金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 青峰の教訓


 <抗日革命の歴史を叙述した書物や教科書には、青峰という同名の史跡地が2つ出てくる。一つは、金日成同志が1939年5月、朝鮮人民革命軍の主力部隊を率いて茂山地区に進出したときに第一夜をすごした由緒深い両江道三池淵郡の青峰宿営地であり、いま一つは1930年代の後半期に抗日遊撃隊員が後方密営として開拓した西間島の青峰である。三池淵郡の青峰については誰もがよく知っている。しかし、西間島の青峰へ行った人はさほど多くない。その密営が苦難の行軍とともに抗日革命史の1ページを占めるようになったのは、そこで革命家の信念と忠実性を検証する重大な事件が起こり、人民革命軍のすべての隊員に深刻な教訓を残したからである。その教訓は、現在も新しい世代に多くのことを教えている。青峰密営での事件について金日成同志が回想した内容の一部をここに紹介する>


 我々は苦難の行軍を開始した後、負傷者と患者を青峰密営に送りました。青峰密営は、我々の後方基地でした。白頭山の周辺と西間島一帯には、そのような後方密営がいくつもありました。青峰密営には、給養担当者がつくったジャガイモもあって、負傷者と病弱な者が数か月は食糧の苦労をせずにすごせる安全なところでした。

 1939年の十三道湾集団部落襲撃戦闘があった後、わたしは戦利品の一部を青峰へ送りました。青峰に手植えのジャガイモはあるにせよ、それだけでどうして旧正月をすごすことができるでしょうか。それで、ふだん口にできない食料品を選んで密営の戦友たちに送ったのです。そのとき荷物をかついで青峰密営に行ってきたのは部隊の連絡員でした。ところが彼は司令部へやってきて、密営で「スパイ団事件」が発生したという驚くべき話を伝えたのです。司令部のメンバーはその話を聞いて、みな目を丸くしました。共産主義者が統率する革命軍隊内で「スパイ団事件」が起きたとすれば、それこそ重大な事態というほかはありません。連絡員は「スパイ団事件」のいきさつを要約した李東傑の手紙とともに、証拠物件として押収したという「毒薬」袋なるものまで差し出すのでした。李東傑の手紙には、女子隊員の金正淑、金恵順、金善、徐順玉などはみな日本帝国主義のスパイであり、彼女らが毒薬で革命戦友たちの殺害を企んだことが判明したという内容がしたためてありました。連絡員の話によれば、青峰へ行ってみると当の女子隊員たちは、縄で縛られており、拷問された跡まで見受けられたとのことでした。

 その報告を受けたときの衝撃は、張捕吏や韓鳳善などの闘士たちが「民生団」に仕立てあげられたときのそれよりも何倍も大きいものでした。みなさんもよく知っているように、「民生団」問題は1936年の南湖頭会議ですでに結末がついていたのです。我々はそれ以来、「民生団」という言葉を口に出すことさえ嫌っていました。「民生団」騒ぎによる損失があまりにも大きく、傷跡があまりにも深かったからです。だというのに、今度は青峰で「民生団」に匹敵する「スパイ団」なるものが摘発されたというのですから、わたしの気持ちはいかばかりだったでしょうか。

 わたしは、はじめから青峰で摘発されたという「スパイ団事件」が、一顧の価値もないでっちあげだと判断しました。女子隊員たちにスパイの烙印を押した密営の指揮官の主張には信頼するに足る証拠が一つもなかったからです。彼らが証拠物件として送ってよこした毒薬というのは、実は歯磨き粉だったのです。わたしは隊員たちが止めるのも聞かずに、その粉を舌先に当ててみたのですが、歯磨き粉に間違いありませんでした。歯磨き粉を毒薬というのですから、なんとあきれた話ではありませんか。

