金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 小哈爾巴嶺で


 <小哈爾巴嶺会議は、抗日革命の最後の勝利を早め、祖国解放の大事を主動的に迎える準備をととのえるという新たな戦略的方針を採択した重要な歴史的会合であった。
 小哈爾巴嶺会議は、抗日革命の試練の時期、朝鮮の民族解放闘争と共産主義運動の逆境を順境にかえ、禍を転じて福とする金日成同志の労苦と情熱の結実である。
 この会議の準備と進行過程について金日成同志がたびたび述懐した話を、あらためてここに載録する>


 紅旗河で「前田討伐隊」を掃滅した後、我々は花拉子の森林で朝鮮人民革命軍のそれまでの路程いて総括しました。それを2万里長征の総括ともいいます。我々の歩んできた路程が2万里に及ぶという意味です。

 この長征での成果を強固なものにし、革命闘争の新たな局面を開くには、より多くの事をなし、さらに険しい道も歩まなければなりませんでした。それで、わたしは強調しました。

 ――我々が長征で勝利した基本的要因は、政治的・思想的優位性と遊撃戦術にある。これが、2万里長征の主たる総括である。昨今の情勢は、かつてなくきびしい。新たな状況と地域的特性に即して多彩な遊撃戦術と戦法を巧みに活用しよう。人民のなかに深く入って大衆政治工作も強化しよう。革命の最後の勝利をめざして、さらに数万里を歩むことも覚悟すべきだ。革命勝利の確固たる信念を持し、いささかも動揺することなく革命の旗をあくまで守りとおそう。今後も主導権を握って敵を痛撃しよう。

 1940年の春といえば、「野副討伐司令部」の人民革命軍にたいする攻勢が、従前よりいっそう激しくなった時期でした。兵力も増派され、革命軍を掃滅するための「討伐」計画も各面から綿密に立てられました。

 形勢はこのようなものでしたが、それでも我々は主導権を掌握しようとしました。つねに、主導権を取って敵を圧倒してきたのだから、時局がどう変わろうと主導権だけは握りつづけようと決心したのです。何を頼りに主導権を握ろうとしたのか。それは、精神力と戦術です。革命軍は、人的予備や武装においては敵に比べて劣っていましたが、精神力と戦術においては彼らよりはるかにまさっていました。要は、どちらの用兵術がすぐれているかということでしたが、それはわが方でした。

 我々が花拉子の谷間に入ったときまで、「野副討伐隊」はすべて山間地帯に陣取っていました。革命軍の通路とおぼしき要所要所に陣取り、引き上げる気配を見せませんでした。わたしは会議で主導権の問題について強調しはしましたが、事実上、我々を取り巻く状況はきわめて不利でした。野副は、東満州の兵力だけでは満足せず、通化方面からも応援隊の名目で兵力を引き入れているとのことでした。呉白竜の報告によれば、その兵力はすでに延吉、敦化県境の亮兵台近辺に到着しており、長白方面からも某工作隊という名の兵力が増派されてきたとのことでした。

 敵が兵力を増強してなお「討伐」の拡大をはかっている状況下で、今後それにどう対処すべきか。「東南部治安粛正特別工作」の美名のもとに強行された敵の第1段階の大「討伐」は大部隊旋回作戦によって撃破しましたが、それよりも悪辣で執拗な攻勢はどうやって粉砕するかが問題でした。大部隊旋回作戦が効を奏したからといって、今度もまたそういう方法をとるのか、あるいは他の戦術を用いるのか、世界の情勢からして、ドイツと日本が引き起こした戦火は遠からず全世界に及び、列強諸国も小国もすべてその戦火に巻き込まれるはずである、ならば、我々は将来を見通していかなる戦略を立てるべきか、こういうことについて考えざるをえませんでした。いわば、我々には、当面の敵の「討伐」を撃破する戦術的対策とともに、急変する情勢に即した新たな戦略的路線を確立しなければならない課題が同時に提起されたわけです。

 わたしはまず、紅旗河戦闘後の難局を打開する戦術的方策を講じながら、新たな戦略的構想を練ることにしました。当時、敵は、山間地帯に兵力を集結していました。そうした状況下で我々が主導権を握るには、分散活動に移行して丘陵地帯に抜け出すほかありませんでした。敵が、城市や集団部落は警察や自衛団にまかせ、主力を山間地帯に集中している状況のもとでは、背後を撹乱して「討伐」兵力を分散させるのが、もっとも勝算のある戦術でした。

