金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 独立軍最後の部隊


 <「是日也放声大笑」に身もだえていた亡国朝鮮の歴史の舞台に武力抗争の旗をかかげて登場した独立軍は、義兵闘争と愛国文化啓蒙運動をはじめ、合法、非合法、暴力、非暴力などさまざまな闘争によって国権回復の意を遂げようと必死にたたかってきた、朝鮮の愛国志士の血潮たぎる独立への熱望と涙ぐましい労苦の結実であった。時代に立ち遅れ民衆的基盤が弱かったため凋落の道をたどらざるをえなかったとはいえ、独立軍は民族運動陣営の唯一の反日武装力であった。

 金日成同志は、請願や哀願の方法ではなく、銃剣を手にして日本帝国主務を打倒しようとした独立軍の志向を重視し、抗日革命ののろしを上げた当初から、彼らとの連携に終始大きな力を傾けた。つとに南満州の梁世鳳司令を訪ねて以来、抗日の第一線で独立軍とともに肩を並べて戦うことを切望した金日成同志の崇高な経綸と透徹した愛国の意志は、数年を経てはじめて結実をみるにいたった。金日成同志によって示された独立軍との合作路線に従い、独立軍部隊に反共から容共への道を開き、彼らに朝鮮人民革命軍側への義挙を断行させるうえで大きな役割を果たしたのは、崔春国と崔允亀であった。崔允亀はいかなる人物だったのであろうか。1975年10月、大城山の革命烈士陵を訪れた金日成同志は、崔允亀の胸像の前でしばらく足を止め、彼について事こまかく回想した。崔允亀の人間像と彼の方向転換の過程は、それによって詳しく知られるようになった。ここに、転写する文章は、その日、金日成同志が党歴史研究所と革命烈士陵の関係者に述べた話、その他のおりに抗日革命闘争史の研究者や作家、革命事務部門の幹部に述べた話をまとめたものである>


 崔允亀は、平安北道義州の人です。呉東振、梁世鳳、張戊M、李寛麟、金時雨、崔東旿、孔栄など、平安北道の鴨緑江流域一帯には、名のある独立運動家が少なくありませんでした。

 1925年にわたしたちが撫松に行ったとき、父につきそって大営まで出迎えに来た人のなかには、崔允亀もいました。彼は独立軍の末期には副司令、司令となって活躍しましたが、わたしたちが撫松へ行ったころは、まだ下級の職にありました。わたしが撫松で小学校に通っていたころ、地元の人たちは崔允亀のことを「崔参士」と呼んでいました。わたしの父や母もそう呼び、彼の直属上官にあたる張戊M、呉東振、梁世鳳などもそう呼んでいました。「参士」というのは、軍での崔允亀の階級でした。彼が小隊長に昇進してからも、わたしは彼を「参士のおじさん」と呼び、その後部隊を率いて我々の側に移ってきてからも、二人だけのときは少年時代の習わしで「参士のおじさん」と呼んだものです。わたしが「参士のおじさん」と呼ぶと、彼も喜びました。もし、わたしが「小隊長殿」と呼んだりしたなら、彼はかえって照れくさがったはずです。

 崔允亀は、口数の少ない人でした。その代わり、心に多くの言葉を抱いている人でした。口が重く、思慮深く、太っ腹で押しの強い、典型的な武官タイプの人物でした。父の話では、彼は幼いころから足に砂袋をつけて武術の稽古に励んだそうです。幼少のころから武術の稽古をはじめたのが確かであるなら、早くから大志を抱いていた人であったことがわかります。鴨緑江のほとりに義兵や独立軍がしばしば出没したので、少年期からその影響を受けざるをえなかったのでしょう。彼の父親は、鍛冶屋でした。彼も書堂(漢文を教える私塾)で多少の読み書きを習いましたが、10歳そこそこの年で父親を手伝って鍛冶屋の仕事をしたそうです。寒い冬のある日、彼が上衣を脱ぎすてて冷水摩擦をしているのを見たことがありますが、拳法の選手のように筋肉が隆々としていました。その姿を見たわたしの父は、一人前の男子になるにはあれくらいの体格にならなくてはだめだと言いました。

