金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 熱河遠征


 <熱河遠征は、中日戦争勃発を前後した時期、朝鮮人民革命軍の軍事・政治活動と国内革命運動の発展に重大を難関をもたらし、抗日運動全般に甚大な損失を及ぼした教訓的な出来事である。この遠征は1930年代の中期、世界各国における革命運動方略が「国際路線」によって提起されていた状況で、各国の民族革命が経なければならなかった一般的な難関がいかなるものであったかを立証する実例の一つであり、具体的には朝鮮革命の自主路線がいかに困難な闘争を通じて固守され貫徹されてきたかを示す特記すべき歴史的事実である。金日成同志は、コミンテルンから熱河遠征計画がはじめて通達されたときのことをつぎのように回顧している>


 熱河遠征として知られている遼西、熱河地区への遠征計画がはじめて我々に伝えられたのは、1936年の春でした。朝鮮人民革命軍の指揮官と王徳泰をはじめ、東北抗日連軍部隊の指揮メンバーが一堂に合した席で、魏拯民からコミンテルンの指示だとして、熱河方面への遠征計画が伝達されました。熱河遠征の内容を一言で要約すれば、東北地方の抗日武装部隊が遼西と熱河方面へ進出し、東征抗日、失地回復のスローガンのもとに熱河方面へ進撃する労農紅軍部隊との連合作戦によって、中国関内に侵攻する日本帝国主義侵略軍を制圧するというものでした。コミンテルンのこの遠征の戦略的目的は、北上東征する労農紅軍(後の八路軍)と西征する抗日連軍部隊とが熱河領域で合流して、中国関内と東北地方での抗日闘争の一体化を実現し、抗日運動全般の新たな高揚を起こすというものでした。

 当時、南満州の第1軍と吉東地区の第4軍、第5軍、北満州の第3軍、第6軍など、東北地方の抗日連軍各部隊は、長春の東側と東南部、そして東北部地域に半円弧形をなして分布していました。コミンテルンの戦略的意図は、この半円弧を西方に圧縮して長春を半円形に包囲攻撃し、熱河の界線まで進出して北上する労農紅軍部隊と合流し、中国関内に侵攻する日本帝国主義侵略軍に打撃を加えるというものでした。コミンテルンは、熱河遠征計画を実行することにより、関内革命と関外革命が統一的な連関のもとに展開される新局面を開こうとしたのでしょう。日本帝国主義が東北3省を占領し満州国をつくりあげたころ、中国での反日闘争は主に東北地方に限られていました。2万5千里長征の過程で中国共産党内の「左」翼日和見主義路線が粉砕され、新たな指導体系が確立されて以来、中国人民の抗日闘争はより高い発展段階に入りました。関内における抗日運動の急激な成長は、東北地方の人たちを大いに力づけました。


 <熱河遠征計画が通達されることによって、熱河は再び世界の耳目を集める中日対決の灼熱地点となった。渤海湾方面に位置する熱河は、清国時代の熱河省都で、満清の歴史と深いつながりのある都邑である。熱河が清国の歴史と深いつながりをもつようになったのは、そこに康煕帝が建てた清朝の離宮があったからであり、また広寒宮と呼ばれたその離宮で清朝の名高い乾隆帝が生まれたからであるという。熱河は、天険の要害としても知られていた。熱河西南方の山脈が万里の長城の拠点となっていることを見ても、この地帯が古来、軍事的に重視されてきたことがわかる。熱河がこのように由緒のある地方であったため、19世紀の実学思想家の一人であった朴趾源も、李朝封建政府が遣わした使臣に随行して中国へ行き、「熱河日記」という長文の紀行文を残した。これには、中国の文物や風習とともに、熱河の実状が生き生きと記されている。熱河がはじめて世界的な範囲で人々の耳目をひく地帯となったのは、9.18事変以後、日本帝国主義が関内への侵攻ルートを開くため錦州と熱河を占領したときからである>


