金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 王村長と王署長


 <1930年代の後半期、朝鮮人民革命軍を物心両面から積極的に支援してくれた中国の友人のなかには、敵の機関に奉仕する2人の王氏もいた。その一人は臨江県大荒溝の村長を務め、別の一人は臨江県賈家営で満州国警察分署の分署長を務めて地元の住民から王署長と呼ばれていた。日本帝国主義の植民地政策を末端行政機関で実行していた2人の王氏が、どんな機縁で朝鮮人民革命軍と連係を結び、のちに抗日革命の同調者、支持者にまでなったのであろうか。この2人にたいする工作は、金日成同志が中日戦争勃発後、みずからおこなった政治工作の一つであった。金日成同志は、王村長と王署長にそれぞれ一度だけしか会っていないが、数十年の歳月が流れたのちにも彼らを忘れずにいた>


 わたしに王村長のことをはじめて話してくれたのは、第8連隊第1中隊の政治指導員朱在日でした。臨江県大荒溝での敵中工作を終えて帰隊した朱在日は、大荒溝一帯で祖国光復会組織を拡大するには、まず王村長から味方につけるべきだと言い、彼について詳しく報告するのでした。

 朱在日に王村長の経歴を話したのは、以前、彼が和竜県三道溝牛心山で党支部の書記を務めていたときに入党させた人でした。その人の正体が露呈して和竜にはそれ以上いられなくなったため、党組織は彼を臨江県に潜行させました。臨江県には、彼の親戚がいたそうです。彼は、大荒溝付近の小屋を借りて、ほそぼそと生計を立てていましたが、そこに来てからも党活動を放棄せず、自分のまわりに信頼できる人を集めているとのことでした。彼は、かつての党支部書記であった朱在日に会うや、組織とのつながりを回復してもらいたいと申し出たそうです。わたしは朱在日に、直ちに大荒溝へ行ってその党員に会い、彼の保証するメンバーで組織を結成し、連絡ルートを接続するよう指示しました。朱在日は再びその党員に会い、司令部がじきじきに君の活動を指導するから、安心して祖国光復会の組織を拡大するようにと言いました。こうして、大荒溝に我々の組織が生まれました。おそらくそれが、我々が臨江県へ行ってはじめて発足させた祖国光復会の組織だったと思います。

 わたしは朱在日に、王村長を味方につける任務もあわせて与えました。こういう過程を経て、王村長は我々の工作対象として浮上しました。我々は、大荒溝の地下組織を通して半年以上、彼の動向を探りました。王村長にたいする我々の工作が実を結んだのは1938年の春でした。1938年の春といえば、我々が馬塘溝での軍事・政治学習を終えて長白へ進出する時期でした。部隊の行軍コースに大荒溝が含まれていたので、臨江へ行けば時間をさいて王村長に会ってみようと考えました。我々は長白へ南下する途中、いろいろと苦労をしました。大荒溝まで後12キロというところまで来たときには、食糧が切れ、行軍をつづけることができなくなりました。隊員たちも疲れきっていました。そのままでは、部隊を率いて長白まで行き着くことができませんでした。隊員に食糧を与えないことには、行軍も戦闘もできないというのに、1升ほどの食糧もないありさまなので、どうしようもありませんでした。戦闘でもして食糧をろ獲したいところでしたが、隊員は疲労困憊して戦闘はおろか、身を支えるのもやっとの状態でした。王村長にたいする工作に一段落つけようと考えたのはそのときでした。王村長への働きかけが成功すれば、食糧を手に入れ、我々の活動に有利な環境をつくりだすこともできるだろうと考えたのです。

 大荒溝の隣に小荒溝という村がありました。ところが、その村の地下組織が危機に瀕していました。その村の組織も、朱在日が、牛心山で党支部書記を務めていたときに入党させたという例の党員が関係していたのです。その組織の活動はめざましく、小荒溝だけでなく他の村々にも組織網を拡大しつつあったのですが、つい秘密が露見してしまいました。敵は村を襲って組織のメンバーを見境なく殺害し、住居に火を放ちました。老人や子どもまで銃で撃ち殺され、剣で刺し殺されました。かろうじて虐殺をまぬがれた幾人かの組織メンバーと住民が大荒溝に逃げこみました。彼らの運命は、王村長の胸三寸にかかっていました。そのころ、王村長は、自衛団の団長も兼ねていました。彼がどういう立場をとるかによって、小荒溝の組織メンバーと避難民が助かるか禍をこうむるかが決まる瀬戸際でした。こういう事情もあって、わたしは、早く王村長を我々の支持者、協力者にしなければならないという考えを強めるようになりました。

