたものです。

 どうでしょう。これは昔の話でもなく、数か月前のことだというのに、張興竜はそういう前例を無視してこんなことをしでかしたのですから、 わたしの気持ちがどうであったかは察しがつくはずです。

 張興竜にたいする隊員たちの批判は、峻烈をきわめました。 張興竜は死をもってしてもこの過ちをぬぐうことはできないと弾劾しました。 当の張興竜も深刻な自己批判をしました。 心底からの自己批判だったので、 軽い処罰を適用するだけにとどめ、 牛を持ち主に返すよう命じました。

 1941年にわたしが小部隊を率いて再び満州に来たころ、 張興竜は金一の小部隊に加わって活動中、戦死しました。

 我々が黄溝嶺基地を拠点にして活動していたころ、逃亡事件が発生したこともあります。逃亡者は小蔡という中国人の隊員でした。 彼はいつも里の家を恋しがっていました。 中秋の日などは月餅を食べながら泣いたりするほどでした。 たいへん気の弱い人でした。 それで、 党組織は彼にたいする個別教育に力を入れました。 彼が伝染病にかかったので、 後方病院へ送りました。 その後、 彼が炊事隊の女子隊員に故郷へ帰ろうと誘った事実が司令部に報告されました。 彼は軍務にも誠実でありませんでした。 当直をさせると居眠りをし、 歩哨勤務を命じると腹が痛くてたまらないと仮病をつかいました。 革命は強制してできるものではありません。 彼は、とうとう我々の誠意を裏切って逃亡してしまいました。

 ところが、 逃亡した後の行動が問題でした。 彼は、隊伍を離脱するやいなや 「討伐隊」 の手引きとなって、 我々に襲いかかってきたのです。 大部分のメンバーが小部隊工作で出払い、 密営にはわたしと数名の伝令しかいませんでした。

 その後、 我々は司令部の位置を孟山村の奥地に移しました。小部隊と工作班は、 任務を遂行し次第ここに集結しました。

 呉白竜の小部隊は、数100石の食糧を手に入れて秘密の場所に貯蔵しておきました。トウモロコシ畑を丸ごと買っては実を取って麻袋につめ、 富爾河から20キロほど離れた密林の奥に倉庫をつくって蓄えておいたのです。

 ソ連で開催される朝・中・ソ軍事指揮官会議に参加せよというコミンテルンの連絡が届いたのはこの時分でした。前にも話したように、 その連絡を受けたとき、 わたしは、まず先発隊を派遣して向こうの状況を具体的に調べさせる一方、 従来の方針どおり東北地方での越冬の準備を完了しておくことにしました。

 ところが、 その食糧が全部敵の手に渡ったという報告が飛んできたのです。 畢連隊長の裏切り行為のため、 食糧を貯蔵しておいた場所が露呈したというのです。 畢連隊長なる者は、金明花が敦化の密林で手厚い介護の末に生き返らせた、 かの畢ロカデです。 連隊長まで務めた彼が、 試練に耐えることができず変節したのです。

 食糧貯蔵庫の位置を探り当てた敵は、 山に火を放ち、 人々を動員して倉庫をぶちこわし、食糧を全部運び出していったのです。 数か月間の苦労が一朝にして水の泡になってしまいました。

 しかし、そういう困難に直面しても、わたしは動揺しませんでした。 もちろん、 そのころの難関は深刻なものでしたが、 そういう難関に直面したのは一度や二度ではありませんでした。 羅子溝台地での苦労、2回にわたる北満州遠征と撫松遠征はなんときびしく、 「苦難の行軍」は、またなんと曲折に満ちたものだったでしょうか。しかし、 我々はそのすべてを克服したのです。 傷寒にもうちかち、飢餓にも耐え、真っ暗闇の絶望をも克服しました。戦友を亡くした悲しみと心の痛みも踏み越えて立ち上がりました。 それは我々がみな、 いかなる状況にあっても革命勝利の信念を失わず、 祖国と民族にたいして担った使命と責任、革命家としての良心を一瞬たりとも忘れなかったからです。

 いかなることがあろうとこの苦境を耐えぬき、 革命を再び高揚させよう。よし、 誰が勝利者になるか、 いまに見ろ! あのとき孟山村で、 わたしはこう考えたのです。 革命にたいする使命感といおうか、 心意気といおうか、 試練が折り重なるほど胆力は増し、 革命への情熱と責任感はますます熱く燃え上がるのでした。

