金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 「前田討伐隊」の末路


 1940年3月の紅旗河戦闘は、大部隊旋回作戦の最後の時期をりっぱに飾った戦闘であったといえます。

 「東南部治安粛正特別工作」によって革命軍を壊滅させると喧伝していた敵が、この戦闘でこうむった打撃は並大抵のものではありませんでした。まるまる1個の「討伐」中隊が全滅するという悲惨な終末にあって、敵はあわてふためき、なす術を知りませんでした。当時はどんな時期だったでしょうか。中日戦争が持久戦にもちこまれ、ハッサン湖事件とカルキンゴル事件のため日ソ関係が極度に緊張していた時期でした。また、第2次世界大戦の炎がますます燃え広がっていた時期でした。そうしたときに、関東軍首脳部は、東北抗日運動の最終的な撲滅を云々して「東南部治安粛正特別工作」なるものをくりひろげたのです。

 我々が敵にたえまない打撃を加えながらも、いったん戦闘を終えては、いつの間にか跡かたもなく姿をくらますので、彼らは我々の行方をつきとめようと冬中、敦化と撫松の奥地を探しまわりました。そんなときに、すべて凍え死にしたといわれていた朝鮮人民革命軍の主力が突如、安図─和竜県境にあらわれ、紅旗河で「前田討伐隊」を全滅させたのですから、敵はさぞ仰天したことでしょう。

 
 紅旗河戦闘遺蹟地碑石

 紅旗河戦闘は、普天堡戦闘、間三峰戦闘、東寧県城戦闘、撫松県城戦闘などの大規模の戦闘とともに、我々が展開した軍事作戦のうちでも忘れがたい作戦の一つとして記憶に残っています。それで、わたしも前田を覚えているのです。和竜県「警察討伐隊」のただの中隊長にすぎなかった前田について言うなら、実際上、朝鮮人民革命軍の相手になるほどの存在ではありませんでした。しかし彼は、撫松の王隊長や安図の李道善のようにもっとも悪質な「討伐隊長」でした。職級からすれば取るに足らぬものでしたが、朝鮮革命の司令部をなきものにしようと狂奔して全滅したことで悪名をとどろかしたといえます。

 そのころ、我々は大部隊旋回作戦にもとづき、計画的に休息し学習もしながら、敵にあいつぐ軍事的打撃を加えていました。紅旗河戦闘を1か月ほど前にしたときのことです。白石灘密営で軍事・政治学習をしていた我々は、密営を奇襲してきた敵にいち早く痛撃を加え、安図方面に抜け出しました。大部隊旋回作戦が第2段階に入ったのは、まさにこのときからです。

 ところが、この第2段階は、はじめから多くの苦労をともないました。東牌子密営に行っていた林水山が司令部から与えられた任務の遂行を怠ったので、予定されていた秘密コースが利用できず、計画にもなかった他のコースを利用しなければならなかったからです。そのため、新たに定められたコースは、ほかならぬ人里離れた白頭山東北部の白色地帯でした。日本軍にはベテランの測量士が多かったそうですが、この一帯には、あえて足を踏み入れることができなかったといいます。測量できなかった地帯なので、地図に白色のまま残すほかありませんでした。それで、白頭山東北部の一部の地域を白色地帯といっていました。我々は白石灘を発つとき、その白石地帯を通過して茂山、三長に進出し、いま一度銃声を大きく響かせてから和竜県を経て安図県の中心部にもどってくる計画でした。我々が白石灘を後にしながら新しく立てた大部隊旋回作戦の第2段階計画はこういうものでした。

 我々は露水河で1回戦闘をおこなった後、頭道白河、二道白河、三道白河を横切って安図県の南端に向けて行軍しました。白色地帯を突破するときは、たいへん苦労しました。当時は、積雪も敵であり、寒風も敵でした。寒さと空腹は、たえがたいものでした。しかし、もっとも困難なのは、よく道に迷うことでした。すべてが白色ずくめなので、どこがどこやら見分けがつかず、目印をつけることもできませんでした。大馬鹿溝付近に来ては食糧も切れ、衣服も靴もひどく破れました。我々は、大馬鹿溝を襲撃して給養物資を補いました。大馬鹿溝というのは大きなウマ鹿の谷という意味であり、小馬鹿溝というのは小さなウマ鹿の谷という意味です。以前は大馬鹿溝の鹿が豆満江を渡って朝鮮にきて草を食み、冬には大馬鹿溝に帰って茅を食べるなどして両国の境界を行き来したものでした。「討伐隊」の本拠地である大馬鹿溝には、山林警察中隊の本部もありました。大馬鹿溝は、国境方面の「討伐」拠点といえるところでした。日本帝国主義は、ここにある山林伐採会社と作業場を通して、軍需用の木材を大々的に略奪していました。

