金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 苦難の行軍


 
Ctrlキー+マウス利用で拡大が可能です 


 <1938年の12月初から翌年の3月末にかけての、濛江県南牌子から長白県北大頂子にいたる朝鮮人民革命軍主力部隊の行軍を苦難の行軍という。この行軍があってから、いつしか半世紀以上の歳月が流れた。しかし、朝鮮人民は、いまもこの行軍を忘れていない。金日成同志がこの行軍を通じてうち立てた偉大な功績と抗日遊撃隊員の発揮した不屈の革命精神は、朝鮮人民が万代にわたって継承すべき大切な遺産となっている。
 この節では、金日成同志が歴史家と作家に語った苦難の行軍についての回想談をまとめて収録した>


 これまでみなさんは、わが党の革命伝統を体系化し宣伝するうえで多くの仕事をしました。作家たちも、革命伝統をテーマにした教育的価値の大きい文学作品をたくさん創作しました。みなさんから苦難の行軍について話してほしいという要請を受けたのは久しい前のことです。それで、きょうは少々時間をかけて話すことにします。

 我々が苦難の行軍を断行した1938年の末から1939年の初めは、抗日武装闘争史上もっとも困難な試練の時期でした。当時の情勢からしてみれば、我々が大部隊を率いて祖国に進出できる状況ではありませんでした。厳光浩のような者が、革命の退潮期が到来したと公然と口にするほど、政治情勢は我々にとって非常に不利でした。そのような時期に大部隊で国内進出を断行するというのは事実上大きな冒険でした。それにもかかわらず、我々は、大胆に国内に進出するため鴨緑江沿岸への行軍を断行しました。なぜか。それは、朝鮮革命に差し迫った逆境を順境に転ずるためでした。座して心配ばかりしていては、問題を解決することができませんでした。もちろん、密営のようなところに引きこもっていれば、ひと冬を無事にすごすこともできたし、兵力を維持することもできました。しかし、そのような方法で現状を維持していたのでは、革命の難局を打開することができないではありませんか。それでわたしは、困難を覚悟のうえで苦難の行軍を断行し、祖国に進出することにしたのです。革命をひきつづき高揚させるには、それしか方法がありませんでした。

 1938年は、西間島地区と国内人民の士気が落ちていた時期です。「恵山事件」で多くの地下組織のメンバーが逮捕されると、国内の革命運動は試練にさらされるようになりました。そのうえ、敵は、人民革命軍は全滅したと宣伝攻勢を強めていました。全滅なぞ嘘八百の宣伝でしたが、それが少なからぬ人をまどわせました。敵の宣伝がデマだということをよく知っている人たちでさえ、もしやと思わざるをえないほど、人民の耳に入るのは気のふさぐうわさばかりでした。ひとかどの革命家までも信念を失い、白頭山の方をうかがうばかりでした。

 宣伝活動では、敵側が我々よりもずっと有利な条件をそろえていました。彼らは、強力な宣伝手段をもって合法的に宣伝活動をすることができました。いつどこで革命軍が「全滅」したという衝撃的な記事をもっともらしく新聞に載せて数万部発行すれば、数千数万の人がそれを読みます。放送もその宣伝に加わりました。我々の宣伝手段といえば、せいぜい隊内で発行される数種の新聞と雑誌、扇動ビラ、撤文くらいのものでした。それに、各地方の地下組織が発行するいくらかの印刷物があるだけでした。しかし、それさえも非合法的な方法で、苦労して配布しなければなりませんでした。1枚のビラをまいたために命を落とした愛国者もいました。地下組織のメンバーは、背のう1つほどのビラをかついで国内に入るにも、死を覚悟しなければなりませんでした。

 敵が革命軍は全滅したと宣伝しているとき、それがデマであることを明かし、革命軍が健在であることを宣伝する最善の方法は、国内に進出して銃声をあげることでした。銃声をあげさえすれば、地下組織をたくさんつくることも可能でした。西間島から来た連絡員の話によると、長白地区の地下組織はほとんど破壊されたとのことでした。そして、国内でも多くの人が検挙され、難を逃れた組織のメンバーはどこに身を潜めたのやら連絡をつけるすべもないとのことでした。そういう報告を受けたわたしは、いくら破壊がひどくても切り株ぐらいは残っているはずだ、切り株だけでも残っていれば組織を再建することができるだろうと考え、ともかく長白へ行って組織を収拾してから祖国に進出することにしました。

 そのとき一部の人は、馬塘溝でのようにひと冬密営にこもって軍事・政治学習をし、暖かくなってから新しい作戦を展開してもよいではないか、厳冬のさなかにわざわざ苦労を買って出る必要はないではないかと主張しました。しかし、わたしはそんな主張を受け入れることはできませんでした。国内の反日闘争がきびしい試練を経ているときに、それをどうして座視することができましょうか。苦労は革命の初期からつきまとってきたことで、いまさら始まったことではありませんでした。我々が歴史に類を見ない苦労をしたのは、1度や2度ではありませんでした。国内の反日闘争が試練に直面し、国内の人民が白頭山だけを頼みにしているというのに、みずから祖国解放の使命を担って立った革命軍がそれを対岸の火を見るようにしているわけにはいかないではありませんか。草の根や木の皮で食いつないででも祖国へ行こう、犠牲もありうるし紆余曲折もあるだろう、銃剣の林を突き抜けて進まねばならぬ道なのだから艱難辛苦がないはずはない、そうであっても大きく踏みだしてみよう、思い切って体当たりしてみようというのが、そのときのわたしの気持ちでした。

 以上話したことが、苦難の行軍を断行することになった動機といおうか、わかりやすく言って、苦難の行軍の目的は国内を大きくゆさぶることであったといえるでしょう。

 周知のように、抗日武装闘争の過程には苦しい行軍が何回もありました。1932年の秋にわたしが部隊を率いて安図から汪清に向かったときの行軍もそうであり、第1次北満州遠征を終えて間島に帰ってくるときの行軍もそうであり、1937年の早春の撫松遠征も苦しい遠征でした。しかし、濛江県南牌子から長白県北大頂子にいたる行軍は、その期間からしても、困難さからしても、それまでの行軍とは比較にならないほど困難な行軍でした。行軍期間が百余日にわたったので「100日行軍」とも呼ばれています。実際の行軍期間は110余日にも及びました。あまりにも苦労がひどかったので、この行軍を「苦難の行軍」と名づけたのです。

 わたしは、これまで行軍について書かれた本をいろいろ読みました。『鉄の流れ』のような作品は映画でも見たし、小説でも読みました。しかし、苦難の行軍のように困難で曲折の多い行軍について書いた本は、いまだかつて読んだことがありません。中学時代に『鉄の流れ』という長編小説を読んだときは、この世にこれほど苦難にみちた行軍があるものだろうかと考えさせられたものです。当時わたしは、折り重なる苦難を乗り越えていく主人公コジュフの姿に深い感銘を受けたものです。ところが苦難の行軍を体験してからは、それも我々の体験した苦労に比べればなんでもないと考えるようになりました。

