金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 未来への楽観


 1940年の春のことだったと思います。当時、朝鮮人民革命軍の主力部隊は、安図や和竜など白頭山東北部一帯で猛烈な軍事・政治活動をくりひろげていました。

 思い起こせば、その年の春、我々は実にきびしい試練を経たものです。少数の兵力でイニシアチブを取ろうというのですから、多くの苦労をせざるをえませんでした。最大の試練は、朝鮮人民革命軍の司令部を狙う敵の波状「討伐」でした。数100、ときには数1000の大軍が四方八方から襲いかかってくるので、息もつけないありさまでした。

 野副も、そのときは必死の体でした。白頭に征馬を進めて匪禍を根絶すると豪語して出で立った彼が、ひと冬中、かえって、人民革命軍の大部隊旋回作戦のためさんざんな目にあったのですから、その痛憤たるや推して知るべしです。関東軍司令部はもちろん、軍部の追及も大変なものだったに違いありません。戦闘での主導権を奪われ、たじたじとなった野副は、挽回策として奉天、通化地区から増援隊を引き入れ、さらには、ソ満国境の警備隊まで呼びよせて「討伐」に駆り立てました。さらに、林水山のような投降分子らが敵の手引きとなって、朝鮮人民革命軍司令部の探索に立ち回っていたので、我々はますます苦境に陥りました。そのうえ、山間奥地の猟師小屋、キノコ小屋、ケシの密栽培業者の小屋などにまで多数の密偵が張り込んで、遊撃隊の動静をうかがっていました。「工作隊」と称する走狗集団も我々の活動区域にあらわれ、「情勢は日本帝国の側に有利だ。見通しも立たない革命のために無駄な血を流さず帰順せよ」とわめきたてました。

 もっとも苦しい試練は、食糧難でした。敵は1升の食糧たりとも我々の手に渡らないよう、あらゆる方策を講じました。我々が山に食糧を埋めておくと、いつのまにかかぎつけては、それを全部運びさってしまうのでした。

 集団部落の住民の食糧統制は、厳重をきわめていました。農民が野良仕事に出るときには、城門の歩哨が弁当まで開けてみるほどでした。多くの集団部落では、軍警用の食糧や被服、弾薬などを土城の外の秘密倉庫に保管していましたが、その位置は管理者しか知りませんでした。倉庫の鍵は管理者が持っていて、必要なときに倉庫の物資を少しずつひそかに集団部落に運び込んでいました。我々がたびたび城市を襲撃して給養物資を見つけしだい運び出していたので、彼らも対応策としてそういう方法を考え出したのです。

 鉱山や炭鉱、伐採場の実情も同じでした。そんな所でも、食糧は1日分か2日分、せいぜい3、4日分程度しか保有していませんでした。

 我々が車廠子付近にいたときには、食糧を完全に切らし、塩もありませんでした。第7連隊と第8連隊が安図地区をたえず移動しながら食糧工作に努めましたが、これといった成果はありませんでした。そのため、全部隊が飢餓にさらされました。

 その年のメーデーを蛙料理で過ごしたくいですから、その窮状たるや言わずもがなのことです。蛙料理が高級レストランの人気料理の一つとなっている国もあるといいますが、わが国の食堂には蛙料理というものがありません。ときおり、子どもらが畦や小川で捕った蛙を串刺しにしてあぶっているのを見かけることがありますが、それも、ほとんどはいたずらか暇つぶしにするのであって、美味だからではありません。パルチザン生活がいかに困難であっても、メーデーのときだけは食事を抜いたことがありませんでした。小徳水の台地で迎えた1939年のメーデーには、隊員たちに酒までふるまったものです。ところが、1940年のメーデーのときは酒はおろか何もありませんでした。それで小川の蛙を捕って食事に代えました。祝日をそういうふうに過ごしたのですから、普段は言うまでもないでしょう。

 車廠子付近にいた時分にも食糧を切らしてひどく苦労しましたが、洋草溝の奥地で活動したときにも空き腹をかかえて苦労したものです。全部隊が草を煮て食べながらその日その日を食いつなぐありさまでした。あのころの食糧難があまりにもひどかったので、洋草溝という地名が記憶の底に焼きついて消えないのかもしれません。