 コミンテルンから熱河遠征計画が通達されたとき、それにたいする反応には各論があったといえます。王徳泰は西征計画に懐疑的な態度を示しました。彼は、数千名にすぎない遊撃隊の陣容をもって敵の軍勢が密集している満州国の首都を包囲せよということもそうだし、山岳地帯の本拠を離れて遠く平原地帯へ進出せよというのも冒険だ、それは遊撃戦の要求にも合わない、関内で労農紅軍が東征するからと我々が西征するわけにはいかないし、すでに大都市の攻撃戦にも失敗しているのに、我々にその前轍を踏ませようとするのは一考を要する問題だと言うのでした。

 軍閥間の混戦がくりひろげられていた1930年代初期に中国共産党中央の指導権を握っていた李立三は、革命情勢発展の有利な側面を一面的に誇張し、まず一つの省またはいくつかの省での革命の勝利を可能だとする冒険主義的決議を採択させ、各主要都市で政治ゼネストと武装蜂起を起こさせました。党指導部のこの措置に従い、紅軍はいくつかの主要都市を攻撃しました。しかし、この作戦は成功しませんでした。こうした前例からしても、一部の人がコミンテルンの作戦計画に不満の意を表明したのは当然のことでした。当時、抗日連軍部隊で活動していた大部分の共産主義者は、コミンテルンの指示をすべて公明正大なものとして受け入れていました。そういうときに、一部の指揮官が遠征計画に疑念を抱いたのは注目すべきことでした。

 しかし、魏拯民は、こういう意見にとくに耳を傾けようとしませんでした。彼は、指令の伝達者としてコミンテルンの計画を弁護しました。今回の遠征には、南満州、東満州、北満州の抗日連軍部隊がすべて参加することになっている、国内の形勢もきわめて有利だ、したがって、あながち勝算がないわけではないと他の意見を軽く退けてしまいました。魏拯民はその後、金川県へ行き、東北抗日連軍第1軍の軍事・政治幹部たちにもコミンテルンの熱河遠征計画を伝達しました。

 楊靖宇は、その計画を伝達されてたいへん興奮したそうです。彼は最初から、コミンテルンの指示をそのとおり実行する意思を明白に表明しました。もともと、楊靖宇は、関内革命との連係を結ぼうと意識的に努力していた人です。南満州の遊撃根拠地は関内と距離が近かったので、そういう連係は十分可能でした。当時、関内の労農紅軍は、全国的な抗日救国運動の高揚を起こすためすでに北上し、東征の途上にありました。楊靖宇は、東征する関内の抗日先鋒軍と力を合わせて敵の封鎖を突破し、東北抗日遊撃戦と関内抗日戦を連結し、共同作戦も実現しようと考えていたのです。楊靖宇が熱河遠征計画をどれほど積極的に支持したかは、その後、2回にわたる明白な失敗にもかかわらず、またも熱河方面へ進出した事実や、『西征勝利の歌』までつくって部下を遠征へと鼓舞したという事実を見てもよくわかります。

 コミンテルンの極左冒険主義者は、我々にも熱河遠征を断行せよという指令を何回も通達しました。1936年春の最初の指令についで、中日戦争が勃発した1937年の夏と1938年の春に、重ねて熱河遠征に参加するよう促しました。コミンテルンが一次、二次の遠征を求めた1936年と1937年は、朝鮮人民革命軍が白頭山地区と西間島一帯に進出して、党創立の準備と統一戦線運動を積極的に推進する一方、武装闘争を国内深くに拡大して意気天を衝く時期であり、朝鮮の共産主義者が自国の革命は自分が責任をもって遂行すべきだという自主的立場をいつにもまして堅持し、朝鮮革命の主体を強化するために全力を傾けていた時期でした。革命の前途は洋々としていましたが、我々の前にはなすべきことが山積していました。我々の努力によって、鴨緑江沿岸と国内では、革命組織が雨後の筍のように生まれ、数千数万の革命家が育っていました。朝鮮人民革命軍には、それらの組織と革命家の活動を武装をもって保護し、白頭山地区と西間島を拠点にして国内革命を一大高揚へと引き上げるべき重大な課題が提起されていました。