 青峰の女子隊員たちは、革命実践を通じて十分に鍛えられ、点検された人たちでした。彼女らは、みな革命ひとすじに生きてきたのです。彼女らの唯一の理想は祖国の解放をなし遂げることでした。そういう理想をもっていなかったなら、女性の身で銃をにない、かんじきを履き、草根木皮で飢えをしのぎ、婚期になっても嫁がずに、男でも耐えがたいきびしい試練の道を歩むはずがないではありませんか。そのような女性たちにスパイのレッテルを張るというのは、まったくのこじつけであるばかりか、冒涜であり、愚弄であり、犯罪でありました。

 金正淑が、どんな女性であるかについては改めていうこともありません。わたしが一言で保証できるのは、階級的立場や闘争経歴からみて、彼女は敵に内通するいささかの理由もない女性であるということです。日本帝国主義者のために父母兄弟を全部亡くした人が、敵のスパイになるというのは話になりません。金恵順や金善、徐順玉にしても革命的覚悟のできた女性たちでした。彼女らは、悪い連中の手に乗るような人たちではありませんでした。彼女らをスパイに仕立てあげたのも言語道断でした。このような女子隊員たちをスパイとみなすのは、間島で多くの人に「民生団」の濡れ衣を著せて処刑した金成道や曹亜範の妄動と変わるところがありません。

 我々の部隊には、敵のスパイになりさがるような女性は一人もいませんでした。遊撃区の時期も、遊撃区が解散した後も、女子隊員のなかからは一人の裏切り者も出ませんでした。苦難の行軍のときに隊伍をすてて逃げ出した者のなかに女子隊員がいたでしょうか。一人もいませんでした。林水山が投降するときに恋仲であった女子隊員を連れて逃げましたが、その女性も遊撃隊にいたときにスパイ行為はしませんでした。

 女子隊員は、男の隊員より苦労ももっとしました。昨今の家庭での女性の負担を考えれば、誰でもわたしの言うことがうなずけると思います。女性は、男子と同様に社会活動に従事しながらも、家事の重い負担をほとんど一身に引き受けています。我々は女性の負担を軽減するいろいろな施策を講じましたが、いまなお、我々の母や妻、姉の苦労はなくなっていません。

 抗日革命の時期にも、負担は女子隊員により多くかかりました。女子隊員たちは、男子と同様に戦闘に参加しながら、炊事もしなければなりませんでした。炊事道具や食糧も、そのほとんどは女子隊員が背負って歩きました。男の隊員たちが疲れきって、焚き火のそばで泥のように眠りこけているときにも、女子隊員たちは男の隊員の破れた軍服を繕ってあげたものです。破れた服は針と糸で繕えばすみましたが、焦げた服は布切れを当てなければなりませんでした。当てる布切れがないときには、自分のチマの裾を切り取って継ぎ足したものです。わたしはそういう光景を目のあたりにして以来、軍服を供給するとき女子隊員にはチマを2枚ずつあてがうようにしました。女子隊員たちは、男の隊員に劣らず苦難にもよくたえたものです。ある面では、男の隊員よりも辛抱強かったといえます。

 女子隊員の話が出たついでに、崔順山について少し話しましょう。崔順山は、名うての兵器廠担当官であった宋承泌の妻です。彼女は、延吉地方で地下党活動をするかたわら炊事係りも務め、救国軍との統一戦線活動にも参加した古い党員でした。延吉出身の闘士たちは口をそろえて、彼女を責任感の強い強靱な女性だと評価していました。崔順山は遊撃隊に入隊した後も、長らく炊事係りを務めました。ある日、行軍の休止時間に彼女は夕食をととのえようと米をといでいて、手のひらに針が突き刺さりました。その拍子に針は折れて肉に深く食いこんでしまいました。しかし、それを抜く時間の余裕がありませんでした。早く食事の仕度を終えなければ、部隊のつぎの段階の行軍に支障をきたすからでした。崔順山は、その日から手のひらの痛みに苦しめられました。普通の女性なら、当分のあいだ炊事はできないと訴えるはずですが、この剛毅な女子隊員はそのことをおくびにも出さず、針を抜いてくれと頼みもしませんでした。小隊長に食事が遅いととがめられても、弁解しようとしませんでした。自分が炊事から手を放せば、ほかの戦闘員が自分に代わってそれをしなければならないことを知っていたからです。そうこうするうちに、針は手の甲まで貫いてしまいました。彼女は手の甲に針の先が突き出してきたときに、ようやく針を抜いてくれと戦友たちに頼みました。それで、戦友たちが毛抜きで針を抜いてやったのです。折れた針が肉に刺さっているのに、人知れず半月もその痛みをこらえながら戦友たちに食事をつくってやる女性、まさにこれが我々とともに抗日戦争の炎を突きぬけてきた女性闘士のまじめなのです。

