金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 コミンテルンの連絡を受けて


 <抗日革命の日々、金日成同志は、朝鮮革命を自主的に指導する一方、国際革命勢力との連帯のためにも多くの努力を傾けた。
 金日成同志は、1930年代の末期から1940年代の初期、コミンテルンやソ連との連係が深まり、朝鮮革命の国際的版図がさらに拡大され、朝中共同の抗日闘争が、朝鮮、中国、ソ連を包括するより高い形態の新たな段階に発展した歴史的時期について、つぎのような回顧談をのこしている>


 我々が、数年来とだえていたコミンテルンとの連係を回復したのは1939年でした。大部隊旋回作戦をひかえて全員が綿入れの軍服に着替えたころでした。

 朝鮮人民革命軍主力部隊が、安図県の花拉子密営で軍事・政治学習をしている最中でした。ある日、小部隊工作に出ていた金一が、真っ黒な大布衫姿のまま縛られた3人の男を司令部に引き立ててきました。任務を果たして帰隊する途中、服装や行動に不審なところがあって捕らえたのだが、山間部の農夫らしくもなく、日本軍の回し者かもしれないと言うのでした。身体検査をしてみると、拳銃のほかに鍋と炒り豆が出てきました。

 わたしは、その3人と話し合うことにしました。我々の部隊が、第2方面軍で、わたしが金日成であることを知った彼らは、ようやく自分たちがコミンテルンの連絡員であることを明かし、マッチ箱を取り出して見せました。マッチ棒が非常に大きいのを見ると、満州や朝鮮でつくられたものではありませんでした。それは、ソ連製のマッチでした。しかしその時は、それがソ連製のマッチであることを誰も知りませんでした。

 我々は3人の身分をはっきり確認するため、他の証憑品の提示を求めました。すると、彼らの1人が1本のナイフを取り出しました。そのナイフは、魏拯民がコミンテルンに出向くとき、接触暗号用として手渡したものでした。数年の歳月が流れ、その間きびしい風雪にさらされてきましたが、見慣れたそのナイフは忘れようもありませんでした。わたしは魏拯民にそのナイフを渡すとき、モスクワへ行ったら接触暗号用としてコミンテルンに預けるようにと言いました。そして、コミンテルンから我々に人を派遣するときは、必ずそのナイフを持たせて身分が確認できるようにすることを頼みました。金一の小部隊が日本軍の回し者と間違えるところだった3人がコミンテルンの連絡員であることは、そのナイフを見ただけでわかりました。用件は何であれ、コミンテルンが我々を忘れず連絡員を送ってくれたのはうれしいことでした。

 南湖頭会議以後とだえていたコミンテルンとの連係は、こうして回復しました。我々が20余万の大敵との決戦をひかえて新たな作戦を練っているとき、コミンテルンが連絡員を送ってよこしたことは、我々にとって励ましとなりました。

 連絡員の話によると、コミンテルンが派遣した人員は6名だったとのことです。6名のうち3名は、我々を探し歩いているうちに病気にかかったため引き返し、自分たちは残ったのだが、引き返した3名のうちには、朝鮮人も1名含まれていたと言うのでした。

 コミンテルンが、明確な所在を教えず、漠然と延吉方面へ行って金日成部隊を探してみるようにと指示したため、おおよその見当をつけてあちこち巡り歩いたので、日数もかかり、苦労したとのことです。ソ連を発つときには略図も用意してきたのだが、我々の部隊が常時流動して活動するので、なかなか行方を探すことができなかったと言うのでした。そのうえ、人民まで気を許さないので、接触を断念してソ連へ引き返そうと考えていたところ、幸いにも安図県三道溝の村落に立ち寄ったとき、花拉子の方へ行ってみるよう耳打ちしてくれる人がいたので、こうして探し当てることができたと言うのでした。

 彼らは、山小屋に仮寝の宿をとったとき、火事にもあったそうです。衣服を焦がし、食糧まで切らして、炒り豆で飢えをしのぐありさまになり、花拉子でも我々に会えなければ諦めて引き上げるつもりだったというのです。彼らいわく、満州の地に足を踏み入れたその日から、大海のまんなかで遭難したような心地だったそうです。それほどに、行路が漠として孤立無援であったと言うのでした。