 こうした時期に勝算のない熱河遠征を強いられたのですから、我々の気持ちは推して知るべしです。コミンテルンは遠征を強要しましたが、わたしは最初からそれを無謀なことと判断しました。我々は当時、みずからうちだした朝鮮革命の主体的路線を固守しながら白頭山根拠地を新たに設け、曹国安の第1軍第2師と協同して西間島一帯で大規模の戦闘も数回にわたって展開しました。また、大規模の国内進攻作戦も積極的に展開しました。一方、第1軍が占めていた南満州の一部の地域の軍事的空白も埋めながら、遼西と熱河方面へ進出した遠征部隊の活動を誠実にバックアップしました。言うならば、武装闘争の火の手を国内に拡大するという自主的な路線を堅持しながらも、コミンテルンが示した路線の実行に有利な局面を開く一石二鳥の成果を上げていたわけです。南満州の武装部隊が熱河と遼西方面へ進出している最中、コミンテルンの指令を伝達した魏拯民自身は第1軍部隊と行をともにせず、多くの場合我々と一緒にいました。

 熱河遠征計画がきわめて無謀で非現実的な軍事作戦であったということは、中日戦争勃発後いっそう明白になってきました。しかし、コミンテルンはこの時期にいたっても「半円形包囲」の夢をすてず、抗日連軍の各部隊になおも勝算のない西征を促しました。中日間の対決が全面戦争に発展し、それを機に抗日運動が急激に高揚するや、コミンテルンは再び「半円形包囲」を成功させる決定的な時期が到来したとみなしたようでした。中日戦争が勃発したその年、中国では第2次国共合作が実現しました。共産党の指導する労農紅軍は、国民革命軍第八路軍に改編され、綏遠、察哈爾、熱河への進撃を企図して気勢を上げていました。コミンテルンは熱河遠征にかんする新たな指令で、朝鮮人民革命軍の主力部隊が以前に第1軍の占めていた海竜、吉海線方面へいっそう深く進出して、長春を半円形に包囲する作戦に直接参加し、熱河方面へ進撃する第1軍の活動を積極的に支援することを求めました。この要求どおりにするなら、我々は朝鮮革命の策源地である白頭山根拠地を離れ、遠く西方へ移動しなければなりませんでした。中国本土全体が戦場と化した状況にあって、八路軍熱河進撃隊との合流という問題設定は正直なところ、意味がありませんでした。

 我々が熱河への遠征計画を非現実的なものとしたいま一つの理由は、それが遊撃戦の要求に合わないという事情とも関連していました。遊撃隊が山岳地帯を離れて平野へ進出するというのは、魚が水を離れて睦に上がるにひとしい危険千万な冒険でした。東満州と南満州、北満州の山岳地帯は、共産主義者によって早くから開拓されてきた地帯であって、大衆的基盤が強固で地理的にも深く知りつくされている地域でした。ところが、抗日連軍部隊が本来の活動区域を離れて熱河や遼西まで到達するには、敵の要衝が密集している南満鉄道界線の広い平原地帯を通過しなければなりませんでした。その広大な平地や、大砲や戦車などの重兵器を備えている敵の正規軍と遭遇するなら、軽火器しかない遊撃隊はどういうことになるでしょうか。そんな場合の戦闘がどんな結果になるかは火を見るよりも明らかです。熱河は、八路軍の側からすれば万里の長城さえ越えれば至近距離の地域ですが、東北の抗日連軍側からすれば数百里も離れた遠方でした。相対的に劣勢の遊撃隊が、数量において数十、数百倍に達する敵が要所要所をかためている平野地帯を通過して、そんな遠距離を行軍するというのは、初歩的な軍事常識にも反することでした。

