金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 塩 事 件


 <1949年6月、金日成同志は共和国内閣小会議を指導した。会議では、塩の配給制を廃止し、自由販売制を実施する問題が討議された。金日成同志はその日、会議をしめくくるにあたって、抗日武装闘争の時期の体験によれば、塩を切らしたときほど苦しいことはなかった、それで山中で戦ったとき、米を切らすことはあっても塩だけは切らさないように努めた、塩の生産が急増し、備蓄できるまでになったのだから、これからは塩を自由販売することにしようと述べた。塩を自由に売買する措置をとった金日成同志は、幹部たちの前で苦難の行軍のとき塩不足のために苦労したことを回想した。一般に塩事件と呼ばれている事のいきさつについて、金日成同志が数次にわたって語った回想談をまとめてここに紹介する>


 わたしがいまから話す塩事件は、1939年の春、苦難の行軍の終わりの時期にあった出来事です。この塩事件は、いまでも忘れることができません。

 人間は、塩を欠かしては生きていけません。塩を食べないと手足がむくみ、脱力状態になって動けなくなります。草食動物も塩分を摂取しなければ生きていけません。山中の塩気のある水たまりの付近に鹿の角が落ちたりしているのは、鹿が塩分を摂取するためにしばしばそこへ来るからです。

 遊撃隊の生活には4大必需品難というのがありましたが、それは食糧難、履き物難、マッチ難、食塩難でした。抗日革命闘士に、この4つの困難のうちでいちばん耐えがたいのはなんであったかと聞けば、多分大多数の人は食塩難であったと答えるでしょう。

 もともと、北間島や西間島地方は、塩が不足していたうえに、官庁の統制がきびしかったので、貴重品にならざるをえませんでした。塩は、満州地方でも官庁の専売品となっていました。敵は、住民地区の塩が人民革命軍の手中に入らないよう、厳格に取り締まりました。商人が朝鮮から密輸入した塩を住民地区で密売して歩くこともありましたが、さほど足しにはなりませんでした。間島の奥地では、塩の代用品としてあくをとった木の灰を食用にする家も少なくありませんでした。わたしは末満州にいたとき、一家が岩塩1粒で1食を補うのを目撃したことがあります。わたしが汪清で活動していたとき、崔春国の中隊に出向いて高賢淑に、炊事隊でいちばん困っていることは何かと聞いてみると、第一にあげたのが塩でした。高賢淑は、呉白竜の家の隣近所に住んでいましたが、敵の「討伐」で家族の多くを失い、その敵を討とうと遊撃隊に入隊した女性です。彼女は入隊してすぐ炊事隊員に任命されましたが、わたしが中隊に行って食事をするたびに、おかずが何もないといって恐縮するのでした。あるときは、塩味をつけていないおかずを膳に出したことが気恥ずかしくて、わたしの前に顔を出せず、かまどの前で小さくなっていたものです。高賢淑の話によれば、彼女の家でも一家が1粒の岩塩で食事をすますことが多かったとのことです。中国の岩塩は1粒がインゲン豆ほどの大きさでした。

 第2次北満州遠征のときは塩不足がはなはだしくて、ある中隊では隊員たちが塩を入れた小さな非常袋をバンドに下げていたものです。袋といっても、指がやっと入る印鑑袋ほどのものでした。非常袋の塩は、どうしても塩分がとれない切羽詰まったときにのみ消費しました。塩不足を経験したことのないみなさんには、多分この話が昔話のように聞こえるでしょう。パルチザン時代に塩を手に入れるために敵地に行って命を落とした隊員も一人や二人ではありませんでした。地下組織のメンバーも塩を調達する過程で少なからず命を落としました。塩を手に入れる主なルートは、地下組織の線でした。地下革命組織に金を渡せば、その組織が大衆に働きかけて塩を買い入れたのです。いうまでもなく、部隊に運ばれる塩のなかには人民が買ってよこしたものもありました。