 苦難の行軍の内容を一言で要約すれば、厳酷な自然とのたたかい、ひどい食糧難と疲労とのたたかい、恐ろしい病魔とのたたかい、奸悪な敵とのたたかいが一つにからみあったものであったといえます。これにいま一つの深刻なたたかいがともないました。それは、苦難にうちかつための自分自身とのたたかいでした。初歩的には生き残るためのたたかい、ひいては敵にうちかつためのたたかいが、この苦難の行軍の基本内容でした。じつに苦難の行軍は、最初から最後まできびしい試練と難関の連続でした。

 その年は中秋の前に初霜が降り、中秋が過ぎたかと思うと、もう初雪から大雪になりました。初冬からあまりの寒さにオノオレカンバの木が凍って裂けたといううわさが立ったくらいです。それに食糧難と萎縮症まで重なり、休むことも眠ることもできない状態で一日に何回も敵と戦わなければならなかったのですから、その苦労は筆舌につくしがたいものでした。南牌子から北大頂子までは徒歩で5、6日で行ける距離です。ところが、我々は数知れない戦闘をおこなわなければならなかったので、100日余りもかかってやっとそこにたどりつくことができたのです。

 みなさんも苦難の行軍の路程図を見たことでしょうが、どうでしたか。その行軍路は、複雑きわまりないものと思えたはずです。苦難の行軍は、肉体的な負担や苦痛の面からしても、それまでの遠征とは比較にならないほど壮大な行軍でした。

 それでは、苦難の行軍が朝鮮人民革命軍の活動史において類例のない困難な行軍になったのはなぜかということです。その理由は、ほかでもありません。敵のたえまない追撃と包囲のなかで行軍が進められたからです。その追撃と包囲がいかに執拗なものであったかは、みなさんには想像もつかないでしょう。日本帝国主義者は、「討伐」の総力を朝鮮人民革命軍の主力部隊に集中しました。第1軍は、壊滅状態で生き残っているのはわずかにすぎない、残っているのは金日成部隊だけだ、総力をあげて金日成部隊の「討伐」に取り組めと騒ぎ立てました。敵は通信手段として伝書鳩まで利用するなどして、戦闘に熱をあげました。敵はどのような戦術を用いたのか。革命軍が、休むことも食べることも眠ることもできないようにすることでした。このような戦術のもとに一度に数百人もの兵力を次から次へとつぎこんできたので、日に20回以上も戦闘を交えたこともありました。

 あのとき、我々が以前の遠征行軍のときのようにひそかに南牌子を発っていたなら、あれほどの苦労はしなくてすんだはずです。しかし、我々は敵に気づかれないようにひそかに行軍を開始することはできませんでした。行軍の第一歩から銃声をあげざるをえませんでした。行軍に必要な食糧を確保するためにも交戦するほかなかったのです。それで、密営を発つとすぐある集団部落を襲撃しました。その銃声を聞きつけて以来、敵は我々に食い下がって離れませんでした。第2方面軍が、どの方面に向かっているかを察知した敵が、我々をすておくはずはありませんでした。南牌子密営を包囲していた敵はすぐに追撃を開始しました。敵の機動はすばやいものでした。我々が20キロほど強行軍をして食事の支度をしているとき、もう敵が襲いかかってきました。ですから、食事どころではありません。仕方なくといだ米を背のうに収めました。そんなことが1度や2度ではありませんでした。戦闘をともなわない行軍なら、なにもあれほどまでやきもきすることはなかったでしょう。追撃と包囲がつづき、そういう状況下で間断なく戦闘をすることになるので、なおさら骨がおれたわけです。行軍の最大の困難はまさにここにありました。

 あのとき、我々が直面したいま一つの大きな試練は食糧難でした。苦難の行軍時に食糧難にあったのはいろいろな原因によります。我々はもともと1938年の秋に、ひと冬をすごすのに十分な食糧を準備しておきました。しかし、南牌子での会議のあいだに、多くの食糧を消費し、また残った食糧は先に担当地域へ向かう部隊に全部分け与えたのです。冬のさなかなので、山菜や草の芽にありつくこともできませんでした。敵の追撃がそれほどでもなければ、山の鳥獣をしとめて生肉ででも食いつなぐことができたのですが、銃声をひびかせては危ないので、そうするわけにもいきませんでした。一度だけは、わたしが熊狩りを許したことがあります。大木の空洞の中で冬眠中の熊を見つけた呉白竜が、なんとか1発撃たせてほしいというので、近辺に敵がいないことを確かめ、1発でしとめる自信があるなら撃てと命じました。彼は、1発で雄牛ほどの大熊をしとめました。行軍の初期に、隊員たちは1日に2食の粥で間に合わせました。しかし、食糧の予備が底をついてくると、すぐに1日1食に減らしました。しまいには、それさえも口にできなくなり、雪をほおばりました。食料らしきものはなにも口にできないので、目がよく見えなくなりました。休憩が終わって立ち上がると、目の前がぼうっとして足を踏み出すことができないありさまでした。それで、わたしは解放後、幹部たちに会うたびに、空腹の苦しみを味わってみなければ米や農民のありがたさはわからない、飢えを知らない人は革命について知っているとはいえないと話したものです。

 ある日、わたしの許可を得て呉白竜が七道溝の奥地の木材所を襲撃し、数頭の馬を引いてきたことがあります。食糧が底をついたときだったので、我々は馬肉で飢えをしのぐことにしました。敵に包囲されていたので、それを焼くこともできず、塩もつけずに生のまま食べたのですが、二食目からは吐き気がして喉を通りませんでした。生肉を食べたので下痢を起こし、飢えていたときよりも苦しい思いをしました。隊員たちは下痢に苦しめられながらも、生の馬肉を食べつづけました。食べられるものはそれしかなかったので、やむをえませんでした。しかし4、5日後には、凍りついたその馬肉まで食べつくしてしまいました。抗日革命闘士のなかに背の低い人が多いのは、食べ盛りのころに必要な栄養分を十分に摂取できず、苦労を重ねたことにも起因しています。苦労をしすぎたので、背が伸びなかったのです。抗日武装闘争の時期、我々は食べ物らしいものを思うように口にすることができませんでした。山菜や草の根、木の皮、こうじ、米ぬか、酒かすといったもので食事に代えることが多かったのです。粗食することが多いうえに、それさえ不規則だったので、消化器官がやられないはずがありません。

 カストロが訪朝したときわたしに、抗日武装闘争の時期に食糧や被服、寝所はどのようにし、零下40度もの酷寒をどうしのいだのかと聞きました。それで、苦難の行軍当時の食糧難と酷寒の苦痛についても話したものです。カストロは、わたしの話を聞いてたいへん感心した様子でした。彼が遊撃戦をしたときは、我々のような苦労はしなかったようです。キューバは、中国の東北地方や朝鮮とは違って非常に暑い国です。それに食べ物も豊富です。

 わたしが山中で戦ったときいちばん心が痛んだのは、戦友たちを十分に食べさせられず、婚期の隊員に結婚もさせてやれず苦労ばかりさせることでした。わたしがいまここでいくら苦難の行軍の困難さについて話しても、体験者でないみなさんにはその実相がわからないでしょう。行軍の困難さについては、路程をたどって具体的に話すことにしましょう。

