金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 玉石洞での端午の祝い


 <大紅湍戦闘後、朝鮮人民革命軍の主力部隊は、活動舞台を白頭山の東北部に移し、豆満江沿岸一帯で軍事・政治活動を猛烈に展開した。その時期の軍事活動で代表的なのは烏口江戦闘であり、大衆政治活動でいちばん異彩を放ったのは玉石洞での端午の祝いであった。和竜県の玉石洞は、茂山郡に面する豆満江対岸の山村である。
 金日成同志は、大紅湍地区を現地指導した日々に豆満江のほとりで、茂山地区戦闘後、白頭山の東北部で展開した軍事・政治活動について感慨深く述懐した>


 1939年の端午の日に、玉石洞でサッカーの試合をしたことが思い出されます。30余年の歳月が流れましたが、あのときのことが忘れられません。遊撃戦争のさなかにサッカーの試合をしたといえば、真に受けない人もいるでしょう。しかし、遊撃戦争だからといって、一年中、銃撃戦ばかりしていたわけではありません。我々は戦いながらも、遊撃隊の特性に合わせて文化生活もしたのです。1930年代の前半期には、遊撃区で運動会もたびたび催したものです。汪清遊撃隊には、いっぱしのサッカー選手が少なくありませんでした。その後は、第2次北満州遠征をひかえて羅子溝でサッカーの試合を催し、玉石洞でも催したのですが、なんとも楽しいひとときでした。間島地方の朝鮮人は、サッカーが上手でした。そのなかでも、いちばんうまかったのは、竜井の人たちでした。

 大紅湍戦闘後、我々は予定どおり闘争舞台を白頭山の東北部に移したのですが、それは、この一帯を朝鮮革命の戦略的基地にするためでした。その年の5月下旬、安図県大溝軍事・政治幹部会議でわたしは、白頭山の東北部で軍事・政治活動を強化し、この一帯にいま一つの強力な革命の砦を築く方針を示しました。遊撃区を解散した後、新たに設けられた朝鮮革命の根拠地は、そのほとんどが西間島一帯と白頭山を中心とする国内の各地に分布していました。こうした実情のもとで、白頭山の東北部と豆満江沿岸の北部朝鮮一帯に新たな革命根拠地を設けるならば、朝鮮人民革命軍の活動基地と作戦基地、後方基地を全国的版図に広げ、それらの根拠地に依拠して朝鮮革命全般をいっそう強力に推進することができるのでした。革命を拡大発展させるということを、むずかしく考える必要はありません。革命の原動力になりうる人たちの隊列を拡大することが基本であり、もう一つは活動拠点を広げることであり、いま一つは武装を増強することです。換言すれば、人間、領土、武器の問題を客観的情勢の要求に即応して解決し、たえず拡大していくことが、とりもなおきず革命を深化させていくことだといえます。人間があり、領土があり、武装があれば、革命を固守し拡大発展させていくことは十分可能です。

 根拠地を確保するためには、何よりも積極的な軍事作戦によって敵を制圧し、当該地域内の人民のあいだで政治活動と組織建設活動が自由に展開できる有利な環境をつくりださなければなりません。そうしてこそ、敵が革命軍の活動を妨げることができなくなるのです。大紅湍戦闘後、我々は、豆満江を渡るやいなや東京坪戦闘、輝楓洞戦闘、烏口江戦闘、音頭村戦闘、青山里付近の木材所襲撃戦闘など多くの戦闘を矢継ぎ早に展開しましたが、その一つ一つの戦闘はみな敵を軍事的に制圧し、人民革命軍の活動に有利な条件をつくることにその目的があったのです。

 戦闘が終わると、我々は、人民大衆のなかに深く入り、政治活動や組織建設活動をくりひろげました。玉石洞で軍民が一堂に会して端午の節目を楽しくすごしたのは、我々がおこなった特色ある政治活動の一つでした。新しい活動地域に行くたびに、地元の実情に応じて多様な形式と方法で政治活動を活発に展開して大衆の革命化を積極的におし進め、武装闘争の大衆的基盤を強固にするのは、我々の伝統的な活動方法であり、一貫した活動方式でした。