 敵は、我々がどういう経路で塩を手に入れているかをよく知っており、塩不足のためにいかに大きな困難をなめているかということも手にとるように知っていました。これは、敵に、塩をもって人民革命軍を壊滅させる恐ろしい策略を企てさせる条件を与えました。敵は、塩を利用してうまく謀略をめぐらせば、銃声をあげなくても革命軍を全部生け捕りにするか全滅させることができると考えました。

 彼らは体験を通じて、単なる軍事的・政治的対決だけでは、朝鮮人民革命軍を打ち破ることができないことをよく知っていました。それで、「帰順工作」をくりひろげ、集団部落政策や焦土化作戦も試みたのです。一時は「民生団」をつくりあげ、朝中両国人民のあいだにくさびを打ちこむ民族離間戦術で、我々の革命勢力を内部から瓦解させようともしました。日本人は、はなはだしくは「金日成射殺説」まで流し、わたしのうわさが広がるのを阻もうとさえしました。いわば、金日成が彼らの手にかかって果てたかのようにデマを流し、もう金日成もいなくなったから独立闘争もおしまいだというふうに宣伝し、朝鮮民族の反日熱気に水を差したのです。当時、朝鮮と満州の少なからぬ出版物は、わたしがどの戦闘でどのように戦死したと、もっともらしくつづった現地報道形式の記事まで載せました。1937年11月、『京城日報』は、満軍「討伐隊」が5時間にわたる激戦の末、金日成を射殺するのに成功した、父子2代にわたって抗日反満運動をつづけてきた金日成も「討伐軍」によって窮地に追い込まれ、ついに36歳を一期として波乱万丈の生涯を閉じたと報道しました。満州国軍の雑誌『鉄心』にも「金日成匪討伐詳報」という見出しで、わたしを死に至らしめたという記事が掲載されました。それによると、金日成が撫松県楊木頂子付近で満州国軍の奇襲を受けて苦戦に陥り、部下8名とともに戦死したが、村人に確認させたところ「金日成に間違いない」と証言したということでした。この「功労」によって満州国軍第7連隊中隊長であった李某は、関東軍司令官、満州国治安部大臣から特別昇級と賞状を授かり、1万元の賞金までもらったそうです。ところがその後、金日成が再びあらわれ、ほとほと困惑したとのことです。

 日本帝国主義者は朝鮮人と中国人を生体実験にまで利用しましたが、その目的はなんであったのでしょうか。それは、いうまでもなく、朝中両国人民と革命軍を標的にしたものであり、ひいては東洋制覇を妨げるいっさいの敵対勢力にたいする生理的抹殺を策したものでした。しかし敵は、いかなる手段と方法によっても抗日革命の炎を消すことができず、朝鮮人民革命軍の存在をなくすこともできませんでした。業を煮やした敵は、井戸やパンに毒薬を入れ、はなはだしくは塩や米にも毒薬を入れて送りこむという卑劣な方法で我々を殺害しようとしました。我々は長白に着いて間もなく、敵の策略にはまりそうになりました。西間島に進出して大徳水で最初の戦闘をおこない、つづいて小徳水での戦闘を終えた後、馬順溝というところで中秋節日の準備をしていたときのことです。ある日、歩哨長がわたしのところへ駆けつけ、ある老人が衛兵所にあらわれて隊長に会わせてくれとせがんでいるが、どう処置したものかと言うのでした。わたしが老人に会ってみると、彼は革命軍が長白で求めた塩には毒が入っていると告げるのでした。敵が塩に毒を入れたというのです。それが事実かどうかを確かめるために、毒が入っているという塩を動物に食べさせたところ、たちまち毒物反応があらわれました。その老人が知らせてくれなかったなら、一大事になるところでした。塩に毒薬を入れる方法で我々を全滅させようとする敵の企みは、我々が塩不足に苦しめられているときほど、いっそうはなはだしくなりました。