 敵は、はじめから「猛攻長追戦術」を用いました。さかんに攻め立て、しつこい追い討ちをかけるという意味です。いうならば、猛烈を攻撃に執拗な追撃を組み合わせた戦術です。敵の攻撃と追撃が執拗をきわめたので、我々は炊飯のいとまもなく、生米を噛みながら行軍をつづけなければなりませんでした。「猛攻長追戦術」の基本は、ダニのようにしつこくつきまとって相手を苦しめる「ダニ戦術」です。「ダニ戦術」は、「討伐隊」をあらかじめ要所要所に配置しておいて遊撃隊があらわれたら攻撃し、いったん遊撃隊を発見したらどこまでも食い下がって離れずに掃滅するという戦術です。この戦術は、遊撃隊が休むことも眠ることも食べることもできないように追いつづけて攻撃し、精根つきはてて全滅にいたらせることを狙って考案したものです。敵は交替で十分な休息をとることができましたが、遊撃隊は休むことも食べることもできずに戦いつづけたのですから、その困難たるや言いしれぬものでした。

 昔の兵書に、優勢な敵の交替式長距離追撃戦にかかれば敗戦は必至であるから、そういう窮地に陥らないようにする大将が戦上手な大将であるというくだりがあります。いわば、そんな策略にはまったら手も足も出ないということです。ところが、我々はまさにその策略にはまってしまったのです。四方八方から敵がダニのように食いついて離れないのですから、本当にたいへんなことになってしまいました。我々は、深い落とし穴から抜け出る妙案を考えださなければなりませんでした。それで考えだしたのがジグザグ戦法でした。わたしは連隊長たちを呼びよせ、これからジグザグに行軍することにする、そして、曲がり角で待ち伏せて敵があらわれたら機関銃を撃ちまくるのだ、そうすれば、日本の「ダニ」を払いのけることができると説明しました。ジグザグ戦法は、背丈を越すほどの雪が積もった満州の山地で、追撃してくる敵を討つ最適の戦法でした。その年の冬は、まれに見る大雪で、先に立つ人が雪を踏みかためて道をつくらなければ行軍をつづけることができませんでした。あまりにも雪が降り積もったので、いかに強壮な隊員でも5、60メートルほども進めば力がつきて座りこんだものです。それ以上に雪が深いところでは、体を横転させながら道をつくったり、トンネルを掘って進んだりしました。雪があんまり深いところでは、隊員たちの脚絆をほどいて一本に結び、みながそれをつかんで行軍しました。そうして落伍者が出るのを防いだのです。いずれにせよ、敵は我々がつくったジグザグ路を進んでくるほかありませんでした。行軍縦隊のしんがりをつとめた呉仲洽は、ジグザグ路の曲がり角ごとに機関銃を携帯した2、3名の戦闘員を待ち伏せさせておいて、敵を要撃させました。そして、敵が死体を処理するあいだに伏兵要撃班を移動させ、敵が近づいてくるとまた同じ方法で掃滅しました。敵は我々がつくった一本道を進んでくるので、そのたびに要撃されて守勢に立たされ、多数の死者を出さざるをえませんでした。反対に、我々は主導権を握り、敵に連続強打を加えることができました。

 我々の部隊は雪中行軍をつづけ、1939年の1月初には、ついに長白県七道溝の奥地に至りました。そこまで来るあいだに、臨江県腰溝集団部落襲撃戦闘、螞蟻河付近戦闘、王家店襲撃戦闘をはじめ、多くの戦闘をおこないましたが、それはみなさんもよく知っていると思います。

 日が経つにつれて、敵はより多くの兵力を「討伐」に繰り出しました。追撃を重ねるほどに死傷者は増えましたが、彼らは新しい部隊を投入して執拗に追撃してきました。敵は予備の兵力が無尽蔵であったから、何百人かの死者を出したところで痛くもかゆくもなかったのでしょう。

 遊撃隊員たちは、行軍しながらも眠り、夢まで見たものです。歩きながら眠り夢まで見たくらいですから、その疲れはいかほどであったでしょうか。我々の行方を探そうと敵の飛行機が偵察しにくるので、我々は焚き火もろくにたけませんでした。それは、現在国営5号農場で農薬散布用に使われているような飛行機でしたが、ともかく飛行機には違いありませんでした。それが毎日のように飛んできては、我々の行方を探知して地上の部隊に連絡したのです。

 ある日、我々の行方を探し当てた敵は、人民革命軍の行軍縦隊に蜂の群れのように襲いかかってきました。前にも敵、後ろにも敵、横にも敵、空にも敵という状況でした。あまりにも急迫した事態に直面したので、わたしは前方の敵は機関銃小隊に掃滅させ、背後の敵は第7連隊に牽制させ、残りの隊員は側面突破の戦法で敵の包囲から脱出することにしました。こうして、そのときはかろうじて危機を脱することができましたが、それも1、2回のことであり、いつもそんな綱渡りをするわけにはいきませんでした。方面軍の大兵力で集団行軍をするので、不都合な点が少なくありませんでした。まず行軍の痕跡を消すのがむずかしく、つぎに食糧を調達するのが困難でした。数十人もの人が精いっぱいかついできた食糧も2、3日経つと底をつくありさまでした。食べることも休むこともできずに戦いつづけてきた隊員たちは、行軍の途中でばたばたと倒れる始末でした。

 どうすれば、全員無事に長白に行き着くことができるだろうか。わたしは思案の末、集団行動から分散行動に移ることにしました。しかし、分散したからといって、万事がうまくいくわけではありませんでした。分散すれば、またそれなりの負担と苦衷があるわけです。そのときわたしは、第2方面軍をいくつかの方向に分けて活動させ、わたし自身は第7連隊と一緒に行動する考えでした。ところが、幹部会議に参加した指揮官たちはみな、わたしが第7連隊と行動をともにすることに反対しました。彼らは、司令部は七道溝の奥地の密営のうちでもっとも安全な青峰密営に入るべきだと主張しました。彼らがこう主張するのは、わたしの身辺の安全をはかるためでした。我々の部隊のうちでもっとも頻繁に戦闘をするのが第7連隊なのに、彼らと行動をともにしてはわたしの身辺が危険にさらされるというのです。わたしは、指揮官たちの主張に同意することはできませんでした。青峰密営には、負傷者と病弱な人だけを送ることにしよう、朝鮮人民には戦う金日成が必要なのであって、腕をこまぬいて隠れている金日成は必要でないと言うと、指揮官たちはそれ以上反対できませんでした。結局、我々は、方面軍を3つの方向に分散することにしました。司令部は警護中隊と機関銃小隊を率いて青峰密営を経て佳在水方面に向かい、呉仲洽の第7連隊は長白県上崗区一帯に進出して活動し、第8連隊と独立大隊は撫松県東崗一帯で活動することにしました。

 方面軍が分散行動に移ったときから、苦難の行軍は第2段階に入ったといえます。いまでは昔話になりましたが、あのときわたしは本当に心が痛んだものです。司令部と別れる戦友たちはみなさびしがり、涙を流しました。彼らは警護中隊の隊員たちに、口々に司令官をしっかり守ってくれと重ね重ね頼みましたが、そのあつい決死擁護の精神にはわたしも涙をこらえることができませんでした。隊員のなかには、ぼろぼろの服から肌がのぞいている人もあり、すりきれた靴の代わりに足に脚絆を巻きつけたり、牛皮をパルサゲ(軍靴を履くときに素足を包む布切れ)のように巻いている人もいました。そんなありさまでありながら、自分のことよりも司令官の身辺を気遣うのですから、涙が出ないわけがありません。あとでわかったことですが、呉仲洽は別れるとき呉白竜に、自分たち第7連隊が敵を誘導していくから、きみたち警護中隊は絶対に戦闘を避けるのだ、そして、なんとしてでも司令官を青峰密営にとどまらせるようにと頼んだとのことです。