 崔允亀は17歳か18歳のとき、独立軍に加わって臨江県帽児山へ行きました。帽児山は、白山武士団の本拠地でした。いつか呉東振は、父と崔允亀の話をしながら、彼を隊長の器だと評していましたが、それは非常に印象深く聞こえました。彼は、体力のみでなく人柄や性格からしても隊長の器と言われるだけのものがありました。彼は、戦闘経験も多く積んだ人でした。独立軍時代の彼の部下であった金明俊の話では、崔允亀は副司令に昇進してからも、いったん出陣となれば先頭に立って突撃したとのことです。正直に言って、わたしは、撫松時代に崔允亀を独立運動の偉い人物とみて尊敬したものです。

 父は、崔允亀を実弟のように慈しみました。父が病床にあったとき、彼は張戊Mと一緒に毎日のように見舞いに来ました。父が他界したときには、部下全員を引き連れて葬列に加わりました。彼も麻の頭巾(喪中にかぶる男子の帽子)をかぶり、号泣しました。そのとき彼はわたしを慰め、いろいろと力づけてくれましたが、わたしは、いまでもそれをありがたく思っています。

 崔允亀が正義府に属していたころ、どんな主義主張をもっていたのかは定かでありません。容共か反共かという尺度で彼の理念をはかるのであれば、それは反共より容共に近かったというべきでしょう。しかし彼は、孔栄や朴振栄のように共産主義運動に早くから方向転換を遂げはしませんでした。父の周辺には、新思潮に共鳴し信奉する人が少なくありませんでした。しかし、彼らのうち、旗色を鮮明にして共産主義者の陣営に移ってきた人は、それほどいませんでした。当時、南満州と中部満州地方で新思潮を志向した人たちは、民族主義者に包囲されていました。この一帯で共産主義を志向する人が多数を占めていたなら、我々が旺清門に行ったとき国民府の反動的上層人物からテロを受けるようなことはなかったでしょう。これとは対照的に、東満州地方では、民族主義思想に比べ共産主義思想のほうが優勢でした。共産主義思想は浸透するやいなや、民族主義思想が反旗をひるがえす余裕もなく、この地域を席巻する支配的な思想となりました。東満州では、南満州や中部満州でのような両思潮の深刻な対立は生じませんでした。崔賢、尹昌範、朴東根、金日竜、朴斗京などの場合が示しているように、この一帯では多くの独立軍出身がこれといった曲折を経ずに、共産主義者の組織し統率する革命軍の隊伍に加わりました。ここでは、新旧思潮の入れ替わりが流血や命がけの思想闘争をともなうことがありませんでした。この地方の人民大衆は、共産主義思想に接するや、それを自分の階級の指導思想として受け入れ、朝鮮民族解放闘争の民族主義運動から共産主義運動への方向転換を歴史発展の法則に合致する当然の推移とみなしました。

 1932年の夏、わたしは通化で崔允亀とつかのまの対面をしたことがあります。梁世鳳との合作談合のため、彼とは長く語り合うことができませんでした。我々が南満州へ行って梁世鳳と合作について談合した当時にしても、独立軍の思想動向は容共意識より反共意識が支配的でした。独立軍上層部の反共意識と敵の離間策動のため、我々がめざした合作を実現できずに通化を後にしたのち、崔允亀はたいへん残念がったとのことです。我々は、南満州ではこれといった成果を得ずに帰ってきましたが、だからといって独立運動家との合作を放棄したり断念したわけではありませんでした。民族主義者との統一戦線はなってもならなくてもよいとか、力の弱いときはおこない強いときはおこなわなくてもよいとか、主権を掌握するまではおこないその後はおこなわなくてもよいという問題ではありません。それは、民族の完全な和合と統一団結が実現するときまで恒久的に堅持すべき戦略であり路線でした。みなさん、考えてもみなさい。国が解放されて以来、数十年を経たこんにちにいたっても、我々は依然として民族主義者との統一戦線を強調しているではありませんか。我々が革命活動をはじめた初期から、民族統一戦線の問題を民族の完全な大団結が実現するまで一貫して堅持すべき恒常的な戦略問題とみなしたのは正当なことでした。我々は梁世鳳との談合に失敗しはしましたが、いつかは独立軍との連合の実現する日が来ることを疑わなかったし、その日を早めるために熱情と努力を惜しみませんでした。あれほど頑固な中国人反日部隊とも共同戦線を結んだというのに、同じ血を分けた同族同士の共同戦線を実現できない理由があろうはずはありません。それが実現できないというのは、外国人にたいしても恥ずかしいことです。

