金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 祖母 李宝益


 
 金日成主席を「帰順」させようと企む日帝の軍警に抗して勇敢にたたかう李宝益女史


 <李宝益女史の生涯は、敬愛する領袖金日成同志と偉大な指導者金正日同志を生み育てた万景台の革命闘争史に特別な位置を占めている。多くの子孫をもった女史は、彼らすべてを革命の道に立たせた後も、金輔鉉先生とともに枝折戸から吹き込む雨風をしのぎ、あらゆる苦しみにたえた。女史の苦労の足跡は、満州の野山や雪原にも点々と記されている。金日成同志は、革命に投じた子と孫のために一生涯労苦を背負い、人知れず静かにこの世を去った祖母を痛々しく追想してつぎのように語っている>


 日本帝国主義者は中日戦争を引き起こした後、わたしにたいする「帰順工作」を大々的にくりひろげました。彼らはこの工作に、学生時代の同窓生や教師、「トウ・ドゥ」時代の縁故者、獄中での転向者、知己を手当りしだいに引き入れました。のちには、万景台のわたしの祖母までも白頭山一帯を引きまわして数々の苦労をさせました。骨肉をおとりにした「帰順工作」は彼らの最後の手段でした。朝鮮は、昔から「東方の礼儀国」として隣邦に広く知られています。朝鮮民族が礼儀をわきまえ、人情深く、忠孝心に富んでいることは、昔わが国に来た西洋人もひとしく認めています。旧韓末のわが国を遍歴した帝政ロシアの学者たちは、帰国後皇帝に奉呈した文で、朝鮮は、礼儀・道徳において最上の国であると強調しています。敵がわたしの祖母を「帰順工作」に引き入れたのは、祖父母への孫の孝心を悪用して、わたしをなんとかしてみようという魂胆からでした。帝国主義侵略者に、情け容赦というものはありません。彼らは、朝鮮人の醇風美俗や伝統的な倫理道徳までも自己の強盗さながらの戦略に悪用しました。前世紀後半、西洋人が大院君を屈伏させて門戸を開放させようと、その父にあたる南延君の陵墓をあばいたのもその一例です。

 わたしは部隊を率いて濛江一帯で活動したとき、祖母が長白県佳在水村に引き立てられて軟禁されているという通報を受けました。敵は毎日、夜は祖母を閉じこめ、夜が明けると山中を引きずりまわして、「成柱や、おばあさんが来たよ。わたしのことを思っても早く山から出ておいで」と呼び立てるよう強迫しているとのことでした。佳在水からの通報には、長白の各村落に張り出されたという触れ書きの内容もそえてありました。金日成の祖母が佳在水に来ている、金日成は直ちに山をおりて祖母に会うべしという内容でした。敵は、パルチザンの密営がありそうな大森林地帯に来るたびに、祖母に孫の名を呼べと強要しました。しかし、そんなことに応じる祖母ではありませんでした。ですから、あとはいじめと乱暴しかないに決まっています。彼らは刑事犯でも扱うように、銃口で祖母の背中をこづいて脅したり、すかしたりしましたが、なんの効果もありませんでした。彼らは、わたしの祖母をあまりにも知りませんでした。田舎のばあさんだから、ドンと足を踏み鳴らし、目をむいて怒れば、怖じ気づいて言うとおりにするものと思ったのでしょうが、それはとんでもない当て外れでした。

 佳在水の地下組織では、祖母が気の毒で見ていられないから部隊を出動させて救出作戦をしてほしいと言ってきました。部隊を出動させるのが無理なら、自分たちの組織のメンバーを動員してでも祖母を救出するつもりだから、どちらにするか決断をくだしてくれというのでした。そういう連絡を受けたわたしは、暗然としてしまいました。身震いがし、腹が煮えくり返ってこらえきれませんでした。零下40度を上下する氷雪の荒野に高齢60の老婆を引きずりまわして苦労させるとは、生身の人間としてできることでしょうか。すぐにでも部隊を率いて敵を討ち、祖母を救い出したい気持ちでした。けれども、怒りを抑え、こらえました。まして、そのころは「恵山事件」のため、西間島と国内の革命組織が試練を経ている最中でした。数百名の革命家が獄につながれ、血を流していました。そんなときに、自分の祖母を救おうとするなら、わたしがなんの面目で革命を指導できるというのでしょうか。戦闘を手配すれば、祖母の救出は可能であったでしょう。しかし、まかり間違えば、敵の網にかかりかねませんでした。金平は自分の引率している小部隊を動員してでも、祖母を救い出すと言いましたが、わたしはそれを許しませんでした。それよりも工作地へ早くもどり、朴達をはじめ朝鮮民族解放同盟のメンバーを救出する対策を講じるよう説き伏せました。拳で涙をぬぐいながら立ち去った彼の姿が忘れられません。

