金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 中国人地主 劉通事


 <解放後、金日成同志は彭真と会見したとき、朝中両国の人民と共産主義者が抗日のスローガンを高くかかげて武装闘争を展開した時期を感慨深く回顧した。彭真は、民族解放をめざす共同闘争で朝鮮人民と朝鮮の共産主義者の発揮した気高い階級的友誼とプロレタリア国際主義精神を高く評価し、余談として東北解放作戦当時、多くの中国人地主が朝鮮人民革命軍司令官金日成という署名捺印入りの確認書を差し出し、かつて自分たちが抗日連軍を援助したことを力説したと語った。東北解放作戦当時、彭真の職責は東北民主連軍政治委員であった。その後、金日成同志は、抗日革命闘争史の研究者がその確認書にかんして提起した質問に答えて、つぎのように回想している>


 確認書の話が出たので、劉通事のことが思い出されます。劉通事についての話を聞けば、援軍確認書がどんなものであったかがよくわかるでしょう。

 劉通事は、我々が白頭山の東北部へ活動舞台を移した後、和竜県で会った有名な中国人の富豪です。長白県で会った朝鮮人の愛国地主金鼎富に劣らず、我々と深いかかわり合いをもった人です。彼の本名は劉依賢です。朝鮮語が母国語のように流暢に話せるので、中国人と朝鮮人との意思の疎通が必要なときは、みずから通訳を買って出たりしました。それで、人びとは彼を劉通事と呼んだのです。通事とは、現代語でいえば通訳という意味です。

 我々は、白頭山東北部へ移動して烏口江戦闘を終えた後、和竜と国内の三長地区、安図一帯をひと巡りし、烏口江密営にとどまって政治・軍事活動を猛烈に展開しました。その当時、基本部隊はよそへ行き、司令部にいたのは機関銃小隊と警護中隊だけでしたが、食糧不足で困難に直面していました。密営付近に住んでいた朝鮮人は、みな貧しい農民で、我々を助けようにも助ける力がありませんでした。工作員の話によれば、我々の部隊が敵の管轄区域である和竜県にあらわれるや、彼らは「革命軍が米を奪っていく」と宣伝し、数か所に食糧を集めては1日1人当たりの食糧消費量を定め、村から荷車を引いてくる代表に2日分ずつ支給しているとのことでした。はては、県内の住民に石油を2瓶ずつ準備させ、革命軍が来て食糧を求めたら、そこにふりかけるよう強要しているというのです。

 わたしは食糧問題の解決策を求めて苦心している最中、ある村に出向いて住民と話を交わしているうちに、以前、小汪清遊撃区に住み、遊撃区が解散したとき和竜県に来たという人に会いました。その人と話し合う過程で、中国人富豪の劉通事について詳しく知るようになりました。劉通事さえ獲得すれば、反日愛国勢力を掌握するのにも有利であり、給養物資も解決できそうでした。ところが、朱在日や姜渭竜のように入隊前に和竜に住んでいた人は、彼に期待をかけてはならないと言うのでした。そして、劉通事は一時、自衛団長まで務めた悪質な反共分子だから、懲罰しようという意見まで出しました。朱在日と姜渭竜は、劉通事の内情を比較的詳しく知っていました。

 彼らの話によると、劉通事の一家は、和竜県都から約12キロ離れた牛心山のふもとに住んでいるとのことでした。その村の名を竜澤村といったようです。劉通事の家は、四隅に砲台を築き長い土城をめぐらしたものものしい邸宅でした。当時、劉通事の兄はすでに70を越した老人で、家門の長老として大切にされており、次男の劉通事自身は一家の柱として官庁などに出入りし、主に外の仕事を受け持っていました。そして、三男の劉依清は、執事をおいて財産の管理にあたっていました。


 <抗日革命闘士の李鳳緑や朴正淑の話によると、劉通事の一家は、土地だけでも百垧(垧は中国の土地面積の単位)も所有していたそうである。1垧が3000坪であるから百垧なら30万坪、すなわち100ヘクタールに及ぶ広大な土地である。そのうえ、大豆油工場、唐麺工場、醸造場などを経営し、いくつもの商店を持っていた。和竜市内には、百貨店、飲食店、塩専売店などを構え、代理人に運営させていたという抗日革命闘士たちの回想談もある>