 こうした判断にもとづいて、朝鮮人民革命軍の主力部隊は1940年4月中旬、花拉子の密営から隠密に抜け出し、敵の「東南部治安粛正特別工作」を最終的に破綻させる作戦を開始しました。我々はまず、小沙河流域の大きな集団部落である東南岔と洋草溝を同時に襲撃し、追撃してきた敵を樹街峰の谷間で掃滅したのち、敵の兵力を振り切って車廠子方面へ素早く姿をくらましました。延吉と汪清一帯で活動していた安吉、崔賢の部隊も、主力部隊の動きに応じて県の中心地帯で敵背攪乱作戦を開始しました。

 いくつかの部落で銃声を上げたにもかかわらず、敵はこれといった反応を示しませんでした。敵を分散させるには、もう少し大きい餌を投じる必要がありました。それで、安図県城の東側にある3つの部落を同時に襲撃することにし、ある日の夜間に南二道溝、北二道溝、新成屯にたいする電光石火の攻撃作戦を敢行しました。さすがの敵も、今度は餌に食いつきました。安図県と和竜県の南部隣境地帯に頑と構えていた関東軍部隊は、安図県城がいまにも攻め落とされるのではないかと心配し、一挙に押し寄せてきました。朝満国境の守備隊もこれに合流しました。

 我々がこのように苦労して敵を安図県の中心部におびきだしたのは、敵の兵力を分散させて打撃を加えるとともに、豆満江一帯に陣取っていた日本軍が移動するすきに、再び武装闘争を国内に拡大するためでもありました。

 当時、国内進出の任務を受け持っていたのは、金一の率いる第8連隊でした。第8連隊には、徐々に国境一帯に進出しながら分散活動を展開する任務を与え、第7連隊と警護中隊は安図県の北部へ送りました。それ以来、連日、敵をたたきました。その後、金一は1小部隊を率いてひそかに国内に潜入しました。この小部隊は5月中旬に茂山郡三長面一帯に進出し、国境守備隊にたいする奇襲作戦を展開する一方、2日間、人民のなかに入って活動しました。

 国境からはただ1人の遊撃隊員の潜入も許すなという南総督の厳命がくだされていたときに、朝鮮人民革命軍の1小部隊が堂々と国内にあらわれて銃声をとどろかせ、余裕しゃくしゃくと政治活動までおこなったのは、1940年代前半期の抗日革命史上刮目に値する成果といえるでしょう。

 我々は国内進出の成果を強固にするため、豆満江沿岸と安図県の中部、北部でいっそう猛烈な攻撃戦を展開して敵を撃破しました。こうなると、「野副討伐司令部」の新たな「討伐」作戦は出ばなをくじかれたも同然でした。「討伐司令部」と「地区討伐隊」、「小地区討伐隊」のあいだでは連日、上部が下部の責任を問い、隣接同士が責任を転嫁し合う騒ぎが絶えませんでした。「野副討伐司令部」は、新たな「討伐」指針を下達するなどと騒ぎ立てました。

 我々が新たな作戦の準備を進めている最中に、南満州から韓仁和が5、60名からなる第1路軍の残存部隊を率いて我々を訪ねてきました。魏拯民の提言だとして、我々の部隊に合流して活動する意向を表明しました。彼は第1路軍の参謀兼警護旅団の政治委員でした。我々は、南満州部隊との共同作戦を通じて彼らの士気を鼓舞することにしました。それで6月に入って、東京坪と上大洞を襲撃しました。襲撃してみると、東京坪はほとんど無防備状態でした。10日ほど前に襲撃したのだから、よもや重ねて襲撃することはあるまいとたかをくくっていたのです。我々はその後も数か所の部落を同時に襲撃しました。

 古洞河伐採場を襲撃した翌日は、南満州から来た戦友たちとともに、ろ獲した物資で端午の節句を盛大に祝いました。韓仁和は、杯を何杯か飲みほすとわたしの手をつかみ、魏拯民がなぜ自分を金司令のところに寄こしたのか、いまになってわかった、現在の情勢からすれば南満州より間島のほうがはるかにきびしいのに、「討伐隊」は野副や梅津の命令によってではなく、金司令の指図どおりに動いているようなものだと言うのでした。彼は、我々が進めた作戦からよほど強烈な印象を受けたらしく、第2方面軍がいちばんだ、金司令の部隊こそは百戦百勝の部隊だ、これで我々も自信がついた、額穆か敦化方面へ行って陳翰章に会い、寧安方面へ行って周保中に会ってから力の限り戦ってみせると断言しました。

