金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 数十万の「大討伐軍」と対決して


 <日本帝国主義者は1939年の秋から1941年の春にかけて、東南部3省「治安粛正特別工作」の名目のもとに朝鮮人民革命軍にたいする未曾有の「大討伐」を強行した。金日成同志は、この作戦を指揮した野副とその管下「討伐」隊長の敗北告白文を読み、関係者に「よく大言壮語する日本軍が、こんなに気抜けしたことを言っているのをみると、あのとき彼らも相当泡を食ったようだ。人民革命軍の苦労は言わずもがなである。生死を分ける決戦だった」として、当時の彼我の対決について詳細に回想している>


 我々が武装闘争でいちばん苦労した.のは、1930年代の末から1940年代の初めにかけての時期でした。苦難の行軍のときも苦労しましたが、日本帝国主義者が「治安粛正特別工作」の名目のもとに東南部3省にたいする大々的な「討伐」を強行したときの苦労も並大抵のものではありませんでした。東南部3省というのは吉林省、通化省、間島省をいいます。どの段階の闘争もみな困難かつ複雑でしたが、この時期の苦労は本当に忘れることができません。

 我々は偶然な機会に、敵が1939年の秋から長期的な「大討伐」を開始しようとしていることを知りました。そういう情報を提供してくれたのは、同年6月の烏口江戦闘で革命軍の捕虜になった「奉天部隊」のある中隊長でした。我々は、烏口江戦闘で多数の将校と兵士を生け捕りにしました。彼らは、革命軍が自分たちを一人も殺さず、旅費までくれて帰らせるのを不思議に思いました。我々は、参軍を希望する捕虜のなかからしっかりした者を選抜し、敵軍のなかにあって我々に助力する任務を与えて帰しました。そのとき、我々に教育されて満州国軍にもどった将校のなかに一人の中隊長がいました。我々に情報を提供してくれたのは、その中隊長でした。彼は、「間島地区討伐隊」が新たに編成され、自分の中隊もそれに編入されたこと、「大討伐」は10月初から開始されるが、今回の作戦は前例のない大規模なものであること、革命軍が即刻、対応策を講じなければ甚大な損失をこうむりかねないということを知らせてきました。

 その情報のおかげで、敵が我々にたいする大規模の新たな作戦を準備していることを知り、それに対処する準備を比較的余裕をもって進めることができました。「東南部治安粛正特別工作」の全貌をはぐってみると、その段取りはひととおりのものではありませんでした。まずこの「討伐」作戦は、以前には見られなかった日満軍警一体の「大討伐」として準備が進められていました。この作戦は、関東軍司令官梅津と満州国治安部大臣じきじきの指揮、監督のもとに、20余万の日満軍警と各種の半軍事人員を繰り出す大戦争ともいえるものでした。我々が抗日戦争を宣言して以来、日本帝国主義者は毎年、革命軍にたいする「討伐」作戦を強行してきましたが、その規模は毎年増大する一方でした。1934年以後の攻囲作戦と、1936年秋からの北部東辺道における「討伐」も相当な規模のものでした。しかし、「東南部治安粛正特別工作」の名目のもとに準備された新たな「討伐」作戦は、それが遂行される地域の範囲からしても従来のすべての「討伐」をはるかに上回るものでした。1936年の「北部東辺道治安工作」のとき、佐々木を頭目とする「通化討伐司令部」の作戦地域は一個の省の範囲にとどまるものでしたが、1939年の「野副討伐司令部」の作戦地域は、吉林、通化、間島の3省と牡丹江省の寧安県まで含むもので、これは結局、4省を包括するものでした。


 <「満州国軍」に掲載された一文には、「東南部治安粛正特別工作」の準備過程の一端がつぎのように記されている。
 「関東軍の予定した予算額は300万円で、これ以上は絶対に出ないという。討伐開始の第一日である10月1日、関東軍司令部で、飯村参謀長、満州国総務長官星野直樹、治安部次長薄田美朝、野副少将の代理として北部参謀が会談し、北部参謀は治安粛正計画を説明し、道路の新設補修、通信、集団部落等々について地図を以って説明し、討伐軍が3000万円必要である旨を請求した。星野長官は経費は何とかすると約束し、飯沢主計処長も経費は捻出するから是非3省討伐を成功させるよう要望した。その結果、最后的な徹底した治安工作を推進することができたのである」(『満州国軍』蘭星会 400ページ)
 「野副討伐司令部」の新たな作戦は、前回の「通化討伐司令部」の作戦に比べ、地域は3〜4倍、数量は12.5倍、費用は13倍以上で、この数字によっても日本の軍部がこの「討伐」にいかに大きな期待をかけていたかがうかがえる>