 3人の連絡員には、新品の軍服を着用させ、必要な日用品も一式そろえて支給するようはからいました。新しい軍服を着て食事をすませた彼らは、司令部のテントで久しぶりの安眠をむさぼりました。


 <1939年の末、コミンテルンが、金日成同志と東北抗日連軍の第1路軍に連絡員を派遣した事実について、日本官憲の資料にはつぎのように記されている。
 「康徳6年(1939年)10月11日、金日成匪が和竜県三道溝西北方枕峰密営内に居る頃、共匪に似たる服装をし拳銃を携帯せるロシヤ人8名が朝鮮人通訳2名と共に金日成を訪ね重要対談をした。其のとき重要幹部以外には誰も傍に近寄らせず約10日間留まった後金日成匪団の内虚弱者12名を連れ去った事実がある。其のロシヤ人はソ聯から連絡員として来た者達であると言い…詳細は明確でないが直接ソ聯から重要なる使命を帯びて連絡に来たものと見られる」〔琿春領事木内の報告昭和15年(1940年)7月26日〕
 「次に党指導の領導路線の点でありますが、それは昨年(1939年)12月ソ聯より直接第1路軍に4名の連絡者を寄越してゐますが、其の連絡内容目的は未だ全然解りません。只其の事実は本年(1940年)1月22日撫松に於て入手した魏拯民より楊靖宇宛の書信の中にその点が判然と記されて居り、経路は敦化より大蒲柴河に入り更に両江口を経て…来た事は明であります」〔「東北抗日聯軍第1路軍の動向」『思想月報』第77号、司法省刑事局 昭和15年(1940年)11月〕>


 そのとき、コミンテルンが我々に寄こした連絡の内容は簡単なもので、つぎのような二つの問題でした。

 その一つは、コミンテルンの招集する満州パルチザン指揮官会議に、朝鮮人民革命軍と第1路軍の代表を派遣してほしいということであり、いま一つは、東北地方の抗日遊撃部隊の大部隊活動を当分の間、考慮してもらいたいということでした。

 当時、コミンテルンとソ連は、東北抗日遊撃闘争の発展方向について新たな視点から考察していました。1930年代末期の抗日連軍運動の内情は、少々入り組んでいました。北満州と吉東地区で活動していた第2路軍と第3路軍の間には、指導と連合の問題をはじめ、いくつかの面で意見相違がありました。この意見相違を解消するため、コミンテルンでは第2路軍と第3路軍の代表を交えてソ連で必要な協議をおこないました。協議を重ねる過程で、彼らは北満州と吉東地区の抗日連軍の代表が一堂に会した機会に、朝鮮人民革命軍と南満州の第1路軍の代表も呼び、より広い範囲での協議を進めることによって、東北全域での抗日革命の高揚をはかる対策を立てると同時に、満州パルチザン闘争をソ連の極東政策に整合させようとしていた模様です。

 もちろん、コミンテルンの連絡員がそういう内幕まで我々に説明してくれたわけではありません。しかし、当時の極東の軍事・政治情勢やソ連とコミンテルンがとっていた一連の政策からして、そう判断するのは十分可能でした。

 ところが、わたしや楊靖宇や魏拯民は、遊撃戦区を離れられない身でした。敵の大「討伐」が目前に迫っているというのに、我々が部隊を置き去りにしてソ連へ行ってしまうならば、新たな作戦の遂行に甚大な禍をまねくことにもなりかねず、隊員の士気に影響を及ぼす恐れもありました。

 大部隊活動を考慮してほしいというコミンテルンの提言にしても、おいそれと受け入れることはできませんでした。大部隊活動を中断する場合、それが結局は消極的な分散逃避になるのではないかということも慎重に検討してみるべき問題でした。