 我々は、1939年の春にも塩を切らしてたいへん苦労しました。分散行動をしていた各連隊がひとところに集まって司令部とともに行動し、苦難の行軍をしめくくろうとしていた時分でした。行軍がほとんど終わりかけていたときだったので、隊員の士気は上々でした。そのときは、食糧も確保され、気候も暖かでした。春を迎えたので、みな胸をおどらせていました。ところがある日、不可解なことが起こりました。行軍中の隊員たちが酒に酔った人のように体の均衡を失ってふらつくのでした。幾人かだけならいざ知らず、大勢の隊員がそういう状態なのでたいへんでした。隊員は、みな顔がむくんでいました。一部の隊員は、むくみがひどくて目も開けられないありさまでした。わたしは、隊員が脱力状態になった原因は、塩の欠乏だと考えました。むくみがひどい原因も塩分がとれないことにあると判断したのです。司令部のメンバーは、十日間ほど塩を口にしていなかったのです。呉仲洽に塩をいつから食べていないのかと聞くと、第7連隊も司令部と別れてからは、ほとんど食べていないとのことでした。ですから、塩が原因であることは明らかでした。行軍をしめくくり、再び国内へ進出して敵に打撃を与えようとしていたときに、このような光景を目のあたりにしたのですから胸がふさがる思いでした。なんとしてでも塩を手に入れなければなりませんでした。そうしなければ、部隊が全滅するおそれがありました。

 わたしが敵地へ行って塩を求めてくる適任者を物色しているとき、警護中隊を率いていた呉白竜が金鳳禄という新入隊員を推薦しました。金鳳禄は、ろ獲物資をかついでついて来て家にもどらず、我々の部隊に入隊した青年でした。遊撃隊に入隊していくらも経っていませんでしたが、生活でも戦闘でもそつがありませんでした。呉仲洽も、彼は着実な人だ、彼の両親が西崗に住んでいるから彼が行けば必ず塩を求めてくるだろうと言いました。金鳳禄を呼んで塩を求めてくる自信があるかと聞くと、やってみると答えました。いまごろなら父が山へ柴刈りに出ている時分だから、私服に着替えていけば密偵の目をかすめて父に会うことができるし、父に会いさえすれば塩は問題ないとのことでした。わたしは、彼に任務を与え、助力者を一人付けました。彼はその隊員を連れて目的地へ向かいました。

 彼の父親は息子に会うや非常に喜び、おまえが金将軍の部下になったとは見上げたもんだ、将軍がおまえを預かってくれたのでわたしも安心だ、しかし最近、日本人の宣伝では金将軍が戦死したというが、それは本当なのかと間いました。金鳳禄は、それは真っ赤な嘘です、わたしはいましがた将軍の軍営で将軍じきじきの命を受けてお父さんに会いに来たのです、将軍は健在ですと言いました。それを聞いた金鳳禄の父親は目をうるませて、やっぱりそうだったんだな、実際わしらは将軍が戦死したのどうのといううわさを聞いて、どんなに気を落としたかしれない、金将軍が生きておられるのだからもう大丈夫だと喜びを隠しきれなかったそうです。息子から家に来たわけを聞いた老人はびっくりして、塩のために革命軍が戦もできないとはとんでもないことだ、なんとしてでも塩を求めて金将軍の心労を省いてさしあげると言いました。