 日満軍警の首脳部は、この「討伐」作戦をたんなる軍事上の「討伐」のみに局限せず、「帰順工作」と「思想工作」「治本工作」などを結合して、その幅と深度、方法と手段の緻密さからして、従前の「討伐」をはるかにしのぐ空前の作戦にしました。また、日本帝国主義者は、「討伐」作戦の開始にあたって、それを「聖戦」または「聖伐」と表現しました。「聖伐」とは聖なる「討伐」という意味ですが、彼らがそういうふうに、その「討伐」を美化したのは笑止千万なことです。日本は海外侵略戦争を何回も起こしましたが、宣戦布告をしたことがほとんどなく、また、最初からそれを戦争とは表現しませんでした。すべての戦争を「事変」とか「事件」と表現し、その戦争行為を合理化し、合法化するのが彼らの常套手段です。それでいながら、彼らが「東南部治安粛正特別工作」という新たな作戦を「聖戦」とか「聖伐」としたのは、じつに意味深長なことでした。これは、日本の軍部が人民革命軍との対決を一方的な「討伐」とか「粛正」とみなしていた従来の観点から脱して、交戦関係、戦争関係とみなしはじめたことを意味します。


 <金日成同志は、日本帝国主義者がこの時期になってものものしい総力戦の体制で作戦を展開しなければならなかった理由と、彼らの作戦目標についても述べている>


 中日戦争とカルキンゴル(ノモンハン)戦闘での連続的な失敗のため、日本の軍部内はかなり騒然としていました。3か月もあれば終結し、長くて半年なら幕をおろせると壮語していた中日戦争は、2年がすぎても勝つ見通しがつきませんでした。日本軍の主力は、戦争の泥沼に深くはまりこんでいきました。日本の軍部のなかには、中国大陸とカルキンゴルでの敗戦の原因を、軍部内における派閥争いや軍事・技術機材の劣悪さに求める人もいましたが、軍部官僚と軍事専門家のなかには、人民革命軍部隊の後方撹乱作戦とそれによる後方の不安定、補給路の遮断、戦意の喪失などに主な原因を求める人が少なくありませんでした。もっとも、人民革命軍部隊の後方撹乱作戦のため、敵が大きな損失をこうむっていたのは事実です。それで日本人は、これではいかんと思ったようです。彼らは、背後の人民革命軍部隊を放置しておいては、中日戦争も対ソ作戦も成功裏に遂行することができないことを悟ったのです。これは、彼らが抗日遊撃隊にたいする観点を変えざるをえなくなったことを意味します。

 このように、日本帝国主義者が「東南部治安粛正特別工作」という新たな作戦を練り、総力戦の体制でそれを実行せざるをえなくなったのは、人民革命軍との交戦過程の総括にもとづく必然的な結果です。敵がこの「粛正工作」で達成しようとした目的は、人民革命軍の各部隊を、最終的に掃滅し、存在そのものをなくしてしまうことでした。野副の訓示内容は、人民革命軍部隊を完全掃滅するという壮語に終始していました。彼はその訓示で、これまで数年間、吉林、間島、通化の3省で「討伐」を繰り返したにもかかわらず、遊撃隊が衰退しないので、今回は自分が重責を担って征馬を白頭山に向け、一撃のもとに倒して匪賊の禍を根絶することにしたと大言壮語し、部下に人民革命軍部隊のメンバーを一人残らず掃滅せよと叱咤していました。征馬を白頭山に向け、一撃のもとに倒すというのは、ほかならぬ我々を念頭においてのことですが、この訓示によって明白に判断できるのは、敵の主要攻撃目標が朝鮮人民革命軍であるということです。

 我々は、総力戦体制下の大規模作戦で敵がどういう戦略戦術を用いるかについても深い関心を向けましたが、日本の軍部が長いあいだ我々の遊撃戦術を研究、総括してうちだした新たな戦術は、遊撃戦を遊撃戦によって制する戦術であることを看破しました。わたしは、敵が遊撃戦を遊撃戦によって制する陰険な企図をもっていることを、「討匪」工作参考資料を入手した後いっそうはっきり確認することができました。そのころ、敵は我々にたいする「討伐」の経験をまとめたこの資料集を各「討伐隊」に配布して十分に研究させていましたが、これは一種の反遊撃戦教範でした。日本の軍部は、反遊撃戦のための特殊部隊に革命軍と同じ服装をさせ、訓練や行動もやはりパルチザン式にさせました。こうした事実は、日本の軍部が朝鮮人民革命軍を掃滅するために、どれほど綿密な調査と新たな戦術を模索してきたかをよく物語っています。