 わたしはコミンテルンの連絡員に、コミンテルンの二つの要請にたいする我々の立場を詳しく説明し、彼らのうちの1人を魏拯民のところに送りました。「漫江」という別号をもった司令部の連絡員が彼を案内していきました。

 コミンテルンの連絡員たちが花拉子の密営を発つとき、朝鮮人民革命軍の闘争内容を記載した文書と写真などを託送しました。それらの資料をソ連に保管しておけば安全であり、我々の負担も軽くなるからでした。そのとき託送した資料類は、背のう1つ分ぐらいになりました。わたしが眼鏡をかけて臨江県の五道溝密営で撮った写真もそのときに送ったものです。

 ソ連に向かったコミンテルンの連絡員たちは、不幸なことに和竜県のある地点で鉄道を横断するとき、自衛団に逮捕されたとのことです。そのため、文書や写真などはコミンテルンに届かず、そっくり敵の手に渡ってしまいました。我々が撮影した写真が、日本官憲の記録に出ていることから推して、コミンテルンの連絡員たちがソ連に入る途中、敵の手にかかったことは明らかです。我々のところに来たコミンテルンの連絡員のなかには寧という名の中国人もいました。魏拯民がコミンテルンに送った手紙には、寧が敵と交戦して負傷したということが記されています。

 コミンテルンの二つの要請についての魏拯民の見解は、わたしの見解と一致していました。

 我々がコミンテルンとの連係をとりはじめたのは、1930年代の初期からです。1930年代の前半期までは、その連係が比較的スムーズであったといえます。しかし、腰営口会議で決着がつかなかった反「民生団」闘争についての意見の相違を解消するため、魏拯民がモスクワヘ行ってきた1936年初から1939年の秋までは、我々とコミンテルンとの行き来が絶えていました。我々もコミンテルンに人を派遣しなかったし、コミンテルンからも我々に人を派遣してきませんでした。正直なところ、当時、我々はコミンテルンを訪ねていく必要性を感じていませんでした。朝鮮革命の明日の運命にかかわる重要な路線上の問題が公明正大に解決された以上、南湖頭会議で採択された方針どおりに革命をつづけていけばよいと考えていたからです。

 我々は明確な路線をもって革命を推進し、白頭山に陣取って武装闘争を国内へ拡大していきました。すべての路線と政策を自主的にうち立て、それを自力更生の革命精神で解決していくのは、我々の一貫した立場であり、闘争気風でもありました。不足するものも多く、困難も一つや二つではありませんでしたが、朝鮮の共産主義者はそれをすべて自力で克服していきました。他人には、みだりにねだったり、哀訴したりはしませんでした。

 抗日革命の時期から自主的革命路線を堅持してきた歴史的伝統と経験があったがゆえに、我々はこんにちも依然として、世界でもっとも自主性の強い党、自主性の強い民族、自主性の強い国となっています。

 世界には、外部勢力を駆逐するため遊撃戦をくりひろげた国も多く、正規の武力によって現代戦をくりひろげた国も少なくありません。しかし、我々のように困難な状況で武力抗争をくりひろげた例はほとんどありません。我々がいつも、国家的後方も正規軍の支援もなしに15星霜戦ったと言うのは、少しも誇張された表現ではありません。朝鮮革命の困難さを物語る事実そのままの表現なのです。

 第2次世界大戦当時、ユーゴスラビアのパルチザンがよく戦ったのは、我々も知っていることです。しかし、ユーゴスラビアがドイツ軍に占領されたのは1941年4月ですから、その国のパルチザン闘争の歴史も数年に過ぎません。チトーがパルチザン闘争を開始した当時、ユーゴスラビアには正規軍の根株が少なからず残っていました。それにユーゴスラビアのパルチザンは、ソ連の援助も少なからず受けました。ジューコフの回顧録によると、ソ連はこの国に小銃や機関銃のような軽火器だけでも数十万挺送ったとされています。ユーゴスラビアのパルチザンは、ソ連から大砲や戦車などの重兵器まで受けたといいます。