 ある日、わたしは、機関銃小隊の食事中のところに行って、彼らをとがめたことがあります。雪もすっかり解けたのだから、山菜を摘んで汁でもつくれば美味だし、食糧の足しにもなるではないかと言うと、小隊長の姜渭竜は歩哨の人員が足りなくて山菜を摘みに行かせることができなかったと答えるのでした。それを聞いて腹が立ちました。山菜などは、立哨の場に行く途中でも摘めるし、歩哨を交替しての帰り道でも摘めるではありませんか。手配さえすれば、その日の汁の具などはたやすく手に入るはずでした。それで、指揮官たるものは、つねに隊員の生活に責任をもつ心構えがなくてはならないと彼をたしなめました。そして、人員が足りないなら伝令とでも一緒に行くよう指示しました。

 翌日、姜渭竜は、伝令の全文燮と李乙雪、それに韓昌鳳を従えて山菜を摘みに出かけました。4人は夕方になって帰ってきたのですが、山菜はかご一つにもなりませんでした。わけを聞いてみると、草原で相撲に夢中になってたくさん摘めなかったと言うのでした。なぜ命じられた山菜は摘まずに相撲をとったのかと問うと、春風に乗って野花の香りが漂ってくるうえに、やわらかい芝生を見ると、なんとなく故郷がなつかしくなり、裏山で楽しくはねまわった幼いころが思い出されて、誰が言い出すともなく相撲をはじめて半日を過ごしてしまったと言うのでした。全文燮と韓昌鳳は、年も力もだいたい同じでした。それでなかなか勝負がつかなかったそうです。図抜けて体の大きい姜渭竜は審判役になり、ひと勝負つくたびに「よくやった、よくやった、もうー度やってみろ」と手をたたいて2人をあおり立てました。小隊長が手までたたいてしきりにあおり立てるので、2人とも調子にのって相撲に夢中になってしまったのです。 まったくあきれた話でした。伝令までつけて山菜を摘みに行かせたのに、4人でかご一つも満たせずに帰ってくるとは、それも部隊の食糧事情が逼迫しているときに大切な時間を浪費したのですから、開いた口がふさがりませんでした。

 わたしは4人をきびしく批判した後、彼らを訓戒処分に処しました。過ちの重大さからすれば、それよりもきびしい処罰を適用することもできました。我々の隊伍には、司令官から与えられた任務をそんなにいい加減に実行する者はいませんでした。解せないのは、その4人がいずれも責任感が強く、任務の遂行において人一倍忠実な隊員であったことです。どんなことでも、任せれば軽重を問わず不言実行する彼らでした。正直に言って、彼らは、部隊でも模範的な遊撃隊員の典型として推奨できる存在でした。

 その夜、寝床につくと、彼らが持ち帰ったすかすかのかごがしきりに目の前にちらつきました。そのかごを見て訓戒処分に処したものの、前後を忘れて相撲に興じたという4人の婆を思い浮かべると、隊員たちはこんなせっぱつまった状況にあっても悲観を知らず、悠々と相撲までとりながら楽天的に生きているのだと実感させられ、快い笑いがこみあげてくるのでした。

 精神的ゆとりがなかったり、生活に楽観がなければ、当時の困難な状況下で相撲など考えることすらできないはずです。このパルチザン隊員のような信念の強者、意志の強者のみが、敵の包囲の中にあっても未来への夢を描き、歌をうたい、相撲に興じて楽天的に生きていけるのです。

 朝鮮人民革命軍は、古今東西にまれな楽天家の集団でした。世界には、名を馳せた軍隊も多く、パルチザンも多くありましたが、朝鮮人民革命軍のように革命的ロマンと熱情あふれる、生気はつらつとして前途洋々たる軍隊はなかったでしょう。逆境を笑いをもってのりこえ、禍を転じて福となす人たち、天がそっくり崩れ落ちてもはいでるすきはあると信ずる楽天家の集団、これがまさに朝鮮人民革命軍でした。