 我々は、戦闘に先立って大馬鹿溝に偵察班を派遣しました。ところが、帰ってきた彼らが偵察報告をしてから言うには、目が灰色で背がばか高い変な人種を見たとのことでした。鼻がとんがり、手の甲にまで毛の生えた得体の知れない種族で、どこの人間なのか判断できないと言うのでした。それで隊員を一人送って確認させたところ、木材所の運転手をしている白系ロシア人であったとのことです。ハルビン地方には、多くの白系ロシア人がいました。わたしも1930年の夏、ハルビンで多くの白系ロシア人を見たことがあります。我々は、敵の主力が出払ったすきに、急行急襲の戦術でまたたく間に大馬鹿溝を掌握しました。白系ロシア人の運転手たちは、革命軍の隊員たちに金の指輪を差し出しました。おそらく匪賊部隊だと思ったのでしょう。隊員たちがそれを受け取らなかったので、彼らは変わった人間もいるものだといわんばかりに首をかしげました。彼らの物の見方はそれほど立ち後れていたのです。

 大馬鹿溝を襲撃してろ獲した小麦粉はたいへんな量でした。その小麦粉を大馬鹿溝の住民に一袋ずつ分け与えました。ろ獲した物資がたいへんな量で、全隊員が背中いっぱいかついでも余ったので、数十名の木材所の労働者が自発的に荷物を運搬してくれました。最初は白系ロシア人を説得してトラックで一定の地点まで運び出そうとしたのですが、彼らが言うことを聞かないというのです。そこで、ロシア語ができる人を白系ロシア人のところへやって説得させ、彼らを動かしました。

 そのとき、わたしは、白系ロシア人と対話をしてみました。なぜ祖国に住まず中国に来たのかと聞くと、彼らは、自分たちのような地主、資本家の出身を共産党は歓迎しない、父親は社会主義革命に反対したから罪があるとしても、自分たちには実際上なんの罪もないと言うのでした。ソ連に送ってやれば共産主義者とともに社会主義建設に参加する用意があるかと聞くと、あるとのことでした。

 ろ獲物資をかついで我々について来た人のなかには、日本人労働者も一人いました。彼は帰ってからよい宣伝をしたとのことです。革命軍に会ってみると、みんなよい人たちだった、彼らはみな自分らのような労働者の味方だった、わたしが日本人であることを知りながらも差別せずに接してくれた、そして、日本の労働者も朝鮮の労働者と力を合わせて日本帝国主義を打倒すべきだと言っていたと見聞きしたとおり宣伝したのです。そのため、木材所の監督につかまり、よそへ追い立てられたとのことです。

 我々が大馬鹿溝を奇襲すると、安国と和竜一帯の敵は、超非常警戒態勢に入りました。彼らは、人民革命軍の主力部隊を掃滅しようと血眼になりました。その先頭に立ったのが和竜県「警察討伐隊」隊長の県警務課長宇波とその部下の前田でした。

 和竜県警察当局が「警察討伐隊」を組織したのは1939年5月、我々が茂山地区戦闘を終え、豆満江沿岸で大規模の戦闘を連続くりひろげていたころでした。和竜県「警察討伐隊」は、もっぱら我々を牽制し掃滅するために急編成した兵力でした。この「討伐隊」は、前田中隊を含めた4個中隊と鉄道警備隊の2個中隊で構成され、間島地区「討伐」隊長の指揮のもとに遊撃隊の「討伐」に狂奔していました。遠く北方にいるものと思った革命軍が突如、和竜─安図県境に出没して大馬鹿溝を襲撃するや、和竜県「警察討伐隊」は、業を煮やして我々の追撃に総力をあげました。のちに知ったことですが、前田はともすれば、金日成部隊の主力は自分らが受け持ってかたづけると豪語し、我々にたいする「討伐」に誰よりも悪辣に取り組んだといいます。

 「野副討伐司令部」は、わたしの首に1万元という大枚の懸賞金をかけていました。それよりはるかに多額の懸賞金をかけていたという資料もあります。満州国治安当局が「警察賞」を制定したとき、普通賞10元から治安部大臣名義の最高賞金を200元としたことを考えるなら、1万元という懸賞金は法外な金額であることがわかります。