 第2次北満州遠征を終えて西間島に進出したのち、わたしはいろいろなルートを通して南満州の独立軍の消息を系統的に入手しました。そして、彼らとの提携を実現するための活動を進めました。まず連絡員を派遣して、祖国光復会の創立宣言と10大綱領を送りました。手はじめとして、独立軍との合作工作は、南満州の抗日連軍の各部隊で活動していた朝鮮の同志たちに受け持たせました。李東光は、祖国光復会南満州代表の資格で独立軍の工作にあたりました。ところが、独立軍側は頑として受け付けませんでした。梁世鳳なき後の独立軍司令のポストは金活石という人物が占めていましたが、彼は、頑迷な反共分子でした。もちろん、独立軍内部には、新思潮に共鳴し容共に傾く人も少なくありませんでした。しかし、国民府当時から高而虚や玄黙観といった徹底した反共狂信者に追従してきた右翼系が無視できない勢力をなしていて、彼らとの合作工作は思うようにはかどりませんでした。梁世鳳が生存していたとき、楊靖宇部隊との共同行動を実現したことがありましたが、ようやく芽生えたその容共の大事が金活石司令の代に引き継がれなかったのは、軍上層を占めていた反共分子らのためでした。

 金活石を容共に踏み切らせることは、その麾下の数百名の部下の運命にかかわることで、一時も遅らせることのできない重大事でした。正直な話、我々が当時、独立軍との合作にこれほど大きな意義を付与したのは、彼らの助けがほしかったからではありませんでした。1936年当時といえば、朝鮮人民革命軍が軍勢のうえでも軍事技術のうえでも精強を誇っていた時期です。我々は、独立軍の助けがなくても十分独自に戦える準備ができていました。反対に、独立軍は当時下り坂にさしかかっていた時期なので、きわめて困難な状態におかれていました。兵員はどんどん減り、武器も不足して、なかには槍やこん棒を携えている隊員もいるというありさまでした。弱体化した独立軍は、敵と戦うでもなく避けてまわるだけだったので、武器と弾薬はもとより、食糧や衣服の補給源もありませんでした。


 <抗日革命闘士の金明俊は金活石の麾下にいて、朝鮮人民革命軍に入隊した崔允亀の同行者であった。金明俊は1960年に書いた手記で、独立軍に入隊した時期とその後の独立軍の状況についてつぎのように回想している。

 「1932年の秋、わたしたちは… 煙筒山付近に駐屯していた独立軍部隊を訪ねていった。村は、独立軍歓迎宴の準備におおわらわだった。わたしと同友は豚をつぶしているところへ行き、あれこれと手伝いをして軍人の歓心を買おうと努めた。そのつぎは、歩哨の使い走りをした。けれども、独立軍の指揮官は、まだ子どもだという理由でわたしたちの入隊志願を拒否した。その夜、わたしたちは決心して、移動する部隊のしんがりについて行った。わたしと同友は、独立軍が村につくたびに彼らを手伝って熱心に働いた。わたしたちのかいがいしい働きぶりと参軍熱意に感心した中隊長は、とうとう入隊を承認してくれた。そのときのうれしさは、なんと表現してよいかわからないくらいだった。しかし、入隊後しばらくして、わたしたちは独立軍が夢に描いていたような軍隊でないことを知って失望した。わたしたちがあれほど憧れていた独立軍には、銃がなくてこん棒を持っている人もいた。入隊さえすればすぐ銃をもらえるものと思ったのだが、わたしもやはり最初は銃がなくて、歩哨に立ったびに先輩軍人の套筒(旧式小銃の一種)を借りたものだった」