 中国人民の抗日戦争も同じような筋道から説明することができます。蔣介石の配下には数100万の大軍がありましたが、その大軍が反共にのみ終始したとはいえません。消極的であやふやではあったにせよ、反日の旗をかかげたのは確かであり、日本軍と交戦したのも事実です。蔣介石軍が多少なりとも日本軍を牽制したのなら、それは、中国人民の遊撃戦にたいする正規軍の支援になったとみるべきでしょう。国共合作という言葉自体が、共同抗日を意味するものだといえるでしょう。

 わが国の正規軍が、その存在に終止符を打ったのは1907年です。我々は、それから20年以上も経過してから武装闘争を開始したのです。そのときは、正規軍はおろか、その根株すら残っていませんでした。国が滅びたので、国家的後方については論ずるまでもありません。義兵や独立軍が使った銃がいくらかあったとはいえ、いずれも古びた旧式のものであり、それさえ錆ついて用をなしませんでした。我々は、1挺1挺の銃を命と替えなければならなかったのです。我々が武装闘争の過程で体験した苦しみ、遊撃隊員が10年近く山中でなめた苦汁をすべて話そうとすればきりがありません。それでも、我々は他人にすがろうとはしませんでした。

 前にも何度か話したことですが、コミンテルンは中国やインドなど大きい国の革命にはかなり関心を向けましたが、朝鮮革命にたいしてはさほど注目しませんでした。コミンテルンの一部の人は、朝鮮革命を中国革命や日本革命の付属物のようにみなしていたのです。同じ中国革命の場合でも、関内の革命闘争にたいしては多くの関心を払いましたが、東北革命にたいしてはないがしろにしたといえます。コミンテルンが、国民党にボロジーンやブリュッヘルなどを顧問として送っていたのは周知の事実です。共産党には、ボイチーンスキ、マーリン、オット・ブラウンといったメンバーを送っていました。

 ところが、東北革命のためには1名の顧問も送りませんでした。東北革命にたいする支援があったとすれば、それは第2路軍や第3路軍に偏重していました。ソ満国境から遠く離れて戦っていた朝鮮人民革命軍や南満州の第1路軍にはほとんど関心を向けなかったといっても過言ではないでしょう。

 コミンテルンが東北革命を軽視したことは、彼らがソ連に留学させた満州出身の指揮官をほとんど東北に送り返さず、関内(万里の長城以南の中国本土)に派遣した事実をみてもよくわかります。遊撃区当時、間島で我々と共同闘争をおこなった東北人民革命軍第2 軍の参謀長劉漢興や第5軍の李荊璞はいずれもソ連での留学を終えた後、もとの地域ではなく延安に配置され、日本帝国主義の敗退後に東北にもどってきたのです。

 日本人の資料を見ると、東北革命はあたかもソ連やコミンテルンの支援のもとに展開されたかのように記述されていますが、それは事実に反する憶測にすぎません。ひところ日本人は、わたしがモスクワの共産大学で訓練を受け、1938年の夏にソ連から精鋭部隊を率いて満州に入ってきたと宣伝したものです。日本のある官憲資料には、わたしが相当長い間ソ連に行って部下を訓練させ、支援を受けて満州にもどってきたと記されており、張鼓峰事件後満州にもどって東辺道で猛威をふるっているとも記述されています。

 こういう宣伝は、我々をソ連やある外部勢力の教唆と操作で動く者のように描写することによって、国内の人民に及ぶ我々の影響力を弱め、抹殺するためのものでした。

 率直に言って、当時、我々はソ連やコミンテルンの世話になったことは、これといってありません。汪清で活動していた時期、手榴弾工場の設置を要請する手紙をソ連に送ったことがありますが、返答すらありませんでした。それで我々は、「延吉爆弾」という名の爆裂弾を自力で製造して用いたのです。

 東北革命や朝鮮革命にどことなく冷淡で無関心であったコミンテルンが、1939年にいたって連絡員を派遣し、我々をソ連に招請する異例の措置をとったのはなぜでしょうか。一言でいえば、このような変化は、日本の対ソ侵略が既成の事実となっていたソ連の軍事・政治情勢の要請によるものと判断することができます。ハッサン湖(張鼓峰)事件とカルキンゴル(ノモンハン)事件を通じて日本帝国主義の領土拡張野望と強盗的本性をいやがうえにも思い知らされたソ連は、彼らがいつかは「北攻」を断行するであろうことを察知し、コミンテルンと共同でそれに対処する方策を模索していたのです。

