金日成主席『回顧録 世紀とともに』

8 南牌子の森林で


 <抗日武装闘争が高揚期に入っていた1930年代の後半期、日本帝国主義者は、朝鮮人民革命軍にたいする軍事的攻勢を強化する一方、銃砲によって得られなかったものを懐柔工作によって得ようと執拗に策動した。彼らは、革命の背信者を遊撃隊の内部に送り込んで「帰順工作」さえ巧みにおこなえば、革命軍を内部から思想的に瓦解させることができるものと考えた。彼らは、革命を中途で放棄した脱落分子と背信者を「帰順工作」の先頭に立たせたのだが、そのなかには、金日成同志のかつての同窓生や革命活動の縁故者もいた。金日成同志は、南牌子会議について言及するたびに、華成義塾時代の同窓生であり、「トゥ・ドゥ」時代の同志であった李鐘洛と朴且石が「帰順工作」の任務をおびて密営にやってきたことを回顧した>


 南牌子での会議のとき、李鐘洛と朴且石に会ったことを余談として話すことにします。李鐘洛と朴且石は、わたしと華成義塾にも一緒に通い、「トゥ・ドゥ」と建設同志社もともに組織し、朝鮮革命軍を組織するときも、ともに活動した人たちです。数年間、革命活動をともにすれば、兄弟と変わりない密接な関係で結ばれるようになるものです。この2人は、わたしと4、5年も革命活動をともにしました。彼らは、金赫や車光秀などの吉林の同志たちより一歩先んじてわたしと結ばれた人たちです。我々が樺甸で「トゥ・ドゥ」を結成したときには、金赫や車光秀は、まだ網羅されていませんでした。
しかし、朴且石と李鐘洛は、2人ともその組織の中核をなす人物でした。そういう関係からしても、この2人は、わたしが革命の道に投じたころの最初の同志であると同時に、最初の同行者といえる人たちです。

 学生青年運動や地下闘争をしていた人たちが、さまざまな曲折を経て離散し、片一方は山中で武装闘争をはじめ、片一方は敵に逮捕されて獄につながれるといった経緯で、互いに生死のほどもわからずにいて数年ぶりに再会したというなら、それはきわめて意義深いめぐり会いといえるでしょう。しかし遺憾ながら、我々の対面は、愉快なものとはなりませんでした。なぜなら、李鐘洛と朴且石は、日本の関係機関から「帰順工作」の任務を受けて密営にあらわれたからです。彼らは、かつての革命同志としてわたしを訪ねてきたのではなく、日本人に糸を引かれる操り人形として「帰順」のかけひきをする目的でわたしを訪ねてきたのです。獄につながれた人がそういうかけひきをしに来るということは、彼らが、わたしも裏切り、革命も裏切ったことを意味します。ですから、彼らは貴賓とはなりえませんでした。わたしは、革命を裏切ったかつての同窓生と対座するという、苦い体験をしなければなりませんでした。

 人民革命軍にたいする敵の「帰順工作」が大々的に、より悪辣に展開されはじめたのは、およそ1930年代の後半期からだったと思います。当初、日本帝国主義者は、抗日武装部隊との戦いで「帰順工作」を基本政略とはしませんでした。彼らは、弱小の抗日遊撃部隊と反日部隊を軍事的に制圧することに全力を集中しました。軍事的方法以外のいかなる方法も認めず、また用いもせず、許しもしませんでした。文字どおり「討伐第一主義」を主張し、それを押し通しました。日本軍首脳部は、「討伐」を唯一の手段とし、「帰順工作」などは、させようともしませんでした。そういうことは「武士道精神」にもとる幼稚な行為と考えたのかもしれません。彼らは、さらに「誘導的帰順厳禁主義」という法度まで設けました。これを見ても、日本の軍部が、東北の抗日武装勢力を軍事的方法のみでも十分除去できる対象とみなし、我々の活動に軍事的にのみ対応してきたことがわかります。おそらく彼らは、9.18事変当時、張学良麾下の30万の大軍が一朝にして崩壊したのを見て、かなり自信を得るようになったのでしょう。しかし、軍事的攻勢だけでは、抗日遊撃隊の成長と抗日武装闘争の発展を阻むことができませんでした。こうなるや、日本帝国主義者は、「文化討伐」という新たな考案品をもちだしてきました。「文化討伐」とは、「治本工作」や「思想工作」「帰順工作」などを指すものです。