 彼が去ったのち、じつはわたしも泣きました。祖母を身近にしてこらえるのは本当につらかったのです。以前は数俵の米や数梃の銃を得ようと戦闘をしたこともあり、1、2名の愛国者を救うためにもためらいなく戦闘を手配したものです。ところが、わたしの祖母が遠くもないところに引き出されて迫害を受けているという知らせを受けながらも、こらえなければならなかったわたしの心情はどんなものであったでしょうか。救出したいのはやまやまでしたが、それをじっと堪え忍ばねばならなかったのが、ほかならぬ司令官としてのわたしの苦衷でした。人として私情に克つということは、じつにむずかしいことです。幼いころから祖母に格別可愛がられてきたわたしとしては、佳在水の地下組織からの通報を受けた瞬間から、なんとしても心の安定を保つことができませんでした。そのときの胸の痛みをなんと表現すればよいかわかりません。

 幼年時代と少年時代のわたしにとって、祖母は母に劣らず大きな位置を占めていました。万景台で幼いころを過ごしたときに、もっとも印象深く覚えていることの一つは、飴をのせた板を肩にかけた飴売りが「飴を買いなされ、飴を買いなされ」と村中を呼びまわる光景でした。ときには、リヤカーにぼろや古ゴム靴などを積んだ飴売りが村に来ることもありました。飴売りが飴を切る大きなはさみを鳴らして客を呼ぶと、村中の子どもたちが集まってきます。そんなときは、わたしも甘い飴が食べたくて生唾をのみこんだものですが、わたしの家には金もなければ、ぼろや履き古したゴム靴もありませんでした。そのころ、わたしの村には、ゴム靴を履いている人がわずかしかいませんでした。わたしの家でもみんなわらじを履いていて、ゴム靴を履くなど思いも及ばぬことでした。村のちびっ子たちが飴売りの台板やリヤカーを取り囲んで騒がしくしているときにも、わたしはそこに割り込まず、庭先で鶏の餌をやったり、家の裏手のしょう油がめのそばへ行って蟻の動きをのぞきこんでいるふりをしたものです。家の大人たちが、わたしのそんな気配に感づかないはずはありませんでした。ある日、祖母は貴重な米をパガジに入れ、飴と取り替えてきたことがあります。何本かの飴ん棒を持ってきてわたしにくれたのですが、幼心にもありがたい気持ちでいっぱいでした。ひき割りの粥で口すぎをしているありさまで、何本かの飴ん棒のために米を持ちだすというのは容易ならぬことでした。祖母の情がこもったそのパガジと飴ん棒がいまもありありと思い浮かびます。

 わたしは母の背におぶさった記憶よりも、なぜか祖母や亨実叔母におぶさったことのほうが記憶によく残っています。祖母は実家へ遊びに行くときにも、よくわたしをおぶっていったものです。男の子が6、7歳なら、多少物心がつくころです。その年になると、はにかんで人の背におぶさって歩く子どもはほとんどいません。ところが祖母は烽火里にくるたびに、うちのチュンソン(金日成同志の幼名)がどれくらい大きくなったかおぶってみよう、と言ってわたしの前に背中を向けてしゃがみこんだりしました。わたしがはにかもうがどうしようが関係ありませんでした。祖母の背におぶさると、髪の毛とひとえのチョゴリから青草のようなにおいがするのですが、わたしは、そのにおいがとても好きでした。それは、労働のなかで一生を生きてきた祖母特有のにおいでした。わたしたち親子が万景台で暮らしていた時分、祖母はわたしを独り占めにしていました。幼いころのわたしは、祖母のそばにいるほうが多かったのです。祖母のやわらかい腕は、幼いころのわたしの枕のようなものでした。その枕がわりの腕に頭をのせると、なぜかよく眠れました。祖母はわたしを抱いて寝るとき、いつも不思議なおとぎ話をして、空想をはばたかせてくれました。ときには、食事のときに取っておいたおこげやナツメなどをそっとわたしの口に入れてくれたものですが、それがまたなんともいえない味でした。