 朝鮮で下級警察官を務めて満州にきた後、首都警察庁管下の警備司令部と、主に朝鮮国境対岸のいくつかの地域で警察署長を務めたことのある前田は、間島一帯での「治安粛正工作」で立てた「功労」により、治安部大臣賞まで受けたそうです。我々が大馬鹿溝を襲撃したという報に接して俄然殺気立った前田は、遊撃隊を全滅させると誓って血書を書き、「討伐出征式」までおこなったとのことです。日満軍警合同「討伐隊」は、総出動して白頭山麓の大森林を包囲し、「蟻のはい出るすきまもない捜査網」を張りめぐらしました。

 わたしは、「討伐隊」が必ず我々の後尾にくらいついてぐることを予見し、巧みに敵を振り切る計画を立てました。まず1個小部隊の隊員と、ろ獲物資を運んで大馬鹿溝へ帰る40名余りの人たちに、あちこち足跡を残すようにしました。敵はその足跡にだまされ、やっとつかまえた遊撃隊を取り逃がしたと歯ぎしりして口惜しがり、だが今度はそうはいかない、いかに金日成が神出鬼没だとはいえ地に潜れはしまい、白頭山をくまなく捜せば共産軍司令部は必ず探し出せると大言を吐き、連日、山中を捜索してまわりました。

 我々は敵をまいて振り切ったのち、しばらくのあいだ花拉子密営で悠然と主力部隊の軍事・政治学習をしながら休息もとって疲れをいやしました。それから茂山方面へ行軍をつづけました。花拉子一帯に散開して革命軍の行方を探し出そうと懸命になっていた敵は、ついに我々の行方を探知し後を追いはじめました。行軍の途中で「討伐隊」の人夫として徴発されていた農民に会い、1000人ほどの敵軍が我々を追っていることを知りました。3月とはいえ、腰まで埋まる積雪のため、敵味方の双方が行軍に難渋していました。しかし、敵の行軍速度は我々を上まわっていました。我々が前で新雪をかき分けて道をつけていくと、敵はその跡をたどって追ってきたからです。

 そのうえ、部隊内には、萎縮症患者が出ました。最初は1、2名だった患者が、のちには15人ほどに増えました。わたしは林春秋に、それらの患者をどう治療するつもりかと聞きました。林春秋は、遊撃隊の政治幹部でしたが、臨床経験を積んでいる人で、アヘンを使うと言うのでした。それで、よかろう、アヘンを使うなり何を使うなり、精いっぱい治療してみるようにと言いました。患者は、アヘンを飲んで急場をしのぎました。しかし、行軍ができるほどには回復しませんでした。敵を遠く引き離さなければならないのに、患者のため行軍速度が鈍り、敵味方の間隔は、4、5キロほどに縮まりました。

 紅旗河上流の大馬鹿溝河は、いくつもの谷川からなっていました。そのうちのある谷間にたどりつくと、日が暮れはじめました。木材所の労働者が使いすてた空き家が幾棟かあったので、歩哨を立て、そこに隊員を宿営させました。隊員を十分に休ませなくては戦闘ができません。隊員たちは、敵が背後に迫っているのをよく知っていたので、行軍を中止し、そんなところで宿営することにいささか不安なようでした。しかし、わたしが先に横になると安心しました。

 わたしは、「前田討伐隊」を紅旗河の谷間で撃滅することにしました。紅旗河の谷間を待ち伏せ地点として定めたのは、花拉子まで来た敵が基地に帰るには、必ずこの谷間を通過するものと推定したからです。それに、その地形は、敵を要撃掃滅するにはうってつけのところでした。のちに和竜県警務課長が言ったように、その谷間は待ち伏せにかかったが最後、「まったく戦術を使おうにも使いようがないとしか言えない不利な地形」でした。わたしが紅旗河の谷間を戦闘の場と決めたことを知った呉白竜は、「将軍、敵は我々の戦法をよく知っているのに、みずからそういうわなにかかってくるでしょうか」と心配しました。一理ある話でした。敵がもっとも恐れたのは、ほかならぬ我々の誘引待ち伏せ戦術でした。敵は、この戦術を「ラワ戦法」とまで名づけ、内々にそれを克服する対策の研究もさかんにしていました。「金日成のラワにかかるな」という言葉が警句のようになっていたというのですから、彼らが我々の誘引待ち伏せ戦術にどんなに泡を食ったかがうかがわれるでしょう。敵は、遊撃隊が待ち伏せしていそうなところは、できるだけ通らないことにしていました。呉白竜は、そういうことを念頭においていたのです。わたしは、日本軍が「ラワ」を警戒していることを知っている共産軍はそんな戦法を繰り返しはしないだろうと考える敵の意表をついて、紅旗河の谷間に待ち伏せの陣を張り、そこで追撃してくる「討伐隊」と戦うことにしました。いわば、二度と使わないだろうと敵が断定する戦法を再び適用する計画を立てたのです。