 このような女性闘士たちにスパイという恥ずべきレッテルを張りつけるというのは、どう考えても理解できないことでした。密営の責任者である厳光浩は数年間政治活動にたずさわったこともある人なのに、どうしてなんの根拠もなしに女子隊員を疑い、スパイ呼ばわりするのだろうか。彼は自分が縛りあげて丸太小屋に監禁した女子隊員たちが、革命にたいして一点の曇りもない真の愛国者であることを知らないというのか。彼の証言どおり彼女らがスパイであるとすれば、いったいこの世に信頼できる者がいるだろうか。

 李東傑の書面報告を見るだけでは真相をつかむことができず、なにがどうなったのか、まったく判断することができませんでした。わたしは、その日のうちに金平を呼び、事態の真相を調べる任務を与えると同時に、「スパイ団」を「摘発」したという密営の責任者厳光浩と政治責任者の李東傑、それに拘束されている女子隊員全員を司令部に召致するよう指示し、現地へ差し向けました。

 金平が帰隊した後、わたしは事件の関係者に一人ひとり会ってみました。青峰密営で発生した事件は、想像を絶するものでした。青峰密営の責任者は厳光浩でした。わたしが厳光浩を後方密営の責任者として派遣したのは、彼の欠点を直させるための一種の同志的な配慮でした。彼は、思想の面でも作風の面でも重病といえる欠点の持ち主でした。厳光浩は、とうてい黙認しがたい悪習をもっていたのです。それは、分派的な習性でした。分派行動をする者には、自分を買いかぶって人を見下げる悪い癖があります。人を見下げるので、しきりに同志をこきおろし、同志たちのすることを非難するようになります。分派的習性に染まった者には例外なく出世欲があります。そういう人は出世の機会に恵まれなければ、他人を後ろ盾にしたり権謀術数を弄してでも、高位職にありつこうとします。分派分子たちが、野心家だという非難を受けるのはそのためです。厳光浩は、まさにそういう人でした。

 厳光浩は、革命隊伍に加わった当初から野心家の本性をあらわしました。延吉地方で5.30暴動の機に乗じて革命運動に参加した彼は、ひところ独立第1師で中隊政治指導員を務めたこともありましたが、はじめから人望を失いました。さも偉そうにふるまい、いわれもなく戦友をけなしたからです。独善的で革命同志も先輩も眼中にない人間を好く人はいないものです。厳光浩は、反「民生団」闘争までも出世の機会に利用しようとしました。彼は、多くの人を反動と決めつけたのです。「民生団」員を告発し断罪する集会では、彼のはねあがった主張がいちばん声高くひびいたものです。しかし、革命組織は、彼を見捨てませんでした。彼は多くの同志を故意に見放しましたが、組織は彼を寛大に許し、再生の道を開いてやりました。我々が馬鞍山一帯で新しい師団を編成するとき、厳光浩はわたしのところに来て、誠実に仕事をしてこれまでの過ちを改めると誓いました。わたしは、その言葉を信じ、彼を中隊政治指導員に任命しました。ところが、彼はその信頼を裏切りました。彼は、ともすれば隊員たちを怒鳴りつけ、中隊長の仕事を助けるのでなく、一段上にかまえて訓戒を垂れてばかりいました。そして、闘争歴が長いことを鼻にかけて先輩ぶり、骨のおれることには身を入れようとしませんでした。戦場では、一線に立つのではなく、いつも銃弾の及ばない隅にいました。こんな人には、大衆の鑑となり導き手となるべき政治指導員という職務がふさわしくありませんでした。

