金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 楊靖宇との出会い


 <金日成同志は抗日革命の道に投じた当初から、中国人民との共同闘争、中国共産主義者との国際主義的連帯を重視し、中国各階層の愛国勢力との反帝共同戦線をはるためにあらゆる努力をつくした。その過程で中国の多くの指導者や革命家、軍事幹部と親交を結んだ。東北地方の著名な抗日連軍指揮官であった楊靖宇は、金日成同志が共同抗日の日々、生死をともにした中国の名望ある革命闘士の一人である。楊靖宇についての金日成同志の回想には、中国人民と中国共産主義者への厚い友愛の情が脈々と流れている>


 楊靖宇は、李紅光、李東光とともに南満遊撃隊の建設と発展に大きな功労のあった人です。南満遊撃隊は抗日連軍第1軍に発展しましたが、その軍長がほかならぬ楊靖宇でした。

 我々は、抗日武装闘争の時期、朝中両国人民の共同闘争に大きな意義を付与し、抗日連軍各部隊との連合と協同をめざして努力を傾けました。これは、朝中人民の共同闘争の利益に全的に合致するものでした。そのため、2回にわたる北浦州への遠征を断行し、曹国安指揮下の第1軍第2師部隊との共同作戦も展開し、南満部隊との連係も深めていきました。南満部隊では、我々に人員を多く求めてきました。我々は彼らの要請どおり、わたしが手塩にかけて育てた軍事・政治幹部も少なからず派遣しました。そういう過程を通じて南満州の共産主義者との連携が深まり、南満州の軍事・政治幹部との同志的な親交も深まりました。我々が南満部隊を積極的に援助したことにたいし、楊靖宇はいろいろな経路から謝意を表してきたし、わたしも人づてにたびたび楊靖宇の安否を尋ねました。わたしと楊靖宇は、このように共同闘争の過程を通じてたえず親交を深めました。

 わたしがはじめて楊靖宇に会ったのは、1938年の秋、南牌子で朝鮮人民革命軍と東北抗日連軍の軍事・政治幹部が集まって会議を開いたときでした。南牌子は、たいへん意義深いところです。濛江県へ行くと牌子という大森林地帯があります。牌子の特徴は、樹林が生い茂り、湿地がとても多いことです。抗日遊撃隊員たちは、この湿地の泥沼をフンドルレパン(揺れ地)と呼んでいました。泥沼には、コジゲをはじめ、いろいろな雑草が生い茂っていました。そこへうっかり足を踏み入れようものなら一大事です。泥沼がまたたく間に人を呑みこんでしまうのです。こういう泥沼は底なしだといいます。茂山地区戦闘勝利記念塔の右側の草原にもこれに似たところがあります。牌子の大森林地帯を方向別に、東牌子、西牌子、南牌子と呼んでいました。我々が1937年の冬に軍事・政治学習をしたところは東牌子付近であり、楊靖宇をはじめ、東北抗日連軍の幹部とともに熱河遠征の後遺症を清算する重要案件をもって会議を開いたところは南牌子でした。人も馬もあっという間に呑みこんでしまう泥沼が無数にあり、地勢の険しい南牌子は、部隊が秘密裏に集まって会議をするにはうってつけの場所でした。南牌子会議を一名濛江会議ともいうのは、南牌子が濛江県に属していたからです。

 南牌子会議を前後した時期、朝鮮革命にはきわめて複雑な難局が生じていました。その一つは、朝鮮革命を圧殺しようとする敵の攻勢に起因するものであり、いま一つは、コミンテルンの一部の人の極左冒険主義的行動に起因するものでした。当時、日本侵略軍は中国の南方へ攻撃のほこさきを向ける一方、後方の安全をはかるという美名のもとに、東北抗日連軍部隊にたいする「討伐」に拍車をかけていました。敵の反革命攻勢は、我々の武装闘争と抗日革命全般の発展をはなはだしく抑制していました。極左冒険主義がまねいた熱河遠征の後遺症も並大抵のものではありませんでした。熱河遠征の結果が示しているように、コミンテルンの指令が実情に合わない無謀なものであり、その遠征によって抗日革命が重大な損失をこうむったことが明白になった以上、黒白をつけてその後遺症を清算すべきだということは、誰もが認める切実な問題でした。革命の前に立ちはだかる難局を打開するには、敵の攻勢に対処する新たな戦術的方案と、極左冒険主義の後遺症を清算する実践的対策を早急に立てる必要がありました。そのために、朝鮮人民革命軍と抗日連軍第1軍管下の部隊が南牌子に集まることになったのでした。