 朝鮮人民革命軍主力部隊の大胆不敵な活動に、日本軍はうろたえ、混乱に陥りました。

 失敗を重ねた「東南部治安粛正特別工作」を多少なりとも挽回しようと、敵が間島全域に厳重な警備網を張りめぐらしているとき、我々の隊伍ではまったく思いもよらぬ事件が発生しました。大馬鹿溝付近の密営で治療を受けていた方面軍の政治主任、呂伯岐が敵に逮捕され、部隊の秘密を洗いざらい吐いてしまったのです。

 わたしは呂伯岐の逮捕と投降によって生じた難局を、敵への間断ない攻撃と多様な戦術上の変化で打開しようと考え、まず、部隊を小部隊化することにしました。方面軍の兵力を複数の小部隊に分け、各地で果敢かつ絶妙な消耗戦をくりひろげようというのでした。部隊を小部隊化すれば、活動の機動性をはかり、敵のきびしい警備網を容易にくぐり抜け、敵を再び混乱に陥れることが可能でした。部隊を小部隊化すれば、人員が少なくなるので、敵に発見されてもいち早く姿をくらますこともできるわけです。そこで、我々は、すぐさま方面軍をいくつもの小部隊に分け、小部隊による全面的な消耗戦を開始しました。

 このように、我々は、日本軍の攻勢にたじろいだのではなく、むしろ、それを迎え撃ったのです。もしあのとき、我々が敵の大攻勢に萎縮して安全地帯を探して隠れ歩いていたとしたら、どうなったでしょうか。言うまでもなく、我々は甚大な損失をこうむったことでしょう。我々が勝利を手にしたのは、主導権を取って息つくひまも与えず敵を攻め立てたからです。


 <>1940 年の春期、夏期の作戦で朝鮮人民革命軍が勝利をおさめたことは、敵も認めている。
 「秋、春期討伐の鋭鋒を巧に遁れましたる匪団は繁茂期に乗じ頻りに跋扈跳梁し、特に最近に於きましては第2、第3線の后方部落に迄積極的襲撃を敢行し来り、其の状真に傍若無人にして被害亦鮮少ならざるを見まするは各位と共に極めて遺憾とする所であります。日満軍、憲、警、鉄、協挙げて此所に数万、如何に季節の影響と地形の不利ありと雖も彼等をして尚且斯の如く暴威を呈示するを得せしめまする所以のものは一に討伐隊司令官たる私以下の責任に存するは勿論でありますが、具さに最近の情況を観察致しますると特に討伐隊及び各機関の融和団結と其の動態に包蔵する幾多の弱点と欠陥が著しく、粛正諸工作の推進を阻害し延て以て匪団の跳梁を許容するの結果を招来したるに非ざるやを痛感せしめられまするとは真に遺憾に堪へざる処であります」〔『治安粛正関係書類』野副匪伐司令部 昭和15年(1940年)〕


 1940年の春期、夏期作戦の過程を通じて、我々は小部隊活動で多くの経験を積みました。それまでは、場合によって小部隊活動もしましたが、主として大部隊活動をくりひろげました。しかし、1940年の夏には、小部隊単位で、各地で連続打撃、反復打撃、同時打撃といった絶妙な戦法を多く用いました。その過程で、敵が「討伐」兵力を増強して水も漏らさぬ包囲網と警備網を張りめぐらしているときほど、戦闘単位を小さくして小部隊活動の方式で遊撃戦を展開するのが有利だという重要な経験を新たに得ることができたのです。これは、つぎの段階の戦略的課題とそれを遂行する闘争方途を策定するうえで大きな元手となりました。こういう元手がなかったならば、同年8月に開かれた小哈爾巴嶺会議で、わたしは大部隊活動に代わる小部隊活動の展開を主張することができなかったでしょう。それまで蓄積した経験があり、自信もあったがゆえに、小部隊活動を1940年代前半期の主たる闘争形式とし、主導権を掌握しつづけることができたのです。