 どこに活路を見いだすべきか。 こういうときほど強行軍を断行しなければならないのです。 強行軍をするには、信念と勇気を与える思想動員が必要でした。

 この必要性から招集したのが、 ほかならぬ孟山村会議です。

 わたしは、隊員たちに忌憚なく話しました。

 ──情勢は、さらにきびしさを増すであろう。 我々の革命偉業が実を結んで国の独立が達成されるというのは誰もがひとしく信じていることだが、 その日がいつごろかは誰にもわからない。我々は10年もの間あらゆる苦労をしながら戦ってきたが、 そういう苦労がこれから5年つづくか10年つづくかは推定しがたい。 しかし明白なのは、 最後の勝利は必ず我々のものだということだ。 もちろん、 この道には幾多の難関が横たわっている。 これまでの難関より数倍、 数十倍の難関もありうる。だから、 最後までわたしに従って革命をつづける自信のない者は家に帰ってもよい。 家に帰るという者には、旅費も途中の糧食もあてがう。 そして、 闘争を中断したことも問題視しない。力が弱く自信がなくて隊伍を離れるのは仕方ないことだ。 行く者は行け。 だが、別れの挨拶はして行け。

 わたしが話を終えると、隊員たちはいっせいにわたしの腕にすがりつき、「将軍、革命の勝利の日を見ずに死んでもかまいません。 死んでも生きても将軍のそばを離れません。 人間の寿命は知れたものです。 同志を裏切り、 山を折、 敵に頭を下げて生きるくらいなら、ここで戦って死ぬほうがましです。 将軍と生死をともにします」と涙にむせぶのでした。

 隊員たちの言葉に、 わたしも目頭が熱くなりました。 あのときの彼らの言葉は、わたしに計り知れない力と勇気を与えてくれました。 どんなにすばらしい演説であっても、 あの日の隊員たちの言葉以上に人々を感動させることはできないでしょう。 あのときの我々の誓いは、 抗日革命の壮途にささげた我々自身の血を無駄にすまいという決意だったのです。

 孟山村の奥地での会議、 それは、離れることもできず、 離れてもならない司令官と戦士との渾然一体、指導者と大衆の鉄桶のごとき統一団結をいま一度実証した会議でした。 抗日遊撃隊員はこの会議を通じて、 革命的良心を貴び、 司令官と戦士があくまで運命をともにするところに、 抗日武装闘争を危機から救う鍵があることをさらに深く自覚したのです。孟山村会議を終えた我々は、 朝鮮の革命家が革命的信念と意志をもって屈することなくたたかえば、 必ず勝利するということをいっそう強く確信するようになりました。

 まさにそういうときに、 かねて極東へ送った同志たちからの連絡がありました。

 コミンテルンがやがてハバロフスクで招集する朝・中・ソ3国軍事指揮官の会議に参加すべく、 わたしと魏拯民をはじめ、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍第1路軍の代表が早急にソ連に来ることを重ねて要望するということと、 その機会に東北地方で活動中の遊撃部隊がソ連領内に入ってくる場合、 その受け入れ準備もできているということでした。 コミンテルンは、 我々がいったん極東に入ってひと冬過ごした後に、 以後の活動対策を実情に即して討議することを提起してきました。

 まず、 コミンテルンが招集しようとする会議の趣旨が明白であり、 また東北抗日連軍の他の指揮官たちもすでに到着しているという実情にてらして、 わたしはソ連領内に入って会議に参加することを決心し、 主力部隊の一部をつれていくことにしました。

 しかし、 これも口で言うほどやさしいことではありませんでした。 祖国の地からさらに遠く離れ、これまで戦ってきた土地をしばらくの間とはいえ再び離れるとなると、 心さびしいというのが隊員たちの一致した心境でした。

 指揮官会議でソ連入りを決定し、 それを隊員たちに知らせると、 コミンテルンが重大な会議を招集して司令官を呼んでいるのだから、 将軍をはじめ数名のメンバーだけ行くことにし、 あとは残って戦いをつづけてはどうかという隊員もいました。 もちろん、 それも一つの方法ではありました。 しかし、わたしは部隊を率いて極東入りするのがこの時点では正しいと考えました。 それで、 隊員たちを説得しました。