 そのとき、わたしは楊靖宇を待ちわびていました。彼が熱河遠征で甚大な被害を受け、そのうえ濛江へ来る途上でも多くの苦労をしていたからです。楊靖宇もわたしと会う日を待ちこがれていたとのことです。我々は、楊靖宇部隊の道案内を務めるメンバーを前もって差し向け、寝食の準備も十分にととのえ、彼らに供給する被服まですべて準備しておきました。

 苦労の末の出会いであっただけに、わたしと楊靖宇の対面はじつに感激的なものでした。楊靖宇のぎらぎらとした目は、出会いの瞬間からわたしの心を引きつけました。人が千両なら目は八百両という言葉もありますが、わたしは楊靖宇の目を見て、彼が誠実で情熱的な男であることを即座に感じとりました。我々は、焚き火のそばで簡単な対話をしました。体が少し温まると、楊靖宇はだしぬけに、第1軍の朝鮮人隊員の話をもちだしました。第1軍部隊には多くの朝鮮人隊員がいたが、いずれも勇名をとどろかせた戦士たちだった、だが、彼らはみな生きてここに来ることができなかった、惜しい戦友を失ったとしきりに痛嘆するのでした。彼が朝鮮の同志たちを失ったことをあまりにも嘆くので、わたしがむしろ彼を慰めなければならないくらいでした。

 わたしと楊靖宇は、日本帝国主義にたいする共同闘争で運命的に結びつけられていました。1930年代の前半期、南満州一帯では大刀会軍であった遼寧救国義勇軍総司令の王鳳閣が楊靖宇と並ぶ英雄になっていました。彼らは、東辺道一帯で数々の戦闘を展開し、血も多く流しました。我々が西間島一帯を活動舞台にして以来、敵は、わたしと楊靖宇、王鳳閣の名を並べ連ねるようになりました。王鳳閣と夫人が殺害された後、敵の目はわたしと楊靖宇に集中しました。敵が金日成軍とも呼んだ朝鮮人民革命軍と楊靖宇部隊は、東満州と南満州で日本帝国主義者を実力をもって圧倒した2大武装勢力になりました。敵側の極秘文書を見ると、わたしと楊靖宇の名を書き連ねた個所を多く見出すことができます。新聞や雑誌もそうでした。


 <日本のある楊靖宇研究家は、吉林について記述した個所で「青年金日成が反日活動をして投獄された街」「楊靖宇が遊撃区に入る前にとどまった街」といった書き方をし、またある文章では、抗日運動が激しかった満州の地図に「楊靖宇と金日成が抗日遊撃戦争を展開した南満州地域」という説明文を書きそえている。楊靖宇の戦死についての文章では、彼が抗日ゲリラの指導者として、日本では金日成に次いでよく知られていると書いている。ここに当時の資料を補足しておく。「金日成は純粋の共産遊撃隊で、30歳に満たない若輩であるが…臨江、撫松、濛江、長白などいわゆる未討伐地帯に蟠踞し、現在約5百名の部下をもっていると思える。現在としては東辺道第一の集結勢力である」(『鉄心』1937年5月号、106ページ)>


 対話を終えて、わたしは設営しておいた宿営地に楊靖宇一行を案内しました。秩序整然と設営された幕舎を見た第1軍の戦友たちは、驚きの色を浮かべました。彼らは、それが自分たちのための幕舎であることをなかなか信じようとしませんでした。我々が、第1軍幹部用の指揮部の幕舎へ楊靖宇を案内すると、彼はたいへん感激しました。金司令の部隊が客人を手厚くもてなすとはよく聞いていたが、この谷間に来てこんな歓待を受けようとは夢にも思わなかった、この冬がどんな冬なのかと言って、すぐには幕舎に入ろうとしませんでした。幕舎に入って、数か月分の疲れを解き、ぐっすり眠るようにとすすめましたが、かたくなに辞退しました。彼が言うには、この部隊の戦友たちにまだ到着の挨拶もしていないのに、疲れを解くとは何事かということでした。わたしはそれを聞いて、楊司令は普通の人物ではないと思いました。隣接部隊から我々の部隊に来る客人は多かったが、彼のように宿所に軍装を解く前に到着の挨拶を先にしようとせく人はほとんどいませんでした。