 もとより、玉石洞での端午の祝いは、我々が前もって計画したり準備したのではありませんでした。敵の弾圧がはげしく、情勢がきびしかったので、端午の祝いなどは考えも及ばないことでした。この祝いは、茂山地区進攻作戦を終えて和竜に渡り、人民に会う過程でわたしが決心して催したのです。

 どの地方に行っても感じることでしたが、当時、間島地方の人民も意気阻喪し、萎縮しきっていました。和竜でわたしが最初に会ったのは、アヘン中毒にかかった若い農民の兄弟でした。当時、中国の東北地方には、アヘン常習者が大勢いました。アヘンが貨幣と同様に通用していた時分をのですから、ことさらに言うべきことでもありません。アヘンというものは、世の中が乱れているときほど、はびこるものです。朝鮮に住んでいたその兄弟は、移民のあおりで間島にまで流れてきたのでした。わたしは、容姿もりっぱな若者たちがアヘンに毒されているのが理解できず、農作をするには心身ともに健やかでなくてはならないのに、なぜ君たちは人間をぬけがらにするあんなものを吸うようになったのかと聞いてみました。すると、彼らは恥ずかしがりもしないで、アヘンでも吸わなければつらいこの世を生きていくことができない、生きたくて生きているのでなく、死にきれずに生きているのがわたしたちの人生なんだから、アヘンでも吸って何もかも忘れるしかないではないか、はじめは酒で気を紛らせようとしたのだが、酒は人が寄り集まり、杯を交わしあって陽気に騒ぐおもしろみで飲むものなのに、日本人は祝日に人が集まって遊ぶことさえ禁じている始末だから酒も気ままに飲めない、それでアヘンに切り替えたのだと言うのでした。そして、もうすぐ端午の節目だが、寄り集まってどぶろくも飲めない端午ではしょうがない、以前、故郷にいたときは、端午の日に相撲やブランコ乗りをし、草餅を食べながら楽しくすごしたものだが、国を奪われてからはそんなことは考えることもできないと嘆くのでした。それを聞いて心がうずきました。人間は夢がなければ、生きていても屍と変わるところがありません。人間は生きる楽しみがあるから生きるのであって、ただ食って寝るために生きるのではありません。生きる楽しみとは、生きがいを意味します。生きがいをもって生きるというのは、人間が人間としての権利を思う存分行使し、生活を創造しながら人間らしく生きるということです。ところが、アヘン常習者の若い兄弟には、そういう生きがいがありませんでした。城壁と鉄条網に閉じ込められて生きる人生がなんの人生といえるでしょうか。それは生存であって生活ではありません。生活をぬきにした生存は事実上なんの価値もなければ意味もないのです。

 もともと、わたしは幼いときからアヘン常習者をよく思っていませんでした。しかし、この若い兄弟には、同情を禁じえませんでした。それで、わたしは彼らを諭しました。

 ──民族が危急存亡の秋に瀕しているというのに、アヘンを吸って空しい歳月を送っているようでは、朝鮮の青年としてぬぐうことのできない罪を犯すことになる。見なさい、若年の伝令や女子隊員までが国の運命を救うために銃を手にして戦っているというのに、恥ずかしくないのか。きっぱりとアヘンを断ちなさい。