 <日本帝国主義侵略者が、「軍事討伐」と同時に、抗日武装闘争の「抜本塞源」を狙う「文化討伐」戦術を用いるようになった理由を、彼ら自身の言葉を通して知るのも興味あることである。日本司法省刑事局発行の『思想月報』第77号(1940年11月 139〜141ページ)にはつぎのようなくだりがある。
 「共匪の討伐が何故斯様に困難であるかと申しますれば、共産軍は共産主義に基く根強い闘争意識に燃え、又巧妙なる宣伝戦術を有し、而かも地理的には山岳畳々の密林地帯を遊撃地区とし「敵攻むれば我退き、敵退けば我進む」のゲリラ戦法を用ひ、而かも民衆政治工作に就いては、特異の潜行宣伝工作に依り之を獲得するのであるから、絶対に武力のみに依る討伐で成果を収め得ない…(中略)武力のみに依拠する事は一時効果はあっても決して抜本塞源の方策ではないのでありまして、飯の上の蝿を追ふか、雑草の芽を刈る程度の効果しかないのであります。(中略)
 即ち従来の数次に亙る討伐を敢行し乍ら今日尚彼等を跳梁せしめた重大な原因は一に武力のみに力を注ぎ、その治本工作、思想工作に些か欠ける処があったのに国家の凡ての機関が之れに協力せず単に軍にのみ任せ過ぎた為めではないかと存じます」>


 敵は「文化討伐」の美名のもとに「帰順工作」を大々的にくりひろげる一方、「以匪征匪」政策に従い、抗日武装隊伍から脱落した投降者と帰順者で「討伐隊」を組織し、かつての戦友や上官、部下たちの「討伐」にあたらせました。「以匪征匪」とは、直訳すれば「匪賊」をもって「匪賊」を征するという意味です。敵が1930年代の後半期になって「文化討伐」という非軍事的方法をより積極的に活用したということは、彼らがそれまで万能としてきた軍事一辺倒政策の破綻を意味します。軍事的攻勢だけでは目的が達成できなくなったので、「帰順工作」のような卑劣を手段も講じるようになったわけです。

 1937年〜38年といえば、我々の抗日武装闘争が全盛期にあった時期です。軍勢も膨大で、戦果も赫々たるものがありました。大きな城市の一つ二つを攻略するくらいはいとも簡単なことでした。武装闘争の影響のもとに大衆闘争ももりあがっていました。ところが、ようやく高揚しつつあった抗日革命が、熱河遠征のために莫大な被害をこうむるようになりました。楊靖宇の第1軍をはじめ、東北抗日連軍所属の少なからぬ部隊が遠征の過程で多数の兵員を失いました。抗日武装部隊からは、逃走者や帰順者が出てきました。少なからぬ指揮官が、武装闘争を放棄し、敵の懐にころげこみました。こういう事情からして、敵は東北の抗日武装勢力が崩壊寸前にあるとみなしました。収拾しがたくなった烏合の衆だから、内部的にも完全に四分五裂の状態になって右往左往しているはずだ、いずれにせよ、たたきさえすれば倒れるだろうと思い込んだのです。

 敵が「文化討伐」を重視するようになったいま一つの理由は、そのころ「帰順工作」によって得たいくつかの成果に味をしめたからだとも考えられます。重要指揮官の投降は彼らに、共産主義者の信念や意志にも限界があると思い込ませ、そういう考えにもとづいて人民革命軍の切り崩し工作を推進させることになったのです。日本帝国主義者は、「文化討伐」の標的を朝鮮人民革命軍に定め、一方では軍事的攻勢を強め、一方ではわたしにたいする「帰順工作」を執拗にくりひろげました。それではなぜ、彼らが朝鮮人民革命軍を「討伐」の標的としたのでしょうか。その理由は明白です。それは、朝鮮人民革命軍が1930年代初期から日本帝国主義者に重大な脅威を与える主要敵手となっていたからであり、また東北地方の抗日武装隊伍のうちでもっとも戦闘力が強く、掃滅しにくい存在となっていたからです。そのため、新聞、雑誌に我々の部隊の活動がかなり紹介されました。我々の闘争ニュースは、アメリカにも伝えられました。