 わたしに最初、楊靖宇の話をしてくれたのは童長栄でした。童長栄は大連で党活動をしているとき、楊靖宇のうわさを耳にしたようです。撫順炭鉱の労働者たちは、楊靖宇を実兄のように慕ったそうです。

 第2師師長の曹国安も部隊を率いて我々の密営にとどまっていたとき、楊靖宇についていろいろと誇らしげに話したものです。楊靖宇は、撫順党特別支部の書記に任命されたとき、擬装工作のため馬尚徳という本名を張貫一に直し、山東から職を探しにきたという名目で労働者のなかに入っていきました。山東出身の人が多く住んでいる撫順地方に腰をすえるためには、山東人に擬装するのが有利だったのでしょう。あるとき、撫順炭鉱の労働者が、日本人の経営主を相手にストライキを起こしたことがあったそうです。直ちにストライキを決行しなければならないのに、炭鉱には労働者の権益を擁護して立つほどの人物がいませんでした。それで炭鉱夫たちは、いつも道理にかなったことを言う楊靖宇をリーダーに推しました。楊靖宇は、自分の決心どおりストライキを頑強に展開しましたが、とうとう警察に逮捕されました。彼は警察に拘留されても、労働者の権益を擁護して主張を通し要求も押し通しました。そして、どんな拷問や脅迫にも決して屈しませんでした。地下組織は、炭鉱夫たちの助力を得て、敵の手から楊靖宇を救出しました。

 わたしは楊靖宇の望みどおり、我々の密営に彼を案内しました。我々の密営は、尾根一つを隔てて、第1軍の戦友たちが宿営する密営と隣り合っていました。わたしの連絡を受けて、全部隊が密営の前に整列していました。楊司令は、その間の重なる熱河遠征でみな大きな被害をこうむったのに、兵力がこのように無傷で保たれているのは、金司令が定見をもって部隊をりっぱに統率してきたおかげだ、それに反し、自分は部下をほとんど失ってしまった、食べる物も着る物も寝ることもままならず、熱河へ進撃する途中で倒れた部下を思うとひとりでに涙が出る、きょう、その部下を全員率いてここに来たのなら、どんなに誇らしかったことだろうかと涙ぐむのでした。彼が戦死した隊員をしのんで涙する姿を見て、わたしは感動せずにはいられませんでした。彼は、部下をこよなく愛する司令でした。

 わたしは、行軍路で多くの苦労をした楊靖宇をねぎらってささやかな酒席をもうけました。酒席とはいっても、卓に乾物を置いて1、2杯の酒を酌み交わす程度のものでした。彼は革帯を解くのは久しぶりだと言って、腰の拳銃と戦闘カバンまではずしました。彼と一緒に南牌子に到着した徐哲は、その光景を見て、あれは例のないことだ、楊司令は誰の前でも軍服をきちんと着け、武官らしい体裁をつくろうことに人一倍気をつかう人なのに、きょうはまったくの無礼講だとわたしの耳もとでささやきました。