 ──我々が極東入りするのは、 革命を放棄してしまおうというのではなく、 またそこへ行って永久に落ち着こうというのでもない。 わたしの考えは、 昨年コミンテルンが招集した会議にも参加できなかったので、 今回の会議には参加しようというのだ。 そして、 そこでコミンテルンやソ連当局と朝鮮革命の将来についてさらに幅広く論議してみたいのだ。 そうするのが我々にとって有利であるはずだ。 しかし、 その会議がどれくらい長引くかはわからない。それで、その会議に参加するさい、 君たちを連れていこうというのだ。 越冬の準備も不十分な状況のもとで、 君たちだけ残して行くわけにはいかない。 だから、みんな一緒にソ連領内に入って冬を越し、 春にまたこの戦地にもどって来よう。

 後日、 わたしはこのきびしい1940年の秋を振り返り、 あのときわたしが指揮官としてくだした決断は、時宜にかなったものであったと考えたものです。

 我々が極東入りの準備を終えて車廠子の奥地を後にしたのは10月の末ごろでした。 出発に先だって、 魏拯民と呉白竜に連絡員を送りました。 魏拯民も呉白竜も病床の身で、 極東入りは不可能でした。連絡員に会えなかった呉白竜は、その後わたしの行方を追って安図一帯をくまなく捜し回ったそうです。 呉白竜が車廠子の奥地にたどりついたのは、 我々がすでに出発した後でした。 呉白竜が、我々が埋めていった食糧と冬服を発見して泣いたというのは、 そのときの話です。 極東入りするとき、 呉白竜たちのことを思って米2かますと冬服数10着を埋めておいたのですが、 それが彼らを助けたわけです。 その後、 呉白竜の小部隊も後を追って極東入りしました。

 極東へ向かう道のりでも多くの苦労をしました。 昼間はたいてい林の中に隠れていて、 夜間に行軍したのですが、 敵を避けての行軍なので、 いろいろと手間どり、 時間もかかりました。 それでも、 老頭溝まで一気に行き着くことができました。 その後、 百草溝方面へ行く途中で「討伐隊」と遭遇しました。 我々が一列縦隊になって峰を越えかかったとき、 谷間の下手から敵が登ってきたのです。我々はいま来た道を逆もどりし、 また尾根に駆け登りました。 そのとき、 多くの荷をかついでいた金正淑が隊に後れて危うい目にあいました。尾根を越えた後で隊列を確かめてみると、金正淑が見えないではありませんか。わたしは再び尾根に駆け登り、 敵が向かってくる丘の下手を見おろすと、彼女は大きな背のうのためかろうじて歩みを進めていました。 敵は、「生け捕りにしろ!」 と叫びながら追い詰めてきました。 わたしは、モーゼル拳銃を引き抜いて追い手を撃ち倒しました。 警護隊員たちも駆けつけ、 機銃掃射で金正淑を掩護しました。 こうして、彼女は無事に救い出されたのです。

 敵をやっと振り切った後、蛤蟆塘付近で宿営することにしました。その日は敵の機動がはげしくて、日暮れどきまで村の近くの粟畑の畝間に伏せていました。 都合よく粟畑の畝間に白菜と大根が植えてあったので、 それで空腹をまぎらわせましたが、 寒くてたまりませんでした。 それで、 ろうそくに火をともしてかじかむ手をあぶったものです。

 琿春からは、2人の朝鮮の農民が我々を案内してくれました。 ソ満国境付近まで案内してくれた彼らは、 前方の山を越えればソ連領だと教えてくれました。 ところが、 その山を越えてみると、 何の標識もない茫々たる広野でした。 どこまでが満州で、 どこからがソ連なのか見当がつきませんでした。それで李斗益に、高い木に登って川の流れの方向と人家の有無を確認させました。 彼は、幼いころから木登りが上手だったのです。 木のてっぺんまで登っておりてきた彼は、 川もなく人家も見えないと言うのでした。

 東に向かってもう少し進むうちに、 林の中に電話線が伸びているのを発見しました。 碍子を見ると中国や朝鮮のものとは違っていました。 ソ連領に入ったことが実感されましたが、 さらに確認して行動しなければなりませんでした。