 わたしは、王村長に働きかける工作員を大荒溝へ送り込みました。工作員たちは、王村長をぜひとも獲得すべきだとは言いながらも、自衛団長の肩書きをもっている彼のことだから工作が暗礁に乗り上げるのではなかろうかと憂慮しました。けれども、わたしは工作の成功を信じていました。わたしがそう確信したのは、王村長を良心のある人と判断したからです。彼が良心のある人だとする証拠は何か。彼は、村長兼自衛団長になって以来、管轄地域の住民を一人も手にかけていないという事実です。わたしは、これを重要な証左とみなしました。当時、おのれひとりの保身と栄達に目がくらんでいた者は、自衛団長や村長といった官職を手に入れようものなら、実績を上げようと愛国者の一人二人を手にかけるくらいのことは朝飯前でした。ところが、王村長は誰一人密告もしなかったし、手にかけもしませんでした。彼は、小荒溝から来た避難民や遺族にたいしてもいまのところ危害を加えず、自分の管轄区域に住めるよう黙認しているとのことでした。もし、彼が悪人であったなら、そうはしなかったはずです。自分の村に共産党の村から逃げてきたアカどもがいるからつかまえていけと密告するなり、じかに自衛団員を駆り出して避難民を全部殺し、賞金をもらっているはずです。日本の軍警が虐殺しかけて逃してしまった人たちを村に受け入れ、安住できるようにするというのは、普通の度胸や覚悟ではできないことです。もしも、そういう事実が発覚した日には、村長自身がきびしい制裁の対象になりかねませんでした。王村長は、そういうことまですべて覚悟のうえで、義侠心を発揮した人だと評価することができました。わたしは、大荒溝に向かう工作員たちに、王村長は良心的な人らしい、大胆に接近して遊撃隊が日本帝国主義者と戦う目的を十分に説明すれば、彼を我々の味方につけることができるはずだと言い含めました。

 大荒溝へ行った工作員たちは仮小屋の主人の手引きで王村長に会い、我々との合作を提議しました。王村長はそれに快く同意したうえ、わたしとの対面まで要望しました。革命軍の要求はなんでも聞き入れるから、金日成将軍にぜひ会わせてもらいたいと言うのでした。部隊の指揮官たちは、その要望をかなえてやるべきだ、いやそれはだめだと長時間論議しました。司令部にたいする謀略工作が頻発していたため、指揮官も隊員も神経をとがらせている時期でした。わたしは下部でこういう論議がなされていることを知り、指揮官たちを説き伏せて王村長を密営に連れてこさせることにしました。自分の要望が入れられたという知らせを受けた王村長は、極秘裏に村人を動員し食糧と靴類をはじめ、数々の給養物資を準備して司令部を訪ねてきました。会ってみると34、5歳と見える好男子で、礼儀正しく身ごなしも上品なうえに闊達で、第一印象からして好感がもてました。王村長の家庭の様子や健康状態についてしばらく対話をしたのち、わたしは彼がその間、民族的良心を失わず知性人らしく生きてきたことを高く評価し、今後とも村長の肩書きを利用して我々を支援してほしいと説得しました。

 「日本も満州国も長くはありません。あなたの村長の役職は満州国から与えられたものですが、あなたは、それを日本や満州国のためにではなく、祖国のため、人民のため、革命のために最大限に利用すべきです。そのためには、人民を動員して革命軍を積極的に支援しなければなりません。わたしは、あなたが我々の期待を裏切らないものと信じます」

 王村長は、わたしの信任を得たことをたいそうありがたがりました。

 「わたしのような者をこんなにまで信頼していただき、このうえ申し上げることがございません。一生忘れずに、将軍のお言葉どおりたたかってみます」

 彼はわたしのところに来るとき、酒肴まで携えてきました。とても気配りがよく社交性に富んだ人だという感じがしました。わたしたちは、幕舎のなかでパイカル酒を酌み交わしました。王村長は、酒に異常のないことを証明しようと、まず自分が一杯あけてからわたしに杯をすすめました。やがて、ほろ酔い気分になった彼は、誰にも話していないことだと前置きして、身の上話をしました。小説さながらに興味津々として筋の通った話で、ほろりとさせられるものがありました。