 初対面でしたが、楊靖宇は、その日多くのことを語りました。彼が、かつて工業学校に入学して紡織捺染を専攻したという話を聞いて、わたしはびっくりしました。未来の抗日連軍司令が紡織捺染を専攻したということ自体が、なんと興味あることではありませんか。彼の話によれば、工業学校で紡織捺染を専攻したのは、代々着るものも着られず貧しい暮らしをしてきた中国の同胞に、きれいな布地で服をつくってやりたかったからだったとのことですが、これは階級意識のあらわれだと思います。搾取され抑圧される人民大衆のために革命闘争に参加しようという決心は、こういう階級意識から生まれるものです。彼は10歳余の学生時代に、すでに学校当局の不公正な教育施策に抗して立ち上がったといいます。この事実一つからしても、彼が人一倍剛直で正義感の強い人であることがわかります。楊靖宇はもともと東北の出身ではなく河南省の人ですが、共産党の委任で東北地方に来て地下党活動もし、武装闘争もしました。最初は、撫順地方で中国共産党撫順党特別支部の職務につき、のちにハルビンで地下党活動をしました。満州事変が起こり、東北各地で抗日武装部隊が続々と生まれていた1932年の秋に、中国共産党満州党組織は楊靖宇を南満州の巡視工作にあたらせました。彼が南満州に派遣されることになったのは、南満遊撃隊の構成上の特性とも関連していました。南満州の住民構成で大多数を占めるのは中国人でした。ところが、磐石で組織された南満遊撃隊は、最初は全員が朝鮮人からなっていました。南満遊撃隊の組織者である李紅光と李東光も朝鮮人であり、その麾下の隊員もすべて朝鮮人でした。このため、南満遊撃隊は、初期に大きな苦渋を体験しました。漢族と満族が大多数を占める土地で、朝鮮人だけの遊撃隊が組織されたので、広範な住民大衆の保護を受けるのもむずかしく、補充人員を得るのも困難でした。

 南満遊撃隊に派遣されていった人のなかには、ハルビンで共青の活動をしているときに我々と連係を保っていた徐哲も含まれていました。徐哲は朝鮮人ですが、中国人を装い、南満遊撃隊へ軍医官として派遣されていきました。組織では彼に、南満州では李紅光と李東光にだけ自分が朝鮮人であることをうち明け、他の人たちの前ではあくまでも中国人として行動するよう指示しました。貧しい火田民の子であった徐哲は、ハルビンで苦学をして医学専門学校を出たインテリ青年でした。彼は、中国語に堪能で、中国人の風習にも通じていました。それは、彼が幼いころから中国人のなかで生活したからです。徐哲が革命の戦列に加わるようになった過程を見ると、面白いエピソードがたくさんあります。彼が、小学校に通っていたころの話だそうです。ある日、日がな一日、野原で牛に草をはませて家に帰ってくる途中、警官にひどい目にあわされました。牛の背にまたがって家に帰る彼に、警官がとんでもない言いがかりをつけて乱暴を働いたのです。警官は、いきなり牛の背から徐哲を引きずり下ろして蹴りつけ、警官殿のお通りだというのに生意気に挨拶もせず、牛の背で偉そうな顔をしていると怒鳴りつけました。いまにして徐哲は、朝鮮労働党の政治局員にまでなりましたが、そのときは口答え一つできず痛い目にあわされました。そして、そのために数か月間、いわれのない苦労をしました。以来、彼は、警官といえば目の仇にし、彼らとぐるになって立ちまわる地主や役人たちも憎むようになりました。幼いころから中国の風土に順化し、東北の人たちの慣習になじんできた彼は、中国人に変身して南満遊撃隊を苦境から救ううえで格好の人物でした。彼は組織の期待どおり、中国人然としてふるまい、磐石遊撃隊の権威の向上と軍民関係の改善に少なからず寄与しました。

 楊靖宇が南牌子に来たとき、引率してきた部下の数はいくらにもなりませんでした。彼は、熱河遠征で受けた損失を思うと胸が張り裂けそうだと言いました。楊靖宇の部隊は遠征の過程で多くの血を流しましたが、集安から濛江へ脱出してくる行軍の過程でも言い知れない辛苦をなめたとのことです。敵は、飛行機や大砲などの重兵器まで動員し、彼の部隊を息つくひまもなく追撃しました。全部隊が包囲されて苦戦したこともありました。空中からは飛行機が来襲してくるし、前からは程斌が投降せよと呼号し、四方から大砲を撃ちまくって包囲網を狭めてくるし、脱出のすべがなかったといいます。彼は第1軍の朝鮮人戦闘員がとくに勇敢に戦ったと言い、もっとも苦しかった外岔溝戦闘のとき勇猛を発揮した朴先鋒連隊と朴成哲中隊にたいする賛辞を惜しみませんでした。楊靖宇は、外岔溝戦闘のとき最期を覚悟したそうです。外岔溝を突破する戦闘で決定的役割を果たしたのは、朴成哲の引率する中隊でした。朴成哲中隊の決死隊員は全員肉弾となって突破口を開きました。楊靖宇部隊の救出にあたって朴成哲が立てた戦功には大なるものがありました。楊靖宇は、あのとき自分の部隊に朝鮮人の隊員がいなかったら、外岔溝で敵の包囲を突破できず全滅していたはずだ、もし中朝両国の共産主義者が抗日連軍を編成せず別々に活動していたなら、こうして南牌子に来て金司令に会うことはできなかっただろうと言うのでした。そして、朝鮮人の幹部を多数養成して派遣してくれたことに心から感謝すると言いました。