 わたしは、熱河遠征が軍事戦略上無謀な遠征であることを魏拯民に何度も話しました。熱河遠征が必ずしも必要であるのかということにたいしては、魏拯民もしだいに半信半疑の態度をとるようになりました。それでいながら彼は、中日戦争が起きた状況下では、遠征の成功が中国全土での抗日を高揚させることになり、抗日第一の旗を一貫して堅持している共産主義者の堅実な反日精神と真の愛国主義を誇示することになるのではないかという一抹の未練はすてきれずにいました。熱河遠征が成功すれば、蒋介石を積極的な抗日へと導くうえでも有利な局面を開くことができるというのが彼の見解でした。わたしは魏拯民に、中国全土で抗日を高揚させるのも必要であり、共産党の真面目を誇示するのも必要であり、また蒋介石を積極的に抗日へと誘導するのももちろん必要なことだ、しかし、東北革命を犠牲にする代償として、そういう成果を得ようとしてはならないと思う、東北革命のために朝中両国人民と共産主義者がどれほど多くの血を流したであろうかと反論しました。しかし、魏拯民は、自分の立場を変えようとしませんでした。彼は、軍事戦略上の見地からすれば、熱河遠征計画が一定の弱点を内包しているのは確かだ、だからといって、大したこともせずにそれを放棄するわけにはいかないではないか、もちろん遠征をするとなれば痛ましい犠牲も出るであろうし、予想外の損失もこうむるだろう、しかし、犠牲や損失もなしにどうして大事をなし遂げることができるだろうかと主張するのでした。

 魏拯民は、周保中の第5軍と第4軍も中日戦争の勃発を西征実現の好機と見て、指令の実行により積極的に乗りだしていると言いました。魏拯民の話は事実でした。後にわかったことですが、吉東地区で活動していた周保中は、中日戦争勃発後の中国本土と東北地方の政治・軍事情勢を楽観的に評価し、大事変はすでにはじまった、大事変の発展と同時に即時すべての可能性を動員し、速い速度で熱河領域に進出する八路軍の遊撃軍と直接連係を結ぶべきだと力説したそうです。しかし、その部隊のメンバー全員が西征を支持したのではありませんでした。第5軍の副司令であった柴世栄は、西征計画の無謀さを悟り、その計画に懐疑的な態度をとったとのことです。

 魏拯民は、熱河遠征計画に冒険主義的要素があることを知りながらも、それを支持する立場にありました。わたしはその態度を、中国革命にたいする魏拯民なりの忠実性とみなしました。魏拯民は華北山西省の出身ですが、1930年代の初期から満州に来て東北革命に参加した指導的人物の一人です。彼は、東北の党活動と抗日連軍建設に心血をそそぎ、日本帝国主義を撃滅掃討する軍事作戦でも大きな成果を上げました。東北革命への彼の執着心と関心には並々ならぬものがありました。しかし、彼は、東北革命のみにとどまってはいませんでした。東北革命を中国革命の一部分とみなし、地域革命を重視しながらも中国革命全般の発展につねに関心を向けていました。彼は、全中国の革命の高揚に役立つことであれば、いかなる犠牲をも甘受すべきだという立場に立っていました。それで、わたしは彼に、あなたが犠牲をいとわず熱河遠征の実現を望む気持ちはわかる、しかしわたしは、コミンテルンが遠征計画の作成にあたって、東北の実態と中国革命の要請を正確に反映したのかどうか、その計画の軍事的可能性を正確に検討したのかどうか、まして、彼らの企図する遠征が遊撃戦の特性に合致するのかどうかを慎重に考えざるをえない、コミンテルンの熱河遠征計画には、中国革命の実態についての正確な洞察が欠けているばかりか、朝鮮革命への考慮がまったくないといえる、王明はコミンテルンで中国共産党の代表として活動しているが、彼の主観主義は普通ではないようだと指摘しました。王明が主観主義にとらわれている人であるということは、魏拯民も認めました。


 <熱河への遠征計画はコミンテルンの指令として下されたが、それを作成し通達したのは王明であった。王明はモスクワにあって、中国の実情に合わない路線をやつぎばやに作成し通達した。王明路線の主な病弊は「国際路線」の美名のもとに強要した「左」翼日和見主義であった。しかし、中日戦争が勃発し、国共合作が成立してから、彼の路線は右翼日和見主義に転じた。彼は、すべてのことは国民党との合作と統一戦線によってのみ実現すべきだと主張した。金日成同志は、熱河遠征にかんする指令を朝鮮革命と国際革命との連関のなかで周到かつ敏活に実行していったことについてつぎのように回顧している>