 その際、コミンテルンがとくに重視したのは、ソ連を側面と背後から軍事的に支援する同盟者を探し出し、その同盟者との軍事的・政治的連合を実現することでした。東方でソ連を軍事的に支援できる存在は、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍しかありませんでした。コミンテルンは、東北における抗日武装勢力をソ連極東軍の一翼、その外郭勢力とみなし、一朝有事の際にはソ連極東軍兵力の別働隊にしようと考えていました。これにかんしてはもちろん、ソ連の考え方も同じであったことは言うまでもありません。

 1930年代の前半期までは東北抗日運動の存在に別段注目しなかったソ連でしたが、ハッサン湖事件とカルキンゴル事件のとき、朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍がソ連を擁護して強力な背後攻撃作戦を敢行するのを見るにいたっては、満州パルチザンの存在があなどりがたいものであることを知ったようです。それ以来、彼らは、我々との連携を深めるために各面から努力するようになったのです。コミンテルンもこれに歩調を合わせました。すべての活動をソ連擁護の線で推進させるのは、コミンテルンの基本的使命であると同時に、一貫した政策でもありました。

 だからといって、東北抗日勢力にたいするコミンテルンとソ連極東軍事当局の見解が最初から完全に一致していたわけではありません。満州パルチザンにたいするコミンテルンの立場は、戦時到来の時期までは力量の保持に重点をおくべきだということであり、極東軍事当局の立場は、中国全土がすでに戦時状態に入っており、犠牲も避けがたいものである以上、日本軍の中国本土への移動を阻止する強力な軍事的攻勢をとるべきだということでした。

 ともあれ、コミンテルンが従前に比べ東北抗日運動にさらに関心を寄せ、重要な戦略戦術を協議するため我々をソ連に招請したことは注目に値する政策転換でした。これは、我々が敵の背後でソ連を武力で支援できるほど強力な勢力に成長した結果でした。

 しかし、我々はそのとき、コミンテルンの要請を保留し、大部隊活動も中止せず、ソ連に行きもしませんでした。かえって満州に居座りつづけ、すでに設定ずみの時間表どおり、大部隊による旋回作戦を果敢に展開し、敵の攻勢を容赦なく粉砕しました。

 大部隊旋回作戦を成功裏に終結することにより、我々は受動的にではなく能動的に新たな闘争方針を立てることができるようになりました。あのとき、我々がコミンテルンの要請どおりハバロフスクへ行くなり、すぐさま小部隊活動に移行していたなら、大部隊旋回作戦のような大きな作戦を展開することはできなかったでしょう。


 <チュチェ29(1940)年の秋、金日成同志は、再びコミンテルンの招集する会議への参加を求める通知を受けた。コミンテルンからの使者が死線をくぐり抜けて金日成同志を訪ねてきた。そのころを回想して金日成同志はつぎのように述懐している>


 わたしがコミンテルンから2度目の連絡を受けたのは、1940年の10月中旬でした。朝鮮人民革命軍の全部隊が小哈爾巴嶺会議の方針にもとづき各地で小部隊活動をくりひろげていた時期です。

 コミンテルンが派遣した2名の連絡員が我々を訪ねてきました。彼らの話によれば、派遣したのは極東軍司令部付きの将官リューシェンコで、彼がコミンテルンの名で伝達を命じた事項は、12月にコミンテルンがハバロフスクで招集する会議への参加を要請するものでした。彼らはまた、満州で活動するすべての抗日武装部隊は、大部隊活動から小部隊活動に移り、極東に基地を定めて兵力の収拾、再編をはかるため早急に入ソせよというコミンテルンの指令も同時に伝達しました。