 全文燮にしても、外見は物静かでおとなしそうですが、実際は楽天家でした。彼は、革命軍に入隊するとき両親の前で「お父さん、お母さん、わたしを待っていてください。無産革命が勝利して祖国が独立する日には、この文燮が車に乗って帰ってきますから」と言ったのです。日本帝国主義を打倒し、車に乗って両親のもとに帰ってくるという全文燮の決意はなんと突飛で楽天的なものではありませんか。

 安吉も楽天家でした。わたしが彼を寵愛したのは、革命にたいする忠実な態度にもありましたが、彼の楽天的な性格を大切に思ったからです。安吉は、悲観を知らぬ楽天的な革命家でした。

 抗日パルチザンのなかには、彼らに限らず数多くの楽天家がいました。事実、銃を手にして日本帝国主義との決戦に立った闘士たちはすべて、つねに悲観を知らず革命的楽観に生きる楽天家でした。

 わたしが、姜渭竜、李乙雪、全文燮、韓昌鳳、この4人の過ちを重大視しながらも「訓戒」以上の処罰を加えなかったのは、その行為の底にある何ものにもとらわれぬ楽天性と心意気を大切にしたかったからです。

 そのとき、この些細な事件によってわたしは、苦難の行軍のような行軍を10回、100回と重ねても、彼らは最後までわたしについてくるだろうと確信しました。わたしの体験によれば、信念をもって革命に参加した楽天主義者は、横からどんな風が吹きつけようと動揺しません。たとえ、明日は絞首台に立たされようとも、決して動じません。けれども、明確な信念もなしに、みなが革命に身を投じるから自分も加わってみようという気持ちで革命に飛び込んだ人は、いつかは安穏な場所に逃げ込んでしまうものです。

 行軍途上でのザリガニ捕りの話は、みなさんも回想記を読んで知っているだろうと思います。この話は、革命家の日常生活と闘争において楽天性がいかに重要な働きをするかを示す生き生きとした実例だといえます。1939年秋の敦化遠征を大部隊旋回作戦の第1段階といっていますが、行軍途上でのザリガニ捕りというのは、この遠征過程の出来事です。

 そのときも、我々は食糧不足でひどく苦労しました。敵を振り切らなくては食糧工作の手立てを講ずることもできないのに、「討伐隊」がひきも切らず追い討ちをかけてくるので、どうすることもできませんでした。どうしたことか、そのときは山ウサギもあらわれませんでした。人煙まれな山奥をひきつづき行軍したので、食糧の調達を依頼するところもありませんでした。隊員たちは、倒木を乗り越える力もつきて、それを避けて歩きました。ときたま休憩の号令がかかると、地べたに倒れこみ、所かまわず寝ころんで疲れをとろうとしました。出発の号令がかかっても、眠気が覚めず起き上がれない隊員もいました。頭道白河、二道白河、三道白河、四道白河といった松花江の上流一帯は、もともと湿地や原始林が多くて猟師たちもあまり踏み込まない地帯です。ですから、行軍の歩度が鈍るほかありませんでした。

 「さあ、みんな元気を出せ。こんな時ほど気力を失ってはいけないのだ。両江口に着けば休息をとって腹いっぱい食べよう!」

 わたしは疲れきった隊員を抱き起こしながら、こう言って励ましました。わたしとて腹をすかし疲れを覚えないわけではありません。しかし、それを顔に出せないのが司令官なのです。

 ある日の昼時、なだらかな傾斜をなした尾根で休憩を告げ、警護隊員に尾根をくだって状況を探ってくるよう命じました。彼らの報告によれば、下方には谷川が流れているだけで別状は認められないとのことでした。数名の隊員を連れて谷川のふちに行ったわたしは、ズボンを膝までたくしあげて水の中に入りました。そっと石を引き起こして水の底を手探りしてみたところ、大きなザリガニが1匹手にかかりました。そのザリガニを水際に放り投げると、隊員たちはいっせいに「ザリガニだ!」と歓声をあげました。隊員たちはわれ先に川に飛び込みました。喜びいさんでザリガニを捕る姿は、数日来飢えた人とは思えないほどでした。足が冷えてくるとしばらく岸に出ては、また川に入って水の底をあさりまわりました。そのうちに、全隊員がこぞってザリガニ補りに加わりました。足を引きずりながらやっと隊伍のしんがりについてきた隊員たちまで、先を争って川に飛び込んできました。