 劉通事一家は、財産家としても知られていましたが、反共をモットーとしていることでも有名でした。和竜出身の遊撃隊員たちは、この一家の人を指して「悪質のなかでもまたとない悪質」だと言いました。劉通事の息子が和竜市内で満州国の警察官を務めていることだけ見ても、この家がどんな家かわかるではないかと言うのでした。劉通事の息子は、警察官の権勢をもって人夫や小作人たちを銃剣で押えつけ、また、その父親の劉通事は、共産党と関係があると思われる者を息子の勤める警察署に知らせて尋問させたり、小作権を剥奪するといった方法で生きる道を断ってしまうというのです。

 しかしわたしは、劉通事一家をただちに懲罰し、その家産を強制収奪しようという一部の人の意見に同意しませんでした。それは、金鼎富との関係で得た教訓もあったうえに、劉通事にたいする評価を異にする人もいたからです。それで、劉通事について深く把握もせず、下手に処理することはできませんでした。

 わたしが劉通事について違った視点で見る余地があると感じたのは、彼が朝鮮語に通じているということと、民衆とわだかまりなく交わるという点でした。また、ある人の話では、官庁で朝鮮の小作人のことで問題が起こると、みずから通訳を買って出ては、小作人の味方になってくれることもあったということで、これもよいことであって悪いことではありませんでした。なかには、彼が国を失い異国の地で苦しい暮らしをしている朝鮮の小作人を哀れに思い、特別に面倒をみてくれていると言う人もいました。牛腹洞に住む劉通事の妾が朝鮮の女性だという話もあり、それも興味をひく話でした。

 異郷に住む朝鮮の農民を同情し、朝鮮の女性を妾宅にかこっておき、朝鮮語と朝鮮の風俗まで好む人がなぜ、ある人たちからはまたとない悪質地主と評されているのか。同情深い劉通事がなぜ、朱在日や姜渭竜のような家庭には、警察署通いをさせ、つらくあたったのか。わたしは、この謎を解くために隊員たちを竜澤村へ派遣しました。彼らは、竜澤村に行って劉通事について多くのことを調べてきました。その結果、劉通事が共産主義運動をする人と反目するようになったのは、ほかならぬ5.30暴動のためであったことがはじめて明らかになりました。

 周知のように、5.30暴動のときの極左冒険主義者の乱行は目に余るものがありました。土地を少しでも持っている人にたいしては、親日であれ反日であれ一律に攻撃の対象としたではありませんか。彼らに扇動された暴動参加者は、地主の家の門をたたきこわし、穀物倉庫に火を放つなど、さまざまを妄動をあえてしました。そうした極左的な妄動は、共産党のイメージをすっかりそこなってしまいました。それ以来、劉通事は、共産党を不倶戴天の敵とみなし、共産主義運動家がいそうな家にたいしては情け容赦なく迫害を加える一方、地主を保護してくれる軍閥とはいっそう親しくするようになったのです。9.18事変後、間島地方に遊撃根拠地がつくられ、共産党が赤色区域と白色区域を区分して白色区域の住民を敵視しているという話を耳にした劉通事は、ますます反共へと突っ走りました。彼は、満州で主人顔をする日本人も憎み、共産主義者も憎みました。そして「共産党はわたしの宿敵だ」と口ぐせのように言っていたといいます。

 わたしは、彼が一時的な誤解から反共に走ってはいるが、よい影響を与えさえすれば反共から容共、愛国の道に立ち直らせることができると考えました。劉通事は、日本帝国主義が満州を占領した後、自分の家の私兵を解散させ、武器を回収していったことに不満を抱いていました。わたしは、彼のこの反日感情にとくに留意しました。