 王村長の父親は、東寧県で生まれ育った満州族でした。生活があまりにも貧しかったため、年が40になるまで結婚もできず各地を転々としているうちに、気の合う女性にめぐり会って所帯をもつことになったそうです。いつしか、彼らの家庭には、かわいらしい男の子が生まれました。それが、ほかならぬ未来の王村長でした。1年、2年と歳月が流れるうちに、息子はきりりとした顔立ちの聡明を少年に成長しました。ところが、暮らしがあまりにも貧しかったので、息子を人並みに育てたくても、それができませんでした。彼の父親は、満州よりましな暮らしのできるところはないだろうかといつも考えました。そういうところがあれば、すぐにでも息子を連れて満州を離れたい気持ちでした。そんなときに、ロシアへ出稼ぎに行く途中、路銀を工面しようと、その村に留まっていた朝鮮の青年たちから、江東が住みよいという話を聞きました。我々の祖父や父の世代の人たちのなかには、ロシアを俄羅斯(アラサ)とか江東と呼ぶ人が多かったのです。王村長の父親は、朝鮮の青年たちが村を発つとき、彼らと連れ立ってロシアへ行きました。青年たちは、金を稼ごうと金鉱を渡り歩きましたが徒労に終わり、ひと所に集まって農業を営みはじめました。そのうち、彼らを中心に農作を専業とする朝鮮人村が新たに生まれました。王村長の父親は中国人でしたが、その村で朝鮮人と一緒に生活しました。民族は違っても、彼らは、実の兄弟のように仲良く暮らしました。子どもはその村の学校に通ったので、おのずと朝鮮の風習になじむようになり、朝鮮語も上手に使いこなしました。その後、ロシアでは新旧の党派争いがすさまじく展開されるようになりました。新党とはボルシェビキのことであり、旧党とは自衛集団を意味しました。村人も新旧党派争いのあおりで曲折を経たといいます。ボルシェビキの勢力が優勢になって反革命勢力を追い出せばボルシェビキの天下になり、自衛派が勢力を張れば一朝にして村が自衛派の天下になるというありさまでした。村人は、しだいに共産党支持勢力と自衛派支持勢力とに分かれ、はなはだしくは一家のなかでも長男が新党派になれば、次男、三男は旧党派となってせめぎ合う騒乱が起こりました。争いの末に犠牲者まで出るようになりました。王村長の父親も旧党派にフォークで刺されて惨死しました。幼い息子はあわれな孤児の身になってしまいました。村人はみな少年を同情しましたが、新党派を支持して死んだ人の息子なので、旧党派の忌憚に触れてはと、誰も面倒をみてやることができませんでした。旧党派は新党派を根絶やしにするといって、少年をなきものにしようとしました。事態は、急迫していました。父親に代わって少年の面倒をみてやったのは、東寧県からロシアへ出稼ぎに来ていた朝鮮の青年でした。うすら寒い秋のある日、その青年は少年を連れて国境を越え、東寧県方面に脱出しました。少年の母親を捜すためでした。ところが、途中で馬賊にとらえられる羽目になりました。馬賊は少年を人質にして、金品を巻き上げようとしました。しかし、少年が天涯孤独の身であることを知って、殺そうとしました。そのとき馬賊の副頭領が、あわれな子どもを殺してなんになるのだ、朝鮮人は行きたいところへ行かせ、子どもはわしのところに連れてこいと命じました。こうして、馬賊に旅費を巻き上げられ、少年まで奪われた朝鮮の青年はいずこともなく立ち去り、少年は馬賊の巣窟に残されて副頭領の保護を受けるようになりました。副頭領が少年を殺させなくしたのは、その子が気に入ったからでした。ある日の夜、彼は少年を連れて馬賊の巣窟を脱出したそうです。こうして、彼の逃げ落ちたところが、ほかならぬ臨江だったのです。彼は、大荒溝に来て畑と家を買い、金持ち然として少年を養子にしました。副頭領が金持ちになれたのは、馬賊団を脱走するとき共同財産として保管していた大金を持ち出してきたからでした。少年の養父となった副頭領は山東地方出身の王氏でした。彼は養子の少年にも王姓をつけました。権勢があってこそ豪奢な生活ができるというのが、彼の人生観でした。彼は、養子を権勢家に育てるために学校にもやり、のちには村長にまで推し立ててくれたとのことです。王村長は、養父の恩ももちろん大きいが、実父が殺されたのち自分をかばって満州まで連れてきてくれた朝鮮の青年を生涯忘れることができないと言いました。