 なかには、我々が小哈爾巴嶺会議以前は大部隊活動だけをおこない、小部隊活動はそれ以後のことのように思っている人がいますが、それは歴史的事実に反しています。遊撃戦の特徴は、そのときの軍事・政治情勢と環境に応じて臨機応変になされるところにあります。小部隊活動は、大部隊活動が基本であった1930年代の後半期にも重視されたし、必要に応じて適用されたのです。1940年の前半期に活発であった小部隊分散活動の試験段階を経て、小哈爾巴嶺会議以後、パルチザン部隊はすべて大部隊活動から小部隊活動に移行しました。

 以上述べたことは、大部隊旋回作戦の後日談です。歴史学者たちがこの部分の研究に空白が多いというので、今日こうして時間をかけて話したのです。

 小哈爾巴嶺会議を基準にして問題を考察するなら、1940年の春から夏にかけての我々の活動は、その会議を準備する過程だったといえます。

 わたしが大勢に即応して戦略を変えるべきではなかろうかと考えるようになったのは、ヨーロッパで勃発した戦争が急速に拡大する様相を呈していたころからでした。日本帝国主義者は、「大東亜共栄圏」の野望を遂げるため中国大陸での侵略戦争を終結できないまま、東南アジア地域に戦火を拡大しようと狂奔し、「後方の安全」をはかるため手段を選ばず策動しました。上述した、我々にたいする敵の執拗な大「討伐」攻勢と、朝鮮人民にたいするファッショ的弾圧と略奪がかつてなく悪辣になったのは、まさにこうした侵略政策の強化に起因するものでした。

 しかし、日本帝国主義者が侵略戦争を拡大すればするほど、国際的にも国内的にも孤立を深め、政治的、経済的、軍事的に抜き差しならぬ窮地に追い込まれるものとわたしは判断しました。全般的情勢は、日本帝国主義の滅亡が確定的で、時間の問題であり、朝鮮人民が祖国解放の歴史的偉業を達成する日が近づいていることを示していました。そのため、わたしは過去10年間の抗日武装闘争の過程での成果と経験を総括し、激変する情勢に対処して祖国解放の大事を主動的に迎えるために力量を保持、蓄積するという新たな路線を構想することになったのです。

 祖国解放の大事を迎える万全の準備をととのえることは、当時、朝鮮革命発展の合法則的要求でした。新たな戦略的段階に移行するには、客観的情勢の変化一面のみを見てそれに受動的に対応するのではなく、つねに主動的に闘争を導き、最後の勝利を早める主体的力量の検討とそれまでの闘争にたいする分析がともなわなければなりません。

 わたしはまず、以前の段階で規定した戦略的課題が遂行されたかどうかを検討してみました。南湖頭会議で提示された戦略的任務を一つひとつ思い返してみましたが、未解決の問題はありませんでした。党創立のための組織的・思想的基礎の構築、反日民族統一戦線の結成と拡大発展、国境地帯への進出、国内への武装闘争拡大の問題など、いずれも解決されたと総括することができました。

 武装闘争の戦略的段階を定めるうえで必ず考慮すべきいま一つの重要な問題は、彼我の力関係の変化です。数量のうえからすれば、彼我の力は比すべくもありませんでした。当時、敵は我々のことを「蒼海の一粟」と称していました。大海に浮かぶ粟粒ほどの存在だというわけです。常識からすれば、力の対比など論ずるべくもありませんでした。しかし、我々の力の比べ方は、そういう算術的な方法ではありませんでした。革命軍1名が100名、1000名の敵兵に当たるというのが、我々の比べ方でした。

 南湖頭会議以後、朝鮮人民革命軍は、政治的、思想的に、そして、軍事技術的にも長足の進歩を遂げました。革命軍は数量のうえでは敵より少なくても、数十、数百倍の大敵との戦いでつねに主導権を握って連勝してきました。その過程で、人民革命軍は、いかなる状況にも適切に対処できる多様な戦法と戦術を体得した軍隊に成長しました。朝鮮人民革命軍は、軍事的使命とともに政治的使命をも同時に遂行する、新しいタイプの特殊な革命軍でした。