 わたしは懲罰や財産の没収ではなく、劉通事の反共意識を正し、反日愛国精神をいっそう助長し、朝鮮革命の支持者、後援者に教育、改造しようと決心しました。それで、彼のところへ第7連隊の呉日男を責任者とする工作グループを派遣しました。呉日男は劉通事に会うと、金日成将軍が通事との面談のために自分を派適したのだが、この要望に応じる意向はないかと問いました。すると劉通事は、苦笑いしながら流暢な朝鮮語で、「捕らえていくなら黙って捕らえていけばいいものを、なぜ面談というベールをかぶせるのだ。共産軍の隊長が地主との面談を要望するのは、捕らえていくとは言えないからだろうが、あんたらが和竜県内に出没しているといううわさが立ったときから、この劉依賢はもう、まな板の上の魚も同然だと覚悟していた。わしはすでに死を覚悟しているのだから、相談だのなんだのと回りくどいことを言わず、殺すなり引っ張っていくなり、財産を奪うなり、勝手に処理しろ」と言ったそうです。彼は多分、呉日男の工作グループが自分を拉致しに来たものと思って毒づいたのでしょう。じいさんの傲然たる構えは、ひととおりのものではなかったそうです。

 劉通事のあまりもの態度に、呉日男は最初、今度の工作は失敗だとまで思ったそうです。劉通事がたてつけばたてつくほど、呉日男はなんとしてでも、このじいさんを抱きこんで司令部に連れていこうと決心しました。彼は、朝鮮人民革命軍は、5.30暴動のとき反日と親日、愛国と売国を区別せず金持ち一般を手当たりしだいに襲った人たちとは質的にまったく異なる真の共産主義者の集団であり、朝中人民の民族的解放と生命財産の保護を神聖な使命としている軍隊であることを説明したあと、通事が司令部の要望にどうしても応じられないというなら、このまま黙って引き下がることにすると言いました。呉日男がいざ引き下がると言うや、劉通事はしばらく口をつぐんで深く考えこみました。そして、態度を変え、どうせのことなら腰を下ろして時局談義でも聞かせてくれればよいではないか、そんなふうにあっさり行ってしまうくらいなら、ここまで来る必要はなかったではないかと引き止め、「金司令が、わしとの面談を要望しているのが確かなら考えてみよう」と言いました。多分、後のたたりが怖かったのでしょう。そのうえ、呉日男の物腰が上品で、時局談義もなかなかのものなので、劉通事も少々好奇心をそそられ、怒りがやわらいだのでしょう。

 「金司令部隊が戦上手の部隊だという話は、わしもよく耳にしている。だが金司令も共産党だというからには、金持ちを憎む本性には変わりないだろう。もっとも、ちょっと小耳にはさんだ話もあるし、また、あんたらの話とやり方を見ると、ほかの軍隊とは少し違うことは確かだが… ともかく金将軍のお呼びだというから、行くには行く」

 劉通事はこう言ってから、自分を連れていくなら後ろ手に縛って罪人を護送するような格好にしてくれ、わしが自分から金司令の要望に応じておとなしくついていったことを日本人が気づいたら、討伐隊を送ってわしの首をはねるかもしれない、わしの一家も無事ではいられないだろう、だから拉致する格好で連れていってくれと言うのでした。呉日男は、それは妙案だと思いながらも、ためらわざるをえませんでした。彼がわたしから受けた命令は、劉通事をおだやかな方法で連れていくことであって、捕らえていくことではありませんでした。司令部の承認を得ずに彼を縛って連れていくなら、長白県で金周賢グループが金鼎富に強引な手を使ったときと同じ事態をまねきかねないと彼は判断したのです。呉日男がそう判断したのは幸いでした。

 報告を聞いてみると、劉通事が出した案は妙案だったので、それに賛成しようと思いました。ところが、一部の指揮官が、劉通事の案どおりにすれば警察官を務めている息子が騒ぎを起こしかねないし、守備隊まで出動して大騒ぎになるおそれがあると言いました。竜澤村で銃声をあげれば、和竜県都の敵が増援軍を急派するはずです。劉通事の案どおりにするには、舞台を広げ、作戦のスケールを大きくする必要がありました。わたしは劉通事の家がある竜澤村を中心に、3つの村の敵を同時に襲撃することにし、第7連隊、第8連隊と警護中隊まで全部率いて出陣しました。

 わたしは、劉通事のあいやけの住む竜澤村の隣村に指揮部を定めて作戦を指揮しました。作戦に先立ち、我々は最初の計画を変更し、家内の諸事を取りしきっている劉通事は当分のあいだ家に居残らせ、その代わり彼の弟の劉依清を連れていくことにしました。そうすれば、劉通事の息子と軍警の神経をさほどとがらせることなく、劉通事を連れ出すのと同じような効果が得られるだろうと考えたからです。劉依清には、子だねがありませんでした。中国人には古来、兄弟のうち子だねのない者をいちばん可愛がる固有な風習があったので、劉家の人が劉依清を取りもどす交渉をするという口実で我々と連係をとっても、敵やまわりの人から怪しまれるおそれがありませんでした。