 「金や財物を持っていながら、恩返しをするすべがなくてもどかしいばかりです。ただあの方のご恩に報いる気持ちで、朝鮮の人たちの不幸に同情し胸痛く思うのみです。小荒溝からの避難者のほとんどは、朝鮮の人たちでした。それで、小生は命をかけてその人たちをかばったのです。恩人にお礼をする気持ちでです」

 王村長は、涙ながらにこう言いました。彼は、義理堅い人でした。恩人にお礼をする気持ちで朝鮮人をかばっているという彼の言葉はわたしをいたく感動させました。

 「あなたが、朝鮮人の不幸に同情し、彼らを窮地から救ってくれたことをありがたく思います。義理を重んじる人は恩人にだけでなく、人民のためにもよいことをすることができます。これからあなたは、自分を満州国に仕える村長ではなく、人民に仕える村長だと思ってください」

 王村長は、わたしの信頼を裏切らないと重ね重ね誓いました。王村長が村に帰るとき、わたしは彼に護衛を2名つけて送りました。その日から、彼は我々の友人となり、我々を大いに援助してくれました。生きていれば会ってみたい気持ちは山々ですが、行方も知れず、生死のほどもわからないので、もどかしくてなりません。

 王署長を獲得した過程も、王村長を獲得したときの過程と似通った点が少なくありません。王署長をわたしにはじめて紹介したのは、第7連隊政治委員の金平でした。金平は、ひところ崔一賢の中隊を率いて、長白、臨江県あたりに進出し、小部隊工作を指導しました。各地へ小部隊を派遣しては、その活動を指導するかたわら、みずからも地方工作にあたりました。彼が派遣した小部隊のうち、あるグループは臨江県の五道溝と三道溝一帯で活動しました。

 ある日、隊員の一人がグループの責任者のところに来て、賈家営の満州国警察分署のためにグループ活動が少なからず支障を受けているが、どう対処すべきかとうかがいを立てました。おそらく彼は、分署を襲撃しこらしめてやりたいと思ったのでしょう。臨江や深江、撫松地方を出歩く人は必ず賈家営を通過しなければならないのですが、そこに警察分署がでんと構えているのですから、問題は問題でした。金平はその隊員に会ったのち、彼から提起された問題をわたしに報告してきました。わたしは金平に、賈家営の満州国警察分署を掌握してみるよう命じました。襲撃はいつでもできるが、後のたたりもあって、かえって面倒なことになりかねないから、大胆に接近して分署を我々の側に引き入れるのがよいと言いました。数日後、金平は、延吉県で区党書記を務めていたころからの知り合いが賈家営近辺の森の中に山小屋住まいをしているから、彼を仲立ちにすれば分署長と接触できそうだと言いました。延吉県一帯で赤衛隊の小隊長までした人だから信頼できると言うのでした。その人が「民生団」の連累者にされて死に目にあったとき、区党にいた朝鮮人が敵地に脱出させたいきさつがあったそうです。その人の姓は、金氏だったと思います。その金氏は賈家営に来て以来、狩猟をして食いぶちを稼いでいたのですが、警察分署長が狩りを道楽にしていたので、自然に親しい仲になったというのです。

 わたしは金平に、山小屋の金氏を知っているのは君しかいないのだから、君がじかにその人を通して王署長に接近するようにと言いました。ここまでは、王村長を味方につけたときと同じような経緯だったといえます。かつての組織メンバーが警察官とよしみを通じるというのはまれなことでしたが、ありうることでした。しかし、どういういきさつがあってよしみを結んだのかを確かめる必要がありました。それがわかれば、王署長に接近する直路を開くことができました。金平が彼に会ってきて言うには、彼が遊撃区を離れたのは久しい前のことだが、心だけは以前と少しも変わっていないとのことでした。私服を着てあらわれた以前の区党書記を見るや、もしや変節して日本人の密偵になったのではないかと警戒するほどだったとのことです。軍服を着けていた人が私服に着替えて出歩くと、たまたまそういう誤解を受けることもありました。金平がわたしの指示で来たと聞いてはじめて、以前のようにうちとけた対応をしてくれたそうです。山小屋の金氏は、赤衛隊にいて「民生団」という汚名を着せられたまま敵地に抜け出してきたことをたいへん口惜しがっていました。彼は金平に、わたしを金日成将軍のところに連れて行ってくれ、金将軍の前でわたしが「民生団」でなかったことを話すから、あなたもその保証人になってくれ、金将軍が信じてくれれば、わたしは人民革命軍に入隊すると言いました。金平は彼に、金将軍のおかげで「民生団」問題はいっさい解決ずみだから、君は何一つ心配せず革命戦線に立ち、胸を張って思い切り活動すべきだと話しました。金平の話を聞いた彼は、感激のあまり涙を流したとのことです。