 朝鮮人民革命軍に入隊した金明俊は、小部隊活動の時期、ソ連領極東の訓練基地で金日成同志の身近で数年間生活した。金日成同志は、金明俊を通して、金活石司令の率いる独立軍の実情をいろいろと知った。金日成同志は、独立軍が崔允亀に従って朝鮮人民革命軍に編入したのは、わが国の民族主義運動発展の一つの必然的な帰結であったと述べている>


 独立軍は武器を人民からの義援金で入手したように、衣食住の問題も人民をわずらわせて解決しました。管轄区域の住民に「年租」という名目の税金を課し、それを義務的に納入させました。徴収担当者は台帳を開き、所帯別に住民を呼び出しては一人ひとり納入状況をただしました。定められた納入額を納めない人がいると、しかりつけたり体刑を加えたりしました。

 かつて正義府がそうであったように、国民府の軍隊も南満州で一つの独立国家にひとしい振舞いをしました。金明俊の話によると、独立軍は1930年代の中期から本来の使命からはずれ、しだいに土匪化していったとのことです。独立軍のある小部隊は、食糧事情が苦しくなってくると鴨緑江畔に出て、筏流しの食糧まで奪い取りました。土匪を装って流れ口に待機していては、空砲を数発放ち、筏を強引に岸辺に着けさせ、容赦なく食糧を奪い取っていくというのですから、これが独立軍のやり方といえるでしょうか。いかに窮余の策とはいえ、度を越しています。人民の保護者、救援者たるべき独立軍がこれほどまで堕落し腐敗するとは、なんと恥ずべきことではありませんか。独立軍内部では、しだいに軍紀が乱れ、脱営者が続出するようになりました。金明俊の小隊長も指揮部の箱から司令の印鑑と銃、金などを盗みだし、当直兵と歩哨を連れて逃走したとのことです。山林部隊も独立軍に出会うと有無を言わせず武装解除しました。独立軍の境遇は、文字どおり四面楚歌でした。

 我々は、独立軍がその使命をまっとうできず壊滅するのを望みませんでした。独立軍が滅びて喜ぶのは、日本帝国主義者であって、我々に有利なことは何ひとつありませんでした。少なからぬ愛国志士が、独立運動から退いたり、敵の従僕になりさがっているとき、それでも独立軍が創軍当時の初志をすてず、一つの軍事勢力として存在を維持していくのは、民族のためになることでした。存在を維持しているということだけでも、独立軍は民衆に支持され愛されることができたのです。最後の段階にきては活力がなくなったものの、初期と中期には多くの戦闘をおこない、少なからぬ戦果もおさめました。当時、独立軍の指揮官たちは、日満軍警の重なる「討伐」と内部の思想的混乱によって生じた軍の崩壊を食い止めようと腐心しました。独立軍の思想的変質でいちばんの問題は、敗北主義でした。敗北主義思想は、敵への投降、隊伍からの脱走、愛国軍隊としての体面をすてての土匪化などに表現されました。