 わたしの話を聞いて、兄は頭をかきながら、なんの意欲もなくその日その日を生きているのが恥ずかしいと言いました。

 わたしはアヘン常習者の農民兄弟に会ってから、人びとが、希望を抱き、胸を張って生きていけるように、軍事・政治活動をいっそう積極的に展開しなければならないと考えました。しかし、演説のような政治活動だけでは、人民の士気を奮い起こすことができませんでした。人民は、勝利する革命を自分の目で見、耳で聞きたかったのです。目で見、耳で聞ける革命とは、とりもなおきず戦闘でした。幾多の演説より一発の銃声のほうが、大きな効果を発揮する時期が1930年代だったのです。それで我々は、政治工作とともに軍事活動を強化しました。まず、かの農民兄弟が住んでいる輝楓洞の隣にある集団部落と輝楓洞の敵から討ちました。すさまじい攻撃を受けた敵は、ほとんど応戦もできずに、算を乱して山へ逃げてしまいました。これを見た輝楓洞の住民は、こおどりして喜んだものです。

 我々が白頭山の東北部に移動して、豆満江沿岸の10余の集団部落をたてつづけに襲撃し、数百名の敵を掃滅する戦果をあげると、日本帝国主義尊者は我々の部隊の活動を阻もうと必死になりました。ちょうど関東軍が、カルキンゴルで局地戦を引き起こした時期でした。この戦闘が起きると、数万の日本軍が前線へ出動しました。敵としては、それこそ非常時局として大騒ぎしている時期でした。そんなときに、彼らの後方深部で革命軍の銃声が、相次いであがったのですから、敵も狼狽せざるをえませんでした。

 和竜一帯の山々は、敵兵で埋めつくされていました。あまりにも多くの兵力が「討伐」に駆り出されたので、ある日、望遠鏡で敵情を探ってきた参謀長の顔は青ざめていました。彼はわたしに、これ以上戦いをつづけては大変なことになりかねないと言いました。彼我の兵力は、比べものにならないと言うのでした。わたしは彼に、我々は建軍当初から数のうえで数十倍、ときには数百倍も優勢な敵と戦ったのであって、劣勢の敵と戦ったことはない、兵力が劣るからと、いったんはじめた作戦を中止するとはなにごとだ、こんなときこそ巧みな戦術を用いて敵に息つくひまを与えず痛撃を加えるべきだと叱咤しました。

 そのころ、中国の華北戦線で特出した軍功を立てて天皇の表彰まで受けた日本軍将校が百日坪に到着し、「討伐隊」の指揮をとっているという情報が司令部に届きました。その将校は、勲功によって表彰休暇をもらい、本土へ帰る途中だったそうです。ところが、朝鮮人民革命軍の主力部隊が、安図と和竜にあらわれ、集団部落をつぎつぎと襲撃しているということを耳にし、そんなゲリラ部隊一つ始末できずに敗戦を重ねるのは皇軍の恥であり、日本国民の恥である、わしが金日成部隊を全滅させて、この恥をそそいでみせると豪語したというのです。その将校の虚栄心は、なかなかのものであったようです。彼の胸には、「阿修羅」の入れ墨があり、無敵の勇将をもって任じていたそうです。「阿修羅」は、仏教で戦いの鬼神とされています。

 百日坪へ偵察に出ていた隊員たちは「阿修羅」にかんする資料とともに、和竜県の日本人警官たちが我々のために端午の贈り物を準備しているという奇怪な情報をつかんできました。一方では、天皇の表彰まで受けて休暇で郷里に帰ろうとしていた「阿修羅」が我々を「討伐」するために進んで百日坪に来たというのに、他方では警官たちが我々のために端午の贈り物なるものを準備しているというのですから、なんと漫画めいた話ではありませんか。この情報に間違いがなければ、敵が準備しているという贈り物騒ぎはたしかに古今東西未曽有の喜劇でした。彼らが端午節を心から祝うために贈り物を準備するわけはありませんでした。