 当時、我々は王明路線の日和見主義的本質を明白に見ぬいてはいませんでした。たとえ見ぬいていたとしても、正面から反対したり、その実行を露骨に回避したりすることはできませんでした。王明は、コミンテルン執行委員会の委員であっただけでなく、コミンテルンの書記でもありました。彼の作成した指令はいずれも、個人名ではなくコミンテルンの名で通達されるのでした。

 わたしは、熱河遠征計画が中国東北地方の革命運動の発展に利するところがないのみか、朝鮮革命の見地からしてもきわめて一面的で有害であると考えました。しかしながら、その実行においては慎重を期しました。

 我々は魏拯民とともに、第1軍管下の抗日連軍部隊と朝鮮人民革命軍主力部隊の活動方向について真剣に討議しました。魏拯民は我々の部隊が第1軍の活動地域である海竜、吉海線一帯に進出することを望みました。彼の要請どおりにすれば、我々は白頭山地区で達成した軍事的・政治的成果を強固にすることができませんでした。それで、わたしは折衷案として、まず当分のあいだは、臨江、撫松、濛江一帯で流動作戦を展開し、朝鮮革命を推進する政治・軍事活動を進め、適当な時期にその方面へ徐々に移動する意向を述べました。当時、我々の部隊には、西間島と国内から入隊した新入隊員がたくさんいました。彼らを十分に訓練していない状況で、部隊が本来の活動地域を離れて不慣れな土地に移るのは好ましいことではありませんでした。わたしは、国内につくられた革命組織を保護、拡大し、今後国内進攻をさらに積極化するためにも、西間島と白頭山地区から遠くへは離れないことを彼に直言しました。魏拯民はわたしの立場に同意しました。

 当時、楊靖宇は中日戦争の勃発によって急激に高揚しつつあった抗日気運に乗じて、なんとしてでも熱河遠征を成功させようと悪戦苦闘していました。しかし、1938年の春、第1軍の各部隊は、遠征を開始するやいなや包囲に陥って苦戦を余儀なくされていました。そのうえ、第1師師長の程斌が部隊を率いて敵に投降する非常事態まで発生し、第1軍の西征計画を大混乱に陥れてしまいました。7月中旬、楊靖宇は老嶺で第1の緊急幹部会議を招集し、西征計画を正式に取り消すとともに、軍内の秘密漏洩の防止に必要な改編措置を講じました。

 程斌の投降は、我々にとっても大きな衝撃でした。ややもすれば、第1軍の崩壊をまねくおそれがありました。我々は第1軍を支援するため武器と軍需物資をととのえたのち、一部の部隊に、濛江県を迂回し、金川、柳河県を経て通化界線に向けて部分的な軍事移動を開始させました。この軍事移動は、第1軍を包囲している敵軍を分散させ、第1軍の戦友たちに包囲突破の可能性を与えるためのものでした。敵軍を分散させるのは、遠征計画をどう実行するかという問題に先立ち、第1軍の戦友を救出することによって東北抗日勢力を保持し、数年来の共同闘争を通じて結ばれた朝中両国の共産主義者と人民間の戦闘的友誼を厚くすることに目的がありました。我々の一部の部隊が、敵の注意を引くためわざと目につくように通化界線に進撃しているとき、わたしは小部隊を率いてひそかに国内深くに入り、国内の革命闘争をさらに強化するための新たな対策を講じました。

 一方、主力部隊は、各方面で敵を痛撃しました。そのなかで印象に残る戦闘の一つが八道江付近の道路工事場襲撃戦闘でした。八道江には、日本軍、満州国軍、武装警察隊と自衛団など多くの兵力が配備されていました。そのころ、この地方に駐屯していた敵は、臨江地区で活動する人民革命軍部隊の「討伐」にたびたび出動する一方、朝鮮の江界と中江から臨江を経て満州の内陸地帯に通じる軍用道路と鉄道敷設工事を大々的に進めていました。我々は、通化──臨江間で大きな工事場を襲撃して大混乱に陥らせ、多くの警備兵力を掃滅しました。戦闘が終わった後、工事を指揮していた数名の日本人請負業者がわたしとの会見を求めてきました。彼らはわたしに会うと、身代金はいくらでも払うから命を助けてくれと頼むのでした。わたしは彼らに、あなたたちがいまこの工事を請け負っていること自体が日本の侵略行為に手を貸すことになるのは言うまでもない、けれども我々はあなたたちに危害を加えようとは思わない、身代金を払うということだが、革命軍はそんな金は受け取らない、それは馬賊のやることだ、身代金は要らないから帰れ、その代わりこの工事場からは手を引くがよい、請負業をするならほかの仕事を請け負えと話しました。そして、彼らを放免しました。我々が工事場を襲撃した後、金日成パルチザンが臨江の西部にあらわれたといううわさが立ちました。日本人請負業者たちが帰ってから、我々のことをかなり語り伝えたようです。