 父と死別して以来、わたしへの祖母の愛情は何倍にも増しました。祖母は、一家の長孫であるわたしの成長を見守ることを人生の唯一の楽しみにしていたようです。祖母に何か楽しみがあったとすればどんなことだったでしょうか。錦衣玉食の楽しみだったでしょうか、諸方漫遊のぜいたくをする楽しみだったでしょうか。祖母の素朴で切なる夢は、国の独立でした。朝鮮の独立を待ち望み、その独立のためにたたかう子や孫の面倒をみ、誠実に後押しするのが祖母の仕事であり楽しみだったのです。祖母の愛情は多くの場合、わたしへの期待と信頼にあらわれました。1926年といえば、わたしの父が物故した年です。その年の夏、撫松の陽地村にある父の墓所を訪ねた祖母は墓前に伏して悲しげに慟哭したあと、わたしにこう言いました。

 「チュンソン、いままでお父さんが担っていた荷を、今度はお前が担うことになったのだ。お前は、お父さんのあとを継いできっと国を取りもどすのだよ。わたしやお母さんに孝行できなくてもいいから、朝鮮の独立のために身も心もささげなさい」

 わたしは、祖母のその言葉に胸をゆさぶられました。もしあのとき、祖母が朝鮮の独立ではなく、将来金持ちになれとか、出世してくれというようなことを言ったのなら、わたしはそれほど大きな感動を覚えはしなかったでしょう。祖母は、そんなことを毛頭考えもしませんでした。そうしてみると、祖母の志は、非常に高い次元にあったといえます。わたしは、祖母のこの言葉に大きく力づけられました。祖母がわたしに国の独立という重大事を託したのは、わたしへの信頼の表示でした。その後、祖母は万景台へ帰らず、しばらく撫松に留まっていました。わたしたちが安図へ引っ越した後は、そこへも来て母や叔母を気遣い慰めもしました。

 祖母の特徴は一言でいって、剛毅な老婆と表現できるでしょう。祖母は、その年かさの女性にしてはまれに見る気丈な人でした。貧しくて不幸で善良な人にはこのうえなくやさしく柔らかですが、ひとでなしにたいしては秋霜のごとくきびしい人でした。いかなる強権や不義にも屈しようとしないのが、祖母の気性であり心意気でした。祖母が小心で弱々しい人であったなら、わたしは佳在水の地下組織からの通報を受けたとき、あの衝撃にたえられなかったはずです。わたしは、祖母がわたしの心情を理解し、革命家の祖母らしく、人質として強いられるあらゆる苦渋と試練に強くたえぬくものと信じました。あのとき、わたしが祖母をそう信じたのは正しかったのです。

 華成義塾時代の同窓生であった朴且石が、南牌子密営に来てわたしに会ったことがあります。我々が楊靖宇をはじめ、第1軍、第2軍の幹部たちと重要な会議を開いたときのことです。彼がわたしを訪ねてきたのは「帰順工作」のためでした。そのつぎは、李鐘洛が訪ねてきました。朴且石は自分が犯した罪を率直に自白し、わたしの祖母を連れて西間島一帯を歩きまわったことをうち明けました。彼の話を聞いてみると、祖母はわたしが信じていたとおり、敵に少しも屈しませんでした。

 祖母を人質にして引きずりまわしたのは「帰順工作班」の連中でした。李鐘洛と朴且石は、その工作班に属していました。日本の謀略家は、わたしの祖母を「帰順工作班」に加えるよう彼らに強要しました。李鐘洛と朴且石は、万景台にあらわれ、わたしの祖父と祖母に、孫に会いたくないか、会いたかったら会いたいと言え、孫は無駄骨ばかりおって身を滅ぼす羽目になったから、助けたい気持ちがあったらわたしらの言うとおりにしろと言いました。祖母は、人間は一度死ねばそれまでだ、新聞に死んだという記事まで載った孫が生きているというのはどういうことだ、そんなでたらめは聞きたくもないと言って背を向けました。これにあわてた李鐘洛は、あの記事は嘘だ、成柱は生きている、けれども成功する見込みもない独立運動をつづけ、険しい山の中で無駄骨ばかりおっている、東洋全体が日本の天下になったというのに、それも知らず白頭山で塩もなくて生米と松の葉ばかり食べているので、獣のように体中が毛むくじゃらになり、足の先はすれて丸くなり、その姿は人間とはいえないてらいだ、成柱が奇妙な縮地の術を使ってあちこちと姿をくらませて戦うので、山から連れだすことができない、日本政府では成柱が寝返ってきさえすれば、関東軍の大将でも朝鮮軍司令官でも、なんでも好きな役につけてやると言っている、もちろん、家族も御殿のような屋敷でぜいたく放題の暮らしをすることができる、それで成柱を早く連れもどさなければならないのだが、その役はおばあさんが受け持ってくれるのがいちばんよさそうだと言いました。そして、数百円の大金を差し出し、これは日本の偉い人のほんの心付けだが、この金でひとまず暮らしに必要な物から買い、お手伝いも雇うようにと言いました。祖父は怒り心頭に発し、この不届き者め、わしらに孫の命を金と取り替えろというのか、そんなたわごとはやめてさっさと消え去れと一喝して札束を庭へ放り投げたそうです。祖母はまた祖母で、日本軍の大将どころかその大旦那の座につけてくれると言っても連れには行かない、うちの息子の亨稷と亨権を死なせたことだけでも胸が張り裂ける思いだ、わたしの目の前からさっさと消え去れと一喝しました。形勢がこうなるや、李鐘洛と朴且石はそれ以上どうすることもできず、すごすごと引き下がりました。口や金ではわたしの家族を動かせないと知った敵は、銃をつきつけて祖母を引きずりだし、満州へ向かいました。こうなるや祖母は、よし、お前らが無理やりにわたしを連れて行くというなら行こう、だからといってお前らを助けやしない、その代わり、わたしはわたしで、この機会に孫が戦っている白頭山と満州各地を存分に見てまわることにするから、どっちが勝つか試してみようと言いました。祖母の意地は、まったく普通の意地ではありませんでした。