 苦難の行軍のときに司令部の安全をはかって呉仲洽が発揮した犠牲的精神と忠実性をわたしはいまも忘れることができません。司令部に危険が及ばないようにするために、彼は七道溝の奥地を発ったそのときから追撃してくる敵を自分たちの方に引きつけながら、苦しい戦いをつづけました。自分たちを司令部に偽装したので、あらゆる負担を一身に担うことになったのです。敵がわたしを捕らえようと血眼になっているときに、彼らが金日成を防衛している司令部の集団を装ったのですから、敵がいっそうやっきになって追撃してくるのは当然でした。あのとき呉仲洽の連隊は、1週間余りも穀物を口にできない状態で敵を誘引しながら、たえまなく戦闘を展開したそうです。彼は、紅頭山戦闘のときにも遠方で銃声を聞いて駆けつけ、司令部をりっぱに防衛しました。彼のおかげで、我々は敵にそれほど痛めつけられませんでした。司令部に集中していた敵の兵力が分散したからです。しかし、食糧難だけはどうすることもできませんでした。我々は飢えにたえながら青峰方面に向かって行軍をつづけました。青峰には、わたしが給養担当者を送って栽培させたジャガイモがあったのです。ジャガイモがまだそのまま畑にあるなら、それを食べながら数日なりとも隊員たちを休ませる考えでした。あのとき我々は食料を切らして飢え死にするところでした。

 ところが、我々は青峰付近で思いがけないアワ畑に出ました。あたりの地形地物を確かめてみると、春に我々が新台子密営に向かう途中、種をまいておいた畑でした。おそらく山奥に来てアヘンを栽培していた人が耕作した畑だったのでしょう。あのとき、畑で種まきをしていた主は、遊撃隊員の姿を見るとあたふたと逃げてしまいました。匪賊か日本軍と思ったのでしょう。畑の主が逃げ出すのを見て、隊員たちはたいへんすまなく思いました。それでわたしは、こわがって逃げ出した人だから種まきをしにもどってはこないだろう、わたしたちのためにこういうことになったのに畑を1年間遊ばせておくわけにはいかない、わたしたちが種まきをして、秋に畑の主が来て取り入れができるようにしてやろうと言ってアワを植えさせたのです。ところが、その畑のアワが取り入れられないまま残っていたのです。そのとき、雪をかぶったアワの穂を見て、隊員たちはどんなに喜んだかしれません。ある隊員は戦友たちに、この世に“神様”がいるというのは本当らしい、“神様”でなかったら死にかかったおれたちを助けてくれるはずはないと冗談を言いました。するとほかの隊員が「将軍、いまは“神様”も革命軍の味方です」と口ぞえをしました。実際は我々が“神様”のおかげをこうむったのではなく、我々自身のおかげをこうむったわけです。あのとき畑の主が逃げ出すのを見ながら、我々が種まきをしないで通り過ぎていたら、こんな幸運には恵まれなかったでしょう。

 もともと我々には、新しい宿営地に到着すると畑を起こしてアワやジャガイモ、カボチャなどを植える習わしがありました。宿営地から少し離れた平地の土を掘り返して種をまき、後日その場所が見つけられるように目印を付けておいたものです。すると伝令たちは、将軍、今後ここにまた来られるのですかと聞きました。帰ってきもしないところに種まきをしてもしかたがないという意味でした。わたしは、来るかもしれないし来られないかもしれない、十中八九は来られないだろう、しかし、我々は再びこないとしても、連絡員や小部隊が来るかもしれないではないか、彼らがこんな無人地帯を通りかかって空腹を感じたときに、ジャガイモやカボチャにありつけたらどんなに喜ぶことだろうと話したものです。我々は部隊が一度通過したところに、1号道路、2号道路、3号道路、15号道路といった番号を付けておきました。工作任務を果たして帰ってきた連絡員や小部隊の隊員たちに、どの道を通ったのかと聞くと、3号道路だとか15号道路だとか答え、食糧が切れて苦労しなかったかと聞くと、以前、行軍の途中、将軍が宿営地に起こさせた畑のカボチャを煮て食べたとか、ジャガイモを掘り出して焼いて食べたと答えたものです。抗日革命の時期の食糧難はひととおりのものではなく、我々は白樺の脂(やに)まで食べました。白樺の脂は薬剤として使っただけでなく、食糧の足しにもしました。

 我々は雪の中から1本1本苦労して集めたアワの穂をつき、粥をたいて食べました。もちろん、踏み臼も我々が即席でつくったものでした。1週間ほど粥を食べると、多少元気が出てきました。しかし、そのアワもすぐなくなってしまいました。食糧を手に入れる唯一の方法は、青峰密営に行って各自が背のうにジャガイモを詰めてくることでした。

 青峰密営に向かう途中に川がありました。すぐ川を渡らなければならないのに、川の水が凍っていないので渡ることができませんでした。深い山奥の谷川は、もともと冬でも真ん中のあたりがよく凍らないのです。橋を渡ろうにも敵の歩哨が見張っていそうなので、すぐには決断をくだすことができませんでした。しかし、橋を突破するしか方法はありませんでした。我々は決死の覚悟で一人ずつ橋をはって渡りました。我々一行が橋を渡り終わると、すぐに敵が追撃してきました。それで戦闘がはじまったのですが、我々は敵を尻目に、すばやく山に登りました。その山の上にジャガイモ畑があったからです。わたしは、追撃してくる敵を牽制しているあいだに、一部の隊員を割いてジャガイモをかつがせる考えだったのです。ところが、山の上には家もなく、ジャガイモもありませんでした。密営にいた給養担当者たちがすっかり食べてしまったようでした。いつの間にか追いついてきた「討伐隊」は、機関銃掃射を浴びせてきました。事態は急迫していました。わたしは隊員たちに、谷間に抜けて向こうの小高い平地におりるのだ、おりていくうちに日も暮れるだろう、そして道も見つかるはずだ、雪が深く食料もないうえに「討伐隊」がしつこく追ってくるから大道に出て強行軍をし、遠くに抜け出さなければならないと指図しました。

 我々は強行軍の途中で山林部隊の兵営を発見しました。将卒たちはみな銃声に驚いて逃げてしまい、兵舎には誰もいませんでした。ところが、その兵営にはばら肉をはじめ食べ物がたくさんありました。何人かが、これは日本軍が毒を盛った食べ物らしいと言いましたが、そうではなさそうでした。オンドル床に賭博の道具が転がっているのを見ると山林部隊の兵舎に間違いなく、彼らが食べ残して逃げたのは明らかでした。オンドル床もぬくもりがありました。敵の追撃さえなければ、ぐっすりひと眠りして疲れを解きたくなるような居心地のよい兵舎でした。しかし我々には、食卓いっぱいに並べられた食べ物を口にする時間の余裕すらありませんでした。ざっと見ても、司令部のメンバーが2日ほどは食べられる量でした。わたしは、食べ物を全部背のうに詰めるよう指示しました。我々が山林部隊の兵舎を出ると、敵はまた追撃してきました。まったくしぶとい追撃でした。我々には、地べたに座ってまんじゅうや乾パンをほおばるゆとりもありませんでした。司令部が敵の追撃をなかなか振り切れなかったのは、佳在水で地下工作をしていた金なにがしという人が敵につかまったためです。彼は、我々が西間島に進出した後、長白で入隊した人でした。入隊する前は地下革命組織で活動し、入隊後も勇敢に戦いました。数年間我々とともに戦い、地下工作のために派遣されたのですが、敵につかまったあと節操を守りぬくことができなかったようです。たぶん、彼が敵に我々の行方を教えたのでしょう。