 こういう理由で、我々は、厳光浩を政治幹部の職責からはずし、改修の機会を与えるために後方密営に送ったのです。わたしは、彼を青峰に送るとき、負傷者の治療と生活条件を保障し、給養担当者たちと一緒に農作に精を出して部隊の食糧を備蓄する任務を与えました。しかし、彼はその任務を怠ったばかりでなく、予備の兵舎を建てるようにという司令部の指示も実行しませんでした。七道溝の奥地で我々と別れて青峰密営へ行った負傷兵と裁縫隊員は、宿所が足りなくてたいへん不便な思いをしました。彼らは、厳冬のさなかに天幕を張ってすごさなければなりませんでした。そのうえ、密営には医薬品や食糧も不足していました。けれども、苦労のなかで鍛えられた遊撃隊員は、いささかも不平を鳴らしたり泣き言をいったりしませんでした。彼らは、敵と血戦をくりひろげている戦友を思い、あらゆる困難をたえぬきました。そして、密営の日課を厳守し、学習も決まりどおりにしました。

 ところが、隠すことほどあらわれるという言葉のとおり、この学習の過程で、厳光浩の有害な思考方式と敗北主義者としての正体が露見したのです。ある日、密営では、南牌子会議の方針にかんする学習討論がおこなわれました。そのとき、厳光浩はロシア革命の経験を実例としてあげながら、どの革命であれ高潮期と退潮期があるものだ、高潮期にはそれに適した戦略を立て、退潮期にはまたそれに適した戦略を立てなければならない、そのためには情勢の変化を見て正確な判断をくださなければならない、そして退潮期の兆しが見えれば退潮期が到来したことを率直に認めるべきである、それでは朝鮮革命はいまどの段階にあるのか、退潮期にある、考えてもみろ、熱河遠征も失敗し、「恵山事件」が起きて革命組織もすべて破壊されたではないか、それでも退潮期でないというのか、このような状況においては「一歩前進二歩退却」の教訓を肝に銘じなければならない、すなわち攻勢と正面対決は避けて有利な機会が訪れるまで退却すべきである、これが革命を救う道であると主張しました。厳光浩は、密営内のすべての隊員にこういう主張を押しつけようとしたのです。熱河遠征と「恵山事件」の余波で革命がかなり萎縮していたときなので、聞きようによってはそれも事理にかなった主張のようにも思えました。

 しかし、密営にいた女子隊員たちは、厳光浩の主張が司令部のそれとは違うことを看破し、即座に彼の主張を論駁しました。客観的な情勢が革命闘争に大きな影響を与えるということはわたしたちも否定しない、だからといってそれを絶対視してはならない、情勢が不利であればあるほど革命家はそれに立ち向かい、禍を転じて福となすために奮起すべきである、これは司令官同志の意志だ、朝鮮の共産主義者は情勢が有利なときにも戦い、不利なときにも戦いをつづけてきた、もし、朝鮮の共産主義者が、情勢が不利なときには隠れていて、情勢が有利なときにだけ活動したとすれば、朝鮮人民革命軍という常備の武装隊伍をもつことはできなかったはずだ、それに厳重な警備の目をかいくぐって国内に進出し、普天堡を討つといった大胆な軍事作戦を展開することもできなかったはずだ、マルクス・レーニン主義は共産主義学説であるから革命活動と実践においてそれを指針とするのはもちろんよいことだ、しかし、司令官同志がいつも強調しているように、マルクス・レーニン主義も朝鮮革命の実情に即して創造的に適用すべきであって、教条的に適用してはならない、あなたは「一歩前進二歩退却」の内容も取り違えているようだ、朝鮮革命が折り重なる難関を打開して発展してきたということを知らないというのか、あなたは現在のような情勢にあっては退却のみが上策だというが、我々に退却できる後方がどこにあるというのだ、我々が退却すれば革命の高潮期は誰がもたらしてくれるのか、南牌子会議で司令官同志が宣言したように、我々は困難に直面したときにこそ、それに立ち向かわなければならない、そうして逆境を順境に変えるべきだと彼女らは主張したのです。そのとき、金正淑が先頭に立って、厳光浩の敗北主義を辛辣に批判しました。彼女は、司令部の路線や作戦上の方針に反する誤った思想にたいしては、いささかも妥協することなく断固たたかいました。彼女は、徹底した思想論者でした。