 <当時、アメリカで発行されていた海外同胞紙『新韓民報』に掲載された文章の一部をここに紹介する。
 「ここ最近の天津通信に依れば、その報道はかなり詳細を極めたもので次の如し。韓中義勇軍中でもっとも勇猛果敢に戦う軍隊は韓人金日成将軍(内地の新聞とその他韓国側の消息に依れば間島を根拠にして活動する金日成氏の武装部隊があって、去る6月、国境を越え甲山普天堡を襲撃して倭軍警の肝胆を寒からしめ、その後も同軍の行動が東亜日報と他の新聞にしばしば報道された。…)統率のもと純然たる韓人で編制された師団という。…彼等の団結存在は生死をともにすることにあり、一種の家族式系統的支配に義侠忠勇等、伝統的精神訓練を併せ、その団結がいっそう固いことである。そのため領袖がいったん命令を下せば、その部下は水火をいとわず突き進むのである。…彼等の目的はひたすら民族のために敵を討つことのみであり、戦略は多くして遊撃方式をとり、神出鬼没によって、倭敵をして右往左往、錯乱状態に陥れることである。ソ連軍事家の観測は『もし一朝、中日両国が正式宣戦をするなら、日本が満州一角の義勇軍に対抗するとしても軍勢20万は要する』としている。その言葉を信ずるとすれば、彼等の実力はきわめて偉大なるものではないか」(『新韓民報』 1937年9月30日)>


 日本帝国主義者は軍事的方法を用い、事実無根のデマ宣伝をするなど、あらゆる術策を弄して朝鮮人民革命軍を完全掃滅しようとしましたが、効を奏することができませんでした。文字どおり、無為無策の体でした。彼らの攻勢が強まれば強まるほど、我々の隊伍は鉄壁にかためられ、我々の闘争ニュースは羽をひろげてより広い地域に伝播していきました。軍事「討伐」でも成果が得られず、わたしが討死したというデマを流しても効果が得られなかった彼らが、窮余の策としてもちだしたのが、ほかならぬ「帰順工作」でした。彼らがこの工作にどれほど大きな期待をかけていたかは、わたしの祖母を引きずりだしたことを見てもよくわかります。

 敵は「文化討伐」の標的をめぼしい人物に定めました。彼らの段取りは周到なものでした。当時、楊靖宇にたいする「帰順工作」は「省帰順工作班」が担当し、わたしにたいする「帰順工作」は満州治安部警務司所属の「中央特別帰順工作班」が担当しました。敵の軍警がわたしの撫松小学校時代の教師まで「帰順工作」に利用しようとしたという日本官憲の資料もあるといいますが、その教師が実際にわたしを訪ねてきたり、間接的な方法でなんらかの連絡をよこした事実はありませんでした。

 朴且石と李鐘洛が南牌子密営にあらわれたのは、敵がわたしにたいする「帰順工作」に熱を入れているときでした。近親者を通しての工作が効を奏さないとみると、今度はかつてのわたしの同窓生を差し向けることにしたのです。わたしの考えでは、日本の謀略家は、朴且石は「帰順工作」にたいするわたしの反応をみるためのテスト人物とし、李鐘洛は決定的な機会に利用する基本人物としたようです。

 朴且石が我々の密営に来たのは、部隊が南牌子にいるときでした。ある日、歩哨隊から歩哨長が飛ばした伝令が来て、朴且石という人がわたしを訪ねてきたことを知らせました。その連絡を受けて、わたしはびっくりしました。朴且石は1930年の夏、工作任務をおびて国内に潜入し、警察に逮捕された人です。監獄入りした人が突然、南牌子に何用であらわれたのだろうか、もし彼が刑期を終えて釈放されたとしても「要注意人物」としてきびしい監視下におかれているはずなのに、その監視をどうかわし、敵の二重三重の包囲下にあるこの密営にまで訪ねてきたのだろうかといぶかしく思いました。革命の道に立ちもどろうと千里の道もいとわずやってきたのなら、おぶってでもやりたいくらいですが、敵が彼にそんな自由を与えるはずはなく、どう考えても怪しい気がしました。しかし予感はどうであれ、わたしを訪ねてきたというので会ってみることにしました。彼に会えば、獄中の亨権叔父や崔孝一の消息もわかるだろうし、そのほかにもいろいろと知りたいことがありました。