 敵は、長白一帯でいちばん銃声をひびかせている呉仲洽の連隊が司令部でないことにようやく気づき、「討伐」兵力をすべて我々に集中してきました。飛行機も連日我々の移動する方向に飛来しました。司令部をめざして四方から敵が迫ってくるので、我々は抜け出すすべがなくなりました。隊員たちは真っ青になりました。汪清時代からわたしと行動をともにし、あらゆる苦労を体験した呉白竜でさえ血の気が失せていました。絶体絶命の窮地に陥ったと考えた指揮官たちは、みなわたしの顔を見つめるばかりでした。アジ演説というものはこんなときに必要なのです。わたしは休止のあいまに司令部のメンバーを集めてこうアジりました。

 ──林の中の針は、万人が双眼を光らせても簡単には探し出せない。我々が知恵を働かしさえすれば、大密林と大敵のなかでも針のように十分みずからを隠すことができる。李舜臣将軍は、鳴梁海戦のとき少数の船で日本軍の大艦隊を打ち破り、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の大勢を逆転させた。これは、世界の海戦史に特筆大書すべき奇跡といえる。李舜臣は、どのようにして敵を破ったのか。もちろん、知恵と策略、勇気をもって破った。しかし、それより大きな要因は愛国心であった。日本軍を討たなければ国が滅び、国が滅びれば日本人の奴隷になってしまうと考えて発奮し、敵を破ったのだ。愛国心が強かったからこそ知恵と勇気も最大限に引き出せたのだ。愛国心さえすてなければ、我々もこの難局を打開することができる。もちろん我々が直面している情勢は険悪である。しかし、革命勝利の確固たる信念をもち、難関に屈しなければ我々も十分大勢を逆転させることができる。だから、自信をもって行軍をつづけよう。

 こういった内容で演説をすると、隊員たちは口々に、「将軍、命令を出してください。わたしたちは、最後まで将軍についていきます」と明るい顔で行軍路につきました。隊員たちの言葉にわたしも力を得ました。

 あのとき、我々はじつに多様な戦法と戦術を用いました。苦難の行軍は、遊撃戦によって創造されたあらゆる戦法と戦術の総合的な試験場であったといえます。我々があのときどんな妙策を使ったかについて二三話すことにしましょう。行軍の途中で行方をくらます方法には、足跡を埋めるなり消すなりしてすばやく立ち去る方法もあり、倒木を伝って横に抜ける方法もあります。なかでも敵をあざむく痛快を方法は、前と後ろからあらわれる敵に同士討ちをさせて姿をくらます方法です。これを望遠戦術といいますが、同士討ちさせておいで遠くから眺めるという意味でこう名づけたのです。我々が、長白県紅土山子と富厚水の台地で敵をさんざんな目にあわせたときに用いた戦法がまさにこれです。

 紅土山子は、文字どおり大きなはげ山です。あのとき我々は敵の追撃を受けてその山を二回りしていたのですが、前方からも敵があらわれると、倒木を伝ってすばやく横に抜けました。前後から我々に攻撃をかけて1本道で出くわした敵の両部隊は、互いに相手を人民革命軍だと思い込んで激烈な撃ち合いを演じました。相手が味方であることを知らないのですから、それこそ死に物狂いの激戦になりました。我々は、富厚水の台地でもこれと似た戦術を用いました。敵の大部隊が追撃してきたのですが、振り切る手がありませんでした。それで、紅土山子でのように台地のまわりを回ることにしました。二回りくらいしたときに他の「討伐隊」があらわれたのですが、それがちょうど我々と我々を追撃していた敵の間に挟まる格好になりました。その台地を1周するには1日かかるので、連係のない2集団の敵が二重に追撃するという奇妙な出来事も起こるわけです。わたしはひきつづき隊員たちに台地のまわりを回らせながら、めいめいにそりのながえほどの木を一本ずつ切ってかつがせました。そして、その木を切り株と切り株の間に渡し、それを伝って横に抜けさせました。我々が白被に身を隠して林の中で生麦をかじりながら休息しているあいだ、互いに相手の後尾に追いついた敵の両軍は激しい同士討ちをつづけました。我々は、それを遠くから見物し、銃1発撃たずに多くの敵を掃滅することができました。富厚水の台地で途方もない損失をこうむった敵は、遊撃隊が神出鬼没と昇天入地の妙策を用いるので、とうてい撃滅できないと悲鳴をあげたものです。

 我々は1日に何回もそのような妙術を使って、多くの敵を掃滅しました。しかし、日本軍の兵力は補充するのに事欠きませんでした。国土に比べて人口が多すぎるから海外膨張策をとらねばならないと騒ぎ立てた日本ですから、いくら「討伐軍」を失ってもすぐ補充したのです。それとは反対に、山中で戦う我々は一人の戦死者が出ても、すぐにそれを補うことができませんでした。

 富厚水台地での戦闘があったのち、わたしは部隊を率いて夜通しの強行軍で佳在水方面へ抜けました。わたしがしきりに丘陵地帯に向けて部隊を誘導すると、隊員たちは、「将軍、そっちに行くと平地です。まかり間違えば集団部落に行き着いてしまいます」と心配しました。わたしは彼らに、いまの状況では森林地帯にいるよりも丘陵地帯へ抜け出るほうが上策だ、このまま追われてばかりいたのでは守勢に立たされて手の打ちようがない、敵は兵力が多いから毎日のように「討伐隊」を交替させているが、我々にはそんな予備兵力はない、だから人員の損失が出るだけだ、きょうも一人、あすも一人、あさっても一人というふうに隊員が次第に減れば、最後には何人残るというのだ、第7連隊と第8連隊の戦友たちはいま我々がこのような窮地に陥っていることを知らないはずだ、司令部を支援せよと連絡するわけにもいかないのだからほかに方法はない、敵を森林地帯でかわし、我々は丘陵地帯に出るのだ、敵は丘陵地帯にはさほど注意を払わないから、そこに出れば当分のあいだ休息しながら兵力を保持することができると言いました。灯台もと暗しということわざもあるように、かえって住民地区に近いところこそ、我々にとってもっとも安全な場所となりえたのです。

 我々は、佳在水村が一目で見渡せる小さい丘陵に居座ることにしました。丈が2メートルほどの松とクヌギが生い茂っている心地よいところでした。下は崖になっており、崖の下には小川がありました。佳在水村の犬のほえ声が聞こえるほどのところでした。佳在水は、水車村とも呼ばれていました。我々はそこで、日が暮れると天幕を張り、明け方にはそれをたたんで装具をまとめ、戦闘準備をととのえた状態で休息をとったり学習をしたりしました。南牌子を発って以来、天幕を張ってすごしたのはそれがはじめてでした。我々はそこでいくらか疲れをいやすことができました。わたしは、司令部のメンバーと膝を交えて、今後の活動方向と戦術的問題についてたびたび討議しました。旧正月が過ぎて暖かくなったら、四方に散らばっている部隊を呼び集め、各地で敵を撃滅し、破壊された組織を立て直して国境沿岸と祖国に進出するというのが我々の計画でした。