 「帰順工作班」の特務たちは、1年近く西間島の山岳地帯を歩きまわって祖母を苦労させました。ですから、60を越した老身の祖母にしてみればどんなにつらかったことでしょうか。ある日、朴且石は祖母の足の裏に水ぶくれができたのを見て、「おばあさん、とんだ苦労をさせて申し訳ありません。こんな気の進まないことをするので、本当はわたしらも心苦しい思いをしています。さぞ骨がおれることでしょう」と祖母を慰めました。彼は転向したとはいえ、同情心だけはあったようです。祖母は、骨はおれても、孫が戦っている野山を見ると力が湧いてくると言いました。敵が筒先で背中をこづきながら孫の名前を呼べと強要するたびに、祖母は「わたしはそんなふざけたことは言えない。お前らは、わたしを殺して無事でいられると思うのか。孫の鉄砲玉をくらいたければ、やりたいとおりやってみろ」と反対に脅しつけました。事実、「帰順工作班」の連中も、自分たちに成算がないのを知らないわけではありませんでした。彼らはいつ遊撃隊の襲撃を受けるかわからないので、戦々恐々としていました。革命軍司令官の祖母を人質にして引きまわしている自分たちの行脚がどんな報復にあうかは、彼らも十分承知のことでした。「帰順工作班」の特務たちは、なんとかして遊撃隊の銃弾だけはまぬがれたいと考えました。それで祖母に、自分たちは遠く離れて保護するから、その代わり15歳くらいの男の子をお供のつもりで連れ歩き、孫を捜してみてくれと頼みこみました。敵が怖じ気づいて身を隠そうとしているのを見抜いた祖母は、「よりによってなぜ子どもを連れて歩けというのだ。わたしは何がなんでも、ほっぺたのぶよぶよしたお前らとご一緒させてもらうより革命軍が怖くてそんなことをしようとするなら、お前らの上官にそのとおり言いつけてやる」と脅しつけました。そのため特務たちは、逆に祖母に引かれて下手に出る格好になってしまいました。祖母は特務たちをどやしつけながら、気の向くままに行動しました。寒ければ寒くて山へ行けないと言い、疲れれば疲れて休むと言いました。ときには風呂の湯が生ぬるかったり、日本人が先に湯を使った跡でもあろうものなら、金将軍のおばあさんをなんだと思ってわたしをぞんざいに扱うのかとたしなめ、特務たちが食事時に日本料理や中国料理を出すと、朝鮮料理を出せと堂々と要求しました。そのたびに、「帰順工作」に駆り出された連中は、祖母の機嫌をとろうとしました。