 わたしは、野副との対決がきわめてきびしい戦いになるに違いないということと、この戦いで勝利するためには必ず、従前とはまったく異なる新しい戦術を案出して適用しなければならないと考えました。数十万大軍の攻勢を破綻させ、革命の持続的な高揚を保つためには、いつにもまして緻密かつ積極的な作戦を保障できる妙策を見つけ出さなければなりませんでした。わたしはその妙策として、大部隊旋回作戦を選択しました。大部隊旋回作戦とは一言でいって、大部隊で秘密コースをたどり、広い地域を旋回する長期的な流動作戦です。ただの旋回ではなく、多様な戦法で敵を討ちながら旋回する作戦です。こうした流動作戦をせずには、20万の大軍と戦って勝利するのは不可能でした。

 「野副討伐司令部」が張りめぐらした「地区討伐隊」「小地区討伐隊」の網は、吉林、間島、通化の3省はもとより、北満州にある牡丹江省の寧安、東寧、穆稜などを覆いつくしていました。まかり間違えば、この網にかかって抜け出せなくなるおそれがありました。しかし、この網をよく探ってみると、密なところもあれば疎らなところもありました。網をすでに張りめぐらしたところもあり、張りめぐらす過程にあるところもありました。網の目の大きさもまちまちでした。我々の主な活動区域である間島省には、すべての県に「討伐隊」が配備されていました。

 わたしは、最初の旋回地域を敦化と額穆の西方に定めました。この両地方には、我々がつくりあげた多くの地下組織があり、大衆も革命化されていたので、足場にするのに好都合でした。我々が大部隊でそれらの地方を攻めるなら、敵の注意がそこに向けられるはずです。そうすれば、つぎの進出地域を、濛江、撫松、長白方面に定め、そこへ急旋回して再び銃声をあげるのです。敵が、我々の跡を追って濛江と撫松、長白方面に出てくるとき、我々は再び間島省の南端を経てもとの場所にもどるというのが、わたしの構想でした。わたしは、こうした旋回期間をおよそ1年と見積もりました。旋回作戦は大部隊で断行すべきだというのが、わたしの主張でした。敵を避けるのではなく、我々に有利な諸所の地点で敵を掃討するのが、この大部隊旋回作戦の目的でした。敵を攻めるときには、再起不能にまで追い込むせん滅戦を展開すべきですが、そのためには必ず、大部隊による旋回作戦を展開しなければなりませんでした。

 大部隊旋回作戦の遂行にあたって、わたしがとくに重視したのは旋回コースの秘密を守ることでした。コースの秘密がもれた日には、敵の「ダニ戦術」にかかるか、包囲に陥ってたいへんな困難に際会するおそれがありました。それに、この作戦は一つの難問をかかえていました。何かというと、食糧の補給がむずかしいという点でした。遊撃隊が固定した地域で活動する場合は、事前に食糧を確保して密営に蓄えておけばよいのです。しかし、ひと冬中、大部隊で流動しながら活動する場合は事情が違います。食糧問題のめどをつけなければ、大部隊旋回作戦は成立しません。わたしがこの作戦案を構想してから、直ちにそれを公開できず、しばらく留保したのはそのためでした。

 わたしは、すでに部隊の移動コースを定めた状況のもとで、第7連隊と第8連隊、警護中隊を動員し、我々が通過する重要地点ごとに前もって食糧を貯蔵させる措置をとりました。まず、安図県の北部と樺甸県、敦化県一帯に食糧を貯蔵しておくことにしました。そのころはまだ取り入れの前だったので、食糧を手に入れるのは容易なことではありません。取り入れと脱穀がすまなければ食糧を買えないわけですが、それがすんでいないので方法がありませんでした。だからといって、都会の穀物商を訪ねて買うわけにもいきません。わたしは食糧工作に出かける指揮官に、穀物を畑にあるままで先買いしてみるようにと言いました。このような方法で食糧を確保するとすれば、買い取ったあとで、自分の手で畑の穀物を刈り入れ脱穀しなければなりません。全部隊が総がかりになっても手が足りないほど手間のかかる仕事でしたが、この方法をとるしかありませんでした。食糧問題が基本的に解決されたその年の10月初、わたしは安図県両江口で軍事・政治幹部会議を開き、白頭山東北部の広い地域で大部隊旋回作戦を展開することを正式に発表しました。

 両江口とその付近で活動していたときのことでいま一つ忘れられないのは、ある農民が我々を訪ねてきて、14、5歳しかならない息子を革命軍に入隊させてほしいと懇願したことです。大部隊旋回作戦のような大きな試練を前にして、少年を入隊させるというのは実際上、熟考を要する問題でした。わたしはその少年に、我々は昼も夜も行軍しなければならない軍隊だ、1日に10里行軍するときもあり、20里行軍するときもある、それでもついてこられるかと聞きました。少年は、李五松を指して、あの兵隊の兄さんが歩くなら自分もついていけると答えるのでした。わたしは農民に、息子を遊撃隊に預けて心配のたねになるのではないかと尋ねました。すると彼は、それくらいの覚悟もなしに息子をどうして革命軍に預けられるというのか、麻に連るるヨモギという言葉もあるのだから、将軍に預ければ安心できると言うのでした。少年もしっかりしており、父親もりっぱでした。わたしは、その少年を入隊させることにしました。一部の人はわたしに、苦労を買うようなものだと言いましたが、大部分の指揮官と兵士は、司令官があんな少年を入隊させるのを見ると、今度の作戦の成功は疑いないと喜びました。もし、今度の作戦が勝ち目のないものであるなら、司令官が進んであんな荷を背負うはずはないというのが彼らの判断でした。