 朴且石に会ってみると、外見は以前と変わりありませんでしたが、心は別人でした。彼は、生き別れになった骨肉にでも会ったように喜びながらも、なぜか気がふさいでいました。わたしは、昔の血気はどこへいってしまってそんな小心な人間になったのだ、獄中生活にもたえたのだから前を見つめて勇気を出せと言いました。すると朴且石は、獄中で転向し、敵の回し者になって南牌子まで来ることになった経緯を涙ながらにうち明けるのでした。彼は刑を受けて数年間獄中生活をするうちに、しだいに革命勝利の信念を失い動揺しはじめたとのことです。亨権叔父を十字の刑罰台に縛りつけ体刑を加える光景を見せられたときから、抵抗する気力すらなくなったというのです。朴且石が動揺していることを目ざとく看破した敵は、彼を別の刑務所に移しました。そして、刑期を満たす前に釈放し、転向させて「帰順工作班」に引き入れました。

 敵がわたしにたいする「帰順工作」をもくろんだとき、そこに朴且石を引き入れたのは張小峰でした。張小峰は、我々が中部満州地方を開拓するとき、金赫、金園宇らとともに卡倫を革命化するうえで功労のあった人です。ところが彼も、1931年初に李鐘洛と一緒に武器工作に出て長春駅で逮捕された後、転向しました。敵は彼に女をつけ、長春で所帯までもたせました。そうして、彼を職業的な特務として利用しました。日本の諜報機関がわたしと関係の深い人物を物色しているとき、張小峰が李鐘洛のことを教えました。そして、李鐘洛をして朴且石まで引き入れさせたのです。朴且石は官憲に審問されたとき、「トゥ・ドゥ」時代のわたしとの親交についても陳述し、その後反帝青年同盟を組織したことや、共青を組織したのち吉林を中心に活動し、武装グループに属して国内へ派遣された経緯までいっさい自白したことを、わたしに正直にうち明けました。

 わたしは彼に、君のやっていることは自分一人の考えなのか、それとも誰かの指示なのかと問いただしました。彼は、自分はなんの役付きでもない、日本人に強要されてここに来たが、成柱にこんなばかなことが通じるはずがないのを承知のうえで、それでもこの機会に成柱の顔でも一度見ていこうと思って来たのだと涙をこぼしました。わたしに会いたくて来たというのは本心だったようです。朴且石は、我々に必要な情報もあれこれと教えてくれました。彼は、わたしの祖母を「帰順工作」に引き入れようと万景台へ行ったことまですべて話しました。平壌生まれの彼は、少年時代から亨権叔父と親しい仲でした。彼は亨権叔父に会いに万景台にしばしば出入りするうちに、祖父母とも話を交わす間柄になりました。朴且石の話によれば、こういうことを敵に教え、わたしへの「帰順工作」に彼を大いに役立てることができると推したのが李鐘洛だったというのです。朴且石は、祖母を引きまわして苦労させたのは死んでも拭いきれない罪業だが、祖母の身辺だけは十分に気を配ったと言いました。そして、自分や李鐘洛は、獣にも劣る人間のくずであり、自分のような者は百度殺されても何も言えないと嘆息をつきました。

 朴且石もわたしと一緒だったころは、正義感が強く、反日精神に徹した青年革命家として、大きな抱負を抱いて組織活動に積極的に参加しました。朝鮮革命軍が結成された後は、課された任務を確実に遂行しました。ところが、逮捕されて鉄鎖につながれる身になると、思想も変わり、人間性もついえてしまいました。それでも、彼にかつてのものが何かしら残っていたとすれば、それはわたしへのほのかな友情でした。彼は日本帝国主義者に使われはしても、意識的に彼らに協力したり、またはその代価として栄達をはかろうとはしませんでした。ただ、日本が強大であるから革命勝利の可能性はないと判断し、命でもつなげれば幸いだと考えました。命をつなぐには転向するほかなく、転向したので日本人の指図に従順に従わざるをえませんでした。彼は「帰順工作」には参加しても、仕方なしにしたのです。日本帝国主義者を憎みながらも、彼らの意図と指令に従わねばならなかったのは、朴且石のように革命的信念をすてた人間に降りかかる当然の悲劇でした。