 元日の朝、「帰順工作班」を受け持った日本人の督察官は李鐘洛と朴且石を呼びつけ、金将軍の祖母から新年の挨拶を受けたいから、年賀にこさせろと命じました。これを聞いた祖母は苦笑し、「よくもそんなことが言えたものだ、無礼者め! そいつこそ金将軍の祖母のところに年始回りにこいと言え!」ときびしく叱りつけました。督察官はそれを聞き、驚きのあまり手にしていた杯まで落としたそうです。気を損ねると凶器をふりかざし、相手が謝るまで難癖をつけてがなりたてる性悪だったそうですが、その日に限っては気がくじけたのか乱暴沙汰に及ばず、「さすがに金日成の祖母だけのことはある。孫が白頭山の虎というが、彼女もやはり虎のばあさんに違いない」と感嘆してやまなかったとのことです。このように剛直で傲然と構える祖母の前で、朴且石は、毎日、脆弱な変節者としての罪をただされるような気持ちだったと率直に告白しました。「帰順工作班」の特務たちは結局、無駄骨をおっただけで、祖母を万景台へ帰らせました。

 わたしは、朴且石が体験した「帰順工作」状況を聞き取り、祖父母への尊敬の念をいっそう深めました。そして心のなかで、故郷の祖父母に深く感謝しました。朴且石は密営を去るとき、日本人の強要にたえかねて転向はしたが、祖国と民族の前に、とりわけ山中で苦労しているわたしの前に、二度と恥ずべきことはしないと誓いました。わたしは、彼に何本かの野生の朝鮮人参と手紙を渡し、祖父母にそっと伝えてくれるよう頼みました。解放後、祖国に帰って祖父母に、わたしの手紙を受け取ったか尋ねてみると、受け取ったとのことでした。しかし、朝鮮人参は受け取っていないとのことでした。おそらく、朴且石を我々の軍営に送り込んだ日本人の督察官が横取りしてしまったのでしょう。


 <万景台の祖父母は、南牌子密営から朴且石を通して送られてきた手紙を孫の金日成同志が祖国の解放をなし遂げて凱旋するときまで大切に保管していた。その手紙は、1946年5月29日付の『正路』の紙面に掲載されてはじめて世に知られることになった。新聞『正路』は『労働新聞』の前身である。革命を裏切った転向者に処罰や処刑ではなく、密書の伝達というむずかしい頼みごとをした、世にまれな事実によっても、金日成同志の天のごとき度量と寛容をうかがうことができる。朴且石もひとかけらの良心をもっていたなら、その度量の前に人知れぬ涙を流したはずである。彼が上司に手紙を渡さずきちんと伝えたのを見れば、密営での約束を守ったわけである。祖国解放偉業への信念と信義に徹し、つねに楽観的であった血気さかんな20代の将軍の気迫と体臭をじかに感じさせるこの短い手紙が世に公開され、次代にまで伝えられるようになったのは、じつに幸いといわざるをえない。手紙の全文は、つぎのとおりである>


 「おばあさまの深いお気持ちがよくわかりました。
 男児ひとたび国事に身をささげた以上、この身は完全に国のもの、民族のものであることはいうに及びません。
 いずれ遠からず、おばあさまのところへ帰る喜びの日が来るはずですから、ご安心ください」


 <万景台の金日成同志の家族一同は、この手紙を見てひとしく涙にぬれた。その後、李宝益女史は、林水山の属していたいま一つの「帰順工作班」に引き立てられ、北間島一帯であらゆる苦労を強いられた。停戦後、李宝益女史の葬儀に参列した親類縁者と知己たちは、この部分を回顧するときの金日成同志の目に沈痛の色がただよっていたと語っている>


 祖母が再び満州に連れられてきて苦労しているという知らせを受けたのは、わたしが安図県車廠子付近にいるときでした。そのとき祖母を連れて歩いた「帰順工作班」の構成を見ると、日本人の特務が大多数を占めていました。この工作班には、我々の主力部隊で参謀長を務めた林水山も属していました。彼は投降したとき日本の上司に、なんとしてでもわたしをつかまえてみせるとかたく誓ったそうです。この工作班は最初、亨禄叔父を人質として引き立てようとしました。祖母を連れて行っても歯が立たず、得るものがないと判断したのでしょう。亨禄叔父は、祖父母の膝もとに残ったただ一人の息子でした。彼らが万景台にあらわれて叔父を強引に引き立てようとすると、祖父はオンドル床を拳で叩きながら、絶対に許さないとはねつけ、祖母は、わたしの膝もとに一人しか残っていない息子をだしにして長孫をつかまえようというお前らも人の子なのか、天罰がくだるからいまに見ろと叱りつけました。亨禄叔父もやはり、たとえこの場で死のうとも甥をつかまえる仕事には手を貸さないとつっぱねました。敵の強圧で結局、祖母がまた空しい満州行脚の途につくことになりました。祖母には、お前らがいくら馬鹿まねをしたところで金将軍のおばあさんには勝てやしないという腹がまえができていたのです。亨禄叔父に代わって死を覚悟して家を出た祖母は、今度も北間島の険しい山々を幾月も引きまわされましたが、敵の前に一度も志操を曲げることがありませんでした。宿所や路上で、指示どおり動かないからと林水山に責めたてられると、祖母はお前はうちの孫を裏切ったが、わたしは生きようと死のうと孫の味方、朝鮮の味方だ、お前の命がどれくらい続くかこの目で見ようとやり返しました。