 わたしは、敵があえて贈り物を準備するといったふざけた真似をするのは、まだ革命軍の鉄腕の味をよく知らないからだと判断し、百日坪の敵を烏口江の方へおびきだして一撃のもとに掃滅する戦術を練りました。我々が戦闘の場として選んだ地帯は、百日坪からさほど遠くない芦原でした。芦原の真ん中には烏口江が流れ、一方の岸に沿って車道が伸びていました。川と道の両側は樹林地帯なので、待ち伏せするのに有利でした。敵が烏口江畔に姿をあらわしたのは、朝霧が晴れはじめたころでした。重武装した数百名の敵が数梃の機関銃射手を先頭に、威勢よく行軍してくるのでした。敵の全隊伍が我々の待ち伏せ圏内に入ったとき、軍刀を腰にさげた将校がふと道端に立ちどまったかと思うと、これを見ろと声を張り上げるのでした。その声に敵の縦隊はいっせいに足を止めました。部下の士官数名が駆け寄って溝をのぞきこみ、首をかしげました。多分我々の隊員の誰かが、そこに足跡を残したのでしょう。戦闘が終わって戦場を捜索したとき、戦死した日本軍将校たちの胸をはだけてみたところ、溝のそばで我々の足跡を最初に発見した、軍刀をさげたその将校がほかならぬ「阿修羅」と自称する「討伐隊」の隊長でした。「阿修羅」が溝のそばで立ち上がる瞬間、わたしは射撃命令をくだしました。我々は、瞬時にして200余名の敵を殺傷または捕虜にしました。「阿修羅」は、軍刀のつかに手をかけたまま溝のそばに倒れてしまいました。それを見た隊員たちは、故郷に帰っておとなしく休暇をすごしていたなら命をつなぐことができただろうに、血気にはやったおかげであの世行きになったと哀れんだものです。

 この戦闘が.ほかならぬ、百日坪戦闘とも呼ばれる有名な烏口江戦闘です。この戦闘についての趙明善の回想記はわたしも読みました。烏口江戦闘で苦杯をなめて以来、敵はあえてその谷間に寄りつこうとしませんでした。そのときから烏口江流域の村々は、閉門村と呼ばれるようになりました。閉門村というのは、敵が入ってこれないように門が閉ざされた村という意味です。烏口江流域に多くの閉門村が生まれたので、我々も存分に政治工作を展開することができました。

 玉石洞での端午の祝いは、朝鮮人民革命軍が烏口江戦闘をはじめ、豆満江沿岸の諸戦闘でおさめた輝かしい勝利を祝う一種の祝祭行事でもありました。豆満江沿岸の村々は、解放の日でも迎えたかのようににぎわいました。青壮年たちは、今度の端午の日には思う存分楽しもうと、ブランコをしつらえたり相撲場をつくったりしました。

 我々が烏口江戦闘を終えて引き上げるとき、おもしろいことがありました。一人の農民がタバコや酒をはじめ、いろいろな飲食物を携えて部隊を訪ねてきたのです。最初、わたしは、それが人民からの援護物資だと思いました。ところが、意外にも彼は手を横に振りながら、これは自分の贈り物ではなく、和竜県の警察の頭目が金日成将軍に贈るお節料理だというのでした。してみると、偵察班がつかんできた情報は正しかったというわけです。贈り物の包みの中には密封された1通の手紙も入っていました。それは、呉白竜にあてたものでした。敵が手紙のあて名を呉白竜にしたのをみると、彼がわたしの信任を得ていることをよく知っていたのでしょう。手紙には、日本帝国と10年近く戦ったのだから、その実力のほどを思い知ったであろう、端午も間近いのだから、この贈り物を受け取り、戦いはやめるべきだ、ここらが年貢の納め時ではないか、この警告に応じない場合はただではおかないとしたためてありました。あとでわかったことですが、この警告の手紙は、日本帝国主義者が、和竜県一帯の警察「討伐隊」の総指揮を担当していた宇波に書かせたものでした。宇波は、和竜県警務課長を兼任していました。彼は、若いころ満州に渡り、共産主義者との戦いに一生をささげることを誓い、領事館の警察署に勤務しました。