 作戦は、計画どおり成功裏に進められ、各部隊も3つの村からいっせいに撤収しました。部隊が村を発つとき、劉通事は、兄の三男を呼び、叔父の世話をせよといって劉依清につきそわせました。劉通事が兄の息子をつきそわせたのは、劉依清をさびしがらないようにしてやろうと思ったからでしょう。密営に引き上げる途中、劉依清がしきりに座り込もうとして手をやかせたそうです。肥満した体で足もとがおぼつかないうえに、アヘンの酔い気が醒めてしまったのでしょう。彼は、アヘン常習者でした。それで、彼を担架に乗せました。革命軍がアヘン常習者を担架に乗せて数里の道を歩くことなど、想像できるでしょうか。こんなことはめったにないことでしょう。正直な話、そのとき我々はいろいろと奇妙な体験をさせられたものです。

 わたしは警護中隊長の呉白竜に、劉通事の弟と甥の保護に万全を期すよう指示しました。警護中隊の隊員は、客用のテントを張り、彼らの面倒をよくみました。食糧難で苦労していたときでしたが、彼らにだけは、毎食白米のご飯と肉汁をたっぷり出してやりました。しかし、劉依清はそれをあまり食べませんでした。ぜいたく放題な食事をしていた富豪の息子だから口に合わないのだろうと思ったのですが、理由はほかにあったのです。彼が食欲を落としたのはアヘンを切らしたからでした。劉依清は、警護隊員に、ご飯は食べられなくてもいいからアヘンをくれと、毎日のようにせがみました。アヘンさえくれれば金はいくらでも出すと言うのです。しかし隊員たちは、その願いを聞き入れてやることができませんでした。そのころ我々には、軍医処で麻酔剤の代用として使っていた非常用のアヘンが少しあるだけでした。アヘンのためにいらだちをおさえられなくなった劉依清は、ついに警護隊員に悪罵を浴びせて当たり散らすようになりました。地主の息子が、革命軍の密営に来てアヘンを出せとうるさくせがむとは、まったくあきれた話ではありませんか。

 わたしは、客人を司令部の幕舎に連れてこさせました。彼の形相は見るにたえないものでした。アヘン常習者がアヘンを吸飲できないと、目がとろんとして体もまともに支えられなくなります。わたしは、非常用を全部はたいてでも劉依清に毎日アヘンを少しずつ与えるよう軍医処に指示しました。劉依清はアヘンを吸飲するやいなや目に生気を取りもどし、にこにこ笑って快活になりました。彼は、これまで筋肉を使う仕事などしてみたことがないようでした。はなはだしくは寝具のかたづけ方も知らず、甥がかたづけたりしました。それこそ生来指一本動かさず、ぜいたく三味に暮らしてきた無為徒食の輩だったのです。

 ある日、わたしはよもやま話の末に、人間は自分の力に応じて体を動かして働いてこそ、生活の楽しみがあり、食欲もわくものだと話してやったことがあります。昔、ある王女は何から何まで人にしてもらったので、リンゴの皮も自分の手でむけない不具になってしまったという話もあるが、他人に頼ってばかりいると結局、そういう痴呆になると話しました。その話を聞いた劉依清は、自分もその王女と変わりない愚か者だが、一つだけ上手にできることがあると言いました。ギョーザを上手につくる腕があるというのです。その話を聞いてわたしはうれしくなりました。廃人になってしまったと決めこんだ人に、大した技術ではなくても、ギョーザをつくる腕前があるというのですから、なんと幸いなことではありませんか。わたしは、司令部の炊事隊員にギョーザの材料を持ってこさせました。劉依清は、練った小麦粉を薄く伸ばしては中味を入れ、つぎつぎとギョーザをつくるのですが、その腕前は本当に普通でありませんでした。ギョーザの形も見栄えがしましたが、それがまた目にもとまらぬ早技なのです。わたしは、戦友たちと一緒にそのギョーザを食べながら、彼のすぼらしい手並みをほめたたえました。