 リューシェンコは、極東軍司令部付きで、コミンテルンの主宰する仕事を担当していました。彼とは後日、ハバロフスクに行ったとき会いました。彼はわたしに会うや、金日成同志と握手を交わすのがこんなにむずかしいとは、と言って、我々との連係を結ぶため小部隊やグループを派遣したいきさつを詳しく話しました。彼は、初対面から人の心を引きつける情熱と親しみやすさをもった人物でした。リューシェンコは普段、王新林という別名で活動し、主としてコミンテルンやソ連と我々との間の橋渡しをしていました。

 連絡員の話によると、1940年の初にコミンテルンがハバロフスクで招集した満州パルチザン指揮官会議は、朝鮮人民革命軍と第1路軍の代表が参加しなかったため、北満州と吉東地区のパルチザン代表だけの会議になってしまったとのことです。しかし、コミンテルンは当初の計画を放棄せず、東北のすべての抗日武装部隊の指揮官会議を必ず招集して、東北抗日運動の発展方向を討議し、ソ連が直面している国難も打開しようとしたのです。

 連絡員が我々のもとに到着したのは10月ですが、コミンテルンが会議招集の通知を送ったのは1940年9月でした。その通知は、第2路軍と第3路軍には電信で伝達されましたが、無線電信システムを備えていなかった我々には連絡員を通して伝達されたのです。コミンテルンがハバロフスク会議への参加を指定した対象は、各路軍の総指揮、政治委員、党書記などの主要軍事・政治幹部でした。

 わたしは魏拯民に、コミンテルンから連絡員が来たことを通報し、それに共同で対処することを提起しました。魏拯民は、コミンテルンが主宰する会議であるから参加しなければならないが、健康状態が思わしくないので発てないとのことでした。そしてわたしに、コミンテルンに行ったら朝鮮人民革命軍を代表すると同時に、東北抗日連軍第1路軍と南満省党委の代表をも兼ねてくれるよう依頼しました。

 小部隊活動にかんするコミンテルンの要請は、我々がすでに小哈爾巴嶺会議で採択した小部隊活動の方針と合致していました。この時期の軍事・政治情勢は、我々が1939年末から1940年初にかけて大部隊活動をくりひろげていた時期よりはるかにきびしいものでした。大部隊で行動するのが困難な時期でした。まず、敵が集団部落化を完成した時期だったので、大部隊の食糧を調達するのが困難でした。米1合、トウモロコシ餅1個のために血を流さねばならないときが少なくありませんでした。毎回、戦友の血の代価によって食糧を手に入れたのです。

 当時、敵は、治本工作と思想工作にとくに力を入れていました。そのころの集団部落政策は、以前、西間島で実施された集団部落政策よりはるかに悪辣なものでした。散在する家屋をすべて焼き払い、「武装部落」を建設する方法で「匪民分離」を強行する一方、食糧、物資、弾薬などの統制と「通匪」分子の摘出、検挙、渡し場の警備などを強化しました。ケシの密栽培の取り締りも厳重をきわめました。そうしながらも、口では「難民救済」だの「民生工作」だのと宣伝しながら、革命的大衆と人民を思想的に瓦解させようとしたのです。

 我々の経験は、小部隊活動に移れば、大部隊活動のときに比べて食糧を比較的容易に入手できることを示していました。戦略と戦術の策定にあたっては、食糧問題を考慮に入れざるをえませんでした。食糧が第一であり、そのつぎが戦術でした。食わずには戦えないではありませんか。わたしが、衣食住という言葉を食衣住という言葉に変えて使うのは、パルチザン時代に食糧のため苦労をした体験の反映といえます。

 極東に出入りして小部隊で活動すれば、人民のなかに入って政治工作をするのにも好都合であり、部隊の幹部を訓練し養成するのにも有利でした。また、夏期には、軍事活動を展開し、冬期にはソ連が提供してくれる場所で軍事・政治訓練をする時間的余裕と空間の確保も可能になるはずでした。それは、力量を保持し育成する意味でも有利だといえました。1930年代の末期から1940年代の初期にかけて、我々は敵の大「討伐」で多くの幹部を失っていたのです。