 我々が南牌子でおこなった会議は10日余りだったと思います。南牌子会議では、熱河遠征の極左冒険主義的な本質と、その重大な結果が辛らつに分析、批判され、その後遺症を清算する対策が真剣に討議されました。会議では、敵の大規模の攻勢に対処し、朝鮮人民革命軍の各部隊が、白頭山を中心とする国境一帯へ進出して軍事・政治活動を積極的に展開する問題と、破壊された祖国光復会の組織を立て直し、大衆政治活動をいっそう活発に展開する問題、革命において自主的立場を堅持する問題などが討議、決定されました。そして、人民革命軍部隊を方面軍に編成し、その指揮官を任命し、各部隊の活動区域を分担しました。

 歴史学者は、南牌子会議の政治的・軍事的意義を正しく叙述する必要があります。南牌子会議は、南湖頭会議と並んで、朝鮮革命と東北革命の主体性の強化において大役を果たしたといえます。革命の主体性とはなんでしょうか。独自の判断と決心によって、自国の特性と実情に即して革命を自主的に進めていくということです。

 南牌子会議を契機にして、朝鮮革命はさらに一歩質的な飛躍を遂げました。人民革命軍の全将兵は、この会議に大きく鼓舞されました。人民革命軍の隊員は、苦難の行軍のような試練を意志や忍耐力だけで克服したのではありませんでした。彼らは、南牌子会議の精神に大きく力づけられたのです。その力は行軍の全行程で、わたしとわたしの戦友たちをひたすら前へ前へと推し進めてくれました。我々は1939年の春、北大頂子会議で南牌子会議の方針を再確認し、国内へ進出することを決定しました。南牌子会議で重要な路線上の問題が採択されていなかったなら、敵に十重、二十重に包囲されていたあのきびしい環境のもとで、我々が長白の峻嶺と雪原を踏み分けて祖国へ進出し、銃声をひびかせることはできなかったでしょう。茂山地区に鳴りひびいた朝鮮人民革命軍の銃声は、南牌子会議と北大頂子会議の結実です。

 わたしは南牌子で、我々の部隊の隊員で楊靖宇と魏拯民の警護連隊を新たに改編し、その連隊に多くの人員を補充しました。指揮官も再任命し、楊靖宇には伝令もつけてやりました。警護連隊の改編過程を通じて、朝中両国共産主義者の親善と友愛はいっそう深まりました。南牌子会議が終わったのち、各部隊は分担されたそれぞれの作戦地域へ出発しました。楊靖宇との別れは、出会いの日のように印象深いものでした。我々は両国革命家の名誉にかけて、必ずや禍を福にかえ勝利者となって再会しようと約束しました。しかし残念ながら、その後わたしは楊靖宇と二度と会うことができませんでした。