 わたしは、その少年を伝令の列に加えていつも連れて歩きましたが、のみ込みが早く行動が敏捷で、目に見えて成長しました。その後、わたしは会議のため両江口へ行くときにも、その少年を連れていきました。会議を終えてすぐ帰路についたのですが、それは平坦なものではありませんでした。野副の第1期「討伐」が開始されたときだったので、厳重な警戒を要する状況でした。それで、前方に斥候を立てて隠密に行動しました。ところが、鶏冠拉子付近で敵の奇襲にあいました。鶏冠拉子というのは、峰がニワトリのとさかに似ているところからつけられた名です。その峰が我々の前方の左側にそびえていました。その付近の地形は、待ち伏せする敵側にはとても有利で、行軍中の我々にとっては奇襲を防ぐのにとても不利な地形でした。もし、「討伐隊」がこの一帯に来ているなら、こうした地形を見逃すはずはないと思いました。敵は遊撃戦の方式で抗日遊撃隊を掃討する構えだったので、待ち伏せの陣をはって待機するのも考えられることでした。だからといって、行軍コースを変えて骨のおれる迂回路を選ぶわけにもいきませんでした。わたしは、隊伍の前に機関銃をつけさせ、早足で危険区域を通過せよと命令しました。我々が鶏冠拉子の崖の下まで来たとき、突然、峰の方からけたたましい銃声がひびいてきました。敵は、一本道に沿って進む我々の隊伍に集中射撃を浴びせてきました。敵の奇襲で「チョコメンイ(ちび公)」というあだなの古参の隊員と金正徳が重傷を負いました。そのとき、わたしは両江口で入隊した少年が心配になって彼の名を呼びました。ところが、なんとその少年が高地の敵に向けて発砲しているではありませんか。あの危急な瞬間に、どこからそんな勇気がわいたのか、まったく驚くばかりでした。少年隊員は「司令官同志、動いてはいけません」と叫んで、わたしをかばおうとまでしました。わたしは彼に「いや、動くんだ。位置を変えながら撃て!」と言いました。そして、近くにある塚のくぼみに彼を引き込みました。そうしているあいだにも、敵弾はひっきりなしに飛んできました。じつに進退きわまった状態でした。わたしは、野原の100メートルほど向こうにくぼみがあるのを発見し、あとにつづけと号令をかけながらそこに向けて走りました。隊員も負傷兵を支えてわたしのあとにつづきました。しかし、そこも安全地帯とはいえませんでした。我々は、川岸におりてしばらく走り、敵が占めている崖に向かって進みました。隊員たちに、そっちへ進まなければならない理由を説明するゆとりはありません。ただ、先頭に立ち、敵陣に向かって走りつづけました。そのとき、隊員はおそらくおかしく思ったはずです。10人そこそこの少人数で敵の大部隊めがけて突撃するはずはないのにどうする気なのかというふうにです。しかし、隊員はためらうことなく、わたしのあとにつづきました。わたしに隊員への厚い信頼感があったように、隊員もまた、わたしへの絶対的な信頼感をもっていたのです。我々が崖に接近したときから、弾幕は頭上をかすめていくだけでした。隊員たちがわたしの戦術的意図を読み取ったのはそのときだったと思います。敵は我々が野原の方へ抜けたものと思い、そっちに向けてめくら射ちをしました。そうして、高地からおりてきては、喊声をあげながら野原を包囲しはじめました。そのあいだに我々は側面の高地に登りました。野原を3面から包囲した敵は、しばらくのあいだ猛烈な同士討ちを演じていました。

 鶏冠拉子での戦闘は、「野副討伐隊」との初の遭遇戦であったといえます。わたしはこの戦闘によって、敵が新たな作戦をひかえて我々の遊撃戦術をかなり研究したことをいっそうはっきり知り、大部隊旋回作戦案が戦術的に正しい選択であることを確信しました。鶏冠拉子戦闘は、その年の冬、我々が遭遇した軍事的状況の縮図であったといえます。

 わたしが両江口での会議を終えて帰ってくるあいだに、部隊ではすでに進めていた食糧工作を全部終えていました。裁縫隊員も命令どおり軍服の縫製作業をほとんど終えていました。