 ところが、食糧が切れたのが問題でした。餓死寸前の状態というのに、我々には1升の米もありませんでした。わたしは、警護中隊の政治指導員である李鳳緑を佳在水村へ差し向けました。そこには、金一がつくった地下組織がまだ活動していたのです。安なにがしという地下組織のメンバーもその村に住んでいました。彼は、わたしと縁の深い農民でした。彼の父親が山林隊に拉致されたとき、わたしがその頭領に手紙を送って救い出したことがあったのです。頭領は以前我々に世話になったことがあるので、わたしの手紙を受け取るとすぐ彼の父親を家に帰したそうです。その農民は金一の影響下で革命活動を援助していたのですが、そのことがあってまもなく地下組織のメンバーになりました。

 わたしは李鳳緑に、佳在水へ行ったら水車小屋の主人に会い、安という名の農民とも連係をとるようにと指示しました。李鳳緑は、まずその水車小屋を訪ねました。主人に会った彼は、山中で戦っていたのだが敵の「討伐」が激しく食糧難もひどいのでこうして人家を訪ねてきたとあいまいな自己紹介をしたあと、夜分に申し訳ないがとがめないで話を聞いてほしいと言いました。すると水車小屋の主人は、帰順するつもりなのかとひややかに問いました。李鳳緑が相手の出方を見ようと、そうだと答えると、彼は非常にがっかりした様子でした。そして、山での苦労はたいへんだろうが、だからといって帰順などしてよいものか、国を取りもどそうと銃をとった以上は最後までがんばり通すべきであって、はじめたことを中途で投げ出してはいけない、いくらつらくても帰順などするものではないと説諭したとのことです。そして、金日成将軍はご健在かと尋ねたそうです。李鳳緑は、将軍がどこにいるかはよくわからないが、いまも革命軍を率いて敵をやっつけていると答えました。すると彼は、それ見なさい、金将軍が元気で革命軍を統率しているというのに、自分の隊長をすてて帰順するとはなんということだとしかりつけたそうです。相手が信頼できる人物だと確信した李鳳緑は、わたしは帰順するために来たのではなく食糧を手に入れるために来たのだ、山には戦友たちがいる、金を出すから食糧を都合してほしいと言いました。彼は、金で買うのは危険だ、自分らが、唐臼をひく手間賃代わりにもらう米をもみ殻の中に隠しておくから、客のいないときにそっと持っていくようにと言いました。水車小屋の主は、本当によい人でした。李鳳緑は、佳在水村で食糧工作をしているうちに、彼が祖国光復会の会員であることを知りました。彼は安某という農民とも親しい間柄だったのです。「恵山事件」のあとも佳在水の組織が破壊されなかったのは、我々の工作員が組織の線を極秘に付していたからです。

 わたしはそのとき水車小屋の主人の話を聞いて、もう大丈夫だ、我々にたいする人民の支持は変わっていない、人民の支持があるかぎり我々は勝てる、活路が開かれたと考えたものです。水車小屋の主人は食糧をかついで、我々とともに苦難の行軍に参加したのも同然でした。彼が食糧を調達してくれなかったら、我々は、将棋やコニ(十六六指に似た駒遊び)などをしながら今後の行動方向についてじっくり議論するなど思いもよらないことであり、十中八九餓死していたことでしょう。

 水車小屋の主人だけでなく、村中の人が我々を助けてくれました。ある日李鳳緑がわたしのところに来て、佳在水村の人たちが食糧を準備し、正月の料理もこしらえたそうだから取りにいかせてほしいと言うのでした。苦難の行軍をはじめて以来、数十日余りをなまの米となまの肉、水だけで食いつないできた隊員たちを思うと、村人たちの誠意を無にする気にはなれませんでした。それでわたしは、人民の心のこもった正月料理をもらってくるよう命じました。佳在水村の人たちのおかげで、1939年の旧正月はひもじい思いをしなくてすみそうだと安堵の胸をなでおろしました。隊員たちにひもじい思いをさせた心づらさがようやくとけるような心地でした。

 ところが、佳在水村の人たちの誠意を受けるに受けられない事態が発生したのです。というのは、李鳳緑と一緒に村に行った李虎林が逃走してしまったのです。手ぶらで帰ってきた李鳳緑は、李虎林が逃走したので食糧も何も捨ておいてきたと報告しました。司令部の警護隊員のなかから逃亡者が出たのは、これがはじめてでした。以前は行軍がいくら苦しくても、我々を捨てて逃げ出すような裏切り者は出ませんでした。ところが苦難の行軍のときには、我々の隊内で逃亡者が4名もあらわれたのです。以前はそういう考えを起こさなかった人たちがあのときに逃げ出したのは、恐ろしい苦難にそれ以上たえることができなかったからです。李虎林は遊撃隊での生活は長くありませんが、わたしがとくに目をかけてきた人です。朝鮮からやってきた隊員であったので、人目に立つほどかわいがってやったのです。彼は日本語が上手でした。それで、彼には敵情偵察の任務をよく与えたものです。彼は、1、2名の隊員をともない、電柱に登って敵の電話を盗聴しました。屈強で知識もあるので、ゆくゆくは指揮官に任用しようと考えていたのに、革命は失敗に終わるものと速断して逃げ出したようです。李虎林の裏切り行為のため、我々は非常に危うい状態に追いこまれました。一刻も早く居所を移し、安全対策を講じなければなりませんでした。わたしは佳在水村の裏山を発ち、果てしない広野を白昼行軍で突破することにしました。これからは、敵があらわれようとどうしようと脇目もふらずに歩けと指示しました。

 敵が大部隊で攻撃してくるとき分散活動に移るのは、遊撃戦術の一般的な原則です。我々は苦難の行軍のときにも、この原則を守りました。そのおかげで、「討伐」兵力をある程度分散させることができました。しかし、分散活動をする過程で、兵力の少ない我々司令部は存亡の危機に何回となく陥りました。それは敵が、我々が司令部であることを知り、総力を集中したからです。このような教訓があったので、我々は北大頂子で苦難の行軍の総括をするとき、戦術の問題についてかなり論議しました。そのときわたしは、分散活動が大部隊の攻撃に対処する遊撃戦の戦術の一つではあるが、それを一律に適用してはならないということを強調しました。ほかの指揮官たちも、司令部が大部隊の援護もなしに単独で分散活動をするという冒険は二度と繰り返してはならないと力説しました。わたしは苦難の行軍を総括しながら、いかに原則にかなった戦術であっても、その適用においては、教条主義に陥ってはならないということを骨身にしみて感じたものです。

 我々が白昼行軍をはじめて間もなく、また逃亡者が出ました。一人は李教官と呼ばれていた王徳林がよこした北京大学出身とかいう者で、もうー人は中国人隊員でした。そのうえ、隊列には数名の負傷者もいました。あれやこれやで、残っている者はいくらもいませんでした。人数がこれ以上減ると、歩哨の交替もできなくなるありさまでした。