 つぎの日から、劉依清はギョーザをつくる仕事となると、袖をたくしあげ、炊事隊員を手伝いました。そして、そんな日はいつになく餞舌になるのです。ひいては、わたしに冗談を飛ばしさえしました。ある日、ギョーザをつくって幕舎にもどってきた彼は、金司令の言うとおり仕事をしてみると、生活の楽しみがあると言うのです。本心から出た言葉でした。しかし、ギョーザをつくる仕事が毎日あるわけではありません。彼は仕事のない日には退屈しきった表情で、しきりにアヘンを吸いました。わたしは教訓になりそうな話をたくさんしてやりました。アヘン戦争の話から孔子、孟子にいたるまで、さまざまな話をしました。しまいには、中国の歴史に名を残した愛国的な資産家についても話しました。話のはずみで張蔚華や陳翰章のような富豪出身の革命家の名も自然に話題にのぼりました。劉依清は、わたしの話にとても興味深く耳を傾けました。

 ある日、彼は筆と紙を所望しました。張蔚華のように革命のために自決はできなくても、金と財物で金司令を援助したいと言って、兄の劉依賢あてに手紙を書くのでした。そして、その手紙をわたしに見せてくれまでしました。手紙の内容を見ると、我々がその間、彼を人間らしく処遇したことが無駄ではなかったことがわかりました。彼はまず、自分自身と甥が無事であることを伝えていました。そして、わたしと同じ幕舎で寝起きし、ギョーザも一緒につくったりしていることを伝え、革命軍の隊員が自分にたいし実の兄弟のように誠心誠意見守ってくれることを強調し、その間、手厚い待遇を受けたので恩に報いなければならないのだが、兄さんが、米と布地、履き物などの物資を送ってくれれば、革命軍の活動に大いに役立ててもらえるし、自分らもすぐ家に帰れるだろうと書いていました。彼を教育し啓蒙したかいがあったわけです。

 弟と甥を山へやって、それとなく不安の日々を送っていた劉通事は、弟からの手紙を受け取ってたいへん喜びました。そして、いついつまでにそちらで必要とする物資を準備しておくから、荷を運搬する人たちをよこしてほしいと言ってきました。わたしは李鳳緑に1個小隊ほどの隊員を付け、劉通事の準備した援軍物資を受け取ってこさせました。運搬隊がかついできた物資のなかには、数百着の軍服が仕立てられるてんじく木綿や地下たび、それに、白米、小麦粉、煎餅などもあり、豚肉や大豆油もありました。劉通事は、我々の密営にそういう物資を3回も送ってくれました。

 隊員たちとの接触が頻繁になると、彼は正式にわたしとの面談を求め、自分を密営に連れていってくれと言いました。どうせ革命軍を援助するからには、司令に会って挨拶でも交わしたいとのことでした。それで、彼を密営に連れてこさせることにしました。

 劉通事が密営に来るとき、警察署に勤める息子は父の出立に反対したそうです。そして、叔父の手紙を受け取って革命軍の密営を訪ねる決心をくだしたようだが、よくよく考えるべきだ、叔父の手紙によると、叔父と従弟が、金日成将軍と同じ幕舎で寝泊りし、ギョーザも一緒につくっているというが、それは信じられない話だ、革命軍の司令官がどうして民間人と寝食をともにすることができるのか、それに、叔父は地主の息子ではなりか、共産党は地主を打倒の対象としている、革命軍の隊長が敵対階級の息子と寝食をともにし、民家の主婦のようにギョーザをつくるとは、それはとんでもない嘘だ、金司令の部下の誰かがそう手紙に書けと強要したに違いないと言ったそうです。劉通事は息子に、馬鹿なことを言うな、このわしがこのごろ金司令の部下と何回か接触してみたが、彼らは誰もがみな礼儀正しく人情味のある若者だった、それでわしは、金司令はりっぱな部下をもったものだと思った、わしにたいする彼らの行動一つ見ても金司令の人となりがわかり、部隊の綱紀がうかがわれる、どうせ革命軍と関係を結んだ以上、ともかく山へ行って金司令に会い、おまえの叔父が書いてよこした手紙の内容が事実かどうかをじかに確かめてみたいと言いました。