 老人は息子の前で自信ありげにそう言ったものの、塩を手に入れるのは口で言うほど簡単なことではありませんでした。一人で1、2斤買うのならいざ知らず、それ以上の量となると敵に疑われるおそれがありました。当時、満州国官庁や警察機関では、商店で塩を制限量以上売ることを禁じていました。そして、随時商店での塩の販売状況をひそかに調査していました。商人のなかには、住民の物資購買状況を敵に日常的に通報する手先もいました。金鳳禄の父親はある程度の塩は一人でも求めることは可能でしたが、行軍に参加している軍人が数百名にもなるという息子の話を聞いて、1、2斤でも多く買って送ろうと思い、ふだんから親しくしている隣の老人に頼んでみることにしました。わけを聞いた隣の老人は、協力することを約束しました。ところが、その老人が自分と親しい他の老人に、金日成将軍が塩を求めてくるようにと山から人をよこしたので、自分もひとはだ脱ぐことにしたと、得意げにしゃべってしまったのです。そして、そちらも遊撃隊を援助する気持ちがあるなら、精一杯塩を買い集めることだと言いました。そうして、3人目の老人も塩の購入に乗り出したのですが、それが事の起こりになったのです。その老人は、協和会員である自分の息子が密偵であるとはつゆ知らず、秘密をもらしてしまったのです。当時、日本帝国主義は、「宣撫班」だの「帰順工作隊」だのというものを組織して「帰順工作」をくりひろげていました。そんなことには、協和会の者も一役買っていたのです。敵の密偵であった息子は、父親から聞いた話をすぐさま上司に報告しました。我々が村の老人たちから多量の塩を買い入れようとしていることを知った関東軍特務機関では警察機関に命令をくだして、西崗一帯の商店の塩を全部買い占めさせ、その代わり長春から飛行機で急送させた塩を商店に配達させました。敵が飛行機で運んできた塩には、毒が入れてあったのです。その毒入りの塩を食べるとすぐに死ぬのではなく、徐々に頭が痛み、足の力が抜け、戦闘力を喪失します。金鳳禄の父親をはじめ塩を買い集める老人たちは、そういう内幕を知るよしもありませんでした。敵の計略はきわめて隠密にしかも狡猾に企てられたので、生き馬の目を抜くという商人たちですらまったくその気配を察知することができませんでした。

 2人の老人は、塩をかついで金鳳禄とともに遊撃隊の宿営地に向かいました。彼らが部隊に到着したのは、午後の1時か2時ごろだったと思います。わたしは、彼らの労をねぎらい、塩を各部隊に分配するよう指示しました。そのころ、金正淑は司令部の安全をはかって、いつも酢を携帯していました。司令部の炊事は、彼女が担当していたのです。彼女は、司令部の分としてもらってきた塩に酢をかけてみて、毒が入っているようだと言いました。食べ物に酢をかければ、毒が入っているかどうかがすぐわかります。酢は、毒にすぐ反応します。それで、司令部のメンバーと警護中隊の隊員はその塩を使いませんでした。もともと彼らは、司令官がはしをとるまでは食べ物に手をつけないことを道徳とし規律としていたのです。その日も彼らは、わたしが会議を終えて幕舎にもどってくるのを待って、なにも食べませんでした。わたしは、会議の途中に老人たちが持ってきた塩に毒が入っているようだという報告を受け、休会を宣言しました。焚き火に塩をほうりこんでみると、案の定、青い炎が立ち上りました。塩に毒が入っていると青い炎が立つものです。わたしは、給養担当官に、各部隊に分配した塩を全部回収するよう指示しました。司令部の指令が伝達されると、指揮官たちはあわてふためきました。隊員たちが、すでに塩を少しずつ食べたというのです。一部の部隊では、塩の回収命令を受けても、塩にまで毒を入れたりはしないだろうといって、すぐに出そうとはしませんでした。さらに一部の隊員は、塩を小さな袋に入れて隠すありさまでした。