 金活石をはじめ、軍の一部の上層人物と部分的な将兵は、蒋介石軍の援助に期待をかけていました。彼らは、国民党に幻想を抱き、その支援を受けて軍を維持しようとはかりました。事大主義というのは、なにも特別なものではありません。力が弱いとき他国に頼ろうとしたり、他国にすがって活路を開こうとすれば、おのずと事大主義が生まれるものです。事大主義という病気は、天性のものでもなければ天から降ってくるものでもありません。自分の力を信じなかったり、過小評価するようになれば、いかに愛国心の強い人でも事大主義者になってしまうものです。前にも指摘しましたが、独立軍の致命的な思想的制約は、まさに自分自身と自国人民の力を信じないところにありました。自分自身と自国人民の力を信じない人の行き着く終着点がほかならぬ事大主義であり、事大主義の導く道は売国と反逆です。事大主義者で祖国と民族を蔑視しない者はなく、祖国と民族を蔑視する者で売国と反逆の道に走らない者がいないということは、これまでの歴史が十分に証言しています。だからといって、独立軍の兵士、指揮官がすべて国民党の資金と武器に期待をかけていたわけではありません。司令は蒋介石を「神様」のように頼りにしていましたが、多くの指揮官は彼を信じませんでした。彼らは、むしろ国民党軍との連合よりも朝鮮人民革命軍との連合にはるかに大きな関心を寄せていました。独立軍の兵士、指揮官は、うわさだけでなく、実際の体験によって人民革命軍がどんな軍隊であるかをよく理解したのです。

 金明俊が、ソ連領極東の訓練基地にいたころ聞かせてくれた話がいまも思い出されます。何年度だったか、金明俊が所属していた独立軍の小部隊が、集安県の山間村落で偶然、人民革命軍の一小部隊に出会ったことがあるそうです。深夜に村に着いた独立軍の小部隊は、宿を借りるつもりである家の戸をたたきました。ところがあいにく、その家には、人民革命軍の小部隊が先客として投宿していました。独立軍の小部隊が宿所を求めてあの家この家と訪ねまわっていることを知った人民革命軍の隊員たちは、自分たちの投宿した家を快くあけてやりました。そして、食糧を切らしたという話を聞いては、糧米も分けてやりました。夜中、小用を足しに外に出た独立軍の隊員は、驚くべき光景を目撃しました。消えかかった焚き火のまわりに、人民革命軍の隊員たちが抱き合うように円形をつくって露宿していたのです。敷き布団もかけ布団もなく、ただトウモロコシの茎を敷いているだけでした。こういう光景を見て感動しない人はいないはずです。翌朝、独立軍の隊員たちは、人民革命軍の兵士、指揮官が、焚き火のまわりのトウモロコシの茎をかたづけ、水汲み、薪割り、庭掃除と家の老夫婦の仕事を手伝っている姿を見ては、いっそう感服しました。中国人の老主人も抗日遊撃隊員のふるまいに感動し、一人ひとり隊員たちの手を取っては、「こんな軍隊を見たのははじめてです。あんた方こそ本当の人民の軍隊、わしらの軍隊です」とほめました。これは、金明俊の小部隊隊員たちの口を通して独立軍の上下層に広く知られ、語りぐさになりました。崔允亀もこの話を聞いて感銘を受けたとのことです。

 独立軍兵士の心が、人民革命軍の側に傾くのは阻みがたい流れとなりました。独立軍が生きのびる道は、人民革命軍との連合以外にありませんでした。容共のみが生きる道であり、合作のみが唯一の活路でした。我々が望んだのは、独立軍が精強を誇って独自に戦いつづけるか、または人民革命軍と力を合わせ共同で抗日をつづけてくれればということでした。独立軍側の状態からすれば、人民革命軍との合作成功の可能性は十分にありました。要は、反共を唱えて蒋介石に期待をかけている金活石司令とその追随者をどういう方法で味方につけるかということでした。我々が派遣した工作員と南満州の同志たちからの通報によれば、崔允亀は祖国光復会の創立宣言と10大綱領を読んですこぶる満足したとのことでした。わたしが独立軍との合作を決定的に実現しようと決心したのは、祖国光復会を創立した後であり、それを実践に移しはじめたのは白頭山地区と西間島に進出してからでした。それ以前にも、人民革命軍側としては主動的に独立軍指揮部との接触を何回か試みたことがあります。独立軍側としては、民族反日勢力の合作にかんする我々の思想に反対はしませんでしたが、朝鮮人民革命軍と独立軍との連合にかんする我々の提案にたいしては口をつぐんでなんの返答もしませんでした。