 女子隊員たちからこのような反撃を受けると、厳光浩はマルクスとレーニンの命題を引き合いに出して、なんとかして自分の主張を合理化しようとしました。そうすればするほど、彼の論旨はますます鼻持ちならないものになってきました。野心家、日和見主義者としての厳光浩の正体は、論争の過程でいっそう明らかになりました。そのときになって女子隊員たちは、彼が夏中ずっと密営にいながら患者の治療の準備や冬越しの準備もせずに、職務に怠慢であったわけがわかりました。しかし、彼女らは、厳光浩に裏切り者とか降伏主義者とかいう政治的レッテルを貼り付けはしませんでした。学習の過程での論争であったので、彼が自分の理論的誤りを認め、同志たちの主張を素直に受け入れたなら、論争はそれで無難に終わっていたはずです。我々は、学習討論の過程であらわれるさまざまな思想的誤りについては、決して問題視しませんでした。人のレベルと準備程度はそれぞれ異なるので、事物現象の理解と把握で一定の差があるものです。すべての人が、はじめから思想的に完璧な人間でありうるわけはありません。人間がもっている思想的な未熟さは、学習と革命の実践を通じて克服され、また、その過程を通じて思想的に鍛えられ円熟していくものです。それゆえ我々は、革命原理に反する不透明な論調があっても、それを糾弾したり批判したりするのでなく、論争の方法であくまで啓発するようにしたのです。ところが、厳光浩は、女子隊員たちの主張を正当なものとして受け入れ、思想改造に努めるのでなく、降伏主義者としての正体を粉飾しようとやっきになり、論争の相手に報復を企てたのです。

 厳光浩は、女子隊員たちを迫害する過程で、その正体を赤裸々にさらけだしました。彼の妄動たるや、間島で反「民生団」闘争がおこなわれたときの「粛反工作委員会」のメンバーの行為と違わぬばかりか、その動機と目的においては、むしろそれよりも卑劣で陰険なものでした。厳光浩が女子隊員たちを迫害したのは、自己の罪状を覆い隠すためでした。彼は、女子隊員たちの口を封ずるために罪をでっちあげ、それを彼女らに転嫁する手口を用いました。女子隊員たちを罪人に仕立てあげれば自分に手出しができないし、司令部に報告することもできないだろうと考えたのです。なんと卑怯で危険な考え方ではありませんか。