 とくに問題になったのは、すでに毒入りの塩を食べて奇襲戦に向かった第7連隊と第8連隊でした。我々は、その日の夜に敵を襲い、食糧を確保してから黒瞎子溝密営方面へ向かう計画でした。それで、第7連隊と第8連隊に戦闘任務を与えて送り出したのです。夜が明ければ、我々に毒入りの塩を食べさせた敵が攻めてくることは明らかなのに、基本戦闘部隊を戦闘に送り出したのですから、心配は増すばかりでした。早く呼びもどさねばと考え、伝令を飛ばそうとしていたやさき、戦陣に向かった隊員たちが息も絶え絶えにもどってきました。呉仲洽が、あのように元気をなくして報告するのははじめてでした。ほかの戦友たちも同じでした。足がふらつくあまり、宿営地に到着するまえに倒れてしまった人もいました。敵は、我々が塩を食べて戦闘力を失ったときに奇襲をかけて、一撃のもとに壊滅させるか、全員生け捕りにしようと企んだのに違いありません。狡猾な敵は、塩が何時ごろ部隊に到着し、何時ごろその塩を食べ、また何時ごろになれば全隊員が倒れるかを見越していたはずです。事態はきわめて重大でした。司令部のメンバーを除いた全部隊が毒に冒された状態で敵の攻撃を受ける羽目になったのです。部隊が全滅するか、さもなければ天の恵みで生きのび反日抗戦をつづけることができるかという深刻な状況でした。わたしは、1937年の春、小湯河で数千名の敵に包囲されたときよりももっと胸が騒ぎました。あのときに味わった当惑感をどう表現すればよいのかわかりません。小湯河では、数千名もの大軍の包囲のなかにあっても、隊員が戦闘能力を失っていなかったので、切羽詰まれば正面から敵陣を突破する決心ができていました。しかし、今度は状況が違っていました。中毒状態の部隊が敵と一戦を交えることになったのですから、胸がふさがる思いでした。

 我々は、事態の収拾策を慎重に討議しました。激憤した一部の戦友は、塩を持ってきた老人たちを直ちに処刑しようと言いました。敵の手先だというのです。そうでなければ、毒入りの塩を持ってくるはずはないというのでした。それは道理に合わない判断でした。その老人たちが敵に内通し、それが毒入りの塩であることを知っていたなら、西崗村へ行った遊撃隊員に渡してしまえばすむものを、あえて我々のところにまでかついでくるはずがありませんでした。また、父親が、自分の息子を殺そうと毒入りの塩を持ってくるはずもありません。わたしは、2人の老人を処刑しようという戦友たちをきびしくしかりました。息子にりっぱに戦ってもらおうと決死の覚悟で重い塩をかついできた老人たちをあたたかくもてなせないまでも、処刑しようとはなにごだ、君たちは毒を盛られて理性を失っている、あの老人たちも我々と同じように塩に毒が入っているとは知らなかったはずだ、我々はいま敵の奸計にはめられている、わたしの推測では、毒の効き目が最高潮に達したときに敵が攻めてくるはずだ、だから身動きのできる人は速やかに戦闘準備をととのえ、早急に解毒対策を講じるのだ、ほかに方法はない、夜が明ければ敵があらわれるだろう、現在、戦える人員はいくらにもならないから、きょうこそは決戦をくりひろげなければならないと言いました。しかし、基本連隊の隊員は、体がいうことをきかないというのでした。わたしは彼らに、いくら力が出なくても敵が襲いかかってくるまえにここを離れなければならない、命がある限りみなはってでも安全な森林地帯まで行かなければならない、さもなければ敵機が飛来して爆撃し、地上部隊が砲撃を開始して包囲してくれば我々は全滅すると話しました。こうして、基本連隊を安全な森林地帯まではっていかせることにしました。そして、司令部の護衛兵と機関銃小隊には、万全の戦闘準備をととのえさせました。

 しばらくして、わたしの予測どおり敵が襲ってきました。我々は敵と2日間も苛烈な戦闘を交えました。基本戦闘連隊の隊員は、みな安全地帯に移して寝かし、少数の機関銃小隊と司令部護衛兵で襲いかかる敵を迎え撃って撃退しました。あのとき司令部のメンバーは、まさに決死の覚悟で勇敢に戦いました。

 敵が心身を徐々に麻痺させる毒薬を使ったのをみると、我々を全員生け捕りにしようとしたようです。我々さえ生け捕りにしたら、満州における「共匪討伐戦は終結した」と宣伝したことでしょう。当時敵は、金日成部隊さえ壊滅させれば遊撃隊「討伐戦」は終わると宣伝していたのです。