 そういうときに、南満州へ向かう崔春国に、独立軍との合作を推進する任務を与えました。南満州に到着した崔春国は、まず崔允亀にわたしの手紙を伝えたのち、両軍合同の問題について彼と極秘に談合しました。崔春国が共同抗日についての我々の立場を説明すると、崔允亀は即座に両軍の合同に賛同しました。彼とわたしは昔からのよしみもありましたが、それにもまして独立軍のなかで彼の反日意志はもっとも確固としていました。そのとき崔允亀は、崔春国に「我々の部隊は外形だけのもので、中味は食いつくしたキムチ樽のようなものだ。わたし個人の気持ちからすれば、部隊を率いて、いますぐにでも金成柱隊長のもとに駆けつけたい。司令がどうしても我を通そうとするなら、わたし一人でも革命軍に転ずるつもりだ」と言ったそうです。崔春国は「我々は独立軍の分裂を望まない。副司令が支持者を連れて白頭山に来るのもよいが、なんとか司令をよく納得させて朝鮮人民革命軍と連合できるようにしてみるべきだ」と崔允亀を説得しました。崔允亀は司令を説き伏せる自信はないと言いながらも、共同抗日の実現のために最善をつくすと約束しました。共同戦線を張らずには活路が開かれないというのは、彼が多年間、独立軍で民族運動の腐敗と変質の過程をじかに目撃して得た教訓でした。

 金活石は、部隊を3つに分けて分散活動をする方法で独立軍の損失を防ごうとしましたが、それは弥縫策にすぎませんでした。民衆のなかにしっかり根をおろしていない独立軍は、陣容を補充する後続隊をもっていませんでした。崔允亀は、独立軍が衰退していくのに反し、人民革命軍が勃興するのはなぜだろうか、独立軍は軍紀が乱れて収拾しがたいのに反し、人民革命軍はますます軍紀が強まり、敵を震えあがらせるのはなぜだろうか、独立軍は人民を収奪せずにはなりたっていかないのに反し、人民革命軍は人民の財物を侵さずとも衣食に事欠かないのはなぜだろうか、独立軍は日本軍との交戦で連敗するのに反し、人民革命軍が連戦連勝するのはなぜだろうか、独立軍が人民革命軍を毛嫌いするのに反し、人民革命軍が独立軍を友軍とみなすのはなぜだろうかと自問しました。崔允亀は、その原因を民衆的基盤に求めたといいます。独立軍が広範な人民大衆の積極的な支持声援を受けられず孤軍奮闘するのも民衆的基盤が弱いためであり、部隊の腐敗変質の過程を食い止めることができないのも民衆的基盤が堅実でないためだというのが彼の見解でした。そして、民衆から離れて民衆の頭上に君臨している独立軍の展望は暗たんたるものだが、民衆のなかから生まれ、民衆と運命をともにする人民革命軍の前途は洋々たるものだと考えたのです。

 独立軍の民衆的基盤が弱いのは、必然的な現象でした。独立軍の活動と志向は、民衆中心の思想とは縁遠いブルジョア民族主義思想にその基礎をおいていました。この思想の特徴は、勤労者大衆を革命の主人とみなさないところにあり、そのため各階層の広範な反日愛国勢力との統一を望まず、共産主義を排斥するところにありました。崔允亀は、独立軍の衰退、孤立、崩壊の根本原因をまさにここに求め、人民革命軍との連合を実現したのち、共産主義者の構築した民衆的基盤に立ってのみ、民族にたいする本来の使命を忠実に果たすことができるという結論に到達したのです。