 我々は、大部隊旋回作戦の第1段階を敦化遠征とも称していました。この段階のコースは、花拉子から敦化に抜け、つぎに濛江、撫松方面へ向かうものと理解してもよいでしょう。花拉子を発って白頭山方面に行く途中、北方に方向を変えて敦化の奥地を流動しながら大戦闘を何回か展開し、深江県東牌子か撫松県白石灘の大森林に入って行軍の疲れをいやし、軍事・政治学習もしながら、小寒、大寒の期間を密営ですごすという計画でした。

 わたしは第1段階の作戦の準備にあたって、林水山に警護中隊の1個小隊と独立大隊をつけて東牌子へ送り、小部隊を白石灘に送って、密営の設営と大部隊の食糧と被服の準備を担当させました。こうした準備を終えたのち、敦化遠征の途につきました。敦化遠征については、六棵松戦闘と@信子戦闘を想起すれば容易に理解できるはずです。この2つの戦闘は、敦化遠征期間におこなわれたのです。

 我々は大部隊の移動コースを擬装するため、最初、三長方面に行くかのように二道江上流の方へ進出しました。花拉子から2、3里ほど行くと、夜が明けはじめました。川から離れ、足跡を消して近くの森に入り、疲れをいやしました。朝食をとって元気を取りもどしてから、独歩行軍法で白頭山の方へ行軍しました。そうして、内島山付近に着いてからは、行軍方向を180度転換し、三道白河の氷をつたって北へ向かいました。敵を再び混乱させるためでした。行軍方向をそのように逆転させると、数回の戦闘に匹敵する効力があらわれます。敵は、混乱状態に陥り、あちこちをさまよい、白色地帯に入って凍え死にするか、気力がつきて戦闘力を失うようになります。我々がこういうふうにデマ情報を流して行軍路を明かしたのは、できるだけ敵をあちこち引きまわして最大限に気力を衰えさせ、寒さと疲労のため身動きができないようにするためでした。牡丹嶺を越えるとき、雪のためにたいへん苦労しました。ぼたん雪が降り積もって嶺の岩肌を氷板にしてしまったので、足が滑って往生しました。そのため、行軍速度がにぶらざるをえませんでした。主力部隊は、牡丹嶺を無事に越えて敦化の森に姿をくらましました。

 このように、大部隊旋回作戦は、最初から艱難辛苦をきわめました。それにしても、壮快なスタートでした。我々は、敦化遠征の出だしから、敵を猛烈にたたきはしませんでした。ただ、秘密コースの維持に必要な程度にたたきました。にもかかわらず、敵側は多くの死傷者を出したのです。


 <金日成同志は、敦化遠征の過程を回想するたびに、行軍途上での反日青年同盟の会報についてもしばしば言及した>


 わたしは、敦化遠征の過程で反日青年同盟の会議を招集しました。反日青年同盟は、南湖頭会議の決定に従い、共青を発展的に解散して改編した青年組織です。わたしが反日青年同盟の会議を招集したのは、それなりの理由があってのことでした。敦化に行くと、四道荒溝というところがあります。四道荒溝は、わたしが吉林監獄から出獄した後、しばらくのあいだ破壊された地下組織を立て直しながら静養したところです。我々が牡丹嶺を越えて最初に着いたのが、この四道荒溝付近でした。ところが、実情を調べに住民村落に行った隊員が、朴得範事件にかんする当地の地下組織の反響を聞き取ってきました。

 朴得範事件とは一言でいって、人民革命軍の指揮官の一人であった朴得範が革命軍の名誉と引き換えに給養物資を手に入れた事件です。彼らは一時、食糧と被服が欠乏してひどく困っていたそうです。給養物資が切れれば、敵を討つか、革命組織に働きかけて補給するのが人民革命軍固有の方法です。しかし、朴得範は、戦おうともせず、地下組織に働きかけようともしませんでした。彼は、戦闘を恐れる指揮官でした。ですから、卑劣きわまりない方法で食糧と被服の欠乏を打開しようとしたのです。彼の適用した方法は、人前で話すのもはばかられることです。

 朴得範は敵の密偵に、1個師団を引き連れてそちらに投降するつもりだが、被服や食糧を切らして困っている、これこれの食糧と布地を提供し、それを指定する場所に運んでくれ、そうすれば服を着替え隊員の元気も回復させてから下山する、しかし、密偵である君の保障だけでは信用できないから、食糧と布地を運んでくるとき、我々の生命の安全を保障できる代表を送ってほしいと言いました。密偵は、それに同意し、直ちに所属の特別工作班に報告しました。敵は、このかけひきに大いに乗り気になりました。吉林省と敦化県の頭目は、通報を受けるが早く寄り集まって対策を練り、接触地点にそれらしき代表を送りました。朴得範は、彼らを迎えて談判しました。談判の最中に配下の指揮官が来て約束の物資が全部到着したことを告げると、彼は、敵側の代表を即座に皆殺しにしてしまったのです。