 我々は敵を撃退したのち、各連隊を避難させた森林の中に病院を設け、緑豆やカボチャを食べさせながら一週間ほど治療に専念しました。その結果、全員が完全に健康を回復しました。

 あの塩事件のとき、ほんとうにわたしは脂汗を流したものです。塩に毒が入っていることがわかったとき、いちばん驚愕したのは金鳳禄でした。自分たち親子が持ってきた塩に毒が入っていたのですから、彼はどんなに困惑したことでしょうか。金鳳禄と彼の父親は、真っ青になってうろたえ、処分を待つ罪人のように口も利けませんでした。わたしは塩をかついできた2人の老人に、我々はあなたがたを少しも疑わないばかりか、誠心誠意援助してくれたことをありがたく思っていると話して安心させました。そして、西間島の物情に明るい金一に、彼らを家にではなく他の安全な土地へ連れていくようにと指示しました。謀略作戦が失敗したばかりでなく、かえって多くの死者を出した敵が逆上して失敗の責任を罪のない老人たちになすりつけ、どんな仕打ちをするかわからなかったからです。遊撃隊員の息子と示し合わせて多量の塩を遊撃隊へ送ったという理由だけでも、敵は金鳳禄の父親と隣の老人を殺害しかねなかったのです。金一は、わたしが与えた任務を責任をもって遂行しました。まず、2人の老人に安全な隠れ家をあてがったのち、家族もそこへ移しました。金一は、老人たちがかついできた塩に毒が入れられたいきさつも探り出してきました。第3の老人の息子が、敵の手先だったのです。

 過ぐる戦争(朝鮮戦争)の時期、保健医療部門に潜入した敵の雇用スパイは、食べ物に毒性物質を入れて患者の生命を奪う残忍な殺人行為をはたらきました。それは、人民の士気をくじき、医療従事者相互間の不信と不和を助長する意識的な犯罪行為でもありました。アメリカ帝国主義は、朝鮮人民を絶滅させるために細菌戦さえも強行しました。

 反革命は、革命を攻撃するのにいつも手段と方法を選びません。20世紀の歴史が示しているように、帝国主義者は洋の東西を問わず、いずれも殺りくの熟練者です。彼らは、他人に拘束されず自主的に生きようとする人びとを抹殺するための技巧と能力をたえず練磨しています。現代帝国主義者はいま、数百の革命家や数万の革命軍を掃滅するための作戦ではなく、社会主義国全体を一時に崩壊させるという途方もない作戦を展開しています。したがって、我々は、彼らの策動につねに警戒心を強めなければなりません。

 抗日革命の時期、山中で塩不足のためにあまりにも苦労したので、わたしは解放後、北部国境地帯から来た人たちに会うたびに塩の供給状況から聞いたものです。いつか厚昌郡の郡消費組合副委員長に会ったとき、郡内の住民が要求する商品でいちばん不足しているのは何かと聞くと、塩だと答えました。わたしは1947年の夏、金剛山でキャンプをして帰ってきた昌城地方の少年に執務室で会ったことがあります。そのとき、その少年も昌城の人たちが塩不足で非常に苦労していると言いました。それで、商業部門の幹部に指示して、山間僻地の住民に塩を十分に供給する対策を立てさせました。両江道地方は、北間島や西間島と同様、海から遠い内陸山間地帯なので、塩が足りないはずです。戦時中、高山鎮に行ってみると、慈江道でも塩が非常に不足していました。それで、一時的後退期の困難な状況ではありましたが、高山鎮の住民にわたしが、じかに塩を供給してやったことがあります。

 幹部は、内陸地帯の住民が塩を切らして苦労することのないよう、日ごろから深い関心を払わなければなりません。鹿牧場では鹿に塩を欠かさず食べさせるべきです。



 


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