 ところが金活石は、人民革命軍と連合して利を得るのは共産主義者であって、独立軍はその存在を終えることになるといって、合作提案を無視してしまいました。独立軍は、たとえ寿命が尽きて滅びるようなことがあっても、共産主義者とは同じ釜の飯を食えないというのが金活石の立場だったとのことです。彼は、共産主義者の宣伝にだまされるな、彼らは階級闘争しか知らない人間だ、彼らが統一戦線を云々するのは一時的な欺瞞策だ、裏表のある人間たちだから彼らを相手にしないのが上策だといって、反共の立場から一歩も動こうとしませんでした。司令と副司令の議論が空転しているうちに、部隊の状況はますます悪化していきました。食糧と被服が欠乏しているうえに、敵の包囲に陥り身動きがとれなくなったのです。かてて加えて脱営する者、帰順する者、餓死する者が続出したため、将兵の士気は急速に衰えました。

 崔允亀は最後の決着をつけるつもりで、司令と最終談判をしました。あなたがもしわたしの提議に応じられないなら仕方がない、部隊が2つに割れることになっても、わたしは連合を支持する隊員を連れてあなたのもとを去るしかない、いま決断をくださないかぎり全滅するほかない、蒋介石のところに行くなり金日成のところに行くなり、各自の望みどおり行動する自由を与えよと詰め寄りました。にっちもさっちもいかなくなった金活石は、彼の提議に同意せざるをえませんでした。彼の指示で独立軍の全将兵が集まりました。司令は、苦境に陥った部隊の実情を悲愴な面持ちで説明したのち、「諸君のなかで金日成部隊へ行きたい者は前へ出ろ」と言いました。最初はそう言われても、前に進み出る部下はいなかったそうです。司令の腹を読みかねたからでした。容共分子を捜し出して処置しようとしているのか、わかったものではありません。いちばん最初に隊列の前に出たのは、金明俊だったそうです。それにつづいて多くの隊員が前に出ました。どんな難事にあたっても、先駆者がいれば必ず解決されるものです。金明俊はまさに先駆者でした。それでわたしは、人民革命軍に入隊した彼にとくに目をかけたものです。

 「あのとき、わたしの決心をあおりたてたのは、崔允亀副司令でした。副司令は何一つ言いませんでしたが、眼差しでわたしたちを力づけ、決心どおり行動するよう促しました」

 これは、かなりの歳月を経たのち、金明俊が金活石司令と決別したときのことを回想して言ったことです。こうして、部隊は2つに分かれることになったのですが、いざ別れるとなると、みながみな泣いたといいます。金活石司令も泣き、崔允亀副司令も泣き… 泣かなかった人はいなかったそうです。体が2つに割かれたも同然なのですから、その辛さ、苦しさはいかばかりであったでしょうか。

 独立軍は2つに分かれ、朝鮮独立の日に再会することを約束して、それぞれ違った方向に出発しました。一隊は崔允亀の引率のもとに朝鮮人民革命軍を訪ねて出発し、数十名にすぎない他の一隊は金活石の指揮のもとに鳳風城付近へ移動しました。ただ一つ、南満州地方に残って日本帝国主義者に抵抗していた国民府の軍隊は、こうして解体したのです。

 「わたしは遠い回り道をして、やっと成柱隊長のもとにきた。まっすぐに来られる道だったのに… 我々があまりにも優柔不断だったのだ」

 これは、崔允亀が南牌子でわたしに語った言葉です。

 わたしは、彼の義挙を心から称賛しました。崔允亀が断行した義挙は、わが国の民族解放闘争史と民族統一戦線運動史に特筆大書すべき驚異的な出来事でした。これは、抗日武装闘争の初期から我々が一貫して実施してきた統一戦線政策の勝利であり、「祖国光復会10大綱領」の貫徹をめざす闘争で共産主義者が積み上げた、いま一つの塔ともいえました。朝鮮人民革命軍と独立軍の連合は、共産主義者と民族主義者が必ず学び参考とすべき一つの先駆的な手本となりました。その手本をつくりだした功労者である崔春国と崔允亀の功績は、わが国の民族統一戦線運動史と民族大団結の歴史の1ページを堂々と占めることができます。それで、わたしは崔允亀が忘れられないのです。崔允亀は、容共の先駆者、実践者であった度量の大きい人でした。こういう事実からしても、抗日武装闘争史を専攻する歴史家は、民族統一戦線運動史の叙述にあたって必ず、崔允亀の功績を特筆しなければなりません。