 その後、我々は続けざまに八道江、外岔溝、裏岔溝一帯で敵を掃滅し、ついで撫松県西崗戦闘を展開して敵の兵力を我々に引き付けました。我々の敏活な戦術的移動により、敵は朝鮮人民革命軍の活動が予測できず、あちこちと兵力を引きずりまわり、戦々恐々としていました。これは、苦境に陥った第1軍を救出しようとした我々の戦術的移動と一連の作戦的攻勢が成功したことを意味しました。後日、楊靖宇と魏拯民も、臨江、撫松、濛江一帯で我々が上げた銃声が、第1軍の窮状打開の決定打となったと何度も話しました。

 北満州の抗日連軍各部隊も、西征の過程で大きな損失をこうむりました。北満州で活動していた各部隊がはじめて遠征の途についたのは1937年7月であり、それが本格化したのは1938年でした。しかし、南満州でと同様に、北満州での遠征も結局は失敗に終わりました。数年来、東北革命に混乱をまねき、無謀な戦闘と犠牲を強いた熱河遠征は、南満州では1938年に、そして、北満州では1939年にいたって幕を閉じました。

 それでは、多くの精力と人力、物量の消耗をまねいた熱河遠征の失敗の原因はどこにあったのでしょうか。多くの研究者は、その原因を、日満統治秩序の確立と敵軍の圧倒的優勢という客観的条件に求めていますが、それは正しい分析だといえます。この時期に敵がいっそう本格的に実施した集団部落政策は、いわゆる「匪民分離」という言葉どおり遊撃隊と大衆の連係を容赦なく切断しました。この政策は、日満統治秩序を強固なものにする反面、抗日武装部隊の活動に幾多の難関をつくりだしました。こうした要因により、遠征は、大衆とのつながりと食糧補給路がほとんど断たれた状況で進められました。集団部落に閉じこめられた人民は、遠征部隊との連係を結びたくても、方法がありませんでした。援護物資の支援などは思いも及びませんでした。こうした状況のもとで、遠征部隊はやむなく敵を襲撃して食糧や布地などの給養物資を手に入れざるをえませんでした。銃声をひびかせるので、おのずと遠征部隊の戦略的移動にかかわる情報が的確に敵側に入るようになりました。かてて加えて、遠征部隊の前には、一歩踏みだすごとに深い谷と高い砲台、険しい封鎖線と兵営が立ちふさがりました。

 だからといって、遠征失敗の原因を客観的条件にのみ求めることはできません。周知のように、この遠征の主体は、東北の抗日連軍部隊でした。熱河遠征を路線として押しつけたコミンテルンも、広義には遠征の主体だといえます。わたし個人の見解では、コミンテルンは、路線の作成と指導において主観主義に陥り、抗日連軍部隊はその実行と実践において盲目的であったといえます。結局は、コミンテルンの主観主義と冒険主義が遠征を失敗に導いた基本的要因だったといえます。

 大衆に受け入れられず、大衆の心を動かすことのできない路線では、りっぱな結実を期待することができないものです。我々が何か政策や路線を採択するとき、人民のなかに深く入って彼らの声に耳を傾けるのは、主観主義に陥らないようにするためです。主観のとりこになる人は明き盲になってしまいます。いま一部の人は、自説に固執して下部の人の意見をないがしろにしていますが、それは大きな誤りです。諸葛亮も名だたる天才ではありましたが、人民大衆はそれよりもっと知恵深く賢明です。路線や方略は、万人にその正当性が認められてはじめて効を奏するものです。大衆の支持しない路線や方略は、無用の長物です。大衆は、正当かつ正確で透明な路線のためにのみ奮い立つものです。まして、寸分の誤差もあってはならない軍事作戦の場合は言わずもがなのことです。