 青峰密営には、年少の新入隊員が一人いました。ある日、その隊員が厳光浩の許可を得ずにそっと密営を抜け出したことがありました。それを知った厳光浩は即座に、逃亡者が出たと騒ぎ立て、捜索隊を派遣しました。捜索隊は、密営の付近で焚き火でジャガイモを焼いている新入隊員を見つけました。密営に帰った捜索隊は厳光浩に、新入隊員がちょっと隊伍を離脱したのは逃げるつもりではなく、空腹にたえきれずジャガイモを焼いて食べるためであったとありのままに報告しました。その隊員は、さほどひもじい思いをしたことがなかったのです。しかし、密営を震撼させる事件をでっちあげる機会を狙っていた厳光浩は、とうとうその新入隊員に逃亡者の烙印を押してしまいました。そして、ジャガイモを焼くために火を焚いたというのも敵に合図をするための仕業に違いないと決めつけ、彼にスパイのレッテルまで張りつけました。新入隊員は、それは違うと重ねて抗弁しましたが無駄でした。厳光浩は彼に、敵からどんな指令を受け、それを実行する過程で隊内で仲間にしたのは誰々であるかを吐けと強要し、拷問まで加えました。昨日まで一つ釜の飯を食っていた部下に表彰はしてやれないまでも、「逃亡者」だの「スパイ」だのというレッテルを張って.ひどい拷問まで加えたというのですから、なんと身震いのする話ではありませんか。厳光浩が「スパイ」だと決めつけたその新入隊員は、少々修養が足りないとはいえ、階級意識に徹した青年でした。彼には、隊列から脱出する根拠もなければ、スパイになる理由もなかったのです。にもかかわらず厳光浩は、彼が女子隊員たちを「破壊工作」に引き入れ、密営内の革命同志を毒殺しようとしたという虚偽の自白をするまで拷問をつづけたのです。しまいには、その「自白」を根拠に女子隊員たちを拘束し、暴行を加えるまでにいたりました。

 何年間も対人活動にたずさわり、隊伍の統一団結を唱えてきた厳光浩が、どうしてこれほどまでになってしまったのか、わたしにはとうてい理解できませんでした。後日、彼の罪業を調べる過程ではじめて、彼が醜悪な人間に転落した動機がなんであったかを知るようになりました。厳光浩は、後方密営に派遣されたことを降職と考えたのです。自分を政治幹部の地位から解任した司令部の処置をうらみがましく思ったので、給養担当者として当然すべき仕事もせず、故意に職務を怠慢したというわけです。女子隊員たちとの論争があって以来、彼は敗北主義者としての汚らわしい正体を隠すために、超革命的な要求をつづけざまにうちだしました。警戒態勢を強めるという口実のもとにたびたび非常呼集をかけて病弱な人たちを苦しめるかと思えば、食糧の節約という名目で1日2食の食事を1食に減らすという方法でわざと人びとを飢えさせました。1日1食に切り詰めなければならないほど、青峰密営の食糧事情が逼迫していたわけではありません。米はありませんでしたが、穴蔵にはかなりのジャガイモがあったのです。密営から少し離れた台地の林の中には相当な面積の畑があって、そこでジャガイモや白菜などを栽培していました。厳光浩が任務を忠実に遂行していたなら、全部隊が青峰で越冬することもできたはずです。出世の道が閉ざされたと判断したその瞬間から、厳光浩は革命に嫌気がさし、内外の情勢が複雑かつ困難になると、革命の前途を遼遠たるものと考えるようになったのです。そういう思想的病根が結局、学習討論の過程で露呈するようになったのです。

 厳光浩がこのように危険な専横をきわめていたとき、それを食い止めることのできる唯一の人物は、密営の政治責任者である李東傑でした。第7連隊の政治委員である彼は、職級からすれば厳光浩の上官にあたります。彼は負傷していたので、我々が七道溝の奥地で分散行動に移るとき、彼に密営の政治活動を担当させて青峰へ送ったのです。ところが、李東傑は厳光浩のへつらいと権謀術数に乗せられて、事態の真相と本質を見抜くことができませんでした。もし、わたしが連絡員を青峰に送らなかったなら、厳光浩の謀略は実現し、女子隊員たちは命を落としていたことでしょう。