 顧みれば、抗日武装闘争に限らず、全般的朝鮮革命遂行における朝鮮人民革命軍の確固たる指導的地位と増大する中核的役割は、我々が革命武力の建設を重視し、それをすべての事業に先行させる原則を堅持したのがきわめて正当であったことを実証しています。一般的に政権獲得をめざす共産主義者の闘争においては、政治的指導機関としての党を先に組織し、そのつぎに武力建設に着手するのが一つの原理となっています。しかしわたしは、革命闘争、とくに、植民地民族解放闘争における革命武力、暴力的進出の決定的役割と、当時のわが国の現実を踏まえて、まず武力を建設し、そのあとで党を建設する方法をとりました。

 我々は1932年4月に、初の革命的武力としての反日人民遊撃隊を創建し、それを朝鮮人民革命軍に発展させ、まさにこの朝鮮人民革命軍に依拠して抗日武装闘争を拡大しながら全般的反日民族解放闘争を新たな高揚に導いたばかりでなく、朝鮮人民革命軍の指導と武力的保証のもとに、党創立の組織的・思想的準備、祖国光復会の組織と統一戦線運動の拡大発展、全民抗争の準備などを成功裏に進めてきたのです。

 事実上、日本帝国主義侵略者に反対する抗日革命の時期、朝鮮革命の中枢をなす中核力量であり、政治的導き手であり、民族的利益の武力的保証者であった朝鮮人民革命軍は、それ自体が我々の軍隊であると同時に、党であり、政権であったといえます。これらのことは、新たな戦略的段階の課題を十分担当できる主体的中核力量がしっかり準備されていることを示すものでした。

 人民大衆の意識化、組織化を促し、彼らを、政治的、思想的に準備させる活動でも多くの成果をおさめました。当時、祖国光復会傘下の会員数は20余万に達していました。国内にはまた、労働者突撃隊や生産遊撃隊といった半軍事組織もたくさんありました。そういう組織が母体となり、各地で全民抗争のための武装隊を組織していました。未組織大衆の動向もきわめて良好でした。

 そのころ、金一らが国内に進出して敵を討ち、豆満江方面へ行軍していたときの話です。隊伍の後ろから足の不自由な農夫が一人ついてきました。農夫は、「遊撃隊の旦那がたはこっちから豆満江を渡るつもりらしいが、今夜は場所を変えたほうがいいですよ。この辺りは、敵がうようよしています」と言うのでした。金一らは農夫の話を信じてよいものかどうか、判断がつきませんでした。農夫の素性がわからなかったからです。一同がためらっているのを見てとった農夫は、懐から新聞の切れ端を取り出して見せました。そして「わたしはこういう人間ですから信じても大丈夫です」と言うのでした。手のひらほどの新聞の切れ端を出して自分を信じてくれというのですから、彼らが目を丸くしたのも無理はありません。紙片の活字に目を通してみると、それは1939年5月の茂山地区戦闘にかんする記事でした。彼らは長い遊撃隊生活の経験に照らして、農夫は善良な人間に違いないと判断しました。それで、どこから行けば豆満江を無事に渡れるだろうかと尋ねました。農夫は、自分が案内する、そこにも警備はいるが、みな革命軍の味方だと言うのでした。その夜、金一らは、その農夫に助けられて豆満江を無事に渡ることができました。警備に立たされていた村の住民は、遊撃隊が渡河するのを見ながらも、目をつぶってくれました。なかには、「ここは浅いです」「そこは深いです」と教えてくれる人もいたそうです。

 人民大衆の政治的・思想的準備の向上と朝鮮人民革命軍にたいする変わることのない支持は、抗日武装闘争の拡大、発展にとって依然、巨大な推進力となっていました。

 武装闘争の戦略的段階を定めるうえで必ず考慮すべきいま一つの問題は、敵の戦略戦術上の企図の変化です。

 1940年の夏、我々は、黄溝嶺道路工事場で日本軍の工兵将校を捕虜にしたことがあります。その将校を審問する過程で、敵が間島一帯と南満州方面で膨大な軍用道路網を形成しようとしていることがわかりました。安図県を中心に和竜、延吉、敦化、樺甸、撫松はもちろんのこと、国内と人里離れた白頭山東北部の険しい谷あいにまで道路が建設されるとのことでした。この軍用道路の建設状況は、「野副討伐司令部」を経て関東軍司令部にまで毎日報告されていました。工兵将校の話によると、近々、野副司令官が工事中の道路を視察するとのことでした。この道路は、人民革命軍を「討伐」するときに利用する機動路でした。命令さえくだれば、この道路をつたって朝鮮と東北地方の各地から、我々の活動地域におびただしい兵力が押し寄せてくるはずでした。