 その後、朴得範はこっぴどく批判され、警護旅団に左遷されましたが、組織の信任に背いて1940年、敵に逮捕されると帰順してしまいました。見せかけの帰順が本当の帰順になったわけです。彼は、敵側に寝返ったあと「朴特設隊」なるものを組織し、かつての戦友たちを帰順させようと走りまわりました。

 朴得範事件は、非常に深刻な教訓を残しました。わたしは朴得範が帰順したことを知り、彼が見せかけの帰順を演出したのは、偶然なことではないと思いました。見せかけの帰順なるものは、本当の帰順をする要素のある人でなくては考えだせないことです。朴得範の転向は、見せかけの帰順を考えだす人は、いつかは本当の帰順をしかねないということを示しています。

 ところで、わたしが重大視したのは、少なからぬ人が卑劣な方法で給養物資を調達した朴得範の行為を何か壮挙でもあるかのように評価していることでした。はなはだしくは、四道荒溝へ偵察をしに行ってきた隊員は、朴得範がすばらしいことをしたのに相応の評価も受けられず、過度の制裁を受けたかのように思っていました。彼は、わたしに住民の動向を報告しながらも、朴得範を遊撃隊の名誉を失墜させた指揮官だと言っている四道荒溝の住民を快く思っていない様子でした。彼は、反日青年同盟員でした。反日青年同盟員が朴得範の行為か肯定的なものと見るなら、それは危険きわまりないことです。青年活動を担当している指揮官と話し合ってみると、方面軍のなかには偵察班のメンバーのように、朴得範事件を評価する同盟員が少なくないとのことでした。わたしは、反日青年同盟員の精神状態に問題があると思いました。同盟員の会合を持とうと指揮官に言うと、彼らは宿営地に着くやいなや全員眠り込んでしまったというのです。それまで、我々の部隊には、そんなことがありませんでした。宿営地に到着すると全隊員が、武器の掃除や軍服の繕い、ひげ剃り、薪拾いをするなど、引き締まった節度のある生活をしてきました。ところが、その夜は全然様子が違っていました。遠征の過程でひどく疲れていたのは言うまでもありません。だからといって、宿営の準備もせずに全員眠り込んでしまってはたいへんではありませんか。こんな精神状態では、流動作戦を最後までねばり強く進めることができません。

 その夜、呉仲洽連隊長に1個中隊のテントを空けさせ、そこで反日青年同盟の会議を開きました。会議には、わたしも参加しました。会議では、反日青年同盟員のあいだにあらわれている不健全な思想的傾向が批判され、青年のあいだで困難克服の精神に欠けた傾向、衛生美化に無関心な傾向、文化娯楽活動によく参加しない傾向などが批判され、それを是正する対策が論議されました。わたしはこの会議で、朴得範事件の重大さを改めて想起させ、個々の隊員が人民革命軍の権威と名誉を損なう行為にたいし、つねに警戒心を高め、そういう行為とは原則的立場に立ってたたかうことと、人民との関係を正しく保つことについてとくに強調しました。

 この会議を通じて指揮官の自覚も高まりました。少なからぬ指揮官は、宿営の準備もせずに眠り込む隊員を見ても目をつぶり、むしろ同情までして是正対策を立てませんでしたが、この会議を契機に気を引き締めるようになりました。反日青年同盟の会議は、六棵松戦闘と@信子戦闘のための思想動員活動であったともいえます。そのときの思想動員が大きな効力を発揮しました。会議のあと、六棵松を襲撃したのですが、隊員の誰もがりっぱに戦いました。@信子戦闘もものの見事に成功しました。この2回にわたる戦闘のあと、隊員たちは、司令官が急に反日青年同盟の会議を招集した理由を知ったのです。

 思想活動は、仕事がむずかしく情勢がきびしいときであるほど、いっそう積極的におこなわなければなりません。わたしは、思想論を主張します。わたしは、思想至上主義者であり、思想をいかなる財宝よりも大切にする人間です。20余万の大敵との決戦にのぞむとき、何を頼んで大部隊旋回作戦という過大な作戦を立て、それを最後まで強行することができたでしょうか。全軍の一致団結と強靱な革命思想を頼んだからです。我々に飛行機があったでしょうか、戦車があったでしょうか。人民と隊員と軽火器のほかには何もなかったではありませんか。それで、思想動員をしてから連続戦闘にのぞんだのですが、それが効を奏したというわけです。