 彼はわたしを訪ねてくるとき、上等なラシャ地で仕立てた軍服とコート、長靴と帽子を贈り物として持ってきました。二言三言、話を交わしてみると、人格や学識からして弟とは比べものにならない、ただならぬ人物でした。上品でありながらも言行が傲然として威厳がありました。劉通事はわたしに朝鮮語で、山中でさぞ苦労が多いだろうとねぎらい、その間、弟と甥をよく見守ってくれて感謝すると言いました。わたしはわたしで、その間多くの援軍物資を送ってよこし、また老躯をおして訪ねてきてくれたことに謝意を表しました。我々は劉通事のために別個にテントを張り、そこで弟と甥に会わせました。劉依清は兄に、「共産軍が赤い鬼だというのは、たわけた話だ。それはみんな嘘だ。世の中にこの人たちのようにりっぱな人はいない。金司令部隊は紳士部隊だ」と、口をきわめて革命軍を称賛しました。彼はさらに、金司令のおかげで自分は開眼したとまで言ったそうです。劉依清が我々のことをどんなに宣伝したものか、劉通事は弟に会ってわたしのところに来ては、重ね重ね謝意を表しました。

 わたしが劉通事に会ってみていちばん驚いたのは、彼が朝鮮語と朝鮮の風俗ばかりでなく、朝鮮の歴史や文化についても非常に詳しいということでした。それで、彼とはよく話が通じました。劉通事の話のなかでいちばん胸を打たれたのは、国を奪われ、異国の地で苦労している朝鮮人を目にするたびに、同情心を禁じえないという彼の言葉でした。わたしが中国人を好み愛しているように、劉通事も朝鮮人を非常に愛していました。劉通事はだしぬけにこんな質問をしました。

 「ちまたではいま、金司令部隊を『共匪』と言っています。金司令が共産党だというのは本当ですか」

 「人民革命軍を『共匪』というのは日本人の言うことですが、わたしが共産主義者であることは事実です」

 「それでは、いままで反共の側に立ってきたわたしを、金司令はどう思いますか」

 彼がわたしに会おうと密営にまで訪ねてきたのは、この質問にたいする回答を得るためであったのかもしれません。それだけに、わたしは熟考して答えなければなりませんでした。

 わたしは、抗日武装闘争の初期から、反共の側に立つ多くの人と談判しました。干司令も反共の側であり、呉義成もはじめは反共の側にいました。朝鮮人の梁世鳳も愛国者ではありましたが、共産主義者を敵視し、晩年になって容共に踏み切りました。干司令や呉司令、梁司令との談判では、統一戦線のためにわたしがいつも共産主義を弁護し、容共の必要性と正当性を説く立場にありました。容共か反共かという選択権は彼らにありました。したがって、わたしはつねに主動的な姿勢で談判を進めながらも、じりじりする思いで彼らの返答を待たなければなりませんでした。しかし、劉通事との対話では、問題が違っていました。わたしは、彼の反共行為を糾弾できる位置にあり、劉通事はその判決に耳を傾けざるをえない立場におかれていました。にもかかわらず、彼が、みずから自分の反共行為にたいするわたしの立場を知ろうとしたのは、たいへん好ましいことでした。いずれにせよ、彼は率直で鷹揚な人でした。

 わたしの体験によると、反共には2つの部類がありました。1つは、共産主義者が権勢を得れば自分らが滅びると考え、必死になって減共に執着する人たちの意識的で積極的な反共であり、他の1つは、エセ共産主義者の非行を目撃して共産主義にたいする嫌悪感を抱くようになったり、帝国主義者の悪宣伝を聞いて共産主義を排斥し、敬遠視するようになった人たちの盲目的な反共でした。劉通事の場合は、後者の部類に属するといえました。劉通事を反共から容共に踏み切らせるためには、彼に我々の立場を率直に話さなければなりません。援軍物資などを得ようと彼の気に入るようなことばかり話してもならず、また、彼が反共の側に立っていた地主だからと、あたまから悪い人間だと決めつけてもなりませんでした。要は、彼の行いでよい点はなんで悪い点は何かということをはっきりさせ、彼が、反共に代わって容共、愛国の道を選ぶよう正しく導くことでした。