 敵は、我々の周辺に飛行場まで大々的に建設していました。野副の極秘指令によって、野戦飛行場は東南部3省のいずれにも建設されるとのことでした。工兵将校は、自分の知っている野戦飛行場の位置と、「地区討伐隊」はもちろん、「小地区討伐隊」にも飛行機が配属されるということまで自白しました。この将校の話が確かであれば、我々は敵の野戦飛行場に包囲されることになります。

 そのころ、「野副討伐司令部」は、吉林から延吉に移されようとしていました。延吉の「東地区討伐隊」司令部も図們へ移されるとのことでした。

 我々の活動地域に敵の兵力がたえず増強されているという情報と偵察資料が相ついで司令部に届きました。成り行きからして、敵は、近々いかなる犠牲を払ってでも決着をつけようと準備していることが察知されました。

 従前の戦略的方策のみでは、敵情の急激な変化に対処することができませんでした。決定的に戦略を変える必要がありました。そのため、わたしは、無謀な戦闘による損失を避け、主動的な行動によって革命力量を保持、蓄積することを朝鮮革命のもっとも重要な戦略的課題として提起することにしました。祖国解放の大事を主動的に迎えるための戦略的方針は、1940年8月に招集された小哈爾巴嶺会議で採択されました。

 我々が、安図と敦化の県境にさしかかったとき、第15連隊長の李竜雲と中隊長の任哲が4、5名の護衛兵をともなってわたしを訪ねてきました。わたしは、朱在日に小哈爾巴嶺で軍事・政治幹部会議を招集する趣旨を話し、中隊長、中隊政治指導員以上の軍事・政治幹部を全員集合させるよう指示しました。到着の期日は8月9日、陰暦7月7日までとし、汪清、東寧方面に進出している安吉、崔賢には後日、会議の結果を通報することにし、第13連隊と第14連隊には、近くで活動している中隊にだけ連絡せよと命じました。第15連隊からはすでに李竜雲と任哲が到着しているので、あらためて呼び出さないことにしました。

 小哈爾巴嶺会議は、10日から11日まで2日間にわたって開かれました。会議で大きな論点となったのは、以後の戦略的段階を革命的大事変の時期と規定できるかということでした。言いかえれば、つぎの段階で祖国の解放を成就することができるかということでした。わたしは言下に、成就できると確言しました。そして参会者に、もちろん現在も日本軍は強い、しかし滅びゆく軍隊だ、それは関東軍の精鋭と称される空軍部隊で暴動が起きた事実を見てもわかる、逃亡者や寝返る者が続出するため、中日戦争のさなかに予防策を講じるのにきゅうきゅうとしているという、長々と説明する必要はない、日本が敗北する日は遠くないと話しました。

 日本は、そのころ特別志願兵制なるものを発令して、朝鮮青年を弾よけに駆り出していました。台湾や満州でもそのような制度を実施しました。日本が自分たちに恨みをいだいている植民地国の青壮年を弾よけとして戦地に駆り出すほどになったのですから、兵力不足の程度は推して知るべしです。9.18事変から7.7事変までの期間に、日本軍は満州でだけでも20万近くの兵力を失いました。中日戦線で1年間にこうむる損失はそれより大きいとのことでした。

 日本が保有している戦略物資の予備も限界に達していました。小哈爾巴嶺会議直前の時期にいたっては、弾薬も1939年以後に製造されたものを使用していました。間三峰戦闘当時の弾薬は1920年代に製造されたものでした。これは弾薬の予備もなくなってきたことを意味します。

 日本の政界も複雑をきわめていました。頻繁に内閣が交替し、口論は絶えることがありませんでした。軍部内の葛藤もはなはだしいものでした。将官や将校たちが各派に分かれて拮抗していたので、作戦での統一と連携も保たれませんでした。そのうえ、労資間の矛盾、軍民間の矛盾、宗主国と植民地間の矛盾が爆発寸前の状態にありました。本土の住宅街にまで情報員を配して国民の口を封ずるありさまでした。

 まさにこういう状況であったため、わたしは会議で、日本の国策はヨーロッパで勃発した戦争を機に東南アジアヘ進出する下心をさらけだしたものであって、もし、日本がそれを実行に移すなら、それは、彼らがみずから墓穴を掘ることになるという点をとくに考慮に入れて新たな戦略を構想したことを強調しました。