 わたしはコミンテルンの連絡員に、我々が抗日武装闘争発展そのものの要請から小哈爾巴嶺で会議を開き、力量保持と小部隊活動に移行する方針を採択したことを通報し、ソ連入国の要望にたいしても今後考慮する旨を伝えました。

 敵が我々を壊滅させようと必死になっている状況下で、隊伍を収拾し再編する時間的余裕と空間地帯を確保することは、武装闘争の現在だけでなく明日のためにも必要な措置となりえました。力量の保持と育成のためには、そういう安定した基地が必要だったのです。

 我々がその時期にいたって力量保持の問題に大きな関心を払うようになったのは、朝鮮革命の最後の勝利の日が目前に迫っているという確信をいだいていたからです。1940年の後半期にいたり、第2次世界大戦の炎は全ヨーロッパに広がりました。ソ連とドイツの間に戦争が起こるということは誰もが予想していることでした。日本は、中日戦争の終結をみない状態で、南方を標的にしたいま一つの戦争を画策していました。日本が米英を相手に新たな戦争を引き起こすなら、そういう冒険がどんな結果をまねくかは火を見るよりも明らかでした。こういう情勢下では、正面衝突を避けて力量の保持、拡大、強化をはかるのが上策でした。我々のこうした見解は、ソ連やコミンテルンの考え方と基本的に一致していました。

 ソ連が、自国の領土内に、兵力を収拾、再編し、隊伍を保持、拡大できる基地を我々に提供し、必要な軍事的・物質的支援を与えるというなら、それは望ましいことでした。しかし、わたしはソ連に入るのを急ぎませんでした。重要な問題であるだけに、熟考する必要がありました。まず極東に行く場合、どれほど滞留するのかが問題でした。しばらくしてもどってくるのか、それとも長く留まることになるのか、極東に基地を定めて長期間滞留する場合、武装闘争をどんな方法でつづけることができるか、必要なとき、国内や満州に思いどおり進出できるか、国内運動の指導は今後どのように進めるかといったさまざまな問題点があったし、それにともなう対策が必要でした。

 こういう事情からして、わたしは極東へ行く問題をいくつかの場合を想定して考察し、解決することにしました。第1の場合は、主力は現在の位置に残して指揮官だけ行って会議に参加し、帰ってきてもとの位置で闘争をつづけることであり、第2の場合は、指揮官だけ先に行って会議に参加した後、適当な時期に現地の実情を見て部隊をソ連領内に呼び入れることであり、第3の場合は、会議に参加することとソ連領内に入ることを時間的に一致させ、まず暫定的に現地に滞留しながら以後の対策を立てることでした。

 わたしは、やがて極東に入るとしても、白頭山地区に設営した秘密根拠地をさらに補強する前提のうえで、ソ連領内に新たな基地を創設するという原則で事を処理することにしました。そのためには、時間が必要であり、より詳しい状況の把握も必要でした。我々はもともと、小哈爾巴嶺会議の方針にもとづいて、我々が掌握していた地域を舞台に小部隊活動を進めながらひと冬を過ごすことにし、その準備を急いでいました。それを中途で投げだすわけにはいきませんでした。

 このような分析と判断にもとづき、コミンテルンの要請にたいする回答は後回しにし、先にソ連に送ったメンバーに具体的な状況を調べて我々に報告させることにし、以前から推進してきた越冬準備をつづけさせました。

 わたしは李竜雲に、ソ連への新たなルートを切り開く一方、以前から利用してきたルートの正確さと安全性を再確認するよう指示しました。李竜雲は、第3方面軍で勇猛をもって知られた連隊長でした。彼は、1939年8月の安図県大沙河――大醤缸戦闘で戦死した全東奎の後任として連隊長になったのです。彼はコミンテルンに送る魏拯民の手紙を携えてソ連へ行くことになっていたのですが、事情があって行けませんでした。