 <熱河遠征が無謀な作戦であったことは敵側も認めている。
 「…彼等は事変後の客観情勢が彼等の遊撃行動の有利なるが如く軽信し大胆にも一昨年秋ごろより昨年春にかけ東辺道…金川、柳河、臨江一部を抜け華北の熱河進撃軍と合流せんとするが如き不敵の行動に出るかの形勢がありましたが逸早く日満軍警の討伐に会ひ再び北上し樺甸、濛江、敦化、蛟河、撫松、安図等の県境即ち白頭山下の白色地帯を中心として赤区の建設を意図したのであります」(『思想月報』第77号 司法省刑事局昭和15年(1940年)11月 136〜137ページ)>


 コミンテルンがくだす指令のなかには、現実に合わないものがありました。しかし、我々は毎回その指令を慎重に受けとめ、それを朝鮮革命の具体的実情と結びつけて実行しながら、国際的利益と民族的利益の両面を正しく結合させるため深く思索し、敏活に行動することに努めました。革命の前に障壁が立ちふさがり、複雑な情勢がかもしだされるときであるほど、主体的立場をいっそう堅持し自主的に活動するのは、我々の一貫した原則です。コミンテルンとの関係でもそうでしたが、周辺の大国との関係でも、我々はつねに自主性と国際主義を正しく結合してきました。我々がこんにちまでジグザグの道を歩まず、革命を一路勝利に導いてくることができたのは、こういう要因のためであったといえます。

 わたしはいまも、熱河遠征問題にたいする我々の立場と行動は正しいものであったと思っています。1970年の秋、わたしは中国を非公式に訪問したことがあります。そのとき、中国側は朝鮮労働党の創立記念日を祝って北京で宴会を催しました。その席には、王明とともにコミンテルンに駐在していた人も参加しました。わたしは中国の幹部たちに、かつて朝鮮革命が周囲の圧力を受けて紆余曲折を経、またその過程で朝鮮の共産主義者が人一倍苦汁をなめさせられた事実を話しました。反「民生団」闘争の過程で多くの朝鮮の革命家が犠牲になり、とくに1930年代の後半期には、コミンテルンに居座っていた一部の人が実情に合わない路線を強要したため、朝鮮人民革命軍の強化と抗日革命全般の発展が大きく阻害されたと話しました。

 わたしがそういうことを話すと、周恩来が、その責任は王明にある、そうしてみると王明は中国革命に多くの損失をこうむらせたのみでなく、朝鮮革命の発展をも少なからず阻害したことになると言うのでした。コミンテルンが多くの主観主義的誤謬を犯したことについては、スターリンも認めています。

 もし、コミンテルンが熱河遠征を強要しなかったなら、我々は西間島を離れなかったはずであり、そうすれば「恵山事件」が起きたとき、それを適時に収拾し、損失を最小限に食い止めることもできたはずです。人民革命軍の主力部隊が西間島に居残っていれば、敵は我々の革命組織を弾圧しようにも、あえてそうすることができません。もし弾圧したとしても、逮捕をまぬがれた人は山中に入って部隊に入隊すれば、被害をこうむらずにすんだはずです。事実、朴達も逮捕をまぬがれて山中を歩きまわったのですが、我々といちはやく接触できなかったため逮捕されたのです。

 熱河遠征があってから長い蔵月が流れました。わたしがいまになって、ことさらにその遠征について回想するのは、事の是非を論ずるためではありません。是非を問おうとしても提訴するところがありません。いまはコミンテルンもなければ、なんらかの指揮棒もありません。けれども共産主義者は、主観主義と盲従のために損失をこうむった熱河遠征から深刻な教訓を学びとる必要があります。歴史は、革命の原理を無視して主観主義に偏する人にはりっぱな結実を与えはしないものです。



 


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