 我々は、休憩の場にもどって火を焚き、ザリガニを焼きました。香ばしい匂いがする真っ赤に焼けたザリガニを囲んで、あちこちから笑い声があがり、冗談が飛び交いました。束の間のザリガニ捕りが隊伍の雰囲気をがらりと変えてしまったのです。もちろん、数匹のザリガニで腹が膨れるはずはありません。けれども、ザリガニ捕りに夢中になっているうちに、隊員たちは空腹も疲労も忘れてしまったのです。このザリガニ捕りの後、行軍の速度は倍も速くなりました。

 その日、わたしは、隊員たちの明るい姿を見て多くのことを考えさせられました。最前まで倒木をまたぐ力すらなくて遠回りし、休憩の号令がかかるが早いか所かまわず寝ころんだ隊員たちが、どうして急にあんなに活気づいたのだろうか。ザリガニ捕りが、隊員たちの楽天性を呼び覚ましたのだと思います。ザリガニを捕ろうとはしゃぎまわっているうちに疲れがとれ、気分転換にもなり…それで力がわき、飢えた覚えもないように朗らかになったのです。ザリガニ補りが隊内に明るい雰囲気をもたらすことができたのは、隊員の楽天的な情緒を呼び起こしたからです。

 前にも話したことですが、1939年の端午の日に、玉石洞という村で軍民合同の娯楽会と運動会を催したことがあります。そのとき、軍民が一緒になってサッカーの試合もしたのですが、見る者を楽しませてくれました。久しぶりにボールを蹴るので、なんと蹴りそこないの多いことか、その姿に腹をかかえて笑ったものです。選手たちはミスの連続でしたが、見物人はそれを少しもとがめませんでした。かえって、そういうミスが人びとのより大きな笑いをさそいました。

 茂山地区での戦闘があって以来、朝鮮人民革命軍の主力部隊を掃滅しようと四方から敵が大挙して押し寄せてくるとき、「討伐隊」の巡回が絶えない和竜のまんなかで、悠々と端午の節句を祝い、サッカーの試合までするというのは、口で言うほど容易なことではありません。それは、臨機応変の戦法と革命的ロマンに燃える心意気をもった朝鮮人民革命軍の兵士、指揮官ならではのことです。

 革命家は、未来を楽観する人たちです。革命そのものが、未来への夢や新しい生活への憧れからはじまるのです。未来の世界にたいする崇高な理想をもち、その実現をめざし身も心もささげて地道にたたかっていくのが革命家なのです。未来への楽観と革命勝利の確信がない人は、最初から革命に身を投じようともしないし、たとえ、革命に参加したとしても、前進途上でのきびしい試練と難関に耐え抜くことはとうていできないでしょう。

 革命家の人生観や人間としての品格、生活の信条ややり方が他の人間と違う点は、信念や意志、不屈さだけにあるのではありません。革命家にとって大切なのは、誰にもまして理想と抱負が雄大で、いかなる状況にあってもその理想と抱負が実現する未来を確固と楽観することなのです。革命的信念と意志と楽観は、革命家の3大特質、革命家の思想的精神的品格をなす3大要素といえます。

 いつか外国の記者から、主席は80歳で50代の健康を保っておられるが、その秘訣は何かと問われたことがあります。そのときわたしは、長寿の秘訣は楽天的に生きることにあると答えました。すると、彼らはいっせいに拍手をするのでした。人間の生理的年齢が生活をいかに楽天的に営むかによって左右されるように、一国の革命の成否や生命力は革命的楽天主義によって左右されるというのがわたしの見解です。

 人間は楽天的に生きてこそ、一日を生きても生きがいを感じることができるものです。意気消沈し憂うつに生活する軍隊は、団結もできず、勇敢に戦うこともできません。革命的信念と意志は未来への楽観にもとづくとき、さらに強固なものになり、革命の最後の勝利が達成されるときまで堅持されるのです。