 翌日、行軍をはじめた我々は、小馬鹿溝の方角へ尾根をつたって谷間におりました。その谷間の両側の山は妙な形をしていました。上流に向かって右側には3兄弟のような形をした3つの峰がありました。待ち伏せの陣地としては、うってつけの場所でした。谷間の左側にも峰がありました。その峰の麓にこんもりした林がありましたが、それも我々に有利な地形地物でした。

 わたしは指揮官会議を開き、簡単な戦闘手配をしました。谷間の右側の3つの峰には機関銃小隊と警護中隊を、左側の峰の端には第7連隊と第8連隊を配置することにしました。ただし、各部隊はわざと下の方におりていって、高地に登ってくる足跡だけかき消してそれぞれ定められた場所に待ち伏せし、誘引班は足跡を大きく残してひきつづき谷間に抜け出るようにしました。また、孫泰春を責任者とする1個の班は、谷間の手前の高地の北側を占め、敵の退路を遮断させることにしました。誘引班には、谷間の端まで行って、防御隊の任務を遂行させることにしました。

 その日、我々は、紅旗河の谷間で計画どおりの戦闘をおこないました。急に暖かくなったので、日なたの方の雪は解けてしまい、道もぬかるんできました。正午がすぎ、日がだいぶ傾いたころになって紅旗河の谷間に敵があらわれました。望遠鏡で谷間の入口を見下ろすと斥候でした。斥候にしては大人数でした。敵の斥候はいつも1、2名といったところですが、10人ほども先発させているのを見ると、花拉子の谷間の「討伐隊」を全部くり出してきたようでした。斥候の後ろからは尖兵があらわれました。尖兵が最後の高地の前を通過するとき、軍刀をおびた将校が谷間にさしかかりましたが、それが前田であったことはあとで知りました。敵の先頭が待ち伏せ圏内に深く入ってきていました。前田は、足を止め、雪の上の足跡と妙な谷間の地形を注意深く見まわしました。わたしは、彼が谷間の上に斥候を派遣するか、部隊を後に引かせようとしているのではないかと思いました。しかし、10日余り山岳地帯を歩きまわり、無駄足ばかり踏んで疲れきっていた前田は、冷静に思考し判断すべきその運命的なときに気をゆるめてしまったようです。前田が一本の木の下に立ちどまっているのを見て、部下の将校たちがそのまわりに集まってきました。前田は軍刀を前について、彼らに何か指示を与えました。そうしているうちに、敵の基本隊伍は、全部待ち伏せ圏内に入ってきました。わたしはこの絶好の機会を逃すまいと、射撃命令をくだしました。その最初の打撃で、敵は早くも半数以上が倒れました。谷間の左右両側から不意に挟撃された前田は、すぐさま全隊伍をその場に散開させ、主力をもって北側の高地を占めようとしましたが、西側の雑木林に待ち伏せていた革命軍の猛烈な側面射撃にあい、目的を達することができませんでした。戦況が不利になると、前田は最後の決戦を決心したのか、突撃命令をくだしました。そして軍刀を引き抜き、突撃の先頭に立ちました。彼は重傷を負ってもなお、倒れる最期の瞬間まで戦闘を指揮しました。残りの敵も決死の抵抗を試みました。前田の部下は、死体の山を築きながらも銃を手離しませんでした。武器を捨てて投降した30人ほどの敵兵を除いて、前田中隊は全滅しました。死傷者は140人以上にのぼりました。

 革命軍の隊員は、紅旗河戦闘をりっぱに戦いました。六棵松で戦死した呉仲洽に代わって連隊長になった呉白竜もりっぱに戦い、金一も突撃隊長の役割をりっぱに果たしました。戦闘が終わった後、戦場を捜索してみると戦利品はたいへんな量でした。戦利品のなかには無線電信機もあり、また数万発の弾丸もろ獲しました。武器があり余っていたときなので、処置に困りました。そこで、ろ獲した武器のうち、一部は古い武器を持っていた隊員に与え、残りは大事変の時期の備えとして油紙に包んで地中に埋めたり、朽ち木の穴に隠したりしました。