 崔允亀の義挙により、我々の革命運動線上には、父の世代と息子の世代の同盟が結ばれたといえます。崔允亀は思潮からすれば、わたしの父の世代に属する人物でした。父の世代が大部分民族主義を志向していたのに反し、我々の世代はおおむね共産主義を志向しました。共産主義と民族主義を氷炭相容れない関係だとみなしていた両世代の愛国者が、結局は理念の違いを超越して共同抗日の道を歩みだすようになったわけです。崔允亀の義挙は、理念が異なり、信教と政見の異なる人であっても、祖国と民族を愛する心をもっていれば十分団結し和合することができることを証明しました。

 崔允亀は、人民革命軍に移ってきたのち、共産党に入党もしました。彼は、参謀の要職にあって抗日革命の勝利のために勇敢に戦い、1938年末、樺甸県で戦死しました。父の戦友でもあり、わたしの革命同志でもあった彼を、わたしは痛々しい気持ちで追悼しました。容共の道を開いた彼が、解放の日を見ずして逝ったのが何よりも痛ましかったのです。

 崔允亀とは異なり、金活石は蒋介石に会いに行く途中、敵の手にかかって独立軍司令としての使命をまっとうすることができませんでした。日本帝国主義者は、金活石が蒋介石への幻想を抱いて彼と結ぼうとしていることを察知し、奸計をめぐらしました。蒋介石の特使に装わせた特務を送って金活石を欺いたのです。特務は、偽造した蒋介石の信任状を示し、蒋総統が金活石司令との会見を心待ちにしているからと誘いました。蒋介石への期待に目がくらんだ金活石は、相手の身元を確認しようともせず、軽率に特務の後に従いました。特務は、彼をまっすぐ憲兵隊司令部に誘導しました。金活石の運命を誤らせたのは結局、反共病と事大主義病でした。わが国の民族史が示しているように、事大主義者と反共分子は例外なく、売国と反逆、背信の道を歩むものです。孫中山は、ブルジョア民主主義革命の指導者でしたが、容共政策をとったので広範な大衆に支持され、革命をつづけることができました。金九は、晩年に反共から容共、愛国への再出発をすることによって、誇らしく民族史の1ページに記されるようになりました。金活石も彼らのように容共に転じていたなら、日本人の罠にはまらず、人民に愛される愛国者として生涯を終えることができたはずです。

 それで、わたしは反共病にかかった人に会うと、反共は自分自身を滅ぼすのみでなく、民族と人民に背く道であることを強調しているのです。人民の側に立つ共産主義者に反対するのは、とりもなおさず人民に背くのと同じことだとみなすべきです。容共が、愛国、愛族、愛民の道であり、反共が祖国と民族と人民に背く道となる理由の一つはまさにここにあるのです。

 崔允亀に従って人民革命軍に移ってきた金明俊も、一生涯、忠実に革命の道を歩んできました。解放後は、長らくわたしの副官を務めました。彼は、実直かつ純朴な人で、いつもわたしの身近にいて補佐してくれました。金正日同志は、金明俊が独立軍の最後の人物だとして、評価し、優遇しています。

 洪春洙も独立軍から人民革命軍に移ってきた人です。

 祖国の解放をめざす戦いの日々、独立軍部隊が朝鮮人民革命軍に合流して日本帝国主義侵略者と戦った歴史的経験は、こんにち、北と南、海外のすべての民族愛国勢力が、思想と理念、政見の違いを超越して一つに団結し、共同で外部勢力とたたかうべきであり、またたたかうことができることを雄弁に証明しています。



 


inserted by FC2 system