 わたしは朴且石に会って、人間の真の姿とはなんであろうかと深く考えてみたした。朴且石は、年をいくつかとっただけで、顔形は前と同じでしたが、以前とは違っていました。外形は残っているが、どこか中身がないように見えました。魂の抜けた人間になってしまったということです。つまるところ、人間の真の姿は結局、思想だといえます。思想を抜きにして、人間に残るものはなんでしょう。ただの形骸です。思想が崩れれば人格も崩れるものです。朴且石は思想を投げだしたため、無気力な人間になってしまったのです。思想を失った人間の姿は、目のない顔と同じです。

 わたしは朴且石が変質したことを知りながらも、敵の手中から再び取りもどす気持ちでいろいろと説諭し、忠告もしました。敵がわたしの昔の同志を奪い去ったのに、わたしがまた彼を奪い返せないはずはないという反発心が作用したといおうか… 「トゥ・ドゥ」時代の朴且石に完全に改造し直すことはできないとしても、愛国心だけでもよみがえらせてやりたいというのがわたしの心情でした。わたしの心にも、朴且石への旧情は残っていました。民族にたいし罪を犯しては、人間らしく生きることも死ぬこともできないとわたしが言うと、朴且石はそれを肯定し、日本帝国主義者に転向してからというものは、生きることさえうとましく、毎日毎日が苦役だ、こうして生きるくらいなら命をつないで何になるのか、いっそのこと死のうと決心しながらも、勇気がなくて自殺もできなかった、きょう成柱に会って話でも交わせたので心だけは軽くなった、これ以上生きたい気持ちはないから殺してくれ、死ぬにしても成柱の手で死なせてくれと言うのでした。わたしは彼に、君一人殺したからといってわたしの心が晴れるものではない、君は自分の罪を洗い去るためにも、また、かつて革命活動をともにした同志たちとの義理を思っても、いまからでも良心と体面を守って再出発すべきだと諭しました。彼は、わたしの言葉を肝に銘じると言いました。実際のところ、そのとき戦友たちは、朴且石を処刑しようと言いました。けれども、わたしがそれを制しました。相手が自分の罪を正直に自白して反省したので、あくまで人間的に応対しました。隊員たちが仕留めてきた猪の肉を供応し、彼と向かい合って酒も何杯か酌み交わしました。そして、司令部の幕舎で一晩泊らせ、人間らしく生きるよう忠告して帰らせました。朴且石は、わたしに誓ったことをたがえませんでした。わたしに頼まれたとおり、祖父母にあてた手紙も伝えました。

 朴且石が南牌子密営から無事にもどってきたのを見た敵は、しばらくして今度は李鐘洛を密営に送り込みました。李鐘洛を南牌子密営に連れてきたのは、臨江へ出かけたグループでした。その年の冬、我々は隊員の冬服をととのえるため一グループを臨江へ派遣しました。そのグループは任務を遂行する過程で、取り引きの上手なある商売人に出会いました。彼は、日本人に奉仕するかたわら、遊撃隊にも物資を提供する二股膏薬の如才ない人で、人民革命軍のグループに会うと商談をもちかけました。そちらの望む布地と綿は調達するから、その代わり日本軍の軍属を一人革命軍の司令部まで案内してくれと言うのでした。グループの責任者は、それに同意はしながらも条件をつけました。我々が多くの荷を運ぶには途中で面倒が起こらないようにしなければならぬが、そちらの上部に断りを入れて革命軍にたいする挑発を中止させろと言いました。こうして、臨江、佳在水から南牌子にいたる広い地域に陣を張っていた敵の「討伐隊」はしばらくのあいだ作戦を中止し、鳴りをひそめていました。グループは、このように敵の企図と弱点を逆利用し、大量の給養物資を南牌子まで安全に運んできました。そのときグループが連れてきたのが、ほかならぬ李鐘洛でした。