 わたしはそのころ、祖母が再び人質として引き立てられてきたという知らせを受け、戦闘を活発に展開しました。これは、わたしが健在で戦いをつづけていることを祖母に知らせる最良の方法であり、言葉では形容できない思いをこめて祖母に送るせめてもの挨拶でした。祖母は我々の戦勝ニュースを耳にするたびに、そばに誰がいようとはばかることなく「さすがはうちの孫だ、偉い! 早く日本軍を全部やっつけて、朝鮮にいる日本人を追い出すんだ」と気勢を上げたといいます。敵は、今度も祖母を故郷へ帰らせざるをえませんでした。それ以来、彼らは人質でわたしをおびきだす工作を打ち切りました。結果を見れば、銃一挺手にしていない老身の祖母が敵を負かしたことになります。しかし、里の家族にたいする軍警の迫害とさげすみは度を増すばかりでした。一家に愛国者が多かったうえに、わたしが革命軍の司令官であったため、わたしの家族は数十年にわたって言い知れぬ苦しみをなめさせられました。日本の植民地支配時代の末期、亨禄叔父は粗末な漁具を手に入れ、彼らの暴圧を避けて南浦へ行き、漁獲で細々と暮らしていました。

 わたしの家門でいちばん苦労が多かったのは祖母でした。解放後、万景台のわが家にもどった最初の日、祖母に「わたしのためにたいへん苦労したことでしょう」と言うと、祖母はかえって明るい笑顔で「わたしの苦労なぞ、お前の苦労に比べられるほどのものではなかった。…苦労といえば日本人のほうがもっとしたはずで、わたしの苦労はなんでもない。お前はお国を取りもどそうと戦ってひどく苦労し、日本人はわたしの世話をやくのに苦労したよ。お前のおかげでわたしはあちこち見物して帰ってきたよ。こんなことはぜいたくというもので、苦労なんぞじゃない」と言うではありませんか。わたしは20年ぶりの帰郷なのに、おじいさん、おばあさんへの手みやげ一つ持てずにきたとわびました。すると祖母は、かえってわたしを諭しました。

 「どうして手みやげがないというのだ。独立より大きな手みやげがあるか! お前が無事で解放をもってきてくれたのだから、これ以上のことはない。お前が大きく、解放が大きいのであって、この世にそれ以上大きいものがあろうものか」

 70に近い田舎の老婆にしては、あまりにも豪放な言葉でした。わたしはそれを聞いて、わたしの祖母は本当にたいした祖母だと感服しました。日本帝国主義の銃剣による支配が頂点に達していたあのころ、祖母が敵の強権と威嚇に屈せず、革命家の母、革命家の祖母としての尊厳と志操をあくまで守り通したことは大きな勝利だといえます。わが国のおばあさんたちのなかには、わたしの祖母のような愛国者がたくさんいました。

 わたしは、ときおりこんなことを考えたりします。祖母は共産主義者でもなく、職業革命家でもない、学校に通ったこともなければ、組織的な革命教育を受けたこともない、にもかかわらず、読み書きもできない田舎育ちの老婆が、なにゆえにあれほど堂々と敵と張り合い、ことごとにあれほど賢く剛直にふるまうことができたのだろうかと。思うに、わたしの家門の気風、そして革命が祖母をそういう女傑にしたようです。わたしの家門の気風とはどんなものでしょうか。この世でもっとも貴いのは国と人民であるから、国と民族のためなら命をも惜しみなくささげるということ、一言でいって、愛国、愛民、愛族だといえます。祖母は、子や孫からかなりの影響を受けたと思います。息子や孫がすべて革命に投じたため、祖母もその影響を受けざるをえませんでした。子が革命に参加する家庭では、おしなべて両親が革命に加わるものです。革命に加われなければ、革命の同調者、援助者にでもなります。人はよく、りっぱな親をもつ子は、その薫陶よろしきを得て有用な人材になると言います。もっともな話です。同じように、親もりっぱな子をもてば、啓蒙され目覚めます。そして、わが子に歩調を合わせるようになります。こういう理由で、家庭の革命化における若い世代の役割がきわめて重要であることをわたしはいつも強調しているのです。もちろん、父が革命家であったからと、その子や孫もおのずと革命家になるというものではありません。革命家たらんとするなら、親の影響も重要ですが、みずからの努力が必要です。夢にも、先祖の恩恵をこうむろうなどと考えてはなりません。わたしは一門の若い世代が、国の独立のためにたたかって倒れた父と烈士のあとを継ぎ、社会主義建設と祖国統一のためのたたかいでつねに先頭に立つことを望んでいます。祖母が晩年にいたっても農耕に専念したのも、結局は国のためであり、社会主義のためを思ってのことでした。