 山小屋の金氏が王署長とよしみを通じたのは1年前からでした。彼の狩猟区域にときおり王署長があらわれて狩りをしました。ところが、王署長は1、2匹しか獲物をしとめられないのに、金氏はきまって4、5匹はしとめました。ある日、王署長は、そのこつを聞き出そうと山小屋に立ち寄りました。そして、金氏の深い狩猟知識に感嘆し、君は普通の猟師とは思えない、どことなく思想家かインテリくさいところがあると言うのでした。そう言われた金氏は、わたしが本物の猟師かどうか、明日狩猟の腕を競って確かめてみてはどうかと言いました。王署長は、それに同意しました。翌日の勝負で金氏が勝つと、王署長は酒をおごりました。山小屋で二人は酒を酌み交わしました。王署長が金氏に義兄弟の契りを結ぼうと言いだしたので、金氏は、わたしがあなたたちの家家礼に入るとなるとあなたの兄貴分にならねばならないが、それは少し考えさせてもらいたいと言いました。そして、あなたは分署長という重責をになっているのに、よくも分署をあけてたびたび狩りに出る暇がつくれるものだと、それとなく探りを入れてみました。すると王署長は、時間が余って狩りに出てくるのではない、むかむかするからだ、あの日本人どもは悪どいやつらだ、死にどころには満州国警察を立たせ、同じ星をつけていても満州国警察にはちょっとしたことでも怒鳴りつけたりこきおろしたりする、腹が立って我慢できないと言うのでした。

 山小屋の金氏からこういう話を聞いた金平は、彼に賈家営一帯で祖国光復会の下部組織を結成する任務を与え、さしあたり王署長に会えるようにしてもらいたいと頼みました。翌日、金氏は、王署長を連れて金平に指定された接触の場所にあらわれました。王署長も王村長のように酒肴を用意してきました。酒は、満州国官吏の大切な交際手段でした。王署長は、王村長に比べ体がどっしりしていて性格も荒々しいほうですが、決断の早い人でした。なんでも逡巡することがなく、返答も明白でした。金平は王署長と初対面の挨拶をするとき、自分が金日成部隊の政治委員であることをあかしました。金司令の命を受けて共同抗日について談合しようとあなたを呼んだのだが、我々と手を握る意向があるだろうかと、単刀直入に間いました。王署長は最初びっくりして、まゆ根をこわばらせたが、すぐに姿勢を正し、会うそうそう堅苦しいではないか、酒でも飲みながらゆっくり話をしようと言いました。彼は何杯か杯をあけると、金平のひざをたたいて「遊撃隊の政治委員は背は低いが気に入った。帯剣した者の前で眉一つ動かさず身分をあかすとはまったく恐れ入った」と感嘆しました。金平は「金日成司令官の部下は誰でもそうだ」と言いました。王署長は金平の耳に顔を寄せて、金司令に会わせてくれ、金司令に会わせてくれさえすれば、その前でわたしの決心を申し上げる、そのためにはあなたが家家礼に入らねばならない、それでなくてはあなたを完全に信頼することができない、と言うのでした。初日の談合によって、王署長は、山小屋の主人も政治委員と同じ共産主義者であることを知りました。王署長は、山小屋の主人は家家礼に入って自分と兄弟になってからも共産党員であることを一度ももらさなかった、家家礼の秘密が一番だと思っていたが、共産主義者の秘密はそのうえをいくと言って感服しました。