 つぎに会議では、大事変の時期に実行すべき戦略的課題について討議しました。我々は、祖国解放の大事を主動的に迎える準備を進めるにあたって、朝鮮革命の枢軸をなす朝鮮人民革命軍の力量を保持、蓄積しながら、彼らを有能な政治・軍事幹部に育てることを新たな戦略的課題として策定しました。

 この大事変は、彼我双方の政治的・軍事的潜在力が最大限に動員される最後の決戦を前提としますが、その決戦で勝利者となるには、各隊員がこれまでより何級も高い職務を果たさなければなりませんでした。祖国が解放されたら、ほかならぬその隊員たちが中核となって新しい祖国の建設もしなければならなかったからです。

 最後の決戦と新しい祖国の建設、この2つは、わが国の歴史を新たに創造し、朝鮮人民の運命に劇的な変化をもたらす戦略的課題であって、他の国の人に肩代わりしてもらえるものではありませんでした。これは、朝鮮人民革命軍に課された任務であり、朝鮮人民が果たさなければならないことでした。頼みとするのは、我々自身が長期にわたる抗日革命の過程で築いた主体的力量だけでした。「我々が主人となって最後の決戦に臨むとき、他からの自発的な支援があれば結構というものだ。で、各自2、3級のレベルアップは、可能だろうか」と参会者に問うと、異口同音に自信があると答えました。全人民を武装させて抗争に立ち上がらせることができるかと問うと、それもできると答えました。

 以上のような戦略的課題を順調に遂行するため、わたしは大部隊作戦から小部隊作戦へ移行する新たな方針を提示しました。もちろん、この案についても論議は交わされました。なかには、敵が各地で大挙して押し寄せてきたとき、我々が大部隊ではなく小部隊で対抗しては各個撃破されてしまうのではないかと憂慮する人もいました。わたしはそういう人たちに言いました。

 ――大部隊の全盛期は過ぎ去った。大部隊で公然と行動する時期ではない。敵が大兵力を動員して我々を一網打尽にしようとしているとき、我々が大部隊作戦をつづけるならば、敵の策略にはまって自滅することになる。いわば薪を負うて火中に入るようなものだ。小部隊単位で流動しながら戦闘をしたり大衆政治工作をしたりすれば、食糧も容易に手に入り、機動も自由自在にできる。食糧工作のため犠牲になった戦友がどんなに多かったことか。そうして、命とかえて得た食糧も大部隊が消費したので、すぐさま底をついてしまったではないか。小部隊で活動すれば敵の兵力も最大限に分散させることができる。これは、この春と夏の小部隊戦闘行動の全過程が証明している。標的を小さくするのが我々の意図だ。

 わたしは、新たな戦略的課題を遂行するため、朝鮮と満州の広大な地域で小部隊による軍事活動を巧みに展開すると同時に、大衆政治工作を強力に進め、各兵士と指揮官の政治・軍事知識水準の早期向上につとめ、世界のすべての反帝勢力との連帯を強めることを重ねて強調した後、具体的な対策について合議し会議を終えました。

 小哈爾巴嶺会議は、抗日武装闘争の重要な戦略的路線を示した1931年12月の明月溝会議、1936年2月の南湖頭会議とともに、朝鮮革命の新たな転機を迎えた時期に戦略的路線の変更を決定した歴史的な会議でした。

 もしあの時、我々が大勢を見きわめることができず、目先の成果にとらわれて大部隊活動をつづけていたならば、力量を保つことはできず、自己の存在に終止符を打ち、殉国の烈士として歴史に名をとどめたにすぎないでしょう。

 小哈爾巴嶺は、敦化県と安図県の境界に位置する哈爾巴嶺の末端です。会議は、その嶺の北側のスロープでおこなわれました。前方には、カヤ原がありました。いまでも小哈爾巴嶺会議といえば、そのカヤ原を思い出します。人里離れたところであったためか、カヤを刈りに来る人もいませんでした。わたしはそのカヤ原を見おろしながら、馬に乗って活動しているという金策や許亨植、朴吉松など北満州の戦友たちが、こんなカヤ原を見たらさぞ喜ぶことだろうと思ったものです。小哈爾巴嶺のカヤ原で思い描いた北満州の戦友たちとは、極東に入ってからようやく会うことができました。



 


inserted by FC2 system