 行軍命令がくだると、呉白竜はわたしに、「将軍、我々が行軍をはじめたら砲台から弾丸が降り注ぐにきまっていますが、あの野原をどう突破するのですか」と問いました。わたしは、どうするもこうするもない、前後に機関銃を一挺ずつ構えて、前方の敵は前で撃ちまくり、背後の敵は後ろで撃ちまくりながら強行軍するしかないと答えました。

 佳在水の敵は、砲台から我々をそれと見下ろしながらも、あえて手出しをすることができませんでした。主力は「討伐」のためみな山に出ており、村には人員がいくらも残っていないうえに、我々の気勢に威圧されて攻撃をしかけることができなかったようです。我々はなんの妨害もなく、白昼に堂々と野原を横切って森林地帯に行き着くことができました。そして、そこで食事をし、しばらく休止しました。このような場合のことを天恩というのでしょう。野原を無事に通過してみると、我々自身もキツネにつままれたような気持ちでした。敵が攻撃をしかけてくるものとばかり思っていたのに、攻撃はおろかくしゃみ一つせずに砲台から見下ろしていたのですから、無理もないでしょう。遊撃闘争の過程ではときにこんなこともあるのです。野原を無事に通過した隊員たちは、今度も“神様”が革命軍に味方してくれたのだと喜びました。人間は土壇場に立たされたとき、死ぬか生きるか勝負をつけよう、人間一度は死ぬもので二度死ぬことはないと腹を据え、何事にも積極的に立ち向かうなら、克服できない難関はないものです。

 我々が森林地帯から抜け出して再び行軍をつづけているとき、背後に敵があらわれたという報告が入ってきました。隊列からの脱走者が我々の行軍方向を教え、「いま金日成は大部隊を分散させ、数十人を率いているにすぎない。だから今度は難なくかたづけることができる」と耳打ちしたようです。しばらくして、前方の斥候からも敵があらわれたという報告が入りました。前も後ろも敵となれば一大事でした。呉白竜がまたわたしの顔を見つめながら「将軍、敵は我々が司令部であることを察知しているようですが、どうしましょうか」と問いました。わたしは彼に、決死の覚悟で戦うほかない、前方の敵は我々のことを何も知らず、我々に出くわすことも知らないで安心しきっている、背後の敵は我々の人数や疲労のほどを知りつくしている、だから背後の敵と真っ向から戦うのは無理だ、ほかに方法はない、1個分隊ほどの人員で背後の敵を牽制させ、主力はなにも知らずにやってくる前方の敵をかたづけることだ、そうしてこそ包囲を突破することができると言いました。後ろから追撃してくるのは日本軍の「討伐隊」でしたが、前方から我々を脅かしているのは満州国軍でした。当時、満州国軍は、朝鮮人民革命軍と戦うのを恐れていました。したがって、討つべき相手は前方にありました。わたしは呉白竜に、部隊を率いて前方を突破せよ、弱い敵をたたいて、ひるんだすきに息つくひまを与えず突撃し、敵の兵営まで追い討ちをかけて泡を吹かせてやれと命じました。呉白竜は、隊列の前に機関銃射手を配置して敵をなぎ倒し、突撃ラッパを吹き鳴らしました。満州国軍は数十名の死傷者を出すと、我々がかなりの大部隊だと思いこみ、背のうや装具を投げ捨てて退却しました。我々は、投げ捨てられた敵の背のうから食料を集め、靴まで履きかえ、大道に出るまで敵を追いまくりました。こうして、我々は敵の追撃をかわし、逆に敵を追撃する主動的な立場に立つことになりました。

 それ以来、我々は戦術を変えました。いうならば、敵をかわす戦術から先手を打って敵を討つ主動的な攻撃戦術に転換したわけです。妙策を使って敵を避けてまわる戦術ばかり用いていては、隊伍を救うことができなかったからです。兵書にも、強敵の鋭鋒はかわし、撹乱して疲労させ、敵が動揺すれば激しい攻撃を加え、敵が退却すれば猛烈に追撃して強敵を弱敵に、味方の逆境を順境に変えるのがすぐれた用兵法であるとされています。我々は、こうした戦術を広く活用し、苦難の行軍のときにも幾多の難局を切りぬけ、守勢から攻勢に転じたものです。

 わたしは、集団部落を一つ襲撃して敵を守勢に追いこむ一方、食糧を確保することにしました。旧正月が間近に迫っていたので、何か月間も飢えている隊員たちを十分に食べさせてやりたいという思いも切実でした。そういうわけで、くりひろげた戦闘が、ほかならぬ十三道湾集団部落襲撃戦闘でした。我々は、戦闘に先立って敵の電話を盗聴しました。それは、十二道溝へ撤収した満州国軍の将校が臨江県の上官にかける電話でした。彼は電話で「金日成部隊に遭遇したのだが、ものすごい攻撃をかけてくるのでもちこたえられなくなって退却し、現在十二道溝にとどまっている。今後の行動にかんする指示を待つ」と報告していました。彼は隣の集団部落にも電話を入れて、パルチザンが襲撃してくるおそれがあるから注意するようにと警告しました。我々はその情報にもとづいて近くの敵を討ち、つづいてもう一つの部落を襲撃して大量の食糧と食料品を手に入れました。食料品のなかには、彼らが食べようと準備したギョーザもありました。ろ獲品が多すぎたので、一部は雪の中に埋めて印をしておきました。こうして、我々は十三道湾戦闘でろ獲した食糧と食料品で、その年の旧正月は盛りだくさんのごちそうにあずかったものです。遊撃闘争だからといって、いつも苦しい思いばかりしたわけではありません。衣食に事欠くのは日常茶飯事でしたが、ときには十分に食べ暖かい衣服を着てすごすこともあったのです。

 十三道湾戦闘があって以来、敵は我々司令部にそれまでよりも多くの「討伐」兵力を集中しました。四方八方いたるところ「討伐隊」だらけでした。敵があまりにもしつこく追撃してくるので、我々は零下40度を上下する高地で幾夜をすごさなければならないこともありました。我々司令部の隊伍は、そのような困難な状況下にあっても守勢に回ることなく、また別の集団部落を襲撃しました。分散活動をしている大部隊に我々の位置を知らせるための戦闘でした。その部落の名はよく思い出せません。長白県上崗区一帯で活動していた呉仲洽の第7連隊はその戦闘のうわさを聞くや、司令部が危険にさらされていると判断し、司令部に集中する敵の兵力を分散させるために、またいくつかの集団部落を襲撃しました。それらの戦闘は、我々に自分たちの部隊の位置を知らせる合図でもありました。第7連隊が司令部を訪ねてきた後に、撫松方面で活動していた第8連隊と独立大隊も我々を訪ねてきたし、青峰密営にいた給養担当者たちまで北大頂子に集まってきました。隊列を点呼してみると、前年に濠江県南牌子を発ったときの人員とさほど変わりがありませんでした。南牌子を出発するときの隊員のほとんど全員が生き残っていたのです。そのときの感激は言葉ではあらわしようもありません。抗日戦争の期間に別離も多かったし、また幾多の対面もありましたが、あのときほどの感激的な対面はなかったと思います。北大頂子は、祭典の場のようににぎわいました。100日以上も死地で苦労した末に再会した隊員たちは、抱きあって笑ったり転がったりして懐かしがりました。苦労のあとの対面であるほど、その喜びは大きいものであるようです。同志がどれほど大事であるかを知るためには、別離も体験してみる必要があります。血を分けあった同志が別離と対面を繰り返す過程で、同志愛はいっそうかたく熱烈なものになるものです。そういう同志愛は、いかなる風波が荒れようとも容易に崩れ去るものではありません。