 戦利品の整理を終えたとき、遠くもないところで満州国軍「奉天部隊」が火を焚き、我々を見守っていましたが、怖じ気づいて襲いかかれず、銃を乱射するだけでした。わたしは呉白竜に命じて、ろ接した機関銃の性能検査をかねて猛烈な威嚇射撃を浴びせさせました。

 その夜、呉白竜は「奉天部隊」が忍び寄ってきたことを報告し、彼らを掃討してもよいかと聞きました。わたしは、放っておけ、見物人までたたく必要はない、彼らをたたくよりそのまま帰したほうがよい、そうすれば、我々に代わって彼らが前田部隊全滅のニュースを世間に伝えてくれるではないかと言いました。

 我々は紅旗河で戦闘を終えた後、戦場を捜索しているうちに、戦死した将校の胸の隠しから遺書が出てきたのを見て、前田が部下に遺書を書かせていたことを知りました。絹で包んだ遺書でしたが、その内容はきわめて悲壮なものでした。捕虜の話によると、前田は、出陣の直前に部下を集め、中隊は地区「討伐隊」の一員として金日成部隊と戦わなければならない、彼らに勝つには大和魂を培い、天皇のために死ぬことも覚悟せねばならないと言って遺書まで書かせたとのことです。そして、自分の死後のために白木の箱まで準備しておいたそうです。

 わたしはその話を聞いて、前田は一介の「討伐中隊長」にすぎないが、じつに徹底した国粋主義者であることを知りました。前田を極端な民族排外主義者、反共ヒステリーにつくりあげたのは、日本の軍国主義と国粋主義思想であると思います。日本帝国主義者は、全国民を徹底した国粋主義の信奉者にするため、あらゆる手段と方法をつくしました。国粋主義は、つねに愛国主義の外皮をかぶっています。それゆえ、思想的に目覚めていない人には、国粋主義の毒素が容易に浸透するものです。以前にも話したことがありますが、日本の軍国主義者は、青少年に満州を併呑してこそ日本が豊かになるという侵略思想を執拗に注入しました。人びとが毎日消費するパンや菓子などの食べ物にまで、海外膨張を鼓吹する刺激的な文字を刻みつけているとのことでした。食べ物を食べながらも、他国を併呑することを考えろということです。宣伝もこれほど執拗につづければ、その毒素が人びとの頭に浸透せざるをえません。

 一部の人は、あたかも、ブルジョアジーにはなんの思想もないかのように思っていますが、それは誤った考え方です。共産主義者に共産主義思想があるのと同様に、ブルジョアジーにはブルジョア思想があるのです。彼らは彼らなりに、自分の思想を信奉する忠犬を育てるのです。一時、革命軍内の一部の指揮官は、日本軍内で皇道精神を注入している問題について、その欺瞞性とでたらめさのみを一面的に強調しました。そのため、日本軍兵士を、銃を手にした木石とみなす偏向があらわれました。これは、きわめて危険な傾向でした。

 我々が、わが国の軍隊の政治的・思想的優越性を強調するのは、敵に思想がないことを意味するのではありません。我々の思想のほうが敵のそれよりすぐれているということであって、敵は明確な思想をもっていないから見くびってもよいということではありません。わたしは政治幹部に、敵の思想的脆弱性のみを強調せず、脆弱ではあっても、彼らも思想を注入しており、極悪な反共毒素で兵士を飼いならしていることを無視してはならないと説いています。

 敵は紅旗河戦闘を通じて、したたか苦杯をなめました。それは、いくら朝鮮人民革命軍の後を追いまわしても得られるものは何もなく、かえって「前田討伐隊」の末路のような悲惨な結果しかもたらされないということと、朝鮮人民革命軍を打ち破る力はこの世にないという苦い教訓でした。我々は紅旗河戦闘を通じて、朝鮮人民革命軍は健在で勝利に勝利を重ねており、いかなるきびしい試練が立ちはだかろうと、決して屈することも、滅びることもないことを天下に示したのです。

 紅旗河戦闘は、国内の人民にも好ましい影響を及ぼしました。紅旗河から朝鮮までは指呼の間であったので、前田が革命軍にすっかりやられたといううわさは、すぐに豆満江を渡って祖国に伝わりました。朝鮮人民革命軍の運命がどうなるものかと息をつめて注視していた人民は、そのうわさを聞いて大いに力づけられました。この戦闘があって以来、人びとは革命軍が滅びたという宣伝がいくらなされても、それを信じませんでした。