 革命家になるということは、何を意味するのでしょうか。それは、監獄も絞首台も死も覚悟して闘争の道に立つことを意味します。言いかえれば、未来への確固とした楽観をいだき、ひたすら革命の勝利のために身をささげる決意と覚悟のもとに、民族解放、階級解放、人間解放の偉業に邁進することを意味します。我々は革命的に生きるという言葉をよく使いますが、それは革命家のように生きるということです。未来のために、前人未踏の道をもためらうことなく歩むのが革命家であり、その道できびしい試練に直面するとしても、それを苦としない人間、党と領袖、祖国と人民のための闘争の道では生きるも死ぬも光栄とする強い覚悟をもち、水火をもいとわず飛び込む人間が革命家なのです。まさにこれこそ、革命家の人生が高貴かつ誇りあるものとなる所以だと思います。

 我々の隊伍から逃亡した者をみると、それは、例外なく未来への信念を失った悲観論者でした。彼らは、革命が上昇線をたどっているとき、その気流に乗って偶然革命の隊伍に加わり、苦難が折り重なって情勢が不利になると、「なんとでもなれ。革命など関係ない。おれだけでも生きのびることだ」と逃げ出してしまった意志薄弱者です。

 1940年代は、我々の隊伍において革命的ロマンと楽天主義が何よりも大事な時期でした。それは、各隊員の真価と革命への忠実さを検証する試金石となっていました。我々の勝利を信じた人はわたしとともに最後まで革命の道を歩み、勝利を信じなかった人は革命を中絶して隊伍を去りました。

 革命的楽天主義は、自然に生まれるのではありません。たえまない教育、不断の思想鍛練によってのみ養われるのが革命的楽天主義なのです。敵がまだ強く、革命の勝利の日を見きわめがたい時期に未来を楽観するというのは、正直な話、容易なことではありません。容易でないから、思想教育、思想鍛練をつづけなければならないのです。朝鮮人民革命軍がいかなる嵐の中でもひるまない強い軍隊になったのは、我々が初期から思想教育に大きな力をそそいだからです。

 我々は、終始一貫、革命への限りない忠実性、不撓不屈の闘争精神と革命的楽天主義、我々の偉業の正当性と勝利の確信を遊撃隊員たちに植えつけました。わたしは暇さえあれば、隊員たちに楽天主義を植えつけました。隊員たちに「国が独立したら平壌へ行ってボラ汁や冷麺に舌つづみを打ってから、牡丹峰へ登って大同江を見物しよう!」と言うと、彼らはいっせいに「早くその日が来るよう頑張ろう!」と言って拳を握りしめたものです。そして、勇気百倍、戦闘に突入しました。

 蛙料理で祝日のご馳走に代えた1940年のメーデーの日も、わたしは革命的楽天主義と必勝の信念を隊員たちに植えつけました。その晩、我々はみな、焚き火のまわりに車座になり、時の経つのも忘れて語り明かしたものです。革命について、祖国について、故郷の父母兄弟について、勝利した未来について楽しく語り合いました。わたしは隊員たちにアピールしました。

 ──諸君、きょうは蛙料理でメーデーを過ごしたが、日本帝国主義を打倒したあとは平壌へ行き、大同江のボラ料理で祖国の解放を祝おう。いま、敵は我々を殲滅しようと狂奔しているが、我々は決して屈しないし、尻ごみもしないだろう。我々みなが、未来への確信と、朝鮮民族としての自負、朝鮮共産主義者としての自負をいだき、日本帝国主義侵略者を撃破して祖国を解放するためさらに雄々しく戦っていこう。

 焚き火に照らし出された隊員たちの顔を見ると、みな明るく生き生きとした表情をしていました。彼らは、折り重なる困難を楽観と勇気をもって乗り越え、奪われた祖国を必ずや取りもどさずにはおかない決意と自信にあふれていました。

 もしあのとき、わたしが困難を前にして腕をこまぬき、黙然と遠山に目を向けるなり、隊員たちに蛙料理を供した後、さあ空腹も多少はいやしたのだから各自テントにもどるようにとでも言ったとすれば、隊伍の雰囲気があれほど明るく活気づきはしなかったはずです。少なからぬ隊員は、きょうはやっと蛙料理にありついたが、明日はまた何を食べて過ごすのだろうかと、心配で寝つけなかったことでしょう。