 「通事が反共の側に立っていたことを、わたしは非常に残念に思っています。しかし、我々は、通事を懲罰する考えは毛頭ありません。それは、通事が共産主義者についてよく知らずに反共に走り、また、反共に走りはしても、中国を愛し、中華民族を愛してきたからです。反共に走っても亡国は望んでおらず、地主であっても国があっての中国の地主であることを望んでいるのが、まさに通事です。わたしは、この点を非常に重視しています。国を愛する人は、容共の道に容易に踏み切ることができます」

 わたしがこう言うと、劉通事は涙ぐんでわたしの手をとりました。

 「金司令、ありがとうございます。この和竜の地に人の数は多く口の数は多くても、わたしに愛国心があるということを認めてくれたのは金司令しかおりません。この評価一つで、枕を高くして寝ることができます」

 彼は、自分はこれまで心が狭くて反共に走ってきたが、容共に立つにはどうすればよいのかと聞くのでした。それでわたしは、容共は何も特別なものでない、反満抗日によって革命軍を支援してくれるのも容共だ、通事は、我々に弟と甥をよこしたその日から、すでに容共に踏み出している、心から国を愛し民族を愛する人は結局、みな共産主義を理解し、共産主義者と手を握るようになる、共産主義者も国を愛し、民族を愛するからだ、朝鮮の地主にとっても中国の地主にとっても、容共抗日は第一の愛国大事であると話しました。劉通事は、金司令のおかげで遅まきながら自分の値打ちを知ったことが、どんなに幸いなことかしれないと言いました。

 つぎの日から、彼は妙に無口な人になってしまいました。どこか具合が悪いのかと尋ねても、ただ違うと答えるだけでした。わたしは、呉白竜を呼び、その間、警護中隊が劉通事を世話する過程で何か不始末はなかったかと聞きました。呉白竜が言うには、別にこれといったことはなかった、劉通事が密営をひと巡りさせてくれというので、訓練状況も見せ、娯楽会も見物させた、ただ炊事場に行ってコウリャンと山菜を半々に混ぜて粥を炊いているのを見て、少し気分を悪くしたようだとのことでした。劉通事は、自分が数十石の米を送ったのに、なぜ米の飯を炊かずにあんな物を食べているのか、米を節約しようと粥を炊くならもちろん理解できる、しかし食糧が足りないからと、司令官にまで粥を差し上げるのは道理に反することではないかと言ったそうです。司令官が部下と同じ釜の飯を食べるということが、多分、彼に大きな衝撃を与えたようです。彼は軍医処を見てまわり、そこで患者の治療に使う非常用のアヘンを自分の弟に使わせたということまで知ると、ますます感激してやまなかったそうです。

 わたしは呉白竜の話を聞いて、劉通事の一行を家に帰らせなければならないと思いました。ところが劉通事は、自分が先に家にもどり弟と甥は当分のあいだ密営にとどまらせてくれと頼むのでした。我々の部隊により多くの物資を送りたいのだが、そのためには、革命軍に物資を渡す口実をつくらなければならないというのです。弟と甥が密営に残っていれば、物資を送ったことが発覚しても、日本人に弁解する口実ができるということです。劉通事がありもしない口実をつくつてまで、我々をもっと援助するとみずから請け合ったのはたいへんありがたいことでした。心から信頼されれば、その信頼に報いようと手をつくして努力するのが人間の本性なのだと思います。

 劉通事との別離にさいして、わたしは簡素ながらも送別会を催しました。彼はその送別会で、自分が共産主義者一般を敵視し、人民革命軍を「匪賊」と誤解していたことをわび、今後革命軍を助けることなら、金でも物資でも惜しまないと言いました。

 彼は我々と別れるとき、今後八路軍が東北を解放した場合、自分が朝鮮人民革命軍を物質的に支援したことを認めてもらえるよう確認書を書いてほしいと言いました。わたしは絹の布に漢字で、劉通事はりっぱな愛国志士である、抗日連軍を物心両面から援護したと書き、その下に司令官金日成と記して捺印しました。彭真が見たという証書はほかならぬ、そういった確認書だったろうと思います。