 李鐘洛は、最初から横柄なふるまいをして隊員たちのひんしゅくを買いました。革命軍の軍営に立ち入ったという恐怖感や萎縮感らしきものはまったくなく、ふてぶてしく笑い、ぞんざいな口を利き、はばかりなく行動しました。彼は歩哨隊を引率して密営の入口に出ていた呉仲洽に、寒い冬にさぞ苦労が多かろうと言って、時計を差し出しました。呉仲洽は、自分の懐中時計を取りだして要らないと断りました。すると李鐘洛は、遠慮せずに受け取れ、時計が2つあればもっとよいではないかと言いました。呉仲洽は、時計は1つを基準にすべきであって、きょうは革命の時計をはめ、明日は反動の時計をはめるようなことはすべきでないと一矢を報いました。これは、革命の側から反動の側へ乗り移った李鐘洛の反逆行為にたいする辛辣な批判でした。李鐘洛は密営にやってきて厚かましくふるまっていましたが、わたしとしては、会うやいなや彼の罪状から詰問することができませんでした。一刀のもとに断ち切ることもできず、火に投じて焼き払うこともできないのが人間の情というものなのでしょう。かつて結んだ彼との友情があまりにも深かったのです。李鐘洛もやはりわたしともっとも親しくした人です。「トゥ・ドゥ」時代の李鐘洛は、一家言を吐くそうそうたる革命家でした。同友のうち、誰よりも軍事に明るく、新思潮にも敏感でした。16歳のころから、すでに統義府に所属して独立軍の活動に参加した人です。愛国心が強く行動も勇敢で、線の太い人でした。そして、多情多感な人でもありました。わたしが彼を朝鮮革命軍の責任ある地位に推薦したのは、彼にたいする強い期待と信頼の表示でした。彼はそれだけ信望のある人物でした。ですから、それほどにも大事にした彼が信頼を裏切って転向したと知らされたときのわたしの失望は言うに言われぬものがありました。

 李鐘洛は、自分が日本軍の軍属として「帰順工作班」に属していることを隠しませんでした。彼が言うには、「トゥ・ドゥ」の綱領どおり、日本帝国主義を打倒して朝鮮の解放をなし遂げ、ひいては全世界に共産主義を実現することができるなら、もちろん、それに越したことはない、しかし、それは、とうてい実現不可能を妄想にすぎない、「トゥ・ドゥ」の組織に加わり、朝鮮革命軍を組織し、そして、監獄にぶちこまれたときも、わたしはその理想を実現できるものと信じていた、しかし、9.18事変と7.7事変を経てからは考えが変わった、朝鮮での共産主義運動はすでに幕を閉じた、「内鮮一体」は動かしがたい現実となり、それにともない日本は東アジアの主人となった、中原を掌握する者は東洋の天下を治めることができるといわれたが、中日戦争の実態を見よ、北京、上海、南京も日本軍の手に落ち、徐州作戦、武漢作戦、広東攻略戦が成功裏に終結した、東北3省を一気に席巻し、いまでは広大な東亜大陸の半分以上を占領した無敵の大日本帝国だというのに、その力に何をもって対抗できるというのか、成柱はずっと山中ですごしているので大勢がどう変わっているのかよく知らないはずだ、わたしがここに来たのは、山中で無駄な苦労をしている成柱を助けるためだとのことでした。彼はあたかも、わたしのためにすばらしい善行でも施しに来たかのような口ぶりでした。

 わたしは彼の弁舌と体臭からして、この人間は腐るだけ腐って、生き返らす可能性がないと直感しました。わたしは会議が終わるまで、我々を包囲している敵に邪魔をさせないようにするため、李鐘洛に彼らあての手紙を書かせました。手紙はわたしが言うとおりの内容で書き取らせました。金日成軍の軍営に来てみると、現在司令部は白頭山方面に移動して不在である、そこまでは数十里の道程なので、連絡をとるにはしばらく時間がかかりそうだ、いま金日成麾下の一部隊と会って司令部に連絡する交渉をしている最中だから、諒解して次の通報が届くまで静かに待ってもらいたいと。我々は、李鐘洛の自筆の手紙を我々を包囲している敵に届け、余裕しゃくしゃくと会議を続行しました。

 ある日、李鐘洛に、顔につやもあり手もきれいなのを見ると結構よい暮らしをしているようだと言うと、彼は日本人から支給される金でよい暮らしをしている、自分がよい暮らしをしているのは成柱のおかげだと言うのでした。金日成が大物なので、日本人はなんとかして自分のほうに寝返らせようと、金日成をよく知っているか、以前親しくしていた人を抱き込んで厚遇しているとのことでした。そして、自分のような者でさえこんなに厚遇されているのだから、金日成が寝返りさえすれば日本人がどんな高い待遇をしてくれるかは言わずと知れたことだ、彼らは金日成将軍が寝返ってくればどんな官職にでもつけてやると言っている、朝鮮軍司令官でもよいし、ほかの官職でもなんでも要求どおりにしてやる、朝鮮軍司令官を務めて朝鮮を管轄するなり、またはここで高位職について満州を管轄.するなり、思いどおりにすればよい、どちらを管轄するにせよ日本と合作してくれさえすればよい、やがて太平洋西部沿岸には必ずやアメリカが勢力を伸張して日本も朝鮮も満州もすべてわがものにしようとするはずだから、アジア人同士が手を取り合ってアメリカを牽制し撃退してこそアジアの活路が開かれると話していたと言うのでした。