 蛙を捕って祝日の料理を用意するよう指示したとき、隊員たちが、みな歓声をあげ、両袖をたくしあげて繰り出したことや、焚き火の前で夜通し革命の前途について話したとき、熱心に聞き入ってわたしのそばから離れようとしなかったのは、司令官の姿に革命勝利のかたい信念と、いかなる困難に際会しても動揺しない胆力を感じ取ったからです。敵はいま、我々に睡眠も食事も休息もとらせまいとダニのように食い下がってくるが、朝鮮人民革命軍は絶対に屈することも破れることもないというのがわたしの考えでした。 それで、指揮官の精神状態が重要だと言いたいのです。指揮官の肝がすわっていれば兵士たちも肝がすわり、指揮官が確固たる信念をもっていれば兵士たちの信念と意志もゆるがないものです。兵士たちの楽天性が指揮官の信念によって左右されるように、人民大衆の楽天主義は指導者の信念と胆力によって決まります。困難なときに大衆がまず指揮メンバーの顔色を見るのはそのためです。

 隊員たちは、わたしが勝つと言えば勝つものと信じ、わたしが笑顔になれば革命の前途が明るいと考えました。また、わたしが釣りをしたり鼻歌でも歌おうものなら、来たる戦は勝ち戦だと判断したものです。わたしだけでなく、すべての指揮官が隊員に楽天主義を植えつけました。崔景和と姜燉は、行軍の最中にも隊員の信念をかき立てる話をするのを、つねとしました。

 隊員の信念と楽天主義を培う教育で重要な手段となったのは文芸活動です。革命的な娯楽を抜きにしては、抗日遊撃隊の生活について語ることはできず、革命的な歌と踊りを抜きにしては朝鮮人民革命軍の歩んできた勝利の路程について語ることもできません。

 金正日同志は、朝鮮革命は歌にはじまり、歌のなかで前進し、歌とともに勝利した革命だと言いましたが、まさにその通りです。朝鮮革命のように歌と密着した革命、歌でつづられた革命はこの世に2つとないでしょう。

 革命そのものが、荘重な交響楽であり、歌を生む泉なのです。歌を抜きにした革命など考えられません。『インターナショナル』の歌を抜きにして国際労働運動発展の歴史について考えることができるでしょうか。

 北満州遠征のとき、我々に近づこうとしなかった大衆を獲得したのも歌であり、我々を避けて逃げだした中国人を引きもどしたのも、彼らに愛唱されていた『蘇武歌』でした。

 歌は、わたしの人生においても大きな作用を及ぼしました。わたしの人生が『子守歌』ではじまったとすれば、わたしの革命闘争は『鴨緑江の歌』ではじまったといえます。わたしは葡坪の渡し場から鴨緑江を渡るとき、この歌をうたいながら祖国を取りもどす決心をしました。そして後日、その歌を口ずさむたびに、鴨緑江のほとりで立てた誓いを思い起こし、戦場にのぞんだものです。中学時代からは、自分で歌詞を作り、曲も付けました。そうして『朝鮮の歌』が生まれ、『反日戦歌』や『祖国光復会10大綱領歌』が生まれたのです。わたしは、困難なときはいつも歌をうたって力を出しました。食糧が切れ、水で飢えをしのいだときにも、歌をうたいながら難局を切り抜けたものです。その過程でわたしも成長し、革命も発展しました。ひもじいときに歌声を聞けばひもじさを忘れ、力が尽きたときに歌をうたえば力がわきあがりました。

 苦難の行軍のとき、警護隊員たちが、雪の中に埋もれて立ち上がれなかったことがあります。いくら立ち上がろうとしても手足がいうことをききませんでした。数日のあいだ何も口にできなかったうえに、疲労困憊して力が尽きてしまったのです。わたしも自分の体を支えきれないありさまでした。わたしは、雪の中にミイラのように横たわっている隊員たちに近づいて、静かに『赤旗の歌』をうたいました。隊員たちは、その歌を聞いて正気に返りました。そして、敢然として立ち上がり、行軍をつづけたのです。