 苦難の行軍は、単なる部隊の移動のための行軍ではありませんでした。それは、一つの戦役に匹敵する大規模の軍事作戦であり、抗日武装闘争の縮図であったともいえます。この行軍の過程で、我々は軍人として体験しうるあらゆる苦痛を味わい、また人間として体験しうるあらゆる試練をなめました。我々は苦難の行軍を通じて、抗日武装闘争に参加した共産主義者こそは、真の祖国の息子、人民の息子であり、自民族と民族解放偉業にもっとも忠実な革命闘士であることをいま一度天下に示しました。抗日遊撃隊員たちは、苦難の行軍の過程で、自己の人格をいちだんと磨きあげました。行軍の過程で形成された朝鮮の共産主義者の美しいイメージは、朝鮮人民が子々孫々にわたって見習うべき共産主義的人間のりっぱな典型となっています。いかなる逆境にあっても信念を曲げず、指導者のまわりにかたく団結して勝利した共産主義者の典型を創造したこと、まさにこれが苦難の行軍の重要な成果であり、抗日革命の最大の功績の一つです。苦難の行軍に参加した人はすべて英雄です。この行軍に参加した人たちは、生き残った人であれ、倒れた人であれ、誰もが英雄といえます。

 すべての隊員が万難を排して不死鳥のごとく生き残り、勝利者となれたのは、いろいろな要因によるものと思います。その要因のうち、いくつかに限って言及しましょう。わたしが第一にあげたいのは、百折不撓の革命精神と自力更生、刻苦奮闘の革命精神、革命的楽観主義の精神です。このような精神的要因が、我々をして万難を排せるようにしたといえます。我々は、あのようにひどい困難のなかにあっても失望したり悲観したりすることなく、つねに勝利の日を思い描きながら、あらゆる困難を克服したのです。いわば、革命勝利の信念が強かったのです。もしあのとき、我々が目前の難関にこだわって落胆したり革命勝利の展望を暗たんたるものと考えたならば、あのようなきびしい試練にうちかつことができず、雪のなかで自滅したことでしょう。

 我々が苦難の行軍を勝利をもって終結することができた要因としてはまた、革命的同志愛をあげることができます。行軍の終わりのころに呉仲洽たちに会ったときのことが、いまでも忘れられません。彼は、わたしにとりすがって男泣きに泣きました。わたしも彼を見ると涙を抑えることができませんでした。あのときは、肉親に会ったとき以上にうれしかったものです。あまりのうれしさに胸がしびれてきました。わたしはそのとき、この世のすべてが手中に入るとしても、この大事な戦友たちと2度と再び別れまいと決心しました。その年の冬、戦友たちに分散活動をさせてから、わたしはたいへん気をもんだものです。本当に、あのときほど戦友たちを待ち焦がれたことはなかったでしょう。みなさんのなかにも除隊軍人が少なくないので、戦友愛というものがどれほど強烈なものであるかをよく知っていると思いますが、この世に戦友愛ほど熱烈で生命力の強い愛はないでしょう。そして、戦友たちのあいだの道徳的信義ほど気高い道徳的信義もないでしょう。

 革命的同志愛は、抗日革命の全過程に貫かれてきた勝利の重要な要因です。しかも、苦難の行軍の過程では、隊員たちの道徳的信義がいつにもまして集中的に発揮されました。「1合のはったい粉」のような逸話は、その時期に生まれた無数の美談のうちの一つにすぎません。伝令は司令官用の非常食としていつも背のうに1合ほどのはったい粉を携帯していましたが、それをわたしが一人で食べられるでしょうか。それで隊員たちと分けあって食べたのですが、それが次代に伝説のような話として語り伝えられるようになったのです。このような事実は1度や2度にとどまりません。おそらく、あのとき隊員たちは、戦友のために皮膚が必要であればためらうことなく自分の皮膚をそいで差し出したことでしょう。一身をなげうってでも、革命同志のためにつくすのが革命的同志愛なのです。

 いつか話したことですが、李乙雪は、新入隊員が焚き火のそばで眠っているうちに服を焦がしてしまい、寒さに震えているのを見て、自分の綿入れを脱いでやり、自分は酷寒のなかをひとえの軍服ですごしました。それでも彼は凍死しませんでした。それは、ほかの隊員たちがまた彼に火より熱い同志愛をそそいだからです。結局我々は、100余日にわたる行軍の全行程を、ともども1合のはったい粉を分け合う精神で生活し戦ったので、飢え死にしなかったのです。破れた服を着て酷寒をついて行軍しましたが、つねに身も心も熱く燃えていました。戦友たちが一人も餓死したり凍死したりすることなく不死鳥のように生き残ることができた秘訣は、ここにあります。愛の力が死を打ち負かしたのです。同志愛で団結した集団、同志愛にもとづき、かたく団結した隊伍は必勝不敗であることを、我々はあのときいま一度骨身にしみるほど体験しました。

 苦難の行軍を成功裏に終えることができたいま一つの要因は、我々にたいする人民の愛情と支援でした。我々は苦難の行軍の過程で、佳在水の水車小屋の主人のようなありがたい人たちから多くの援助を受けました。苦難の行軍に参加したのは、軍隊だけだと考えてはいけません。あの行軍には、人民も参加したのです。米や塩、履き物、布地などの給養物資をかつぎ、死線を越えて我々を訪ねてきた二道花園と腰溝の人たちはみな、我々とともに苦難の行軍に参加したものと評価してしかるべきです。羅子溝の台地や天橋嶺でも体験したことですが、我々が窮地に陥ったときに救援者、援助者、同行者としてあらわれたのはいつも人民でした。わたしは、このような人民がいるかぎり、苦難の行軍も勝利をもって終結することができるという確信を深め、力を得たものです。

 苦難の行軍が勝利の行軍となりえたのはまた、時々の状況に適した巧みな遊撃戦法を能動的に活用したことにあります。

 我々は、困難な環境のもとで社会主義建設を進めています。朝鮮革命は、依然として困難な行軍路を歩みつづけています。したがって、現在も苦難の行軍はつづいているといえます。かつては、数十万の日本軍が我々を包囲して追撃してきましたが、いまはそれとは比べものにならないほど強大で暴悪な帝国主義勢力がわが国を圧殺しようとしています。事実、我々は戦時下と変わりない状態におかれています。こういう困難な状況のもとで、我々が生きていく道はなんでしょうか。それは、抗日革命烈士たちが苦難の行軍の過程で発揮した白頭の革命精神をそのとおり実生活に具現することです。

 我々は、抗日戦争の時期だけでなく、新しい祖国の建設と偉大な祖国解放戦争の時期、戦後の復興建設の時期にも、自力更生、刻苦奮闘の革命精神、楽観主義の精神で万難を排し革命の勝利をかちとりました。苦難の行軍という偉大な行軍の歴史をもつ人民には、不可能というものはありえません。このような行軍の歴史を遺産として受け継いでいる人民は、いかなる力によっても征服されることがありません。



 


inserted by FC2 system