 日本人はきわめて狡猾でした。彼らは李鐘洛を送り込むとき、「帰順」という言葉を使っては通じないことを知り、いわゆる「合作」という妥協案を出して話し合うよう指示したのです。アメリカの勢力を牽制するためアジア人同士が合作しようというのは、日本人がひところ大看板をかかげて標榜した大アジア主義の表現です。日本の主導下にアジア人のための繁栄するアジアを建設しようというのが大アジア主義だと、日本人が鳴り物入りで宣伝しました。しかし、それを真に受ける愚か者がどこにいるでしょうか。大アジア主義は、アジアにたいする日本帝国主義の独占野望を隠蔽するための隠れみのでした。帝国主義者は、他国を侵略するたびに、それを合理化する口実をつくって大義名分とするものです。彼らは、大和民族の優越性を唱え、世界は日本を中心とする一つの家であるとする「八紘一宇」の思想を鼓吹しました。そうかと思うと、朝鮮を侵略するときには「独立する能力のない民族を日本が引き受けて導き保護」するとうそぶきました。満州を攻撃するときには「自衛権の発動」を口実とし、満州国をつくりあげるときには「五族協和」「王道楽土」の建設を唱え、中日戦争を引き起こすときには暴徒と化した中国を懲罰するという「暴支応懲」「更生新支那建設」「日・満・支3国の結合」などのスローガンをかかげました。

 李鐘洛が熱心に大アジア主義について説教するので、わたしは、もし我々が日本に攻め込んで鉄拳で日本人を押さえつけ、これから朝鮮の主導下に大アジア主義を施行すると宣言するとすればどうなるだろうか、それでも日本は大アジア主義を正当なものとして受け入れるだろうかと問いました。また、君は日本を無敵必勝の存在として描いているが、それならなぜ、彼らは数年来、朝鮮人民革命軍を軍事的に制圧できずに頭を悩ましているのか、日本が無敵必勝なら、正々堂々と我々を平定すべきであって、なぜ君のような人を仲立ちにして幼稚な「帰順工作」をするのかと問いつめました。李鐘洛はその問いにも満足な返答ができず、それは日本人が金日成という人物を大事にしているからであって、他に理由はないだろうと言うのでした。そして、優勝劣敗はどうすることもできない世の道理だから、勝ち目のない抗戦はやめて日本人の提議を受け入れるべきだ、いまこの南牌子周辺だけでも3個師団の兵力が水も漏らさぬ包囲陣を張っている、抗戦を放棄しなければ毒ガスか、新型高性能の大砲で皆殺しにするつもりらしいと言いました。わたしは李鐘洛に、日本人が朝鮮軍司令官はおろか総理大臣にすると言っても、わたしは戦いを放棄しない、毒ガスをまき、高性能大砲を撃つなら撃ってみろと言え、それでも朝鮮人民革命軍は屈伏しないと断言しました。

 そのとき、李鐘洛から韓英愛の消息も聞きました。彼の話によれば、日本人はわたしにたいする「帰順工作」を準備するとき、韓英愛もマークしていたとのことです。しかし、彼女が断固として拒んだため引き込むことができなかったといいます。李鐘洛は、新義州刑務所で韓英愛と刑期生活をともにしたのだが、彼女の成柱への裏埋立ては並大抵のものではなかったと言いました。自分も日本人の指図で彼女を「帰順工作」に引き入れようと口を利いて、けんもほろろに拒絶され、面責されたとのことです。彼女は、わたしはそんな卑劣なことはしない、あなたもやめたほうがよい、金成柱がそんな「帰順工作」に乗る人だと思うのかと、きびしくとがめたとのことです。わたしはその話を聞き、心のなかで彼女に感謝しました。反面、李鐘洛には、嫌悪を覚えずにはいられませんでした。そして、見ろ、韓英愛のような女性でさえ志操を守って転向を拒んでいるのに、鐘洛、君は革命を投げだしただけでも物足りず、日本人の犬にまでなって恥ずかしくないのか、見苦しく変わり果てたものだとしかりつけました。