 いっとき敵が数千の兵力で車廠子遊撃区を封鎖したことがありますが、当時、その地域では、多くの人が飢餓に苦しみながら世を去りました。はなはだしい食糧難と敵のたび重なる「討伐」のため死に瀕した車廠子の人民を決戦に立ち上がらせたのは、児童団員たちがうたう革命歌でした。

 いまとは違って、当時我々には、専門の芸術団体もなく、専従の創作家や俳優もいませんでした。けれども、抗日遊撃隊員はみずから歌詞や曲をつくり、『遊撃隊行進曲』のようなすぐれた革命歌や革命的な演劇、歌劇、舞踊などを数多く生みだしました。

 青年学生運動時代と同じく、遊撃区のころにも我々は、しばしば演芸公演を催し、遊撃区を解散して広大な地域で大部隊による流動戦を展開した時期にも文化・情操生活を日常化しました。演芸公演は、山中でも住民部落でも催しました。演芸公演のときは、周辺に機関銃をすえて掩護しました。そうしたので、敵の奇襲があっても安心して公演をつづけることができました。公演は、祝日や大戦闘をすませた後にもおこない、部隊に多くの新隊員を入隊させたときにもおこないました。どこでどんな公演をするにせよ、我々が追求した終局的目的は、千万べん死すとも敵を討つという強靭な革命精神で軍隊と人民を武装させ、彼らをすべて不屈の革命闘士にすることでした。

 この目的に即して、公演についての宣伝も楽天的な味わいが出るよう趣向を凝らしました。第7連隊第2中隊の戦友たちは、桃泉里で軍民交歓娯楽会形式の演芸公演を催すとき、「お笑い大会」という広告を張り出しました。お笑い大会を次の通り催します故、ぜひご参加のほどを、といった具合に広告を張り出したところ、公演の場にした農家の庭とそのまわりは黒山の人だかりになりました。「お笑い大会」とは、なんとウィットに富んだおどけた表現ではありませんか。この広告を見ただけで、人々は口もとに笑みを浮かべたものです。 パルチザンの演芸公演は、めでたいときにだけ催されたのではありません。抗日遊撃隊員は悲しい出来事があったときにも、娯楽と公演活動によって気分転換をしたものです。

 呉仲洽と姜興錫が戦死したときは、連続2回にわたって大規模の演芸公演を催しました。この2人が戦死したときほど、部隊の兵士、指揮官たちが悲しみ、口惜しんだことはなかったでしょう。呉仲洽の葬儀をとりおこなった当日の夜、宿営地では白米のご飯に塩漬けのサバを焼いたものが食卓にでましたが、誰も食べようとしませんでした。解放後、金正淑はサバを目にすると呉仲洽を思い出して涙ぐんだものですが、彼を失った隊員たちの気分がいかに沈痛であったか察せられるでしょう。それで、行軍の途中わざわざ時間を割いて娯楽会を催したのですが、隊内に重くたれこんでいた悲しみを歌や踊りや奇術でいくらか紛らすことができました。

  数日後、@信子を襲撃したときにも、松花江のほとりの林の中で大規模の演芸公演を催しました。抗日闘士や歴史家たちは、この公演は新入隊員を歓迎するためのものであったと叙述していますが、実際の目的はそれだけではなかったのです。呉仲洽の戦死による大きな悲哀と喪失の痛みを振り払い、隊内に楽天的な雰囲気をつくりだそうという目的もあったのです。

 その公演は、なかなかの見物でした。ドロノキを伐り出して仮設舞台をつくり、テントを何枚もつないで幕も張りました。床板が凍っていて滑りやすいので毛布を敷きました。公演前にプログラムが張り出されたのですが、合唱、独唱、舞踊、奇術、ハーモニカ合奏など多彩をきわめていました。幕は、呼び子の合図で開け閉めされました。夕食をすませてから、新人隊員と古参の隊員、それに荷をかついできた労働者が全部集まって公演を観覧しました。