 わたしは金平に、家家礼に入ったからと姓が変わるわけでもないのだから、義兄弟の契りを結び、王署長を司令部に連れてくるようにと命じました。その後、わたしは賈家営付近で王署長に会いました。会ってみると、やはり王村長のように好感のもてる人でした。彼が贈物だといって野生の朝鮮人参を3本持ってきたことが思い出されます。王署長は、共同抗日をしようというわたしの提議にその場で同意しました。彼の言動は、すこぶる自由闊達でした。自分は口すぎのために仕方なく警察勤めをしているのであって、共産党に反対しようと警察の帽子をかぶったのではない、日本人のやることを見ると銃を投げ出したい気持ちになるときがしょっちゅうある、金司令が手を握って共同抗日をしようというのには異議がない、金司令が分署長の役職をすてずに抗日をせよというのだから命令どおりにする、しかし、わたしが警察の制服を着けていて、遊撃隊の誰もが金司令のようにわたしに接してくれるだろうか、両方の弾に当たって殺されるのではないかと自分の思っていることを包み隠さずうちあけるのでした。わたしは王署長に、それは心配するに及ばない、あなたが正義を貫けば世間の知るところとなる、革命軍はたとえ敵の機関に加担した人であっても、抗日に参ずる人には危害を加えない、そのことについてはわたしが保証する、我々のためにあなたにしてもらいたいことはほかでもない、我々の活動を妨害しないことだ、これも抗日になる、ときどき情報を提供し、山小屋の主人と親しくして援助してやってほしいと話しました。

 それ以来、王署長は我々を積極的に支援してくれました。山小屋の金氏は、彼の庇護のもとで賈家営に祖国光復会の下部組織を結成しました。我々は、王村長と王署長の助力で価値ある情報を少なからず入手しました。大荒溝の自衛団は、我々の部隊の隊員に出会うとハンカチを振って歓迎までしました。

 王村長と王署長にたいする工作の過程は、人間改造で我々が積んだいま一つの体験でした。この世のものは、すべて改造できるというのがわたしの主張です。自然改造、社会改造、人間改造のうちでもっともむずかしいのが人間改造です。けれども、労すればすべて改造できるのが人間なのです。人間はその本性からすれば、美しいものと気高いもの、正義なるものを志向します。したがって、思想教育を正しくすれば誰でも改造することができます。人間改造というのは、本質において思想改造です。しかし、ここで注意すべきことは、肩書きや身なりを見て、人の思想を評価してはならないということです。言いかえれば、身分や職級を見てその人の思想を判断してはならないということです。もちろん、地主、資本家に搾取階級の思想があり、労働者、農民、勤労インテリに労働者階級の革命思想があるのは否定できないことです。しかし、洪鐘宇のように警察の制服を着た人にも、多かれ少なかれ良心があり、進歩的思想がありうるということを知るべきです。進歩的な思想というのは、ほかならぬ、人間愛、人民愛、民族愛、祖国愛です。人間の良心も結局は、こういう愛によって表現されるのです。

 我々は、人間改造において肩書きばかりでなく、国籍も問題にしません。良心があり愛国心がある人なら、中国人であってもためらうことなく手を握り、敵の機関に奉仕する中国人までも思い切って包容しました。我々に敵の機関に奉仕した朝鮮人を教育し改造する力があり経験があるということは、敵の機関に奉仕する中国人をも改造できるということを意味します。人間を教育し改造する原理は、国籍にかかわりありません。朝鮮人の警官を革命の側に立たせながら、中国人の警官や村長だからと革命の側に立たせることができないはずがありません。抗日革命当時、我々と手を握った中国の友人のなかには、満州国軍の高級将校や中下層の将校もいました。王村長や王署長のように、彼らも我々のために有益なことを少なからずしてくれました。

 朝鮮民族はいま、祖国の統一を目の前にしています。南朝鮮には我々と理念を異にする人がたくさんいます。地主、資本家をはじめ、搾取階級に属する人や、官吏、企業家、商人も少なくありません。統一されれば、いずれにせよそれらの相異なる階層と同じ領土で暮らさなければなりません。理念が異なるからと、そういう人をすべて除去して共産主義者だけで暮らすわけにはいかないではありませんか。共産主義者ではないとしても、ともに統一祖国を建設していける共通分母を見出さなければなりません。わたしは、その共通分母は、愛国、愛族、愛民だと考えます。愛国、愛族、愛民の思想をもつ人たちとは、同じ空気を吸って生きていくことができるのです。



 


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