 事件の実相を調べているうちに、厳光浩は李鐘洛よりも低劣で悪辣な人間であることがわかりました。李鐘洛の犯行は、敵に逮捕されて変節を強いられた後のことです。しかし、厳光浩は、革命隊伍の内部にいながら思想的に腐敗変質し、それを隠すために同志を陥れ迫害するという反動的な行為をしたのです。「民生団」騒ぎで間島の遊撃区が陣痛を経ていた1930年代の前半期を除いては、我々の隊伍内に拷問や刑罰といったものは存在しませんでした。隊伍内で発生する誤りや欠陥は、解説と説得、批判の方法で是正していました。指揮官が隊員を拷問するといった極端な行為は考えることすらできませんでした。ところが、厳光浩は自分の正体が露見すると、隊員との関係を誰が誰をという相容れない敵対関係におき、ためらうことなく彼らを陥れる犯行に及んだのです。彼は、自分が生き残るためには隊員たちをかたづけるしかないと考え、その企てを実行に移すため、少々規律違反をした新入隊員に逃亡者、スパイの烙印を押し、女子隊員たちが使っていた歯磨き粉を毒薬と断じたのです。そして、しまいにはその女子隊員たちまでもスパイに仕立てあげてしまいました。

 厳光浩は桃泉里で数か月、金正淑とともに地下工作をしたこともあるのです。にもかかわらず金正淑をスパイに仕立てあげるとは、無頼漢ならではの乱行といわざるをえません。彼は、金正淑がどんな女性であるかを知りつくしていたはずです。

 厳光浩の実例は、出世欲におぼれると組織も同志も道義も眼中にない悪漢になり、革命の裏切り者にもなることを示しています。当人も告白したことですが、女子隊員たちにたいする謀略が失敗した場合、彼はその責任をまぬがれるために逃走することまで考えていたのです。

 この事件を通しても感じたことですが、革命においては、はねあがり分子、過激派、独善的な人間、面従腹背する者、表面では批判し裏では抱きこもうとする者、気分屋、不平分子、功名・出世主義者などが、いつも厄介な問題を引き起こします。こういう人たちにたいする対策をそのつど立てなければ、大きを禍をこうむることになります。厳光浩事件はまた、日常的に思想的修養を積まなければ、革命勝利の信念が揺らぎ、不平分子、意志薄弱な人間となって少々の難関にも屈し、しまいには敗北主義者となって革命闘争に莫大な弊害を及ぼすという教訓を残しています。

 厳光浩がでっちあげた「スパイ団事件」は、我々の隊伍の思想・意志の統一と道徳的・信義的団結を根底から切り崩しかねない重大事件だったといえます。それゆえ、我々は、厳光浩の問題を司令部党委員会で慎重に検討した後、北大頂子で開かれた指揮官・兵士大会で大衆審判にかけました。青峰密営で起こった事件の内容が具体的に公開されるや、全将兵は最悪の逆境にあっても信念を曲げず、我々の路線を固守した女子隊員たちを支持しました。それとは反対に、厳光浩と鋭い政治的眼識をもって事態の本質を見抜くことができず、その犯罪を黙認した李東傑にたいしては、人民革命軍の名で処刑することを要求しました。厳光浩は最初、自分の罪過の弁明にきゅうきゅうとしていましたが、大衆の糾弾を受けてはじめて犯行を認め、涙を流しながら助命を哀願しました。

 それとは対照的に、李東傑は最初から一言も弁明せずに自分の誤りを率直に認め、処刑してくれと言いました。それほどに、彼は大衆の批判を素直に受け入れ、自分の非を心から反省したのです。李東傑は、気骨があるうえに人情味もあって好感のもてる人でした。政治活動や地下工作では、ひとかどの実力者でした。わたしが南牌子会議で呉仲洽を第7連隊長に任命したとき、彼をその連隊の政治委員に任命したのは、その資質と豊富な政治活動の経験を重く見たからです。こういう人が、下級の指揮官に翻弄されるという誤りを犯したのは、密営にいるあいだ厳光浩の部屋を宿所とし、彼のへつらいに乗せられたうえに、隊員との活動をおろそかにしたためでした。もっとも、彼は重傷を負っていたので、対人活動ができる機会はあまりなかったでしょう。しかし、自分が外に出られないなら、隊員を部屋に呼んででもたびたび会うべきでした。密営で「スパイ団事件」が発生したと厳光浩が騒いでいたとき、李東傑が一人の隊員だけでも会っていたら、すぐに真相を突き止めることができたはずです。ところが李東傑は、厳光浩の報告を受けた後、一人の隊員にも会わず、彼が専横をほしいままにできるように放置しておきました。厳光浩が新入隊員を審問するといえば審問させ、また女子隊員たちを拘束するといえばそうさせました。李東傑は厳光浩の話を聞くだけで、隊員たちの言い分は聞こうとしませんでした。ですから、厳光浩のような野心家の奸計から隊員の政治的生命を守ることができなかったのです。まさにここに、政治幹部としての李東傑の罪責があったわけです。そのため、すべての将兵は、厳光浩に対するのとまったく同じ観点から李東傑を見たのです。政治幹部が、大衆と呼吸をともにしなければ、こういう結果をまねくものです。