 <金日成同志は遠征の過程で、林水山の怠慢のため最初に計画した作戦を変更せざるをえなくなったことについても回想している>


 反日青年同盟の会議に先立ち、金正淑と李斗益が司令部を訪ねてきて東牌子密営の実態を報告しました。最初わたしは、敦化遠征に発つとき、束牌子へ行って1、2か月、いちばん寒い時期をすごしてから撫松県と長白県を迂回し、国内を経て和竜に立ち寄り、出発地点である安図にもどるつもりでした。ところが、東牌子に派遣された林水山は、大部隊を迎え入れるなんの準備もしていませんでした。彼は情勢の緊張を口実に、わたしから与えられた任務を遂行しようと懸命に努力しませんでした。それを見かねた金正淑と李斗益が林水山に代わってその任務を遂行しょうと努力しましたが、東牌子に行っているメンバーの越冬用程度の食糧しか確保できませんでした。

 こうした状況のもとで、わたしは最初に計画した基本コースを利用できなくなったという結論をくだしました。食糧もない密営に行って大部隊が居候をするわけにはいきません。事実、そのとき林水山は、もうすっかり変質していたのです。その後、結局は敵の懐にころげこんでしまいましたが、裏切り行為というものは一日や二日でできるものではありません。背信も準備がなければならず、思想的腐食の過程がなければなりません。思想の腐敗、変質は一定の過程を経るものです。林水山は二言目には革命を叫びましたが、すでに「恵山事件」以来、思想的に変質していたのです。我々が彼を信任したあまり、適時に発見できなかっただけのことです。

 予備コースとしていた撫松県白石灘は地勢としてはよかったのですが、住民村落から遠く離れていました。密営から12キロほどのところにいくつかの村落が点在していましたが、そこには我々のつくった地下組織があまりありませんでした。食糧も問題でした。前に派遣した小部隊と呉白竜が松花江の水路を利用して貯蔵しておいた食糧がいくらかありましたが、それは貯蔵場所も遠く、また、あとで消費することにしていたものでした。白石灘一帯に先発隊を派遣しましたが、そのほとんどは女性でなければ虚弱者でした。こうした状況のもとで、大部隊が予備コースである白石灘に直行するというのは及びもつかないことです。我々は、抜け出しようのない迷路に入り込んだ状態になりました。寒さは、ますますきびしくなるのに、設定ずみのコースは準備不足であり、新しいコースを開くには時間的な余裕がなく、敵が我々のあとにぴたりとついてくるので、牡丹嶺のふもとに長居することもできず、まったく困り果ててしまいました。食糧さえあれば、他の困難はなんでも耐えられました。そういうときにまたも、義人があらわれて我々を助けてくれました。地元の人が取り入れせずにいた大豆畑を斡旋してくれたので、急場をしのぐことができたのです。こうして、我々は六棵松と@信子の木材所を強襲し、食糧をはじめ各種の物資をろ獲した後、直ちに急旋回して南側にコースをとり、白石灘密営に行き着きました。ここまでが、大部隊旋回作戦の第1段階であったといえるでしょう。

 六棵松と@信子での戦闘は、大部隊旋回作戦の第1段階をりっぱに飾った戦闘でした。山といい谷といい「討伐隊」のすきのない網で覆われた和竜──安図地帯を抜け出しただけでも驚くべきことなのに、電撃的に敦化の敵の主要駐屯地を連続襲撃した我々の絶妙を作戦は、敵を唖然とさせました。敵は六棵松と@信子が襲撃され、部隊が撃破されたという急報を受けて、急速敦化方面へ兵力を集中しはじめましたが、そのときはすでに、我々がひそかに南の方に抜けて松花江流域にたどり着いたあとでした。

 わたしが第1段階の作戦でもっとも大きな成果と見たのは、六棵松と@信子の木材所労働者のなかから入隊した200余名の新入隊員で武装隊伍を拡大したことです。戦闘後、松花江畔の森の中で演芸公演をしたのですが、それが終わってから、荷物の運搬を手伝ってついてきた労働者のなかから、数多くの青年が入隊を志願しました。労働者階級出身の青年のなかからこんなに多くの人を入隊させたのは、抗日遊撃隊の建軍史上はじめての慶事です。入隊したばかりの隊員にすぐには武器や軍服を供給しきれなかったので、彼らを入隊させ次第、赤い星のついた腕章をつけさせました。女子隊員がその腕章を徹夜してつくっていたことが、いまも思い出されます。

 白石灘密営での軍事・政治学習は、大部隊旋回作戦の第2段階に属すると同時に、第1段階の総括でもありました。我々は白石灘で十分な準備をととのえたのち、第2段階の作戦に移行しました。作戦第2段階の活動コースは、白石灘から白頭山東北部の無人地帯である二道白河、三道白河、四道白河地帯を経て国内に進出し、和竜県を経て安図県に再びもどることでした。

 白石灘で軍事・政治学習をしている最中に、密営が敵に発見されました。食糧工作隊が麻袋に入れてきた大豆が事を引き起こすもとになったのですが、それは、まったく思いがけない不注意からでした。食糧工作隊は、麻袋に穴があいたのをいち早く発見できませんでしたが、その穴から1粒2粒と落ちた大豆が密偵の目にとまったのです。