 我々がはじめて宇波と遭遇したのは1932年の秋でした。南満州遠征から帰ってきて敦化県城を襲撃したのですが、宇波はそのとき、県城内の日本領事館警察署で必死に応戦しました。生き延びたおかげで、彼は上司から表彰まで受けたということです。日本軍には、戦闘の勝敗に関係なく戦死者には、1階級昇進させ、多額の報償金を与える制度がありました。彼らは、負傷者にも報償金を支給しました。金で万事を動かす資本主義の軍隊ですから、そういう方法で刺激を与えるほかないでしょう。李道善も死後に1階級昇進しました。

 宇波は、東満州の各地を転々として警察情報部門で立身出世し、1939年ごろには数100名の兵力を率いる警察「討伐隊」の頭目となったのです。後日、彼は記者たちにこの手紙のことを警告文だと言いましたが、わたしが見たところでは警告文ではなく、要請書まがいのものでした。銃剣ではらちがあかないので、哀願してでも我々を屈伏させようとしたのでしょう。

 警告文が効を奏するものにするには、それを送る時期を的確に選択しなければなりません。換言すれば、相手が劣勢になってうろたえたり、疲労困憊して戦意を喪失したときに送ってこそ、大きな効果をあげることができるのです。しかし、宇波は時期の選択も対象の選定も誤りました。当時、我々は守勢にまわっていたのではなく、攻勢に出ていたのであり、武装闘争は下降期ではなく上昇期にあったのです。朝鮮人民革命軍は、兵力にしても戦術にしても精強でした。宇波は、我々を恐れながらも、戦力が手薄な軍隊と考えたに違いありません。

 宇波が我々に警告文を送ってよこしたのは、朝鮮総督南次郎の指令によって咸鏡北道警察部長の筒井が多くの慰問品を準備し、記者まで連れて茂山郡三長面一帯に出向き、我々に痛めつけられた軍警をねぎらっていたころでした。南は、普天堡戦闘直後にもその裏調査のために、視察団の名目で朝鮮総督府警務局長を現地に派遣しました。字波は警告文なるもので「ただではおかない」のなんのと息まきましたが、それはただの虚勢にすぎませんでした。

 わたしは、呉白竜に返事の手紙を送るようにと指示しました。彼は筆が立つほうではありませんでしたが、それらしく手紙をしたためました。お前たちは、我々を「討伐」しようと7、8年間も苦労したが、得たものは何か、我々の武器調達者、食糧輸送隊の役割を果たしただけではないか、哀れなのは我々ではなくお前たちだ、もうあきらめて妻子の待つ家に帰るほうが身のためだ、じきに端午の節目だが、生菓子を準備して待っていろ、こちらが客人となってお前たちに身の振り方を教えてやると非常に強硬な言い回しでつづりあげたのです。

 わたしは、端午の日には、玉石洞の三里四方の谷間に住む人はみな運動会に参加させ、輝楓洞をはじめ、隣村から来られそうな人もみな招くようにと指示しました。玉石洞には、数ヘクタールにもなる広い台地がありました。我々は、そこにゴールの柱を立ててサッカーの試合をしました。敵が和竜一帯におびただしい「討伐」兵力を集中しているときに、そのどまんなかで我々が余裕綿々として端午を祝い、サッカーの試合までしたといううわさが広がれば、数回の戦闘や数百回の演説にまさる効果をあげることができるはずでした。敵地でのサッカー試合は、いま一つの我々の方式の独特な政治活動方法でした。

 革命軍と村の青年とのサッカー試合は、なかなかの見物でした。技能は知れたもので試合の運びもひどいものでしたが、双方の選手たちがボールを蹴りそこなって代わるがわる草原に転がるので、場内では爆笑が絶えませんでした。老人たちは、玉石洞に村ができて以来、きょうのように村人たちが心置きなく笑いさざめくのを見るのははじめてだと言いました。試合は引き分けに終わりましたが、政治的得点は満点でした。ブランコや相撲も盛況をきわめ、軍民交歓会や演芸公演もアンコールの連続で予定の時間をはるかに超過するありさまでした。村人たちは、端午の祝いを催した革命軍に謝意を表しました。