 祖母が敵と強くたたかうことができたいま一つの要因は、我々の力が強大であったことにもあります。敵がわたしにたいする「帰順工作」をくりひろげたころ、朝鮮人民革命軍は全盛期にありました。革命軍の威容と名声が祖母を力づけないわけはありませんでした。もし、我々が革命武力を建設した後、敵との対決で連戦連勝の戦果をおさめられなかったり、広範な大衆を統一戦線の旗のもとに結集させることができず、現状維持の態勢で山中にひそんでいたなら、祖母はあれほど高飛車な態度や敵を負かすことができなかったでしょう。社会主義建設でも理屈は同じです。若い世代が多くの仕事をして大いに力を養ってこそ、祖国が富強になり、人民が高い尊厳と自負を抱くようになります。尊厳というものは、天から降ってくるものではありません。党が偉大であり、領袖が偉大であり、国が富強であってこそ尊厳というものも生まれ、自負も強くなるものです。若い世代が主力となって党と領袖をりっぱに支え、仕事に励んで富強な祖国を建設しなければなりません。


 <1946年6月9日、万景台の村人と抗日パルチザン参加者、平壌市の党・行政機関の幹部は、万景台人民学校で金日成同志の祖母の誕生70周年を祝う宴会を催した。その席には、平壌に駐在していたソ連軍のロマネンコ少将も参加し、抗日革命闘士と各来賓についで祝辞も述べた。祖母の誕生70周年の祝宴が社会的に大きな関心のなかで盛大に催されることを知らずに万景台に来た金日成同志は、各界代表の心からの祝辞を受け、長孫として親族を代表して答辞を述べた。祖母の70年の生涯を数言で集約した答辞の要旨はつぎのとおりである>


 わたしの祖母は、無学の田舎の女性です。けれども、息子や甥、孫が革命に身を投じたとき、それに少しも反対せず、かえって激励し、彼らが革命活動のために膝もとを離れ、あるいは敵の手にかかって死に、あるいは獄につながれ、あるいは行方知れずになりましたが、祖母は決して失望しませんでした。しまいには、敵に引き立てられ、満州まで行ってあらゆる辛苦をなめながらも、初志を貫きとおしました。これは、何を物語っているのでしょうか。それは、祖母が読み書きはできなくても、希望をもって最後までたたかったということを意味します。祖母は、前途を見通し、最後まで希望をすてなかったのです。祖母のその希望は、ついにかなえられました。昨年8月15日の朝鮮の解放がそれです。祖母は、この日を見るためにきょうまで生き長らえ、ついにそれを見ることができました。それゆえわたしは、きょうのこのような宴会がこれに限らず今後も何回となくつづくことを望みながら、あわせて、祖母もさらに長寿を保ってくださるよう望むものです。


 <李宝益女史は1959年10月、83歳を一期として生涯を閉じた。解放後の14年を除くほぼ70星霜は、貧困とたたかい、不幸とたたかい、外敵とたたかった風雪の歳月であった。銃剣の強圧のもとでの2回にわたる満州行脚は、最大の受難であった。しかし、女史は延々数十年に及ぶ暗黒の時代を徒手空拳で生きぬき、孫によってもたらされた解放の日を迎え、この地に、うち立てられた社会主義の楽園を見た。あの息づまる暗黒の時代を経て、女史が長寿を保つことができた秘訣はなんであったのか。80余星霜にわたる女史の受難にみちた生涯の実見者であり立証者である金日成同志の言葉を銘記しよう>