 楊靖宇は我々と別れた後、樺甸、敦化、濛江、輝南、撫松、金川などで積極的な軍事活動を展開しました。「東南部治安粛正特別工作」という名で強行された敵の「大討伐」のため、彼の部隊は折り重なる困難とたたかわなければなりませんでした。もっとも困難だったのは、越冬の準備だったといいます。越冬準備のためには、戦闘をしなければなりませんでした。楊靖宇は、分散活動の方法で「大討伐」をまぬがれようとしました。そういう決心をしたのはもちろん、遊撃戦の原則に反することだとはいえません。原理的に見て、正しい戦術も状況に即して用いるべきであって、そうしなければかえって禍をまねくことになります。軍事的状況というのは、千差万別で変転きわまりないものです。小部隊で分散活動をすれば、敵の視野からは比較的容易に抜け出すことができます。楊靖宇もこの点を考慮に入れて「以整化零」「以零化整」を巧みに結合する方法で敵を討ち、部隊の危機を打開しようとしたはずです。しかし、新たな状況の要請にもとづいて分散した小部隊を大部隊の兵力として集結しようとしたとき、それが思惑どおりにいかなかったようです。大敵の包囲のなかにある状態で分散活動のみをするなら、敵が大部隊で攻撃してくるとき、それを撃破することはできません。敵を撃破できなければ結局は追撃されることになりますが、そうなると完全に受け身に立たされます。分散活動の最中に大部隊と遭遇してやむなく一戦を交える場合にしても、分散活動をする側が不利なのはいうまでもありません。楊靖宇の部隊が小部隊に分散して行動していることを探知した敵は、さらに大規模の兵力を投入し、挟撃掃滅作戦を強行しました。そのうえ、楊靖宇は流動作戦を展開せず、密営を設けてひと冬そこにこもっていたので、敵の集中的な「討伐」をまぬがれることができませんでした。驚くべきことは、この「討伐」作戦の最先頭に立ったのが、かつての楊靖宇麾下の師長で反逆した程斌であったということです。1940年正月に通化省警察隊の隊長になった程斌は、濛江県西南で楊靖宇部隊の主力と遭遇し、6時間ものあいだ交戦しました。また2月初には、他の警察大隊とともに再び楊靖宇の主力と交戦しました。楊靖宇は1940年2月、濛江県のある森林のなかで敵「討伐隊」と真っ向から戦って壮烈な最期を遂げました。最後の決戦がくりひろげられたとき、彼のそばには警護隊員たちしかいなかったといいます。そういう状態で敵の包囲に陥ったのです。敵は投降せよと連呼しました。しかし、楊靖宇は、両手に拳銃を握り、熾烈な銃撃戦をくりひろげて倒れました。彼を最後まで護衛したのは、わたしが南牌子で譲った伝令の李東華でした。李東華は、楊靖宇が倒れる瞬間まで、彼と運命をともにしました。我々が新聞紙上で楊靖宇の最期にかんする悲報に接したのは、大馬鹿溝戦闘の直後だったと思います。敵を掃討して手に入れた新聞に彼の戦死を報じる記事が載っていたのです。わたしはそれを見て以来、食欲をなくしてしまいました。出身も民族も違いましたが、わたしは彼との出会いを思い起こして人知れず涙を流しました。

 敵は、楊司令の生首を写真に撮りました。そして、その写真を飛行機で満州各地にばらまきました。彼らは、楊靖宇の腹まで割いてみました。なんの食べ物もない山中で、彼がいったい何を食べてあれほど超人的な闘魂を発揮したのかを知りたかったのでしょう。彼の胃袋には穀粒一つ見られず、乾草と草の根、樹皮をかみ砕いたものがあるだけでした。文字どおりの草根木皮でした。

 南牌子で楊靖宇との友情を分かち合った同じ時期、我々は、金周賢、金沢環、金永国など、もっとも大事にしていた3名の指揮官を失いました。それで、わたしはなおさら、南牌子が忘れられないのです。

 解放後、中国では、楊靖宇の名にちなんで、彼の戦死した濛江県を靖宇県と改称しました。中国で楊靖宇烈士をしのんで通化市に「靖宇陵園」を設け、その開園式を催したとき、わたしは彼の霊前に花輪を贈りました。

 解放後、中国共産党の指導者の一人は、東北抗日遊撃戦を位置づける文で、20余年の中国共産党の歴史でもっとも困難であった戦いは、第1に2万5千里の長征であり、第2に労農紅軍主力の長征後、南方に残留した紅軍の3年間の遊撃戦であり、第3に東北抗日連軍の14年にわたる苦闘であったと回顧しています。東北抗日連軍の英雄的抗戦の旗には、中国人民が生んだ熱烈な共産主義者楊靖宇の血もにじんでいます。朝鮮人民は、共同抗日の道で楊靖宇が積みあげた輝かしい闘争業績を永遠に忘れないでしょう。



 


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