 その日、玉石洞では、数十名の青年が革命軍への入隊を志願しました。これは、我々の政治工作が村人の心を大きくゆさぶったことを意味します。スポーツ競技や娯楽も政治活動の一形態とみる所以です。

 現在、わが国には、数百数千の劇場、映画館、会館がありますが、機関、企業所の会議室まで合わせると数万の集会場があるわけです。これは、政治活動と大衆文化活動を思い通りに展開できるりっぱなメカニズムです。ところが、幹部はこれを効果的に利用しようとしていません。多額の資金を費やして建てた建物なのに、重要な行事や会議をおこなうときに何回か利用するだけで、いつも遊ばせています。こういう建物を利用して科学講演会や情勢講演会、弁論大会、詩の朗唱会などをおこない、有名な科学者、作家、芸術家、スポーツ選手、英雄、労働革新者との交歓会などもたびたび催せば、どんなによいでしょうか。マイクも劇場も放送局もないパルチザン生活でしたが、我々はあらゆる可能性を生かして人民大衆にたいする政治活動をたえずおこなったものです。

 その後、玉石洞とその周辺の人民は、我々を援助してりっぱにたたかいました。アヘンを吸っていた輝楓洞の若い農民の兄弟もアヘンをやめ、組織のメンバーとなってりっぱにたたかったのではないかと思います。


 <豆満江沿岸の村々を革命化する金日成同志の活動は和竜一帯にとどまらなかった。国内革命にも深い関心を寄せていた金日成同志は、端午を数日前にひかえて国師峰へおもむき、地下革命組織責任者・政治工作員会議を招集した。国師峰は、豆満江の支流である西頭水沿岸に位置している。国師峰会議を準備し招集するうえで主役を果たしたのは、政治工作グループの責任者であった李東傑である。国師峰会議のことが話題にのぼるたびに、金日成同志は格別な愛情と親近感をもって李東傑について回想し、彼を忠実を指揮官であったと評価した>


 我々は、大紅湍戦闘を終えて和竜に渡るとすぐに司令部党会議を開き、李東傑の罰を解き、その日のうちに国内政治工作の重大な任務を与えました。

 国内革命には、なすべきことが山積していました。国内革命の中心的課題は、「恵山事件」のために破壊された地下革命組織を一日も早く立て直し拡大することでした。我々は、茂山地区に李東傑を派遣して、そこに以前李悌淳や朴達が築いたような強力な地下組織網を設ける計画だったのです。わたしは彼に、国内に進出したら茂山郡内の適当な地点で国内地下組織責任者と政治工作員の会議を開く計画だから、その準備をするようにと指示しました。李東傑は、会議の準備を手ぬかりなく進めました。彼は、まず豆満江のほとりの中国人村に住んでいる朝鮮人を掌握し、そのつてをたどって随時国内に入り、組織とのつながりを回復し、会議の準備も着実に進めました。

 そのころ司令部と李東傑との連絡を責任をもって取り次ぎ、彼を積極的に援助したのは金正淑でした。わたしは彼女を豆満江沿岸の国境近くの村に派遣し、李東傑とたえず連絡をとらせました。金正淑は、司令部と李東傑との橋渡しをし、わたしの指令と意思を時を移さず伝達しました。当時、茂山郡三長面一帯の農民は、耕地不足のため夏の間は中国に渡って農業を営み、秋になると穀物を取り入れて朝鮮に帰ってきたものです。茂山の人たちは、これを「間島農作」といっていました。甲山地方の農民のなかにも「間島農作」をする人が少なくありませんでした。金正淑は、まず「間島農作」をする人たちを掌握し、彼らを通して国内との連係を保ちました。茂山、延社地区を革命化するうえでは、李東傑と金正淑が大きな役割を果たしました。李東傑は、工作任務を受けて20日足らずのあいだに会議の準備を完了しました。