 祖母が長寿を保つことのできた要因の一つは労働です。祖母は祖父とともに、一生を労働で生きてきました。子や孫の衣食をまかなうための不断の労働、これが祖母の肉体と意志を鍛えたのです。たえず体を動かし、人びとの生活に有益な何かをたえず創造する人は総じて長生きするものです。祖母は、心の奥底に夢をたたんで暮らしました。いわば、明確な目的をもってその日その日を有意義にすごしたのです。祖母の生涯は空しく過ぎ去ったように見えますが、実際はそうでありません。一歩一歩に意味があり、目標がありました。前にも話しましたが、祖母は生涯、何かを待ち望みながら生きてきました。解放前は独立の日を待ち望み、解放後はわたしの帰郷を待ち望み、わたしに会ってからは万民が幸せに暮らす日を待ち望み、祖国が統一する日を待ち望みました。一生を期待と希望のなかで生きる人は、長生きするものです。そういう人は、試練にもよくたえます。

 わたしの体験によれば、革命に参加するのは夢が多く理想の高い人です。夢が多く理想が高くてこそ、偉大な発明もします。祖母は、夢の多い人でした。祖母が長寿を保てたのは、夢が多いためだったといっても過言ではありません。思想が確固としていて信念と意志が強いこと、夢が多いこと、勤勉であること、これが祖母に長寿を保たせた秘訣です。祖母李宝益は国家元首の祖母でしたが、一生涯、質素で清廉な暮らしをしました。わたしは祖国に帰った後、党の創立と国家の創建が終われば、祖父と祖母を平壌に呼んで一緒に暮らそうと思いました。けれども、祖父と祖母はそれを望みませんでした。正直な話、それくらいの年齢なら孫の扶養を受けて安らかな余生を送ってもあげつらう人はいません。わが国には革命烈士の遺族を優遇する制度があるし、祖父や祖母はそういう優遇を受けるだけでも、余生を安らかに送れるはずでした。けれども、祖父母は、そういう国の恩恵にあずかることを望みませんでした。また、孫のおかげをこうむってぜいたくをすることも望みませんでした。あくまでも、平凡な庶民として暮らそうとしました。それで、晩年まで農耕をつづけたのです。「仕事のない人がいちばん哀れな人だ」というのが、祖母の素朴な哲学でした。

 一生労働のなかで年老いてきた祖父、祖母にほんの少しの休息でもさせたくて、わたしはときたま二人をわが家に迎えました。そのたびに二人は何か仕事をくれと言いました。それでいつかは、割れたパガジを繕ってくれるよう頼んだこともあります。祖母は、孫嫁がつくってくれる料理は格別おいしい、ひ孫たちを抱くのはなんともいえない楽しみだと言いながらも、仕事がないから退屈でたまらない、土が踏めないのでなんともいたたまれない気持ちだと言って、いつも一週間とたたずに万景台へ帰ってしまうのでした。ときには、生活のたしに何かして差し上げようとすると、祖母は、わたしの心配はしなくてもよいから人民のことを心配せよと言って、いつも断りました。首相も人間なので、わたしだからと自分の祖母に楽をさせてやりたいという欲がないはずはありません。まして、死地をさまよい、辛酸をなめつくして九死に一生を得て帰ってきた祖母ではありませんか。一生涯ひとえの衣服で通した祖母に厚手の綿入れを着せ、誕生日には、1、2本の焼酎なりとも携えて行って、長寿をことほぎたいのが、わたしの偽りない気持ちでした。ところが、祖母は、そんなささやかな誠意すら受け付けませんでした。正直に言って、わたしがもし首相でなく平凡な一般公民であったなら、祖母のために何かしらもう少しして差し上げることができたはずです。自分の手で木をきり瓦家を建ててやり、劇場へ案内して『沈清伝』の観覧をさせるなどして、安らかな余生を送れるようにしたでしょう。しかしながら、わたしは国事に忙殺されていたので、祖母に綿入れの一着もあつらえてやれませんでした。祖母はこの世を去るときまで、曽祖父の代から引き継がれてきた質素な草ぶきの家に住みつづけてきました。わたしは、全国の農村に瓦家を建てるようはからい、驚天動地の大変革をもたらしながらも、自分の祖母には新しい家を建ててやれませんでした。わたしが祖母にしてやったことは、これといって思いあたりません。あるとすれば、老眼鏡を一つ買ってあげたことだけですが、それだけは祖母も快く受け取ってくれました。

 国事に追われて東奔西走するうちに歳月は流れ、祖母は帰らぬ人となりました。こうして祖母と死別してみると、後悔されることが少なくありません。母にたいしてもそうでしたが、祖母にたいしても、わたしは、やはり孝養をつくすことができなかったようです。生前の祖母に綿入れの一着なりともつくってやっていたなら、これほど心が痛みはしないでしょう。



 


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