 わたしを説き伏せるのが無駄だと知った李鐘洛は、隊員たちを釣り込もうとしました。警護隊員の一人に会って、親はいるのか、家族が恋しくないかと言い、日本人は以前は遊撃隊を生け捕りにすると皆殺しにしたが、いまは生かしてくれるだけでなく、身代をつくってくれる、親元に帰りきれいな嫁をもらって楽な暮らしがしたかったらわたしと一緒に行こうと誘い込みました。そういう通報を受けたわたしは、不承不承日本人の使いをする朴且石とは違って、李鐘洛は、祖国と民族も眼中になく、意識的な利敵行為をする日本帝国主義の忠犬であり腹心であることを確認しました。隊員たちの一致した要求により、司令部は、李鐘洛を民族反逆者と規定し、彼を処刑することに同意しました。李鐘洛の死体の上には、同窓生であれ誰であれ、裏切り者はこのように処刑されるという内容の警告状をそえておきました。

 わたしが南牌子で李鐘洛と朴且石に会ったいきさつを話すと、たいていの人は小説のような話だと言います。あのときのいきさつをそのまま綴れば、本当にりっぱな小説になるのではないかと思います。早くから革命の道で生死と運命をともにすることを誓った人が、裏切り者となってあらわれ、日本の強大さを宣伝し、我々の抵抗が無意味であると力説して革命軍司令官を「帰順」させようとしたのですから、そんな深刻な話がどこにあるでしょうか。それは、わたしの数多くの体験のなかでも、きわめて特異な体験でした。

 正直に言って、わたしは2人に会って、非常に気分を害しました。住所姓名も知れず、一面識もない人物がそういう工作任務をおびてやってきたのなら、そんなに心の痛手を受けることはなかったでしょう。彼らも「トゥ・ドゥ」を結成するころは意気軒昂としていました。我々はみな、生きても死んでも運命をともにしようと誓い合いました。そういう誓いを立てるときは、誰一人裏切るとは思えませんでした。ところが、わたしがもっとも大事にし信頼した人のなかから裏切り者が出たのです。

 革命の上昇期には、革命闘争に参加する人も多く、革命隊伍から動揺分子や脱落分子などもあまり出ません。しかし、情勢が革命の側に不利になり、困難が重なるようになると動揺分子が生まれ、逃走者や投降分子も生まれます。ですから、幹部は、情勢がきびしく国情が困難なときほど、人びとにたいする思想活動に力をそそがなければなりません。もちろん、人の思想は目に見えません。人が自分の思想がなんであるかを額に貼りつけて歩かない限り、革命隊伍内で革命的信念を失った動揺分子や敗北主義者を選り分けるのは至難の業と言わざるをえません。しかし、人の思想は、活動と生活を通じて何かのきっかけで必ず露呈するものです。幹部は、個々人の準備程度と思想・意識状態に応じて、革命的信念を強固にする思想活動に力を入れるべきです。

 教訓は何か。思想は信念化されるべきであって、純粋な知識だけのものであっては役立たないということです。信念化されない思想は変質しやすいものです。思想に変質をきたすと、李鐘洛や朴且石のような人間になってしまいます。したがって、自分が正当であるとみなす思想に接すれば、それを確固とした信念としなければなりません。豊富な知識も革命的信念に裏付けられてこそ、あくまでも新しいものを開拓していく真の創造力となります。目は現実を見ますが、信念は未来を見ます。信念が崩れれば精神が死に、精神が死ねば人間そのものが無用の長物になります。人間の道徳的信義や良心もすべて信念にその基礎をおいています。信念のない人は良心をもちえず、道徳的信義も守れず、人間としての体面を保つこともできません。人は、信念が強ければ自分の人生をりっぱに切り開き、同志のためにも正しく身を処し、党と革命、祖国と人民のためにも真の貢献をすることができます。

 忠実性は、信念化、良心化、道徳化、生活化されなければならないというのが、ほかならぬ金正日同志の主張です。深奥な哲学です。わたしは、忠実性を信念化、良心化、道徳化、生活化すべきだとする金正日同志の主張に全的に共感するものです。



 


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