 この日、金正淑が『女性解放歌』をうたい、踊りをおどったことが思い出されます。踊りのときには、幕裏で舞踊曲がうたわれました。

 幕間劇も人気を呼びました。地陽渓で入隊した背の高い隊員と延吉で入隊した隊員が活動写真の弁士よろしく映画の解説をして観衆を泣かせました。ペベンイクッ(民俗劇の一種)も大変な人気でしたが、誰の出演だったかは思い出せません。中国人のある隊員は、いまのサーカス団のピエロ役のように竹馬に乗って踊りをおどりました。それもやはり異色の出し物でした。その隊員は、行軍のたびに竹馬を利用して隊伍の足跡をかき消したものです。演目のなかには曹道彦の奇術もあったし、胡弓を弾きながら歌をうたって異彩を放った新人隊員もいました。最後の出し物は、遊撃隊の生活を描いた寸劇でしたが、これは、わたしが行軍の合間合間に構想して台本を書いたものです。

 その日の公演は4、5時間もかかりましたが、観衆は少しも退屈しませんでした。演芸公演が終わると、追加的に入隊を志願する人がたくさん出ました。人々に楽天主義を植えつけるうえで文学・芸術がいかに大きな効果を発揮するかは、抗日革命時代の演芸公演が如実に示しています。

 革命は、思想・意志や規律だけでできるものではありません。思想・意志、道徳・信義とともに、ロマンを宿した情操をもってするのが革命なのです。生まれ育った故郷の山河と父母妻子を愛するこまやかな感情を抜きにしては、愛国主義は芽生えません。自己の集団にたいする愛着と献身の念もなしに、共産主義思想のような深遠な思想を永遠の真理として受容できると考えるなら、それはあまりにも単純な考え方です。

 抗日革命の全路程は、豊かな情操をもった楽天的な遊撃隊員であってこそ、自分の指導者とその思想にあくまで忠実であり、革命勝利の確固たる信念をもって、命をささげて祖国が記憶し人民が記憶する偉勲の創造者になれることを実証しています。

 朴吉松は、最期を遂げる暁間に何と言ったのでしょうか。「祖国よ! わたしはおまえを誇りに思う。…共産主義! これはまさに世界の青春である。…祖国の輝かしい未来を育む揺らんである。…われらはこれをあまりにもよく知っているがゆえに、このように笑って死ぬのだ」と言ったのです。

 敵の拷問で両眼を失った崔希淑は、死を前にして何と叫んだのでしょうか。「革命の勝利が見える!」と叫んだのです。朝鮮人民が、万歳を叫び解放を告げるその日が見えると言ったのです。

 日本の刑吏は鉄鎖につながれた李桂筍に、反省の演説を一言口にすれば命を助け、一生栄華をきわめた生活を保障すると懐柔しました。しかし彼女は、「仇敵のやからども、わたしの耳が汚れる。朝鮮の共産主義者がどんな人間であるかまだわからないのか」と敵を峻烈に糾弾し、断頭台にのぼっては祖国解放の日は遠くないと叫びました。

 抗日革命の途上で倒れた闘士はみな、革命勝利の不変の信念と豊かな情操をもった楽天主義者でした。

 革命家は、未来を楽観する人たちです。今日よりも明日を大切にする人、その明日のためなら、若き命も惜しみなくささげる熱血の闘士です。

 わたしがきょうみなさんに革命的楽天主義についてことさらに強調するのは、内外の現実がいつにもましてそれを切実に求めているからです。

 多くの国で社会主義が挫折した後、帝国主義者の制裁騒ぎのため、朝鮮人民はいま各面で深刻な困難に見舞われています。政治も軍事も、経済も文化も、すべて重大な挑戦を受けています。戦争ではないにしても、それよりもなお張りつめた対決状態におかれているといえます。

 しかし、こうした難局が、100年、200年とつづくものではありません。我々が直面している難関は一時的なものであり、これは遅かれ早かれ克服されるものです。みなさんは、未来を楽観し、自力更生、刻苦奮闘して、今日の難局を一日も早く打開し、祖国を急テンポで前進させなければなりません。

 今日、楽天主義で核心をなすのは、金正日同志のような革命の新しい世代がいれば我々は勝利するという気概です。金正日同志が革命を指導しているので、我々は十分未来を楽観することができます。

 わたしは、金正日同志を信頼せよ、そうすれば万事が順調にいくはずだとあらためてみなさんに強調するものです。金正日同志の気概に朝鮮の未来があり、21世紀の未来もあるのです。歴史が、必ずこれを証明するでしょう。



 


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