 当時、満州地方の少なからぬ中国人地主は、うわべは日本人に協力するかのように見せかけましたが、裏では、ひそかに抗日闘争に立ち上がった人たちを援助しました。彼らは、やがては日本帝国主義が敗北し、かいらい満州国が再び中国に帰属する日が来るという望みを捨てずにいました。中国人地主は、「ツーシーガン」といって、人民革命軍を助けては必ず確認書を書いてくれと頼みました。それでわたしは、そのような証書を長白県の地主にも書いてやり、額穆県と敦化県の地主にも書いてやりました。もともと、中国語の「ツーシーガン」という言葉は、「猪」「食」「糠」の中国式の字音で、猪が糠を食べるという意味です。ところが、これを「朱」「食」「康」と書けば、それも発音は「ツーシーガン」となりますが、この場合は「朱徳が康徳を食う」という意味になるのです。当時、八路軍を朱徳と毛沢東の姓をとって朱毛軍と呼んでいました。康徳は、日本人が樹立した満州国皇帝溥儀の年号です。中国人は、八路軍が東北を解放するという意味の隠語として「ツーシーガン」といったのです。

 劉通事が我々のところから帰って以来、烏口江密営には以前よりもはるかに多くの援軍物資が入ってきました。彼は、各種の援軍物資を惜しみなく自動車で送ってよこしました。それらの物資は、我々のその年の越冬準備に大きな助けとなりました。劉通事は、自分の弟が軍医処の非常用アヘンを消費した代償として、木枕ほどのアヘンの塊まで送ってよこしました。我々は、その年の中秋を間近にして劉通事の弟と甥を帰らせました。劉依清は我々と別れるとき、涙をこぼして泣きました。彼は、家に帰ったらまずアヘンと緑を切って人間らしく生きると言いました。

 彼らを帰らせた後、我々もすぐ烏口江密営を離れました。その後、劉通事兄弟とは、二度と連係をもつことができませんでした。しかし、わたしはいつも劉通事を忘れなかったし、彼が良心的に生きていくものと信じました。劉通事の親戚で甥にあたる劉振国という人がいましたが、彼が党歴史研究所あてによこした手紙によると、劉通事もこの世を去る日までわたしを忘れず、しばしば回想していたそうです。彼は密営から帰った後、自分の抗日意志をはっきりと示し、我々のことも大いに宣伝したようです。劉通事は目を閉じる最期の瞬間まで、わたしが烏口江密営で書いてやった証書を家宝として保管していたそうです。彼の死後は、弟の家でそれを保管していたようです。その話を聞いて、感慨にふけらざるをえませんでした。あのとき、密営で会って胸襟を開いたのが機縁となって、わたしと劉通事は一生涯、互いに忘れられぬ友人となったのです。結局、我々は互いに遠く離れていながらも、いつも親しくすごしたことになります。

 これは、何を物語っているのでしょうか。国も民族も骨肉も眼中になく、ただ個人の利益と享楽のみを追求する資産家とは志をともにすることができないが、国を愛し、民族を愛し、人間を愛する良心的な資産家は、国籍と党派、政見の違いにかかわりなく、我々の同行者になれるということを物語っています。理念の違いや財産の有無は、人間を評価する絶対的な基準にはなりえません。もっとも普遍的な人間評価の基準があるとすれば、それは、祖国愛と民族愛、人民愛、人間愛でしょう。人間を貴ぶ人が民族を愛し、民族愛の強い人が祖国を愛するというのは一つの法則であり、誰も否定できない真理です。この真理を無視すると、対人活動で左右の偏向を犯すようになります。一時、抗日革命闘争史を紹介、宣伝する一部の文章に、劉通事を悪質な反共地主と規定したことがありますが、それは正しい評価とはいえません。出身と経歴のみをみて人びとをみだりに評価したり、彼らの運命を軽率に扱うならば、対人活動で重大な過ちを犯すようになります。愛国者を売国者とみなしたり、革命の支持者を反革命分子に追いやることもあり、それとは反対に、売国者を愛国者に、反革命分子を革命の支持者に見間違うようにもなります。


 <在米同胞の孫元泰は、ある日、金日成同志の接見を受けたとき、「主席、南朝鮮には資産家がたくさんいます。やがて統一されたら、あの多くの資産家をどうしますか」と尋ねた。そのとき、金日成同志はつぎのように答えている>


 外部勢力に依存して民族を売り渡す極端な反動派でないかぎり、彼がどんな人であろうとすべて手を握るつもりです。祖国統一のための全民族大団結10大綱領は、我々のこのような立場を集大成したものです。



 


inserted by FC2 system