 紅旗河戦闘を契機に、朝鮮人民革命軍の威力のほどを伝える話は、さらに広範に広がっていきました。人民が、朝鮮人民革命軍を絶対的に信頼し、それに自分の将来をすべて託するようになったのは非常に好ましいことでした。それは祖国解放の大事変を前にして、朝鮮のすべての反日愛国勢力が自信をもって全民抗争を積極的に推進できるようにしました。これは、紅旗河戦闘を通じて我々がおさめたもっとも大きな成果でした。

 それとは反対に、金日成部隊さえ掃滅すれば東北での抗日遊撃戦争はやがて終末を告げると宣伝していた日満軍警にとっては、青天の霹靂といえる不祥事であり、悲惨な敗戦でした。和竜県警察当局は、前田部隊全滅の報に戦々恐々とし、自分らは天運に恵まれなかったというはかないと悲鳴をあげ、朝鮮人民革命軍の巧みな戦法の前にあって前田部隊の敗亡は不可抗力のものであったと告白せざるをえませんでした。「前田討伐隊」の壊滅は、日満軍警の首脳部があれほど大きな力をそそいだ「東南部治安粛正特別工作」の破綻を意味するものでした。


 <前田の直系上官であった和竜県警務課長の宇波は敗戦後日本に帰り、つぎのような一文を残した。
 「間島省の満州国警察にいた私が金日成将軍のひきいる抗日部隊の討伐に参加したのは、1938年から41年にかけてであった。(中略)
 困難な情報収集のなかで、比較的たしかな情報として「金日成将軍は吉林市の学校を卒業した。きわめて優秀で、政治的判断力、組織指導力はずばぬけており、信望があつかった」というのがあった。(中略)
 金日成将軍のずばぬけた指導力は、抗日遊撃闘争のなかでも遺憾なく発揮されたようだ。とくに、たくみな誘導作戦や待伏せによっていためつけられることが多かった。(中略)
 1940年3月11日、紅旗河の渓谷にある大馬鹿溝が金日成部隊に襲撃された。大馬鹿溝は山林警察中隊本部があり、討伐隊の拠点だった。本部がやられ自動車修理所は焼かれ、武器、弾薬、食糧、被服がうばわれた。
 布上地区討伐隊長は、警察討伐大隊に日本軍の大場、赤堀部隊と協同作戦をくみ、金日成部隊を追跡、せん減せよと命令した。
 私は、前田武市中隊にその任務をあたえた。3月25日、前田中隊は大馬鹿溝から少しはなれたところで、金日成部隊と出あい、大激戦となったが、前田中隊長以下全滅という結果に終わった。待伏せ作戦にかかったのだった。この前田中隊の全滅は討伐隊に大きなショックをあたえた。
 金日成部隊は地理に明るく、たくみな戦術を駆使してくるため、密林の討伐作戦はほとんど成功しなかった。(中略)
 当時金日成パルチザン部隊は、『我々は金日成将軍のひきいる朝鮮人民革命軍だ。祖国光復のたたかいに妥協はない』『討伐隊は我々に武器、食糧、衣服を補給してくれるもっとも歓迎すべきお客さんだ』と意気さかんであった。
 いま朝鮮民主主義人民共和国は、金日成首相の指導のもとにすばらしい発展を遂げている。
 すぐれた指導者のもとに前進している朝鮮人民は必ずや祖国の統一を実現するであろうと、私は自分の体験をとおして確信している」
 金日成同志は、その後も紅旗河戦闘について回想しながら、軍国主義の復活に警戒心を高めるよう強調している。その話の一部はつぎのとおりである>


 日本の支配層は第2次世界大戦を経て、世界制覇という愚かな夢想から覚めたと言いますが、それが事実であるなら日本という国のためにも望ましいことであり、隣邦の諸人民のためにも幸いなことです。しかし現在、日本支配層の言動を見ると、いまなお「大東亜共栄圏」や世界制覇を夢見ているのではないかという疑いが晴れません。日本の少なからぬ反動勢力は、いまなお、朝鮮とアジア諸国を侵略し略奪した罪過、数百万人の生命を奪った罪業を認めず、これにたいする補償をしていません。あまつさえ、20余万の女性を性奴隷として駆り出して動物のように扱った野蛮な罪業すらも明白に認めていません。かえって、経済力を頼んで政治大国化、軍事大国化を遂げようと夢見ています。ヨーロッパ諸国で新ファシストがうごめいているのも危惧の念を抱かせることです。軍国主義の復活に警戒心を高めなければなりません。



 


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