 人びとの政治的生命をあつかう幹部は、大衆と呼吸をともにすることを片時も忘れてはなりません。大衆と呼吸をともにするというのは、人民がシャベルを手にするときは自分もシャベルを手にし、人民が粟飯を食べるときは自分も粟飯を食べ、人民とすべてを分かちあうということです。大衆と呼吸をともにしない人は、人民の感情や心理がよくわからず、彼らの要求と志向がどんなものであるかもわかりません。我々の一部の幹部には、自分を批判した人たちを陰に陽に迫害し、批判の度合いによっては、なんの罪もない人びとを政治的にもてあそぶ弊害が見受けられます。はなはだしきにいたっては、自分にこびへつらう何人かの話だけを聞いて人びとの運命にかかわる問題を軽々しく処理することさえあります。幹部が職権を悪用して人びとの政治的生命を勝手に扱うならば、人民の恨みと憎しみを買い、党と大衆を切り離すことになります。

 わが党は仁徳政治をおこなう党であり、わが国は仁徳政治の恩恵のもとに万人が一つの大家庭のなかでむつまじく暮らす国です。我々の仁徳政治は、人びとの肉体的生命のみでなく政治的生命をも保護し、見守るべき使命を担っています。わが党がもっとも重んじるのは、人びとの政治的生命です。思想と理念を同じくする人びとが、ひとところに集まってなすのが、すなわち組織であり党であり、各人はその集団のなかで政治的生命を授かるようになります。数百万の大衆が持している政治的生命が、そのまま組織の生命となり、党の生命となる理由がまさにここにあるのです。したがって、人びとの政治的生命をみだりに傷つけたり、それに墨を塗りつけたりするのは、とりもなおきず党の寿命を縮めることになります。党がその最高綱領を実現するときまで生き長らえるためには、対人活動を正しくおこない、人びとの政治的生命をりっぱに保護しなければなりません。これが、ほかならぬ青峰の教訓です。みなさんは、つねにこの教訓を銘記しなければなりません。

 李東傑の誤りは重大なものでしたが、許せるものでした。彼が誤りを犯したのは、政治責任者としての自覚がくもり、厳光浩にあざむかれたためでした。彼は主動的にではなく、受け身の立場で厳光浩に同調し、その謀略を黙認したのです。我々はこういった点を参酌して、李東傑を降職処分に付することにとどめました。厳罰をまぬがれた李東傑はわたしを訪ねてきて、処罰が軽すぎると言いました。

 「もっと重く罰してください。わたしをいちばん危険なところに送ってください。わたしの過ちは、血を流し、命をなげうたなければ償うことができません。それでこそ、戦友たちもわたしを許してくれることでしょう。そして、以前のように同志と呼んでくれるでしょう」

 李東傑はその後、司令部が与えた任務を忠実に遂行しましたが、敵に逮捕され、8.15解放の前夜に西大門刑務所で絞首刑に処されました。抗日革命闘争の時期、彼は李東傑という本名以外に金俊という名も使っていました。



 


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