 その夜、 再び斥候を出した後、 一行が休憩しているとき、 東の方からけたたましい機関銃の音が響いてきました。 しばらくして斥候に出た隊員たちがもどってきて言うことには、ある小さい哨舎に入って湯飲みや湯沸しをいじっているとき歩哨に見つかって大事にいたるところだったと言うのです。湯飲みや湯沸しがばかでかく不格好なのをみると、ソ連の国境哨所に違いないというのでした。その哨舎の位置を問うと、向こう4キロくらいの地点だとのことでした。

 ソ連国境警備隊員の威嚇射撃はひと晩中つづきました。 斥候に出た隊員たちが彼らをひどくびくつかせたようでした。

 翌日、 李乙雪と姜渭竜を国境哨所に送って、 ソ連の警備隊員を連れてこさせました。 いざ警備隊員と向かい合ってみると、 言葉が通じなくて往生しました。 わたしは彼らに、 我々は朝鮮のパルチザンで、 わたしがその隊長の金日成だと何度も繰り返しました。 幸いに「パルチザン」や「金日成」という言葉だけは通じたようでした。

 極東に入るまでの経緯も、このように容易なものではありませんでした。コミンテルンの連絡を受けてのソ連入りでしたが、 その具体的なルートや時間が国境の哨所にまで知らされていなかったので苦労させられました。

 ソ連領内に入った後、 数日は防疫のため手間どりました。 一日中、 部屋の中でなすこともなく過ごすので、 隊員たちはみな退屈しきっていました。 なかには日がな一日歌をうたいつづける隊員もいました。 革命歌という革命歌は全部うたいつくし、 しまいにはいつどこで聞いたのかわからないような歌までうたいだす始末でした。 隊員たちは、もともと歌をたくさん知っていました。わたしは、隊員たちの部屋に行き、 そんなにいらいらすることはないとなだめました。

 ──こうして、国境で何日も待機させられるのでがっかりするかもしれない。 だが、 ソ連の同志たちに冷遇されていると思ってはいけない。 国ごとに国境通過規定というものがある。 その国境出入秩序に従って、必要な身元調査をすることもある。 検疫をするのは伝染病の保菌者を探し出すためだ。 最近、 満州にいる関東軍の細菌戦研究集団がソ連の極東に伝染病を広めた。 そのためソ連政府は、入国検査を厳重にする決定まで採択したという。我々にはなすべきことも多く、 克服しなければならない試練も多い。 朝鮮革命はいまや新たな局面を迎えようとしている。解放の日も遠くない。だから、いまから心の準備をしっかりとして、 革命歌を高らかにうたいながら、 祖国解放のその日まで力強く戦っていこう。

 その後、 ソ連側は、わたしの引率した隊員たちをポシェトという所に移送しました。

 わたしは国境哨所に待機していたとき、 かつて洪範図部隊の通訳であった金承斌に会いました。 我々とソ連側との通訳は、彼が受け持ちました。 彼は、車廠子をよく知っていました。そのとき女子隊員たちは、 はでやかな服装で自由に街を行き交うソ連女性の姿を見て、 いつになったら朝鮮の女性もあのように大手を振って歩けるだろうかと目をうるませたものです。

 1940年の秋は、 このように一日一日が、苦難と試練でつづられた峻厳な秋でした。 あのような苦難と試練の重圧のなかでも、我々が窒息せずに生き抜くことができたのは、 いかなる逆境にあっても動揺せずに難関をつきぬけたからであり、 革命的信念を守りとおしたからです。前途が険しいからといって、我々は決して回り道をしませんでした。 つねに祖国の解放をめざして近道のみをまっしぐらに突き進んだのです。 我々の行く道が祖国の解放を早める道であるなら、 いかなる試練もいといませんでした。

 革命家に、試練はつねに宿命的についてまわるものといえます。 古いものを変革し、 新しいものを創造する革命家の日常生活は、 つねに試練と難関をともなうものであるからです。 試練を恐れたり、 それを避けて歩く者は革命家とはいえません。

 1940年の秋、 いまもなおあの晩秋が忘れられません。 あの晩秋の日々、 枯葉をしとねにした間島の山河が目の前にありありと浮かんできます。

 銃声もなく屍もない極東に行ってみると、 別世界に来たような気がしました。 しかし、 我々の前には、越えなければならない幾多の試練が横たわっていました。 祖国解放の日までは、 まだ5年という年月が残っていたのです。



 


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