 密営を発見した敵が、我々の部隊にたいする全面的な攻囲作戦を準備しているという情報を受けたわたしは、それに対処する作戦を練りました。まず、ある指揮官に1個中隊を率いて敵地に進出し、両江口を襲撃して下崴子の方へ抜けるように命じました。そして、警護中隊の1個小隊には、白石灘の後ろの高地にある各哨所で攻め寄る敵を痛撃して露水河方面へ撤収するよう命令しました。わたしは、主力を率いて敵の攻撃開始30分前に密営を発って露水河方面へ移動しました。敵を落とし穴に引き入れるためには、我々が密営にいるかのように見せかける必要があったのです。

 敵は、我々が撤収するやいなや、密営に襲いかかりました。なんの抵抗もない静かな密営を見た敵は、してやったりとほくそえみ、いっせいに突撃しました。それでも警護中隊の名射手たちは射撃せず、敵のなすさまを見ていました。夜が明けると、敵の飛行隊が密営の上空に飛来し、地上で手を振る味方にめくら滅法に爆弾を投下しました。爆弾の炸裂音を聞いて、兵舎に入っていた敵が外に飛び出してきました。それを機に革命軍の機関銃が火を噴きました。敵が企んだ陸空挟撃は、結局、人民革命軍と日本軍飛行隊が協同して日満軍の歩兵を掃討したことになります。

 敵が白石灘でひと騒動起こしているあいだに、我々は悠々と白頭山の方へ南下しながら、追撃してくる敵を露水河で討ち、二道白河を渡って内島山東方の森林に姿をくらましました。その後、花拉子付近の木材所を襲撃し、両江口へ行った中隊と白石灘に残留していた警護中隊のメンバーを集結させました。わたしが茂山の三水坪へ偵察を派遣したのは、そのときだったと思います。

 偵察班は、国境警備があまりにもきびしかったため、豆満江を渡るやいなや、偵察も思うようにできず追撃されつづけ、九死に一生を得て帰隊しました。こうした状況のもとで、大部隊による国内進攻は冒険でした。わたしは、当分のあいだ国内進攻を見合わせることにし、食糧の解決をはかると同時に国内の敵の反応を見るつもりで、大きな木材所を一つ襲撃することにしました。そういう目的で豆満江近くにある大馬鹿溝木材所を襲撃したところ、国内では非常に鋭敏な反応を示しました。わたしは、敵が国境警備を鉄桶のようにかためているという報告を受け、追撃してくる敵と数日間交戦しながら、花拉子南方の森林に入りました。その後、紅旗河で前田部隊と一戦を交え、大部隊旋回作戦に一段落をつけたのです。

 「野副討伐隊」との対決を、ある地域の軍司令官との対決と見てはなりません。「野副討伐隊」との対決は、すなわち日本の軍部との対決であり、「大日本帝国」との対決でした。敵はいわゆる「粛正大綱」であれほど喧伝した治表、思想、治本の3大工作のうち、どれ一つとして成功させられず、無駄骨をおっただけでした。結局、この対決では我々が勝利したのです。


 <敗戦後、退役して九州の農村で余生を送っていた野副は、当時のことを回想してつぎのような一文を残した。
 「金日成部隊は、数個の分隊に分かれて行動しつつ、各々、金日成部隊と称し、こっちにもあっちにも金日成部隊がいるかの如き擬装戦術を用いた。また金日成なる人本人は一人であろうが、金日成なる名を用いる者は更に幾名かいたため、本物の金日成が如何なる人物であるかをつかむことがむずかしかった」
 間島暴動を弾圧し上司の信任を得、「野副討伐隊」で特殊工作任務を遂行していた長島の述懐によれば、彼も朝鮮人民革命軍の神出鬼没の戦術によって苦杯をなめさせられたことがうかがえる。
 「私が野副部隊で特殊工作を受け持ったとき、金日成部隊なるものがあるというので確かめてみたところ、この部隊の作戦は絶妙だった。金日成部隊がここに現われたというのでそこへ駆けつけると、今度はまたあっちに現われたという。あたかも金日成部隊が神出鬼没であるかのようであったが、実は一部隊がそれほど速い時間にあちこちに現われたのではなく、部隊をいくつかに分けてあちこちに現われるようにしながら、それらの小部隊にいずれも金日成部隊と名乗らせたのである」
 長島はつづけて、朝鮮人民革命軍との苦戦を回想しながら「抗日連軍の高位幹部はみな射殺されるか逮捕または投降したが、金日成だけはよくも…生き残って終戦後北朝鮮に帰り首相まで務め」ていると述べている>


 <参考>当時、独立守備隊司令官の一人に、「野副昌徳少将」の名前がある。
  (注)「@信子」の「@」は、外字作成文字です。侠から人ヘンをとった字です。



 


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