 李竜雲は、大柄で年のわりに老けて見えました。口が重く、重厚な人柄でした。普段は穏和でしたが、いったん戦場に臨むと勇猛かつ機敏でした。

 彼の部隊が敦化県のある集団部落を襲撃したときの話です。部隊は、行軍の途中で食糧を切らし、集団部落を襲撃することにして、まず斥候を出しました。斥候は、部落には敵兵が3人しかいないという情報をもたらしました。最初は、機関銃分隊が部落に突入して敵を掃滅する計画でしたが、李竜雲は、たった3人の敵兵のために機関銃分隊まで繰り出す必要はないとし、自分が伝令を連れて先に敵を制圧するから合図があったら部落に入ってくるようにと命じました。彼の伝令は太炳烈でした。

 夜になると、李竜雲は伝令1人だけを連れて集団部落へ行き、まっすぐ兵営に踏み込みました。ところがどうでしょう。部屋には、30人余りの将校が席をつらねて作戦を討議している最中だったのです。軍用地図を指して何やら指示していた頭目株の将校は、突然部屋に押し入った李竜雲を見て仰天しました。李竜雲について部屋の中に入った太炳烈は、後日そのときのことを回想して、生きて帰れるとは思わなかったと言っています。しかし李竜雲は、平然としてモーゼル拳銃をかざし、お前らは包囲された、手を挙げろと脅しました。すると、頭目株の将校は、やあっと声をあげて李竜雲の拳銃につかみかかりました。李竜雲は引金を引きましたが不発でした。それで拳銃を力いっぱい引っ張りました。あまりの勢いにその将校は掌が切れて、つかんだ銃身を放してしまいました。李竜雲は、素早く装弾しなおしてその将校を射殺し、抵抗する将校らを蹴り倒し、1人で敵を制圧しました。幾人もの将校が、彼の銃弾を浴びて即死しました。太炳烈はこういう事態になるまで、銃も発射できず戸口に立ちつくしていたとのことです。彼は、「炳烈、壁を守れ!」という李竜雲の叫び声を聞いてはじめて、自分の後ろ側の壁にずらりとかかっている数十挺の拳銃を目にしました。李竜雲は、太炳烈にその拳銃を全部集めさせ、生き残った将校たちを生け捕りにしました。その夜、2人は遊撃隊の「討伐」からもどってきた多数の敵兵まですべて生け捕りにしました。

 李竜雲は、額穆県城襲撃戦闘と大沙河―― 大醤缸戦闘、腰岔戦闘をはじめ、数多くの戦闘で、勇敢無比で果断かつ有能な指揮官として名を馳せました。

 わたしが李竜雲連隊長に任務を与えた場所は、小哈爾巴嶺の入口であったと思います。そのとき任哲にも会いました。李竜雲に、ソ連への連絡ルートを首尾よく切り開くようにと言うと、彼は心配無用だと請け合いました。

 林春秋と韓益洙が負傷者と虚弱者を引き連れてソ連方面へ向かったのは、李竜雲と任哲がソ満国境地帯でルートを切り開いているときでした。心配だった負傷者と虚弱者は無事目的地に行き着きましたが、特使として発った李竜雲は日本軍と交戦して壮烈な戦死を遂げました。彼はルート開拓の任務をりっぱに遂行し、そのルートを通じて負傷者をソ連に送り込むことにも成功しました。彼に残された任務は、ソ連に行って現地の状況を我々に伝えることでした。彼はその任務を遂行するため国境方面へ向かう途中、隊員たちの服装がみすぼらしいのに気付き、司令部の委任を受けてソ連へ行くのにこれでは面目が立たないと思い、以前から連係があった炭焼き小屋の主人を通じて服を求めようとしました。ところが、その炭焼き小屋の主人は悪党でした。革命を中途で裏切り、敵の密偵になりさがっていたのです。彼は服を買い入れてくるとだまし、100人余りの敵を引き連れてきました。李竜雲は、1人で数10人の敵兵を撃ち倒し、壮烈な戦死を遂げたのです。

 数年間、断絶状態にあったコミンテルンとの連係は、こうして回復されたのです。その後も、わたしはコミンテルンと密接な連係を保ち、国際革命勢力との連帯の強化に努めました。



 


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