 その日、わたしは、李東傑の案内で豆満江の堰の橋を渡り、会議の場として内定していた国師峰に登りました。国師峰会議では、地下革命組織を拡大し、朝鮮革命をひきつづき高揚させる一連の対策が討議されました。会議が終わったのち、李東傑はわたしに二つの問題を提議しました。一つは、自分が築いた三長地区の組織を国師峰会議の方針どおり延社一帯へと拡大発展させて、党組織のモデル、祖国光復会組織のモデルにしたいということであり、いま一つは、国内組織の責任者たちに政治活動方法を教えるために、国師峰会議の参加者全員を玉石洞の端午の祝いに参加させてほしいということでした。わたしは彼のこの提議に同意しました。

 会議が終わった後、李東傑は玉石洞で我々とともに端午の日をすごし、アジトに行って祖国光復会の各組織に国師峰会議の方針を伝える一方、ある国内組織のメンバーとの連係のもとに延社地区へ進出する準備を進めました。ところが、アジトで不意の襲撃を受けて銃傷を負い、敵に逮捕されました。李東傑が逮捕された後、組織メンバーの一人が彼から預かっていた手帳を携えて烏口江密営を訪ねてきました。その手帳には、安図県の大溝と和竜県の玉石洞、そして、国内の三長、延社一帯の地下組織の実態と延社地区での活動計画が暗号で記されていました。李東傑は、万一の場合を考えて必要な資料をそのつど手帳に書きとめ、それを彼の家に預けておいたようです。

 朴達の話では、李東傑は、獄中でも監房の壁を叩いて同志たちと連絡をとり、彼らを闘争へと立ち上がらせたそうです。彼は法廷でもりっぱにたたかいました。法廷に立つときはいつも真っ先に「朝鮮革命万歳」を唱えて、共産主義の気概を示したそうです。李東傑は、金周賢のように活動の過程で重大な過ちを犯しましたが、革命の実践を通じて、その過ちを是正し、人生をりっぱにしめくくりました。人間は機械ではないので、活動の過程でときに過ちを犯すこともあります。犯した過ちをいかに是正するかは、その人の思想と修養の程度にかかっています。彼は自己批判も誠実にしましたが、連隊政治委員の職務を解任された後、思想鍛練にも専念しました。そのため、同志たちの信頼をすぐ回復することができたのです。

 人間の真価は、処罰を受けたときに顕著にあらわれもするものです。組織から何か処罰を受けると、修養の足りない人はそれを素直に受け入れるのではなく、あんまりだの、承服しがたいだの、大げさだのと不平を並べたてます。そして、あの手この手で批判した人に仕返しをし、同志たちと仲たがいするようになります。同じ革命の持ち場で働く同志たちが、互いに心を許さないようでは、生活になんの張り合いもないではありませんか。同志たちに心を許さなければおのずと集団の外にはみだし、しまいには腹に一物をもつようになります。しかし、修養を積んだ人は、同志たちからいくら手きびしい批判を受けても、つねにそれを虚心に、真剣に受け入れるものです。そういう人は、同志たちの批判を補薬とみなします。金周賢や李東傑が指揮官の職務からはずされるという重罰を受けた後も、失望したり堕落することなく自分の過ちを是正することができたのは、同志たちの批判を補薬と考え、それをよく消化したからです。同志たちの批判にたいする消化能力をみれば、その人の人格と修養のほどがわかります。李東傑は、人格と修養の点で模範といえる共産主義者の一人でした。

 李東傑は犠牲となりましたが、彼がくだいた肝胆は、豆満江沿岸と国内深くで数十数百の火種となりました。李東傑が逮捕されたあとは、彼に代わって延社地区へ行った金正淑が、その地の組織のメンバーと連係を保ち、彼が望んでいたように党組織と祖国光復会組織をつくりあげました。それらの組織は、全民抗争を準備するうえで大きな底力となりました。豆満江をただの川と考えてはなりません。



 


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